Home > Reviews > Book Reviews > 自転車日記- デヴィッド・バーン 著 / 東辻賢治郎 訳
(注意)この原稿は、バーン氏が2009年に上梓したエッセイ集の翻訳本の書評もどきであって、来日ライヴおよびトーキング・ヘッズにまつわることはいっさい書かれていない。
音楽の世界には、3人の偉大な自転車乗り(サイクリスト)がいる。クラフトワークのラルフ・ヒュッター、忌野清志郎、そしてデヴィッド・バーンだ。クラフトワークにはあの晴らしい “ツール・ド・フランス” という曲がある。清志郎には“ぼくの自転車のうしろに乗りなよ”という初期の超名曲があるが、彼が真のサイクリストになってから作った “サイクリング・ブルース” はそれほど素晴らしい曲とは思わない。
ひとことで自転車好き(サイクリスト)といっても、いくつかのタイプがある。ラルフ・ヒュッターは、周知のように自動車や電車やロボットについての曲を作っている男だが、いちどのライドでひと山を越えるぐらいの本格派で、全盛期は200キロは走るという、なかなかマッチョな人物だ(もう歳なので現在は無理だろうけど)。晩年サイクリストになった清志郎もスポーツ系で、長距離走行(ロング・ライド)や坂道登り(ヒルクライム)といったハードな種目に、なかば強迫観念的に熱中したようだが、ぼくが彼の自転車スタイルに共感したことはなかった。プロでも部活でもないのに、カーボン製の自転車にピチピチのサイクルパンツ、サイクルシューズというスタイルからしてどうも……。
そう考えると、デヴィッド・バーンが強いて言えば自分といちばん近いのかもしれない。基本、彼は気持ち良いから乗っている。それも、ヒップな連中がまだ自転車のことをダサいと思っていた70年代後半から乗っている(てことは『Fear of Music』も自転車生活から生まれているのか)、大ベテランだ。日本の自転車好きには「ポタリング(あてもなくぶらぶらする、のんびり過ごす)」という言葉で語られる、スピードも坂道自慢もケガのリスクもないライドに分類されるかもしれない。
自転車の何が良いかと言えば、まずは、その場の空気(風、匂い、音、気温)を全身で感じられること、曇りじゃなければ太陽を浴びられること、視点の違い——景色がはっきりと見えること、絶妙なスピード感(バイクより遅く、小走りより速い)、そしてこれは若々しい行為でもあって、自分の肉体機能でここまで遠くまで移動できるんだという喜び、まあ、どこまで健康にいいかはわからないけれど、少なくとも自動車よりはいいだろう。過去オートバイに乗っていた人間からすると素晴らしくヒューマンな乗り物に思える。パンクしてもその場で自分で直せるし。
デヴィッド・バーンが自転車の本を上梓したことは前から知っていて、いつか読みたいと思っていた。なんなら翻訳を出したいとも思っていたらついに出た。嬉しい限りだ。ページをめくるのがもったいないというか、そんな気持ちで毎夜少しずつ読んでいった。
彼は折りたたみ自転車を所有している。海外移動のさいも、国内で飛行機による長距離移動のさいも、折りたたみ自転車を携帯し、到着した町々をポタリングする。庶民にはとても叶わぬ話だが、この折りたたみ自転車を携帯し、旅先で走るというスタイルはここ日本でも10年ほど前に流行った。
ちなみに日本には、輪行といって、自転車をいちど解体し(タイヤを取り外すだけのことだけど)、そしてコンパクトにし、専用バッグに入れて電車で旅するという文化がある。まあ、それに近いといえば近いのだが、バーンの場合は国際的で、本書には、ベルリン、シドニー、イスタンブール、マニラ、ロンドン、サンフランシスコ、そしてアメリカ国内のいくつかの都市を走ったときの出来事というよりは考察、おもに彼の思索が綴られている。自転車はあくまで移動の手段で、本書は、自転車乗りのための実用書ではないし、旅行記でもない。それぞれの都市を舞台にしたバーン──読書家で、教養があり思索好きのミュージシャン──のエッセイ集だ。バーンのファンなら満足する読み物だろう。なにせ彼は、ポップスター御用達のリムジンでもタクシーでも公共の乗り物でもなく、ほとんどの場合、自転車移動を選んでいるのだ。自転車好き以外の人も楽しめる内容にはなっているが、やはり、デヴィッド・バーンのファンなら読むべき本ではある。
とはいえ、ぼくのような自転車好きなら、ちょっとした親近感がわくかもしれない。というのも不思議なもので、ライドしていると、なにやら思考能力が活性化するのだ。血流がよくなって脳がより活発化するのだろうとぼくは勝手に思っている。ぼくの場合は、多くの原稿のアイデアや企画はペダルを漕ぎながら生まれている。ま、たいしたものではないけれど。
いずれにしても、バーンのここでの思索活動の記録は、自転車ならではのものだとぼくは思っている。即興的な考察の集積で、そうなんだよなぁ、ものすごく即興的、それにしてもまあ、いろいろ小難しいことを考えるものだと、それもバーンらしい。文化、政治、都市論、あるいは音楽の将来とか、いろんな話が途切れ途切れに、とくに着地点がないまま語られる。最初はかったるい。が、読み進んでいくとその独自の考察の断片にハマる。
はじまりのほうでぼくが度肝を抜かれたのは、デトロイトのサイクリングだ。決して心地よいものではないと本人も書いているけれど、あの荒涼とした工業都市を自転車で移動するのは、おそろしく異端な行為である(その昔、デトロイト・エスカレーター・カンパニーが、まさにその異端的行為によるフィールド・レコーディングで1枚の傑作を作った)。そもそもデトロイト市内で自転車など見たことがない。道路はひび割れ、凸凹だ。しかしバーンはかの8マイルも通過し、郊外へと続く高速道路も自転車で走っている。これは普通やらない。まさにアイロニーだ。
この本は、そうしたアイロニーがいたるところにある。本の舞台となっている都市でぼくが行ったことがあるのは、ベルリン、ロンドン、マニラ、サンフランシスコ、ニューヨーク、そしてデトロイトぐらいなものだ(円安が定着した21世紀では、贅沢な話かもしれない)。そのどこも、とくに自転車で移動したいと思わない都市である。ま、ベルリンはちょっとあるかな。あの街は自転車に、少なくとも東京よりはずっと優しい。
最後の章でバーンは、彼の自転車学の片鱗を見せる。自分が住んでいるニューヨークにおける自転車文化の現状、政府への不満、自身が企画した興味深い自転車イベントを通じて自分の考えを述べている。バーンは、自転車に乗ることで得られる解放感、喜び、楽しさについて強調しつつも、その視野には社会があり、自動車から脱却した自転車社会への移行を夢見てもいる。じっさい『ニューヨーカー』のような文化系メディアも自転車普及運動をサポートしている。
本書ではデンマークのコペンハーデンが例に出されているが、この街では、通勤・通学者の30%以上が自転車を利用し(最近では50%に達したらしい)、そのための設備も整っている。オランダも自転車先進国として有名だし、90年代にドイツを旅したときにびっくりしたのは、電車に自転車専用の車両があって、それを通勤・通学者たちが利用していたことだった。近年のパリも自転車都市へと変わろうとしているし、あのロンドンでさえも20年前から自転車がポピュラーになっている。欧州はだいたいこの20年で、だいぶ自転車の側にシフトしようとしている。もちろん地球温暖化問題がその背後には大きく関係している。そこへいくと我が国ときたら……(日本版のための前書きがあるが、これはほとんどお世辞だ)
東京のいちぶの街ではだいぶ駐輪場が増えてきているが、日本の自転車事情は、東京に限らず、だいたいの都市がよろしくない。ルールだって無茶苦茶。逆走は当たり前だし、歩行者道路をスピードあげて走るのが普通だ。いくら罰則化し、罰金制度を導入しても変わらない。でも無理もないと思う。環状道路や246号線が自転車にとって走りやすい道路かといえばとんでもない。自転車レーンなんてほとんどないし、それが引かれていたって車のほうも平気でその上を走っている。狭い道路も自転車なら4台並んで走れるところを、一台の車が道を空けない人間は間違っていると言わんばかりに威圧的に前進する……愚痴はこのくらいにしておこう。
ぼくもバーンと同じように、自転車に乗ることで得られる解放感をもっと多くの人たちが分かち合えばいいのにと思っている。これ一台でどれだけ楽しめることか。自転車に乗っているあいだはスマホなんか見ないしね。税金もかからないんだぞ。自転車乗りが増えていけば、おのずと接続不可能な自動車依存の社会から脱することができるかもしれない(インドと中国が自転車大国になったら地球は変わるかもよ。まあ、西欧文明が勝手におっぱじめたことで、それをいまになって自転車だって言われてもねぇ……でもここは、寛大な精神で!)。ぼくがバーンと違っているのは、ぼくには2千円ぐらいで買ったボロボロの車体を改造して楽しむオタク気質があって、ぼくは最後のほうに出てくる、改造した自転車に乗るラテン系移民に近い(10年前に作った改造車の一台は、写真家の小原泰広くんに差し上げた)。そう、ぼくの自転車ライフはオタク気質ではあるが、何かはじめるにはカネが必要だとする資本主義には抗している。ローファイ・パンクの精神だ。バーンにその視点はない。が、バーンは十分に社会的で、大人で、結局のところ彼こそユートピストなんだと思う。ぼくとしては彼にいつか最高の自転車ソングを作ってもらいたい。 “Road to Nowhere” が最高だなんて言わずに。
野田努