Home > Regulars > DREAMING IN THE NIGHTMARE > 第3回 数字の世界、魔術の実践
〈私〉はどんな芸術にも本質的価値があるとは信じない。……芸術は水増しされたまがいものとなり、あまりにも皮相的な、その時代を消費する倫理となってしまった。〈私〉は意識的に、そして無意識的にも、かつて〈芸術〉という言葉を当てはめていたところに〈魔術〉という言葉を当てはめ、やっと具合よく感じている。 — Genesis P-Orridge
反知性主義というのは、かつては希望でもあった。活版印刷によって神の声は教皇から解放され、ワールドワイドウェブによって知識は専門家だけのものではなくなった。グルは呼びかけた。ターンオン、チューンイン、ドロップアウト。そしてサイバー空間にジャック・インせよ。まず始めにジャックがあり、ジャックにはグルーヴがあった。音楽は頭から体に降りてきた。1984年は1984にならず、ブラザーもシスターもボリュームを上げて踊った。そして今日の我々——夜な夜な止まらないダンスミュージックでステップを踏むトライブ——となった。
しかし、情報の民主化に役立った活版印刷は、同じように魔女狩りを広め、家父長制的な権力維持のために多くの犠牲者を出した。ワールドワイドウェブによって解放された知識から学ぶ者は少なく、多くはその怠惰の後ろめたさを誤魔化すために知性を攻撃した。怠惰な臆病者たちは大衆を名乗り、我々の欲望に応えることこそが物事の存在価値であると宣言した結果、テレビタレントと政治家に本質的な違いは存在しなくなり、街はプリミティヴな欲望の生産と消費のためのマシンに覆われた。
現在の日本の文化的アイデンティティの一翼を担うアニメ業界では大御所声優が排外主義を煽り、参議院選挙を控えたポピュリスト政党は、ゼノフォビアを利用して票を獲得しようと躍起になっている。その大御所声優を排外主義に導いたものは、大衆の暗い欲望に応えることで多くの再生数を獲得しているYouTuberであった。「このハンバーガーとコーラは世界で一番売れている。だから世界で一番美味いものに決まってるだろ。」というセリフは、もはや皮肉として機能せず、得票数や再生数、売り上げがその存在の正当性を決めるものになり、1984年が1984にならないという広告は、マーケットという構造的なビッグブラザーの存在を隠すための巧妙な目隠しとして機能することとなった。
ダンスフロアに戻る。法律で規制された反復するビートと、切り刻まれて繋ぎ直された声は、巨大なサウンドシステムを流れる電流と鉄骨やコンクリートからのレスポンスによって増幅され、私たちに陶酔と集団的多幸感をもたらし、分裂し接続し続ける音と欲望を共有するリゾーム的トライブを生成する。テクノロジーの進歩と民主化は、正式な教育や理論の外側に新たな音楽と喜びの領域をもたらした。調律の外れたコードは調和と調教のコードを書き換え、享楽と解放のためのコードへと変化し、我々を接続している不可視の黄金のコードを定義する。サイバーパンクの父がサイバー空間を合意された幻覚と表したように、ダンスフロアもまた合意された幻覚であり、その幻覚の陰でコードを走らせるのはハッカー、あるいはDJだったが、サイバー空間が巨大資本のプラットフォームによって区画整理されてしまったように、ダンスフロアも資本の植民地化から逃れられず、幻覚のコードを走らせていた者たちの多くは新しい地主である数字に仕える事になった。欲望も喜びも解体された、意味消失の果ての数字に。資本主義のマトリクスの網目にかかったままでの「欲望の解放」のための全てのプロジェクトは、ただ欲望の商品化へと導かれ、24時間営業のコンピューターバンクのロビーで奇妙な踊りを踊ることはTikTokのバズのためになり、照明を浴びたDJはブースの中でバク宙を決める。
反知性主義は物事の判断基準——善悪すらも——を知性の元から大衆のプリミティヴで個人的な感覚や感情の元へと引きずりおろした。怠惰な臆病者はその個人的な感覚をもマーケットに委ね、正しさや優良さと売り上げや支持数とを逆流/循環する、数の倫理のウロボロスを形作る。世論調査の結果を選択的夫婦別姓や同性婚の推進に利用しようとするリベラルも、続々と排外主義に乗っかるポピュリスト政党も、ラッパーのビーフの勝敗を再生数や稼ぎ具合で決めようとするファンダムも、同じ数の倫理を共有している。
かつて貴族らが自らの優位性を温存し続けるための隠れ蓑として資本主義は産み出され、階級を意識させないようにするための数々のプロジェクトを経て今日に至っているが、全てを数の倫理で理解することが自然となってしまった現在において、その隠れ蓑は完璧に役割を果たしていると言えるだろう。ポストモダン的な価値の転換や、新たな価値の創出はマーケットのためにおこなわれ、かつて反知性主義が夢見た官僚主義的な知から解放された意識も、大衆的=ポップというテーマパーク的マーケットで列をなしている。
ポップスが数字に仕えていることは、もはや公然の事実であるが、アンダーグラウンドやサブカルチャーの着ぐるみを被りながら数字に奉仕する者たちが大手を振って歩いている現状は、その数字が権威を温存/隠蔽するためのものであるという構造を踏まえると、ポストモダンや反知性主義の終着地点としては悲劇的であると共に、ボディースナッチャー的な恐怖を感じる。
射精ありきのセックスが人々を孤独にさせるように、キャリアやマーケットからの要請に応答するためにおこなわれる表現からは神秘性が失われる。我々が欲するものは、キャリアやマーケットへの貢物としての結果ではなく、プロセスや対話として我々の精神に影響を及ぼす魔術なのであり、集団的多幸感のコードの残滓を舐めながら演じる、ポルノ的なマダム・タッソー蝋人形館の犠牲者役ではなく、まだ名前のない我々の欲望に居場所を与え、幻覚を共有する生きた共同体/トライブ、あるいは集団で見る夢そのものなのだ。
現代魔術において、そのスタイルは魔女の数だけあると言われているが、マーケットへの生贄として形作られてゆく身体から抜け出し、自身の発火する精神を、仲間のそれと溶かし合わせようとする行為は、総て魔術的な色彩を帯びはじめるのではないだろうか。魔術に関するテキストにおいて頻繁に実践という言葉が使用されるのは、魔術とは結果ではなく過程で、流動的かつ越境的で定まっておらず、ゆえに名前も与えられていない状態のなかで生まれるからではないかと私は感じている。
私個人の魔術の実践として始めたプロジェクトTemple Ov Subsonic Youthは、私の身体にサイボーグ的な歪さを持って馴染み、脈打つドラムマシンや胎内のように快適なノイズを奏でるシンセサイザーは、DJという行為が極めて肉体的/人間的であるのに対し、「半分人間」的な感覚をもたらした。このプロジェクトは快楽と苦痛の交換であり、受動と能動どちらか一方ではなくコミュニケーションであり、自他と人間とマシンのあわいを渦巻くダンスを形成することを目的としている。資本主義のマトリクスの網目から逃れた「欲望の解放」のために。
我々はこの数字の世界のなかに、束の間であっても、新たな魔術的トライブを形成することができるのだろうか。新たな魔術的トライブのための時空を切り開くことができるのだろうか。私はクローム塗装のマシンにジャック・インし、トグルスイッチを跳ね上げる。手探りで無段階調整のノブを回し、輝く座標を探し出す。そこで我々の肉体の輪郭を司るのは、低音という培養液の中で分かち合うテクノロジーの夢、金属化した興奮であった。
今回のテキストは意図的に「わかりやすさ」を優先せずに書いている。そんなテキストをここまで読んでくれた方々にまず感謝を。本文中には多数、書籍やセリフなどからの引用が含まれているが、ダンス・ミュージック的なサンプリングコラージュをおこなうために、元の意味から意図的に切り離して使用している箇所があることを留意していただきたい。本稿はクラブ・カルチャーの成り立ちにポストモダンや反知性主義が深く関わっていること、そしてDJはフロアの欲望に応答する必要がある存在でいながら、ウケればなんでも良いのか? という問いやジレンマを抱えているということを踏まえ、そのカルチャーのなかにいる者としての責任の下、歴史の延長線上に新しい領域を見出すため、知性/反知性、そして価値を再構築し、暗闇を再魔術化するための実験/実践としてのテキストである。