Home > Columns > 演奏行為が織り成すメタ・ミュージック- ──KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』
文:細田成嗣 Oct 09,2019 UP
分断された視聴覚と演奏行為──プログラムA「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」
プログラムAは中川裕貴によるソロ・パフォーマンスであるものの、パフォーマンスの鍵として舞台美術を担当したカミイケタクヤによる巨大な船のような造形作品──正確には船ではなく地球をかたちづくった作品であり、左右にゆらゆらと揺れることから「地球シーソー」と呼ばれていた──や、照明担当の魚森理恵による巧みな光の操作があり、実質的には協働制作によってこうした複数の要素がミクストメディア的に組み合わされた舞台公演だったと言える。とはいえ名目上はソロ公演であるため、中川の演奏行為をここでは辿っていく。パフォーマンスはまず、暗闇のなか造形物の奥で中川が演奏開始のアナウンスをするところからはじまった。アナウンスにはジョージ・クブラー、九鬼周造、そしてブリュノ・ラトゥールという三人それぞれの文献からの引用が織り込まれていた。なかでも「聖像衝突」を論じたラトゥールのテクストは一部が言い換えられていた──「この演奏会は衝突を論じるのであり、破壊を論じるのではない」というように(*4)。ラトゥールによれば「破壊行為が何を意味するのかが分かっており、それが一つの破壊計画として明確に現れ、その動機が何であるかが分かっている場合」が聖像破壊であるのに対して、「補足的な手掛かりなしでは破壊的なのか構築的なのか知ることのできない行為によって動揺している場合」が聖像衝突であるという(*5)。すなわち演奏によって既存の音楽秩序を単に破壊するのではなく、破壊的なのか構築的なのか容易には判別のつかないような行為の意味の揺らぎへと向かうこと。引用文の言い換えはこの「衝突」をこれから披露することの宣言として受け取れるだろう。
アナウンスが終わるとマイクから手を離し、スティーヴ・ライヒの「振り子の音楽」のように天井からぶら下げられたマイクがぶらりぶらりと往復する。中川はチェロを持ってゆっくりと歩きながら即興的に演奏しはじめる。そして会場中央にある椅子に座すとチェロを膝の上に横向きに置き、エンドピンを出したり閉まったり回したり、弦の上をさっと摩ったりボディを指で軽やかに叩いたりするなど、楽器の調整をするかのような仕草を見せていく。そうした行為にともなう響きはしかし完全にランダムではなく、一定のパターンがかたちづくられることによって驚くほど音楽的に聴こえてくる。だが同時に奇妙な違和感を覚えるようなサウンドでもあった。この奇妙さはいったいなんだろうかと考えていると、ごく自然な流れで中川がチェロから手を離していた。しかし音は先ほどまでと変わらずに響き続けている。行為にともなう響きはリアルタイムで録音され、いつの間にか楽曲のように構築されてスピーカーから再生されていたのである。その後ブリッジ付近を細かく弓奏することによる季節外れの蝉時雨のような高周波のノイズになり、音量の大きさも相俟って耳元で音が蠢くような感覚にさせられる。徐々に音量は下がり、チェロをゆっくりとしかしリズミカルに弾きはじめる。だがこれもまた、演奏する手を止めても音が鳴り続けている。弾いていると見せかけて気づいたら弾いていない。いつの間にかその場で録音されたサウンドが再生されている。わたしたちは彼の演奏行為を目撃しながら、まさにいま鳴っている響きを彼がいま・ここで発したものとして聴いていたにもかかわらず。
プログラムA「PLAY through ICONO/MUSICO/CLASH」(撮影:大島拓也)
その後チェロをカホンのように叩くことによって、ドラムンベースのように、あるいはタブラによる打楽のようにビートの効いた演奏を披露し、さらにそのサウンドはエフェクター類を介して残響が強調されることによって、深海に沈み込むようなドローンへと変化していく。手元にある紐を中川が引っ張ると、頭上に置かれていた壊れたチェロ──これは中川が以前使用していた、初めて手にしたチェロだという──が落下し、そしてそこにくくりつけられたもうひとつの紐が「地球シーソー」を動かすことで照明とコンプレッサーが作動する。唸るようなコンプレッサーが切れるとチェロを置き、弓を空振りしながら「地球シーソー」の裏側へ。そしてもういちど紐を引っ張ることでシーソーをもとの傾きに戻してからあらためて椅子に座し、ヘッドホンを被って黙々とチェロを弾きはじめる。かさこそと静かな弦の音が会場内に響き、しばらくすると「曲ができました」と述べ、多重録音されたチェロが喚き叫ぶような楽曲がスピーカーから再生される。録音のプロセスを開示したとも、音からは切り離された演奏行為を披露してみせたとも言えるだろうか。シーソーを再度傾かせると聖骸布を模した大きな布がばさりと広がり、その裏に隠れるようにして中川は演奏しはじめる。複数の光源から照らされることによって、演奏する中川の影が様々にかたちを変えながら聖骸布に分身のように浮かび上がっていく。烈しさを増したサウンドは会場内で乱反射するかのように響きわたる。演奏を終えるとまたもやシーソーが動いて暗転し、小さなプレートにぼんやりと「No Playing」という蓄光シートによる文字が光りだす──同じプレートには先ほどまで「Now Playing」と表示されていたのだった。
演奏する身振りと聴こえてくる音響は必ずしも一致しているわけではない。この当たり前と言えば当たり前の事実を、しかし普段のわたしたちはほとんど問題にすることなく演奏を聴いている。眼の前で演奏行為がおこなわれ、そして音が聴こえてくるのであるならば、その音は当の演奏行為によって生み出された響きだというふうにまずは認識する。だが中川は巧妙なまでに演奏行為と音を切り離して提示する。いま・ここで見えている光景が必ずしも音と地続きではないことをなんども知らしめる。それはしかしいわゆる当て振りとは決定的に異なっている。当て振りが音に合わせて身体を動かし、いま・ここで出来事が生起していることを仮構するのに対して、中川はむしろいま・ここで生起する諸々の出来事が結びつくことの無根拠さを暴き立てているからだ。むろん演奏行為と音響が必然的に結びついていることもあるだろう。だが演奏行為を見て音響を聴く受け手にとっては、自らの経験において視聴覚を恣意的に統合するしかないのである。だからこそ聖骸布に映る影もまた、単なる影像ではなく演奏行為の分身としてわたしたちの視界に入ってくる。わたしたちは中川による演奏行為の分身としての影のかたちを目で追い、同じように演奏行為の分身としてスピーカーから流れる響きを耳で追う。もしかしたら「地球シーソー」もまた分身かもしれない。演奏行為を目撃することは、ふつう、このように根源的には分断状態にあるはずの受け手の視聴覚を統合するための契機となる。それによって音楽が成立してきたと言ってもいい。しかし中川は演奏行為によってむしろ仮構された統合状態を分断しようとする。受け手が視覚と聴覚を結びつけることの無根拠性を演奏行為それ自体によって明らかにするのである。