Home > Reviews > Album Reviews > Baths- Ocean Death EP
表題曲の“オーシャン・デス”、「海の死」はミニマル・テクノ……いやハウスだ。ダークな低音、キックのストイックな反復にじょじょに重なっていく女性ヴォーカルはエレガントでセクシー。ゾクゾクするほどスリリングなダンス・トラックでこのEPは幕を開ける。が、耳がどうしても追ってしまうのはその奥で聞こえるノイズというには何やらクリーンで微細な音の粒子、そのざわめきである。バスがよく使用する雨音のサンプリングもあるだろうか、さわさわ、プチプチ、チャプチャプ……というような。そして、2分半過ぎにやってくる波の音。ここでジャケットをじっくり眺めたい。どこか終末もののSF映画を思わせるような不可侵な佇まいの「世界」がそこにはあり、そしてそれはバスのインナーワールドそのものである。IDMをハウス化したフォー・テット『ゼア・イズ・ラヴ・イン・ユー』(2010年)がある流れを決定づけたことをいま改めて思う。その先で鳴っている“オーシャン・デス”はたしかにフロア受けするだろうビート・ミュージックでありながら、そこでひそかに息をしている小さく繊細な音たちを見つけることこそがバスを聴くことなのだと思う。
『オブシディアン』収録の“アース・デス”に対応しているであろうタイトルを持った5曲入りEP。その“アース・デス”、「地球の死」にはあった地面に身体を叩きつけるような烈しさと比べてみると明らかだが、全体としてより洗練されたムーディなメランコリアが聴ける。アンニュイなピアノ・バラッドにリニアなリズムが入ってくる2曲め“フェイド・ホワイト”のオーガニックな質感の演奏にはもはや「LAビート・シーンの」という枕がよけいなものに思えてくる。『セルリアン』を思わせる聖性を帯びたハーモニーに溢れたアンビエント・ポップ“ヴォイヤー”、もっとも素朴な歌が込められた残響音が重なり合うようなシンセ・ポップ“オレター”、それらは表題曲に比べれば控えめだが先の2枚で試みたことからの断絶はなく、しっかりと磨き上げられている。
「きみの身体を僕の墓場に埋めて(“オーシャン・デス”)」……相変わらず、死のイメージが抜き差しならないリレーションシップへの欲求と重なっていることも見逃せない。「太陽が消滅したところできみを待っている」だなんていちいちモチーフが大仰だし(セカイ系……と言うべきなのか)、「僕はべつにきみを愛してはいない、愛してはいない」と繰り返さねばならない切実さが胸を刺す。バスの作る音には内向的な青年の内側でざわめくエモーションが流れ出ていて、それが烈しく噴出したのが『オブシディアン』だったとすれば、この『オーシャン・デス』ではその狂おしさのなかを心地よく浮かぶようだ。そしてそうした思春期的なモチーフ、ナイーヴでフラジャイルな愛の歌というのは、バスが関わっているようなヒップホップやIDM周辺のビート・ミュージックではかつては立ち現れにくいものだったように思うが、たとえばライアン・ヘムズワースやノサッジ・シングなどを並べてみると共通のムードがぼんやりと浮かんでくる。きわめてパーソナルなバスの表現における現代性はそこだろう。
ラストのバラッド“ヨーン”はそうした意味でも、サウンド面でも、非常にバスらしさが自然に湧き出た美しい佳曲だ。柔らかなタッチのピアノ、カリカリ、ガリガリと左右に動くプログラミング、降り注ぐコーラスと、その狭間を転がるような小さな音の粒、そして愛の意味を問うナイーヴで正直な歌声。だがその最後で描かれるのはバスのセカイではない。か弱そうな青年がそこで、その外側の世界を静かに見ていることが何やら予感めいていて、ドキリとさせられるのだ――「まるで永遠に移り行く樫の木のように、世界はあくびをして 前に進んでいく」。
木津毅