Home > Columns > 内田裕也さんへ──その功績と悲劇と
鷲巣功 May 22,2019 UP
この作品がそのまま受け入れられるほど日本は進んでいませんでした。いま20世紀を知らない世代から逆説的に評価されているとはいえ、このLPには収録されなかったシングル曲“ラスト・チャンス”はモロ歌謡曲で、欧米のロックはまだ遥か遠い存在だったのです。
フラワーズは、GS人気に陰りが見えお客さんもあまり入らなくなったジャズ喫茶出演の活動が中心でした。70年にスティール・ギターの小林勝彦さんとレミさんは「本場」アメリカに渡る事になり、グループは新たにメムバを増強。この時には裕也さんのもっと本格的なロック・バンドを創るんだ、という想いがありました。そして現れたのがジョー山中さんです。彼は491(フォー、ナイン、エイス)というキリスト教の教えに由来する名前を持ったグループ・。他には「チャーリー・マッセルホワイト・ブルーズバンドの……」と裕也さんが紹介した重たいブルーズ曲も忘れられません。
裕也さん、あなたはこのステージでリード・タムバリンを打ち鳴らす事はありませんでしたが、演奏に加わらないメムバとして微妙な立場を維持していました。その距離感と身なりが全くもってクールでカッコ良かった。わたしはシビレました。
その頃の日本に於けるロックは、海外の流行や国内のレコード会社に振り回されていたのが実情です。大きなアムプリファイア、エレキギターを始めとする電気楽器、騒々しい大音量、そしてヒッピーのような風俗と、見た目はそこそこですが、肝心な音楽の主題が希薄でした。結局は借り物で、外側を真似しているだけだったのです。それでも裕也さんは「インタナシ薄で、“銃を取れ”、“世界革命戦争宣言”などを刺激的な日本語で唄った頭脳警察のパンタとは仲が良かったですから、何も日本語で唄う事の全てを忌諱していた訳ではないのでしょう。フォークと呼ばれる健全で保守的、絶対安全地帯の雰囲気、器用に立ち回る小賢しさ、ビューチフルな優しさを強調する軟派な心情が、若者として許せなかったんだ、わたしはそう考えています。まして「ですます」調で都会東京に育った微熱少年の繊細な心の動きを唄う「はっぴいえんど」の動きは大いに癪に障った筈で、これには当時からわたしも同感でした。ただ若者たちのはっぴいえんど支持は強くなる一方で、それが更にあなたを苛立たせたんでしょう。
この裕也さんの心意気は、田舎育ちの人間にも共感出来ます。その頃のわたしはエルモ・ジェイムズに出会ったばかりでブルーズ音楽にイカれかけていたのですが、迷う事なく裕也派に従いていました。
今世紀になってはっぴいえんどはとても高い評価を受けるようになり、メムバの細野晴臣さん、大瀧詠一さんは神様のような存在です。そういう再評価の時に、裕也さんとのせめぎ合いの事実がどこからも語られないのが、わたしとしては大いに物足りない。面白い話があります。この論争が激しかった頃、恐らくは1971年前後だったでしょう。はっぴいえんどその他の「フォーク」な人間たちが裕也さんに呼び出されて詰問されたというのです。場所は品川の方で、座敷に座らされて「お前らどういうつもりだ」と、責められたそうです。これは呼び出されたひとりの方から聞きました。ただその場の誰にもこの人は何を言っているんだろう的なンステップフェスティヴァルについて全く知らなかったのは少々驚きでした。
裕也さん、あなたはここで当時はキャロルのメムバだった矢沢永吉さんと揉めたんですよね。彼の「ヘリコプターで会場に降りたい」という要望を主催者であるあなたが拒否したのが原因だったとか。この確執はその後も続いたようで、ふたりは仲が良くないというのが通説でした。しかしキャロル最終公演のゲストとしてエーちゃんに「ロックンロール・ウチダ・ユーヤ」と呼び出され「俺と矢沢はいろいろあったけど、解散と聞いて残念に思う。4人のメムバに暖かい拍手を送ってやってくれ」と感動的な檄を飛ばしています。小雨のパラつく1975年4月13日、日比谷野音が一番盛り上がった瞬間は、この時でした。わたしも観客としてそこに居ました。実況録音盤『1975.4.1/>
何となくお上品な雰囲気がつまらなかったわたしは、その時に思わず「異議なし」の拍手をしました。極めて自然な反応だったのですが、周囲からの冷やかな視線放射を、全身に浴びせられました。そこをカメちゃんが「あ、拍手が起こりました」と被せてくれ、すぐに雰囲気は楽になりました。
これは、この会で司会を務めた亀渕昭信大先輩について書いた文章ですので、少し焦点がズレていますが、雰囲気は伝わりますでしょうか。遅れて来た裕也さんは白髪を肩まで長く伸ばして、ステッキを突き、上着、ズボン、スニーカーまで白という恐ろしい出で立ち。それだけで、参加者全員が震え上がりました。
確かに『ニュー・ミュージック・マガジン』誌の創刊はこの国の音楽にとって意味ある事でした。それまで音楽産のワーナー・パイオニアに移った折田さんは、ロックの世界をリードしていた親会社ワーナー・ブラザーズに倣ってロック路線を突っ走りました。その代表格がフラワー・トラヴェリン・バンドです。折田さんの理解と協力がなければ『サトリ』から『メイク・アップ』までのレコードが作れなかっただけでなく、グループの存続すら危ぶまれた事でしょう。アトランティック・レコードのネスヒ・アーティガンとの間でシングル盤「サトリ パートII」全米発売の契約を結べたのも、橋渡しをした折田さんのおかげです。その後も内田裕也名義でLPを何枚か作ったり、日本テレビ夕方の子供番組「マンガ・ジョッキー」の主題歌として裕也さんに「マンジョキ・ロックンロール」(ワーナー・パイオニア L-1141E)を唄わせたのも、絶対に折田育三さんの仕業だと睨んでいます。
裕也さんを大切にしていたという点では、折田さんもとうようさんに負けないでしょう。ワーナー・パイオニアが六本木にあった頃は、彼の権限で内田裕也専用の机が置かれ専任者も出入りしていて、事務所のように使わせてもらっていましたね。あの人はグラモフォン時代に担当していたスタックスのR&Bが大好きな、音楽の分かる人間でした。オリヂナルで世界水準の音楽を作ろうと努力している裕也さんに、大いにこと寄せたのではないでしょうか。
1981年12月、わたしは六本木ピット・インで、シカゴからやって来たジョン・リトル・ジョンが演奏するブルーズ・ショウのラジオ放送用収録をしていました。その開演直前に、「今そこで裕也にあったんだよ。本物のブルーズのライヴだから、お前も観とけって誘ったんだけど、あいつ来ねえんだよ」、という会話を耳にしました。喋っていたのは、中村とうようさんか折田育三さんのどちらかです。憶えていませんか、裕也さん。
袖すり合う程度の縁を頼りに、わたしたち静岡ロックンロール組合が1973年に自主制作した『永久保存盤』を送ったら、「このレコード全国で出してやる」と六本木のアマンドに呼び出されました。そしてすぐそばのトリオ・レコードに連れて行かれて、担当者に引き合わされ「マスター・テイプを持って来い」となりました。偶然そこにかまやつひろしさんが居合わせて、「こいつロックンロールなんだ」なんて紹介されて、もうわたしは舞い上がりの絶頂に昇り詰めました。ただ肝心の裕也さんは、この後にすぐニューヨークへジョン・レノンとオノ・ヨーコに会いに行く予定が控えていてミッキー・カーチスさんが出て来た。メムバのヴォーカルこと大野真澄さんが「裕也さんは……」と尋ねたところ、ミッキーさんが「いろいろあったんだよ」と吐き捨てるように答えたそうです。この話も面白くありませんか。
裕也さん、あなたはとんでもない照れ屋だったのではないですか。MCなどに英語を使うのは、その現れに見えます。その反面、強烈な自己顕示欲を義務であるかのように背追い込んでいる。この矛盾に適切な対処が出来ないまま、「ロックンロール」と「シェケナベイビー」だけで世を凌ぐ存在が、一般的な印象になり浸透してしまった。これは悲劇です。
1973年以来続いた不思議な夫婦関係も大いに話題となりましたが、結局は相手が樹木希林さんという少々変わった、しかもしっかりした女優だったからこそ面白い話となったのではないでしょうか。「ここ数年間、ずっと芸能界的なところから離れよう、離れようと努力し続けて来た」、これはあなたがロックの流布に没頭していた頃に、ふと漏らしたひと言です。わたしの心には強い説得力を持って響きました。「芸能界的なところ」とは、かつて在籍していた渡辺プロダクションなのかも知れません。ただ結局は大物女優の破滅型亭主という芸能人で終わってしまった。これも悲劇です。
わたし自身、裕也さん、あなたから大きな影響を受けたひとりだ、と自信を持って言えます。子供の頃から音楽の裏方仕事を志したのも、あなたの姿を見たからでしょう。唄う人、楽器を弾く人だけじゃなくって、その周りで動く人が大切なんだ、こんな考え方は、裕也さんから学んだ事柄です。決して表方になれなかった負け惜しみではありません。どうもありがとうございます。
つい色々な想い出話で長くなりました。ご長女の也哉子さんが4月3日の「ロックンロール!葬」で「安らかに眠るな」と送ったそうですね。でもわたしが捧げる言葉は違います。今もたったひとつだけ、引っ掛かる点がありますけれど、裕也さん今度ばかりは、どうぞゆっくりと落ち着いてお休み下さい。
鷲巣功/Isao Washizu