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イタリア系のアンドレア・オットマーニによる『驚異(Thauma)』と題されたデビュー・アルバム。これまでにリリースされたダンス系のシングル群とは少し趣きが変わり、アンビエント・ミュージックの文脈に多くが委ねられている。ダンス・ミュージックのプロデューサーにはありがちなことだけれど、ダンス系のシングルを連発しながらいざアルバムとなるとアンビエント・ミュージックにスライドするというのはエイフェックス・ツインやジョーイ・ベルトラムの90年代から最近のサラマンダに至るまで常態化したフォーマットといえ、ダンスフロアを意識しないで音楽制作をするということはそのようになりがちなのかなと。とはいえ、ビッグ・ハンズはここ8年にわたって様々なパーカッション・サウンドにこだわってきた存在だっただけに、その先に見たかったものとは異なる景色が開けたことは良くもあり悪くもありで、DJもまた素晴らしいだけに残念に感じる面もなくはない。『Thauma』を制作した動機としては嵐のなか地中海を横断し、その間に彼が2夜連続して見た夢を音で再現することにあったそうで、それがきっかけとなってアルバムをつくろうと思っただけマシなのかもしれないけれど(どんなにいい曲を連発してもダンス系のプロデューサーでアルバムをつくろうという人は滅多にいないし、エイフェックス・ツインがローリー・Dの音源をまとめたように10年後にコンピレーションがつくられればいい方なので)。
8年前に「Redline Greenline」でデビューした際、オットマーニの関心はグライムやブレイクビートにあったらしい。当時のベーシック・リズムやリアン・トレナーに倣ったか、骨組みだけのシンプルなビートを打ち込み、リズム以外の要素にはあまり興味を持っていなかったことがいまさらながらに確認できる。同じ年の暮れにはパーカッシヴ・サウンドを基調とした7曲入りのEP「Arcane Mosaics」をリリースし、ダブ・テクノを重要な要素として加えたことでその後の雛形が整っていく。2年後にはイギリスに移動し、ソレアブ(Soreab)ことダリオ・ピッチと共に〈Baroque Sunburst〉を設立、レーベル名と同じタイトルを冠した「Baroque Sunburst EP」をリリース。一気に洗練されたというのか、それまでよりもアトモスフェリック重視のサウンドになり、ドラミングは明らかにスピーカー・ミュージックの影響を受けている(つーか、マネ?)。一方のソレアブがつくるサウンドはもっとハードで、2人の接点は見出しづらいところがあるにも関わらず、〈Baroque Sunburst〉は「〈Honest Jon’s〉が運営するベース・ミュージックのレーベル」と評されることになっていく。
コロナ禍に入った2021年には2枚の重要なEP、「Lakamha」と「Ossario」が続く。オリジナリティという意味でも充分な貫禄を見せた「Lakamha」はとくに素晴らしく、ゆっくりと踏みしめるように進むビートが印象的な “Calix's Head” はダブ・テクノとドラムン・ベースをミックスした傑作となり、早くもオットマーニの才能が最初のピークに達した感がある。ダブ・テクノとドラムン・ベースの融合は2017年にDV1が “Kalt” や “Feld” といった曲で少しやりかけていたけれど、ここまで見事なものではなかった。同じくダブ・テクノに新たなヴィジョンを切り開いた “1346” はペストが最初に流行り始めた年をタイトルにしたもので、8分を超える “Louis H. Theme” はどことなく鎮魂歌の響きも。神話上の洪水を表した「Lakamha」に対して、コロナ禍がもたらした結果ということなのか、納骨堂を意味する「Ossario」はいまとなっては『Thauma』への布石であり、パーカッションの響きが催眠的な効果を持つタイプに変化した最初となった。細かく刻まれるビートが躍動感よりも瞑想を促す精神的なアドヴァンテージを高め、日本で輸入盤を扱うショップやサイトが彼の作品を「Fourth World」という形容詞で紹介したがるのも納得がいく。「Ossario」をリリースした〈Blank Mind〉はまた、ベース・ミュージックをリードするレーベルであるにもかかわらず、やはりコロナ禍に合わせてということなのか、同じ年にアンビエント・ミュージックのコンピレーション『Comme de Loin』を企画して、オットマーニもマリョレイン・ファン・デル・ミーア(Marjolein van der Meer)との共作 “Kitty Jackson” を提供し、これが彼にとっては本格的なアンビエント作品になった。
自ら設立した〈Baroque Sunburst〉を含め同じレーベルから1枚のシングルしかリリースしないオットマーニは珍しく〈Blank Mind〉からはもう1枚、「A square, a circle」(23)もリリースしている。ここでは「Ossario」でスピッた感覚を引きずりながらパーカッションの比重は変えずにベース・ミュージックよりもリスニング・テクノの領域に寄せた3曲が試行され、タイトル曲は「四角、円」というタイトルと呼応するように多角形を意味する “Polygon Window” そのままに聞こえる。この辺りの風の吹き回しがなんだったのかよくわからないけれど、ダブ・テクノが視界から消えてしまったのはちょっと驚いた。企画ものがいくつか続いた後に、今度はダブ・テクノずっぽりの「The Vulgarity Of Snow」(24)をリリース。ベーシック・チャンネルの基本に戻ったような導入から方向性は雑多なダブル・パックで、単なるお蔵出しなのかもしれないけれど、早くもなにがやりたいのかわからない時期に突入した印象を受けてしまう。「Lakamha」に漲っていたテンションが一向に回復しないため、この辺りで離れてしまったファンも多いのではないだろうか。少なくとも僕はそうだった。しかし、今年の始めにリリースした「Bacchanalia」ではそうした懸念をオットマーニは完全に払拭。ダブ・テクノの酩酊感とドラムン・ベースの緊張感を回復した「Bacchanalia」には「Lakamha」の次が見えたという感覚があり、曲調の幅広さにも未知のポテンシャルは感じられた。 “Bacchanalia III” で細かく刻まれる小さな金属音など繊細な音処理にも一段と磨きがかかり、次のシングルも期待できるぞ……と思ったところで、2ヶ月後にアルバムが届いた。上に書いたようにアルバムをつくるタイプではないと踏んでいたので、これはまさに不意打ち。しかも初めて「Jazz」というタグが付けられていたので、期待と不安が一気に高まり、クルスク州を奪い合うロシアとウクライナのようにどちらも全身全力で想像力を掻き立ててくれる。
アルバムは冒頭にも書いたように予想外に「アンビエント・ミュージックの文脈に多くが委ねられて」いた。地中海で行ったフィールド・レコーディングを縦横に駆使し、ヴォイス・サンプルを重ねて幽玄なムードを醸し出す導入からそれまでのビッグ・ハンズではなく、だらだらと肩の力を抜いたサウンドが展開され、続いて “Calix's Head” を骨抜きにしたような “Fuoco Lento” では湿地帯を歩き回るようなリズムとパーカー&カーペルによる管楽器の組み合わせがなるほど「Fourth World」というキーワードに説得力を感じさせる。 “Fuoco Lento” にはエイブラハム・パーカーとアンドレア・オットマーニ、さらにパレスティナのビント・ムバレ(Bint Mbareh)と日本の高橋勇人で構成される「オットマーニ・パーカー」の演奏がフィーチャーされている。高橋勇人はいつのまにミュージシャンになってんの? という感じだけれど、口承伝説の収集家でもあるビント・ムバレは水の研究を通して様々なパフォーマンスを展開してきた現代アートのパーフォーマーとして知られ、ニコラス・ジャーと組んだ「ウォーター・イン・ユア・イアー」ではミシェル・レドルフィが長らくコンセプトとしてきた水中で音を聞くプロジェクトを推進。「ウォーター・イン・ユア・イアー」はナショナリズムや経済学といったあらゆるシステムの批判を目的とした複雑な活動趣旨を持ち、簡単に説明できるものではないのでいずれ高橋勇人による詳細なインタビューを待ちたいところ。また、「Fourth World」というタグは音楽の分野ではイーノ&ハッセルの功績に依拠した輝かしい形容詞として使用されるワードだけれど、一般社会では「サンフランシスコはもはやFourth Worldと化している」というようにあまり良い意味では使われないので、音楽以外の場面で使うときには注意した方がいいです。
掛け値なしのアンビエントとなった “Cicadidae يَتَوقَّع” に続いてユースフ・アーメドのハンド・ドラムを起用した “Presagio - Hē thálassa hē kath'hēmâs” ではようやく往年のビッグ・ハンズへと回帰。「前兆」を意味する “Presagio” は「Lakamha」のヴァリエーションといえ、どうやら嵐の前の静けさを表現しているらしい。そこから突風が吹き荒れるのかと思いきや、曲調は再び穏やかなアンビエントに戻り、さらにパーカッションとサックスを強調した “Sticks and Stones” へ。「Jazz」というタグが付けられたのはこの曲のせいかなと思うけれど(ほかに思い当たらない)、バスター・ウッドラフ=ブライアントによるサックスはパワフルでピエール・モエルランズ・ゴングをなんとなく思い出す。続いてビント・ムバレが清涼なヴォーカルを聴かせる “A Juniper Tree Whose Roots Are Made of Fire - شجرة عرعار بشروشها نار و شرار ” は不安を煽りまくる曲調で、高橋勇人による催眠的なパーカッションがそうした雰囲気を倍増させ、「Fourth World」のダークサイドへずんずんと踏み込んでいく(ここがクライマックスでしょう)。木琴のような音を前面に出した “Tu Estómago (XVI)” もピエール・モエルランズ・ゴングみたいな小品で、パーカッションの叩き方がこれまでのどの曲とも異なる “In My Recurring Dream (Sekizinci Iblissin)” は夢から逃れられないという事態を客観的に描写したような不思議な静けさを表現。最後はユースフ・アーメドのドラムとバスター・ウッドラフ=ブライアントのサックスを戦わせた “Rinascita” (=再生)で、それこそいま夢から覚めました的なクロージング。「Lakamha」と「Ossario」で確立した音楽性を最大限に広げ、踊るという行為から身体性を解放した試みはそれなりの帰結に辿り着いたということになるのだろう。「Lakamha」と「Ossario」をさらにパワー・アップした内容のアルバムを聴きたかったという気持ちはまだ燻りつつも、これはこれでひとつの世界観を完結させていることは確か。
ダブ・テクノはパイオニアのモーリッツ・フォン・オズワルドが「まったく聞かない」と全否定していたことがあるようにエピゴーネンが多過ぎて、細かく追いかけるのがしんどいジャンルである。ポーター・リックス、モノレイク、ポール、シャトル358、ヤン・イエリネクと、2000年前後までは革新的な展開が次々と出てきたものの、オズワルド自身もジャズへと転身し、その後は大きく動くことはなく、2015年にイタリアのシェベルがグライムとダブ・テクノを、翌16年にジャマイカのイキノックスがダンスホールとダブ・テクノを融合させ、さらに17年にはイラン系のアリウォがアフロ・キューバン・ダブ・テクノを編み出した以降、目立った動きはなく、やはり様式性へと堕していくだけのジャンルに見えていた。それが今年に入ってシェレルのレビューでも触れたトルコ系のDJストロベリーがジュークとダブ・テクノを、河村祐介が紹介していたコンラッド・パックがニュー・ルーツ・ダブ・テクノを編み出し、さらにフランスのアワド(Aawadh)がハーフタイムとダブ・テクノを融合させ、またしても一時的に活況を呈している。ビッグ・ハンズの試行錯誤もこの流れとなにかしら共有している部分はあるだろうし、『Thauma』も「Fourth World」とダブ・テクノのミックスとしてカウントできる作品だといえる。
三田格