Home > Interviews > interview with Matthew Halsall - マンチェスターからジャズを盛り上げる
イギリスで最大のジャズ・シーンがあるのはロンドンだが、それとまた異なるシーンを独自に育んできたのがマンチェスターで、その中心にいるのがマシュー・ハルソールである。トランペット奏者で作曲家、そしてバンド・リーダーでもある彼は、2008年のデビュー以来数々のアルバムをリリースしてきて、この度その足跡をまとめたベスト・アルバムの『Togetherness』がリリースされた。初来日公演を記念してリリースされた『Togetherness』は、本国イギリスはもちろんのこと日本国内でも高い評価を得た最新アルバム『An Ever Changing View』(2023年)から、初期名盤の『Colour Yes』(2009年)まで、自身が運営するレーベルの〈ゴンドワナ〉とともに歩んだ十数年のキャリアからマシュー本人が選んだ楽曲を収録する。
〈ゴンドワナ〉はマシュー以外に、彼が率いるゴンドワナ・オーケストラや盟友のナット・バーチャル、チップ・ウィッカムの作品から、ゴーゴー・ペンギン、ジョン・エリスなどマンチェスター出身のアーティストの作品をリリースするなど、マンチェスター・シーンを牽引してきた。そして、マンチェスター出身のアーティスト以外にも、ママル・ハンズ、ノヤ・ラオ、ポルティコ・カルテットなどのUK勢から、オーストラリア出身のアリーシャ・ジョイ、ベルギー出身のスタッフなど、所属アーティストの顔ぶれもインターナショナルになってきた。ジャズ以外にもエレクトロニック・ミュージックやポスト・クラシカル系と、音楽性の枠も広がっていった。スピリチュアル・ジャズと形容されることの多いマシュー・ハルソールの音楽だが、近年はフィールド・レコーディングを取り入れてアンビエントの要素が増しており、多様な音楽性を抱える〈ゴンドワナ〉の運営が自身の音楽性にも関与していると言えそうだ。
ピーター・バラカン監修のフェス《Live Magic》と、Blue Note TOKYO公演で来日中のマシュー・ハルソールに、これまでの活動や 〈ゴンドワナ〉のことを振り返り、また自身の音楽の基盤となるものや影響されるものなど、いろいろと話をしてもらった。
ジャイルス・ピーターソンやミスター・スクラフといったDJは、先生と呼べるほど、自分が音楽を聴くにあたってとても影響を受けた存在です。
■あなたは2008年に『Sending My Love』でデビューして以来、10数枚に及ぶアルバムを発表し、また自身のレーベルである〈ゴンドワナ〉からさまざまなアーティストを送り出してきました。すでに長いキャリアを積み重ねられているにも関わらず、これまで日本のメディアでのインタヴューがないようで、あなたのことをよく知らないリスナーもいるかと思われます。ですので、まずはどのようにしてジャズ・トランペット奏者になり、〈ゴンドワナ〉を運営するようになったのか教えてください。
マシュー・ハルソール(以下MH):リヴァプールに住んでいた6歳のころ、両親と祖父母と一緒に、日曜日の午後のコンサートに行きました。そこはニューヨークのジャズ・クラブのような雰囲気で、ジャズ・トランペット奏者がディジー・ガレスピーの “A Night In Tunisia” やマイルズ・デイヴィスの “Milestone” を演奏していて、わたしはビッグ・バンドならではの昂揚感あふれるエネルギーをとても気に入りました。とくにトランペットに魅力を感じて、6歳ながらに「トランペットがいい、トランペットがいい!」と夢中になり、それがトランペットとジャズとの出会いのきっかけでした。トランペットに惹かれたときからレッスンをはじめて、13歳のときに憧れのビッグ・バンドに入りました。14歳、15歳のときはそのビッグ・バンドとともに世界でツアーをして、オーストラリアやアメリカ、そういった国をまわっていましたね。
■13歳で抜擢されるというのはすごく早熟ですよね。
MH:(照れ笑い)17歳になってからはサウンド・エンジニアリングやプロダクションの勉強をはじめました。レコードをつくることにとても興味があったので、そういう勉強も。とくに〈ブルー・ノート〉や〈インパルス〉などが好きだったのでそのような音の勉強と、あと〈ニンジャ・チューン〉や〈ワープ〉のようなサウンドも好きでしたので、ソフトウェアやシンセサイザーを使っての音づくりも勉強しました。DJカルチャーに興味を持ちはじめたのが14歳から15歳のときで、ジャイルス・ピーターソンやミスター・スクラフといったDJは、先生と呼べるほど、自分が音楽を聴くにあたってとても影響を受けた存在です。
たとえば、ジャイルス・ピーターソンは当時(2000年代前半)ザ・シネマティック・オーケストラやマッドリブといったクラブ・ジャズ系をよくプレイしていて、ミスター・スクラフはクラブ・ミュージック以外にアリス・コルトレーンやファラオ・サンダースといった純粋なジャズ・アーティストの作品もかけていたんです。彼がプレイした ファラオ・サンダースの “You’ve Got to Have Freedom” にとても衝撃を受けました。それからファラオ・サンダースを聴くようになって、そしてアリス・コルトレーンを発見して『Journey In Satchidananda』(1971年)を聴き、そこでスピリチュアル・ジャズというものに出会います。
そして23歳のころ、リヴァプールからマンチェスターに移住しました。この時期のマンチェスターのDJシーンやミュージシャンのシーンがとても面白かったからです。とくに、マット&フレッズ・ジャズ・クラブに入り浸っていて、そこではザ・シネマティック・オーケストラのメンバーなど、シーンで活躍するアーティストが演奏をしていました。ミスター・スクラフも月に一度DJをしたり、ライヴ・シーンとクラブ・シーンをよく学べる環境でしたね。その時期に自分のレコードをつくってみたいという興味が湧いて、シーンで活躍している音楽家たちとレコードをつくるのですが、出してくれるレーベルが見つからず、結局は自分でレーベルを立ち上げてリリースするというかたちになりました。
■なるほど。〈ニンジャ・チューン〉ではザ・シネマティック・オーケストラやミスター・スクラフの名が挙がりましたが、〈ワープ〉ではどのアーティストがお好きでしたか?
MH:ボーズ・オブ・カナダ、エイフェックス・ツイン、スクエアプッシャー、プラッド……そのあたりが中心でしたね。
Live Magic(恵比寿ガーデンホール)でのライヴ。Photo by Moto Uehara
■サックス奏者のナット・バーチャルと組んだ初期の作品、ファーストの『Sending My Love』やセカンドの『Colour Yes』(2009年)などは、かつて英国ジャズの草創期に活躍したレンデル=カー・クインテットあたりを連想しますが、トランペット奏者のイアン・カーの影響もあるのでしょうか?
MH:じつはレンデル=カー・クインテットの音楽と出会ったのは、それら2枚のアルバムをつくった後でした。きっかけはジャイルス・ピーターソンの『Impressed With Gilles Peterson』(2002年)というコンピレーションに収録されていたことで、それを聴いてイギリスのジャズ・ミュージシャンがモーダルなジャズをつくっていることを知ることができ、とても嬉しく思いました。
■ナット・バーチャルやゴーゴー・ペンギンなど、マンチェスターのシーンで活躍してきたひとたちとあなたは深くつながってきました。いまでもロンドンに出ていかず、マンチェスターに根差して活動しているのはなぜでしょう?
MH:ロンドンの音楽シーンはたしかに盛り上がっているし、そこで成功しているひとたちもいっぱいいます。ただ、わたしとしてはイギリスのなかで、ロンドンだけでなく、ほかの場所に住んでいる才能あふれるミュージシャンたちをサポートすることを大事にしたいんです。友人や家族など、ほんとうに大切にしているひとたちもマンチェスターにいるので、ここで活動を続けています。
ロンドンだけでなく、ほかの場所に住んでいる才能あふれるミュージシャンたちをサポートすることを大事にしたいんです。
■あなたはゴンドワナ・オーケストラを率いていることもあり、ソロ・プレーヤーとして活躍するよりもバンド・リーダーというか、サウンド・プロデューサーとして全体を俯瞰しながら音楽をつくっている印象があります。また、初期はインストの作品のみでしたが、途中からシンガーを交えて作品をつくることも増えていきました。仲のいい友人ミュージシャンとバンドを組むことからはじまって、アルバムを重ねるごとに編成も大きくなっていった印象ですが、この15年ほどでバンドがどのような変遷をたどってきたか、その過程を教えてください。
MH:まず、キャリアの初期のころは、マンシェスターの音楽シーンで活躍していたミュージシャンを自分のバンドでフィーチャーしていました。とくに自分が尊敬していた音楽家たち、たとえばナット・バーチャルやチップ・ウィッカム、ジョン・ソーン、あとザ・シネマティック・オーケストラのメンバーだったルーク・フラワーズとか、そういった方たちと一緒に演奏したいと思ったのがスタートでした。ただ、キャリアを積むことによって次第に、まだ名は知られていないけれど若く才能のあるミュージシャンたちをフィーチャーして、彼らにスポットライトを当てたいというふうに変わっていって、それに応じてメンバーの編成も変わっていきました。
■あなたの作品にはハープがフィーチャーされることが多く、『Into Forever』(2015年)では日本の琴も取り入れていましたが、それら奏者はすべて女性ですよね。それによって……
MH:いや、じつは男性のハープ・プレイヤーもフィーチャーしたことがあるんです。『Oneness』(2019年)というアルバムがあって、そこで演奏しているのがスタン・アンブローズというハープ奏者で。同作には “Stan's Harp” という、彼をトリビュートした楽曲も収録されています。彼はリヴァプールのプレイヤーなんですが、病院で患者のためにセラピーとしてハープを演奏しているような、とてもスピリチュアルな方です。ただ、ご高齢だったこともあって一緒にツアーができず、ほかのハープ奏者を探したところ、イギリス北部に住んでいるハープ・プレイヤーはみんな女性だったので、おのずと女性をフィーチャーすることになりました。
■なるほど。そうしたハープの導入などによりあなたの作品はアリス・コルトレーンやドロシー・アシュビーたちの作品と比較されることも多く、またあなた自身もアリス・コルトレーンのカヴァーやトリビュート曲を手がけたことがあります。あなたのサウンドの特徴でもあるハープですが、とりいれるようになったきっかけを教えてください。
MH:おっしゃるとおり、アリス・コルトレーンやドロシー・アシュビーの影響で、自分の音楽にもハープをとりいれるようになりました。ザ・シネマティック・オーケストラの『Every Day』(2002年)というアルバムでもアリス・コルトレーンがサンプリングされていて。それらがきっかけですね。あと、自分はメディテイション(瞑想)やスピリチュアルなライフスタイルにも興味があって、ハープのメディテイティヴな部分やピースフルな音色が、 自然と自分の音楽にも入ってきたんです。
■いまお話に出た瞑想的な部分、メディテイショナルな側面はあなたの音楽の大きな特徴で、ゆえにスピリチュアル・ジャズと呼ばれることが多いかと思います。他方で、ロサンゼルスのカマシ・ワシントンやロンドンのシャバカ・ハッチングスのスピリチュアル・ジャズなどとは異なり、激しいフリー・ジャズのような演奏がされることはあまりありません。基本的にモード演奏をベースに、ときに静穏で理知的です。ご自身としては、自分の音楽についてどのようにとらえていますか?
MH:まず、わたし自身がリスナーでありミュージック・ラヴァーだと思っているので、そういった意識のもとで音楽をつくっています。その過程でピースフルな感じやメディテイティヴな要素が入ってくるのかな……トランペッターとしては、ほんとうに自分が信じるものを吹いているので、レコードに比べるとやはりライヴのほうが心から火がほとばしるような演奏ができるなと思います。ですが、やはりレコードやアルバムという作品のフォーマットを考えると、最初から最後まで楽しめる作品をつくりたいので、ソウルフルな要素や空間の広がりを感じさせる雰囲気、心が落ち着くような部分も大事にしています。
Blue Note Tokyoでのライヴ。Photo by Takuo Sato
■ふだんリスナーとしてアンビエントやニューエイジもよくお聴きになるんですか?
MH:そうですね。エレクトロニック・ミュージックやネオ・クラシカルと呼ばれる音楽、もちろんジャズもそうなんですが、それらのなかにもアンビエントといえる音楽があると思います。たとえばジョン・ハッセル、ブライアン・イーノ、スティーヴ・ライヒ、ニルス・フラーム、オーラヴル・アルナルズなど。そういった実験的な、アンビエントにつながるような音楽はよく聴きますね。
■ジョン・ハッセルがお好きなのは、やはりトランペット奏者という点からでしょうか?
MH:たしかに、ジョン・ハッセルにはトランペッターという部分でも惹かれました。いま〈ゴンドワナ〉に所属しているポルティコ・カルテットというバンドにも、ジョン・ハッセルの音楽と通じるところがあります。わたし自身も彼らの音楽のファンですし、キャリアのスタートもおなじ時期でしたし、ポルティコ・カルテットのほうもジョン・ハッセルのファンとして音楽をつくっていたり、いろいろなつながりがあります。トランペッターで面白い音楽をつくっているアーティストがいると、いつも興味を持って聴くようにしています。たとえばDJ KRUSHの作品で、トランペット奏者の近藤等則と共作したアルバム『記憶 Ki-Oku』(1996年)がありますが、その演奏もすごく好きです。
■近年の『Salute To The Sun』(2020年)や『An Ever Changing View』(2023年)といった作品では、自然界の音をフィールド・レコーディングで用いたり、カリンバやマリンバといったアフリカ由来の原初的な楽器を交えたり、より素朴で自然を感じさせる音を奏でる工夫が為されています。アンビエントや環境音楽に通じるところもあるわけですが、こうした自然や大地への回帰にはどのような意図があるのでしょう?
MH:先ほども言ったように〈ワープ〉が好きで、ボーズ・オブ・カナダなど、これまで聴いてきた作品のなかにフィールド・レコーディングをとりいれているものがあって、それがきっかけですね。ジャズというジャンルではフィールド・レコーディングの手法をとりいれたものが少なかったので、挑戦してみたという理由もあります。また、わたしがフィールド・レコーディングをした場所は、自身が作品を書いた場所でもあるので、リスナーの方に自分が作品を書いたのと同じ場所に一緒に入って楽しんでほしい、という意図もあります。
ジャズというジャンルではフィールド・レコーディングの手法をとりいれたものが少なかったので、挑戦してみたという理由もあります。
■この度、ベスト盤の『Togetherness』がリリースされています。これまでの活動を振り返ってみて、どのように感じていますか?
MH:これまでの活動を振り返ってみて、自分がいまここにいられることをほんとうに嬉しく思っています。キャリアにおいては、自分と楽曲との物語がもちろんあるわけですが、いろんなひとに「この曲を聴いて、こう感じたんだ」といったようなエピソードを聞かせてもらうと、「自分の音楽がひとを助けてきたんだな」ということを実感できて、ほんとうに幸せです。それと、日本に来て演奏することも、ずっと願ってきたことだったんです。じつはファースト・アルバムを出す2008年よりも前の、2003年に初めて日本を訪れたことがありました。自分の音楽キャリアがはじまるずっと前から、日本で演奏したいと考えていたんです。だから、ベスト盤を日本で出してライヴまでできるということはほんとうに大きな成果だと思っています。
■今回のベスト盤には10曲が収録されていますが、核になっているのは実質的に4枚のアルバム、『Colour Yes』(2009年)『Fletcher Moss Park』(2012年)『Into Forever』(2015年)『An Ever Changing View』(2023年)からの曲ですよね。この4枚が中心になった理由を教えてください。
MH:今回のベスト・アルバムの選曲をするにあたっては、たんにひとつのアルバムから1曲を選ぶのではなく、通しで聴いたときに自分のキャリアにとって大事だった時期と、自分がつくってきた「ある音」を象徴するような1枚にしたかったので、どちらかというとDJ、プロデューサー的な脳が働いて、どうやったらフロウ(流れ)をつくれるのかということを意識して選曲しました。もちろん、去年リリースした『An Ever Changing View』からも選曲したかったし、『Fletcher Moss Park』も自分のキャリアにおいてもっとも成功を収めたアルバムだったので、そこからも選曲したくて。そういうことを考えつつ、あとは流れをつくるために、この4枚からの選曲になりました。
■とくに思い入れの深い曲はありますか?
MH:1曲選ぶとしたら “Together” ですね。15年前にリリースした楽曲で、今回のコンピレーション・アルバムのタイトルにもつながりますが、「together」ということばに「unity」や「peace」といった意味も込めてそう名づけたんです。15年経ったいま、そうした世界平和にもつながるようなメッセージがより大切に感じられるようになってきていますよね。それと、ライヴでこの曲を演奏するときに、オーディエンスと自分がおなじ空間のなかで音楽を楽しめるように、という意味もあります。いまでもこの曲を演奏すると、ピースフルな雰囲気だけでなく、観客からの熱気や喜びも感じられて、自分とオーディエンスのつながりを深く感じられるんです。あと、これは余談ですが、この曲は『Colour Yes』に入っていて、そのアルバムは以前一度リイシューしているんですが、そのタイミングでこの曲がプレイリストに入って、より多くの方に楽しんでもらえるようになりました。だから自分のキャリアのなかでもっとも成功した1曲と言ってもいいと思っています(笑)。
■最後に、あなたの音楽を聴いているリスナーに向けて、メッセージをお願いします。
MH:ほんとうにみなさんのサポートに感謝しています。こうして日本で記事が出るということもほんとうに嬉しく思いますし、自分の音楽がこれからもいろんなひとたちとつながっていくことで、また日本に来て演奏できることを楽しみにしています。
質問・序文:小川充(2024年10月31日)