Home > Interviews > interview with Buffalo Daughter - 5次元とTB303の“ニュー・ロック”
「大量破壊兵器(The Weapons Of Mass Destruction)」ではなく「数学破壊兵器(The Weapons Of Math Destruction)」というのが、バッファロー・ドーターにとって4年ぶり通算6枚目となるアルバムのタイトルである。なんとも含みのある言葉を冠したもので、これまでのバッファロー・ドーターを思えば今回の刺々しい政治性は、どうにも異質に思える。とにかくバッファロー・ドーターは帰ってきた。パンキッシュになって。
シュガー吉永、大野由美子、山本ムーグの3人によって1993年に誕生したこのバンドは、1996年にはビースティー・ボーイズの主宰する〈グランド・ロイヤル〉と契約を交わしている。そして、伝統的なロックのいかめしさに対するアンチ的なセンスとミニマルでダンサブルで独特のメロディ(ときに可愛いメロディ)を持つサウンドによって、コーネリアスや嶺川貴子、少年ナイフらとともにUSインディ・シーンにその名を刻んだ。カット・マスター・カット(ドクター・オクタゴンに参加していたDJ)やコーネリアスらによるリミックス・ヴァージョンでも知られる1998年の"Great Five Lakes"がバンドにとっての最初のピークだろう(というか......、セカンド・アルバム『ニュー・ロック』に収録されたこの曲が、僕が最初に好きになった曲なのです)。
クラウトロックとヒップホップの幸福な出会いとでも言えそうな"Great Five Lakes"を聴いていると、誰もいない広い草原へと瞬間的にテレポートされたような気分になる。とにかくそれは新鮮で、どこまでも心地よい。
Buffalo Daughter / The Weapons Of Math Destruction Buffalo Ranch AWDR/LR2 7月7日発売 ¥2,500(税込) |
『ザ・ウェポンズ・オブ・マス・ディストラクション』は、そうした陶酔を遠い過去においやるアルバムとも言える。実験精神旺盛なこのバンドはいま、世界を覆う暗い風――しつこいけど、10年前にレディオヘッドやゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラー!が描いたもの――を見つめている。その暗さをバネに、力強く前向きな音楽を創出した、それが今回の新作である。
危険を冒した冒険者の生還のように、バッファロー・ドーターはいま晴れ晴れとしている。バンドのトレードマークとも言えるリフは鋭く鳴り、ビートはパワフルに響いている。このバンドが素晴らしいのは、いまでも音楽には前進の余地があると考え、その困難さに挑戦している点にあるが、その実験をいちぶのマニアにしか通じないものではなく、よりポップに捉えているところにある。それがコーネリアスとの共通点であり、そして相違点はバッファロー・ドーターにはどうしても伝えたいメッセージが込められている――ということである。『ザ・ウェポンズ・オブ・マス・ディストラクション』はそういう意味で、広く聴かれるべき作品となった。
3次元世界は、5次元からの見えざる力によって動かされていると。だから、いまの世界が悪い方向にいっているのも、5次元からの力によるものじゃないかという結論が出たんですよ。
■最初からコンセプトがあってはじまったんですか?
大野:ぜんぜん。もうー、とにかく出したい。4年も空いてしまって、もう出さないと。「出したい」という強い気持ちからはじまりました。コンセプトも何もなく、とにかくアルバムを作るんだと。
■4年という月日はどんな意味がありましたか?
大野:ホントは2年前に作っていたはずなんですけど、契約していた〈V2〉がなくなったんですよ。
■そうでしたよね。
大野:そのゴタゴタで出せなかっただけで。
■本来だったら2年前に出てたんですね。
大野:出てましたね。
■内容的にも同じモノが?
大野:たぶん違うと思う(笑)。
■じゃあ、2年前に録音していた音源は今回入っているんですか?
大野:いや、だから制作に入る前にレーベルがなくなっちゃったら。
■青写真もない?
大野:ない。そろそろ作ろうかっていうときになくなったから。
■4年のブランクはバンドにとって気になりましたか?
大野:気にはならなかったけど、レーベルを探すっていうのが大変だった。そのストレスはあった。
■音楽的な方向性で迷ったということはなかったんですか?
大野:それはなかった。それよりも実務的なことというか、いままではマネージャーがいて、バンドの3人がいて、それで話していたことが、今回は3人で話して、それをディストリビューターに伝えて条件を詰めていっていって......そっちのほうが大変だった。
吉永:この4年も、ライヴはコンスタントにやっていたし、フェスにも出ていたし、ただとにかく、アルバムを出す地盤となるレーベルを探すということに奔走したというか、これはものすごいエネルギーがいることなんですよね。私たちにとってはすごいエネルギーがいることだった。はっきり言って面倒くさいんですよ。
■まあ、それはそうですよね。
吉永:そういうのはあったんですけど、まあ、最終的にはもうレーベルを探すのを止めてしまって、自分たちでレーベルをはじめて、「バウンディみたいなディストリビューションを持っているところでやるのがいいね」と決まったのが......半年前とか?
■そのときはもう音はできていたんですか?
吉永:いやもう、自分たちのなかでは時間切れというか、「待っていても仕方がないから、とにかく音を作っちゃおうよ」、「最終的には自分たちで出すことができるんだし、どうにかなるよ」と。それで作りはじめたんです。
文 : 野田 努(2010年6月24日)