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対談

対談

半世紀を経て蘇る静岡ロックンロール組合

文:鷲巣功    Sep 21,2022 UP

 ときは1973年。ブルースとロックンロールを愛する静岡の高校生たちは「静岡ロックンロール組合」を名乗り、情熱の赴くまま1枚のレコードをつくり上げた。題して『永久保存盤』。21世紀になり一度CD化され、ロウファイ・ガレージ・ロックの文脈でも再評価された同アルバムが、アナログ盤として半世紀ぶりに蘇る。音質重視の12インチ45回転2枚組で復刻される同作について、オリジナル・メンバーである鷲巣功と、巣鴨のモッズ・バンド「イギリス人」の黒沢ビッチたつ子りんが語り合い、そして以下、鷲巣氏自らが記事を執筆してくれた。(編集部)


和気あいあいと話すふたり。向かって左がたつ子りん、右が鷲巣功。

 「マトイチ」という言葉をご存知だろうか。CDが登場する前も塩化ビニールのレコードというアナログ音楽録音作品は、発表前にA / B面の曲をそれぞれの間を取って順番に並べ、全体の最終的な音量や音質などを調整する「マスタリング」行程が、盤に溝を切り込む技師(カティング・エンジニア)によって仕上げられていた。その際、完成したレコード盤にはレイベル付近の溝のないところに、カティング・エンジニアの自筆で「matrix 1」という爪痕が刻まれる。「完成作品第一版」の証しだ。
 いま世の中ではロック名盤の「完成作品第一版」が密かな人気で、「マトイチ」と呼ばれているそうだ。中には酷い音量、音質で世に出された盤も多く、極端な例としてはA / B面が逆になっている不良品もあるという。もしこれが有名グループのものであったらば、郵便切手の「エラー」印刷と等しく、驚異的な値段で取り引きされそうだ。
 「マトイチ」からは初回ロットとして一定の量の複製、つまり一般的に言えば、商品としてのレコード盤が産み出される。後任の担当者がそのマスタリング状態に不備不満を感じてカティング作業をやり直す場合もあり、そうすると「matrix 2」になるので、「マトイチ」はそこで葬られ、余計に貴重となる。昨今では、誤字脱字誤植が山のようにある初版本のような価値が付くらしく、この領域にも好事家が出現し始めたらしい。
 先日ある場所で、マーヴィン・ゲイの “レッツ・ゲット・イト・オン” は、イギリスで出た17cmシンゴー盤の音が一番だ、と聞いた。その伝説をわたしは知らなかったので、急にこのシンゴーを欲しくなった。ただし、この噂は発売直後からあるらしいので「マトイチ」でなければダメだ。生きている間に “レッツ・ゲット・イト・オン” のイギリス・シンゴー盤、その「マトイチ」に逢えるだろうか。
 今回の対談の相手役であるモッズバンド「イギリス人」のヴォーカルのたつ子りんは、この「マトイチ」を集めているそうだ。形よりも実を取る性癖のたつ子りんは、盤が「マトイチ」ならばジャケットなどボロボロでも構わない、という徹底ぶりで恐れ入る。
 ブライアン・ジョーンズに憧れてハモニカを吹くところから本格的に音楽と触れたという彼は、新宿のロフトでアナログ・レコード・コンサートのDJを務めたりしていた。冴えたオーディオ感覚を持つ若い世代のたつ子りんには、今回蘇ったこのアナログ「『永久保存盤』マトイチ」を是非とも聞いて欲しかった。

 「僕は『永久保存盤』のマトイチをまだ聞いたことがないので、この音は非常に新鮮ですが、50年前のマトイチはどんなだったんですか」
 冒頭、45回転30cmLP2枚組A面の “シャンのロック” と “レインボウ・クイーン” を聞き終えた後、たつ子りんからこう聞かれた。
 『永久保存盤』は1973年5月に30cmLPの形で世に出た。手許にある発注書を見るとプレスは全部で70枚だ。7人のメムバはもちろん、周囲の関係者にも御礼として配ったから、多分それで殆どが無くなってしまった筈だ。わたしは古くからの友達に在庫1枚を売った覚えがあるが、それで制作費が取り戻せた訳ではない。
 その「マトイチ」の音はひどかった。田舎の子供はマスタリングという行程がある事すら知らずに、マスターたる4トラック19cm/sec.のオープン・リール・テイプを、プレスをしてくれる会社に持ち込んだだけだ。しかもA / B面とも20分を超える演奏時間で、既にその時点で良い音にするのは無理だったのだが、初代マトイチはそれを通り越したもっと酷い音だった。わたしですら針を落として、「あれえ」と違和感を持った。
 だから20年前にこの「名盤」が発掘されて水面下で小さな話題になった時に、わたしはたいそう悔しい思いをした。浜松駅前のレコード店では10万円という高値で買って帰った人が実在したという。その奇特なお方にも、せめて「絶対不変的な良い音」で「おお、これは」と言わせたかったのだ。
 発掘後の再発CDの音には不満はない。あの時点で精一杯の結果だ。そもそもこの『永久保存盤』は、決してオーディオフォニックな音ではないのだ。現場で関わった誰もが、その種の感覚を持ち合わせていなかった。故にもう少し良い音で塩化ビニール盤を刻って欲しかった。と、ここまでは、全て恥ずかしい言い訳である。
 今回は45回転30cmLP2枚組だ。アナログ・レコードにこれ以上の条件はない。実際「良い音」で出来上がった。あの時の「4トラック19cm/sec.のオープン・リール・テイプ」の音が出ている。これが正規の「マトイチ」だ。今から50年前の1973年春、殆ど国産の民生機材で、田舎の素人集団が、ここまでやれたのだ。

 「そのころ世界的な流行の波は2~3年遅れて日本に入って来てたんですよね。静岡となると、そこから半年くらいは更に遅くなったんですか」
 年齢不詳の、モッズバンド「イギリス人」のヴォーカリストたつ子りんは、
 静岡市に接している清水市で生まれ育った。わたしとは相当に歳が離れているから、あの田舎町界隈での音楽活動時期が重なってはいないが、彼があそこでどうやって音楽を続けていたか、という事には深い興味があった。
 今は政令都市静岡の「清水区」となっている旧清水市は、50年前にも国際貿易港を擁した活気ある町だった。「軽音楽」にイカれた青少年が大勢いて、その動きは派手だった。おしなべて清水の人間たちは聞いている音楽、持っている楽器、表現法、更には着ている物まで静岡ロックンロール組合員たちとは全然違っていて、カッコ良かった。周りにはいつも婦女子が群がっていたし、雑誌に出て来るような存在だったのだ。演奏会などで顔を合わせる度に完敗だった。
 その中のスターが河島信之という男で、わたし達よりひとつ年上、静岡市内にある県立工業高校の機械科に通っていた。1972年当時からグレコの、コピー・モデルだが、レスポールを弾いていた。わたし達はそれだけで大騒ぎだ。後に「すみれセプテンバーラヴ」の一風堂で知られた富士市の土屋昌巳でさえ、当時はヤマハのセミアコ(—スティック・モデル)の安い方だったのに。
 河島信之は音楽に理解のある環境で育ったようだ。家を訪ねたら、グランド(・ピアノ)があって驚いた。静清地区を総ナメにした後は東京に出て来てエアーズというグループで、華々しくデビューしている。
 東京都渋谷区に本校所在地を持つけれど、その発祥は清水市である東海大学付属の第一高等学校、そして工業高校があった事も関係しているのか、清水市の人間たちは、県都の静岡市ではなく東京の方を向いていた。それがたつ子りんの世代ではどう変わっていたのかにも興味はあった。東海一高と工業は1999年に一緒になり、今は東海大学付属静岡翔洋高等学校となっている。

 「結局のところレコードは静岡まで買いに行きました。それか最寄りの店で取り寄せてもらうようなやり方でした。ジミヘンを聞いてワウワウの音に異常な興味を持ちまして、それがギターだと教えらえて、自分で買ったのがなんと生ギター。当然クライ・ベイビーは繋げなかったんです。そのくらい周りに情報は全く無く何も知らなかった。親戚にひとりだけ、サム・クックを知っている人がいた程度です。その人はアメリカ大陸を放浪したりしてたヒッピーでね。その後にオーティス・レディングを聞いて、いいなあ、と思うようになりました。当初はレコード・クレジットをそのまんま信じて、セックス・ピストルズにシド・ヴィシャスとグレン・マトロック、ベーシストが二人が居るじゃないか、じゃあ俺たちにも二人必要だって決めた位なんです」
 まるで笑い話だが、たつ子りんの時代でも情報は不足気味で正確さに欠けていたようだ。加えてそれが上手く理解出来ていなかったという点でも、わたし達の頃とはあまり変わっていない。

 「小学生の時に、同じ町にドラムが出来る奴がいるって噂が耳に入りました。セットも一式持ってて、美術系の父親のアトリエでいつも叩いてるって言うんです。実際には会ったこともないのに、僕はその存在をとても意識しました。その町一番の太鼓叩きとは中学校で一緒になったので、すぐふたりで音楽を始めて『これはイケる』と直感しましたね。でも他のメムバはなかなか決まらなくて。出来そうな奴なら誰でも、っていう具合ですから、ある時にはギターが4人だったりね。特にベイスの人材ではずいぶん苦労しました。演奏技術じゃなくて、やる気があるかどうかですね。練習はよくやりましたけど、上手い奴が下手な奴に演奏を教えて1日が終わるんです」
 彼らの「練習」の様子が目に浮かぶ。手に取るように想像出来る状況だ。この辺もあまり変わりはない。
 「人前で演る機会はあんまりなかった。出られる状態でもなくて、そもそもライヴハウスがない。ハコみたいのはありましたが、そういう所に出入りしてるのは本当に悪い人間だった」。ほとんど同じだ。

 清水市一帯も静岡市と同じく温暖な気候で、陽当たりの良い山肌を利用してミカン栽培をしている農家が多い。
 「ミカンを出荷前に仕舞っておく倉庫で初ライヴしたなあ。エレキを使っての初ライヴは、山の上の作業場までロープウェイで楽器を運んで、自分たちでやりました。電源はバッテリーを使った筈です。それとそこに置いてあった発電機かな。ブヲーってその音がずっとうるさくてね」
 これは涙ぐましい武勇伝である。「ロープウェイ」と言うのは、それぞれの農家が独自に持っていた、山で摘んだミカンを麓まで降ろす電動設備だ。子供たちはこれで遊んでよく怒られていたという。危険なのだ。荷物を積むところは籐で編んだ籠である場合が多く、少なくともアムプやドラムズを運ぶには敵さない。だが若い力の向こう見ず精神は、非現実的事実を実現可能にしてしまう。
 「そこに仲間も呼んで気分はウッドストックでした。ガンガン演っていい気分になってたら、山の中とは言えどこかから騒音の苦情が出たらしくて、親たちが集まって来ちゃって、とても厳しく叱られた。夕方の帰り、山道は真っ暗闇でした」
 そうか、偉いぞ。環境が無ければ自分で造るんだ。音楽を志すなら、このくらいの頑固な思いは絶対に必要だ。

 「このLPは収録順に演奏して録音したのですか」、たつ子りんからの次の質問はこれだった。
 「一曲目と二曲目の音の違いに驚いたんです」、たつ子りんはこうも言った。
 これは正しい指摘である。“シャンのロック” と “レインボウ・クイーン” には明らかな違いがある。“レインボウ・クイーン” は確かに作者であるわたしの頭の中に仕上がった時の響きがあったが、結局は始めから終わりまで通して演奏しただけだし、他の曲でも楽器の持ち替えとか演奏者の入れ替えは殆どない。全曲で全員が担当楽器を持ち場で演奏している。ミクス・ルームでプレイバックを聞きながら音楽を詰めて行く余裕など、全くなかったのだ。
 「この “レインボウ・クイーン” が2曲目に置かれている事で、全体の印象がガラッと変わりました。このアルバムの世界観を作っているような気がする」
 それが良かったのかどうかは、分からない。ただ当時わたし個人は、もっとポップなロックンロールを演りたかった。婦女子から「キャー」と騒がれたかった。男同士の汗臭い世界にウンザリしていたのは事実だ。
 謎の多い録音詳細によれば、これらの楽曲は1973年3月22日に11 曲の全てが録音された事になっている。数十年ぶりにこれを読んだ時、わたし自身も信じられなかった。「まさかひと晩で……」全員18歳の浅学非才な子供たちがこんな事を仕上げるのは無理だ。ただ、最近ではこのデイタを事実として認めるようになって来ている。
 それまでに数日間のセッションはあった。初日に “お金がいちばん” を録って聞いたプレイバックの興奮は今も忘れられない。ただし、わたし達の音楽に精通した専任の録音技術者がいたわけではないから、ミクスもヘッタクレもなく、当然ながらそのテイクはボツになった。
 録音場所はNHK静岡放送局が入っていた建物の「第一スタジオ」だ。ここは天井が高くアップライトながらピアノも置かれていて、NHKが移転した後も市内の健全な合唱団や弦楽器演奏家たちが練習の場として使っていた。「軽音楽」にイカれた不良どもは、休日の工場や寺の境内、騒音に寛容なメムバの家などでエレキをかき鳴らすしかなかった頃だ。“シャンのロック” のイントロで「県民会館第一スタジオ」の音響が少し分かる。
 以前にここを訪れた機会があったわたしは、入って右側に大きなガラス窓があるのに気づいていた。内側からカーテンが引かれていて内部を見ることは出来ないが、これが「調整室」であるのはすぐに分かった。
 「ここなら『雑誌に載っていた写真』で見たようなレコーディングが出来る」。映画『レット・イト・ビ』の場面が心に浮かんだ。静岡市内でマトモな録音が出来るのは、ここだけだ。少なくとも当時わたし自身は他を知らなかった。
 「静岡県民会館」となっていた建物は静岡県の管轄で、第一スタジオの調整室跡は貸し出しの対象外だ。わたしは窓口の女性を努力と忍耐で説得し、使わせて貰った。そこは長いこと放置されていた全くの空部屋で、周辺から強制的に供出させたテイプ・デッキやミキサー卓を置く机すら外から運び込んだ。マルチ・ケイブルなど誰も見たことがない時代で、演奏ブースと調整室の間には数本のコードが通せる細いパイプが通されているだけだった。毎回の録音セッションは、そこに12本のマイク・シールドを通して二つの部屋を電気的に繋ぐ事から始まる。これは大変な作業だったが、ギターの孝弘がすぐに慣れて素早く出来るようになり、大いに助かった。
 楽器や録音機材をリヤカー他の人力で運び込んで設置し、このケイブル通しを行うとそれだけでもうグッタリだ。その後に本来の歌唱と演奏が待っている。わたし達のバンド屋稼業は重労働の連続だ。既にその頃は最も厄介な学業から全員が逃れられていたが、「雑誌に載っていた写真」のように、調整室内で「プレイバックを聞きながら音楽を詰めて行く」どころではなかった。だからひと晩で通しの演奏を録ってそのまんま、というのは事実ではないだろうか。

文:鷲巣功(2022年9月21日)

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Profile

鷲巣功/Isao Washizu鷲巣功/Isao Washizu
1954年静岡市生まれ。ライター、ラジオDJ、イベント制作、CDのプロデュースなどなど。80年代はランキン・タクシーのマネージャー、またほぼ同時期に河内音頭の研究と普及活動もはじめる。現在は首都圏河内音頭推進協議会の議長を務める。高校時代に静岡ロックンロール組合を結成、1973年に発表した自主制作盤『永久保存盤』は2008年に再発されている。

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