Home > News > Mark Fisher - ——いちどは無効化された夢の力を取り戻すために。マーク・フィッシャー『K-PUNK』全三巻刊行のお知らせ
こんなご時世であるから、当たり前だ。いろんな国でいろんな人が、政治的良心を歌に、曲に託している。もうずいぶん昔から、60年代から、良いことを言っている歌、メッセージ、そういうものはたくさんある。そしてそういう曲に熱狂したりする。だが、そのすぐ直後にため息が出てしまう人もいる。これが続いてほんとに自分は楽な気持ちになれるのだろうかと。あるいは、その熱狂にいまいち冷めている自分を責めてしまう人もいるかもしれない。抵抗とか反抗とか、威勢の良い言葉にいまいち乗り切れない自分はダメなのかと思ってしまう人だっていよう。マーク・フィッシャーという思想家は、言うなればそうした「ため息」の意味を解明し、そうした「冷め」をどうしたら「ため息」なしの熱狂へと、どうしたらほんとうに人が楽になれるのかをとことん考えていった人だった。
カウンター・カルチャーをお経のように何度も唱えることがカウンターでもなんでもない、いや、それこそじつは新自由主義のリアルであることはみんなもうわかっている。ひと昔前では雑誌がこうした文化をスタイリッシュに見せることに腐心したものだったが、過去を「すでに起きたもの」として語り直されること、懐古主義に還元されることは、あのとき爆発しようとしていた夢の力を無効化することであり、同時に、それは資本主義の新しい精神すなわち新自由主義に荷担することだ、とフィッシャーは考える。過去ほど安全なものはない。だいたい自由という概念は、パンクの歴史書『イングランズ・ドリーミング』にも書いてあるように権力の側に盗用されてしまったのだ。
しかしながら、過去の語り直しのなかで、きわめて政治的に、あるいは反動的に、抑圧され、消去された、潜在的な可能性があるのではないか、かつて60年代的な抵抗文化を嘲笑する側にいたであろうフィッシャーは、労苦から解放される世界へと踏み出すための考察において、そう思い立った。そして、70年代とは、60年代の二日酔い、運動の縮小化、しらけの時代などという一般論をひっくり返し、じつはその地下水脈において継続された「カウンター」がより躍動した歴史的な瞬間を調査する。
それは、若者のサイケデリック文化と呼ばれたものと労働者階級による労働運動という同じ時代を共有しながら反目し、乖離していたものをなんとか接続させることで、「60年代が新自由主義を生んだ」という定説を超えようとする試みである、とここでは言っておこう。集団よりも個人が大事という考え方を植え付けられる前にたしかにあった、「自由になりえたかもしれない世界」の亡霊をいま呼び起こすために。これがフィッシャーの未完の論考、その草稿となった「アシッド・コミュニズム」の入口だ。「資本主義リアリズム」が集団的不幸の理論であったとしたら、「アシッド・コミュニズム」は、そのアンチテーゼとなるべき「集団的精神構造」への未完の路線図だったとは訳者あとがきの説明である。この「アシッド・コミュニズム」という言葉を、フィッシャー自身も挑発的だが「ふざけた言葉だ」と自嘲するが、同時に「そこには真剣な狙いがある」と述べる。彼はそして、ビートルズとテンプテーションズのサイケデリックな瞬間(“ア・デイ・イン・ザ・ライフ”と“サイケデリック・シャック”)を引っ張り出し、論を進めていく——。
9月30日刊行の『K-PUNK:アシッド・コミュニズム——思索・未来への路線図』(セバスチャン・ブロイ+河南瑠莉・訳)にて、『K-PUNK』全三巻が揃う。既刊には、『夢のメソッド——本・映画・ドラマ』(坂本麻里子+高橋勇人・訳)、『自分の武器を選べ——音楽と政治』(坂本麻里子+高橋勇人+五井健太郎・訳)がある(全巻デザイン:鈴木聖/写真:塩田正幸)。これでマーク・フィッシャーの主要書籍は、すべて日本語訳になった。
マーク・フィッシャーをなんとなくの印象で語ってしまう人は、彼の「資本主義リアリズム」を「うちら資本主義に支配されているし、資本主義ダメじゃん」、という程度の話だと勘違いしていることが多い。あるいは「世界の終わりは想像できても資本主義の終わりは想像できないよね」、とか。いや、そういう話ではなく、彼が強調したいのは、そういう風に思わされてしまっている「リアリズム」の話なのだ。「リアル」なものなど信用するな。フィッシャーが「サイケデリック」すなわち意識の変容をいまさらながら再訪することは、たしかにひとつの道筋としてある。
『アシッド・コミュニズム——思索・未来への路線図』の前半に掲載された、生前彼がメディアで受けたインタヴュー集には、語り言葉で「資本主義リアリズム」を説明しているがゆえにもっともわかりやすいガイドになっている。また、ここには『K-PUNK』においてもっとも炎上し、もっとも批判され、もっとも物議を呼んだ「ヴァインパイア城からの脱出」も収録されている。SNSに見られるリベラルの過剰さ、近視眼的なアイデンティティ議論の洪水に疑問を呈している方には必読のエッセイで、これは訳者あとがきといっしょに読んで欲しい。
つい先日、話題の『HAPPYEND』がいま封切り前の映画監督、空音央氏に取材した際、きっと好きだろうなと『K-PUNK』全三巻を持っていったら、「フィッシャーじゃないですか!」と思っていた以上に喜ばれてびっくりした。まったく、嬉しい驚きである。原書で『資本主義リアリズム』を読み、「ものすごく影響を受けている」とまでいう空監督は、『K-PUNK』も原書で読んでいたようだった。彼に限らず、マーク・フィッシャーが2010年代以降、若い世代にもっとも影響を与えた思想家/批評家のひとりであることは、これまでで計5冊の訳書を出した経験からもよくわかっている。ぼくといえばフィッシャーの、音楽をはじめ映画やドラマ、SF文学などの大衆文化のなかから、じつに示唆に富んだ言葉や政治性、そして考え方のヴァリエーションを独創するその名人芸にずっと惹きつけられていた。日本で最初にフィッシャーを引用したのはぼくだと思う。フィッシャーがまだ生きていたころ、Burialのライナーのなかそれこそ彼のブログ「k-punk」からの一節をつたない日本語訳で引用した。彼はまた、『Wire』においてマイク・バンクスにインタヴューした人物でもあった。ぼくは彼のその記事で見せたデトロイト・テクノ論にも魅了されていた(URが標的にした “プログラマー” こそ「資本主義リアリズム」なのだし、フィッシャーはURがフィクションを通じてメッセージを伝えることに共感を寄せていた)。
フィッシャーは大衆文化にこだわった。労働者階級出身である10代の彼に、音楽こそが(高度な教育を受けていなければおおよそ出会うことのない)哲学や文学を教えてくれたからだ。フィッシャーが「資本主義を終わらせる」といういまではお決まりの科白ではなく、もちろん「労働を通しての自由」でもなく、「抑圧的な労働そのものからの自由」に向かったのも、彼が生涯を通じて不安定な経済状況のなかで生活してきたことも影響しているに違いない(『K-PUNK』は主にブログをまとめたものなので、そうした彼の生活感も垣間見れる)。前衛よりも大衆性の側に立とうとしたのも労働者が好む文化の肩を持ちたいからだろうし、しかし彼は単純化された物語に対する抵抗感も隠さず、「大いなる拒絶や異議申し立て」が時代の遅れのロマン主義であるという認識もあった。そんな手垢のついた「反抗」では「資本主義リアリズム」の時代に通用しない。もしくは、「オルタナティヴ」が資本主義文化とは相容れない「異なる生きたかのイメージ」としての文字通りの「オルタナティヴ」ではなく、「同じ生き方のなかの変人」の一種へと転じてしまうことも見逃さなかった。「オルタナティヴ」はそうなってはならない。あくまで、この社会とは相容れない「異」でなければ。フィッシャーは、研究と経験のなかで自分の思想を(それこそ過去の自分の言葉に執着せずに)修正し、執筆活動のなかでどんどんハードルを上げていった。「フィッシャーのヴィジョンに私たちはまだ追いついていない」、とホーリー・ハーンドンは語っているが、21世紀もそろそろクォーターに差し掛かっている現在、彼が残した診断がほとんど当たっている以上、その言葉はいまも未来への指針としての力を失っていない。(野田努)
K-PUNK アシッド・コミュニズム──思索・未来への路線図
マーク・フィッシャー(著)セバスチャン・ブロイ+河南瑠莉(訳)
K-PUNK 自分の武器を選べ──音楽・政治
マーク・フィッシャー(著)坂本麻里子+髙橋勇人+五井健太郎(訳)
K-PUNK 夢想のメソッド──本・映画・ドラマ
マーク・フィッシャー(著)ダレン・アンブローズ(編)サイモン・レイノルズ(序文)坂本麻里子+髙橋勇人(訳)