Home > Columns > ♯10:いや、だからそもそも「インディ・ロック」というものは
いや、だから「インディ・ロック」というものはだね、そもそもは……えー、そもそもは……そもそもはあれですよ、あれ、……そう、「あれ」で通じるよね、いまとなっては。だからここでは自省を込めて、あらためて「インディ・ロック」というものがそもそもなんだったのかを振り返ってみたい。なにぶん私奴は「ポスト・パンク」から「インディ・ロック」の時代、70年代末から80年代なかばのUKの自主制作によるアンダーグラウンドな音楽にけっこう漬かってもいたので当時のことは憶えている。「インディ・ロック」とは、単純なところでは1980年代の英国のインディペンデント・レーベルに所属するギター・バンドのことを意味していたが、文脈というものがあったし、文脈こそが重要だった。そこには、固有の繊細さ、固有の美意識、そして希望を秘めた敗北感という興味深いパラドックスがあった。〈サン〉や〈モータウン〉をインディーズとは呼ばないように、独立系レーベルの音楽というだけの定義ではないのだ。
かつてキース・レヴィンは言った。「自分がロックンロールをどれほど嫌悪していたのかわからなかったけれど、その感情はPiLの動機の一部だった」
パンクが成し遂げられなかったロックの古い伝統との断絶を実行するか、ロックを別の何かに書き換えるか、とにかくサウンドの可能性を重視しながら、メインストリームや業界とは距離を持って、わざわざ首都に出向くことなく、地元にいながらにして自分たちの創造的な活動を実行したのが、1979年以降の「ポスト・パンク」だった。その基盤となったのは〈ラフ・トレード〉や〈ファクトリー〉のようなインディペンデント・レーベルで、当時こうした自主制作の音楽を聴くことは、メジャーにはないただ変わった音楽を聴くこと以上の新しい体験で、最近の例で言うなら最初にヴェイパーウェイヴを聴いたときのような、少し昔の話で言えば最初にシカゴ・ハウスを聴いたときのような、ちょっとやばいものに手を出してしまったんじゃないかとハラハラするようなあの感覚だ。ザ・レインコーツやザ・スリッツやザ・ポップ・グループの7インチなんて、もう、とにかくミステリアスで、そこから漂うのは、ラジオから流れるアバやYMOのポップ・ヒット、ロッド・スチュワートやクイーンが何万もの人間に向けて歌う音楽とはあきらかに異質の、ある特定の文化圏を拒絶する、前向きな閉鎖性と呼べるような気配だった。八方美人ではないからこそ生まれる強度、それが思春期特有の自意識とばっちり重なっただけの話でないのは、ポスト・パンクが変えた文化がその後どのように発展していったのかを歴史的に振り返ればわかる。ディスコがその後のポップ・ミュージックのあり方を永遠に変えてしまったように、ポスト・パンクはこの文化の新しい未来像を描いた地殻変動だった。
ポスト・パンク以降の新しい文化土壌──DIY主義、地方主義、意図的に主流から外れることで得られる自由などなど──こうした文脈から生まれのが「インディ・ロック」だった。「インディ・ロック」におけるもっとも重要な始祖を挙げるなら、何よりもまず、グラスゴーの〈ポストカード〉という1979年に始動したレーベルを拠点に登場したオレンジ・ジュースになるだろう。ほかには、ロンドンではサブウェイ・セクトやテレヴィジョン・パーソナリティーズほか。そしてもうひとつ重要な「インディ・ロック」はマンチェスターで生まれている。オレンジ・ジュースのファンだった(*1)ジョニー・マーがスティーヴン・モリッシーを誘って結成したバンド、ザ・スミスだ。
これらのバンドに共通するのは、ロックのフォーマットに忠実で、ポスト・パンクが腐心したサウンドの変革よりもポップであることを優先させたところにある。彼らのように過去のポップス(シャングリラスからバーズ、ヴェルヴェッツなど)からの影響をつつみ隠さず取り入れるなんてことは、ポスト・パンクにはなかった。ジーザス・アンド・メリー・チェインのフィードバック・ノイズの背後から60年代ポップスの引用を聴き取れたとしても、ワイヤーのなかにロネッツやビーチ・ボーイズを見つけることなど絶対にあり得ない。
ディスコやソウルが注がれたオレンジ・ジュースのギター・サウンドは荒削りだが力強く、そして何よりも当時としては新鮮なくらいにロマンティックだった。敗北感にみちた歌詞を歌うザ・スミスにはジャングリーな(きらきらした)ギターと陶酔感をもった旋律があった。サウンドだけ見れば、ポスト・パンクの革新性から後退したように思えるかもしれないが、DIY精神と前向きな閉鎖性は継承されているし、図書館に通うような学生にも突き刺さる言葉があった。もうひとつのポイントは、ザ・スミスが当初プロモーション・ヴィデオを作らなかったこと、多くのバンドが初期のニュー・オーダーのように自分たちの顔写真をジャケットに載せなかったことだ。
初期のインディ・ロック・バンド界隈が活気づいた1980年代半ばのポップ・ミュージックの世界はMTV時代の真っ直中で、メジャー・レーベルでは新作を出すたびに不特定多数の人目を惹くための凝ったPVが作られていた。マドンナ、プリンス、マイケル・ジャクソンのようなポップ・モンスターばかりでなく、ピーター・ゲイブリルからカジャグーグーのような落ちぶれたニューウェイヴまで、手の込んだPVを使ってその凡庸な曲をチャートに載せていた。「インディ・ロック」はこうしたやり方も拒絶した。この姿勢は、「セレブになるために音楽をやった」と敢えて堂々と言うことを選んだマドンナのアプローチとは真っ向から対立する。「インディ・ロック」はたくさんのポップ・ソングの名作を作ったけれど、フィル・コリンズのそれとは違う何かであった。
「インディ・ロック」は、アメリカでは「オルタナティヴ」という言葉に翻訳されるが、意味を考えればこれは妥当な言い換えである。たしかにそれはオルタナティヴな、しかしアヴァンギャルドでもエクスペリメンタルでもないポップ・シーンだったのだから(*2)。1986年に『NME』は、ザ・スミス以降における「インディ・ロック」の広がりを『C86』という、いまとなっては時代の分水嶺を象徴するカセットにまとめた。ここにはプライマル・スクリームやザ・パステルズをはじめとする22組のバンドの音源が収録されている。
初期の「インディ・ロック」にはそれなりに強い信念はあったと思うが、オレンジ・ジュースの1982年のデビュー・アルバムはメジャー・レーベルからのリリースだった。厳密に言えばその時点でインディ・ロックではないし、『C86』に参加した多くのバンドもそうだった。つまりインディ・ロックという枠組みは早くも揺れたわけだが、オレンジ・ジュースはインディ・ロックであり続けた。バンドにとってもファンにとっても、インディペンデント・レーベルに所属していること以上に、ポスト・パンク以降の流れを汲んでいたかどうかがその定義により大きく影響していたからだろう。ファンション面から見みても、当時のインディ・キッズが高価なブランドものを着ることはあり得なかった。男女ともにドレスダウン志向で、ビート族のようにアンチ・エレガント、古着や軍の払い下げ(*3)を工夫して着ることのほうが、キャサリン・ハムネットがデザインしたワム!のTシャツよりも格好いいという自負があった。周知のように服に対するこうしたアプローチをアメリカで受け継いだのがグランジやライオット・ガール(あるいはオルタナ・カントリー)だ。
ところで80年代には、「インディ・ロック」と並走して、もうひとつの閉鎖的な一群が存在した。「ゴス」である。スージー・アンド・ザ・バンシーズやジョイ・ディヴィジョン、マガジンを起点としながら、キュアー、バウハウス、キリング・ジョーク……(ほか多数)、USからはリディア・ランチにザ・クランプス、オーストラリアからはバースデー・パーティー……これらアドロジニアスで黒装束の社会不適合者たちによる秘密めいた集会もまた、ポール・マッカートニーやビリー・ジョエルの歌のように誰に対しても開かれてはいなかった。こうした「インディ・ロック」や「ゴス」──日本では「根暗なニューウェイヴ」などと嘲笑された音楽が、いやー、ぼくは大好きだったなぁ。
2000年代はポップ界の大物たち、たとえばコールドプレイがリアーナと、カニエ・ウェストがケイティ・ペリーと、ニッキ・ミナージュが誰それと……といった具合になんだかやたらと交流するようになった。それが常態化し、たいして話題にもならなくなってくると、10年代はカニエ作品にボン・イヴェール、ビヨンセ作品にジェイムス・ブレイク・ソランジュにパンダ・ベアとか、大物と元インディの交流がはじまった。話題作りのためではなく、互いにリスペクトあっての交流だとは思うけれど、どれほど意味のあることだったのかは議論の余地がある。あの時代、ベン・ワットの作品にロバート・ワイアットが参加することはあっても、モリッシーやビリー・ブラッグがスプリングスティーンのアルバムに参加することなど500%考えられなかった。だいたいインディーズはメジャー・レーベルへの対抗意識を露わにしていたし、自分たちのほうが数段格好いいと思っていた。ポップ・ミュージック・シーン全体から見れば、これは良き対抗意識で、良き緊張関係にあったと言えるんじゃないだろうか。そう、誰かが言ったように、「逆張りなくして進歩はない」のだ。
かのデイヴィッド・ボウイが「バイセクシャルと言ったのは人生最大の失敗」と、70年代の偉業を自ら突き放したのが1983年──ボウイが保守的なポップスへの迎合を果たした『レッツ・ダンス』の年──だった。その前の年にオレンジ・ジュースがデビュー・アルバムを発表し、84年にザ・スミスが “ヘヴン・ノウズ”を歌っている。「仕事を探して、やっとこさ仕事を見つけたけれど、天もご存じ、ぼくは惨めだ。ぼくが生きているか死んでいるかなど気にしないような連中のために、何故ぼくは自分の時間を割いているのだろう?」。こういうキラーなフレーズは、インディの世界からしか生まれなかった。
80年代の「インディ・ロック」は、70年代末の「ポスト・パンク」の流れをもって、自分たちのリスナー像が見えていた。もちろんフィル・コリンズだってひとりバーで佇む傷心のオヤジに向けて歌っていたのだろうし、スプリングスティーンが汗水ながす労働者階級に向けて歌っていたのは言うまでもない。しかし80年代「インディ・ロック」の焦点はもっと絞られていたし、メインストリームでは歌われないであろう題材(政治的なものからあいつやあの娘のほんとうの感情)に意識的で、それが等身大であることの強みだった。
あの時代の「インディ・ロック」の功績はここでは書ききれないほど大きい。ボサノヴァを取り入れたペイル・ファウンテンズやEBTG、暗い雨の夜からはエコー・アンド・ザ・バニーメン、誰よりもドラッグについての曲を書いたスペースメン3、不本意ながらシューゲイザーと括られるマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、エーテル系の始祖コクトー・ツインズのようなバンドは、ポスト・パンクからインディーズへと展開した1980年代のアンダーグラウンド・シーンから出てきている。さらにまた、80年代末のレイヴ・カルチャーに集合した主要成分が元インディーズや元ゴスだったことを思えば、閉鎖性を持つことは次なる大爆発へのプロセスだったと言える。
あるいは、こんな考えもできるだろう。1980年代〜90年代のデトロイトのテクノ・シーンは、UKの86年型インディーズの黒人版のようだ。じっさいこの世代のデトロイト・ブラックは、80年代の欧州ニューウェイヴが大好きだったし(*4)、ハリウッドに魂を売ったモータウンに対する複雑な感情のみならず、オリジナルUKインディーズのようにメインストリーム(ジミー・ジャムとテリー・ルイス──デトロイト・テクノがプリンスを愛したことを思えば皮肉な話だが──みたいな爽快なR&B)への対抗意識をあきらかに持っていた。メッセージ・トゥ・メジャーズ。あの時代のあの閉鎖性、あの特権意識、自分たちの美意識に関するあの自信が、まったく違う国の違う人種における未来の音楽の活力の醸成にひと役買ったとしたら、それはやはり、逆説的に開かれていたということなのだ。 “モダン・ラヴ” や“イントゥ・ザ・グルーヴ”がどれほど売れようと、こうした変革力に与していない。(*5)
昨年ある人物から日本の有望な若手グループについて説明を受けたとき、その人は、「彼らが良いのは、自分たちがやっているのは “J-POP” だと主張しているところなんですよ!」と語気を強めた。これがぼくには、「彼らはインディよりもメインストリームを格好いいと思っているんですよ!」に聞こえた。いや、ぼくはその価値観に賛同はしないが尊重はするし、そういう考えのほうが日本では共感されやすいことも理解している。ただぼくは、バンド/ミュージシャンのキャリアをインディーズ時代/メジャー・デビュー以降という風に分ける日本の価値基準にはかねてからずっと違和感を覚えている。だってこれがいかにナンセンスであるかは、たとえば80年代のニュー・オーダーの功績、あるいはR.E.M.のインディーズ時代の作品を鑑みても瞭然でしょう。
まあ、R.E.M.もいまとなってはレディオヘッドやコールドプレイらと肩を並べるダッド・ロック・バンドの代表格であって86年インディーズの価値観とはだいぶ遠いのだが……。が、しかしその86 型の理想とて霧散したのもあっという間の話で(その後のモリッシーに関しては……いまここでは省略です)、よって残されたのはそのサウンド、そのスタイルだけ──まあ、それはそれでじゅうぶんな恩恵ではある。かつてのインディーズのもうひとつのトレードマーク、主にジョイ・ディヴィジョンやザ・スミスがまき散らした内省的なメランコリーや倦怠感も90年代には時代遅れになったが、それでもこのフィーリングはしぶとくも90年代前半のブリストルのトリップホップやアンドリュー・ウェザオールにといったロック以外のところで受け継がれていった(あるいは、シアトルのニルヴァーナへと)。
さらに輪をかけて今日では、既述したように「インディ・ロック」というターム自体はますます意味不明になっている。ギター・バンドであれば何でも「インディ・ロック」になっているし、かくいう私奴もかなりいい加減に使ってしまっている。まあ、それでなんとなく伝わることもあるのだろうし、アニマル・コレクティヴをインディ・ロックと呼んでも、もう、さほどの違和感はない。が、しかしぼくはある日突然、何故かわからないのだが、これはやはり、その源流に関しては、はっきりさせておきたいと思ってしまった。
以上、ぼくと同世代人には「何をいまさら」という話であります。幸か不幸か現代の音楽リスニングでは古いものと新しいものとの境界線がますますなくなって、古くてもそれがその人にとって新しい衝撃になる機会は1980年代よりも確実に多くある(ぼく自身もそうです。サン・ラーやPファンクやアーサー・ラッセル他多数、過去の音楽に感動している)。というわけで、ザ・フォール、ニュー・オーダー、オレンジ・ジュース、サブウェイ・セクト、ヤング・マーブル・ジャイアンツ、テレヴィジョン・パーソナリティーズ、アズティック・カメラ、ザ・スミスなどなど……あの時代のバンドとわりと最近出会った人にはぜひとも当時の「文脈」を知っておいてもらいたいなと、はい、インディよもやま話、ではまた来週お会いしましょう。
(*1)
ジョイ・ディヴィジョンの影響力もすごいが、オレンジ・ジュースのそれもでかい。同郷のベル・アンド・セバスチャンにとっても大きな影響源だった。
(*2)
アメリカのオルタナティヴは、その時代のカレッジ・ロックという括りにも近い。カレッジ・チャートは、メインストリームに価値観に対する反論でもあった。
(*3)
古着はかつて安かった。安いからインディ・キッズは着ていた。軍の払い下げもそう。面白いことに、かつて軍の払い下げのミニタリー・ウェアは60年代末から反戦運動家のファッションになり(一時期のジョン・レノンを参照)、そして80年代のインディ・キッズがダボダボのパンツを穿いたのも、安くて丈夫で、着方を考えれば格好良かったからだった。それがいまではすっかり高価なファッション・アイテムになっていることにお父さんは面食らいます。
(*4)
ホアン・アトキンスはリエゾン・ダンジュールズ、デリック・メイはデペッシュ・モードにニュー・オーダーとエレクトロニック・ミュージック系ではあったが、カール・クレイグはザ・キュアーが好きだった。
(*5)
エクスキューズをひとつ。何もこの原稿で、マイケルやマドンナを貶めるつもりはない。ぼくはデトロイトのクラブで高速にミックスされた “ビリー・ジーン” で踊っているし、『オフ・ザ・ウォール』は良いアルバムだと思います。マドンナに関してもとくにファンだったことは一度もないが、ただ、後にコートニー・ラヴが評価したことは憶えているし、フランキー・ナックルズへの尊敬を込めて、1990年の “ヴォーグ” の世界的なヒットがハウス・ミュージックが世界に認められた瞬間であったという説には賛同しておこう。 “イントゥ・ザ・グルーヴ” や “ライク・ア・プレイヤー”も良い曲だと思いますけどね。