Home > Columns > ネオアコ・ディフィニティヴ!- ──いまだからこそつづりたい“neo acoustic list”
岡村詩野、大藤桂、与田太郎、ブレイディみかこ、三田格 May 23,2014 UP
三田格
ネオ-アコ・ディフィニティヴ(簡易版)1964 - 2014
10年ぐらい前にペイル・ファウンテインズのコンピレイション盤を買い、あまりにも演奏がヘタなので驚いてしまった。えー、こんなものをありがたがって聴いていたのかー。そうだったのかー。あっちゃー。
いや、しかし、それが「ネオ-アコ」だったのである。演奏がヘタでもペイル・ファウンテインズには新時代の息吹きがあった。必要なのは演奏の技術ではない。清涼感だとか、初々しさ、あるいは軽やかであることが求められていた。いま、情報は「圧縮」という形容詞とセットで扱われることが多い。しかし、「ネオ-アコ」が舞い踊った80年代初頭には、どんな場面でも「加速」という形容詞が好まれていた。「新人類は資本主義を加速させる」とか、そんな感じである。1にも2にもスピード感が持ち上げられていた。「軽い」ということはオソロしいほど善だった。
「ネオ-アコ」というのは日本にしかないタームである。同じように業界主導だったシティ・ポップ同様、音楽的な定義もなしくずしに近い。大筋でいえばプレスリー以降に現れたティーン・エイジ・ロカビリーやトッピング程度のカントリー。そして、60年代初頭に世界的な規模で存在したラテン・ポップスのリヴァイヴァルが骨格部分をなしていた。あるいは、ビートルズの登場によって息の根を止められたボサ・ノヴァはありでも、ブルー・ロンド・ア・ラ・タークのようなラテン・ファンクやファンカラティーナなど、いわゆるスウェットなものは周到に除外されていた。同時期のヒット・チャートには欠かせないR&Bも同じくである。そう、ブルー・アイド・ソウルがありでも(以下では取り上げなかったけれど)、スクリッティ・ポリッティやスタイル・カウンシルが「ネオ-アコ」に数えられなかったのは、おそらくはそれが黒人音楽に由来するか、それがあまりにも露骨だったからである。粘り気があってはいけない。簡単にいえば「乾いている」必要があった。なぜか。それは、「ネオ-アコ」というのは、じつは「関西フォーク」に対するアンチだったからではないかと僕は思っている。
いまでこそ、団塊ジュニアが主要なマーケットをなすことでリヴァイヴァルの地盤を得た関西フォークだけれど、80年代にはまったく存在感を失い、消し去りたい過去のように思われていた。きっと言葉があるだけで重かったのである。
そのような、四畳半にしつこくこびりついていた生活感を洗い流してくれるもの。それが「ネオ-アコ」だった。エヴリシング・バット・ザ・ガールによるラテン・ポップ・リヴァイヴァルやモノクローム・セットによるロカビリーのモデル・チェンジを同じタームのもとに聴くことができるようになったマジックはこうして成立したのである。しかも、この考え方はいまだに力を失っているとは言い難い。いや、むしろ……