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人間の顔を撮り続けた映画作家、ケン・ローチ
木津毅
遺作だけが持つ重みを観る者に手渡す、ケン・ローチによる最終作である。音楽作品ではデイヴィッド・ボウイの『★』やレナード・コーエンの『You Want It Darker』が思い浮かぶが、人生を表現に捧げてきた人間が最後に何を残すのか、意識的に向き合った覚悟がここには感じられるのだ。いや、映画監督が引退を撤回することはよくあるし、ローチもまた、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)と『家族を想うとき』(2019)という晩年期の傑作を引退宣言を覆して発表している。だから、現在89歳のローチが今後も新作を制作する可能性はゼロではないのだが……僕は、この『オールド・オーク』を遺作として去ることを決めたのだと思う。長く彼の作品を観てきた人間ほど、その心構えを見出せる作品ではないだろうか。

本作は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』と『家族を想うとき』に続く〈イギリス北東部三部作〉の三作目に位置づけられ、前述の通りローチ本人によってキャリアを通した最終作になると宣言されたものだ。今回の舞台は明確に示されていないが、イングランド北東部のダラムからそう遠くない寂れた元炭鉱町という設定になっている。ときは2016年、イギリスのEU離脱を巡る投票がおこなわれた年。くたびれたパブ〈オールド・オーク〉の主人であるTJ・バランタイン(デイヴ・ターナー)と、町にやって来たシリア難民のひとりであるヤラ(エブラ・マリ)が思いがけず育む友情が中心に描かれるが、地域コミュニティを巡る物語でもある。移民や難民の排斥の風潮が強くなる小さな町を背景にしながらも、市井の人びとによる互助の可能性を掲げるのだ。
前二作、とくに『家族を想うとき』があまりにハードな現実認識を伴った作品だったからこそ、ローチがここに来て友情と連帯をまっすぐに讃える映画を作りあげたことに不意を突かれ、そして強く胸を打たれる。どれほど社会が荒廃しても庶民は助け合うことができるし、それによって生きる力を得るのだという主張がここには存在するからだ。いや、潮流が変わり続ける映画界の片隅で、ずっとそんなことを言い続けてきたひとこそがローチでもある。地域の飢えた子どもたちとシリア難民の両方を助けるために〈オールド・オーク〉で始まるのは昔ながらの草の根の社会活動である炊き出しであり、そこでスローガンとなる「When you eat togethe, you stick together(ともに食べて連帯を)」はサッチャー政権時代の炭鉱ストライキの際に唱えられた言葉だ。古くからの左派の精神が継承されるさまが本作では見つめられる。演出は相変わらず飾り気がないが、淀みのないストーリーテリングやシンプルであるがゆえにダイナミズムが生まれるアクションは職人芸の域だ。

ケン・ローチは庶民の顔を撮ってきた映画作家であると僕は考えている。主人公や登場人物の多くは社会福祉からこぼれ落ちるなどして苦境に直面しているが、そんな日常にあっても彼らはふと生き生きとした表情を見せる。ローチのリアリズムは悲惨さにではなく、市井の者たちの生きた顔にこそ宿っているのだ。それはたとえば、初期の代表作『ケス』(1969)で無表情な少年が友情を育む鷹について語り出す瞬間、とたんに輝くような面持ちを見せるシーンを撮ってきたときから何ひとつ変わっていない。
貧困地域の困窮とそれゆえに生まれる対立を見据える『オールド・オーク』でもまた、たくさんのいい顔が映されている。TJやヤラはもちろん、炊き出しに協力する人びとのひとりひとりの佇まいがとても良くて、スキンヘッドで両腕にタトゥーを入れたおっちゃんなんかを見ていると「どこからこんないい味わいのひとを見つけてきたんだ」と微笑んでしまう。だがそれも、市民の社会運動に関わってきたケン・ローチや脚本のポール・ラヴァティのこれまで積みあげてきたことの成果だろう。たとえば町で社会活動に取り組む女性ローラを演じるクレア・ロッジャーソンは慈善団体の事務局員だそうだが、そんな風に映画制作自体が草の根の活動になっていることに感服せずにはいられない。そして父から受け継いだカメラを手に地域の人びとの豊かな顔を撮影するヤラは、ローチ自身のあり方が投影された人物だ。
そういう意味ではケン・ローチらしく頑固なイギリスの左派が誇りを持って古きよき価値観を現代に受け渡す作品と言えるのだが、一方で自分は現代的な要素も感じた。TJは武骨な風貌をしているがじつのところ繊細な人物で、長らく孤独感を抱えてきたことが次第に明らかにされていく。古ぼけたパブをどうにか経営できているのは昔からの常連が通ってくれているからだが、TJは彼らが店でこぼす外国人へのヘイトに同調することはできず、かといってそれに反論することもできず、ひと知れず孤立している。近年、社会問題として取り沙汰される中高年男性の孤独の問題が入っているのだ。映画の前半、TJが頑なに開こうとしないパブの奥の部屋は、彼が閉ざした心の象徴だ。
だから、その部屋が何のために開かれるのかが本作の核心だ。TJはシリア難民が経験してきた苦難を聴くことで少しずつ他者に対して開放的になり、自身が抱えている苦しみをヤラに吐露することになる。そうしてふたりの友情は、それぞれの人生の傷や痛みを分かち合うことが基盤となっていく。それは感情表現を不得意とする男性による自己開示に他ならず、本作ではたんなる自己救済ではなく、彼がコミュニティや社会に再び帰っていく過程として捉えられている。『家族を想うとき』では中年男性が社会から滑落していくさまを容赦なく描いていたのに対し、本作では孤独だったTJがコミュニティの一員である自身を再発見していく姿が映される。幼馴染で排外的な言説に同調し始めていたチャーリー(トレヴァー・フォックス)にTJが立ち向かうのは対決ではなく、彼なりの友人としての思いやりだろう。そこでは、さりげなく男性同士のケアのあり方も模索されているとも取れる。
だから『オールド・オーク』はケン・ローチが変わらず現代社会のあり方を見つめ直す力強い映画であると同時に、人びとが(かつての友人同士でさえも)バラバラになってしまった時代において人間性のありかを辛抱強く探る映画でもある。僕は観ている間、ローチに「きみはどんな風に生きたいのか」と問われているような気持ちにならずにはいられなかった。生活が苦しいのは、自分も周りも変わらない。もちろん政治の無策に対する怒りもあるが、そのなかでパブ(公共のスペース)を愚痴をこぼしてくだを巻くだけの場所にするのか、それとも同じように困っている他者に対して開かれた場所にするかは結局のところ、ひとりひとりの決断と行動に委ねられているのだから。

公開が始まった2日目の映画館は満員だった。よっぽど流行りの映画でもなければ最近はそんなこともめったにないが、僕にとってある種のコミューナルな体験となった。昨年の参院選の辺りから言いようのない疎外感を抱えていたのだが、その日はまったく異なる感慨を得ることができた……この物語に心を動かされるのは、自分だけではないのだと。
ラヴァティは——長年、ローチのそばでともに映画を作り続けてきた脚本家は——本作の制作にあたって「希望」について考えていたと記述している。だがそれはけっして絵空事ではなく、人びとの苦境を見つめながら、その尊厳にまつわる物語をずっと紡いできた実感でもあるだろう。諦めることはない。そしてケン・ローチはヤラの声を借りて言う。希望はきみを苦しめもするが、それでも希望がないとひとは生きていけないのだ、と。
5キロ泳ぐにはまだ早い
野田努
ケン・ローチの映画が、かくも人の心を打つのは何故だろう。英国社会における下層のリアリズムを英国流に表現しているだけのこの映画に、日本人である自分が落涙してしまうとはいかなることか。答えはこうだろう。彼の冷徹なリアリズム作品を観ていると、自分たちの不安、自分たちの恐れ、自分たちの苦しみ、そして自分たちの望むものが間違ってはいないと思えるからだ。同じことを同じように感じている人が英国にいる、そう思えるだけでも救いがあるのだろう。実際、そのように思わせるだけのリアリティがローチの映画にはあり、新作にそれ以上のものが込められているのは、これが最後の作品になることを意識しながら彼自身が作ったからに違いない。

『オールド・オーク』において、ひとつ知っておくべきことは、1984年から1985年まで続いた炭鉱ストライキに関する話である。ビリー・ブラッグ、スタイル・カウンシル、ニュー・オーダー、EBTG、アズティック・カメラなど……多くのポスト・パンク系バンドたち、ブロンスキー・ビートやジョージ・マイケルほかLGBT団体、そしてアメリカ人であるブルース・スプリングスティーンまでもが支援した労働者たちの闘争、それが敗北に終わったことの意味は、産業革命以来の英国のいちだい国営産業の終焉と炭鉱閉鎖による労働者たちの失職や共同体の解体のみに収束されない。ピーク時では約3000の炭鉱が存在し、100万人以上の労働者(代々が炭坑夫であった人たち)が従事したその産業には、既述のように歴史があり、ゆえに政権を倒すほどの力を持った全国炭鉱労働組合の存在があった。資本の利益よりも労働者の生活を優先するその理念は、利益優先の新自由主義経済政策を推し進める上で真っ向から対立する代物だった。炭鉱ストライキを題材にした映画で『パレードへようこそ』がある。この傑作は、労働者たちの闘争にクイアたちも共闘したという実話をもとにしているわけだが、言い換えれば、これは労働者階級だけの問題ではなかったということなのだ。
歴史のひとつの分水嶺とも言えよう。だから、「より安く、より自由に」儲かろうとするサッチャリズムが勝ったということは、労働者たちが連帯して抵抗する力を削ぎ、個人がバラバラの消費者や労働力へと還元されたということを意味した(またサッチャーは、強いイギリスを実現するため兵器産業と武器輸出に注力し、中東やアジアの首脳たちと取引した。そのなかのひとりにフセインもいる)。スプリングスティーンがいたたまれなかったのも、それは自国でレーガンがやっていることでもあったし、英国産業史の一コマに過ぎないのではなく、苦々しくこの言葉を使えば——世界史レベルの事件であるかもしれないことを薄々わかっていたのかもしれない。結局のところサッチャーは、モノの価値観、思考や行動さえも変えてしまった。勝ち負けの文化、モノを買うことで満足する生活へと。

ローチの映画は昔から、あの素晴らしい『リフ・ラフ』にせよ『マイ・ネーム・イズ・ジョー』にせよ、サッチャリズムと新自由主義に変えられてしまった社会構造における底辺生活者たちの物語だ。炭鉱ストライキのドキュメンタリー映画まで作っているのだから、ローチにとってこの問題は生涯をかけて取り組むべきテーマなのだろう。彼の映画の裏側にある怒りの根源もおそらくはそこで、彼の遺作になると言われている『オールド・オーク』の舞台が、かつて炭坑産業で賑わった村になった理由もそこにあるのだと思う。
舞台の中心は、壊れた看板も修理する資金さえない、みすぼらしいパブ〈オールド・オーク〉。店の奥にはトビラが閉ざされたもうひとつの部屋がある。長いこと使われていないその部屋の壁には、1980年代の炭鉱ストライキ時の労働者たちの写真がいくつも飾られている。敗北はしたが、団結し、闘ったことは彼らの父親の代の誇りだった。しかし、いにしえの栄光もいまや惨めなもので、パブ〈オールド・オーク〉では、昼間から常連客が1パイントのビールを片手に現状への不平不満をぶちまけている。まあ、ぶちまけているだけまだマシかもしれないが。
ローチがたんなる老いぼれ左派ではなく、いまだ鋭い洞察力を持っていることは、こうした物語の舞台設定からもうかがえる。ときはブレグジットがおきた2016年。かつて炭鉱産業で賑わい、過疎化した小さな村の不動産は、海外投資家たちによって安く買いたたかれている。地元住民が所有する家の資産価値は暴落する一方だ。その生活も、子供に自転車を買ってあげられなかったり、子供がまともに食事もできなかったりするほど困窮している。そんなところに、シリアの戦火(アサド政権)を逃れた難民たちがやって来て、村で暮らすことになる。これが物語のはじまりだ。
お馴染みの負の連鎖は、仕組まれているかのように進展する——自分たちの不遇さを自分たちより立場の弱い者たちへの虐待で穴埋めしようとする、我が国でもお馴染みの光景が顕現するわけだ。パブの店主(主人公)はシリアからの家族たちを支援しているひとりだが、常連客たちはそれが気にくわない。「俺たちはレイシストじゃない」と主張しているが、難民への暴言は止まらない。インターネットのSNSを覗けば、「国民ファースト」のスローガンとともにネトウヨたちがより下劣な罵詈雑言を繰り返す。これもまた我々がよく知る風景である。

『オールド・オーク』をより多くの人に観て欲しいと願っているので、物語のこの先については書かない。ローチのすべての映画のように、ここには、容赦ない現実があり、同時に抑圧されている人たちへの深い慈しみが貫かれている。彼はいつものように怒っている。怒りは、最終的に、シリア難民を侮蔑する労働者階級の人たちに向かっていない。稀代のヒューマニストは、そういう人たちを生んでいるこの社会の残酷なあり方に怒っている。
ローチは自分の思いを、登場人物たちの台詞のなかに込めてしまっている。シリア難民を扱った映画なら、ほかにはアキ・カウリスマキ(彼もまた稀代のヒューマニストである)の『希望のかなた』という、これまた素晴らしい作品がある。カウリスマキの抑制された演出と比較すると、ローチはある瞬間、あきらかに感情をたかぶらせている。そうすることで芸術性が削がれ、批評家たちから何かあげつらわれてもかまわん、ローチはそんな気持ちだったのではないかとついつい空想したくなるような、あけすけな物言いだ。しかもいくつかのその言葉には迫力がある。
『オールド・オーク』はローチのほとんどの映画と違って、ユートピア的ヴィジョンが夢想される。物価も保険料も上昇し、見通しも暗く、信じがたい法案は強行採決されている。平和主義は形骸化し、言論統制さえも懸念されるなか、不安を感じない夜などない。5キロも泳いだら楽になれるかもしれないと思った主人公の気持ちだって理解できる(そして誰にも子犬がやって来たらいいのだが)。しかしやり方はあるのだ。まだ残されている。そのひとつがここに語られていると思ってくれていい。この老いぼれが言うには、それはインターネットではなく現実の小さな場所からはじまる。場所と、そして優しさ、助け合い。仲間とか身内ではない、越境的な利他主義。それは、マーティン・ルーサー・キング流に言うなら価値観の革命だ。寓話的でもある『オールド・オーク』は難破船にとっての灯台で、真っ暗な時代における灯火である。最後まで信念を曲げなかった巨匠からのメッセージが描かれているなどと軽口は叩きたくない。