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♯8:松岡正剛さん

♯8:松岡正剛さん

野田 努 Aug 26,2024 UP

 たとえば林檎を描くとする。赤い林檎をそのまま正面から描くか、ひと口かじったそれを描くか、あるいは緑の林檎にするか、それとも半分に割った林檎にするか、その描き方にはいろいろある。編集者というのは、「(ほかの描き方も複数あるが)今回はこの林檎でいこう」だ。35年前に松岡さんから聞かされたこの喩えが、いまでも頭にこびり付いている。流動性のなかにこそ編集の極意あり。存在の流動化、存在から存在学へ、ほうき星の存在学。編集者は、言うなれば仮面から仮面へ、惑星から惑星へ、そして灰から灰へと渡り歩くことができる。だが、真を追求するアカデミアの研究者はそうはいかない。だからこの発想には両義性がある。
 編集者のテクニックのひとつに、コピーライティングがある。松岡さんは権威的な文体や難読漢字の多用を嫌い、メディアの武器であり資本主義の道具でもあるこの文章技術に入れ込んでいた。目次に凝るのが好きで、ときには雑誌の表紙や中吊り広告のキャッチコピーさえ面白がっていたが、松岡さんが見ていたのは、商品セールスのためのそれではなく、コンセプト伝達手段としてのコピーライティングという表現の可能性だった。そして編集的流動性における咀嚼力、メタファーの応用。松岡さんは難解な理論を平易な喩えで説明するのが抜群にうまかった。ただ、そこにもやはり両義性がある。たとえば、「山東京伝は江戸のアンディ・ウォーホルである」といったとしよう。アンディ・ウォーホルの研究者からしたら、それを誤謬というかもしれない。厳密に突き詰めれば、それはたしかに違う。だが、そういってみることで初めて伝わることは確実にある。

 80年代後半から91年にかけて、ぼくは自分が23歳から27歳までの4年あまりの年月を松岡正剛さんの会社で働き、あらゆる知識と、編集という仕事における創造性および文章の書き方までほんとうに多くのことを教えてもらった。編集以外にもとにかくいろんな仕事があったので、家には帰らず麻布にあった編集工学研究所の床で寝ることはしょっちゅうだったが、それがぼくには楽しみでもあった。そこには『遊』の創刊号からすべてが揃っていたからだ。会社に泊まっては、『遊』(あるいは工作舎関係の本など)を片っ端から読みながらそのまま寝落ちするという日々だった。(ろくに風呂にも入っていなかったわけだからそうとう臭かったと思うけれど、翌朝、ハイパーな上司だった渋谷恭子さん、杉浦イズムを継承するデザイナーの木村久美子さんにたたき起こされるという、いま思えばある意味牧歌的な日々でもあった。あのころは “歩く日本文化の事典 ”こと高橋秀元さん、ぼくがもっとも敬愛する画家のまりのるうにいさんにもほんとうにお世話になった)

 では、ここで面白いエピソードをひとつ。ヒップホップにハマったぼくは、ある日そのファッション・スタイルで出勤した。それを見た松岡さんから「おまえ、バスケットボールをやりに来たのか? 着替えてこい!」と怒られて、家に帰って着替えてきたことがある。あのときの松岡さんはほんとうに怖かった──そう、しかしこれはただの思い出話ではない。
 ぼくは、松岡正剛とはグランドマスター・フラッシュだと思っている。織田信長をベンチャー起業家という松岡さんなら、このくらいの突飛な喩えを面白がってくれるだろう。グランドマスター・フラッシュとは音楽ファンには説明不要の、ヒップホップの初期段階において、2台のターンテーブルを使って2枚のレコードをミックスすることで、テキストを別のテキストに転用することで新たな作品をクリエイトした人物のひとりだ。要するに、過去の文化を引用し、流用し、借用し、再編集することでブラック・ミュージックに新しいパラダイムを創出したDJのパイオニアである。ヒップホップにおけるサンプリングという表現形態の青写真だが、松岡さんはほとんど同じようなことを、サウスブロンクスで音楽の革命がおきていた同じ70年代に『遊』でやった。
 松岡さんの最高傑作は、ぼくはいまでも『遊』だと思っている。なかでも1976年の「存在と精神の系譜」の2冊は、デジタル時代到来より20年も前の、杉浦康平の先駆的サンプリング・アートとしか言いようのない驚異的エディトリアル・デザインをともなって、松岡正剛の編集理念が象徴的に具現化されていると言えやしないだろうか。空海も、ピタゴラスも、オスカー・ワイルドも、過去のあらゆる形態の知がオープンテキスト化され、こともあろうか「雑誌」として刊行された。『遊』という誌名が仄めかすように、ここにはアカデミアの束縛から解放された解釈の自由がある。(よく引き合いに出される1975年に創刊された『エピステーメー』は、当時の保守的なアカデミアでは無視されていた現代思想を紹介する雑誌で、根本的なコンセプトが違っている)
 グランドマスター・フラッシュやアフリカ・バンバータのような初期のDJは、JB'sからスライ、クラフトワークからYMOまで、あらゆる既発音源を横断的にサンプリングしたが、彼らのミックスでは、自分が流用した曲への敬意はあるものの、それぞれのソースの持つ神話性や歴史的な文脈は切り取られ、従来の意味は覆される。重要なのは、2台のターンテーブルとミキサーという流動性のなかで、遊び心をもって編集されながら生まれたその新しい作品なのだ。それは往々にして、クロード・レヴィ=ストロースの用語にならって「ブリコラージュ」と喩えられるが、ぼくは松岡さんのなかに、エリートたちのモダニズムを切り崩すという意味での(そしてハイカルチャーとローカルチャーの境界線を無にするという意味での)ポストモダニズム的な感性があったと見ている。じっさいのところ松岡さんはフーコーやデリダ、ソンタグらに共振していた。『遊』は紙メディアのトランスフォーメーションだったし、新しいパラダイムを創出した。アカデミアに従属する「知」の喧伝ではなく、ポストモダニズム的な大衆性に目するものだったから、それができたのだろう。まさに「大学から遊学へ」。そういう意味で松岡さんは、哲学(ないしは科学や宗教学)がポップ・カルチャーにもなりうるとわかっていた。
 「俺が初めてテレビに出たのはな……」と松岡さんはなかば笑い話として言った。「機動隊に担がれていったときだった」。学生運動というグランド・ナラティヴ(大きな物語)の真っ直中にいた松岡さんが、どうして1971年の『遊』創刊へと向かったのか、ぼくがもっとも知りたくて訊けなかったことだ。『遊』がつくったもうひとつのパラダイムは、『遊』というメディア自体をひとつのローカル・ナラティヴ(小さな物語)にすることだった。『遊』には、その号の寄稿者/聞き手と話し手、編集者やデザイナー、制作スタッフ全員が物語の登場人物さながら紹介されている(編集部それ自体を物語化するという見せ方は、ロック雑誌に継承される)。若き日の三田格も書店員として紹介されていたように、『遊』が制作され、流通し、売られるまでがひとつのナラディヴだった。はからずともここにも、ブラック・カルチャーにおけるパラダイム・シフトとしてのヒップホップとのアナロジーがある。ヒップホップ用語で言うところのフッドの美学だ。

 松岡さんの訃報を知って、覚悟していたこととはいえ大きな喪失感を覚えながら、この1週間、上記のようなことをうつらうつらと考えていた。松岡さんは『遊』時代になかば強引に、とことん拡張した知識の風呂敷を、その後はより緻密化させ、独創的なアプローチをもって深化させていったのだろう。と同時に、「セイゴオちゃんねる」という番組名がいい例だが、もうひとつのペルソナをつくることにも腐心した。「自分の職業は松岡正剛」という科白が寺山修司の引用(サンプリング)だとしても、松岡さんが「松岡正剛」という物語(ペルソナ)に生きていたことは、ネットで散見できる松岡さんの写真からもわかる。またその一方で、「千夜千冊」という、尋常ではない量の自分の元ネタのデータベースを惜しみなく公開するかのような、自分語りめいた他に類をみない書籍エッセイもやっている。
 松岡さんの先見的だった考え方のひとつに、「たったひとつのアイデンティティに縛られることはない」というのがあった。人間には複数のアイデンティティがあってもいいだろう、松岡さんはそう主張したが、これは「千夜千冊」で取り上げているジュディス・バトラーが1990年に発表した先駆的クィア理論(『ジェンダー・トラブル』)に通じている。アイデンティティ・ポリティクスが加熱するいまこそ、もっとそのことについて話してもらいたかったと思う(まあ、そんなことを言ったら他にもたくさんあるが)。しかしながら、松岡さんがポストモダニズムに対してアンビヴァレンスだったことも「千夜千冊」から見える。アレックス・カリニコスを取り上げているのがわかりやすい。このイギリスの左翼の批評家は、『アゲインスト・ポストモダニズム』という主著で、1968年の革命世代の多くが専門職や管理職という新しい中流階級に取り込まれたことを主張した。闘争で流された血から新しい資本主義が生まれたと言っている。 
 「千夜千冊」で興味深く思ったのは、サルトルに対して思いのほか辛辣だったことだ。いや、でも、それはそうなのか、松岡さんは大江健三郎のようにはなれなかったと書いている。ぼくが松岡さんのもとで働いていた80年代末は、プラザ合意直後のバブル景気の恩恵というか経済的勘違いを思い切り受けた時代だった。そして美空ひばりの死、昭和天皇の崩御、ベルリンの壁の崩壊、湾岸戦争、……こうした歴史的な出来事を松岡さんといっしょに経験している。あれはいつだったか、テレビの画面越しにマーガレット・サッチャーの演説をいっしょに見たことがある。スタッフのひとりが「サッチャーのクイーンズ・イングリッシュの発音はすごいですね」と言った。松岡さんは、八百屋の娘として生まれ、労働組合の男たちに囲まれて育ち、やがて英国の首相としてその男たちを窮地に追いやり、世界の政治的風景を確実に変えてしまったひとりの女性の演説を、ただ無言で、じっと見ていた。
 松岡さんは、いったい誰の味方だったのだろうか、そんなことを考えたりもした。東浩紀や宇川直宏のような、在野の思想家/DIY主義者/独創的なメディアの作り手たちへの純粋なシンパシーはよく理解できる。松岡さんはそういうひとだ。ぼくが知りたかったのは、かつて政治闘争の渦中にいたひとの、その後の政治性についてだった。「松岡さんや平岡(正明)さんのように若い頃に海外文化に親しんだ左派が、70年代はどうして意識的に日本の文化へと舵を取ったんでしょうか」とぼくは訊いた。「中上健次も忘れるな」とそのとき松岡さんは言った。平岡正明は、とある本で松岡さんのことをクサしているが、松岡さんは平岡さんのことを評価していた。「あんなすごい書き手は、いまの音楽界にはいないよな」とぼくに言った。考えてみれば、たとえそのひとがアンチ松岡でもあっても、自分が認めたひとの悪口を言う松岡さんを見たことがないし、状況によってはむしろ擁護する側だった。ぼくは松岡さんのそういう懐の深さが好きだった。だいたいぼくのようなアホで無知な若者をよく雇ってくれたものだと思う。あのころ、いちど松岡さんの前で歌を歌ったことがある。そうしたら、続いて松岡さんも自作の歌を歌いはじめた。何年か前に再会したとき、松岡さんが「いまはもう俺の前で歌ってくれるやつはいないよ」と笑みを浮かべて言ってくれたのは嬉しかった。松岡さん、ありがとうございました。ぼくには感謝しかない。

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