Home > Regulars > DREAMING IN THE NIGHTMARE > 第1回 悪夢のような世界で夢を見つづけること、あるいはデイヴィッド・リンチの思い出
冬の澄み渡るような空とは裏腹に、なんとなくパッとしない気分が続いていた。というよりは世間の年末年始の祝祭ムードにやられていた。
早足で街を抜けながら、ダークグリーンのレンズで目に入る光量を絞り、耳にはカナル型のイヤホンをねじ込んで、ザ・キュアーの新譜やザ・シスターズ・オブ・マーシーのファースト・アルバムで外のノイズをキャンセルしようと試みたり、私のような者たちを収容してくれるパーティを探したりしたが、例年通り世間の躁状態を反映したイベントやパーティで溢れ、「せっかくのホリディなんだからさ、GOOD VIBES ONLYでいこうよ!」みたいな、私がひそかにハッピーニューイヤーウォッシングと呼んでいるムードを再確認するに終わった。街のそんなムードの中で私をブッキングしたパーティを作ってくれる箱やオーガナイザーに、私はとても感謝している。今年こそは(実は去年頭からずっと思っていたが)、HOPE PUNK的なノリで行くんだと決めていたのに、躁状態の街に出鼻をくじかれてしまった。そして、追い討ちをかけるようにデイヴィッド・リンチの死の知らせが届いた。
好きな彼の作品をあげよと言われたら、まず思い浮かぶのが『ロスト・ハイウェイ』か『インランド・エンパイア』なのだが、ずっと不思議な引力を感じている作品は『マルホランド・ドライブ』だ。ハリウッドという虚飾の街を舞台にしたブルースに、奇妙な居心地の良さを感じてしまうのだ。坂口安吾は「孤独は、人のふるさとだ」と書いたが、悪夢のような世界で夢を見つづけることの孤独さに、なんとなく懐かしく優しい抱擁のような、悲しい快感を覚えたのかもしれない。最後まで観てから再びオープニングを見返すと、さらにその気持ちが強くなる。リンチの作品の中では、(彼の作品にそんなものは求めていないが)最も共感を呼び起こす作品かもしれない。
『マルホランド・ドライブ』と共通点はありつつも、私にほぼ正反対の印象を与えた作品が『インランド・エンパイア』だ。作中で唐突に登場するうさぎたちは、私に作品とルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』とを瞬間的に結びつけさせた。マーク・フィッシャーは『不思議の国のアリス』から資本主義社会の不条理な様を見てとったが、私は『インランド・エンパイア』のエンディングへの向かい方と、そこで流れるニーナ・シモンの『シナーマン』から、躁状態で走り続けなくてはいけない、不条理な世界への恐怖を感じた。この世界で罪人とは、悪魔とは何なのか。救いはあるのか。約10分のエンディングは、私にそんなことを考えさせた。そしてこの作品からも私はブルースを感じた。『マルホランド・ドライブ』のブルースが都市に飲み込まれる地方出身者のブルースだとしたら、『インランド・エンパイア』のブルースは、不可視化されることの恐怖と悲しみだろうか。彼の作り出す世界はとても不条理なものばかりだが、彼の不条理な世界に生きるキャラクターたち——『ワイルド・アット・ハート』や『ツイン・ピークス』がわかりやすい例だろう——が、その不条理な世界を各々の方法で生き抜く姿が、私の目にはとても魅力的に映るのだ。
そして『ロスト・ハイウェイ』が好きな理由はとても単純。カッコ良いからだ。暗闇の中をわずかなヘッドライトの光を頼りに疾走する様、砂漠で燃える小屋、電撃、マスタング、黒いシルクのベッドカバーに映えるクリムゾンレッドのネイル。そしてエンディングでのボウイの曲への入り方。はじめて観たのはまだ10代の頃だったろうか。笑顔を浮かべながら画面に釘付けになったのを覚えている。
音楽的な面でも、私は彼の作品がとても好きだ。彼の死を機にアルバムをいくつか聞き返しているが、やはりアンジェロ・バダラメンティと共にソート・ギャング名義で出したアルバムが、私にもっともフィットしているように思う。ジャズ、ロック、ダブが融合し、ゴシックでニューウェイヴでインダストリアルな精神を感じさせるからだろうか。奥底に横たわる低音と、その上を走るハットから、『インランド・エンパイア』で感じたような悲壮感や、『Twin Peaks: The Return』の前半にあったような世界の展開を感じ、より抽象的にリンチの作品に触れられたような気がした。
そういえば、彼はコロナ禍にYouTubeで天気予報の配信をしていたのだが、その中での「I’m wearing dark glasses today. Because I’m seeing the future and it’s looking very bright.」という言葉は、ちょっとしたミームにもなった。先の見えないコロナ禍で、明るい未来が見えるという彼の発言に、ほんの少し救われたことを覚えている。もしかしたら、これはHOPE PUNK的なことなのかもしれない。
HOPE PUNKという言葉は、SF作家ベッキー・チェンバースのインタヴュー記事で知った。曰く、それはディストピアに抵抗することだそうだ。権力は抵抗する者たちを何度も叩き潰すことによって再帰的無能感を植え付け、オルタナティヴなど存在しないというメッセージを発し続けてきた。そしてそれはとても上手く成功し、絶望的な状況ができあがった。しかし、そこでただ絶望を嘆くだけでは、再帰的無能感の再生産に寄与してしまうだけだろう。ディストピアは権力によって一方的につくられるわけではなく、絶望し、無能感を植え付けられた市民との相互関係によって完成するが、そのフィードバック・ループから脱するヒントがHOPE PUNKにはあると思う。HOPE PUNKとは、希望をイメージしたり、違う世界の可能性を考えてみること。もしかしたらそれは、ベルベットのカーテンの向こう側を想像したり、悪夢の中で夢を見たり、ということなのかもしれない。
デイヴィッド・リンチ、いろいろな世界を見せてくれてありがとう。わたしも悪夢の中でも、夢を見続けようと思う。