「Nothing」と一致するもの

OGRE YOU ASSHOLE - ele-king

 取材で出張版「RECORD YOU ASSHOLE」を聞いていたところ、出戸学が重要なことを言ったことを、わたしは聞き逃さなかった。Pファンクふうの下卑たシンセサイザーが鳴り響くローファイなアフロ・ファンクをかけながら、出戸はこういった。「僕らの音楽もよく〈引き算している〉って言われるんですけど、作っている身としては、これでちょうどいいと思ってやっているんです」(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/23052)。イベントが終わってからも、その一言が頭の中でぐるぐると回り続けていた。

「引き算をする」とはダブの発想でもあり、先日立ち会った取材でエイドリアン・シャーウッドはそれを「less is more」といっていた。音と音の空隙が、音が鳴らないことが、残響と反響が多くを雄弁に語る、ということ。「新しい人」というこのアルバムのタイトルがフィッシュマンズのヘヴィなダブ・ソングをフラッシュバックさせるとしても、あくまでも音楽的には「これでちょうどいい」と考える OGRE YOU ASSHOLE のこころみは、それとはまたちがう。

 あるいは、ミニマル・ミュージック。もちろん、「minimal」とは「最小の」を意味する形容詞である。一般論をいうなら、「ミニマル」であることは、楽器の音の少なさ以上に「静的」であることが重要だ。つまり、おごそかで、ドラマティックで、耳が訓練された者にとって聞き心地のよい「動的」な機能和声をあからさまに無視し、和音を進ませないこと。同じ和音にとどまり、それを反復し、執拗に繰り返すこと。それは、西洋古典音楽が築き上げてきた大伽藍の否定形のひとつでもあった。

 だがしかし、「引き算をしている」かのように聞こえる OGRE YOU ASSHOLE の曲からは、たいていポップスやロック・ミュージックとしての和声の展開を聞くことができる(独自に変形し、奇形化した J-POP やこの国のロック・ミュージックなどと比べれば当然、ひじょうに簡素なものではあるが)。さらには、2本やそれより多くのギター、ベース、ドラムス、ヴォーカルが、「きちんと」聞こえてくる。またこの『新しい人』の多くの曲では、シンセサイザーやパーカッション、さらにはドラム・マシーンが鳴っている。ということは、「引き算」はされていないのではないか。OGRE YOU ASSHOLE は、音を少なくすることで多くのことを語ろうとするのではない。あるいは、ポップスとしての和声を放擲して、それらを否定してやろうというのではない。

 しいていうなら、楽器の音が重ならないようにして音が鳴らされていることは、たしかである。だから、「引き算をしている」かのように聞こえるのだろうか。OGRE YOU ASSHOLE の曲は、かみあわせのわるいパズルのピースがむりやり組み上げられているかのように、それぞれの楽器が順々に音を発し、ときにだらしなくかさなりあうことでできあがっていて、きちっとした音の咬合感、心地よさをあじわわせてはくれない。そうして、出戸の「これでちょうどいいと思ってやっているんです」という言葉にまた立ち返ることになる。どうどうめぐり。

 だから OGRE YOU ASSHOLE の音楽は、まるみをおびた音色のきわめて自覚的な選択もあいまって、研ぎ澄まされているというよりは、なまぬるく、まぬけですらある。とあるインタヴューでバンドのギタリスト、馬渕啓が「チョーキングしてもどこか無表情」と語っていたように(https://www.cinra.net/interview/201910-oya_ymmts)、OGRE YOU ASSHOLE の音楽においてギターの弦をくいっと指でもちあげることによるピッチの上昇が、なにかしらの情感やムードの変化を生むことはない。あるいはそれは、『新しい人』の音楽的なトピックであるアナログ・シンセサイザーの重用にしても同様で、“さわれないのに”や“過去と未来だけ”では、シンセサイザーがごくシンプルなリード・メロディをふぬけた単音で奏でているが(ロックやポップでシンセサイザーが試用されはじめた黎明期のころの音楽をほうふつとさせる)、機械的であるのではなく、ただひたすらにけだるい。“さわれないのに”のシンセサイザーのうねり、“自分ですか?”のモジュレーション、“朝”のスライド・ギターにしてもまたおなじである。ただそれらを耳にしても、あっ、なんかちょっとピッチが上がったな、なめらかにピッチがうつりかわったな、メロディっぽく聞こえるな、くらいの、微温の感想をせいぜい覚えるくらいのもの。まるで、道ばたに落ちているくしゃくしゃになったコンビニ店のビニール袋をちらっと見るくらいの感覚で。

 では、OGRE YOU ASSHOLE が引き算しているものとはなんなのか。それは、きわめてありがちで、おもしろみのない、そして抽象的な回答ではあるものの、エモーションである、というほかない。出戸は表題曲で、「新しい感情が生まれてくる」と、ぬるっと歌う。そこには、「新しい感情が生まれてくる」気配やムードは、からきしない。そもそもミシェル・ウエルベックの『素粒子』をリファレンスにしたという“新しい人”の詞は、2019年を生きる者にとって理解しえない、(そして、むこうにとってもこちらを理解しがたい)「新しい人」からの視点で書かれているのだという。この「新しい人」とは、「現代社会の苦々しい部分」を「克服した高次の存在」で、「遠い未来の人類」だと。つまりそれは、共約不可能な、まったき他者、ということである。そんな他者を想像し、ましてやその視点から歌うことなど、できないはなしなのではあるが、OGRE YOU ASSHOLE は、出戸は、それをやってみようとしている。そのためになされたことは、エモーションを極限までうすめ、なくすことである。いうなれば OGRE YOU ASSHOLE の引き算された(ように聞こえる)音楽とは、そして彼らのミニマリズムとは、「エモーションレス」といいあらわすのが近い。

 しかしそれは、たとえば「ひとの感情の機微を描いた」といった、わかりやすく経済的なキャプションには回収されない。「わかってないことがない」という二重否定の、二度目の否定が顔を現す寸前にがくっとずっこけ、しずみこむ、解決の延期とサスペンション。「さわれないのに」という逆説における、次のセンテンスの不在感。こうした「なにかがない」感覚は、繊細で微妙なエモーションですらなく、繊細さや微妙さも抜け落ちた、たしかな欠損感である。あるべきところになにかがない。なにかがすっぽりと、確実に抜け落ちている。しかし、その抜け落ちたものがなんなのかわからない。さらには、その欠損箇所がどこなのかもよくわからない。こういった、きわめて現代的で奇妙な感覚を、OGRE YOU ASSHOLE は奏で、歌っている。

『新しい人』は、たしかに OGRE YOU ASSHOLE の、現在のところの最高到達点である、と言ってしまおう。サイケデリアでもメロウネスでもなく、確実な欠損を(もしその欠損がエモーションというかたちになるとすれば、それは「かなしみ」であると、わたしは思う)、彼らは音楽にした。不在感がただあること、『新しい人』ではそれが鳴らされているのだ。

Moor Mother - ele-king

 この音楽はぼくにある光景を喚起させる。デトロイトにおいてテクノなる音楽が、すなわちたかが音楽と我々日本人が思っているモノが社会的なパワーとリンクすることを本気で目指していたあの時代のあの光景である。いや、それは彼の地においてまだ終わったことではない。
 そもそも高橋勇人が悪い。昨日、スカイプ越しにロンドンの彼から、チーノ・アモービはテクノ史におけるアンダーグラウンド・レジスタンスのような存在だと評論家サイモン・レイノルズがピッチフォークで書いているという話しをされた。そのときは、まあたしかになぁとは思ったけれど、しかし帰り道で、いや待てよ、現代のアンダーグラウンド・レジスタンスという言い方がもし許されるというなら、それはフィラデルフィア出身のムーア・マザーのほうがより相応しいのではないかと思い直した。それでこうして、深夜に書きはじめているのである。
 ムーア・マザー(本名:Camae Ayewa)の音楽は、アミリ・バラカ、サン・ラー、Pファンク、パブリック・エナミー、UR、ドレクシア、あるいはサミュエル・ディレイニーやオクタヴィア・バトラーのようなSF作家、これらアフロ・フューチャリストたちの系譜の現在地点である。すなわち西欧文明支配の社会に対する抵抗者であり、ジェイムズ・ブラウンやサム・クックのソウル、ボブ・マーリーやラスト・ポエッツを息を吸うように吸収し、そしていま思い切り吐き出している抗議の音楽。ついに出たか。
 
 ひと昔前なら、ブラック・エレクトロニック・ミュージシャンといえばその多くがクラブ・カルチャーに属していたが、ムーア・マザーは必ずしもそういうわけではない。ハウスやテクノはDJのときにかけているようだが、彼女の出自はパンクであり、ラップだ。
 また、彼女の思想的共同体にはフィラデルフィアのブラック・クアンタム・フューチャリズムなるアフロ・フューチャリズム(文化研究、DIY美学、音楽、文学、アート、ワークショップなど)のプロジェクトがある。彼女はそのメンバーのひとりで、主宰者であるラッシーダ・フィリップスはSF研究であり、単著をもつ作家であり、弁護士であり活動家だ。いずれにせよ、ムーア・マザーの3枚目のアルバム『ソニック・ブラック・ホールのアナログ流体』の背後には、ここ10年であらたな展開を見せている新世代による21世紀のブラック・ムーヴメントが深く関わっているようだ。

 ちなみに、1866年のメンフィスの暴動から2014年のマイケル・ブラウン射殺事件までの歴史がコラージュされているという前作『Fetish Bones』以降、ムーア・マザーはいっきに注目を集めている。クラインは、最大限の賛辞をこめて歴史の勉強のようであり「本を読みたくなる音楽」(紙エレ22号)だと言い、自分のアルバムに参加してもらったアース・イーターは、ムーア・マザーについて次のように語っている。「彼女は私が出会った人のなかで、もっとも強いインスピレーションをくれた人のうちのひとりだった。今後出会う人のなかでも、彼女ほどの人はあまりいないと思う。彼女のやっていることは世界にとってとても重要なこと。彼女は詩を通して、人間を超えた存在になっている。タイムトラベルという単純な概念が、彼女の詩のなかで実現され、彼女の詩に耳を傾けている人たちを、悲惨で恐ろしい時代へと連れていくことができる。だから本当にその恐怖を感じることができる。詩を活用して、人びとの想像力を掻き立て、私たちの歴史の恐ろしさを理解し、実感させることができるというのはすごいことだと思うわ。人びとをそういう風に感じさせるということは、とくに私の国ではとても重要なことだと思う」(紙エレ23号)

 我々日本人が彼女の政治的かつ文学的な言葉の醍醐味を経験するには高いハードルがある。それはわかっているが、クラインが「ティンバランド2.0」と喩えたそのサウンドも聴き応え充分である。「言葉は、政府が人びとをコントロールするために使われもするが、音楽が解放のための技術であるなら、より感覚で、より開けている」とムーア・マザーは『WIRE』誌の取材で語っている。ゆえに音楽とはひとつのジャンル/スタイルに閉ざされてはならないというのが彼女の考え方だ。
 よってサン・ラーからの影響に関して彼女は、そこにあらゆる音楽(ブルース、ドゥーワップ、ソウル、ジャズ、クラシック、電子音楽、ノイズなど)があることだと説いている。じっさい本作『Analog Fluids Of Sonic Black Holes』では、複数のゲストを招きながら、エレクトロニック・ミュージックのさまざまな形態が試みられている。アルバムを“音波のブラック・ホール”と言うだけあって、音響そのもものも素晴らしいのだ。
 たとえば冒頭の3曲、思わず空を見上げてしまいそうな、サウンドコラージュとポエトリー・リーディングによる“Repeater”、そして彼女の烈しいラップと強固なビートを有する“Don't Die”~“After Images”へと続く最初の展開には、まずもって圧倒的なものがある。それに続くのが、公民権運動家でもあったポール・ロブスンの歌声からはじまる“Engineered Uncertainty”となる。
 ソウル・ウィリアムスが参加した“Black Flight”でもまた歴史の暗い闇をエレクトロニック・アフロ・ビートが駆け抜けていく。そして、地元フィラデルフィアのハウス・マスター、キング・ブリットによるウェイトレス・トラックの“ The Myth Hold Weight”でアナログ盤のA面は終わる。
 「あなたを感じる」というソウル・ヴォーカルのループとぶ厚い電子音による“Sonic Black Holes”からアナログ盤のB面ははじまる。三田格がレネゲイド・サウンドウェイヴのようだとメールしてきた“LA92”では、1992年のロサンゼルスの暴動がラップされている。ムーア・マザーとコラボレーション・シングルを発表しているMental Jewelryは、今回も3曲で参加しており、力ある声で読み上げられる詩の朗読と有機的に結合するかのような、そしてあぶくのような雲のようなエレクトロニック・サウンドを提供している。そのうちの1曲“Shadowgrams”が終わると、ブリストルの注目株ジャイアント・スワンによる重たく揺れるグルーヴの“Private Silence”が待っている。フィラデルフィアのラッパー、Reef The Lost Cauzeを招いていて、ここでも彼女は烈しくラップする。
 最後から2曲目の“Cold Case”には、ジャスミン革命におけるアンセム“Kelmti Horra(わたしの言葉は自由)”を書いたチュニジアのプロテスト・シンガー、エメル・マトルティが歌っている。そしてアルバムの最後に収録された“Passing Of Time”には、実験的なサンバで知られるブラジルのバンド、メタメタのヴォーカリストであるジュサーラ・マルサルが参加している。

 ──ぼくはこのアルバムを発売日に購入し、それから何度となく聴き続けている。アナログ盤で聴いて、データでも聴いている(いまどき珍しくパワフルな作品なので、半分聴いて休憩入れられるアナログ盤を推薦します)。で、聴いているなかでいまも新しい発見があり、ゆえにいまもってこの作品をどうにもうまく説明できていないなと自分でもわかっている。ただひとつだけ言っておこう。ブラック・マシン・ミュージックの新章が本格的にはじまったと。先日レヴューしたアート・アンサンブル・オブ・シカゴの新作での客演もずば抜けていたが、このアルバムにもまた唸らされている。

消費税廃止は本当に可能なのか? (4) - ele-king

財政のために人々がいるのではなく、人々のために財政がある。

 本シリーズの第三回目では、政府や銀行はその支出に際し財源は必要ない、ただ金額を記帳するだけでお金が生まれるとする概念「スペンディング・ファースト(最初に支出ありき)」や「万年筆マネー(Key Stroke Money)」のことをお伝えした。

 このことは政府や中銀、市中銀行の会計を調査することによって明かになった経緯がある。関西学院大学の朴勝俊教授がランダル・レイ教授の著作「Modern Money Theory」の会計的側面に関する要点( https://rosemark.jp/2019/05/07/01mmt/ )をまとめてくれている。バランスシートを解読することはなかなか難しいかもしれないが、それによると資産と負債が常にイコールになっていることや、政府がただ支出することによって民間に預金が生まれていることがわかる。

出典:MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点:関西学院教授・朴勝俊

 「誰かの負債は誰かの資産」だ。例えば上図からは民間銀行の資産「⑩中央銀行券」は中央銀行の負債「⑩中央銀行券」に対応していて、そこからは私たちが普段使っている日本銀行券(通貨)は、もともとは日銀の負債だったこともわかる。

 信じられないかもしれないが、これは事実だ。主流経済学は「貨幣がどこでどうやって作られるか」に注目してこなかった貨幣ヴェール論のままにマクロ経済を論じてきた。ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン教授はMMTにも好意を示しているが、ランダル・レイ教授が以下のように批判している。高名な経済学者でさえ理解していなかったのだから、多くの人が知らなくても無理はない。

「彼は『お金が無から生まれるだって?』『政府の資金は尽きないのか?』といった問いを止められない。彼は”お金”が貸方と借方へのキーストロークの記録であることを全く理解していない。いまだに銀行が預金を取り込み、それらを政府に貸していると考えているんだ」
出典:New Economic Perspectives

 さて、財務省のプロパガンダを信じておられる方は「それでも政府債務である国債が1100兆円にも膨れ上がっているのだから、早く返さなければいけないのだ!」とツッコミを入れるかもしれないが、その点もとくに心配はいらない。

 MMTの視点では、政府支出後に発行された国債は金融市場を介して中銀の発行する準備預金と両替されるだけであり、また「政府の赤字は民間の黒字」「政府の債務は民間の資産」だと認識しているため、国債発行残高(累積債務)はただ単に貨幣発行額を記したものに過ぎないとされる。逆に国債を償還するということは世の中にある通貨を消滅させるということになるので、とくに減らす必要もない。

 その他のポストケインジアンらの視点では、中銀に買い取られた既発国債は借換を繰り返し消化され、またその中銀保有国債に満期が到来した時は、日本の場合は特別会計の国債整理基金とのやりとりを介して公債金という名の現金として財源化、国庫に納付されるだけとなる。国債償還費の殆どは日本政府の子会社である日銀が払っているし、本来は税金で償還する必要さえないのだ。
(参考:政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について -富山大学名誉教授・桂木健次


出典:政府債務の償還と財源の通貨発行権(借換債と交付債)について ポストマルクス研究会報告 -富山大学名誉教授・桂木健次

 桂木教授本人は「私は覗き見ポストケインジアンのポストマルクス派」と自称されているが、経済学も時代と共に進化するので、一つの学派に限らずいろんな研究成果を取り入れるということだろう。財務省の皆さんにも、ぜひ時代遅れとなった新古典派から脱却し、情報をアップデートしてほしいものだ。

 上記のような国債会計処理の事実があることを知ってか知らずか、--知っていてやってるとしたら悪質極まりない背信行為であるが-- 政府がどケチで、その債務ヒエラルキー下部に属する民間銀行や民間企業もどケチなため、実体市場に貸し借りが生まれない。貸し借りが生まれないということは、債務証書たる通貨も創造されえないということだ。

 通貨がこの世に生まれないから、人々は通貨を手に入れる機会を失い、消費もしなければ投資もしない。繰り返しとなるが「誰かの消費は誰かの所得」だ。誰かが消費しなければ他の誰かの所得が増えるはずもなく、経済は縮小していくのみとなる。

 政府が通貨を創造し、実体市場に供給しなければ、民間はただただ限られたパイ(通貨)を奪い合う弱肉強食の資本主義ゲームに没頭せざるを得なくなるという寸法だ。更には、この実体市場に通貨が足りない状況に加えて、市場から通貨を引き上げる消費増税まで幾度も強行されてきた。

 このような狂ったことを20年間やり続けたことによって、この国の需要は損なわれ、あらゆる産業は衰退した。その結果、台風被害に対する治水などの防災体制や、復旧のための供給能力は毀損された。停電が長引いたことによる二次災害となる熱中症で亡くなる人まで出す有り様になってしまったのだ。被害にあわれた方たちのことを思うと強い憤りを感じずにはいられない。

 そう、まさに「Austerity is Murder(緊縮財政は人を殺す)」だ。

 筆者の目には、この状況は「欲しがりません、勝つまでは」と言いながら、兵站を削りインパールに向かった大日本帝国軍の行軍そのものに見える。

 ケルトン教授は来日時に、「大企業や富裕層らの既得権益を代表する一部の共和党議員は、ほかの国会議員にMMTのロジックが知られてはまずいと思っているからこそ、MMTを危険だとする非難決議を国会に提出した。MMTを理解した政治家によって大多数の国民が助かる政策にお金が使われてしまうことを恐れたからだ。これは逆に、彼らが、政府の赤字支出が誰かの黒字になることを知っている証拠ともなる」ということを語っていた( https://www.youtube.com/watch?v=6NeYsOQWLZk )が、MMTや反緊縮のロジックが知られるとよほど都合の悪い勢力がいるということだ。

 エスタブリッシュメントは、自身らの草刈り場である金融市場にお金を流すことで利益を得ようとしているため、財政政策を介して実体市場にお金が供給されることで、金融市場における自らの利益が減ることを防ごうとしているのだろう。実際にはそんなトレードオフが起こるとも限らないのだが。


 先月、日経新聞が「消費増税に節約で勝つ 日常生活品にこそ削る余地あり」と題した記事で、”買わないチャレンジ”として、「何カ月かすると、それまでは当然のように思っていた物欲が、ほとんど強迫観念のようなものだったことに気がつきました」「日常生活費を削減するため、まずは買わない生活を」といったことを書いていた。

 日経新聞も、本シリーズ冒頭で触れた経団連や経済同友会などと同様に「家計簿脳」まる出しである。このような記事を重ねることで国民の消費活動を抑制させれば、日本経済を破滅に導くことになりかねない。日経新聞が訴えるべきは政府にもっと各所に財政支出をしろ、減税しろということではないか。筆者には何かしらの意図があるように思えてならない。

 日本国内ではこのように気の滅入る論説ばかりが目につくが、海の向こうでは一つの兆しも生まれた。先日、欧州中央銀行のドラギ総裁が、「ECBと各国政府は、金融政策ではなく財政政策に力を入れるべきで、MMTやヘリマネのようなアイデアにもオープンになるべきだ」と発したのだ。

 ドラギ氏は、加えて「ECBが国債を直受け(財政ファイナンス)し、消費者に直接届ける」という向きでも発している。この一連の発言が、どこまで具体性を帯びた政策を想定しているのかはわからないが、各国政府に財政出動を勧めたうえで、ECBは最後の貸し手(Lender of Last Resort「LLR」)役以上の役も担うということなのかもしれない。富を吸い尽くすドラギラ伯爵とも揶揄された彼の、任期満了直前の置き土産といったところか。

 この手の「金融緩和は役割を終えた。財政出動が有効だ」とする論はドラギ氏だけではなく、ポール・クルーグマンをはじめ、IMFチーフエコノミストでMIT名誉教授のオリビエ・ブランシャールや、元ハーバード大学学長で元世界銀行チーフエコノミストのローレンス・サマーズらも同様の発言を重ねているほか、実際にドイツ政府は、景気後退への対応策として国民経済の需要を押し上げるために巨額の財政出動を準備していると伝えられている。

 また、先日開かれたG20では、主要国からは「金融政策頼み」をやめ、財政政策にシフトすべきだとの声も上がっている。IMFのゲオルギエワ専務理事は「金融政策だけでは役に立たない」とも主張していた。

 MMTer達は、この「役割を終えた説」よりもっとラディカルな「金融緩和無効論」を早くから論じてきている。ランダル・レイ教授は「中央銀行家は財政政策をどうすることもできない。彼らは、配られた唯一の手札、つまり金融政策でしかプレイできないが、その手札はバランスシート不況においては無力(インポ)である。回しているそのハンドルは経済に繋がっていなかった」と「MMT 現代貨幣理論入門(p473)」に綴っている。

 MMTが注目される背景には「金融緩和策は資産価格を上昇させ、富裕層だけに恩恵を与えた」という不信感もあるのだが、いずれにしても、上述したように、MMTerと同じような発言が、欧米の超大物エコノミスト達からも発せられているのだから、エスタブリッシュメントの庇護者である自民党や財務省、経団連も無視できないのではないだろうか。


 日本では、山本太郎氏の影響もあってか、共産党のみならず国民民主の小沢一郎議員原口一博議員、立憲の川内博史議員ら野党大物議員からも消費税減税ないし積極財政の声が聞こえつつある。加えて、山本太郎氏や松尾匡教授らとマレーシア視察に行った立憲若手の中谷一馬議員は、「MMT(現代貨幣理論)に関する質問主意書」と題した見事な質問書を衆議院に提出している。

出典:衆議院・第200回国会 中谷一馬議員 質問主意書

この質問書と、対する政府答弁に関しては、11月4日と5日に来日講演を予定しているMMT創始者の一人のビル・ミッチェル教授(ニューキャッスル大学)も呼応している。我々一般国民は、野党の議員たちにも声を届けつつ、議論の輪を拡大し、大いに期待して待てば未来は明るいと感じさせてくれる。

 消費税廃止は可能だ。わが国の財政にも心配はない。無意味な心配をし、出し惜しみをすることで余計に状況が悪化することを、わが国は20年かけて証明してきたじゃないか。

 「財政のために人々がいるのではなく、人々のために財政がある」とは、松尾匡・立命館大学教授の言だ。政府財政を均衡させることに意味はない。むしろ財政黒字化のために、徴税で人々のポケットからお金を奪うことは国力の衰退につながる。政府は人々にもっとお金を支出し、経済活動を活発化させることで、生産力を維持し、人々を幸せにしなければならないのだ。

 本稿のような情報に初めて触れられた方もおられるだろう。経済学初学者でミュージシャンである筆者の下手くそな理論解説にもどかしい思いをされたであろうことをお詫びしたい。

 と同時に、たとえば以下のような発言をみたとき、少なからず違和感を覚えていただけたら幸いである。こういう発言こそが、経済学でいう「合成の誤謬」と呼ばれるひとつの勘違いであり、この国を衰退させる考えだからだ。

 ユニクロ・柳井正氏「このままでは日本は滅びる。まずは国の歳出を半分にして、公務員などの人員数も半分にする。それを2年間で実行するぐらいの荒療治をしないと。今の延長線上では、この国は滅びます

Endon / Swarrrm - ele-king

 スプリット盤、はとくにパンクやハードコア、メタル等において顕著な音源形態であり、それは過剰なロックへと表出するなんらかの強固な思想、の分かち合いである……と個人的には思っている。
 で、“わいしんろん”と読むらしい。おそらくはグノーシス主義における反宇宙的二元論に属する思想であろう。物質で構成された悲惨な世界は“偽の神”によって創造された“悪の宇宙”であり、一方“霊”あるいはイデアーこそが真の存在であり「真の世界」に帰依するものである……云々といったアレである。スワームの“偽救世主共”から連想せずにいられるものか。

 ゼロ年代初頭、筆者は超が付くほど熱心なメタルコア、もしくは当時の言葉をかりればシンキング・マンズ・メタル(考える野郎のメタル)のファンであった。当時東海岸を中心に盛り上がりをみせていた新生エクストリーム・ミュージックの担い手、具体的にはコンヴァージやアイシス、ボッチ、ケイヴ・イン、デリンジャー・エスケープ・プラン、カンディリア、ニューロシス、サンやカネイトなどなど……繊細かつプログレッシヴで、それでいて圧倒的に攻撃的なバンドの台頭はロックの未来を確信させる体験であった。それらは高柳昌行をはじめとする日本のフリージャズ、即興演奏が海を渡ってロックとして昇華、消化されていく現象でもあった。そんな当時、筆者が同様の熱気を持って観覧するバンドが二組いた。ヘルチャイルド/フロムヘルとスワームである。90年代より国内のエクストリーム・ミュージックを引率してきた彼らが前述のバンドらを含む国外の次世代へ与えた影響は計り知れない。別個のバンドである両者を一口に語ることはできないが、彼らのギミックを排したエクストリーム・ミュージック、本来の形態としてのロックンロールの究極系を探求するサウンド、シーンに蔓延していたマッチョイズムとは一線を画したグローバルな活動、など、当時自分はこのようなバンドが国内に存在することに驚愕し、その活動を間近で観られることに至極の喜びを感じていたことはいまでも色あせずに記憶に残っている。

 歪神論は国内外に囚われることのない文化交易の賜物と断言できる。エンドンは近年の音源に顕著なパンキッシュなソングライティングと彼らのバックグラウンドとも言えるフリージャズの鍛錬を見事に表出させた楽曲を収録。とくにコンフリクトのアルバム『ザ・ファイナル・コンフリクト』を彷彿させる、アシッドを食ったモヒカン共がステージ上でDビートを用いて宇宙と交信を試みているような曲展開には圧巻だ。メンバーの精神状態を疑うほどの楽曲全体に充満する不穏な空気はさながらSPKの如きガチ狂気。バンドがなければ今頃コイツ等は間違いなくブタ箱の中だろう。対する御大スワーム、恥ずかしながらVoの原川氏の加入以降のバンドの軌跡を追えていなかった自分にとって驚きを隠せない。暗喩を排した日本詞、ジャパニーズ・ハードコア史からその純粋、無垢な魂のみを結晶化したような楽曲にはある種のポップネスすら感じられる。両者の対比は冒頭に語った反宇宙的二元論、物質からなる肉体を悪とする結果のふたつの対極的な道徳を感じさせる。スワームのストイックなまでの楽曲、リリックはもはや禁欲主義とも捉えられるし、エンドンの禍々しいサイケデリアは霊は肉体とは別個ゆえ、肉体が犯した罪悪とは切り離されるという論理の元にあらゆる不道徳に走る放縦主義として捉えられる。

 どちらに成る事もできない自分のような半端者にとっては現在の日本のロックの聖典なのかもしれない。

interview with Adrian Sherwood - ele-king

 トロトロに様々な具材が溶け合った濃厚なスープのようなアルバム『Heavy Rain』。リーの軽快なヴォーカルを温かなルーツ・リディムで彩った『Rainford』に対して、サイケデリックで混沌としたコラージュ感と重心の低いリズム・トラックは〈ブラックアーク〉末期を彷彿とさせる。しかし、本作『Heavy Rain』は単なる“ダブ・アルバム”と呼ぶにはいささか不思議な体制のアルバムになっている。そう、リー・スクラッチ・ペリーの最新作『Heavy Rain』は不思議なアルバムだ。いわゆるダブ・アルバム──アルバムの頭からお尻まで全ての曲を単にエイドリアン・シャーウッドがダブ・ミックスしたヴァージョン集ではない。もちろん続編やアウトテイク集でもない。そのオリジナルとも言える『Rainford』に収録されている楽曲のダブ・ミックスも収録されているが、今回はじめて登場するリディム・トラックの楽曲も収録されている。また単にトラックだけでなく、新たなアーティストも参加している。まず、リーのダブワイズされたヴォーカルが行き交うなか、ヘヴィなリディムをベースに、トロンボーン特有のゆったりとした心地よい熱風のような旋律が流れてくる。その主は、ヴィン・ゴードン──レゲエ・ファンにはおなじみの伝説的トロンボニスト──1960年代末からポスト・ドン・ドラモンド(実際にドン・ドラモンド・ジュニアと名乗っていたこともある)としてジャマイカの音楽シーンにて大量に名演を残しているレジェンドが参加している。インストに管楽器奏者やキーボーディストが新たな旋律を加えることはジャマイカ・ミュージックの常套手段でもあるが……おっと忘れてはいけない、なにより本作の大きなトピックとなっているのはブライアン・イーノの参加だ。『Rainford』の先行シングル・カット曲とも言える“Makumba Rock”のクレイジーで強烈なイーノとエイドリアンによるダブ・ヴァージョン、すでに『Heavy Rain』に先駆けて先行公開されている“Here Come The Warm Dreads”(イーノが自身の『Here Come The Warm Jets』をもじったものだとすれば、往年の〈ON-U〉ファンにはアフリカン・ヘッド・チャージの『My Life In A Hole In The Ground』がニヤリと頭に浮かぶだろう)。本作はある種リー・スクラッチ・ペリーのヴォーカル・アルバム『Rainford』を、その存在そのものをダブで拡張してみせた、そんなアルバムだ。

新しい人と一緒にやって新たなアイデアを取り入れる必要があるんだ。1975年ではなく2020年におけるリー・スクラッチ・ペリーらしいレコードを作ろうとしたわけだ。

今回の『Heavy Rain』は、いわゆるオリジナルの『Rainford』をもとにした純然なスタイルのダブ・アルバムではありませんよね?

エイドリアン・シャーウッド(Adrian Sherwood、以下AS):確かにね。でも、だって同じもの、同じもの、同じ、同じ、同じ……ってやっててもなにも進歩がないだろう? 今回のレコードにはヴィン・ゴードンをはじめとする素晴らしいアーティスト、さらにブライアン・イーノも参加している。俺やリーはダブのはじまりからずっとやってきたけど、まだ新しい人と一緒にやって新たなアイデアを取り入れる必要があるんだ。そして1975年ではなく2020年におけるリー・スクラッチ・ペリーらしいレコードを作ろうとしたわけだ。実際すごく新鮮でエキサイティングなレコードになったと思うね。

リーをメインに添えた『Rainford』とも違ったものになっていると思いますが、アルバムのサウンド・コンセプトなどはあったんでしょうか?

AS:まず『Rainford』のコンセプトはリーの極私的なレコードを作るというものだった。リーが自らのライフ・ストーリーをその歌で語りつつ自分自身について明かしていくというね。実際とても親密で素晴らしいレコードになったと思う。対して『Heavy Rain』だけど、これは他のプロモーションのインタヴューでも話したことなんだけど、あえてリーの過去の傑作にたとえるならば『Super Ape』なんだ。これはダブの発展系であり、いろんなフレーバーが楽しめるものになっているんだよ。それに『Rainford』はあの形で完璧な作品だと思ったから、一緒にレコーディングした楽曲で、残念ながら入れられなかった曲がいくつかあった。でもクオリティ的には収録曲と何ら遜色のない素晴らしい曲たちだったから、それを『Heavy Rain』に入れたんだ。だから『Rainford』が好きなファンは絶対『Heavy Rain』も気に入ると思う。

『Rainford』に対して『Heavy Rain』というタイトルがつけられています、これはどこからもたらされたのでしょうか? よくあるダブ・アルバムっぽい、ヘヴィなサウンドとオリジナルのタイトルをもじったものだと思うけど。

AS:そこには明らかに二重の意味があって、まずひとつは、そのアルバムのヘヴィなベースラインを示唆している。そしてもうひとつは字義通りの「空から降ってくる激しい雨」という意味だけど、それは、このレコードが喚起するものすべてを表わしていると思う。「Rainford」はリーの名前で、彼も非常にパワフルでヘヴィだからね。

今回のジャケットは、キリストの肖像画をコラージュしたもののようですが、これにはなにか意味することがあるのでしょうか?

AS:いわゆる一般的に伝統的なキリストのイメージというのは白人のイタリア人として描かれている。それは、いまやいたるところで目にするわけだけど、実際のキリストはおそらくもっと肌の色が濃い誰かだったはずなんだよ(*おそらくエイドリアンは中東に生まれたことを示唆している)。ハイレ・セラシエ一世が古代イスラエルのソロモン王の末裔だとしたら、古代のイスラエル人は黒人の種族なわけだからね。つまりジャケットのアイデアは、キリストが黒人じゃないといまどうして言い切れるのかということなんだ。もっと言えば、黄色人種じゃないとも言い切れないだろ? こういうキリストのイメージを使うことで怒る人もいるかもしれないけど、でもそれはもう、ファック・ユー(失敬)と言うしかない。そもそもイタリア人が元のイメージを盗んで作り上げたものなんだしさ。伝統的と言われているものに、本当にひとつでも正確な描写があるのかよっていう。まあ俺の意見だけどね。

伝統的と言われているものに、本当にひとつでも正確な描写があるのかよっていう。

80年代、ジャマイカから移り住んだリー・ペリーとともにすでに40年近く作業を共にしていると思うのですが、いままでにリー・ペリーと一緒に作業をして驚かされたことはありますか?

AS:リーは不思議なものが好きで、いつもロウソクや電気で遊ぶんだ。『Time Boom X De Devil Dead』を作ってたときに、友だちのデヴィッド・ハロウ(*アフリカン・ヘッド・チャージなどに参加、1990年代に入るとテクノヴァ、ジェームス・ハードウェイ名義でテクノ・シーンで活躍)が、スタジオの中を指して「見ろ、見ろ」って言うんだよ。そうしたらリーがひとりでスタジオにいて椅子の上に立っていて。俺たちはそれを廊下から見ていたんだけど、彼は片手で天井の大きな電球を握っていて、それがショートして明滅してたんだ。そして左手には触ると電気ショックがくる子供のおもちゃを持っていたんだよ。だから右手で電球を握って自分の手を焦がしながら左手で感電していたわけさ。どうしてそんなことをするかって? そんなのリー本人のみが理由を知っているんだ。たぶん自分で電気を発生させようとしていたんじゃないかな。

リーがあなたのところにいたときに、いろんなもの(機材や7インチ・レコード)を土に埋めていたとききましたが、本当でしょうか? またあなたから見てそれはどういう意味があったと思いますか?

AS:埋めてたのは本当で、それはレコードを育てるため。そしてもっと売れるようにするため。面白がって一枚だけ庭に埋めてたんだよ。そしたらもっと売れると彼は考えたわけさ。

さて今回の一連の作品に関してリーはどの程度制作に関与していたのでしょうか?

AS:まずジャマイカに行ってリーと彼の妻の家で1週間ほど過ごしてヴォーカルを録り、次に彼がイギリスに来てそこでもいくつかリディムを作ったんだ。そのときにリー自身にもパーカッションを叩いてもらい、オーヴァーダブをした。もろもろサウンドの提案もしていったよ。そのあとで自分がミックス作業をしたんだ。だから彼の関与はミックスの工程よりもレコーディングの工程が大きいといえるね。『Time Boom X De Devil Dead』の頃とか、40年ほど前はもっとミキシングにも関わっていたけど。そうやって前にも一緒にミキシングもやっていて、ちゃんとコミュニケーションも取れていて、彼が求めているものは把握しているからね。逆に言えばリーから「これは好きだ、これは好きじゃない」といった意見も出てくるからうまくいっていると思う。

ブライアン・イーノとのコラボレーション“Here Come The Warm Dreads”はどのような経緯で?

AS:ブライアンとはこれまでに何度か会ったことはあったけど、お互いをよく知っているというよりも、お互いについて知っているという感じで、何かを一緒にやったことはなかった。ただマネージャーが同じなんだよ(笑)。だからマネージャーに「ちょっとブライアンに興味があるか聞いてみてもらえるかい?」と頼んだのがきっかけなんだ。そうしたら「ぜひともやりたい」という返事をもらったんだ。ものすごくシンプルな話なんだよ。

“Here Come The Warm Dreads”は片方のチャンネルが完全に喪失したりと、かなりトリッキーなミックスがなされていますね。相当スタジオで盛り上がって作ったんじゃないでしょうか?

AS:かなり楽しい作業だったよ。ただ一緒にスタジオに入ったわけじゃないんだ。作業の直前に、ブライアンがすぐに何週間かどこかへ行ってしまうというタイミングだったから一緒にスタジオに入れなくて。なので、素材を渡して彼は彼でミックスをして俺も俺でミックスをしたんだ。それを後で合体させたというわけ。事前のプランではスピーカーからそのまま音が飛び出してくる感じにしようと話してたから、ある瞬間に片方のスピーカーから俺のミックスが聴こえてきて、彼の音がもう片方から聴こえてきたり、次の瞬間にそれが真ん中で合流したりするという感じなんだ、まあ少々複雑なんだけど、あのトラックは完全にイカれてるね。

イーノはアンビエントの創始者ですが、リーもダブのパイオニアのひとりです。アンビエントとダブに共通するものはなんだと思いますか?

AS:余白、スペースがあるってことだね。たっぷりとしたスペースがあり、そして思考を刺激するところだ。

オリジナル・アルバム+ダブ盤ともに、バックヴォーカルで娘さんふたりが参加されていますね。彼女たちは音楽活動をしているんですか?

AS:ふたりとも声がすごくいいからさ。上の子は音楽をやっていて一緒に作ったレコードもあるんだけど、彼女は心理療法士なんだ。

今回の音源には、スタイル・スコットが殺される前、最後になってしまったレコーディング・セッションの音源が入っている。彼はジャマイカのリズムを変えたんだ。いまのバンドを聴いてみてもその影響がはっきりとわかるね。

ヴィン・ゴードンが多くの曲にフィーチャーされていますが、彼の起用はどんな理由から?

AS:彼は Ital Horns のトランペット奏者のデイヴ・フルウッドと友達で、デイヴからヴィンが来るという話をきいて、とにかく彼とレコーディングをするチャンスだと思ったんだ。彼との仕事はこの上ない喜びだった。もうだいぶ前に、ほんの少しだけ仕事をしたことがあったけど、今回参加してもらえて本当にうれしかったよ。ヴィンはものすごく紳士な人だ。その場で彼の演奏を聴いているときは彼がどんなにすごいことをしているのか気づかないんだけど、ふしぎとあとで聴くとすごいのがわかるんだよ。

フィーチャリングというと、ジ・オーブやユースなどとも活動している、ガウディというイタリア人のキーボーディストが今回のアルバムでフィーチャーされていますね

AS:ガウディは良い友だちで、めちゃくちゃ才能がある。そして、すごくいいやつだよ。珍しいおもちゃのシンセサイザーだったり、楽器をたくさん持っていたりとか、趣味が良いんだよね。正直、今回『Rainford』と『Heavy Rain』の両方でガウディが果たした役割は大きかったし重要だった。彼は今度出るホレス・アンディのアルバムもやってるよ。

また今回の作品は、最初期の〈On-U〉から活動しているクルーシカル・トニーなども参加しています、彼はあなたにとってどのような人物ですか?

AS:彼とは、俺が初めて作ったレコードから一緒だからね。今回のレコードにとってもトニーとジョージ・オバンは決定的に重要で、全曲で演奏してるんだ。言ってみれば彼らがバックボーンとして支えてくれているわけ。トニーは俺が一番好きなリズム・ギタリストでジョージは俺が一番好きなベーシストで、ふたりとも本物だよ。

そして今回は故スタイル・スコット、さらには〈On-U〉初期から活動しているパーカッショニストのマドゥーなどなど、往年のアーティストのクレジットがあります。それを考えると今回、古いマテリアルも入ってそうですが。

AS:今回の音源には、スタイル・スコットが殺される前、最後になってしまったレコーディング・セッションの音源が入っている。そのときのセッションから、リディムをふたつ使っていて、そのうちのひとつは『Rainford』の収録曲。さに、もうひとつ『Heavy Rain』で使っているよ。マドゥーは、〈On-U〉初期からの付き合いで若い頃から知ってるけど、昔の音源ということではなく、今回はわざわざパーカッションを演奏してもらってる。スタイル・スコットも21歳の頃から知っていて、40年来の仲だったわけだけどね。彼に起こったことを考えると毎日胸くそが悪くなる。彼はジャマイカのリズムを変えたんだ。いまのバンドを聴いてみてもその影響がはっきりとわかるね。本当に彼と友だちでよかったし、一緒にやることで自分のサウンドがすごくいいものになったと思えた。あれほど素晴らしい人物と接することができてよかったよ。

クレジットを見る限り、スタイル・スコットのドラムのマテリアル以外は“プリゾナー(Prisoner:囚人)”なる人物がプログラムしたドラムのようです。あなたの別名義なんでしょうか?

AS:ええと……まぁ、そうだね(苦笑)。昔ベースを弾いてる頃はクロコダイル(Crocodile)という名義だったけどね。ドラムのときはプリゾナーだったんだ。なぜその名前かというと、単に面白かったからだけど、あとはいろいろな音をサンプルして機械の中に音を閉じ込めてたからそういう意味もあったんだ。1980年代、いまのPCでのDAWができるもっと前に、AMS Audiofile (最初期のデジタル・オーディオ・エデター)という機材があって、それでサンプルした音を、テープを操作しながらレコードに挿入していったわけ。その当時、俺はその作業で作った音源を“キャプチャーした(捕らえられた)”サウンドと呼んでいたんだ。それでプリゾナーてわけさ。

本作に参加している往年のアーティストたちとの間に、〈On-U〉の音楽から派生したコミュニティがあるのでしょうか? かつてそこでパンクとレゲエが出会ったように、いまでも〈On-U〉の音楽に影響を与えていますか?

AS:コミュニティという感じは昔の方が強かったな。悲しいことに多くの友人が死んでしまったからね。リザード(Lizard、ベーシスト)も(ビム・)シャーマンもスタイル・スコットもプリンス・ファーライもさ。それに俺たちもみんな歳を取ったし……依然として出会いの場にはなってるけど音楽業界も昔とは違う。昔はそれこそ(マーク・スチュワート&)マフィアもタックヘッド、ダブ・シンジケート、リー・ペリー、あとはアフリカン・ヘッド・チャージもみんなしょっちゅうギグをやってたけど、いまはそうじゃない。アフリカン・ヘッド・チャージは調子いいけどね。いまでもレーベルは一目置かれているけど、全盛期のように毎週ギグがあるっていうことではないからさ。いまはレギュラーで活動しているというよりもスペシャルなイベントをやるという感じだな。まずはもうすぐレーベル40周年だからそれに向けて色々やる予定だよ。

Rian Treanor - ele-king

 数年前に〈The Death Of Rave〉からの12インチでデビューを飾り、昨年は復活した〈Arcola〉からの「Contraposition」(別エレ〈Warp〉号94頁参照)や、行松陽介がよくかけていたというホワイト盤エディット集「RAVEDIT」(紙エレ23号38頁参照)で注目を集め、今年は〈Planet Mu〉より強烈なファースト・アルバム『Ataxia』を送り出した新世代プロデューサーのライアン・トレナーが、なんと、早くも初来日を果たす! 迎え撃つのは、日本初のゴム・パーティ・クルーたる TYO GQOM の5人。いやいや、これは行くしかないっしょ。

Local X8 World Rian Treanor VS TYO GQOM

大陸を超える未来のハイパーIDM、Autechre や Mark Fell を継承するUKの新星 Rian Treanor 初来日!

ゴム、シンゲリ、ハウス、テクノ等を交え現行のアフリカン・ミュージックを東京にて追随するクルー〈TYO GQOM〉を迎えた、ウガンダの新興フェス〈Nyege Nyege〉とも共振する新感覚のアフロ・エレクトロニック/レイヴ・ナイト。

Local X8 World Rian Treanor VS TYO GQOM
2019/12/06 fri at WWWβ
OPEN / START 24:30
ADV ¥1,800@RA | DOOR ¥2,500 | U23 ¥1,500

Rian Treanor - LIVE [Planet Mu / UK]

[TYO GQOM]
- KΣITO
- mitokon
- Hiro "BINGO" N'waternbee
- DJ MORO
- K8

詳細: https://www-shibuya.jp/schedule/011898.php
前売: https://jp.residentadvisor.net/events/1348973

※ You must be 20 or over with Photo ID to enter.

■ Rian Treanor [Planet Mu / UK]

Rian Treanor は、クラブ・カルチャー、実験芸術、コンピューター・ミュージックの交差点を再考し、解体された要素と連動する要素の洞察に満ちた新しい音楽の世界を提示する。2015年にファースト12”「Rational Tangle」と〈The Death of Rave〉のセカンドEP「Pattern Damage」で鮮やかなデビューを果たし、〈WARP〉のサブ・レーベル〈Arcola〉は2018年に彼のシングル「Contraposition」でリニューアルしました。〈Planet Mu〉のデビュー・アルバム『ATAXIA』はハイパー・クロマチックなUKガレージと点描のフットワークを再配線し、UKアンダーグラウンド・クラブ・ミュージックの破壊的で不可欠な新しいサウンドとして確立される。2019年は故郷のシェフィールドの No Bounds Festival のレジデント、最近のライブでは Nyege Nyege Festival (UG)、GES-2 (RU)、Serralves (PT)、Irish Museum of Modern Art (IRL)、Berghain (DE)、OHM (DE)、Cafe Oto (UK)、グラスゴー現代美術センター(UK)、Empty Gallery (HK)、Summerhall (UK)に出演。香港の yU + co [lab] やインドでの Counterflows 2016-2017 のアーティスト・レジデンスへ参加。

英国で最も刺激的な新しいプロデューサーの1人 ──FACT

シェフィールドの音楽史を参照しながら、まったく新しい方向性を提示した ──WIRE

音楽の好奇心に火をつけると同時に体も持って行かれてしまう。ダンス・ミュージックはこれ以上面白くなることはないであろう ──MixMag

https://soundcloud.com/rian-treanor

■ TYO GQOM [Tokyo]

南アフリカ・ダーバンで生まれたダンス・ミュージック「GQOM(ゴム)」を軸に現行のアフリカン・ミュージックをプレイする日本初の GQOM パーティー・クルー。GQOM が注目され始めた初期から自身のプレイや楽曲に取り入れてきたメンバーやアフリカの現行音楽に特化したメンバーを KΣITO が招集し、KΣITO、K8、mitokon、Hiro "BINGO" N'waternbee、DJ MORO の5人のDJにより発足。GQOM に留まらず、タンザニアの高速ダンス・ミュージック「シンゲリ」やアフロハウス、テクノなどを交えた5人それぞれの個性溢れるプレイと踊らずにはいられないグルーヴ、熱気を帯びた新感覚のパーティーは各地で話題を呼び、ホームである幡ヶ谷 forestlimit で定期的に開催される本編の他、様々なパーティーにも招かれるなど今熱い視線を集めているクルーである。

https://twitter.com/tyogqom

Nérija - ele-king

 現在のロンドンのジャズ・シーンの特徴のひとつに、女性ミュージシャンが数多く活躍していることが挙げられる。女性ということで切り分けることは、ときに批判を招く恐れもあるのだが、ただほかの国や地域と比べて女性ミュージシャンが圧倒的に多いことは事実で、特に女性が多いシンガーというジャンルだけでなく、さまざまな器楽演奏家に及んでいる。こうした土壌を生んだ要因のひとつに、トゥモローズ・ウォリアーズの存在が挙げられる。トゥモローズ・ウォリアーズはギャリー・クロスビーと、そのパートナーのジャニー・アイロンズによって設立されたミュージシャンの育成・支援機関であるが、ジャニーは慈善事業など社会活動家でもあり、そんな彼女がトゥモローズ・ウォリアーズを興したきっかけのひとつに、男性に比べて活動の場が制限されることの多い女性ミュージシャンの進出に貢献できればということがあった。そうしてトゥモローズ・ウォリアーズには多くの女性ミュージシャンの卵が集まり、巣立っていった。ザラ・マクファーレン、カミラ・ジョージ、サラ・タンディなど、現在の南ロンドンを中心に活動するミュージシャンがそうで、女性ミュージシャンが集まったヴィーナス・ウォリアーズというプロジェクトが組まれたことがある。このヴィーナス・ウォリアーズには、ワーキング・ウィークなどでも活躍したベテランのジュリエット・ロバーツほか(彼女はトゥモローズ・ウォリアーズ出身ではないが、コートニー・パインやギャリー・クロスビーらジャズ・ウォリアーズの面々と親交が深く、別働バンドのジャズ・ジャマイカにも参加していた)、ヌビア・ガルシア、シャーリー・テテ、ロージー・タートン、ルース・ゴラーなどが参加していたが、ヌビア、シャーリー、ロージーはトゥモローズ・ウォリアーズ内でほかにネリヤというグループも組んでいた。

 ネリヤは女性7人組グループとしてスタートし、初代メンバーはヌビア・ガルシア(テナー・サックス、フルート)、キャシー・キノシ(アルト・サックス)、シーラ・モーリス・グレイ(トランペット)、ロージー・タートン(トロンボーン)、シャーリー・テテ(ギター)、インガ・アイクラー(ベース)、リジー・エクセル(ドラムス)だった。ヌビアとシャーリーはマイシャでも活動し、またシード・アンサンブルにはキャシー、シーラ、シャーリーが参加し、シーラがリーダーを務めるココロコにもキャシーが参加するといった具合に、彼女たちのサークルは南ロンドンのジャズ・シーンの中核を担っていると言える。2016年に自主制作でデビュー作の「ネリヤEP」を発表するが、これが〈ドミノ〉のスタッフの目に留まり、今年改めて〈ドミノ〉から再リリースされると共に、ファースト・アルバムの『ブルーム』が発表された。〈ドミノ〉はどちらかと言えばインディー・ロック、オルタナ・ロックのイメージが強く、かつてはポスト・ロック期のフォー・テットはじめ、ジム・オルーク、マウス・オン・マーズなどを紹介していたことで知られるが、今年はシネマティック・オーケストラからブラッド・オレンジまで、ますます幅広いアーティストの作品をリリースしている。ネリヤのどのあたりに〈ドミノ〉が惹かれたのかはわからないが、恐らくオーソドックスなジャズ・バンドとしてではなく、ジャズの枠を超えた何かオルタナティヴなものを感じたからではないだろうか。ジャンルや音楽性は全く違うが、かつてのザ・スリッツやESG、ザ・レインコーツといったオルタナティヴなガールズ・グループ的なモノを感じたのかもしれない。

 さて『ブルーム』の録音では、ベースのインガ・アイクラーがリオ・カイへと替わっている。リオは男性なので、ネリヤは女性バンドではなくなっているのだが、音楽性そのものは「ネリヤEP」の頃を継承・発展させたものとなっている。なお「ネリヤEP」ではリミックスとジャケットのアートワークをクウェスが手掛けていたのだが、今回の『ブルーム』では全面的にプロデュースとミックスを行い、“EU(エモーショナリー・アンナベイラブル)”という曲ではシンセ・ベースなども演奏している。とは言ってもクウェス的な音に加工されているわけではなく、あくまでネリヤの音楽をストレートに表現するためにサポートに徹している。
 ネリヤの武器は、何と言ってもその芳醇で力強いブラス・アンサンブルだ。ライヴなどで4官がフロント・ラインに立って押しの強い演奏を繰り広げる光景は圧巻だが、本作では先行シングルとなった“リヴァーフェスト”にブラス・セクションの迫力が表われている。ニューオーリンズ的なクレオール・ジャズで、マルディ・グラのブラス・バンドに通じるようなアンサンブルを聴かせる。ゴツゴツと角の尖ったドラムは現代的であるが、ブラスやビートの強さの一方で、シャーリーのギターによるメロウで哀愁漂うメロディも印象的。大々的にソロを聴かせる“イクァニマス”など、彼女のギターもネリヤの中で大きなアクセントとなっている。アフロやファンクを取り入れた“ラスト・ストロー”はいかにも南ロンドンらしい曲で、やはりファンク・ビートを導入した“EU(エモーショナリー・アンナベイラブル)”、アフロ・ビート系の“スウィフト”ではダブやレゲエの要素も感じられる。とは言っても、南ロンドン・ジャズに多いクラブ・サウンドやダンス・ビートと結びついたものではなく、ヒップホップやグライム、R&Bなどの要素はほとんど見られない。アメリカのテリー・リン・キャリントンのモザイク・プロジェクトも女性のみのグループだが、こちらはそもそも歌などが入らない完全なインスト・アルバムで、有名曲や人気曲のカヴァーもなく、極めてストレートで硬派なジャズ・アルバムとなっている。ある意味で世の中に媚びていないアルバムであり、強さや包容力が込められた音楽ではないだろうか。

LORO 欲望のイタリア - ele-king

 デビッド・ボウイが亡くなったことに敬意を表したのか、それとも単にクイーンやエルトン・ジョンといった70年代のロック・スターを描いた映画が話題だからか、この春のメット・ガラは「キャンプ」がテーマだった(昨年のテーマは「カトリック」でマドンナが「Like A Prayer」を仰々しく歌い、来年は「時間の流れ」というテーマが予定されている)。メット・ガラはセレブたちがファッション・センスを競う大掛かりなファッション・イヴェントとして知られ、ここぞとばかりに栄耀栄華を見せつける現代の「虚栄の市」なのに、今年は誰も「キャンプ」を正しく理解できず、「ファン」や「キッチュ」に陥っているだけだという厳しい評が飛び交う事態となった。カーラ・デルヴィーニュもジェンナー姉妹もまとめてボロクソに言われるなんて、そうそうあることではないし、確かにエル・ファニングもジジ・ハディッドも泣きたくなるほどダサく、主宰のアナ・ウィンターや果ては審査員まで「まったくわかってない」とダメ出しの嵐であった(キム・カーダシアンは存在自体がキャンプという評は笑った)。70年代というのは、そんなにも遠い時代になってしまったのか。あまりにもノームコアやミニマルが長く続き、もはやミレニアム世代にはデヴィッド・ボウイやスーザン・ソンタグがファッションの文脈で起こした革命は「ジンバブエでムガベ大統領の妻がアイスクリーム屋を始めた」というニュースぐらい遠い出来事になってしまったのだろうか。それともエコとグラマラスはもう相容れない時代に突入し、「キャンプ」を理解できない方が正常だという認識に僕の頭も改めた方がいいのだろうか。デヴィッド・ボウイのことはもう忘れろと。教えてクロエ・スウォーブリック! 

 6つのTV局を所有し、首相としてイタリアの政界に計9年間も君臨した不動産王シルヴィオ・ベルルスコーニを描く『LORO 欲望のイタリア』(以下、『ローロ』)は政治家の映画なのに、『ペンタゴン・ペイパーズ』や『新聞記者』のように正義がどうしたといったパターンではなく、歌とダンス、乱交パーティにドラッグが飛び交い、ケン・ラッセルもかくやと思うほど華美と悪徳に彩られた映画である。いまの日本も政府に都合の悪いニュースはどのTV局もほとんど流さず、玉川徹がいなければ『1984』と大差ない政治状況だし、安倍政権が報道の独立性を脅かし続ければ、こんなにも簡単に国民をコントロールできるのかというイタリアの「前例」に習うばかりなのだろう(無神経な失言が多く、脱税や汚職の数々を裁かれることから逃れた手腕もモリカケ問題を思わせる)。『ローロ』が描くのは中道右派のベルルスコーニが2008年に第4次内閣として動き出すまでの「復権期」。政治を描くのに、こんな方法があるのかと驚かされる斬新さと、人々の欲望やバカさ加減をとりつくろうことなく厚塗りに厚塗りを重ねてテンペラ画のように盛りあげ、イタリア人以外の人類はちょっと真面目すぎるんじゃないのかと思わせるほど生きる歓びと裏表で表現されている。この作品には「事実を示す意図はない」と最初に但し書きが添えられていた通り、虚実もめちゃくちゃだし、どこでどうやって1本の作品となっていたのか、観終わって少し経ってしまうとまるで思い出せない(ので、もう1回観たけど、やっぱりストーリーを順序立てて思い出すことは不可能だった)。全体にわざとらしい音楽の使い方も猥雑さを煽るという意味ではこれ以上ないというほど効果を上げていて、とりわけベルルスコーニがナポリ民謡を歌うシーンは「キャンプ」=「不自然で、誇張されたものを愛好する美学」に肉薄しているとも。ちなみにパオロ・ソレンティーノ監督がベルルスコーニを題材にして映画を撮ろうと思ったきっかけはスーザン・ソンタグの言葉に触発されたからだという。

 実にシュールなオープニングは目を閉じた羊のアップから。この羊が何を思ったか、変な声で鳴いてから大邸宅に入り込み、しばらくTVを観ていると急にバタンと倒れて死んでしまう(ここまでが早くも無上に面白い)。ベルルスコーニが牛耳っているTV局はそれぐらいつまらないものしか流していないという意味にも取れるし、こうしたTV番組の断片がことあるごとにさしはさまれるので、イメージの乱舞は数かぎりなく、そして、とりとめもなく話の整合性をかき乱していく(9月から公開されているルカ・ミニエーロ監督『帰ってきたムッソリーニ』で現代にワープしてきたムッソリーニがイタリアのTV番組を見て「どのチャンネルも料理番組ばかりじゃないか! 政治を語れ!」と激昂するシーンを思い出す)。続いてヨットで娼婦に地方議員の接待をさせるセルジョ・モッラ(リッカルド・スカマルチョ)の物語。娼婦の尻にはベルルスコーニのタトゥーが入れられ、バックで娼婦を犯しながらそのタトゥーを見たセルジョ・モッラは地方を出てローマに向かう決意をする。実力のないセルジョ・モッラは政界へのとっかかりがなかなか掴めず、アルバニア出身のお高くとまったキーラ(カシア・スムトゥニアク)と出会い、ようやく作戦を立て始める。2人が美女たちを集めて夜のローマを歩いていると、ネズミをよけ損ねたゴミ収集車が橋から落ちて爆発し、ファッション・モデルたちの頭に綺羅星のごとくゴミが降り注ぐ。ゴミ収集車が撒き散らしたゴミはベルルスコーニ時代にゴミの回収が行われず、ナポリがゴミの街と化してしまったことをオーヴァーラップさせていることは明らかだけれど、このシーンがまた無上に素晴らしい。そして、夜空はサルディーニャの青空に一変し、ゴミは空一面から降り注ぐMDMAにかたちを変えると200人規模の乱交パーティへと場面は変わる。ベルルスコーニの大邸宅が見下ろせる場所にあるプールで大騒ぎをすればベルルスコーニの気を引けると2人は考えたのである。

 MDMAにはどんな効き目があるかを説明し、その効果を医師が「ビロード」に喩えてからスタートする乱交パーティはかつてパゾリーニやフェリーニなどイタリアの映画界が描いてきた性の過剰さを継承しつつ、現代的な表現に更新を試みる。参加者全員で夕陽に見惚れるシーンはかなり壮観で、MDMAによって高められた共感能力が退廃を通り越して崇高に達してしまったかのような錯覚まで覚えてしまう。そして、ようやく話はベルルスコーニ(トニ・セルヴィッロ)の登場となる。パーティ会場の隣の敷地で女装したベルルスコーニが(冒頭に登場した羊と同じコースをたどって)庭から家の中に入り、ベルルスコーニの淫行報道がきっかけで機嫌を損ねた妻ヴェロニカ・ラリオ(エレナ・ソフィア・リッチ)に花束を渡すも「笑えない」と一蹴され、孫との会話では「真実は口調で決まる」と教えたり、サッカー選手のミシェル・マルティネスにACミランへの移籍を持ちかけたり。ベルルスコーニは首相の座を「たった6議席」の差で失い、この時は「年金暮らしの老人みたいな存在」だったのである。ここにかつて会社を興した旧友、エンニオ(トニ・セルヴィッロが二役を演じた)が訪ねて来て「利他主義は利己主義の最善策」だとハッパをかけられ、政界への復帰を画策し始めることに。やる気になったベルルスコーニは偽名を使って、まずの一介の主婦にセールスの電話をかけてみる──。とにかくセリフがいちいちウィットに富んでいて、「心臓と前立腺に鞭打って」とか「キリスト教と共産主義の共通点は貧しさを説き、それを実現すること」だとか、深く言葉の意味を考えていたら女性の裸に見とれている暇もない。それどころか、これだけ女性の裸を洪水のように垂れ流しながら、(以下、ネタばれ)そうした女性たちのひとりであるステッラ(アリス・パガーニ)には「ここに来たわたしも哀れ」と、若者にしか言えないカウンターのひと言をいわせ、クライマックスでは離婚を切り出した妻との口論で一気に#MeTooへと舵が切られていく。

 ここまででまだ半分。後半、ベルルスコーニが首相に返り咲き、その途端、ラクイラ地方で大地震が起きる。まるでイタリアがベルルスコーニの復活を悲しんで国土が崩れ去ったかのような展開。被災地を見舞ったベルルスコーニが入れ歯を無くした老婆を気遣うシーンはステッラに哀れみをかけられたベルルスコーニが唯一、弱者とのつながりを覚えるものが「入れ歯」だと受け取れる場面で、妙な余韻がこの場面には漂う。全体にベルルスコーニを極悪人として描くわけではなく、専門家によればベルルスコーニの悪行はほとんど描かれていないにもかかわらず、ソレンティーノ監督が「彼の親しみやすさは、ミステリーでもあり、痛みでもありました」と回想する通り、ベルルスコーニが国民にとっての必要悪としてうまく造形された作品なのだろう。こうしたアンビバレンスは安倍晋三と日本国民の関係にも当てはまるのかもしれなくて、「道徳観念がないのが当たり前になっていく国で、抜け道を探しスモールビジネスばかりで変化も乏しい時代、つまりベルルスコーニが登場する前の時代に戻ってしまう恐怖」というものを同じように日本人も感じているのかもしれない(安倍晋三を選び続ける文学性が日本人にも存在するのではないかということで、それは自己憐憫や無常観がミックスされた中世の感覚と似ているのではないかと。『ローロ』では自己嫌悪を感じたステッラだけが、いわばイタリア国民とベルルスコーニとの共犯関係から抜け出すことができたわけだけれど、安倍以外の誰かに日本の舵取りを任せてみようとは考えない狭量さや自分とは違うものには一切、可能性を信じない感覚は一体何に由来するのだろうか)。物語はエンディングで、そうした選択をし続けた国民に断罪の雰囲気を帯びて閉じられていく。『キャッチ22』(70)や『M★A★S★H』(70)といった反戦映画がそうであったように、最後の瞬間にそれまでの狂騒状態がすべて否定されるかのように画調が切り替わり、イタリアのネオ・リアリスモを思わせるくらい風景のなか、瓦礫に埋もれたイエス・キリストの銅像がクレーンでゆっくりと引き上げられていく。ベルルスコーニ時代にイタリアが何を失っていたのか。ラスト・シーンは少しでもこの映画を楽しく観ていたイタリア人に思いっきり冷や水を浴びせたことだろう。

 アメリカには政治家に対して両義的な作品が多いけれど、イギリスが近年、サッチャーやチャーチルを持ち上げる映画をつくったことを知っているだけに、ここまで長期政権の座にいた政治家を叩きのめすかと、そのことにまず感心したい。イタリアは現在、極右政党を連立から追い落として中道左派の与党と最大野党が組んでいるため、右派を批判できる土壌があるということなのか、いずれにしろ、これぞイタリア映画と言いたくなるような作品の登場であり、崩壊しかけていたイタリア映画をベルルスコーニという在在が救ったように見えるのもまた皮肉な話である。登場人物のほとんどが「下心」だけで動いている世界がこんなにも愛すべきものに感じられたのは、それこそフェリーニや今村昌平以来だし、世俗というものの迫力と重みに圧倒させられるのはイタリア映画の醍醐味である。当然のことながらR-15です。

『LORO 欲望のイタリア』予告編

 

ヤプーズ情報 - ele-king

 予告通り、16年ぶりに再始動したヤプーズの復活ライヴ盤がリリースされます。今年8月に渋谷クアトロで行われたライヴ音源を中心にスタジオ録音も2曲収録。現在、ヤプーズのギタリストはDipのヤマジカズヒデが兼任していますが、今年2月に急逝された前任の石塚”BERA”伯広が参加する「好き好き大好き」も収録されています。令和になっても「ヤプーズの不審な行動」は続いています。
 なお、ele-king booksより来年2月20日、戸川純未発表写真集『ジャンヌ・ダルクのような人』も発売予定。

戸川純 芸能活動40周年記念盤!
平成のヤプーズの曲と令和の新曲「孤独の男」収録!
本年8月のライヴ音源を中心に「12才の旗」(作詞:戸川純、曲:中原信雄)と「孤独の男」(作詞:戸川純、曲:ライオン・メリィ)のスタジオ音源も収録。

■JUN TOGAWA 40th Anniversary


YAPOOS/ヤプーズの不審な行動 令和元年
2019.12.11 ON SALE
CD:TECH-26538 定価 : ¥2,364+税
発売元:テイチクエンタテインメント
(アナログ盤も来春発売予定!)

収録曲;

1. Y0817 -Introduction-
2. ヴィールス
3. 君の代
4. 赤い戦車
5. ヒト科
6. 好き好き大好き
7. 12才の旗
8. 孤独の男
Track 1 to 6 : Liveat Shibuya Club Quattro 17th Aug. 2019
Track 7,8 : NewlyRecordings.

YAPOOS;
戸川純(Vo)
中原信雄(B)
ライオン・メリィ(Key)
矢壁アツノブ(Ds)
山口慎一(Key)
ヤマジカズヒデ(G)
石塚”BERA”伯広(G) Track on Suki Suki Daisuki

発売記念ライブ
2020.1.28(tue) 渋谷 Club Quattro

出演:YAPOOS
18:00 open 19:00 start
Adv.¥4000 door¥4500(+drink¥600)
QUATTRO WEB先行:11/23(土) 12:00 ~ 11/25(月) 18:00
e+ pre-order:11/30(土) 12:00 ~ 12/2(月) 18:00
ぴあ、ローソン、e+、会場で12/7一般発売!

Manufactured and Distributed byTEICHIKU ENTERTAINMENT,INC. Japan

戸川純ライヴ情報(すべて戸川 純 avec おおくぼけいで出演)
11/25(月)渋谷duo MUSIC EXCHANGE 
12/1(日)神戸STUDIO KIKI
12/13(金)札幌KRAPS HALL

Yatta - ele-king

 やっぱり画期だったんだろう。こういうのは少し時間が経過してみないとわからないものだけど、ムーア・マザークラインといったアーティストの登場は、10年後に振り返ってみたときに、エレクトロニック・ミュージックの大いなる転換点として如実に浮かび上がってくるにちがいない。あるいはそこにアースイーターの名を加えてもいい。それぞれサウンドは異なっているが、彼女たちはみなおなじ暗い時代の空気を吸いながら、おのおのに実験を突きつめ、既存のスタイルとは異なる道筋を示そうと果敢に闘いを続けている。みずからを「digipoet(デジタル詩人)」と規定するヤッタも、その戦線に加わる者のひとりだ。
 ヤッタ・ゾーカー(Yatta Zoker)はヒューストン出身で、現在はブルックリンを拠点に活動する、シエラレオネ系のアーティストである。ムーア・マザーとおなじく2016年にファースト・アルバム『Spirit Said Yes!』を自主で発表しており、翌2017年には彼女といっしょにNYのアート・ギャラリーのイヴェントに出演。2018年にはブルックリンのバンド、アヴァ・ルナのリーダーたるカルロス・ヘルナンデスのソロ作でヴォーカルを披露する一方、やはりムーア・マザーがキュレイターを務めるケンブリッジのフェスティヴァル《ワイジング・ポリフォニック》にも参加している。どうやらふたりは深い絆で結ばれているようで、ムーア・マザーは今年8月のNTSラジオのライヴでも、アリサ・フランクリンアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、バーリントン・リーヴィやラス・Gといったビッグ・ネームたちとともに、ヤッタの楽曲をピックアップしている。
 かくして届けられたのがこのセカンド・アルバム『Wahala』ということになるわけだが、本作ではとにかく、ひたすら、えんえん、声の実験が続いていく。 まずはポエトリーや合成音声、チベットの聲明などがせわしなく駆け抜ける冒頭“A Lie”を聴いていただきたいが、アルバム全体をとおしてじつにさまざまな音声が狂宴を繰り広げている。背後でコラージュされる種々の電子音や生楽器、具体音も聴きどころで、アースイーターの参加する“Rollin”や聖俗入り乱れる“Shine”など、すばらしい音響を聞かせてくれる。

 タイトルの「Wahala」は、シエラレオネのクリオ語で「困難」や「問題」を意味する。このアルバムの制作はまず、躁や鬱について詩を書くことからはじめられたそうで、そんなふうにメンタル・イルネスが主題のひとつになっているところなんかは、きわめて今日的である。たとえば“Blues”では「わたしはブルーズをうまく歌う/そうする必要があるから/ここは地獄だから」と歌われているが、忘れてはならないのはそれが性や人種の問題と結びついている点だ。レーベルのインフォに掲げられている「ブラックであること、トランスであること、そして異邦の地でアフリカンであること」というヤッタのことばは、個人のメンタル・イルネスが社会的、歴史的、政治的なファクターに起因するものであることをほのめかしている。日本では精神疾患や鬱が個人の問題として処理されてしまうきらいがあるけれども、じっさいのところ「地獄」はむしろ、当人の外部からこそもたらされるのだ。
 もっとも注目すべきは、シングル化された“Cowboys”だろう。例によってさまざまな音声がコラージュされていくなかで、ヤッタはずばり、「カウボーイはブラックだ」と歌っている。ようするに同郷のソランジュや、あるいは今年尋常じゃないバズり方をみせている“Old Town Road”のリル・ナズ・X同様、ブラックがカウボーイの姿に扮する「イーハー・アジェンダ(Yeehaw Agenda)」のムーヴメントに乗っかっているわけだけど、それ以上に重要なのは後続のフレーズで、ヤッタは抑制を効かせながら「テクノもそう、テクノも、テクノも」と声をしぼり出していく。ここでデトロイトが念頭に置かれているのはほぼ間違いない。じっさい後半の“Galaxies”や、ムーア・マザーがラジオでとりあげた“Underwater, Now”といった曲のタイトルは、いやでも G2G やドレクシアを想起させる。
 鬱やカウボーイといったポップ・ミュージックのトレンドに反応しつつも、ヤッタは、けっして資本のど真ん中を狙ったり、ネットでウケるためにあれこれ画策したりしない。むしろ、徹底的にアンダーグラウンドを志向している。それはやはり根底に、「黒いテクノ」にたいするリスペクトが横たわっているからではないだろうか。

 ところで『The Wire』のインタヴューによれば、ヤッタは本作に着手したのとおなじころ、カントリー歌手シャナイア・トゥエインのヒット・ソング(彼氏の浮気に悶々とする内容で、MVには白人のカウボーイが多数登場)を聴き返したことで、みずからのマスキュリニティを無視できなくなってしまい、そこで自分がノンバイナリであることを理解したらしい。「ヤッタ」と繰り返すことでなんとかここまで回避してきたけれど、単数形の「they」って日本語でどう表現したらいいんだろう?

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972