Home > Reviews > Album Reviews > 二階堂和美- 潮汐
「泣くのはプライドのない半人前の男」って言われたこともあるさ
でももし、あなたを引き止めるために泣かなきゃいけないなら、僕はちっとも構わない
あなたが僕のそばにいてくれるならば
The Temptations - Ain’t Too Proud To Beg
空っぽの部屋に
一筋の光が差し込む
どうか私の友を
返してほしい
Silvana Estrada - Un Rayo de Luz
あれは一昨年だったか、明大前で京王井の頭線に乗り換えようと階段を駆け降りた勢いでワイヤレスイヤホンが外れてしまった。さっきまで左耳を塞いでいたそれは、入水時のスイマーのような無駄のない所作でもって線路の下へと落ちていった。スローモーションだった。それがSONYの決して安くはないモデルであったことよりも、神泉に行くまでの10分足らずのうちに曲を聴けなくなったこととか、明日からの生活のことを思い浮かべて焦った。東京でイヤホンをせずに生きることは辛い。ピックアップしてくれるよう駅員に懇願する手もあった。だが直後に到着した急行のグリグリと線路を踏んで走る音を耳にした瞬間、心の蓋がパンッと閉じてしまった。地団駄を踏んで泣き喚きたい気分を抱えたまま(大学生にとって3万円のイヤホンとはそういうものだ)、それでもホームで虚ろにしてる自分の姿に耐えきれず、ちょっとクールな面持ちを装って、次の各駅停車を待ってみる。あえて右耳のイヤホンは付けたままにしていた。そうすることが、当時想定できうるなかでの、最もクールな立ち振る舞い。そう直感した。誰に対してのクールって、それは自分に対して……いや、そんなキザじゃない。ホームに並ぶ人たちに笑われるのが恥ずかしかっただけだ。
こんなふうに、ある別れについて、私たちは極端にウェットになってみたり、むしろなんてことない顔してドライになってみたり、一様には定まらない反応を示す。それが一般的な防衛機制だ。そして、ダイレクトな感情が「叫び」という身体反応を装って表出される直前の、心が着替えるために裸になる中間地点からのみ、歌が立ち上がってくる。別れる相手は問わない。「あなた」でも「友」でも「ベイビー」でも、関係の聖俗に依ることなく、引き裂かれれば歌は生まれる。
二階堂和美という歌い手は、そんな別れから生じる歌の存在について、つねにヴィヴィッドだった。彼女自身の資質なのか、親しんできたという日本の歌謡曲にビルドインされた悲哀の作法による影響なのか、もしくはその両方か。改めてそのディスコグラフィーを辿ると、様々な別れが影を滲ませている。
《もの想いにふけるとき/歌はいらない/考えをふかめるとき/歌はいらないの/考えるのをやめたい時/歌がほしいの/歌がいるの》と日常との切断線として歌を位置付ける “歌はいらない” からはじまる出世作『にじみ』を再生してみると、民謡の節回しやジャズ・ヴォーカルの煌めくような意匠を借りながら、孤独の最中にいる自らを張り上げている様が際立つ。どこか無国籍に響くそれらは、各国に共通する歌の情念を炙り出しているかのようだ。アメリカ南部にブルースがあり、ポルトガルにファドがあるように、日本にも独特の様式で歌い上げる民謡がある。そしていつも、歌うのは残されたほう。
最も顕著な別れの例は、二階堂和美の名前をお茶の間に引き出した “いのちの記憶” だろう。『にじみ』を耳にした高畑勲がオファーをかけ、『かぐや姫の物語』の主題歌として制作され、8年前の高畑勲のお別れの会でも二階堂本人によって歌われたこの楽曲。《月へ帰る》という寓話的想像力にコーティングされた種々の別れに相対するように、“いのちの記憶” は余白を増幅させるようなシンプルな言葉遣いによって紡がれている。《必ず また会える/懐かしい場所で》という一節の、感情の機微を乗り越えて届く、超然とした祈りの様。そしていつも、歌うのは残されたほう。
そんなことを考えながら『潮汐』を再生してみる。髙城晶平の作詞作曲による “リトル・トラベラー” は、二階堂とつねにステージに立ってきた黒瀬みどりとの静かなデュオだ。ceroの近作がそうであったように、解決を保留したまま進行するコードの連なりが、情緒に回収されない風景のなかに誘う。
録音をはじめ、『潮汐』の大部分は二階堂和美が生活を営む広島県大竹市を中心に作られた。《もの想いにふけるとき/歌はいらない》と歌った『にじみ』から14年、歌と生活の距離は縮減し、昨日食べて噛んだ心が喉からそのまま射出されているかのようだ。共同プロデュースを務めた原田郁子による “あれもこれも” は寝起きから子どもとともに暮らす日常が騒がしく封じ込められている。アルバムのティザーとしてアップロードされた録音風景によると、バンドに加えふたりの子どもたちと入り乱れながら声や楽器の音を吹き込んだ様子が伝わる。続く “恋しがっているよ” は、さしづめ翌日の早朝だろうか。静かに、ここにいま見えていないものや人に、《いつかどこかで 話したこと/思いがけない 一言/ああいつかまた 続きをしたい》とこぼす。
前半の4曲が提供曲なのに対し、後半の4曲は二階堂自身の作詞作曲によるものだ。LPであればB面の1曲にあたる “BILLE” で、溌剌としたジャズ・バンドの演奏に合わせ、彼女は《私が死んだら/あれこれ 嗅ぎまわらないで》とギョッとするようなフレーズを歌い出す。隠喩によってこれまでカモフラージュされていた〈別れ〉に、くっきりとした輪郭が与えられる場面だ。本人が語るところによると、『にじみ』と『潮汐』の間に彼女の生活に訪れた最大の変化は、夫であり自身のバンドでコントラバスを弾いていたガンジーとの死別であったという。しばらくは歌に気持ちが向かず、ステージの上で泣き出すこともあった彼女が、時間をかけて歌へと戻ってきた。『潮汐』に収録されている自作曲は必ずしもガンジーの旅立ちと制作時期が被っていたわけではない。ただ、彼女はこの4曲を選んだ。
「では、『潮汐』の主題は〈別れ〉なのか?」と正面切って聞かれたとしても、それについては否と言うほかない。“BILLE” のサビはこう続く。《残るのは歌だけ/心映すほんとの歌だけ/あなたの心に響いたなら/それがすべてよ》ここには日常から遊離し、“歌はいらない” で描かれたいたような歌の聖性に実存を預ける、ステージの上で煌めく二階堂の姿が立ち上がっている。見えているもの、聞こえているものが全て。後半、スキャットの隙間からニュッと《歌わせてよ》という一節が放り込まれる。いるものといないものがいる。そしていつも、歌うのはいるほう。
最後に、二階堂和美が作詞を手がけた楽曲について、一節ずつピックアップしたい。クイーンの “We Will Rock You” から引用した “つながりあって生きている” では《太陽は 燃えている/夜の間も 燃えている》と自然の循環を強調する。トーンを落とした黒瀬みどりとのデュオからはじまる “うまれてきたから” では《人も虫も 動物たちも/生まれてきたから 死ぬのです》と確かめるように歌う。ラストの “あうん” はライヴ録音、《あなたの夢と荷物/一緒に抱(いだ)かせて/皆まで語らずとも/あうん あうん あうん》と手元に残った小包を眺め、「あなた」を待つ。
思えば、二階堂の書く詞には感情の揺れ動きが滅多に表れず、当然のように進む出来事をひとつひとつ拾い上げて追う筆致が大半だ。“うまれてきたから” のサビのように、力強い言葉の反復に太鼓の響きを合わせるなど、さりげなく歌のしなやかさに並走するアレンジも美しい。そして何より、このテキストで抱かせたかもしれないシックな印象とは裏腹に、二階堂は百面相のごとく歌声をスイッチし、存分に歌の中をハシャぎ回っている。それはもう、裸足でスイングしている。試しにアルバムを再生してみるといい。イヤホンなんかなくてもいい、スマホのスピーカーでいい。駅のホームで凍えながら待っているときなんかに流してみてもいい。二階堂和美がそこにいる。歌はいつも温かい。
風間一慶