Home > Reviews > Film Reviews > シェイン 世界が愛する厄介者のうた
© The Gift Film Limited 2020
ここ数週間、ぼくはジャック・ケルアックについて思いをめぐらせている。去る3月12日が、ビートの王様の生誕100年だったのだ。それでぼくは、不安と期待をもってディーンとサルの物語、つまり『路上』として知られるその小説を40年振りに読んだ。
じつは数年前から『路上』はいつか読み直そうかなと思っていた。トレイシー・ソーンの自伝『安アパートのディスコクィーン』を出したとき、同書のなかで若きソーンが、ビート世代の登場を宣言したその記念碑的な小説を自分のフェイヴァリットとして何度か挙げていることが気になっていたのだ。なんていうか、つまり、あれはもう女性の描き方に関しては目も当てられないというか……、いや、そうじゃなくてもモノシックでモノ静かで、ソツのない文章やリベラルな道徳心と自己宣伝のSNSで溢れたこの時代、カウンター・カルチャーというものは嘲笑や批判の対象であっても崇拝の的にはならないのが現実だったりする。だからなおのこと、ソーンが自伝のなかでその教典を強調していることが興味深いと思ったのだ。まあ、たしかにケルアックに代表される1950年代のビート・ジェネレーションはカウンター・カルチャーの発火点だった。なんにせよ、それが出発点だった。人生を冒険のように生きて、白人社会を嫌悪し、黒人を賞賛しジャズに熱狂する。それが60年代になるとヒッピーへと展開し、1970年代にはパンクになった。そう、そうなのだ。
が、しかしそれにしても、このモノシックでモノ静かな時代に、飲んだくれて、ドラッグをやりまくって、おびえながら生きるのではなく生きていることに興奮しながら生きるということは、いったいナンなのか……、50年代のアメリカで萌芽したカウンター・カルチャーは現代ではもう無効なのか……、この大きな問題については6月末売りの紙エレキングにおいて、マシュー・チョジックさんと水越真紀さんの力を借りながら論じてみようと思っている(できるかな?)。
そんなことを考えていた矢先に、ジュリアン・テンプル監督によるシェイン・マガウアンの評伝映画が日本でも公開されると知った。見るしかないだろう。テンプルは、『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』や『ビギナーズ』、あるいはジョー・ストラマーやグラストンベリー・フェスティヴァルの見事なドキュメンタリー映画で知られるベテランで、この筋では信用できる監督だ。
で、シェイン・マガウアンなのだが、日本でもいまだ根強い人気を誇っているし、彼の若き姿はパンクのドキュメンタリー映画を見ている人にはお馴染みだろう。セックス・ピストルズやザ・クラッシュのライヴの最前列で異様にノリまくっているひとりの若者、見るからにやばそうなパンクス、それが後にザ・ポーグスのヴォーカリストとして世界中に知られることになるシェイン・マガウアンだ。また、シェインは手のつけられない大酒飲みとして、あるいは歯のない男としても知られている。もちろん、彼が作った曲でもっとも有名なのは、あの最高にアップリフティングな“フェアリー・テイル・オブ・ニューヨーク”だ。シェイン・マガウアンとは、クリスマスの夜のニューヨークで、酔っ払って牢屋に入れられた男の話——アイルランド人のカップルの夢と絶望——が歌われている、イギリスでもっとも人気のあるクリスマス・ソングの作者であり、歌手である。
© ANDREW CATLIN
あの曲の舞台がニューヨークなのは意味がある。19世紀なかばのアイルランドにおける大飢饉によって、数百万人のアイルランド人が職を求めてアメリカに渡った。だからアメリカには本国アイルランドよりも多くのアイルランド人がいる。そうした無名のアイルランド人の、酔っ払うことでしか生きていけないような世知辛い人生を、あの曲は宇宙クラスのおおらかな愛をもって歌い上げている。多くの人たちから愛されて当然だ。
アイルランドの民謡(フォーク)をパンクのフィルターを通して再現したザ・ポーグスは、素晴らしきアイリッシュ・ディアスポラである。シェインは、幼き日々に過ごしたアイルランド南部の田舎町ティペラリーでの記憶を決して忘れることはなかった。6歳から酒とタバコを続けながらも、だ。ウィスキーと川、動物たちとギネスビール、二日酔いの郵便配達員、子供の飲酒を咎めなかった家族や親戚、カトリック教会、パブと音楽、こうしたものすべてがシェインのなかではアイルランドの誇りだ。一家がロンドンの集合住宅に移住し、母はノイローゼになり、学校ではいじめにあい、マルクスの資本論を読んで無神論に衝撃を受けても、シェインのなかのカトリック的なもの、植民地主義への怒りと愛国心、IRAへのシンパシーが揺るぐことはなかった。
© The Gift Film Limited 2020
学校は、校内でドラッグを売りさばいて14歳で退学となった。それから、肉体労働などをしながら酒とドラッグを体内に流し込んだ。精神病院に入れられもしたが、退院してから最初にライヴハウスで見たのが、そう、セックス・ピストルズだった。それを機にパンクの使徒となったシェインは、ギグというギグで暴れた。あるギグにおける流血っぷりがNMEの記事になったこともあったが、彼は同時にDIYの精神でファンジンを作ったりしているし、それから音楽もはじめる。
ジュリアン・テンプルは映画の前半のアイルランド時代を詩情豊かに愛らしく描いている。そして、続くロンドン時代のパンクまでの時間を烈火のステージとして再現している。だが、周知のように、パンクの時代は数年で終わる。シェインは、その次にやってきたファッショナブルなシンセポップのシーンが気にくわなかった。そこには、田舎からやって来た薄汚い酔っ払いの居場所はなかった。しかし同じころ、音楽誌はワールド・ミュージックの紹介にも熱を上げていた。そこでシェインのなかにひとつのアイデアが生まれた。彼にとって身近なワールド・ミュージック、すなわちパブで演奏されているようなアイルランド民謡、これとパンクを合体させるという。
映画のなかでは、最近の(本国での公開は2020年)シェインがたびたび登場する。車椅子生活を送っている彼は、椅子にもたれかかってジョニー・デップやボビー・ギレスピーを相手に話しているわけだが、その姿からは、長年のアルコールとドラッグ(LSDからヘロインまで)によるダメージを感じないわけにはいかない。廃人のように見えることもある。が、とはいえ、そこには緊張感があり、ときおり鋭い目つきをもって言葉を発するシェインからは、彼の反骨精神と屈強な生命力も感じる。
ジュリアン・テンプルは、この映画のためにアイルランドの歴史をケルト神話から説明しているが、ザ・ポーグスの音楽を好きになるのにアイルランド人である必要がないように、映画を楽しむのにアイルランドの詳しい政治史を知っておく必要はないかもしれない。いや、IRAに関する知識はあったほうがいいだろう。ケン・ローチの素晴らしい『麦の穂をゆらす風』も見ておくに超したことはない。アイルランドは英国の帝国主義との闘いもあるが、その独立をめぐっての内戦という悲惨な歴史をも持っている。
ただ、ぼくが映画を見ていて目頭が熱くなってしまったのは、アイルランド史でもなければシェインをなかば聖人化しかねないテンプルの演出によるものでもない。アイルランドの土着性を打ち出したザ・ポーグスの演奏は、たしかになんど聴いたって格好いい。だが、それ以上に、この映画においてはシェインの「人間臭さ」がぼくにはたまらなかった。
パブで飲んだくれている人生――個人的には大好きな世界ではあるのだが――をロマンティックに語るのは、大人としてまあどうかと思う。二日酔いでまっすぐ歩けず、昼間っから公園のベンチでぶっ倒れているときなど、経験者にはわかる話だが、ほんとうに惨めなものだ。6歳から酒を飲み、どんなに身体が悪くなっても飲み続けているシェインのロックンロールな生き方をことさら賞揚したくもない。また、彼が表現するアイルランドは、それをステレオタイプ化しているかもしれないというリスクも感じなくもない……が、映画を見ている最中はそんなネガティヴな感情はまったく湧かなかった。130分はあっという間だ。惹きつけてやまないのは、音楽ドキュメンタリー映画としてのクオリティの高さだけではない。
© The Gift Film Limited 2020
たびたび登場し、貴重な証言を話すシェインの妹がシェインの“魂(ソウル)”について語ったとき、ぼくはいろんなことが腑に落ちたような気がした。もしジュリアン・テンプルがシェイン・マガウアンの“魂”を描こうとしたなら、この映画は成功していると言える。たとえば、ザ・ポーグスの音楽は、パブで飲んだくれているうだつのあがらない連中を楽しませるために、はじまっている。なにしろ、その音楽のベースにあるのは民謡なのだ。民謡とは自分個人のためにある音楽ではない。みんなのためにある。内的なものではなく外的なもの、要するに社会的な音楽なのだ。街をほっつき歩いて、夜分ホームレスと一緒に酒を飲みながら連中から聞いた話が歌詞のヒントになっているとシェインが打ち明ける、象徴的なエピソードがある。シェインは、やがて成功し、ロックスターとして祭り上げられても自分を見失わなかったひとりだが、それというのも彼の魂が、そんな安っぽい賛辞など認めなかったのだろう。そんなことよりも彼のなかではパブで飲んでいるときのほうが幸せで、アイルランド人としての誇りのほうが重要なのだ。
それにしてもシェインは、いくつもの美しい歌詞を書いたものだ。劇中には多くの曲が流れるが、あらためて彼の非凡さを思い知った。音楽ファンにとっては、最後のニック・ケイヴとのデュエットのシーンは最高のプレゼントだが、ジュリアン・テンプルはこの映画を通じて、それ以上にもっと大切ななにかを発しているように思えてならない。それは、アカウントを作って月々の購読料を払って誰かと対話するような世界では決して得られないもので、いま世界から失われようとしている古き良きもの、この日本でいままさにどんどん欠落しつつあるもの、つまりそれは「人間らしいかっこ悪さ」と呼ばれうるものかもしれない。だからスマートには生きられない諸君よ、最後に確実に言えることがある。この映画を見た誰もが、見る前の自分より元気になっていると。
© NATIONAL CONCERT HALL, DUBLIN
野田努