Home > Interviews > interview with Galliano - 28年ぶりの新作を発表したガリアーノが語る、アシッド・ジャズ、アンドリュー・ウェザオール、そしてマーク・フィッシャー
(ガリアーノのスタイルには)ロンドンのクラブ・シーンのある一線で起こっていたことを代弁し、音楽批評家であるサイモン・レイノルズの書籍『Retromania』にあるような方法で古い音楽を見つけつつ、新しいものをすべて受け入れようとするハングリー精神があったんだ。
UKでアシッド・ジャズ・ムーヴメントが巻き起こった1980年代後半から1990年代前半、ヤング・ディサイプルズ、インコグニート、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジャミロクワイなどと並んでシーンを牽引したガリアーノ。その後1997年に解散し、中心人物のロブ・ギャラガーも別のプロジェクトなどで活動していたが、そのガリアーノがなんと再始動し、ニュー・アルバムの『Halfway Somewhere』を発表するという驚きのニュースが飛び込んできた。ガリアーノにとって『Halfway Somewhere』は、スタジオ録音作としては1996年の『4』以来28年ぶりの新作となるのだが、アシッド・ジャズ時代をリアル・タイムで体験してきた者にとって、彼らの復活はまったく予想外であった。しかし、現在はかつてのガリアーノについて知らない人も少なくないと思うので、まず当時の活動状況やシーンの様子などから振り返りたい。
ガリアーノのデビューは1988年で、当時のロンドンはヤング・ディサイプルズやザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズらが出てきて、俗に言うアシッド・ジャズのムーヴメントが巻き起こっていた時代だった。ガリアーノのデビュー曲は、カーティス・メイフィールドの “Freddie’s Dead” をリメイクした “Frederic Lies Still” で、リリース元はDJのエディ・ピラーとジャイルス・ピーターソンが設立して間もない〈アシッド・ジャズ〉。当時のアシッド・ハウスに対抗して作られたと言われる標語をレーベル名に持つ〈アシッド・ジャズ〉の名前を一気に広め、その頃同様に盛り上がりを見せるレア・グルーヴ・ムーヴメントともリンクして人気を集める。
ガリアーノはロブ・ギャラガーとコンスタンティン・ウィアーのツイン・ヴォーカルを中心に、マイケル・スナイスのヴァイブ・コントローラー(MC的な役割)、スプライことクリスピン・ロビンソンのコンガという編成で、サポートでミュージシャンやコーラスが加わり、ライヴではダンサーなども入る。バンドというよりロブ・ギャラガーのプロジェクトという色合いが強い。サポート・メンバーにはドラマーのクリスピン・テイラー、ベーシストのアーニー・マッコーン、ギタリストのマーク・ヴァンダーグフトらがおり、一時はスタイル・カウンシルのミック・タルボットもキーボードで参加していた。ジャズ、ファンク、ソウル、ゴスペル、アフロ、レゲエなどをミックスした音楽性、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックらビート詩人の流れを汲む歌詞、ラスト・ポエッツやワッツ・プロフェッツのようなポエトリー・リーディング・スタイル、そしてモッズとラスタファリをミックスしたような独特のファッションに、アート、デザイン、カルチャーなども結び付け、USのジャズ・ヒップホップに対するUKのアシッド・ジャズのムーヴメントを牽引していく。
1990年にジャイルス・ピーターソンとノーマン・ジェイが〈トーキン・ラウド〉を設立すると、そこに加入してファースト・アルバムの『In Pursuit Of The 13th Note』(1991年)、『A Joyful Noise Unto The Creator』(1992年)を発表し、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップ、ダグ・カーン、ロイ・エアーズなどのジャズ系のカヴァーやサンプリングで高い支持を得る。特にスピリチュアル・ジャズ系のネタ使いはそれまでほかのアーティストに見られなかったもので、またほかのアーティストに比べて強いメッセージ性を有する歌詞やスタイル、言動により、ガリアーノは一種のカリスマ的な人気を博する。
その後、アシッド・ジャズ・ブームが沈静化してきた1994年、オリジナル・メンバーのコンスタンティン・ウィアーが脱退し、代わりにサブ・メンバーとしてコーラスをやっていたヴァレリー・エティエンヌが正式メンバーとなる。そうしてリリースした『The Plot Thickens』は、クロスビー・スティルス&ナッシュのカヴァーである “Long Time Gone” をはじめ、フォーキーなロックやソウルを取り入れて新境地を開拓。ヴァレリーのソウルフルなヴォーカルがガリアーノの音楽性に化学反応を生じさせ、アーシーでアコースティックな音楽性が加わる。そして、ハンプシャー州トワイフォード・ダウンの高速道路計画に対する抗議曲の “Twyford Down” を収録するなど、これまで以上に政治的なメッセージ性を示したアルバムだった。
1996年に入ってリリースした『4』は、『The Plot Thickens』のフォーク・ロックに加えてスワンプ・ロックやファンキー・ロック、サイケ・ロックやオルタナ・ロックの要素が増し、同時期に活躍したレディオヘッドに通じるところも見受けられる。トリップホップやディスコ・ダブ的なアプローチはじめ、当時のクラブ・シーンでも最先端として注目されたジャングル/ドラムンベースの要素を導入し、初期のアシッド・ジャズのスタイルから大きく変貌を遂げる。ただし、メディアや世間はその急激な変化や実験性に困惑し、『4』は以前の作品に比べてあまり評価されることなく1997年にガリアーノは解散する。解散前の1996年12月に新宿のリキッド・ルームで公演をおこない、『Live At The Liquid Room』としてリリースされたのが最後の作品となる。そのほか、アンドリュー・ウェザオール、ザ・ルーツ、DJクラッシュらによるミックスをまとめたリミックス・アルバム『A Thicker Plot – Remixes 93-94』も1994年にリリースされている。
解散後の1998年にロブ・ギャラガーは、ガリアーノやヤング・ディサイプルズのエンジニアを務めていた通称ディーマスことディル・ハリスと双頭ユニットのトゥー・バンクス・オブ・フォーを結成する。ロブの公私に渡るパートナーとなったヴァレリー・エティエンヌと、後期ガリアーノのサポート・メンバーで、K・クリエイティヴやロウ・スタイラスなどで活躍してきたキーボード奏者/プロデューサーのスキ・オークンフルも合流した。セカンド・アルバムの『Three Street Worlds』(2003年)は、モーダルなスピリチュアル・ジャズとダウンテンポ・ソウルが結びついた傑作として高く評価される。
当時のクラブ・ジャズ・シーンは4ヒーローやジャザノヴァなどが活躍し、ドラムンベース、ブロークンビーツ、2ステップ、ディープ・ハウス、テクノなどと結びついていた時期で、トゥー・バンクス・オブ・フォーもジャズやソウルを基調にしつつも、エレクトロニクスを導入した実験性の高い世界を作り出していく。当時のディーマスはウェスト・ロンドン・シーンと繋がりが深く、ブロークンビーツのシーンともコミットし、リミックスにはフォー・テット、ゼッド・バイアス、マシュー・ハーバートらも起用されていた。
今回のニュー・アルバム『Halfway Somewhere』に関して、インタヴューを受けてもらうのはロブ・ギャラガーと、合間でヴァレリー・エティエンヌも入ってもらうのだが、こうしたガリアーノからトゥー・バンクス・オブ・フォーへの流れを踏まえた上で話をはじめることにする。
私が生きるはずだった人生はどこにあるのだろう? 平和、そして満たされた幸せな喜びはどこにあるのだろう? 絶対どこかにあるはずだ。そしてこれは、そのどこか。僕たちは皆どこかにいる。そうだろ? だから失われたものすべてが、僕たちがいるここにあるはずなんだ。なぜなら、ここがそのどこかだから。
■最初に1990年代まで遡って話を伺いたいと思います。当時ガリアーノが解散に至った理由などについて、改めて教えてください。
ロブ・ギャラガー(以下、RG):ガリアーノは10年の間にさまざまな変遷をたどった。そもそもガリアーノという名前は、1984年頃にジャイルス・ピーターソンの「マッド・オン・ジャズ」というパイレーツ・ラジオの番組で、ロンドンでおこなわれるライヴを案内するために作られたキャラクターに由来しているんだ。ガリアーノのスタイルというのは、ポエトリーやコンガ、ファンクからドラムンベースまで、すべてが一貫しているようなある種の「声」の中でおこなわれていた。つまり、それはロンドンのクラブ・シーンのある一線で起こっていたことを代弁し、音楽批評家であるサイモン・レイノルズの書籍『Retromania』にあるような方法で古い音楽を見つけつつ、新しいものをすべて受け入れようとするハングリー精神があったんだ。でも僕は、1996年までには、個人的にほかの方法で音楽を探求したいと思うようになっていた。そして、その「声」に窮屈さを感じていたんだ。ガリアーノは世間の需要がまだ強く、ライヴを続ければ続けることはできたけど、それは活動を続ける十分な理由ではなかったんだよ。
■その後、1998年にディーマス(ディル・ハリス)と双頭ユニットのトゥー・バンクス・オブ・フォーを結成します。この1990年代後半から2000年代前半は、とても創造的で刺激的な時代だったと思いますが、改めて振り返ってみていかがですか?
RG:トゥー・バンクス・オブ・フォーは、さっき話したような領域を探検するのに使った出口のひとつだった。いまも変わらず、僕はディーマスのアートや音楽に対するセンスを心から信頼している。僕らは同じインスピレーションをたくさん共有しているし、そういう意味で僕は本当に感謝しているんだ。同じ周波数にいる人を見つけるのは、簡単なことではないからね。僕らは彼のナンバーズというプロジェクトでも一緒に仕事をした。それらだけでなく、僕らは様々な名義で一緒に曲を作ったんだ。レゲエ・シンガーのフェリックス・バントンとシーズというバンド名義で “Dance Credential” という曲をリリースし、それを演奏しに日本に行ったこともあるしね。僕たちの最高傑作は、ウィリアム・アダムソン名義の僕のアルバム『Under An East Coast Moon』だと思う。そして、僕らはロンドン映画祭のサントラ部門で短編映画のトップ10にも入った。
余談になるけど、ディーマスの娘リーラはガリアーノの最新シングル “Pleasure Joy And Happiness” のビデオにも出演しているんだ。そんな感じで僕たちのコラボレーションはずっと続いているんだよ。いまもクリエイティヴだけど、1990年代後半から2000年代前半はとてもクリエイティヴだったと思うね。
■この当時のロブはアール・ジンガー名義でソロ活動もはじめて、レゲエやダンスホール、ダブやサウンドシステムに影響を受けたスタイルで、ガリアーノ時代にはじまるポエトリー・リーディングの世界をより広げていきます。また、自身のレーベルである〈レッド・エジプシャンズ〉を設立し、トゥー・バンクス・オブ・フォーの覆面バンドであるザ・シークレット・ワルツ・バンドはじめ、いろいろな変名を駆使して活動していきます。まさにパンク的なDIYの精神に基づく〈レッド・エジプシャンズ〉ですが、その後のアレックス・パッチワーク(アレックス・スティーヴンソン)とのユニットのザ・ディアボリカル・リバティーズ、今話に上がった変名ソロ・ユニットのウィリアム・アダムソンとしての活動も、すべて〈レッド・エジプシャンズ〉設立から繋がっています。ある意味で時代のトレンドとは離れ、自身が思うままに自由な活動をしていったわけですが、トゥー・バンクス・オブ・フォーが解散した2008年以降は、どの方向に向かって活動していきましたか?
RG:実際のところ、トゥー・バンクス・オブ・フォーは解散したわけではないんだ。リミックス・ワークもいろいろとやっているし、ギグもたくさんやった。だから、レコードは出していないけれど、僕らは様々な別の方法で活動しているんだ。僕は多くのDJやバンドと一緒に活動してきた。ジャイルスはいつもそこにいたし、クルーダー&ドルフマイスターもそうだった。僕はアール・ジンガーのバンドと一緒にツアーをして東京でプレイしたこともあるし、当時はジャズトロニックの野崎良太とも仕事をしていたね。
そしてもうひとつのプロジェクトで、いまでも活動しているディアボリカル・リバティーズはあの頃にはじまった。当時の方向性はあまり明確ではなく、もっと実験的な時期だったと思う。フリー・ジャズの詩からDJのアシュリー・ビードルとの曲作りまで、いろいろなことをやっていたからね。友人のアンドリュー・ウェザウォールがよく言っていたように、僕はただ何かを作るという過程を楽しんでいるんだ。詩であれ、コラージュであれ、映画であれ、音楽であれ、この世にまだ存在していないものを作り、それを送り出すことをね。
個人的にはシャバカ・ハッチングスがソロで吹くフルートや、ニューヨークのジャズ/ヒップホップ集団のスタンディング・オン・ザ・コーナーを聴くのをすごく楽しんでいるし、ロサンゼルスのスローソン・マローンが関わっているシーン全体も面白い。
■あなたのパートナーでもあるヴァレリー・エティエンヌは、ガリアーノ、トゥー・バンクス・オブ・フォーを通じて一緒に活動していましたが、その後出産や子育てもあって音楽活動から離れる時期もありました。2010年代以降はジャミロクワイ、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、インコグニートやブルーイのユニットのシトラス・サンなどの作品に加わるなど、近年はまた活動が活発になってきています。2010年代に入ってロブとヴァレリーのふたりがクレジットされるプロジェクトでは、2014年にジャイルス・ピーターソンが立ち上げたブラジリアン・ユニットのソンゼイラがあり、さらに2020年代ではブルーイによるSTR4TA(ストラータ)があります。特にストラータの『Str4tasfear』(2022年)にはゲストでオマーが参加し、アウトサイドやインコグニートで活躍してきたマット・クーパーや、スキ・オークンフルなど〈トーキン・ラウド〉時代の仲間もセッションしていて、恐らくガリアーノのリユニオンへと繋がるプロジェクトではなかったのかと思うのですが、いかがですか?
RG:ソンゼイラはジャイルスがはじめたプロジェクトだったけど、僕とディーマスはリオに行き、作曲とプロデュースという形でコラボし、参加したんだ。ヴァレリーもヴォーカルで参加して欲しいと頼まれた。とても楽しかったし、たくさんのブラジルのミュージシャンたちに出会えたのは本当に光栄だったね。そしてそのうちのひとりが、僕たちの大親友であるカッシンで、彼は僕らと一緒にソース・アンド・ドッグスというプロジェクトをやっている。あのプロジェクトは、これまで携わってきた中でも最高のプロジェクトのひとつだと思う。ライヴもやってて、シチリア島のパフォーマンスではダンサーも入れたんだ。あのショーはすごかった! いまは1970年代に活動していたホセ・マウロの音楽を基盤にしたアルバムを書いているんだけど、近々リリースできたら嬉しいね。スキ・オークンフルは新しいガリアーノのプロジェクトで一際目立っている。彼はいま、ソロのミュージシャンとしても大成功しているし、自身のYouTubeチャンネルで楽曲制作過程を機材や楽器を使って技術的にレクチャーする番組をやってるんだけど、それがすごく人気なんだ。ガリアーノの再結成に至った経緯には正直僕にもよくわからないところもあるけれど、自分では気づかないことが頭の中でいろいろと起こってたんだと思う。ある意味、「再結成」なんてするつもりはなかったから自分でも驚いているんだけど、この「声」の中にある創造的な衝動がいまとても強くなってきていると思うから、再結成できてとても嬉しいよ。
■2023年春にガリアーノのリユニオンが発表されます。コンスタンティン・ウィアーやミック・タルボットといった初期の主要メンバーは参加していませんが、ロブ、ヴァレリー、スキのほか、オリジナル・メンバーのクリスピン・ロビンソンや、長らくサポートをしてきたアーニー・マッコーン、クリスピン・テイラーが中心となります。メンバーにはどのようにガリアーノ再結成の話をし、参加してもらったのですか?
RG:再結成の経緯は曖昧だと言ったけど、ひとつのきっかけとしては友人でもあるマシュー・ハーバートから電話がかかってきて、彼の友だちの誕生日パーティで演奏してくれないかと言われてね。ガリアーノで演奏することはもうないだろうと思っていたんだけど、「きっと楽しいから!」と説得されたんだ。
ヴァレリー・エティエンヌ(以下、VE):集まって数曲演奏するだけだから、なんとかなるはずってね。
RG:それで30年ぶりにリハーサル室に皆で集まったんだけれど、顔を見合わせたとき、これはなかなか面白いなと思った。それからいくつか曲をプレイしてみたら、素晴らしいことに脳みそが全てを覚えていたんだ。どこでストップするとか、どこで何を演奏するとかね。で、ヴァレリーが “Masterplan”(ファラオ・サンダースとレオン・トーマスによる “The Creator Has A Masterplan” のこと)をリハーサルとは違う歌い方で歌いはじめたんだ。歌詞全体を織り交ぜるような歌い方だったんだけど、それを聴いた途端に、いまでも昔と同じようにできるだけでなく、どこか違う、新しい方向に進むこともできるんだと思った。それが可能だということが僕を興奮させたんだ。
質問・序文:小川充(2024年9月05日)
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