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フロリアン・ヘッカー。ドイツ人サウンド・アーティストである。彼は、1996年にウィーンの〈メゴ〉より、精密さと獰猛さが同時に封じ込められた最初のアルバム『IT ISO161975』をリリースし、電子音響/グリッチ・ムーヴメント初期において静かな波紋を生みだした。以降も〈メゴ〉や〈エディションズ・メゴ〉を中心に〈リフレックス〉などからも相次いで作品を発表。中でも03年の『サン・パンダモニウム』(〈メゴ〉)は、無秩序な電子ノイズが光の束のように炸裂する傑作であった(2011年に〈パン〉からアナログ盤としてリイシューされた!)。さらには、刀根康尚(『パリンプセスト』)やラッセル・ハズウェル(『ユーピック・ワープ・トラックス』)などともコラボレーションも繰り広げるなど、まさに00年代の電子音響シーンにおいて最重要人物のひとりといっていいアーティストである。
そして、2009年に〈エディションズ・メゴ〉からアルバム『アシッド・イン・ザ・スタイル・オブ・デヴィッド・チュードア』をリリース。この作品によって、電子音楽史とグリッチ以降の電子音響のコンテクストを繋げ、90年代から00年代までの自身のキャリアを見事に総括した。2010年代に突入後も世界各地でインスタレーション作品の発表や、〈エディションズ・メゴ〉から、ロビン・マッケイ編集による哲学者クァンタン・メイヤスーらのテキストを収録したブックレット同梱のボックス・セット『スペキュレイティブ・ソリューション』(2011)、ヴァイナルのみでのリリースの『キメリゼイション』(2012)をリリースするなど、その活動はさらに活発化している。ここ日本においても、2013年に東京都現代美術館で開催された“アートと音楽”展へ作品を出品。そのミニマルかつ明晰なインスタレーション/サウンドは同展の中でも一際ユニークなものだった。
さて、そんなヘッカーの作品をひと言で言い表すと、非音楽的な音響作品となるだろうか。彼のサウンドは、音楽的な「快楽」から意識して遠く離れようとしているように思える。同じヘッカーでも、ティム・ヘッカーが快楽的なドローン/アンビエント作品を生み出しているのとは対照的だ。より正確にいえば「楽曲」的であることから離れている、というべきかもしれない。その意味で彼の音楽は「音楽」ではない。いわば空間の中に存在するオブジェのような音響作品である。それは彼がインスタレーションも制作しているアーティストだからという側面だけではない。そもそも彼のデビュー・アルバムからしてすでに楽曲的ではなかった。電子音の振幅・レイヤー・持続・運動の横溢であった。では楽曲的とはどういう意味か。ここでは音が時間軸のなかである意図を持って配置されている連なりとしておく。ゆえに楽曲において音は構造に従属する。そして構造は反復を要請する。しかしヘッカーの作品は構造よりも運動に軸足を置いているように思える。構造は反復を要請するが、運動は生成を導くものだ。その運動を生成と言い換えてもいい。彼の音楽は音がその都度、運動=生成していくことによって作品として成立していくものなのだ。
そして重要なのは、その生成が人間によるライヴ演奏ではなく、プログラミングなどの極めて数学的/工学的なシステムによって生まれている点である。そして近年のヘッカーはその数学的なサウンド生成システムに、人文的な思想的なエレメント(メイヤスーのテキストをCD『スペキュレイティブ・ソリューション』のブックレットに収録する先進性!)をもレイヤーさせている。つまり世にいう人文系/理解の差異に、音響というブリッジを敷くことで、その3つを繋げ、新しいアートの形を模索しているようにも思えるのである。
本作は哲学者/文学者であるReza Negarestaniの台本の朗読に音響的工作を施すことによって成立している極めて実験的な作品である。もっともReza Negarestaniとのコラボレーションは本作が初でない。2012年に〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた『キメリゼイション』は、Reza Negarestaniのテキストとコラボレーションをしたアルバムであった。Reza Negarestaniによって英語/ドイツ語/ペルシア語のテクストが執筆され、それぞれが朗読・録音・エディットされたヴァージョンを制作し、3枚組のアルバムとしてリリースしたのである。そのインスタレーション版は、世界有数のアート・フェスティバルである〈ドクメンタ(13)〉で、インスタレーション版が公開され話題を呼んだ。つまり『キメリゼイション』は、サウンド・インスタレーションであり音響作品でもあった。同時にそれらを包括する意味では新しい時代の実験歌劇ですらあった。
本アルバムも同様にReza Negarestaniの台本を朗読する「ヒンジ」を2曲収録している。『キメリゼイション』と違う点は、「自然」と「文化」を主題とした台本が同時に朗読されている点である。その朗読によって、テキストが、ときに朗々と、ときに淡々と、ときに人間的に、ときに機械のように読み進められていく。そして、その言葉の肌理には微細/大胆なデジタル・エディットが施されているのである。私たちは、抑制のついた語りによって、まるで朗読にメロディがあるような感覚も抱くことになるし、同時に言葉/声の残滓にエレクトロニクスなグリッチ・ノイズがレイヤーされていることよって、声と言葉の肌理=音を聴くことにもなる。そう、言葉/声の残滓のエディットを「音/響」とすること。そして、その「ヒンジ」2曲(これらが朗読者も違う)を挟むように“モジュレーション”というエレクトロニクス・サウンド作品がアルバム中央に置かれている。このトラックは、いかにもヘッカー的な電子音響作品である。音の持続に加え、その弾むような非反復的なリズムが横溢しているからだ。それは歴史と実験のあいだに置かれたビリヤード盤のような音である。文化と自然への朗読。電子音による弾けるような音。それらの交錯。
つまり、人の声と電子の音は、本盤においては同等に存在している。それらに共通する質感は、音楽的ではない音響作品としての感覚である。つまりは人の声と電子の音のエラー/グリッチ的生成。エラー特有の「複雑さ」を経由した強靱な「単純さ」。それはいわばジル・ドゥルーズの語るゴダール的な「と」と「どもること」のサウンド化のようですらある。ヘッカーの作品が「音楽」の形式から遠く離れるのは、非反復的な音の運動=生成による。それゆえ、私たちの耳は音楽的快楽ではない「新しい音楽」を耳に摂取することになるのではないか。それは朗読という「私たちの音楽」から生まれたものでもある点にも注目したい。
このサウンドの快楽から遠く離れた音と声を肌理を聴取することによって、あなたの、そして世界の、サウンド・パースペクティヴは変化していくだろう。エラー/グリッチによる運動の自律的生成によって。かつてデヴィッド・チュードアは電子音を自然に近づけたようとした(「レイン・フォレスト」!)。しかしヘッカーは自然のように/生物のように自律する電子音響を生み出しているのだ。その意味で、かつてデヴィッド・チュードアにオマージュを捧げたアルバムを作り出したヘッカーらしいアルバムである。
つまり、ヘッカーは、本作においても、音楽/音響における偶然と必然という「賭け」を、朗読という時間軸上に再度マッピングし、世界の偶発性そのものを、サウンド力学の中で再生成させようとする試みを実践しているのである。当然、その運動においては、常にエラーが巻き起こる。それもまた彼の音楽の重要なエレメントになる。本CDは、その「成果」をわれわれに報告する最新報告書か論文のようなアルバムだ。ヘッカーは私たちの耳にあるロゴスを告げるだろう。音楽の進化は、お決まりの快楽を超えて聴くことの定点を拡張する点にこそある、と。ヘッカーの活動が常に刺激的なのは、その点にある。そう、「音楽」を超える音楽へ……!
デンシノオト