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前作『コッチ(Koch)』から3年の月日を経て発表されたリー・ギャンブルの新作『マネスティック・プレッシャー(Mnestic Pressure)』は、この30年ほどのエレクトロニック・ミュージックの要素を包括することで、2010年代的なインダストリアル/エクスペリメンタル・サウンドを超えるために制作されたアルバムに思えた。ちなみに今回のリリースは、〈パン(PAN)〉からではなく〈ハイパーダブ(Hyperdub)〉からである。
今の時代、3年という年月は長いが2014年の『コッチ』はインダストリアル/エクスペリメンタルなテクノの集大成とでもいうべきアルバムだったわけだから、そのネクストを模索・提示するためには必要な月日だったのだろう。むろんギャンブルは、「新世代」「音楽の未来」「新しい音楽」などを希求しているわけではない。なぜなら彼にとってテクノとは進化という輝かしい光ではなく、アンダーグラウンドで鳴らされる霧のように霞んだビートと、その逸脱のサウンドだからである。充満し、溢れ、やがて消え行くもの。いわば霧のようなアトモスフィア。それはリー・ギャンブルの過去のアルバムを聴けば誰にでもわかる。彼がめざすのは、その霧のような感覚だ。
この『マネスティック・プレッシャー』は、そんな彼のアンダーグラウンド・テクノ観を反映した見事なアルバムである。90年代以降のテクノ/エレクトロニック・ミュージックの多様なスタイルを取り込んだ収録トラックは、一聴、とりとめなく感じるかもしれないが、サウンドの質感が統一されていることでアルバム全体がミックステープのように、もしくはミックステープを装った一種の環境作品のようにフロウしている。雑多と整理と混乱と統一の混合体。
とうぜん、本アルバムでのトラックはギャンブルのオリジナルであり、彼自身の現在を自身の音によって表現しているといえるが、なによりこのフロウ=流れていく感覚が重要である。『マネスティック・プレッシャー』においては、サウンドのみならずビートですらも細やかに空気や空間や時間の中にフロウし、融解する。
これは2012年の『ダッチ・トゥヴァッシャー・プルームス(Dutch Tvashar Plumes)』、『デイヴァージョンズ1994-1996(Diversions 1994-1996)』、2014年の『コッチ』などにも共通するサウンドだが『マネスティック・プレッシャー』においては、さらなる洗練化と過剰化と逸脱が同時に巻き起こっているのだ。それぞれの曲=トラックは存在感覚を粒子のように拡散させ、霧のように冷たいアトモスフィアを放つ。近年のアンダーグラウンドなエレクトロニック・ミュージックの大きな特徴であるビートの融解化とサウンドの音響彫刻化とでもいうべきか(例えばアクトレスの新作アルバム)。
じっさい本アルバムには全13曲が収録されているが、そのスタイルはテクノからインダスリアル、ドラムンベース、アンビエントまで多様であり、同時にそのどれでもない。象徴的なトラックは1曲めの“Inta Centre”か。このトラックには、さまざまな具体音が加工され接続されている。ドラムンベース的なビートが一瞬だけ表出したかと思えば、それはすぐにノイズの中に溶けてしまい、環境音とノイズによるアンビエントなトラックへと変貌をとげる。持続も反復も霧のように消えさってしまう。この2分ほどのトラックに『マネスティック・プレッシャー』のサウンドの要素が圧縮されているといってもよい。2曲め“Istian”以降は、ここで提示されたサウンド・エレメントを解凍していくかのように各トラックが展開していくわけだ。
その後で注目したいトラックは、金属的な打撃音と分断されたビートの連鎖から、それが消えさった電子音楽的アンビエント世界を1曲の中でつなぎポスト・インダストリアル/テクノの世界観を実現した“Swerva”、ノイズもビートなど、さまざまなサウンド・エレメントが粒子のように融解し結晶世界の音響彫刻のサウンドを生みだす“You Hedonic”、民族音楽的な“Ignition Lockoff”、声が電子ノイズの中にかき消され、やがてミニマルかつリズミックな電子音トラックへと変化する“A tergo Real”あたりか。どのトラックも一筆書きのようなムードを放ち、スタイルの枠にハマるのを避けていく。
リー・ギャンブルがこのアルバムで成しとげたかったことはトラックとトラックがシームレスにつながり、それによってひとつの流れ/世界観を生成することにあるのではないか。何より彼は地下にうごめく音の躍動を構築したかった。それが彼にとってのリアルだから。ゆえにひとつひとつのトラックは、徹底的にフェイク/イミテーションである必要があった。アンダーグラウンドなミックス音源のようなフェイク感覚だ。テクノであり、インダスリアルであり、ノイズであり、アンビエントであること。そのどれでもないこと。それらフェイクをすべて等価にミックスすること。すべてを見届けつつも、そのすべてでないこと。ビートも反復もドローンもノイズも、ひとつのムードの中に融解させてしまうこと。このアルバムで彼の視点は大気のように拡散している。いわば「心ない」感覚だ。
とはいえ、アルバム全体に横溢する「心なさ」はアイロニーではない。アイロニーなど今の時代において特に有効性はない。ここにあるのは死んでしまったゾンビのテクノであり、ノイズであり、インダスリアルであり、アンビエントなのだ。人間の歴史が終ったあとの世界のサウンド・オブジェのように(その意味で彼の音楽はアルカに近いのかもしれない)。
ラスト前の12曲め“Ghost”の骨組みだけを抽出したかのようなドラムンベースと意識が消失するようなダーク・アンビエント・トラック“Déjà Mode”は、“Inta Centre”の圧縮とは違う持続と変化によって本作特有のフェイク/イミテーション的な「心なさ」を生成している。この2曲こそ本アルバムのもっともクリティカルな部分である。つまりは見事なアルバムの幕引きというわけだ。
デンシノオト