Home > Interviews > interview with Toshimaru Nakamura - 世界を魅了する、類い稀なる電子音響
90年代の後半ぐらいから東京でも「音響シーン」と言われるようなのが出てきて、ロンドンでもベルリンでも、ウィーンでもそう、演奏はするけれども「聴くこと」にすごく焦点を当てた音楽が同時多発的に生じた。だからお互いがお互いに、なんとはなしに影響を受け合っていた。
■ノー・インプット・ミキシングボードをはじめた頃はどこでライヴをやられていたんですか?
中村:ニューヨークに行きはじめたのと同時期、91年からベルリンにも行くようになったんですよ。年に3ヶ月くらい滞在して。だからノー・インプット・ミキシングボードをはじめてからもベルリンで即興することが多かったですね。ここで挙げきれないほどたくさんの人たちと一緒にやりました。そのなかのひとりにジェイソン・カーンというアメリカ出身のミュージシャンがいて、いまはスイスに住んでますけど、彼はもともとドラマーだった。最初の頃は僕もギターで共演していたんですが、ちょうど同じ時期に彼もだんだんエレクトロニクスを使うようになっていって。ジェイソン・カーンとは仲良くて、一緒にアルバムを作りましたね。
■Repeatというデュオ・ユニットを組んで4枚の作品をリリースしています。ジェイソン・カーンもそれこそドラマー時代はパンク・ジャズ・バンドのUniversal Congress Ofで叩いていて、そこからいわゆる音響的な方向へ進んだという意味では、としまるさんの活動の変化とも重なって見えます。
中村:時代ですよ、本当に。彼はUniversal Congress Ofを抜けた後、アーノルド・ドレイブラットのアンサンブルにも参加していて、あれもすごくミニマルな音楽ですよね。で、90年代の後半ぐらいから東京でも「音響シーン」と言われるようなのが出てきて、ロンドンでもベルリンでも、ウィーンでもそう、演奏はするけれども「聴くこと」にすごく焦点を当てた音楽が同時多発的に生じた。だからお互いがお互いに、なんとはなしに影響を受け合っていた。個人もそうだし、各都市のシーン同士も影響を受け合った時代だと思うんです。
■なぜ当時、同時多発的に世界の各都市で音響的なものへ向かう動きが出てきたのでしょうか。
中村:なぜかはわからないですよ。あれだけたくさんのミュージシャンを巻き込んで、都市同士すら巻き込んでやっていたものに、僕が代表して理由を答えることはできないし、そもそも答えを持っていない。ただ、ベルリンならベルリンで知り合ったミュージシャン同士が「一緒に音を出してみよう」って共演して、「こっちのほうがいいんじゃないか?」と共通見解を探っていくなかで、お互いに方向性が近づいていったということはあると思います。当時まだ若かったのもあるけど、もうギャラなんか出なくても毎日のように演奏したし、誰かの家のスタジオでずっとセッションしてましたからね。やっぱり自然とお互いに影響し合ったと思いますよ。
■ベルリンのシーンがある一方、東京でSachiko Mさんや杉本拓さん、秋山徹次さんと出会ったときは、どのような印象を抱きましたか?
中村:一緒にやっていけるなと思いました。我が意を得たり、みたいな。意を強くするというほどではなかったかもしれないけど。でも、話の通じる友人がそばにいるというのは、そこから次の話もできるし、何かやってみようという気持ちになりますよね。だからSachiko Mとも一緒にやったんですよ。〈Meme〉から出た最初のデュオ・アルバム『Un』(1998年)なんかは、僕がSachiko Mを誘って家でライン録音で作った。あれはいいアルバムができたと思うし。志を同じくする人が見つかったのは嬉しかったかもしれないね。Sachiko Mとはいまでも仲良いですよ。この間もハンブルクで、僕のツアー最終日と彼女のツアー初日が同じ日だったから、一緒にやりましたし。

ソロ・ライヴ。(by Yuko Zama)
■ノー・インプット・ミキシングボードをはじめてから客層の変化は感じましたか? ギタリスト時代に比べるとかなりハードコアな音楽とも言えますが、お客さんが減ることはなかったのでしょうか。
中村:いや、むしろ増えました。98年に秋山と杉本と僕の3人で、当時渋谷の六本木通り沿いにあったバー青山という1階のスペースで、月例のインプロ・コンサート・シリーズをはじめたんです。そしたら面白いほどお客さんがよく来た。小さい場所だから30人も入ったら満員だったけど、毎月やるたびにたくさん来ましたね。学生が多かったのはすごく覚えてる。若いお客さんがいっぱいいて。バー青山ではじめたきっかけは、ジェイソン・カーンが日本に来るっていうんで、じゃあジェイソンと秋山と杉本とぼくの4人でやろうということになり、どうせなら月例でシリーズ化したら面白いんじゃないかってはじめたの。その前に秋山がバー青山に何回か出たことがあって、「あそこだったら話を持っていけるよ」って紹介してくれてね。ただ、はじめて2年目で店長が変わってしまった。で、新しい店長にコンサート・シリーズのことを説明したら「え、即興ってなんすか?」みたいに言われて(笑)。それで僕らから「わかりました結構です」って引いて、次のところを探さなきゃねって相談してたら、もう本当に渡りに船で、ほとんど間が空かずに代々木のオフサイトに移ることができた。まだ内装工事の最中だったオフサイトに乗り込んで行って頼んでね。それでほとんどブランクなしに、オフサイトでは3年半続けました。
■バー青山もオフサイトも、コンサート・シリーズの音源がアルバムで残されていますよね。あれを聴くと、バー青山のライヴは微弱音ではなく、結構大きな音を出していて。
中村:そりゃ高速道路の真横ですから、そんなに静かな音ではできなかった。それに、わりとちゃんとしたPAもあったんですよ。
■その一方、オフサイトでのライヴは弱音で音数も少なめです。その変化はやはり演奏環境の違いが大きかったということでしょうか?
中村:そうですね。変わるしかなかった。オフサイトは本当に壁が薄い木造住宅で、隣の家も同じような作りの古い木造住宅だったんです。しかも人ひとり通ることも難しいぐらい接していて、大きな音を出すとすぐに苦情が入ってきてしまう。だからじっと静かに音を出すしかない状況でした。PAスピーカーもBOSE101の小さいのが2個しかなくて。まあ、それじゃ演奏できないなともし我々が思っていたら、やらなかったでしょうけど、たまたま3人とも「これ面白いじゃん」って興味が持てた。音を小さくしても全然音楽って聴こえるし、小さくしたから何か物足りないなんてこともなくて、小さくしたら耳を開けばいいわけ。音を小さくすればするほど、ぐっと耳を傾けて聴けばいい。これ面白いねって僕と杉本がすぐに飛びついて。この状況がこのように演奏することを我々に強いているとは思うけれども、これは楽しめるしこれで何か新しいことができるだろう、と。僕と杉本は興奮したんですよね。ほとんどのミュージシャンは、あそこまで音量を抑えなきゃいけないとなったら、逃げ出しちゃうと思うんですよ。でもそれを我々は楽しんでやれたし、僕ら以外にも、吉田アミとか大友良英さんとか、もちろんSachiko Mとかね。その場所に合わせた音楽をやっていくなかで必然的にああいう形になっていった。状況を自分たちの創造物に昇華していくことができたということだと思います。
■東京のそうしたシーンについて、「音響」ないし「音響系」という言い方がされてきましたが──
中村:いまでも言うんですか? あれはでも90年代の用語だったんじゃないかな。
■ただ以前、海外の若いミュージシャンに話を訊いたとき、「フリー・インプロヴィゼーションの下位ジャンルにエレクトロアコースティック・インプロヴィゼーション(EAI)があり、その日本における展開を『音響系』と呼んでいる」とおっしゃっていました。
中村:そうなんですか? まあ、少なくとも自分たちでは絶対にその言葉は使わないですけどね。僕らは演奏している側なので、〇〇系とか〇〇派と言われるのがそもそも嫌なのね。お客さんが言うのは構わないですよ。でもミュージシャンがもし自分で言っていたら、「その言葉づかいやめたほうがいいよ」って僕は言うと思う。もちろん、お互いに協力し合っているし、一緒にやっていれば影響も受け合うだろうけど、かと言って自分たちで〇〇系と名乗ることは我々はしないと思う。僕は絶対にしない。
■としまるさんの演奏を聴いたことがない人にご自身の音楽を説明する場合はどう表現されますか?
中村:その場合はもう面倒くさいからね、何か名称をつけないといけないから、「ノイズで即興やってます」というふうに言うかな。でも相手がどこまで理解してくれるかわからないし、それ以上の言葉は言えないですね。「ノイズ」だとちょっと色がついてしまうし。「音響」という言葉に近づけていくとすると、「メロディ、リズム、ハーモニーといったものにあまり重きを置かないで、音そのものを使って即興しています」と説明してあげたらもっと親切になるだろうから、そういう言い方をするときもあります。まあ「即興」ならいいんじゃないですか? 客観的に見ても、僕の能動的な立場から言っても、即興してることは間違いないんで。
取材・文:細田成嗣(2026年9月07日)
細田成嗣/Narushi Hosoda