「Nothing」と一致するもの

Burial - ele-king

 嬉しい知らせが入ってきた。先日ルーク・スレイターのリミックスを手がけたばかりのベリアルが、ニュー・シングル「Claustro / State Forest」を6月14日に〈Hyperdub〉からリリースする。2017年の「Pre Dawn / Indoors」以来2年ぶりの作品だ。“Claustro”のほうはメアリー・アン・ホッブズの BBC 6 Music にて5月29日に先行公開されており、ダンサブルかつテクノが意識されたトラックになっている。予約はお早めに。

https://burial.bandcamp.com/album/claustro-state-forest

Tyler, The Creator - ele-king

 前作『Flower Boy』から2年ぶりにリリースされた、タイラー・ザ・クリエイターにとって初となるビルボードの総合アルバムチャート(Billboard 200)1位に輝いたニュー・アルバム『IGOR』。このチャート1位という結果は、彼自身がいまのアメリカの音楽シーンを代表する存在という証(あかし)でもあるが、一方で他のメインストリームのヒップホップとは一線を画するように、彼自身の音楽性はより独自な方向を突き進み、本作によってひとつ頂点を極めている。

 タイラー自身が全曲プロデュースを手がけるトラックは、イントロ曲の“IGOR'S THEME”や、続く先行シングル曲“EARFQUAKE”に象徴されるように、シンセサイザーを多用したメロディアスで重厚なサウンドが軸となっており、さらにラップよりも歌やコーラスにウェートが置かれているのも大きな特徴でもある。タイラー本人以外には曲ごとにフィーチャリングのクレジットは一切ないものの、リル・ウージー・ヴァート、プレイボーイ・カルティ、ソランジュ、サンティゴールド、カニエ・ウェスト、シーロ・グリーン、ファレル・ウィリアムといった錚々たるメンツがラップ、ヴォーカル、コーラスなど様々な形で参加しており、エフェクトを駆使しながら、まるで楽器のひとつかのように彼らの声を自在に操り、見事に自らのサウンドの中へ取り込んでいる。

 恋人との別れや三角関係がアルバムのテーマになっており、ある意味ヘビーな部分もありながら、同時にタイラーならではのユーモアも存分に盛り込まれているのは言うまでもない。全部で40分未満とコンパクトなサイズの中で、しっかりとコンセプトとストーリーが組まれており、それがアルバム全体の完成度を高めている大きな要因にもなっている。

 いまやラッパーが歌うのは当たり前であるし、ヒップホップとR&Bの境目が非常に曖昧な時代でもある。しかし、このアルバムの奥底に存在しているのは、完全にヒップホップだ。それはアルバム前半でやたらと強調されているアナログ盤のプチプチと鳴っているノイズであったり、“WHAT'S GOOD”にて響き渡るストレートなBボーイブレイクにも感じるし、あるいは本作のリリース時に話題となった“GONE, GONE / THANK YOU”の後半部分での山下達郎“Fragile”の引用(サンプリングではなく、山下達郎の歌詞とメロディをアレンジして歌い直している)という手法にもヒップホップ・アーティストならではセンスが伺える。しかし、それらはあくまでも表面的なわかりやすいヒップホップ感でしかない。それ以上に重要なのが、決して音楽としての美しさや格好良さだけを追求しているのではなく、何らかの歪(いびつ)さがサウンドやヴォーカルの中に盛り込まれ、結果的にそれらの要素が作品の魅力を別のベクトルへと導き、ヒップホップとしても完結させているように思う。

 タイラー・ザ・クリエイターというひとりのアーティストだけなく、ヒップホップ・シーンが今後、どのように進んでいくべきかの指針にもなるようなアルバムであり、ぜひ、頭から最後までじっくりと通して聴いてもらいたい作品です。

interview with DJ Marfox - ele-king

 ずっと待っていた。ベース・ミュージックの枠にもテクノの枠にも収まりきらない、かといっていわゆる「ワールド・ミュージック」や「アフリカ」のように大雑把なタグを貼りつけて片づけてしまうにはあまりにも特異すぎる〈Príncipe〉の音楽と出会い、昂奮し、惚れこんで、その中心にいるのが DJ Marfox だということを知ってからずっと、いつの日か彼に取材できたらと願っていた。だから2016年、タイミングが合わなくて初来日公演を逃したときはひどくがっかりしたけれど、幸運なことに彼はこの3月、ふたたび列島の地を踏んでくれることになり、こちらの期待を大きく上回る最高のセットを披露、まだ寒さの残るフロアを熱気で包み込んだのだった。
 とまあこのように、およそ15年前に彼や彼の仲間たちによってリスボンの郊外で生み落とされたアフロ・ポルトギースのゲットー・ミュージックは、いまや世界各地のミュージック・ラヴァーたちの心を鷲づかみにするほどにまで広まったわけだけれど、ではその背後に横たわっているものとはなんだったのか、いったい何が彼らの音楽をかくも特別なものへと仕立て上げたのか──じっさいに対面した Marfox はきわめて思慮深いナイスガイで、誠実にこちらの質問に答えてくれた。

100%ポルトガル人じゃないし、100%アフリカ人でもない。自分たちは「50%・50%(フィフティ・フィフティ)」な存在なんだよね。

そもそも音楽をはじめたきっかけはなんだったんでしょう?

DJ Marfox(以下、M):音楽をはじめたのは14歳のころで、創作というよりは、他の人の音楽──アンゴラのクドゥロ楽曲を再現するようなことをしていたね。それから徐々にリミックスを作ったり、いろいろな曲の気に入った断片をコラージュするようなことをはじめた。PCの、Virtual DJ というソフトでね。
 2004年に Quinta do Mocho (訳注:リスボン郊外の移民たちが多く暮らす団地地域)のパーティで、DJ Nervoso と知り合ったんだ。彼はそこでDJをしていたんだけど、自分の知らない曲ばかりかけていた。そのころ、自分はアンゴラ帰りの人にCDを借りたりして、アンゴラの音楽はだいたい知っていたから、衝撃だったね。だから──これはパーティでいいDJがいたらふつうの行動だと思うけど、DJがどんなヤツで、なんて音楽をかけているのか知りたくて──DJブースに近づいていって彼に話しかけたんだ。「ねえ、自分もDJなんだけど、誰の曲をかけてるの?」と聞いたら彼は「ああ、これは俺が作った曲だよ。俺はプロデューサーだからね」って答えたんだ。それがきっかけで仲良くなって、彼は自分に「プロデューサー」という新しい世界を紹介してくれた。Fruity Loops みたいなソフトの使い方とかもね。

あなたの音楽はクドゥロから大きな影響を受けていますが、ふつうのクドゥロとあなた独自の音楽との違いはなんですか?

M:子どものころからクドゥロを聴いてきたから、クドゥロは自分の音楽に不可欠な要素のひとつだ。クドゥロにはビートがあって、歌手がいる。でも、当時のリスボンにはクドゥリスタ(訳注:クドゥロ歌手のこと)がいなかったんだ。だから自分たちは、よりダンス・ミュージックにシフトし、躍らせるためのビートを構築することにフォーカスしていった。ホット・ビートと歌い手がいれば、リスナーにインパクトを与えることは簡単だけれど、ビートだけでそれを実現するのは難しい。クドゥリスタが不在であるがゆえに、自分たちリスボンのプロデューサーは、創意工夫をして独自の音楽性を確立していったんだと思うよ。

2005年に DJ Pausas、DJ Fofuxo とのグループ DJs do Guetto をはじめた経緯を教えてください。当時の野心はどのようなものだったのでしょう?

M:自分も、DJ Pausas と DJ Fofuxo も、アフリカ出身の両親のもとに、リスボン郊外で生まれ育ったキッズで、自分たちのアイデンティティを「ポルトガル人」とも「アフリカ人」とも定義づけられずにいた。自分たちは黒人だから、欧州系のポルトガル人たちには「ポルトガル人」には見えないし、アンゴラやカーボ・ヴェルデやサントメプリンシペのような、ポルトガルの旧植民地から移民してきた人たちにも「君らはアフリカで生まれてないから、僕らとは違うよね」と言われ続けてきた。この作品を発表することは、ポルトガル人でも、アフリカ人でもない、という自分たちの新しいアイデンティティを主張するために必要なことだった。グループを結成したときは、何をしているのか意識的ではなかったけど、「自分たちは何者なんだろう?」というのは当時からの自問だった。100%ポルトガル人じゃないし、100%アフリカ人でもない。自分たちは「50%・50%(フィフティ・フィフティ)」な存在なんだよね。

2011年の「Eu Sei Quem Sou (訳注:自分が何者か知っている)」は〈Príncipe〉の最初のリリースであり、決定的な一枚となりました。当時はどんな気持ちだったのですか?

M:〈Príncipe〉は自分にとってたいせつな存在で、この作品は最初の子どもみたいなものだ。一緒に〈Príncipe〉をやっている連中とは2007年に知り合っていて、彼らはリスボンの郊外で何が起こっているのか、どんな音楽が生み出されているのかをよく理解していた。でも、当時はまだそれらの音楽を都市部に、そして世界に紹介するコンディションが整っていなかったんだよね。自分たちの音楽はニッチだと思っていたから、適切なかたちでマーケットに紹介するためには準備が必要だった。その期間、自分自身もプロデューサーとして成長し、2011年に〈Príncipe〉は「Eu Sei Quem Sou」をリリースできたというわけさ。この作品は自分にとっては「表明」の作品で、この作品をリリースしたとき、自分が何者で、何がしたくて、どこに到達したいのかが明確な状態だった。〈Príncipe〉の連中も最初に出会った日から自分が何をしたいのか理解してくれていたし、準備期間にもずっと連絡を取り合っていたよ。

やはりあなたや〈Príncipe〉の面々が郊外出身であるというのは重要なポイントなのですね。

M:そうだね。おもしろいことに、いつも都市部で活躍したいと思ってきたけれど、都市部は長いこと自分たちに関心を払ってこなかった。DJ Nervoso が活動をはじめたのが2001年、自分が〈Príncipe〉の連中と知り合ったのが2007年、「Eu Sei Quem Sou」をリリースしたのが2011年。それぞれのプロセスに5~6年かかっていて、そのあいだ自分たちはずっと、都市部もメディアも注目しない郊外のアンダーグラウンドな存在だった。でも、もしもっと早く注目されていたら、いまのような活動はできていなかったように思う。メディアが「これは一時的なムーヴメントなのか?」と取り上げはじめたころにはすでに、自分たちは長く活動していて準備万端だったから、すべての出来事はベスト・タイミングで起こったと言えるね。

「Eu Sei Quem Sou」のころには自分が何者か明確になっていたとのことですが、あらためてあなたは何者なのでしょう?

M:自分は「顔」だ。声を持たない人びとの顔、居場所を持たない人びとの顔、見向きもされない人びとの顔、声を発しても聞いてもらえない人びとの顔。それらが「声」を持ったのが自分だと思ってる。思ったことを言い、何をしたいか主張し、互いに敬意を払う。これは「闘い」だったけれど、それはインディペンデントで、社会的な側面もある「音楽プロジェクト」という形態である必要があった。この音楽は人生を変えたんだから。
 最近、自分はとても幸せな気持ちで眠りにつくんだ。眠りにつくいまこの瞬間も DJ Nigga FoxNídia や Nervoso が地球のどこかでDJをしている、と思えるのはとても幸せな気分だ。いまや〈Príncipe〉には30人近いDJがいて、みんな、レーベル主催のリスボンでの定期イベント《Noite Príncipe》から、イギリス、アジアやアメリカまでDJしに飛び回っていて、もはやポルトガルだけでなくヨーロッパがホームだと感じるくらいだ。人びとのために、音楽で成し遂げなければならないことをやっている。人がいなければ音楽ではないからね。

他方で何がしたいかも明確になっていたとのことですが、そのあなたがやりたいこととは?

M:都市部と郊外の架け橋になることだね。自分の作る音楽がなければ、今日自分はここにいないだろう。音楽をやっていなかったら、自分は大学も出ていないし、多くの友人たちがそうしたように、イギリスかドイツにでも移民していただろう。この音楽は発表した当初から、国内外で注目されて、そのことによって「アフロ・ポルトギースも価値ある存在なんだ」「新しい存在、新しいリスボンを代表する存在なんだ」ということを革命的に示すことができた。以前より居場所があると感じているし、希望も感じているけど、まだまだ活躍の場を生み出すことはできる、ポルトガル社会においてアフロ・ポルトギースの存在を示すことはできると思っている。

自分は「顔」だ。声を持たない人びとの顔、居場所を持たない人びとの顔、見向きもされない人びとの顔、声を発しても聞いてもらえない人びとの顔。それらが「声」を持ったのが自分だ。

ペドロ・コスタという映画監督を知っていますか? 彼の『ヴァンダの部屋(原題:No Quarto da Vanda)』という映画を観たことは?

M:彼の映画『ホース・マネー(原題:Cavalo do dinheiro)』は観たことあるよ。ポルトガルにおける移民の扱い、移民がいかに疎外されているかにかんして鋭い批判をしている人だ。移民たちの抱える問題はゲットーを作ることではなく、ゲットーを抜け出せないことにある、と彼はよく理解しているよね。自分たちの親や祖父母の世代がアフリカからポルトガルに移民してきたのは、植民地化から解放されて何も残らなかった故郷にいるよりも、良い人生を送りたかったからだ。でも、たとえばポルトガルでの教育ひとつをとっても、義務教育レベルで優秀な教師は都市部の学校にいて、郊外には質の高くない教師があてがわれる。ペドロ・コスタは、そういった状況……「移民支援」のような「嘘のシステム」についても指摘しているよね。『ホース・マネー』でも、若くしてポルトガルに移民してきたカーボ・ヴェルデ出身の老人が、長年リスボンの工事現場で、都市の、ポルトガルの発展のために働いてきたにもかかわらず、社会保障や年金を受けられないまま死の床にある様子が描かれている。30年以上、陽の当たらないスラムに住みながら働いて、何も得られない、という作中の彼のような状況に置かれたアフリカ系移民はたくさんいると思う。
 とはいえ物事にはいろいろな側面があって、1974年4月25日(訳註:ポルトガルでカーネーション革命が起こり、独裁政権が終焉を迎えた日。同時に、各アフリカ植民地独立の契機となった)以前の祖父母世代の人びとの生活は、いまよりずっと苦しいものだったということも理解している。ペドロ・コスタはそういったことも含めた社会矛盾を指摘している映画監督だと思うよ。個人的にも知り合いだしね。

知り合いだったんですか! 彼とはどのような経緯で?

M:共通の知り合いがいて、その人がペドロに「いままでのリスボンにはなかったような音楽活動をしている人たちがいる」と言ったら、彼が興味を持ったらしいんだよね。彼はうちに遊びにきて、自分の母親にも会ったことがあるよ。

先ほど「架け橋になりたい」という話が出ましたが、郊外のあなたたちにとって都市はべつに「敵」のような存在だったわけではない、ということですよね。

M:ぜんぜん。僕らが Musicbox (訳註:リスボンのナイト・シーンの中心的クラブ)で毎月開催しているイベント《Noite Príncipe》は、Musicbox で続いているいちばん長い定期イベントで、2月20日にちょうど7周年を祝ったところだ。このときは特別に、ポルト含め5箇所でイベントを同時開催したんだけど、すべてソールドアウトだった。貧乏人も金持ちも外国人もほんとうにいろいろな人びとが遊びにきていて、これが音楽の力だなと実感したよ。リスボンも、世界も、ますますオープンになっていくし、世界じゅうの人びとが集まる自分たちのイベント《Noite Príncipe》がそれを証明していると思う。

ではもしあなたたちに「敵」がいるとすれば、それはなんでしょう?

M:自分たちに唯一「敵」がいるとすれば、それは自分たち自身さ。自分たちが音楽を作ることをやめてしまうこと、諦めること──それが最大の敵だね。

ということは、そろそろ DJ Marfox 名義の新作も?

M:うん、取りかかっているところ。だいぶ長いことかけているわりに、発表できていないんだけどね。自分は「アルバムを作らなきゃ」っていうプレッシャーだったり、「自分の作品を見てもらいたい」みたいな自己顕示欲が強いタイプじゃないから、気楽な気持ちで取り組んでる。こうしてあちこち旅行して、他のいろんなDJや音楽を聴いて影響を受けて、それでも自分のベースになる要素は忘れずに、プロデューサーもこなして……というスタイルが自分には合ってると思う。自分名義の作品は、プロデュースやリミックスの依頼をこなしつつゆっくり作っているよ。ヴェネツィア・ビエンナーレのドイツ館の音響を担当する話もあるし(註:7月には彼を含むドイツ館の楽曲を収録したLPもリリースされる模様)。

それはすごいですね。ちなみに〈Domino〉の Georgia の曲を5曲、共同でプロデュースしたという情報を見かけたのですが。

M:もう公開されているはずだよ(註:取材後に再度調べたところ、たしかに新曲は公開されているものの、ふたりがコラボしたという情報は本人の発言以外見つからず)。1月にロンドンに行ったのもその繋がりで、Laylow という新しいヴェニューで彼女が1月のあいだ、レシデンス・アーティストとキュレーションを手がけている、その最終日に出演したんだ。

 「女の子」の手で「女の子」を再定義・再肯定するムーヴメントが地を這いながら立ち上がってきた。今まで家父長制社会にジャッジされ、引き裂かれ、苛まれてきた「かわいい」/「女の子」が、シシガミの首のようにようやく一つの身体へ取り戻される。数多の「私」たちが主体的に「かわいい」を掴み取り、「女の子って最高」と叫ぶ。真夏の海辺で着せられた真っ白いワンピースに染み込んだ血が乾き、ピンク色のフラッグになる。よい潮流だ、すばらしい、もっと激しくなれ。もっと燃えろ、全部塗りつぶせ。
 ……このフェミニズムの一ストリームを心から応援している一方で、(私/俺/わし/自分/?)は常に輪の外側にいた。別に「あの子たちが仲間に入れてくれない」と拗ねて見せたいわけではない。(私/俺/わし/自分/?)自身が「かわいい」にも「女の子」にもピンときていなかったのだ。
 そもそも「女の子」というたった三文字の背後に、長大な違和感がとぐろを巻いている。「女」に関しては、かぎかっこつきでまあ受け入れるにしても固定される感じが不愉快である。そしてそれ以上に、「子」が本当にいやだ。「男」「女」以外のベクトルを無限にはらんだ宇宙を揺れ動きたい。成熟した人間でいたいしそう見られたい。「かわいい女の子」が誰かの救いであると知っていても、(私/俺/わし/自分/?)はどうにも「そう」じゃない。
 「求めていないなら全部ほっときゃいい」と言うことはできる。それでも(私/俺/わし/自分/?)の戸籍は「女」だ。自分を「女の子」だと思っていなくても、「かわいい」/「女の子」を内面化せずに生きていけるわけがなかった。生きているだけで、そこらじゅうに「かわいい」/「女の子」を是とする思想に衝突し続ける。クラスメイトが突然金髪メッシュを入れてきたのにいっさい気がつかないぐらい人間の顔に意識が向いていなくても、目が大きくて顔が小さくて肌に毛がないほうが「いい」ことは知っている。「かわいいは作れる!」……ん~~、はい、うーん。

 「かわいいは作れる」の一種の完成形として、「ル・ポールのドラァグレース」は面白い。Netflix で配信されているこの番組は、次世代のドラァグ・スーパースターの座を懸けた過酷なショーレースを追う人気バラエティだ。ドラァグクイーン界のゴッドマザーであるル・ポールの後継者に選ばれるべく、クイーンたちが毎回難しい課題に挑む。「化粧経験のない女性格闘家をドラァグクイーンにせよ」とか「化粧品ブランドのプロモーションCMを撮影せよ」などといったメインのチャレンジが設定され、その成果をランウェイで披露するのだ。衣装作り、メイクアップ、パフォーマンス、全てを自ら考えて実践せねばならない。最下位の評価を下されたクイーンは脱落となる。ル・ポールに「胸を張って消えなさい」と言われたらそれが合図だ。あなたは美しいが、その美はこの場以外で発揮されるべきだと、はっきり宣告を受けるのである。
 「ドラァグレース」における美とは、己と己が置かれた環境に対する解釈であり、それを実現する技術である。レースにおいて評価の基準にされるのは元の顔立ちではなく、常に与えられた課題に対する応答の内実だ。勝ち残るためには高い能力とメンタリティが不可欠である。課題に込められた意図を読み取り、何が求められているのかを考え、自分にしかできない解答を提示しなくてはならない。
 「ドラァグレース」ファーストシーズンで、ル・ポールがクイーンたちを鋭く叱責するシーンが出てくる。撮影終了後の出演者が再集合してレースの振り返りトークをする回のさなか、一人のクイーンが「審査員の批判で傷ついた」「私に対する評価は不当だった」と表明したことがきっかけだった。彼女の名前はシャネル。ラスベガスの一流ショーガールだ。
 シャネルはレースの最中、ずっと「今回は負ける要素がない」「私が一位になる以外ありえないと思う」などと勝気な態度を取っては、最終的には彼女が思うほど評価されない、という状況を繰り返してきた。そのたびにシャネルのストレスは蓄積し、最終的には自ら「このゲームを降りたい」とまで口にする。シャネルには自信がありそうでないのだ。泣きそうになりながら批評を受ける苦痛を語るシャネルに、ル・ポールは言い放つ――「あなたたちはスターなの、違うなんて言わせないで」と。そもそも全員スターであることは前提で、批評はより高い場所へ至らしめるための道具なのだと、ル・ポールは言おうとしていた。
 映像を見ながら、勝手に自分が叱られているような気分になってぞわぞわと恐怖していた。「ル・ポールのドラァグレース」がもし持ち前の顔で判断するコンテストであったなら、この審査員たちはここまできついことは言わないであろう(審査員たちがこの番組の外でどのような発言をしている人物かはよく知らないのだが、それぐらいの倫理観は期待していいと思う……日本じゃあるまいし!)。むしろ純粋に技術力やテーマ解釈の能力が問題であるからこそ、職人が建てた一軒家を診断するように審査員は美に口を出す。「かわいいは作れる!」の行く末、それは救いかといえば、それでもシャネルの涙は彼女の目尻を濡らしたのだ。たとえ持って生まれたものに言及されなかったとしても、美しいこと、スターであることが前提であったとしても、それでも「美のジャッジ」に耐えるのはつらかったのだ。自らこの過酷さを仕事にする決意を持った一流ドラァグクイーンでも苦しいことに、どうしてそこらをうろうろ生きているだけの一人間が耐えられるだろうか?

 「かわいい」のゲームに勝てずに泣いている人には二種類いる。ゲームに勝ちたくて泣いている人と、ゲームをやめたいのにやめられなくて泣いている人だ。「かわいいは作れるんですよ」と囁く行為が救うのは「かわいい」のゲームで勝ちたいと思う人だけであって、ゲームを降りる方法はそこにない。そして「かわいいは作れる」は、容易に「かわいいは作れるものなのになぜ作ろうとしないんですか?」に転化するだろう。ぼんやりと生きているだけで足元にゲーム盤が広がっていた人間にとっては犯していない罪で責められているようなものだ。
 あるいは人の数だけ「かわいい」はあるのだと言ったとしても、それは「勝ち」判定のオルタナティヴを増やすという意味であり、ゲーム自体は持続する。(私/俺/わし/自分/?)ももちろん「かわいい」は後天的に構築可能だと思うし、「かわいい」の「正解」があらゆる要素を含んで人数分存在する状態はある種の光で、どちらも非常に重要な主張であると考えている。だが、それだけでは足りないのだ。道はもう一ついる。すなわち、「そもそも「見た目をよくする」という方向性を選ばない」ことを大いに許す道が!
 見た目が泥でもそれはただの選択肢のうちの一つだ。あなたが存在することに誰一人けちはつけない、誰もが「よい/悪い」のベクトルに進んで乗らねばならないいわれはないのである。全員が全員肌をつるつるに脱毛して、きれいに化粧をして、髪の毛をきれいに整えておかねばならない――「女」という記号に課せられる重圧をきちんとはねのけるには、己が乗せられたゲーム盤自体を叩き壊して外へ出る必要がある。これは全員見た目に手を入れることをやめろとか汚い格好をしろという意味では全くない。強く切実な覚悟を持って美の世界に身を置く人を否定するものでもない。この社会で生きている限り身の内に溜め込まざるを得ない見た目にまつわる規範と批評とベクトルを、きちんと捨てたいということだ。そして捨てた「その先の世界」が、脅かされずにちゃんと存在している必要があるということだ。簡単ではない。(私/俺/わし/自分/?)も言い出しておいて全く内面化したルッキズムを追い出せていない。いまだこの選択肢は道として確立されていない。黒々とした濃密な山である。
 Like逢坂山。

 逢坂山を歩む人影があった。蝉丸である。その目は光を映さず、故郷の景色をもう一度目に焼き付けるために振り返ることもない。ただ緑の匂い、汗の匂い、己の息遣い、杖の先に感じる泥の感触、背負った琵琶の重みが、己が父たる帝に追放されたことをじっくりと理解させる。帝が求めていたのは目の見える皇子であった。都を追われた蝉丸にもはや声をかけてくれる人はいないかと思われたが、ある貴族は山中に庵を用意してくれた。蝉丸は庵に留まり、琵琶をつまびく暮らしを始める。
 あるとき、思わぬ客人が庵へ入ってきた。蝉丸の姉・逆髪である。逆髪は名前の通り天を戴くように髪の毛が逆立っており、櫛で梳かしても戻らない。逆髪は気が狂ったために一人御所を出て野をさまよっていたが、流浪の最中に弟の演奏によく似た琵琶の音を認め、庵へ引き寄せられたのであった。逆髪と蝉丸はしばしの間語らう。やがて逆髪はまた別の地へ流浪し、蝉丸はそれを見送る。

 能「蝉丸」で目をひくのは、蝉丸以上に姉の逆髪だ。重力に逆らった平安時代のLOCA(“狂った女”)が、猿の声と木々のざわめきだけが響く山の中を亡霊のように渡る。その景色を想像するだけでむしょうに胸のすく思いがする。この姿を見て人は逆髪は狂ったと判断したのだろうが、逆髪は自分の立ち位置について冷静に把握しているし、水に映った自分の姿を見てその浅ましさに呆れているように、都の論理を内面化している様子もある。理解はしているのだ。ただそこに迎合せず、逆髪は流浪を選んだのである。
 二人が出会う蝉丸の庵があるのは、関所で有名な逢坂山だ。都と外界をつなぐ場所、都市の外縁である。二人はいわば都の秩序と外界の無秩序のせめぎ合う場所で出会い直したのであった。都から見れば都を追い出された似た者同士であるとも言えるが、外縁から見てみると、〈中央〉を追い出されてもなお天皇家のたしなみとしても継承されてきた琵琶を持ち、誰かの訪問を受けられる固定の住所を得ている蝉丸と、自ら〈中央〉の外へ出て汚れた姿で一人さまよい、蝉丸と語らった後も放浪を続ける逆髪とでは、やはり性格が異なる。どちらがよいとかどちらが悪いとかではない。ただ秩序をずらすことと完全に秩序の外に出て行くのとでは、〈中央〉に対する批評性は同一であっても行動として全く違う性質を持つのだろうと考えている。
 逆髪は笑っている。この笑いは自嘲なのだろうか? 己の髪が逆立っているのも逆さまであるが、天皇の子である自分を市井の子どもたちが笑うことも身分上の逆さまである。全ては逆転する。もはや逆髪にとってはただ逆さまであることが単純に面白いのではないか。逆髪は全てがひっくり返っているから、何もかもに逆さまになる可能性があることも知っている。それがむしょうに面白い。
 別に逆髪に「新しい女の子」像を求めるような恣意的な話をしたいわけではない。逆髪の人生は逆髪の人生だ。ただ、王権のひずみを身に抱えた人が山奥で笑うとき、その声は2019年の泥沼でのたうつ(私/俺/わし/自分/?)の耳にも届くのだ。逆髪もまた、身の内に築かれた王権の論理を追い出しきれないまま、それでも耐えきれずに山で笑うことを選んだ。葛藤、自己矛盾、これらを友として、(私/俺/わし/自分/?)もまた笑う流浪者になりたい。胸も張らず消えもしない、ただ美の権力を離れた場所でこの世を真剣に面白がるのだ。ぎゃはは! 固く踏み固められた強く新しい道を作るために、まずは殺意を持って足の裏に全体重を懸ける。笑う流浪者の歩みがゲーム盤を破壊するのだ。全部踏み潰す、己の足で踏み潰す。完全にぶち壊したら盤の破片集めてゲリラどんど焼きしよう、消防呼ばれるまでのタイムアタックで……。

Skepta - ele-king

 グライム・シーンの立役者であるスケプタの5作目となるアルバム『Ignorance is a Bliss』がリリースされた。このアルバムは彼のシーンの「キング」としての地位を誇示するとともに、グライムの感覚を一歩前に進める意欲作だ。

 2016年にリリースされた前作『Konnichiwa』でロンドン発祥の「グライム」を世界に知らしめ、メインストリームに押し上げたスケプタは、ここ3年でも多くの話題を呼んだ。エイサップ・ロッキーとのコラボレーション曲“Praise the Lord”でプラチナの獲得、ナイジェリアへのカムバックツアーの成功、ウィズキッド(Wizkid)とのコラボレーション“Energy (Stay Far Way)”とのヒット、Nike とのコラボレーションの「Sk Air」シューズの発売、Louis Vuitton メンズのアーティスティック・ディレクターとなったバージル・アブローとの交友、など話題には事欠かない。

Wizkid - Energy (Stay Far Away)

 華々しい表舞台での活躍の一方で、スケプタはUKの次世代のラッパー、ミュージシャン、デザイナーもサポートしてきた。例えば、Levi's と協働し Levi's Music Project で若手のミュージシャンと新たな場作りをおこなったり、自身のブランド「MAINS」で若手デザイナーやアーティストを起用したりしている。音楽だけでなく、ファッションやデザインの領域でも様々な形でシーンをリードする存在となった。

Skepta | Levi’s® Music Project

 音楽面で言えば、新旧グライム・シーンのショーケース的なパーティである《Grime Originals》にサプライズ出演したり、自身のヨーロッパ・ツアーのサポートアクトにランシー・フォックス(Lancey Foux)、67、スロータイ(Slowthai)といったグライムの枠にとらわれない若手アーティストをラインナップしたりと、サポートを継続してきた。
 そしてリリースされた本作は、オーセンティックなグライムの感覚を一歩前に進めた意欲的な作品となっている。

 先行シングルでリリースされた“Bullet from A Gun”は、生まれ育ちや身の回りの刹那的な人間関係について突き放した目線で歌い出す。そこで彼自身に大きな力を与えていると語るのは、彼の両親のルーツであるナイジェリアであり、最近のスケプタ自身の家族である。MVでは最近赤ちゃんが生まれた彼が、地下鉄のプラットホームで乳母車を横置きしながらラップしている(アルバム・ジャケットの真ん中にも、赤ちゃんを抱えた男性が写っている)。

Skepta - Bullet from A Gun

 2. “Greaze Mode”からの3曲でセルフボーストが続く。彼のフロウはストレートに言葉をはめていくスタイルだが、アメリカ人にも聴き取れるクリアなデリヴァリーを意識していることに気づいた。『Konnichiwa』ではそのラップのフロウが不自然に感じられるほど意識的だったが、今回は肩の力が抜けているというか、自然なフロウになっているのが良い。

 ジェー・ハス(J Hus)を迎えた5. “What Do You Mean?”では得意のアフロビートではなく、ヒップホップで歌い上げる。6. “Going Through It”では一転してオーセンティックなグライム・ビートで、ワンラインで歌い続けるスケプタの本領を発揮し、オールドスクールなトラックの7. “Same Old Story”につながる。女性との関係を歌った1曲ではあるものの、以前ビーフがあったワイリーのビート・サンプルを使っていることで、ファンにとってはワイリーとの関係を(勝手に)深読みさせるラインとなっている。

 このアルバムの核心は次の3曲で、8. “Love Me Not”、ランシー・フォックスが客演の9. “Animal Instinct”、Wizkid 参加の10. “Glow in the Dark”でエモーショナルなメロディで畳み掛けるラップと歌い上げるフックのメロディが新しく、またUKらしさ、グライムらしさも感じさせ、リリカルな表現も多彩さが光る。最後の3曲は再びクラシックなグライムとなり、クルーの BBK を迎えたグライムレペゼンの12. “Gangsta”、そしてナイジェリアで袋詰めで売られている氷水パックにインスパイアされたという13. “Pure Water”で幕を閉じる。

Skepta - Pure Water

 このアルバムのステートメントは、まさにタイトルである「Ignorance is Bliss (無知はこの上のない至福だ)」に込められている。ここでは、むしろ「ignorance」と同じ語源を持つ「ignore」、つまり無視という能動的な言葉に寄って解釈できないだろうか。長年存在してきた“しきたり”や、自分が作り上げてきたこれまでの遺産を“無視”して、「やりたいようにやる」こと。または、他人が期待することや思考の枠組みを意図的に“無視”すること。新たなチャレンジに必要な無視によって、“無知”を肯定する哲学こそが、このアルバムを貫いている。

 サウンド面では前作『Konnichiwa』よりもグライム色がより強くなっているものの、懐古主義的なサウンドではなく新たなサウンドを模索している。また、ワンライン繰り返しのサビ、ハスラーの定型表現といった“お決まり”には縛られておらず、音、詩の両面で様々な挑戦をしている。コンパクトながらアルバムというフォーマットにふさわしい重層的な作品だ。

空間現代 - ele-king

 空間現代が、Sunn O))) のスティーヴン・オマリー主宰のレーベル〈Ideologic Organ〉よりリリースした7年ぶりのオリジナル・アルバム『Palm』の発売を記念し、日本国内ツアーを、そして東京・渋谷WWW にてワンマン・ライヴを開催する。6月9日に自らが運営する京都のスタジオ/ライヴハウス「外」にて、盟友である YPY、行松陽介、oddeyes が出演するレコ発を皮切りに、日本各地を周るとのこと。ツアー最終日は8月14日、東京・渋谷WWW にて、空間現代のワンマン・ライヴが開催。音響に宋基文、照明に高田政義を迎える。東京公演の前売券は6月1日より発売中。ツアー詳細は下記より。

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空間現代『PALM』レコ発ツアー開催決定

Zomby - ele-king

 すでにチェック済みの方も多いかもしれないが、去る5月17日、ゾンビーが新たなEP「Vanta」をリリースしている。これまでおもに〈Hyperdub〉や〈4AD〉から作品を発表してきた彼だけど、今回はイマジナリー・フォーシズやツーシン、メルツバウなどを送り出しているドバイの〈Bedouin〉からのリリースで、いやはやこれがじつにクールなテクノ・トラック集に仕上がっているのである(本日更新したスポティファイのプレイリストにも1曲選出)。アナログ盤はクリアヴァイナル仕様でこれまためっちゃかっこいいんだけど……なんと、デザイナーは『ゲーム音楽ディスクガイド』を手がけてくれた Zodiak こと Takashi Makabe なのだ! ぜひ現物を手にとって、サウンドもヴィジュアルも一緒に堪能してほしい。

Zomby
Vanta

Bedouin Records

All tracks produced, arranged & mixed by Zomby
Mastered by Rashad Becker at Dubplates & Mastering
Design by Takashi Makabe / Zodiak
Distributed by Kudos

www.bedouinrecords.com

A1 Void
A2 Bleed
B1 Emerald
B2 Threshold
B3 Zexor

Amazon / HMV / bandcamp / Spotify / Apple Music

美容は自尊心の筋トレ - ele-king

さよなら自虐――「呪いの言葉」を解きほぐす心の筋トレ10か条

モテようとも若返ろうとも、綺麗になろうとも書いていない、化粧品もちょっぴりしか載っていない美容本ができました
――“反骨の美容ライター”が「みんな違ってみんな美しい」時代に送るメッセージ!

【目次】
はじめに
自尊心の筋トレ十訓

第一章 生まれ出づる私の悩み
 全員美人原理主義 この世に「ブス」なんていない
 「見た目が9割」だったら警察いらない
 自信がないなら、愛着を持てばいいじゃない
 美容は、自分をやさしく扱う練習
 メイクは看板、スキンケアはインテリア
 努力は、痛気持ちいいぐらいまでにしておく
 食材を選ぶように化粧品を選んでみる
 コンプレックスは個性の種、スタイルのフラグである
 審美眼のストレッチでやさしい眼差しに
 遠山の金さんと水戸黄門――いつも完璧じゃない美学
 本当にあった、写真に写らない美しさの話

第二章 天はあの子の上に私をつくらず、私の上にあの子をつくらず
 その「私なんて」どっからきた?
 自虐は自分も人も傷つける、諸刃の剣
 クラス1の美人とも交換したくない顔
 嫉妬はチャンス。自分を磨く鏡として活用する
 SNSは人目を気にしないための壁打ち
 量産型と侮るなかれ。付和雷同は才能である
 「モテたいは生きたいに近い」けれど……
 エビデンスなきモテに振り回されるな
 「婚活コンサバ」という踏み絵 清くクセなく御ぎょしやすく
 死ぬほど好き でも自尊心は委ねるな

第三章 その世間って具体的に誰?
 イタいの飛んでけ! みんなで浮けば、怖くない
 母で妻で、それで? 役割スタンプラリーからの卒業
 ママ=時短って決めつけるな
 それでも忙しいあなたに送るミニマム美容
 「いつもご機嫌」、「ポジティブ至上主義」が蓋をするもの
 消えたくなる日、馴染みの思考回路
 イケてる!という感覚は世界を速攻で変える

第四章 時をかける私
 平均年齢45・9歳の国で年齢を恥じると詰む
 「宇宙船美人号から降りられない女たち」にモヤる
 女って捨てられるの? 恋愛=現役という焦り商法
 エイジングロールモデルを探して

おわりに

【著者略歴】
長田杏奈(おさだ・あんな)
1977年神奈川県生まれ。ライター。中央大学法学部法律学科卒業後、ネット系企業の営業を経て週刊誌の契約編集に。フリーランス転身後は、女性誌やWebで美容を中心に、インタビューや海外セレブの記事も手がける。「花鳥風月lab」主宰。

The National - ele-king

 ザ・ナショナルが自分たちのことを自嘲気味に「ダッド・ロック」と呼んでいたのは、しかし、半分以上くらいは冗談ではなかったのではないか。彼らがアメリカで高い人気を誇ってきたのは(そして日本で本国ほどの人気が出ないのは)、マット・バーニンガーによるバリトン・ヴォイスとハードボイルドを思わせるリリック、そうした文学性を武骨に支えるダンディなロック・サウンドがアメリカの伝統的な良き父性を匂わせるからだと僕は考えている。「daddy」がスラングで「イケてる」を意味することもあるカルチャーで、強く頼れる父であることはつねに求められてきたし、揺るぎない魅力だとされてきた。00年代中盤頃から急浮上したザ・ナショナルの、スーツを着こなし赤ワインを呑みながら歌う髭を生やした中年のフロントマンであるバーニンガーは、ある種のセックス・アイコン性すら有していたと思う。
 だが10年代、フェミニズムの再燃とLGBTQの台頭、それらと対抗するかのように浮上したトランプ政権による男権力の横暴とジェンダー保守派の過激な言動を経て、アメリカ的男性性あるいは「父性」は大いに混乱している。社会問題化したインセル(不本意な禁欲主義者。自分の容貌を醜いと考え、それを動機として女性を憎悪するヘテロ男性)のこともある。フェミニズムを支持することは男性だってもちろんできる、が、白人でヘテロでよく教育された(中年)男性による「リベラル」が、どこかで説得力を持たなくなっているのも事実だ。多くの白人男性によるインディ・ロックが近年訴求力を失っているのは、それが原因のひとつでもあるだろう。自身のマジョリティ属性とどう向き合うかは、少なからず誠意を持ち合わせた側の男性にとって、いま抜き差しならない問題だ。もうトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)を捨て去ることは決意した、が、では、たんなる「男性性」の行き場所はどこか?

 ザ・ナショナルは過去にもコンピレーション『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』やグレイトフル・デッドのトリビュート・アルバムなどを編纂しUSインディ・ロックのリベラル勢のまとめ役を買って出ていたが、本作でまず実行しているのも現在における民主主義的なアプローチだ。ボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンとザ・ナショナルのメンバーであるアーロン・デスナーが様々な立場のアーティストを繋ぐコレクティヴ〈PEOPLE〉を主宰していることの延長にあると思うが、じつに70人以上のゲスト・ミュージシャンが参加している。多様なアイデンティティや出自を持つ「人びと」によるアンサンブル。そして、なかでも目立つポジションが与えられたのが女性シンガーたちである。シャロン・ヴァン・エッテン、リサ・ハニガン、ミナ・ティルドン、ケイト・ステイブルズ、ゲイル・アン・ドロシーという多彩なメンバーによる歌声は女性の表現の多様さを強調する。
 思い出すのは、昨年のデヴィッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』――やはりリベラルな白人男性によるアート・ロック作品――が大勢のゲストを招きながら、ひとりも女性が含んでいなかった点を批判されたことだ。バーンは過去に何度も才能ある女性とコラボレーションしてきたし、しかも彼女らを飛び道具のように扱っていなかったことを思えば、いささかアンフェアな批判のようにも感じるが、しかしそれだけジェンダー・イシューがマジョリティ側にも強く求められる時代だということの証明でもあった。その点、立場的に近い場所にいるザ・ナショナルが女性たちをステージの中央に立たせているのは、ある種いまもっとも「政治的に正しい」振る舞いのようにも見える。……が、これがPC対応型のたんなる「ダイヴァーシティ」作品だとは、僕は思わない。

 本作と同時にリリースされたマイク・ミルズによる同名の短編映画を観ると、そのことがよくわかる。というのは、同作もまた白人ヘテロ男性が彼なりの誠意を持って女性と向き合った作品だからだ。ザ・ナショナルの楽曲とスコアがずっと流れるなか、アリシア・ヴィキャンデル演じるひとりの「女性」の生から死までを26分ほどの詩的なモノクロ映像で綴ったもので、カメラしか知りえない彼女の細やかな感情を切り取っていく。それはまるきりミルズの前作『20センチュリー・ウーマン』の続きにあるもので、自分はラディカル・フェミニズムとアート・ロックを教えてくれた女性によって育てられたとあらためて語ったあの作品と同様の、一筋縄ではいかない女性に対する敬意と感謝で満ちている。彼女らを殊更に美化するわけでもない。ミルズは妻のミランダ・ジュライの作品群に影響されている部分も多いと思われるが、女性の多面性や感情の機微をできる限り丁寧に救い取ろうとする作家だ。それは事実としてあくまで「男の」まなざしなのかもしれない、が、彼女(たち)と向き合うことを諦めていない。

 ザ・ナショナルのほうの『I Am Easy To Find』でも似たことが起きていて、バーニンガーが女性たちと声を重ねれば、彼の低い声の色気はいや増していく。彼としては比較的ハイ・トーンとなる“Quiet Light”のようなドラマティックなユニゾンもあるが、“Oblivions”や“I Am Easy To Find”ではほとんど音程が聴き取れないほどの低音でゲストのフィメール・ヴォーカルを下方で支える。結果として、本作はこれまででもっとも官能的な作品となっている。10年後に振り返れば、2015年~18年辺りのことは男女間の対立が激化した時代と記憶されるかもしれない。が、そのときを経て、ここにはたくさんの人間たちが集い、そして、女と男が出会い直している。やはり白人男性としての立場から「結婚」をモチーフとして印象的な男女デュエットを取り入れたヴァンパイア・ウィークエンド『ファーザー・オブ・ザ・ブライド』にも通じる感覚だと思う。
 サウンド的にはこれまでのザ・ナショナルの良さをきちんと発展させており、英国ニューウェーヴとチェンバー・ポップの融合をデスナー兄弟による緻密なオーケストラ・アレンジとエレクトロニクスで洗練させている。その点は前作『Sleep Well Beast』(17)と同様なのだが、明らかにトランプ直後の空気を吸ってダークな作風だったそれと比べ、クワイアの参加や多人数のアンサンブルのせいもあってはるかに開放的な空気が感じられる。ロック的なカタルシスに満ちた“The Pull Of You”もハイライトのひとつだし、ほとんどブロークン・ソーシャル・シーンのような爽快感で駆け抜ける“Where Is Her Head”も新機軸だ。僕が一曲挙げるとすれば、清潔なピアノと弦の音が、ふくよかなデュエットと温かく響き合う“Rylan”だ。「誰だって心に少しは地獄を抱えているもの/ライアン、少しは太陽を浴びなよ」――日差しの下を走り出したくなる。

 ザ・ナショナルはかつて、保守的な故郷オハイオでの記憶とニューヨークでの都会のリベラルな暮らしに引き裂かる心情をこんな風に歌っていた――「ミツバチの群れが俺をオハイオに運んでいく/だけどオハイオは俺を覚えていない」。そして本作の“Not In Kansas”では同じ土地のことをこう綴る。「オハイオは悪循環に陥っている/もうあそこには戻れない/オルタナ右翼という麻薬が蔓延しているから」。
 彼らはどこかで、保守性を残した自分たちのことを自覚しているのだろう。だがだからこそそれを消し去るのではなくて、少しでも真摯なやり方で更新しようとする。マジョリティであることを痛いほどに自覚しながら、異なる立場への理解を諦めないこと。僕がザ・ナショナルを聴いていてアメリカ的父性を感じるとき、あるいはその男性性に色気を嗅ぎ取るとき、それが「政治的に正しい」のか倫理的に許されるのかはよくわからない。少なくとも時代遅れではあるだろう。それでも、『I Am Easy To Find』はザ・ナショナルの魅力が――文学性とロックの官能性が詰まった作品だと思う。それに……タイトル・トラック“I Am Easy To Find”で男女の声が「わたしを見つけるのは簡単なこと」と重なり合うとき、「I」にジェンダーの別はない。

ハテナ・フランセ 第20回 - ele-king

 みなさんボンジュール。5月25日に終了したカンヌ映画祭について。私自身が参加していたわけでも、インサイダー情報があるわけでもないが、カンヌの映像を見ていてぼんやり思ったことを。

 審査員賞を『Bacurau』と共に受賞した『Les Misérables』は、2008年のパリ郊外で起きた暴動事件を下敷きにしたLadj Ly(ラジ・リー)の初監督作品。5月15日に正式上映されたこの作品のレッド・カーペットと授賞式が個人的に非常に印象に残った。そこにはKourtrajmé(クートラジュメ。クー・メトラージュ=短編の逆さ言葉)の面々が顔を揃えていたからだ。Kourtrajméは、映画監督キム・シャピロン、同じく映画監督ロマン・ガヴラス、ラジ・リー、そして映像作家トゥマニ・サンガレによって96年に立ち上げられたアーティスト集団。所属するのは当時は駆け出しの映像作家、ラッパー、グラフィティ・アーティスト、ダンサーなど。それぞれの表現手段はさまざまながら、ヒップホップ色が強めだった。彼らは名前の通り短編映画をとにかく量産しまくっていた。内容は、内輪受けギャグ的なしょうもない&意味不明なものも多かった。だがとにかく衝動的に仲間とクリエイトする、ということを標榜していたのだと思う。当時のKourtrajméのなかでは、ラッパーたちが比較的知名度のある方だった。Kourtrajmé正式メンバーのモロッコ系兄弟2人によるLa Caution(ラ・コーション)はインディながら大きめでカッコいい〈ワーグラム〉レーベルと契約していた。また、当時〈ニンジャ・チューン〉傘下の〈ビッグ・ダダ〉と契約して話題となっていたTTCなどもゆるく繋がっていた(TTCのMVをキム・シャピロンが撮っている)。TTCのテキ・ラテックスは、彼らをフックアップするべく、キム・シャピロンやロマン・ガヴラスの名前を要チェックの映像作家としてインタヴューで当時よく挙げていた。2000年前後のパリでは、Kourtrajméは大変イケていたのだ。その後キム・シャピロンは2006年にいち早く初監督作品『変態村』を、ロマン・ガヴラスはジャスティスの超暴力的MV「Stress」で物議を醸した後、2008年に初監督作品『Notre jour viendra(日本未公開)』を発表する。さらに2012年にはジェイ・Zとカニエの「No Church in the Wild」も手がけている。そしてキムの初監督発表と同時期に、それぞれが個別のキャリアを築き始めたことで「Kourtrajméとしてできることは、やりつくした」として解散した。

 そもそも、70年代の伝説的グラフィック・アーティスト集団バズーカのメンバー、キキ・ピカソことクリスチャン・シャピロンとマチュー・カソヴィッツがお隣さんだったことから、Kourtrajméは始まったと言っていいだろう。クリスチャンの息子キムは子供の頃からカソヴィッツの撮影現場などに出入りし、その友人でもあり、監督2作目『憎しみ』の主演俳優でもあるヴァンサン・カッセルとも自然に親しくなったという(カッセルは『変態村』の主演も務めた)。95年にカンヌ映画祭で監督賞を受賞した『憎しみ』は、パリ郊外の移民系青年達の絶望的な状況を見事に描き切った傑作だ。だが、この作品の監督マチュー・カソヴィッツは、映画監督の父を持つ決して貧しいとはいえない家庭出身、主演のヴァンサン・カッセルは大物プロデューサーの息子。公開当初から作品そのものは非常に高い批評を得たが、なかにはブルジョワ出身であるカソヴィッツが、郊外のゲットー文化を我が物顔で語ることに疑問を呈する批評家もいた。

 そしてその疑問は『Les Misérables』のレッド・カーペットを見ながら私が抱いた「どうやったらラジ・リーとキム・シャピロンが繋がるんだろう」という素朴な疑問にも繋がるのかもしれない。パリ郊外モンフェルメイユのシテ(フランスのゲットー)でマリ人の両親の元、13人兄弟の中育ったラジ・リーと、当時のパリで相当イケていたであろう先鋭的グラフィック・アーティストの息子キム・シャピロンの行動範囲がどう重なったのかわからないのだ。だが、5月27日付の新聞『Le Parisien』のなかにその答えが見つかった。ラジ・リーの住むモンフェルメイユにあるエルジェのContre de Loisirs(ソントル・ドゥ・ロワジール=学校のバカンス中に子供を預けられる施設)で10代前半の2人は出会ったのだそう。この託児施設は、ラジ・リーの学区とは若干ずれていたが「親父がちょっと高くてもブルジョワの子供の行く施設の方が規律がしっかりしてるだろう」との判断で行くことになったそう。そして、キム・シャピロンは祖父母の瀟洒な家が近所だったということでバカンスの間、エルジェに行くことになったのだ。このように普段の生活の文脈から離れた場所で出会った、ブルジョワの子供と移民の子供が仲良くなったのだと想像する。

 今回のレッドカーペットでは当事者のラジ・リーはもちろん、Kourtrajmé創立メンバーに加え、今や売れっ子テレビ司会者(日本でいうと有吉弘行みたいな感じ)となっている、ムールード・アシュール、いつの間にかKourtrajméの一員になっていたストリート・アーティストで写真家のJR、Kourtrajméの一員というイメージではないポエティックで真面目系ラッパー、オキシモ・プッチーノ、そして創立当時からKourtrajméのゴッドファーザーであったマチュー・カソヴィッツやヴァンサン・カッセルまで、関わった作品がない限り簡単にスケジュールを押さえられないような超豪華なメンバーが総揃いした。おそらくそれほど彼らの繋がりは強いものなのだろう。主題的にも資金集めが簡単ではなかったはずのラジ・リーの初監督作品が、カンヌ映画祭の、しかも正式上映に選ばれたということは、Kourtrajméにとっては祭り以外の何物でもなかったのでは。受賞の際にもちろんラジ・リーは授賞式まで参加したKourtrajméの面々の名前を挙げ感謝を捧げた。

「ジレ・ジョーヌへの機動隊の暴行で注目が集まったけれど、彼らの暴力は今に始まったことじゃない。この作品は僕なりの警笛なんだ」という『Les Misérables(原題、邦題未定)』は日本でも公開予定だそう。

La Caution Thé à la menthe
Kourtrajméのメンバーも多数出演しているMV。ヴァンサン・カッセルが出演している『オーシャンズ12』の劇中で使用された。

TTC Je n'arrive pas à danser
キム・シャピロンによるTTCのMV。不条理なユーモアとKourtrajméのメンバーが満載。

Justice Stress
ロマン・ガヴラスによるジャスティスのMV。あまりの暴力描写にメディアで叩かれまくった。

『Les Misérables』のフランス公開予告

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