Home > News > RIP > R.I.P. Roy Ayers - 追悼:ロイ・エアーズ
クラブ・ミュージックを聴く者にとってジャズ・ミュージシャンと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、マイルス・デイヴィスでもジョン・コルトレーンでもなく、ロイ・エアーズだろう。それほどロイ・エアーズはクラブ・ミュージックと切っても切れないほど縁が深く、愛されてきたミュージシャンである。そんなロイ・エアーズが去る3月4日に亡くなった。長い闘病生活の末にニューヨークで家族に看取られて亡くなったそうで、享年84歳。2019年にブルーノートでライヴをおこなったのが最後の来日公演となったが、そのときは78歳ながら元気な姿を見せてくれていた。また、2020年にはエイドリアン・ヤングとアリ・シャヒード・ムハマドの『Jazz Is Dead』に参加し、その後も長く続くプロジェクトのきっかけにもなっていた。こうして現役の第一線で活躍していた彼がいつ頃から闘病生活を送っていたのかはよくわからないが、80歳くらいまでヴァイタリティに満ちた音楽生活を送れたのは彼にとって幸せなことだったろう。長く、そして濃密な音楽人生だった。
ロイ・エアーズは1940年9月10日にロサンゼルスで生まれた。5歳のときにジャズ・ヴィブラフォンの祖であるライオネル・ハンプトンからマレットをプレゼントされ、ジャズ・ヴァイブ奏者の道を志す。1963年にピアニストのジャック・ウィルソンのグループでレコーディングをスタートし、そこでヴィブラフォン演奏の土台を築く。当時の西海岸はウェスト・コースト・ジャズの全盛期で、そうした中で自身のデビュー・アルバムとなる『West Coast Vibes』も同年にリリース。ジャック・ウィルソンが全面協力したこのアルバムは、“Out Of Sight” や “Ricardo’s Dilemma” という素晴らしいモーダル・ジャズを収録する。後年のユビキティ時代とは異なるロイのクールな魅力が詰まったアルバムだ。
その後ニューヨークに移住し、フルート奏者のハービー・マンのバンドに加入。そして、マンが契約する〈アトランティック〉から1967年にリーダー・アルバムの『Virgo Vibes』を発表。チャールズ・トリヴァー、ジョー・ヘンダーソン、レジー・ワークマンらが参加したこのアルバムは、モードや新主流派といった1960年代のメインストリーム・ジャズの流れを汲むもので、こうした路線でハービー・ハンコック、ロン・カーターらと共演した『Stoned Soul Picnic』(1968年)、『Daddy Bug』(1969年)をリリースしていく。また、マンのグループで初来日した折、マン監修のもとカルテット編成で日本録音となるアルバムも発表している(ロイは日本のレコード会社と縁が深く、ユビキティ時代にも日本盤オンリーの『Live At The Montreux Jazz Festival』をリリースしている)。
こうして正統的なジャズの道を進んできたロイだが、〈ポリドール〉へ移籍した1970年にジャズ・ファンクへ方向転換した『Ubiquity』をリリース。以後、このアルバムからグループ名をとったユビキティを率い、『He’s Coming』(1972年)、『Virgo Red』(1973年)、『Red Black & Green』(1973年)、『Change Up The Groove』(1974年)などをリリースしていく。ユビキティの屋台骨を担ったのは鍵盤奏者でアレンジャーのハリー・ウィテカーで、後にブラック・ルネッサンスのプロジェクトを興したことでも知られる人物だ。ほかにもフィリップ・ウー、エドウィン・バードソング、フスト・アルマリオ、ジェイムズ・メイソンなど多くのミュージシャンが参加し、またアルバムによってディー・ディー・ブリッジウォーター、シルヴィア・ストリップリンらのシンガーも擁していて、ロイは彼らをまとめるトータル・プロデューサー的な立ち位置であった。ユビキティではヴィブラフォン以外に鍵盤も演奏し、歌も歌うロイだが、自分が前面に出るよりもこうした仲間のミュージシャンたちをサポートし、バンド全体で音を聴かせる方向性を持っていた。
モス・デフやケンドリック・ラマーらのサンプリング・ソースとして有名な『He’s Coming』の“We Live In Brooklyn Baby”に代表されるように、ユビキティ初期は硬質でアブストラクトなムードの漂う作品が印象的だったが、1975年の『A Tear To Smile』あたりからはグルーヴ感に富むダンサブルな楽曲が増えていく。ちなみにこのアルバムに収録された “2000 Black” は4ヒーローのディーゴがレーベル名にしたほどで、後世のアーティストにロイがいかに多大な影響を与えていたかを示している。
一方、『Mystic Voyage』(1975年)や『Everybody Loves The Sunshine』(1976年)にはメロディアスでゆったりとしたミドル~スロー・テンポの曲があり、後にメロウ・グルーヴと称される。時代的にはディスコが始まった頃で、ロイはいちはやくそうした要素を取り入れるなど、時代を読む嗅覚にも長けていた。ユビキティ最終作となった『Lifeline』(1977年)の “Running Away” はガラージ・クラシックでハウス系DJのバイブルでもあるし(同時にア・トライブ・コールド・クエストやコモンらのサンプリング・ソースとしても有名)、ソロ名義の『You Send Me』(1978年)の “Can’t You See Me” や “Get On Up, Get On Down”、『Fever』(1979年)の “Love Will Bring Us Back Together” はブギー・クラシックとして、後年になっても長く聴かれ繋がれる。
『Let’s Do It』(1978年)の“Sweet Tears”(『He’s Coming』収録曲の再演)は後にニューヨリカン・ソウルで自身も参加してカヴァーする。マスターズ・アット・ワークとは縁が深く、『Feeling Good』(1982年)の “Our Time Is Coming” も後年に彼らとコラボしてセルフ・カヴァーしている。ヒップホップ、ハウス、クラブ・ジャズ、レア・グルーヴなど、あらゆる方向のDJやクラブ・ミュージック・ラヴァーからリスペクトされたロイ・エアーズである。
1960年代、1970年代、1980年代と時代によって音楽性を変化させたロイだが、それは好奇心や探求心が旺盛だったことの表れでもある。1979年にアフリカ・ツアーをした際に前座を務めたフェラ・クティと意気投合し、『Music Of Many Colors』を制作する。1981年に『Africa, Center Of The World』をリリースするが、これはフェラ・クティとボブ・マーリーに捧げたもの。1983年の『Lots Of Love』収録の “Black Family” もフェラ・クティとの共演からインスパイアされたもので、アフロビートにラップ調のヴォーカルを乗せたスタイルという具合に、アフロビートやレゲエを柔軟に取り入れた時代もあった。
ロイの功績としては、自身のレーベルある〈ウノ・メロディック〉を運営し、自分の作品以外にも様々なアーティストを世に送り出したことも挙げられる。シルヴィア・ストリップリン、エイティーズ・レディーズ、フスト・アルマリオ、エセル・ビティらが〈ウノ・メロディック〉出身で、“Daylight” やロイの “Everybody Loves The Sunshine” のカヴァーで知られるランプも彼のプロデュースによるものだ。後輩や後進に対して広く道筋を付けてくれたアーティストであり、前述のニューヨリカン・ソウル(マスターズ・アット・ワーク)やエイドリアン・ヤング&アリ・シャヒード・ムハマドとのコラボなどはその表れと言える。日本においてもクロマニョンが “Midnight Magic” という曲で共演するなど、ロイをリスペクトして共演やコラボする例は世界中に広がった。ロイはそうした申し出を快く引き受けてくれる懐の深い人物であり、多くの人から愛されたミュージシャンだった。
小川充