そう、トニーと『灰とダイアモンド』のレコーディングをロンドンのグッド・アース・スタジオで行っていたときに、突然ボウイが姿を現したんだ。そしてしばらくぼくのベースのレコーディングの様子を見ていて、こう言った。彼のバックでベースを弾いてくれないか、と。
ザイン・グリフ。
1970年代末から1980年代初頭の英国の音楽シーン、なかんずくニュー・ロマンティックスと呼ばれたムーヴメントに関心を持っていた方なら聞き覚えがある名前だと思う。
ニュー・ロマンティックスは、後にヴィサージを結成することとなるスティーヴ・ストレンジとラスティ・イーガンが1978年頃からスタートしたクラブのパーティーから始まった。
それは、パンク以前のグラム・ロックをポスト・パンクの精神でリバイバルしたもので、1970年代前半のデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックのグリッターで絢爛な音楽とファッションを、エレクトロニック・ミュージックやワールド・ミュージック、レゲエなどの意匠を纏ったダンス・ミュージックとして蘇らせるという趣向だった。
1979年にはスティーヴ・ストレンジらのヴィサージが結成され、やがてウルトラヴォックスやスパンダー・バレエ、アダム&ジ・アンツ、カルチャー・クラブらがこのニュー・ロマンティックスのムーヴメントに加わり、シェフィールド出身のヒューマン・リーグやヘヴン17といったロンドン以外のアーティスト、グループも参画していくことになる。
そんな中でシーンに登場したのがザイン・グリフだ。
ザイン・グリフは1957年にニュージーランド・オークランドで生まれた。10代の頃から地元のバンドにベーシストとして加入して音楽活動をスタート。1974年にはヒューマン・インスティクトというバンドでレコード・デビューも果たしている。
しかし、同年ザインはそのバンドを脱退し、ロンドンに向かった。
やはり当時のロンドンの音楽シーンに対する強い憧れがあったのだという。
到着したロンドンで、ザイン・グリフは積極的に音楽活動を開始した。伝手を頼り複数のアーティスト、バンドのセッションにベーシストとして参加したほか、ソロ・アーティストとしても音楽制作を開始している。
また、この時期にはデヴィッド・ボウイも師事したパントマイム・アーティストのリンゼイ・ケンプのカンパニーに加わってもいる。パントマイマー、ダンサーとしての修行を開始したのだが、当時の一座にはケイト・ブッシュも在籍しており、後々まで交流が続くことになる。
ザイン・グリフは1977年には自身のバンドを結成し、積極的にライヴ活動をスタート。これがいくつかのレコード会社の目にとまり、ワーナー・ミュージック傘下のレコード会社オートマティックと契約。いよいよソロ・アーティストとしてのザイン・グリフが誕生する。
ソロ・アーティストとしてのこのデビュー・アルバムは、プロデューサーに、これもまたデヴィッド・ボウイとの仕事で名を成していたトニー・ヴィスコンティを迎えた。ニュー・ロマンティックスとグラム・ロックの中間的なサウンドを奏でたデビュー・アルバムは『灰とダイアモンド(Ashes and Diamonds)』と名付けられ、日本を含む世界各国でリリースされている。
このアルバムではトニー・ヴィスコンティのプロデュースということ、それにザイン・グリフの華やかな容姿からデヴィッド・ボウイの再来的な評価も受けた。この頃、『ロウ』『ヒーローズ』といったベルリン時代の諸作のプロデューサーであるトニー・ヴィスコンティと密な関係を保っていたデヴィッド・ボウイもザイン・グリフの存在は気になっていたようだ。あるとき『灰とダイアモンド』のレコーディング中にスタジオに姿を現し、その場で自分のレコーディングにベーシストとして誘っている。
先日行ったザイン・グリフのインタビューで、当時のことを彼はこう振り返っている。
「そう、トニーと『灰とダイアモンド』のレコーディングをロンドンのグッド・アース・スタジオで行っていたときに、突然ボウイが姿を現したんだ。そしてしばらくぼくのベースのレコーディングの様子を見ていて、こう言った。彼のバックでベースを弾いてくれないか、と。もちろんふたつ返事でOKしたよ」
この頃、ボウイは英国の音楽とヴィデオ・アートを融合した先駆的なテレビ番組『ケニー・エヴェレット・ヴィデオ・ショー』への出演オファーを受けており、そこで披露するオリジナル・ヴィデオのためのトラックを準備中だった。
トニー・ヴィスコンティのプロデュースで、ボウイの過去の楽曲のリニューアル・ヴァージョン3曲のレコーディングにザイン・グリフは参加。曲目は“スペイス・オディティ”“パニック・イン・デトロイト”“レベル・レベル”。
これらのうち、アコースティック・アレンジの“スペイス・オディティ”が番組でオリジナル・ヴィデオとともに放映され、1979年にはボウイのシングル“アラバマ・ソング”のカップリング曲としてレコード・リリースされてもいる(演奏者のクレジットはない)。“パニック・イン・デトロイト”も後に複数の再発アルバムのボーナス・トラックとなっているが、“レベル・レベル”は未発表のままだ。
「未発表のままの“レベル・レベル”はオリジナルに近いアレンジだったけど、“スペイス・オディティ”と同様に音の隙間が多いゆったりとしたサウンドだったな」
こうしたボウイとの共演をはさみ、ファースト・アルバム『灰とダイアモンド』は1980年10月に発売された。先行シングルの「トゥナイト」がチャートで健闘し、アルバムもヒットとは言えないもののニューロマンティック・ブームの最盛期だっただけに注目を集めた。
ザイン・グリフもこれを受けてさらに積極的にライヴ活動を行うが、以前からバッキング・バンドのキーボーディストはハンス・ジマーが務めていた。現在はアカデミー賞にも輝く映画音楽界の巨匠だが、この頃はまだまだ無名に近いいちスタジオ・ミュージシャンに過ぎなかった。
しかし、ザイン・グリフはハンス・ジマーの才能をすでに見抜いていたという。
「ぼくは彼は絶対に成功すると予期していた。だからライヴだけでなく『灰とダイアモンド』でもキーボードを弾いてもらったのだけど、そのときにはすでに次のアルバムは彼との共同プロデュースで作りたいと思っていたんだ」
ザイン・グリフは新たにポリドール・レコードと契約し、セカンド・ソロ・アルバムの準備を始めたが、レコード会社はプロデューサーにハンス・ジマーを立てるという提案に難色を示した。プロデューサーとしての実績がないのだから当然だろう。
「レコード会社はハンス・ジマー? 誰だそれは? っていう反応で、大反対されたんだけど、とにかくぼくとハンスにチャンスをくれって頼み込んで、とりあえず2曲レコーディングしてみて、それを聴いて判断するということになったんだ」
新しいアルバムのための2曲のデモ・レコーディングは満足のいくものになり、レコード会社もハンス・ジマーを共同プロデューサーとすることを認めた。
「デモを聴いたレコード会社は即座に認めてくれた。ぼくはそのときがハンスの今日に至る成功の階段のファースト・ステップを踏んだ瞬間だと思っている(笑)。すくなくとも彼の背中を押したことはまちがいがない。彼の才能を考えると当然の結果だったけどね」
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ユキヒロとのスタジオでの思い出は、なにより仕事が早いことに驚いたこと。あと、スタジオにあったスタインウェイのピアノの下に潜り込んで、ドラムのスティックで弦を叩き出したこと。スタインウェイだよ!(笑)そんなことをしていいのかってひやひやして見ていたけど、ユキヒロは涼しい顔でああ、いい音だなあなんて。
1982年9月に発売された新アルバム『フィギュアーズ(Figures)』はセカンド・アルバムにして、渡英以来のザイン・グリフのキャリアを凝縮した名作になった。ザイン・グリフの書いた曲、そしてヴォーカルも前作から格段の進化を遂げていたのはもちろん、共同プロデューサーであるハンス・ジマーのアレンジもすばらしかった。クラシック音楽の正統的な教育を受けていたジマーの、のちの映画音楽作家時代を十分に予兆させる、美しいストリングスを中心としたオーケストレーションと和声、転調と変拍子を多用した装飾はザイン・グリフの楽曲を際立たせた。
また、ゲストの豪華さも話題になった。
以前、ライヴで共演したことがあったウルトラヴォックスのドラマーであるウォーレン・カン、もうひとりのドラマーは当時YMOの高橋幸宏。
「YMOは彼らの1980年のロンドン公演を観て知ったんだ。そのとき楽屋でユキヒロに初めて会った。それで、ぼくの次のアルバムのレコーディングに参加してくれないかと頼んだんだ。するとユキヒロは、彼のアルバムにぼくがゲストで参加してくれるならいいよ、と」
高橋幸宏は『フィギュアーズ』収録の「ザ・ヴァニシング・メン」でドラムを叩き、ザイン・グリフは約束通り、1982年にロンドンで録音された高橋幸宏のアルバム『What Me Worry? ぼく大丈夫』でザイン・グリフ作詞作曲の「The Strange Obssesion」をはじめ「使いすてハート」「Real You」の計3曲でヴォーカルを担当することになった。
「ユキヒロとのスタジオでの思い出は、なにより仕事が早いことに驚いたこと。あと、スタジオにあったスタインウェイのピアノの下に潜り込んで、ドラムのスティックで弦を叩き出したこと。スタインウェイだよ!(笑)そんなことをしていいのかってひやひやして見ていたけど、ユキヒロは涼しい顔でああ、いい音だなあなんて。なんて創意工夫に富んだ人だろうと思ったね。いい思い出だ」
そしてこの『フィギュアーズ』にはリンゼイ・ケンプのマイム・カンパニーで共に学んでいたケイト・ブッシュも参加し、「フラワーズ」でザイン・グリフとのデュエットを聴かせてくれている。
アルバムは前作以上の売り上げを記録し、カットされたシングル「フィギュアーズ」「フラワーズ」なども好調だった。この1982年の後半はニューロマンティックス・ムーブメントの最後期で、多くのバンド、アーティストが失速していく中、ザイン・グリフの『フィギュアーズ』はあたかもニューロマンティックスの最後の輝きのような作品とも言えるかもしれない。
ムーヴメントの盛衰はともかく、ザイン・グリフは当然、『フィギュアーズ』の次のアルバムの準備を開始。
ロキシー・ミュージックやジャパンとの仕事で知られるジョン・パンターや、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロをプロデューサーとしていくつかのレコーディング・セッションを行って次作の方向性を探っていく。
そんな中、ハンス・ジマーからもちかけられたのが、彼とウォーレン・カンが始めたプロジェクト〜ユニットである“ヘルデン”で何曲かヴォーカルを担当しないかという話だった。
ヘルデンはすでにインストゥルメンタルの実験的なライヴを行っていたが、作詞家のヒューゴ・ヴァーカーとともにアルバムの制作に入り、ヴォーカリストを探していたのだった。
ザイン・グリフはもちろん快諾してレコーディングに参加。作詞や作曲にはかかわらず、ヴォーカリストとしてのみの参加だったが、ハンス・ジマー、ウォーレン・カンと一緒に制作した『フィギュアーズ』の延長の作品という意識もあったそうだ。
「ぼくには『フィギュアーズ』の続きだという意識があった。音楽的にも『フィギュアーズ』の延長線上にあると思う。ハンスはあのアルバムの作業を通して自分のスタイルを確立したんだ。また、その一方で、ヘルデンの音楽には、映画音楽家としてハンス・ジマーが当時手掛けはじめていたいくつかのサウンドトラック作品との共通項もあった」
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日本でのファンタスティックなショーのあとに、何人かのファンからヘルデンのアルバムは結局どうなったんですかと訊かれたんだ。みんな気にかけていたんだと驚いたね。
しかし、1982年の後半から始まったヘルデンのレコーディングは、1983年に入ると滞るようになった。あとはギターを追加ダビングして、ヴォーカルを何曲かで差し替えれば完成という段階で、実際にトラックダウンまで終わった曲も複数あった。
エヴァという女性スパイを主人公にしたロック・オペラ、もしくは架空の映画のサントラという想定の『スパイズ』と名付けられるはずだったアルバムだったが、先行して完成されていた楽曲「ホールディング・オン」をインディー・レーベルからシングルとしてリリースしたところで、作業は完全にストップした。レコーディング中、スタジオでエヴァの容姿を想像したドローイングを描くほどこのアルバムに入れ込んでいたザイン・グリフにとっては残念な事態で、以降も長年に渡ってこの『スパイズ』は心の片隅にひっかかったままとなった。
「当時、ハンスは映画音楽の仕事を始めていて、ハリウッドとの関係も深くなっていた。彼の意識はどうしてもそちらに向かい、ロスアンジェルスに活動の拠点を移そうともしていた。そうしているうちにヘルデンのプロジェクトに割ける時間はなくなり、完成間近のアルバムはそのままになってしまったんだ」
ヘルデンが幻のプロジェクトとなる中で、ザイン・グリフの英国での音楽活動にも影が差す。
新しいソロ・アルバムを完成することもなく、ザイン・グリフはやがてアーティストとしての活動を引退し、祖国ニュージーランドへの帰国の途についた。
故郷であるニュージーランド・オークランドで彼は音楽クラブを経営し、地元のバンド、アーティストに演奏の場を提供するほか、自分でも趣味として音楽制作を続けていたそうだ。
そうして時は流れて21世紀。
2011年、ザイン・グリフは長い沈黙を破って、アルバム『チャイルド・フー・ウォンツ・ザ・ムーン(Child Who Want the Moon)』を発表。それにともないライヴ活動も再開した。
2年後の2013年にはサード・アルバム『ザ・ヴィジター(The Visitor)』をリリースすると、ロンドンに渡ってかの地のファンの前でひさしぶりのコンサートを行う。翌2014年にはさらには根強いファンのいる日本も訪れ、日本人ミュージシャンとともに東京で初来日公演を実現。
またこの間に、過去の2枚のアルバム『灰とダイアモンド』『フィギュアーズ』を自らの監修でリマスター再発、そして過去の未発表のマテリアルを編纂したコンピレーション・アルバム『イマースド 浸漬(Immersed)』もリリースしている。
2016年、東京で共演したミュージシャンも参加した5枚目のソロ・アルバム『ムード・スウィングス(Mood Swings)』を発表。
ここまでの21世紀のザイン・グリフは、かつてのニュー・ロマンティックス時代の作品の片鱗は残しつつも、オーガニックでアコースティック楽器の響きが美しいアルバムを作ってきた。
これが新しい、いまのザイン・グリフの音楽だ。
誰もがそう思っていたところ、2022年になって、6年ぶりとなるニュー・アルバムの発表が予告される。
新しいアルバムは『ザ・ヘルデン・プロジェクト // スパイズ』。この発表は古くからのファンに混乱をもたらした。
『スパイズ』は幻となったヘルデンのアルバム名で、タイトルにはヘルデンの名前も入っている。
当初はヘルデンの幻のアルバム『スパイズ』が正式に発売されることになったという捉え方もされた。
しかし、実はこのアルバムは、かつてヘルデンが完成直前まで作業を進めたアルバム『スパイズ』を、ザイン・グリフがいちから構築し直し新たにレコーディングを行ったソロ・アルバム。いわばかつて自分が参加した音楽ユニットのセルフ・カヴァーということになる。
作詞も作曲もかかわっていない過去作のセルフ・カヴァーというこの異例の作品が実現するきっかけは、なんと日本にあった。前述の2014年の来日公演のときの終演後のできごとだ。
「日本でのファンタスティックなショーのあとに、何人かのファンからヘルデンのアルバムは結局どうなったんですかと訊かれたんだ。みんな気にかけていたんだと驚いたね」
さらに日本〜東京に滞在中、ザイン・グリフは都内のヴィンテージ・シンセサイザーや機材を取り揃えたショップの存在を知り、そこでヘルデンの制作当時のシンセサイザーやエフェクターを手に入れることができたという。
幻に終わったヘルデンのアルバム『スパイズ』を自らの手で再構築しようという意思が固まった。
「ニュージーランドに帰国して、よし挑戦してみようと決めたんだ」
幸い、手元には当時の『スパイズ』のカセット・コピーが残っており、それを聴きながら1曲ずつ採譜していく日々が始まった。楽曲はどれも複雑で、友人の音楽学者の手も借りた。
途中、アルバム『ムード・スウィングス』の制作をはさみつつ、ザイン・グリフは足かけ8年の時間をかけて、『スパイズ』を蘇らせたソロ・アルバム『スパイズ・ザ・ヘルデン・プロジェクト』を完成させた。
東京で入手したものをはじめ多くのヴィンテージの機材を使ったが、同時に最新のテクノロジーも駆使した。1980年代の作品の再現ではあるが、随所にアップ・デートを施し、現代のサウンドとしている。
「雰囲気は極力オリジナルに近づけようと思った。同時に、いまだったらハンスやウォーレンはこうするだろうというアプローチもとった」
同時期にロンドンで活動を始め、いまはオーストラリアで暮らしているジュリアン・メンデルソーンに1曲リミックスを頼んでいるが、これもまた1980年代と2020年代の混交のようなサウンドになっている。
そしてジャケットにはヘルデンのレコーディング中に描いた1982年のエヴァのドローイングが使用された。ついにここにヘルデンの幻のアルバム『スパイズ』が21世紀にアップ・デートされた形で蘇り、世に出ることになったのだ。
ザイン・グリフはこの作品をこれまでの自分のアルバムの中でもベストのものだと断言している。1980年代的なエレクトロニック・ポップを現代のサウンドに昇華し、幻だったアルバムを見事に蘇らせた。2011年の復活以降のザイン・グリフの巧みさと深みを増した歌声がそこに乗っている。40年前の空気をまとった最新のアルバムという不思議な世界だが、古臭さはまったくない。予備知識なくアルバムの音に触れる人はどういう感慨を持つのだろう。
もちろん、ハンス・ジマーとウォーレン・カンには以前からこの再現プロジェクトのことは伝えており、両者から楽しみにしているという返事をもらっている。
いま頃は完成された『ザ・ヘルデン・プロジェクト // スパイズ』の音を両者とも聴いているだろう。その感想も知りたいところだ。
■ザイン・グリフ オリジナル・アルバム・ディスコグラフィー
『灰とダイアモンド(Ashes and Diamonds)』 1980年
『フィギュアーズ(Figures)』1982年
『Child Who Want the Moon』 2011年(日本未発売)
『ザ・ヴィジター(The Visitor)』 2013年
『ムード・スウィングス(Mood Swings)』 2016年
『ザ・ヘルデン・プロジェクト // スパイズ』 2022年