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interview with Ami Taf Ra

非西洋へと広がるスピリチュアル・ジャズ

──アミ・タフ・ラ、インタヴュー

interview with Ami Taf Ra photo by Audrey Wilkins

LAのシンガー・ソングライター、アミ・タフ・ラは、モロッコのグナワやアラブ音楽などの要素をとりいれながら、なんともスピリチュアルなサウンドを響きわたらせる。プロデューサーは夫のカマシ・ワシントン。21世紀ジャズの新たな担い手を歓迎しよう。

質問・序文:小川充    通訳:川原真理子 Sep 18,2025 UP

 アミ・タフ・ラという新しいシンガーのアルバムが届いた。北アフリカのモロッコ生まれで、幼い頃からアラブ音楽に囲まれて過ごし、オランダからトルコ、中東諸国など世界中を転々とするなかでシンガーとしての道を見出し、現在はロサンゼルスを拠点とする彼女は、カマシ・ワシントンの妻でもある。世界のさまざまな国で活動するなかでカマシとのツアーもおこない、幾多のフェスにも参加してきた。また、ヨルダンの難民キャンプとコミュニケーションを取り、音楽や絵画のワークショップを開くなど、芸術を通じた社会活動もしている。そんなアミ・タフ・ラのファースト・アルバムが『The Prophet and The Madman』である。

 『The Prophet and The Madman』というタイトルは、レバノン生まれの詩人・画家であるハリール・ジブラーンの著書『The Prophet(預言者)』と『The Madman(狂人)』から名づけられたもので、歌詞にもそれらからの引用が多く見受けられる。パンデミックの最中、アミはカマシとの娘であるアシャを妊娠しており、そうしたなかでアミとカマシが『The Prophet』と『The Madman』を読み、そこからインスピレーションを受けてアルバムの構想が生まれたそうだ。特に1923年に刊行された『The Prophet』は、アメリカにおいては1950年代のビート・ジェネレーションから1960年代のヒッピー・ムーヴメントにも影響を与えた。ジャズで言えばジョン・コルトレーンファラオ・サンダースアリス・コルトレーンらのスピリチュアル・ジャズの世界観や神秘主義にも通じる書物でもあるから、アミやカマシが大きなインスピレーションを受けたというのも頷ける。

 アルバムにはライアン・ポーター、マイルス・モズレー、ブランドン・コールマン、トニー・オースティン、テイラー・グレイヴス、キャメロン・グレイヴス、ロナルド・ブルーナー・ジュニア、アラコイ・ピート、カリル・カミングスなど、カマシのアルバムやツアーでお馴染みのバンド・メンバーが参加し、カマシがプロデュースとアレンジをおこなっている。従って、アミのソロ・アルバムであると同時にアミとカマシの共同作品という色彩も強い。スピリチュアル・ジャズからモロッコのグナワ音楽、ゴスペル、アラブ音楽など、アミが世界を旅するなかで培ってきたいろいろな土地の音楽の融合も見られる。そして、彼女の歌声には世界を旅するジプシーやボヘミアンが持つ独特の個性が感じられる。そんな『The Prophet and The Madman』を生み出したアミ・タフ・ラに迫った。

音楽はモロッコの家庭ではとても重要で。どの家庭でも音楽をかけている。私はモロッコで祖母と一緒に暮らしていたけど、リビングルームでは伝統的なアラビア音楽が一日中かかっていた。だから私は、至って自然に音楽に惹かれていった。

まず、あなたの経歴から伺います。モロッコ生まれで、その後オランダで育ち、再びモロッコに戻ってきたそうですね。あなたはどんなファミリーの中で育ち、ルーツとなるモロッコはどんな国ですか?

アミ・タフ・ラ(以下ATR):モロッコは文化や伝統が豊かな国。心の温かい人たちがいる。モロッコ社会では手厚いもてなしがとても大切だから、モロッコを訪れると歓迎されていることをすぐに感じるはず。到着してから最初の1時間でわかる。豊かな国で、歴史や伝統があって。各都市に独自の伝統や食べ物がある。モロッコの主要言語はアラビア語だけど、アマジグ語というモロッコの先住民語もある。アマジグ語には5種類の方言があるんじゃないかな。アマジグとは自由の民 (people of the free)という意味なの。アマジグ文化はモロッコ北部から南部まで広がっていて、美しい。とても魅了されるし、心がこめられている。
 いまは早くまたモロッコに戻りたいと思っているの。2ヶ月前に行ったばかりだけど(笑)。親戚を訪ねたけど、今度は娘のアシャにモロッコをもっと見せてあげたい。彼女にとってもモロッコはルーツだから。彼女にはモロッコの言語も教えているの。2ヶ月前、アシャと私は1ヶ月間モロッコに滞在したけど、おじさんやおばさんの言っていることを聞いて、結構言葉を覚えていたわ。来月5歳になるけれど、覚えが早いの。ヨーロッパをツアーしたときも、アシャはフランス語の言葉を覚えて、「ボンジュール」「オル ヴォワール」と言っていた。
 私も子どもの頃はよく旅していたけど、彼女には同じ体験をもっとさせている。彼女はたくさんの国を見て来たけど、音楽を通じて旅をしている。私たちが旅をしているとき、彼女は素晴らしい音楽をたくさん聴いているし、素晴らしい人たちと会っているのね。両親である私たちが、娘にそういった体験をさせてあげられるのは素敵なこと。

あなたの母親はアラビア音楽のファンで、幼少期はそうしたものを聴いて育ったそうですね。アラビア音楽は独特のメロディやリズムがありますが、どんなところがあなたを魅了したのでしょう?また、音楽はどのように始めたのでしょうか?

ATR:小さい頃の私はほとんどモロッコで過ごしていたけど、音楽はモロッコの家庭ではとても重要で。どの家庭でも音楽をかけている。私はモロッコで祖母と一緒に暮らしていたけど、リビングルームでは伝統的なアラビア音楽が一日中かかっていた。だから私は、至って自然に音楽に惹かれていった。私が覚えた最初のアラビア語の曲は、シリア人の詩人ニザール・カバニが作ったものだったの。何ていう人が歌っていたのかしら? 彼女の名前を忘れてしまった(笑)。美しいレバノン人のシンガーだった。カセット・レコーダーと一緒に眠って、自分があの曲を歌っているところを想像していた。ヘアブラシを持って鏡の前に立って、その曲を歌っていた。というわけで、私は自然とアラビア音楽に惹かれた。ジャンルは様々で、アラビアのポップスやアラビアのクラシック音楽だった。とても自然だった。

その後オランダに移住して、アムステルダムの音楽学校で本格的に学び、メトロポール・オーケストラなどと共演してプロの道に進むようになったそうですが、どういった経緯でそのようになったのですか?

ATR:11歳のときにオランダに戻って、アムステルダムの音楽学校に通った。私はゴスペル・クワイアーの一員で、そこでハーモニーを歌うことを覚えて。あと私はカヴァー・バンドのメンバーでもあって、このバンドは毎週学校で有名な曲をプレイしていた。こうして、アムステルダムで子どもだった私の音楽生活が始まって。私の継父が学校の送り迎えをしてくれた。
 私はマイケル・ジャクソンの大ファンだった。マイケルはヒストリー・ワールド・ツアーの一環でオランダにやって来て、しかも私の誕生日にライヴを行なった。それで、母親がお誕生日のプレゼントに彼のコンサート・チケットを買ってくれて。詳しい話をさせてもらうと、彼はアムステルダムのグランド・ホテルに2週間宿泊していた。それで私は学校をサボってホテルに通って。彼の部屋は2階だったんで、そんなに高いところじゃなかった。だから彼は、私たちファンを見ることができた。初日は何千というファンがいて。ところが、2日目、3日目になると数がどんどん減っていったんで、ホテルの前にはもう20人くらいしかいなかった。私はそこでいろんな曲を歌った。私の声はすごく大きかったんで、周りのファンに「あなたが歌って! あなたが歌えば、彼が出て来るから!」と言われたの。それで私は超大きな声で歌ったのよ。“We are the world, we are the children”って。そうすると、彼が出て来たの! カーテンの向こう側に来て、親指を立てていいねという態度を示してくれたの。「よくやった、よかったよ!」って。それで私は家に帰ると、「ママ! 私、有名になる! シンガーになるの! 私の声は美しいってマイケル・ジャクソンが言ってくれたんですもの!」と母親に言ったの。私はいつかシンガーになるという想像を彼が掻き立ててくれたのよ。
 実は、YouTubeでビデオを見つけたの! 私はマイケルのファンクラブの会員だったんで、彼がアムステルダムに到着したとき、私たちファンクラブはバスを貸し切って空港に行って彼を迎えに行った。彼の後ろを走ったのね。もちろん、彼にはセキュリティがいて、自家用車があったけど、私たちファンはその後ろにいたのよ。そのビデオでは、空港にいる私が飛び跳ねているのが観られる。学校のリュックを背負っている、13歳の少女がね。すごくおかしかったけど、YouTubeのおかげで自分の姿を見ることができた。

photo by Sol Washington

私はトルコ音楽も聴いて育った。継父はトルコ人だったし、弟と妹はトルコとのハーフだったから。だから、家ではトルコ音楽もよく聴いていた。そしてトルコでライヴをやることになって、そのまま7年間そこで暮らしていた(笑)。

あなたがマイケル・ジャクソンの大ファンだということはわかりましたが、お母さんの影響でエジプトのウンム・クルスーム、アスマハーン、アブドゥル・ハリム・ハーフェズ、アルジェリアのワルダ、レバノンのファイルーズといったアラブのシンガーもよく聴いていたそうですね。彼らからの影響は大きいのですか?

ATR:別に二重生活を送っていたわけではないけど、家では母緒が一日中アラビア音楽をかけていた。でも学校に行くと、これはアムステルダムでの話だけど、みんなMTVを観ていたのよ。当時はMTVがすごく流行っていた。90年代だったから。R&Bやヒップホップやロックもよく聴いていた。でも18歳の頃、西洋の曲をよく歌っていたけど、何かが欠けている気がして。私は毎週歌っていた。音楽学校に行って、英語の曲を歌っていた。そして家に帰るとアラビア音楽を聴いていたけど、アムステルダムでアラビア音楽をやっている人なんて知らなかった。でも、なんとかわたりをつけて、荷物をまとめて、「エジプトに行くから」と母親に言って。当時のエジプトはアラビア音楽ビジネスの中心で、ハリウッドのようなところだったから、アラビア音楽でキャリアを築こうと思ったら、みんなカイロに行ったの。テレビ局や大手ラジオ局がすべてカイロにあったから。
 というわけで、18歳の私はそこで大勢のエジプトのミュージシャンやソングライターと出会って、曲のレコーディングを始めた。アブドゥル・ハリム・ハーフェズがレコーディングしたスタジオでレコーディングして! 〈サウト・エル・ホブ〉というレーベルもやっているスタジオ。いまは別の名前になっているかもしれないけど、私がそこにいると、ウンム・クルスームやアブドゥル・ハリム・ハーフェズもそこでレコーディングしたって言われた。
 当時の私は、アラビア語で歌うと訛りがすごく強かったんで、すごく練習した。中東の大物シンガーたちの真似をして、彼らと同じように言葉を発音しようとした。耳で聴いて練習すると、まるでそっちで暮らしていたように歌えるようになった。私がアラビア語をしゃべると、オランダ訛りだということがわかる。「君はアラビア語をしゃべるけど、こっちの出身じゃないよね」って言われる。だから私はそれを隠して歌わないといけなかった。何年もかかったけど、やらないといけなかった。

プロのシンガーとなってからはトルコを拠点にレバノン、ヨルダンなど中東諸国でもライヴを行い、世界中を旅してきたそうですね。定住を好まず、ジプシーのような生活を送ってきたそうですが、そうした旅の生活が性に合っていたのですか?

ATR:そう。生まれてからというもの、私はずっとそういう生活を送ってきた。モロッコに2年、オランダに2年いて、それから継父がポルトガルで仕事をしていたんで、私も1年間ポルトガルにいた。それからまたモロッコに2年。しょっちゅう旅することは私のDNAに既に組み込まれていたんで、もちろん18歳になると荷物をまとめて、「ママ、エジプトに行く」と母親に言って。母親は許してくれた。私は既にヤングアダルトだったから。
 私は母親を助けて、まだ小さかった3人の妹と弟を育てていた。特に継父が亡くなってからはね。私はトルコ音楽も聴いて育った。継父はトルコ人だったし、弟と妹はトルコとのハーフだったから。だから、家ではトルコ音楽もよく聴いていた。そしてトルコでライヴをやることになって、そのまま7年間そこで暮らしていた(笑)。トルコの文化や言語にも馴染みがあったし、音楽にも馴染みがあったんで、トルコにいた頃はトルコのミュージシャンと一緒によくライヴをやっていた。特にジプシー・ミュージシャンとね。彼らは本当に素晴らしかった。
 そしてスーツケースを持って、トルコからそこここを旅した。私は各国をふるさとにできる。特にいまでは夫と娘がいるから、どの国に住んでいるかなんて関係ない。彼らが一緒にいさえすれば、そこが私にとってのふるさとになる。

その後、ニューヨークを経由して、2021年にロサンゼルスに移住したんですよね?

ATR:ニューヨークで暮らしたことはなくて。ニューヨークでカマシ(・ワシントン)と出会った。私は休暇でニューヨークに2週間滞在していて。そしてそのときカマシと出会ったの。ニューヨークに住んでいたことはない。アメリカで最初に住んだのはロサンゼルスよ。

質問・序文:小川充(2025年9月18日)

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Profile

小川充 小川充/Mitsuru Ogawa
輸入レコード・ショップのバイヤーを経た後、ジャズとクラブ・ミュージックを中心とした音楽ライターとして雑誌のコラムやインタヴュー記事、CDのライナーノート などを執筆。著書に『JAZZ NEXT STANDARD』、同シリーズの『スピリチュアル・ジャズ』『ハード・バップ&モード』『フュージョン/クロスオーヴァー』、『クラブ・ミュージック名盤400』(以上、リットー・ミュージック社刊)がある。『ESSENTIAL BLUE – Modern Luxury』(Blue Note)、『Shapes Japan: Sun』(Tru Thoughts / Beat)、『King of JP Jazz』(Wax Poetics / King)、『Jazz Next Beat / Transition』(Ultra Vybe)などコンピの監修、USENの『I-35 CLUB JAZZ』チャンネルの選曲も手掛ける。2015年5月には1980年代から現代にいたるまでのクラブ・ジャズの軌跡を追った総カタログ、『CLUB JAZZ definitive 1984 - 2015』をele-king booksから刊行。

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