「Nothing」と一致するもの

Merzbow + Hexa - ele-king

 本作のアルバム名「アクロマティック」とは、その意味のとおり、全音階だけから構成される漆黒のノイズ音楽のことを指す言葉に思えてならない。実際、『アクロマティック』に横溢しているサウンドは、無彩色の、モノクロームの音空間、もしくは、そのすき間から漏れる雑音の光のようなのだ。美しく、強靭で、そして儚い。いわばノイズ・ルミナス、ノイズ・スカルプチャー 。ノイズの現象。ノイズの彫刻。
 メルツバウとヘキサ。この異色ともいえるノイズ・ミュージック、エクスペリメンタル・ミュージックのコラボレーション・アルバムを聴いて、思わずそんな言葉が漏れ出てしまった。ダーク・ノイズのむこうにある光? 光の中に生成するノイズ? ノイズ・オブジェクト? それはどこか物質を超越する意志の発露のようだ。
 かつてノイズ音楽は「物語/歴史の終わり」を象徴していた。音楽、そして世界の歴史の終焉から始まったのだ。そしていまは「物質の終わり」から「人間の終わり」を予兆している。ノイズ音楽はヒトの無意識を反映し、作用する。

 果たしてこんな表現は大袈裟だろうか。しかし「ジャパノイズの神」としてだけではなく、世界的な「ノイズ・レジェンド」であるメルツバウ(秋田昌美)と、カテゴライズを超越したユニーク極まりないUSのエクスペリメンタル・ユニットである「シュシュ(Xiu Xiu)」のジェイミー・スチュワートと、エクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈ルーム40〉を主宰するアンビエント/ドローン・アーティストのローレンス・イングリッシュによるユニット「ヘキサ(Hexa)」の協働によって完成したアルバム『アクロマティック』を聴くと、そのあまりに美しいノイズの衝撃に、そんな言葉が真理であるかのように思えてしまうから不思議だ。ここでは物質的なものへの抗いが、強靭なノイズと清冽な音の中で生成している。
 もっともこのコラボレーションは奇跡ではなく必然でもあった。まず、メルツバウとシュシュは、2015年にメルツバウ+シュシュ名義で『メルツシュ(Merzxiu)』というアルバムをリリースしている。
 そして、ローレンス・イングリッシュとジェイミー・スチュワートは、ヘキサとして映画作家デヴィッド・リンチの写真展の音楽を制作し、その音源はアルバム『ファクトリー・フォトグラフス』としてイングリッシュの〈ルーム40〉から2016年にリリースされた。リンチ的な荒廃した世界観と、彼らの霞んだサウンドが融解する素晴らしいアルバムであった。メルツバウとヘキサ、伏線はしっかりと敷かれていたわけである。

 むろん本作は、同時に、単なる出会いの成果などではなく、コラボレーション特有の魅力の暴発がある。個の拡張とでもいうべきかもしれない。じっさい、ここ数年のメルツバウはコラボレーションを重ねても、いや、むしろ重ねることで圧倒的な存在になっている。特に近年は、サーストン・ムーア、マッツ・グスタフソン、坂田明、ジム・オルーク、灰野敬二、バラージュ・パンヂ、ガレス・デイビス、アレッサンドロ・コルティーニ、ダエン、ニャントラなど実に様々なアーティストとのコラボレーションを重ね、領域と世代を超えた存在感を多方面に刻み付けてきた。
 加えて近年の動きで決定的だったのが1996年リリースの傑作『パルス・デーモン』https://bludhoney.com/album/pulse-demon)を、ヴェイパーウェイヴのレーベルとして知られる〈Bludhoney Records〉がリイシューしたことだ。

 このアルバムのリイシューによって、ヴェイパー世代にむけてメルツバウという存在が見事にリプレゼンテーションされた。いわば80年代~90年代のノイズ・ミュージックと10年代のヴェイパーウェイヴがエクスペリメンタル・ミュージックの歴史/流れとしてつながったのである。
 『アクロマティック』も、そのような時代的な潮流に合流可能な作品だ。それはヘキサとのコラボレーションによってローレンス・イングリッシュ=〈ルーム40〉へと繋がったこともあるが、本作のリリースが〈ダイス・レコード(Dais Records)〉だったことも、さらに重要に思える。
 〈ダイス・レコード〉はロスとニューヨークを拠点とするレーベルである。主宰ギビー・ミラーらのキュレーションによって00年代中盤以降より、コールド・ケイヴ、クーム・トランスミッション、アイスエイジ、ユース・コード、シシー・スペイセク、マウリツィオ・ビアンキ、ラグナル・グリッペ、サイキックTV、トニー・コンラッド、ゼム・アー・アス・トゥー、ドラブ・マジェスティ、コールド・シャワーズ、コイル・プレゼンツ・ブラック・ライト・ディストリクトなど、いわばハードコアからノイズ、エクスペリメンタル・ミュージックからシンセポップ、リイシューから新作まで、ジャンルや音楽形式を超えつつも、ギビー・ミラーの審美観によって作品をキュレーションおよびリリースしてきた稀有なレーベルだ。
 その彼らがついに「ジャパノイズの神」にして「世界のノイズ・レジェンド」として深くリスペクトされるメルツバウのリリースに踏み切ったのだから、レーベルにとっても相当に記念碑的なアルバムともいえるはず。じじつ、『アクロマティック』は圧倒的なノイズ/エクスペリメンタル・サウンドをこれでもかというほどに展開する。
 アルバムは、A面には“Merzhex”を、B面には“Hexamer”を収録している(“Merzhex”のミックスはローレンス・イングリッシュが、“Hexamer”は、秋田昌美の手による)。
 注目すべきは“Merzhex”だろう。曲はシームレスだが表記上は4パートに分かれており、ノイズ・オブジェのようなモノとしての質感と、それが流動的に溶けだしていってしまうような不可思議な感覚が同時に生成されていく強靭なメルツノイズと律動的なメルツパルスが炸裂するサウンドだが(パート3以降の猛烈な音響の炸裂の凄まじさときたら!)、どこかヘキサ的な硬質で清冽なアンビエント感覚も鳴っているようにも聴こえ、「メルツヘキサ」というユニットによるトラックともいえなくもない。メルツとヘキサの融合体とでもいうべきトラックだ。
 対して“Hexamer”は、持続と反復と切断と生成が沸騰するように巻き起こり、ノイズの快楽を極限までヒートアップさせるトラックだ。メルツマニアの方ならばコラージュ的な展開に1980年代中期の秋田ソロ期以降のメルツバウを思い出しもするだろう。極限的な聴取が可能な逸品である。

https://www.youtube.com/watch?list=PLrfCEV-W7z9Ak2tQ_3XvEyJxRSJJ8eH3Y&v=XQIB4GbIDZY

 本作『アクロマティック』の暴発するノイズの果てに聴こえる=見える光。それはアートワークのように、漆黒のすきまから漏れ出る眩い光のようである。マテリアル化に抗いながら、光のように音という磁場を生成すること。そこに生まれるノイズのオブジェクトを提示すること(『アクロマティック』はアンチ・マテリアルなサウンド・インスタレーションのようだ)。この『アクロマティック』には、そんなノイズ音楽が内包する本質的かつ魅惑的な矛盾が横溢している。それはノイズ音楽の矛盾と魅惑だ(この矛盾をノイズで塗りつぶしたいという衝動こそがいわゆるジャパノイズの起源かつ本質であった。いわば近代・戦後日本という二枚舌的(欺瞞)社会への闘争だ。80年代初期から中期のメルツバウを聴けばそれがより体感的に理解できる)。
 本作に漲っているノイズへの欲望もまた、二つ(三つ)の自我/意志が「音楽の全音階を塗り潰すこと=世界を乗り潰すこと」にある。これこそメルツバウの、その活動最初期から変わらぬ意志でもある。いわば聴取の臨界点ギリギリまで追求するサウンドの生成だ。同時に、あらゆるメルツバウ作品がそうであるように、『アクロマティック』も新生成であると同時に唐突な中断である。中断は次のノイズ・ミュージックの生成へと継続していく。そう、メルツバウ/メルツノイズは終わらないのだ。中断するように、永遠に。物質の、その先へ。

Spiral Deluxe - ele-king

 ジェフ・ミルズにバッファロー・ドーターの大野由美子、日野“JINO”賢二、そしてURのジェラルド・ミッチェル。とてつもないメンバーによって形成されたスパイラル・デラックスなるこのエレクトロニック・ジャズ・カルテットは、なんでもジェフの長年の構想だったのだという。2015年、東京/神戸にて開催されたアートフェス《TodaysArt JP》をきっかけに活動を本格化させた同4人は、昨年EP「Tathata」を発表、そして今秋、〈アクシス〉より待望のデビュー・アルバム『Voodoo Magic』をリリースする。DJになる前はジャズ・ドラマーとして活躍していたというジェフの生ドラム音源が収録されている点にも注目だけれど、テレンス・パーカーによるリミックスも楽しみ。同アルバムは9月7日、2LPにて発売予定。公開されているティーザーもチェック。

ジェフ・ミルズ率いるSPIRAL DELUXE(スパイラル・デラックス)、
待望のデビュー・アルバム『Voodoo Magic』を9月7日(金)アナログ先行でリリース!

ジェフ・ミルズ(Drum machine, Dr, Percussions)、
大野由美子(バッファロー・ドーター/Moog Sync)、
日野“JINO”賢二(B)、
ジェラルド・ミッチェル(Key)による
SPIRAL DELUXEは、音楽という宇宙を様々な次元から探訪する
スペシャルなエレクトロニック・ジャズ・カルテット。

アルバムからのティーザー映像も公開!

エレクトロニック・ミュージックのパイオニアDJ/プロデューサーにして、
音楽宇宙を自由自在に行き来するジェフ・ミルズが、
長年の構想を形にした SPIRAL DELUXE(スパイラル・デラックス)、
待望のデビュー・アルバム『Voodoo Magic』が、
9月7日(金)にアナログ(2枚組)先行でリリースされることが決定しました。

2015年、東京と神戸で開催されたアートフェス、《TodaysArt JP》において、
多彩なバックグラウンドと抜群のテクニックを持った4人
~ジェフ・ミルズ(Drum machine, Dr, Percussions)、
バッファロー・ドーターの大野由美子(Moog Sync)、
日野“JINO”賢二(B)、ジェラルド・ミッチェル(Key)~
によって結成されたSPIRAL DELUXEは、
音楽という宇宙を様々な次元から探訪するエレクトロニック・ジャズ・カルテット。

ワールド・ツアーと2枚のEP盤を経て、より柔軟に共鳴し合い、
最高のハーモニーを奏でるようになった彼らが
満を持して発表するデビュー・アルバム『Voodoo Magic』では、
バンドのユニークさを象徴するように各々が自由に楽器をプレイし、
ジャズ、ロック、ファンク、ポップ、ゴスペル、デトロイト・テクノ、ハウスetc. の
豊富なスキルと知識を表現。
パリの有名なスタジオ、Ferberにてその“瞬間をとらえる”ように録音されました。

DJになる以前はジャズ・ドラマーとして活躍していたというジェフは、
ドラムとパーカッションを担当しており、
ジェフの生ドラム音源がリリースされるのは今作が初となります。

“音楽から最高のスピリットを見出す”という
SPIRAL DELUXEの冒険(=インプロヴィゼーション)は、
スタイリッシュであると同時に心地良く、
スリリングなエッセンスも兼ね備えたスペシャルな音楽体験そのもの!

音質にこだわりLP2枚組にて発売される本作、
今後の情報も合わせ、ぜひご期待ください!

Amazon / Tower / HMV / diskunion

菊とギロチン - ele-king

 時は大正デモクラシー期。理想を夢見て資本家からお金を略奪し、政府転覆を画策する若きアナキストと、女相撲という興行で全国を旅する力士が出会う瀬々敬久監督の『菊とギロチン』は、いまのところ今年いちばん心打たれた映画だ。

 1917年にソビエト革命があり、1919年にワイマール憲法が制定された、世界各地で人びとは自由を求めて発言し、たたかってもいた。日本でも労働運動や女性解放運動、共産主義運動が盛んな、俗に大正デモクラシーと呼ばれる時代のことだ。政治的発言も行動も活発になった一方で、無政府主義者や共産主義者を警戒する治安維持法の前身となる法律が作られようとしていた。そんななか、1923年(大正12年)に起きた関東大震災では、混乱の中で流布した「流言飛語」によって不安に火をつけられた人びとが、隣人である朝鮮人を虐殺する事件が多発。半月後には、大杉栄と伊藤野枝も虐殺された。日本は、これから急速に不寛容、不自由な、暗い時代にむかい、長い戦争に舵を切る直前、後から見れば、さまざまな前兆が起きていたそんな時代。「ギロチン社」などというふざけた名前の政治団体を結成した実在のアナキストである中浜鐡は、貧しいものを苦しめる社会を変えるため、言論を弾圧する政治を変えようとしていた。「震災後の不景気のどん底で避難民が溢れ、食べるものもない人々は根っこを掘って口に入れる、残飯屋で1杯2銭の残飯を盗んで何人もで分ける。震災でぶっ壊れた東京の、そして震災でも覆せなかった権力の秩序に閉じ込められたまま」だと、中浜は演説をぶつ。「いたるところに自由意志を! 我々の直接行動を!」と。いや、演説というよりそれは詩だ。けれども詩を読むように夢と理想を語り、現実には資本家を襲って金を脅し取る「リャク(略奪)」を繰り返すだけ。いや、計画は立てるが、「リャク」した金は女郎屋で使い果たし、20代で梅毒持ちで……。いったいなにやってんだ?な若者だが、瀬々敬久監督は「社会を変えようと、たとえやり方は過激であり滑稽に見えさえしても、国家に死をもって処された若者の姿を描きたかった」のだという。監督は、1980年代からギロチン社の映画を撮りたかったのだという。「十代の頃、自主映画や当時登場したばかりの若い監督たちが世界を新しく変えていくのだと思い、映画を志した。僕自身が「ギロチン社」的だった」と振り返っている。身体中から湧き上がるほどに「自由」を求め、「自立」を欲し、社会を変えようと志して、それより先にまず自分が何よりも自由になろうと止むに止まれず暴走するものはアナキストとも言われ、けれどもそれは単に若者のことでもあった。「自由」の領域は時代とともに変わってきても、その本能のような心の震えはきっと今でも変わらない。

 そんなギロチン青年たちが出会う菊は女相撲の力士のしこ名だ。女相撲は江戸時代から1960年くらいまでおこなわれていたという。もっともこれは明治の終わりに「国技」を名乗った男相撲とはずいぶん性格の違う、いわば見世物興行だ。女たちが肉色のシャツにふんどしを締めて、「乳見せ役」を配したり、飛び入りの客と取り組みをしたり、女と座頭が卑猥な雰囲気で取り組むような興行もあったという。大正から昭和期のエログロナンセンスの時代ともなれば、その変態的趣向はエスカレートしていき、警察は風俗紊乱の罪で監視と取り締まりを強めるようになる。その取り締まりを逃れるため、「女相撲」ではなく「手踊り」の興行だと偽って届けるなんてこともあったとか。さらに戦後にはサーカスの一部として興行した一座もあったそうだ。映画では、元姉の夫と親の言うまま結婚したが、その夫の暴力に耐えかね家出して一座を頼ってきた花菊や、元遊女で朝鮮人の十勝川、沖縄出身の与那国など、いずれも貧困(口べらし)や差別(DVなど)、あるいは何かのはずみで居場所を失った女たちが見世物になって生きていく社会的な囚われ(隔離)の場所でもあるし、同時に最後に逃げ込んだ、おだやかで優しいシェルターのようにも見える。

 彼女たちがゆっくりと四股を踏む勇姿は、長い手足を持て余しているように七転八倒する中浜鐡(東出昌大)と対照的に優雅にさえ見える。長い取り組みのシーンも、相撲に全く興味がない私をも惹きつける、言葉はなくても雄弁に思いを語る。女のフリーターがボクサーを目指す武正晴監督の『百円の恋』がとても好きだ。その試合の場面も強烈に心を揺さぶられる。しかし、『百円の恋』の動機があくまでも個人の内面にあるのとはちがい、『菊とギロチン』の取り組みシーンには、職業差別や性差別といった社会的な存在の格闘が現れているように見える。そういう言葉があるわけではない。伝わるのは、ただ理不尽な貶めに対する悔しさだ。30年前から構想されていたというこの映画が今夏公開になったのはすごいタイミングではないか。なにしろ去年アメリカで始まったセクハラ告発運動#MeTooに端を発したフェミニズムの機運になかなかのれなかった日本でも、相変わらず「土俵に女は載せない」という自称国技の相撲協会やセクハラで告発された財務省事務次官に続き、東京医大の入試での明らかな女性差別採点が明らかになったことで、小さな火がついたのではないか。思えば日本では、「男女共同参画」「女性の社会参加」「女性活躍」とはいっても「男女平等」や「性差別」という言葉は長い間、少なくとも行政やマスコミなどでは使われていなかった。性差別入試への抗議行動で、「下駄を脱がせろ」というボードがあった。この件は女性を差別するな、という問題だと大方の報道では言われていたが、このボードを掲げる人は、「(男に履かせた)下駄を脱がせろ」「男性優遇はやめろ」と言ったのだ。これには私は少しばかりハッとした。それまでは女性受験生は減点された被害者だったのが、「(男の)下駄を脱がせろ」によって、なんというか、不当に優遇されている男性の足を、ちゃんと同じ地平につかせろと言うとき、女が差別された客体(被害者)とみなされるのではなく、男性こそが知らないうちに、意を無視して優遇された客体となったのだ。これって些細なことだけど、これに気付いた時、私の気分はかなり変わった。「性差別」は女の問題ではなく、男の問題だ、早く解決しておいてくれ給え、もういちいち女の手を煩わせないでくれよ、みたいな解放感といえばいいだろうか。

 だいぶ話が逸れてしまったが、『菊とギロチン』の花菊と十勝川にも、似たようなことが起こる。花菊は自分を連れ戻そうとする夫との間に、十勝川は彼女を追い詰める自警団との間に。そして、そこにアナキストが関係する。そもそもアナキストと花菊たちの関係は『伊豆の踊子』(西河克己監督)のパターンのバリエーションである。すなわち頭でっかちなエリート大学生と生命力に満ち、しかし悲劇性もはらむ旅芸人一座の少女の出会いと別れだ。『はなれ瞽女おりん』(篠田正浩監督)や『ノルウェイの森』(トラン・アン・ユン監督)なんかもそうで、高等教育を受けた言葉を持つ男性が、言葉より全身で感情や生命力を表現すると女性に惹かれる。女性は過去や未来の不幸や悲劇を隠しているがそうしたものさえ自己決定で甘受したようなたくましさが期待される。けれども、これって男性(近代とでも宗主国とでもマジョリティとでも)の勝手な妄想っぽいが、『菊とギロチン』では女たち、とりわけ家族や仲間を日本人自警団による虐殺で喪った朝鮮人の十勝川には、いや、前近代的な家制度に弄ばれ暴力を受ける花菊にも、きっちりこの社会の仕組みが見えていて、それがどのように襲ってくるかもはっきりとわかっている。ただ若い生命力にまかせて甘受しているわけではない。彼女たちはたしかに「社会」に生きていて、その底辺に閉じ込められているところがちゃんと見える。もちろんそれは、花菊や十勝川の現実を救いはしない。アナキストたちの自由の後ろにも、変えられない「社会」が見えている。だからこそ、一座や青年たちが大勢で浜辺でくつろぎ、沖縄の音楽に合わせて踊り、飲み食う、いつ終わるかわからないレイヴのようなシーンが幻想的でこの世とは思えない幸福な時間となる。見えない牢獄に捕らえられていて、それでも心はいつでも自由に遊びまわる。その遠近感というのか、立体感というのか、感情の描かれ方の豊かさにつながっているように、私には感じられる。私は“激情”に弱いのだと思う。「強くなりたい」「強くなりたい」という、その切なさに、100年後の私も身がよじれる。



[8/21編集部追記:人名表記に誤りがありましたので、訂正いたしました。謹んでお詫び申し上げます]

Fit Of Body - ele-king

 15年も前のことだけれど、サウンドデモというのを渋谷でやっていて、僕が非常に不満だったのはデモに来てくれる人たちの服装があまりに地味なことであった。人が集まってワーワー騒ぐデモンストレーションなんだから、もうちょっと赤とかイエローとか派手な服を着てきてくれないかなと思っていたのである。で、思いついたのがレインボー・プライドのとの合体。松沢呉一に紹介してもらって僕はプライドの主催者に会いに行き、一緒にやりませんかと誘ったのだけれど、レインボー・プライドは反戦のような政治的主張はしたくないということで交渉は成立せず、僕もどちらかといえば政治嫌いの体質なので(なのにデモとかやってんじゃねーという話ですが)、それ以上、押し問答などはせずあっさり引き下がり、途中から交渉場所であった「アクタ」(https://akta.jp)というスペースに興味が移ってしまった。そこはエイズ対策としてコンドームを無料で配布しているマンションの一室で、その当時の話では家賃は厚労省が払っていたという(自民党の杉田議員がLGBTに税金が使われているというなら、それはここのことでしょうか。しかし、先進国では日本だけがHIV感染が減らないんだから、こういう補助は必要でしょう)。僕が行ったときには奥の方で『薔薇族』の表紙展示会などをやっていて、たしかにさまざまなデザインのコンドームが並べてあった。有名なマンガ家などがヴォランティアで作品を提供しているのだという。そして、ひときわ印象に残ったのがパーティのフライヤーを並べてあったスペースで、それらはハウスとかテクノといった音楽の種類で分類されているのではなく(オネハぐらいはあったかもしれないけれど)、いろんなパーティを人間の「体格」で分けてあったのである。なかでも「ガッちび」というのがインパクト大で、「がっちりとして背が低い人」が目当てで人が集まるのかと思うとさすがにクラクラときてしまった。いわゆるヘテロのパーティではこういうのはないはずで、アンダーグラウンドには女性の体型を指定したパーティとかもあるのかもしれないけれど、あったらあったでそれもそれでキリがなさそうではある……

 「カラダの相性(Fit Of Body)」と名付けられたライアン・パークスによるハウス・プロジェクトは、そのビジュアル表現も含めて最初から僕はゲイだと決めつけている。そして、ハウスが誕生した瞬間を再現するような音楽性には優しさと繊細さがあふれ、あふれるメロウネスはあっさりと僕の心を掴んでしまった。デビュー・アルバムのタイトルとなった『Black Box No Cops』はアトランタにあるスケート・パークの名称だそうで、警察が来ない場所で長い時間を過ごせたということを意味するらしい。そう、アトランタといえば、いまはトラップが全盛の場所なのに、この男は見事にマッチョ・ロードを逆走し、物静かで過剰にロマンティック、囁くようなヴォーカルも実に切なく、スプリーム(Supreeme)のネガシ・アルマダをフィーチャーした“The Screamers”などはまるでおとぎ話のような曲調である(それこそヴェルサーチなどとんでもないというか)。過去には“Ridin 2 That Trap or Die”などという曲もあるので、別に否定しているわけではなく、地元ではヒップホップ・チームにも参加しているらしい……んだけれど、ほんとかなと思うほど彼のDJワークはゆるゆるで『Black Box No Cops』もバンドキャンプの紹介では「蒸し暑い夏のだるい感じ」とされていた……ということはこの夏にぴったりなのか……それをいうならバナナラマの“クルーエル・サマー”だろうか……。
 『Black Box No Cops』はそして「ハウスが誕生した瞬間」と簡単に書いてしまったけれど、正確にはエレクトロからヒップホップとハウスが分かれはじめた瞬間を再現したようなサウンドで、それこそいま、80年代前半と90年代前半が並行してリヴァイヴァルしまくっている最中に聴くと、リヴァイヴァル・サウンドのミッシング・リンクともいうべき奇妙な時間帯に紛れ込み、自分は「どこから来てどこへ行くんだっけな」という問いにぶつかるような気さえしてしまう。ロイヤル・TとDJQ、そしてフレイヴァ・Dが昨年リリースしたtqd名義のデビュー・アルバム『ukg』がセカンド・サマー・オブ・ラヴ直前のガラージ・サウンドを再現していたので、さらにその前段階にフォーカスすることで、どこかセカンド・サマー・オブ・ラヴによって様々なジャンルに分岐していったダンス・ミュージックがもう一度、再統合されたがっているような欲望まで喚起されてしまう。ヒップホップとハウスの区別がつかなかった時期とは、こんなにもプレッシャーのない場所だったのか……とか。ニューエイジとは無縁のヴィジブル・クロークスやディップ・イン・ザ・プールにも通じるものがあったり。
 リリースはこれまで〈トラブルマン・アンリミテッド〉や〈イタリアンズ・ドゥー・イット・ベター〉を運営してきたマイク・シモネッティが〈キャプチャード・トラックス〉のマイク・スナイパーと始めたダンス・レーベルから。どちらというと〈ホワイト・マテリアル〉とリンクしてきたプロデューサーだったので、意外な組み合わせではありますが、コズミックを追ってきたシモネッティと合わないとも言えず、お互いに体格に惹かれあったということで(嘘)。

interview with Dorian Concept - ele-king


Dorian Concept
The Nature of Imitation

Brainfeeder / ビート

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 てっきり意識しているものとばかり思い込んでいた。「芸術は自然を模倣する」という古来のテーゼは、たんに画家が海やら山やらを見てそれを絵にするという話ではなく、ものの本性なり本質なりを模倣したのが自然であり、芸術はさらにそれを模倣した劣化コピーである、というヒエラルキーの話だと思うのだけれど、そしてそれを逆さまにして「自然が芸術を模倣する」と言ったのがオスカー・ワイルドだったわけだけれど、ドリアン・コンセプトの新作はそういうややこしい模倣や模倣の模倣の問題、つまりは真理からの距離をテーマに掲げているに違いないと、的外れな先入観を抱いてしまっていたのである。『The Nature of Imitation』なんてタイトルを与えられたら、そう早とちりしてしまってもしかたない。
 以下のインタヴューでオリヴァー・ジョンソン本人が明かしているように、ドリアン・コンセプトのサード・アルバムはとりたてて形而上学的な問題を扱っているわけではない。しかしどうやら私の浅はかな先入観も、彼の意図からものすごくかけ離れているというわけではなかったようだ。というのも、オリヴァーはこのアルバムを「自分自身の模倣」と捉えているからだ。すなわち『The Nature of Imitation』は、これまで彼がやってきたことの断片を繋ぎ合わせ、巧みに統合した作品に仕上がっているということである。
 たしかに、もともとビート・ミュージックの文脈から登場しながら、その出自を超越するかのようにスタイルの幅を大きく拡張してみせた前作『Joined Ends』と比して、今回はふたたびビート・ミュージックの側面が強く打ち出されている。それに加え、自身のヴォーカルの導入やいくつかのセンチメンタルな装飾など、このアルバムにはどこか内省的な要素も散りばめられている。オリヴァー・ジョンソンは本作を「最後の試合」だと思って、自分のなかにあるものすべてを絞り出そうという気持ちで制作したのだという。
 このように3作目にしてはやくもキャリアの総括を成し遂げてしまったドリアン・コンセプトだけれど、では自分自身を模倣するとはいったいどういうことなのか? そしてそれを踏まえたうえで、来るソニックマニアで彼はいったいどんなパフォーマンスを披露してくれるのか? 8月17日の〈Brainfeeder〉ステージでは、集大成を完成させた彼がその先に見すえているものを目撃できるかもしれない。


こういう慌ただしい時代に生きている僕らにとって最高の贅沢は、やりたいことにじっくりと、自分のテンポで取り組むことかもしれない。

日本公演が近づいてきましたね。あと3週間ぐらい(註:この取材は7月末におこなわれた)。

オリヴァー・トーマス・ジョンソン(Oliver Thomas Johnson、以下OJ):もう1ヶ月ないの!? びっくりだな。うん、楽しみにしてるよ。

ではまず、アルバム制作の時間について。ファーストからセカンドまでは5年ぐらいかかって、今回は4年ぐらい。あなたが納得するアルバム作りには、これくらいの時間が必要、ということですか? もちろん、新作に伴うツアーもやっているわけですが。

OJ:うん、言われてみるとそのとおりで、いまの僕には4年から5年かけるのがスタンダードになっているみたいだね。だからって、その4年から5年の間、ずっとアルバム制作に励んでいるわけではなくて、プロダクションに費やしているのはそのうちの2年……2年から3年ってところで、言ったとおり、新作が出てから1年ぐらいはそのツアーで、その次の1年ぐらいが新作の準備期間で、って感じかな。でも、少しづつ作業に慣れて早くなってはきてるんだよ。

そうなの?(笑)

OJ:うん、だから次のアルバムはそこまで時間がかからない……といいな、と思う(笑)。

でも、手間をかけてもアルバムという形にはこだわっているんでしょうね。近年、トラックごとにリリースしていくプロデューサーも多いけれど。

OJ:うん、それはたしかにそうで、アルバムとして流れのある、たとえば映画のような、と言ってもいいような、一貫性のある作品に仕上げたいというのはつねにあって、だから余計に手間がかかるんだけど……。

それが楽しくもある?

OJ:そうなんだよね。いま、こういう慌ただしい時代に生きている僕らにとって最高の贅沢は、やりたいことにじっくりと、自分のテンポで取り組むことかもしれない。

ということは、あなたの意図そのままにリスナーにもアルバムを頭からとおしてじっくりと聴いてもらいたい?

OJ:もちろん、そうやって聴いてもらうのがもっとも望ましい、と思っている部分はあるよ。でも一方で、アルバムのなかのコレがいちばん好き、とか、コレとコレが気に入っている、とかいうのは人によって当然あるだろうから、それだけを聴きたいという気持ちも理解できる。というか僕自身、90年代に12インチを買い漁ったタイプなんで、特定の曲に思い入れを持つ感じはよくわかるんだ。あとDJって、アーティストごとに最高の1曲を見つけてそれを紹介するような作業だろ? それをやっている身としては、自分のだけアルバムをとおして聴いてもらえると期待するわけにもいかない(笑)。全体でひとつの作品として聴いてもらうことを前提に作る一方で、どの1曲が選ばれるのかを楽しみにしている部分もある。

なるほど。いまのキッズはプレイリスト・カルチャーのなかで暮らしていますもんね。自分でリストを作るにしろ、誰かが作ったものを聴くにしろ。好きなものしか聴かない、ということでもありそうだけど……。

OJ:うん、興味深い現象だと思う。僕らの世代で言うところの、ミックステープを作ったり、DJをやったり、っていうのと同じ自由……というか、その自由がさらに拡大されているってことなんだろうけど、いまは自分で音源を探したり、工夫して組み合わせたりしなくても、たとえば Spotify みたいな配信サービスのおかげでラクになった……もしかしたらラクになりすぎてるかもしれない、というのがひとつ。あとは、配信サービス側の意図が働いて特定の曲がバランスを欠くほど重要視されている例も見受けられて、それはちょっと悲しいな。

それは、特定のアーティストが贔屓されている、ということ?

OJ:いや、そうじゃなくて、たとえば僕の曲でも、特定のものだけ推されるのを見ると、ほかにも聴いてほしい曲は山ほどあるのに、って気持ちになるということ。わかる?

ああ、アルバムとして作っている立場からすると。

OJ:そう。配信のランキングで上がってくる曲がすべてだと思われる危険があるんじゃないか、と。そこは少し疑問に思うね。

あなた自身は Spotify を利用しますか?

OJ:うーん、リサーチでは使うかな。そういう意味では実用的なメディアだと思うけど、リスニング用には使わないな。聴くんだったら、相変わらずヴァイナルだったり、あとはデジタルのファイルで購入することもあるけど……でも、それすらいまやレトロだよね。

たしかに(笑)。でも、あなた自身、インターネットで注目を集めたんですもんね。

OJ:そのとおり。ビデオを自分でアップして、それが注目されたんだ。

そういう意味では恩恵も受けている。

OJ:たしかに。でも、当時のネットのあり方はいまとはちょっと違ってた。YouTube が Google のものになるまえで、もっとこう……ユーザーの自主性に委ねられていたというか、自分の作品っていう実感があったんだ。いまはCMがガンガン入ってるし、あの頃とは違う場所になってしまっている気がする。当時は YouTube で発表するのがパンクでDIYなやり方に思えたんだけどね。MySpace なんかもそうだけど、ソーシャルメディアを利用して、HTMLで編集してホームページを自分で作って……って、あれは僕なんかにとってはすごく有意義な財産だったよ。おかげで自分の音楽を世に送り出し、音楽仲間と直につながることもできたんだから。それがここ、5年……7年ぐらい前からかな、かなり変わってしまった気がする。その、インターネットの周辺事情が。

MySpace なんて、それこそレトロですもんね。

OJ:そうだよね。

解放(letting go)というのは、僕にとって今回のアルバムを表す大きな意味でのメタファーだな。

で、いまはあなたもレーベルからアルバムをリリースしていて、今回は〈Brainfeeder〉から、です。

OJ:そのとおり。

レーベル・オウナーのフライング・ロータスとあなたの関係はよく知られていますが、今回のアルバムのディールについては、彼のほうから話があったんですか。それとも、あなたから?

OJ:まず、何か作品ができると僕は必ずフライング・ロータスに送って聴いてもらっているんだ。お互いに、だけどね。新作はいつもお互い、聴いて感想を伝えたりしている。いままでのアルバムもそうだった。でも、今回の僕のアルバムは彼にもピンときたみたい。僕のほうでもなんとなくそんな気はしていたんだけどね。まえまえから、いつか一緒にやろうって話はしていたんで……〈Brainfeeder〉から僕のアルバムを出したいって話はお互いにしていたんで、やるんだったらコレだ! って双方が感じたんだと思う。僕も、〈Brainfeeder〉から自分を世にプレゼンするなら、このアルバムがふさわしいと思う。

つまり、アルバムは完成した状態でフライング・ロータスに聞かせた?

OJ:そのとおり。

彼はどんな反応を?

OJ:メールだったんだけど、すごく昂奮してくれているのがわかったよ。とにかく彼は、僕のヴィジョンをずっと信じてフォロウしてくれていた。いつも前向きな感想をくれるんだ。

あなたは自分の受けてきた影響や自分にとっての音楽的なヒーローについてオープンに語ってきていて、フライング・ロータスはもちろんそのひとりだし、〈Ninja Tune〉もそう。そしてそのいずれとも一緒に仕事をするに至っている。

OJ:うん。

ライヴで同じステージ立ってもいます。そういうのって、どんな気持ちですか?

OJ:最高だよ。若い頃のことを振り返って、当時の夢を思い出すと、それが実現したんだなって……すごく嬉しくなるときがある。つまりは、好きなものを信じて全力で取り組めば、こうやって憧れの人たちと同じ空間に身を置けるようになるんだなあって、まあ、自信にもなるけど、やっぱり実際に隣りでやっていると緊張するよ。いや、緊張じゃなくて、恐縮する、っていうのかな。とにかく刺戟的で、彼らと親しく仕事をするなかから新しい発想は生まれたり、新しい視点が生まれたりするのがすごく楽しいんだ。

しかも、良さそうな人たちだし(笑)。

OJ:それは大きいよね。幸い僕の場合、尊敬していた人がみんな優しくて寛大な人ばっかりでね。

〈Brainfeeder〉ですが、時代に先駆けて変化してきたレーベルという印象があります。これまでの、そしていまのあのレーベルについて、あなたはどう思っていますか。

OJ:たしかに興味深いレーベルだよね。僕が最初に注目した頃のあのレーベルはビート・ミュージック・シーン的なものに影響されたインストものやヒップホップが主だったけど、その後どんどん幅を広げて、実験的なものから、アンビエント系、完全なジャズまで手がけるようになっていった。音楽性を限定されたくないという姿勢は僕もシェアするところだ。それと、柔軟で、意外性に富んでいる、という点も。うん、彼らのアプローチは当初からずっとリスペクトしてきたよ。

いま〈Brainfeeder〉で注目しているアーティストはいますか?

OJ:コンテンポラリなやつに好きなのが多いよ。新しいロス・フロム・フレンズのアルバムにはすごくワクワクさせられたし、「Pale Blue Dot」ってシングルはビデオも素晴らしい。親と90年代レイヴをたどるヨーロッパの旅、みたいなやつ。ジェイムスズーも仲が良くて、いつも音源をチェックしているアーティストだ。彼のアルバム『Fool』は過去数年で僕がいちばん好きなレコードのひとつだよ。あとはもう、言うまでもないけど、いつも大きな刺戟をくれるサンダーキャット。僕らは影響源も似ているし、やり方は違うけど音楽にユーモアをたっぷり盛り込んでいるあたりも共通していると思う。

そういう友だちが日本で勢ぞろいするわけだ。

OJ:そうなんだよね。それだけじゃなくて、ジョージ・クリントンという伝説のゴッドファザーが現役バリバリで登場するんだからスゴイことだよ。

素晴らしくインスタ映えする集合写真が撮れそう(笑)。

OJ:だよね。絶対に撮らなきゃ(笑)。

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音楽の世界では「イミテイション」という言葉はネガティヴに取られるし、ある意味、烙印を押された言葉かもしれないけど、僕が音楽を習得する上では意味のあることだった。今回のアルバムでは自分自身を模倣するというか、これまでの自分の断片をなぞるようなことをやっている。

ではここで、いくつか具体的な収録曲について聞いていきますね。まずは2曲目の“Angel Shark”。6曲目の“Pedestrians”もそうかもしれない。こういう、カウントが難しいけど魅力的なビートは、どうやって作っているんですか。最初はまずビート?

OJ:うん、僕の作品の多くは、リズム的な要素から始まっている。それがドラムとは限らないけどね。2曲目の“Angel Shark”はメロディがそもそもリズミカルだったから、それが取っ掛かりになった。頭の部分の、ちょっとギターっぽい音のシンセサイザーで引いてるメロディがそれだよ。何かしらきっかけになるリズムが必要みたいだね、僕の場合は。それを基盤として、そのほかの要素を組み上げたり膨らませたりしていくことがほとんどだ。今回のアルバムは、これまで以上にエキサイティングで押しの強い感じを求めていたこともあって、意図的に少しトリッキーなモーメントやムーヴメントを用意したつもり。だから聴いていて楽しいんじゃないかな。

決まったセオリーがあるんですか。それとも偶発的なものが大きい?

OJ:そのときによるけど、偶発的に生まれた何かを意識的に組み立てていくことが多いんじゃないかな。セオリーというのは、つまりどういいこと?

メソッドというか、方程式というか……。

OJ:そうだよね。いや、そういうのはとくになくて、そのときどきで変わってくる。やってるうちにルーティンがあることに自分で気づくことはあるけど。アルバムを作っているときは、無意識に一定の流れのなかで曲を書いているときがあるんだ。それに気づくのは作業も終盤のほうだけど、仕上げの段階でそのルーティンを意識するのは一貫性を実現するうえではいいことなのかもしれない。でも最初からそれが見えていることはまずないね。インスピレイション任せで、何か降りてくるのを白紙のまえでペンを持ってじっと待っているような、そんな時間もすごく多い。

降りてきたら、紙に書くわけじゃないですよね、でも(笑)。

OJ:うん、僕の場合は何かしらの鍵盤……キーボードか、シンセサイザーか……とにかく鍵盤が付いているものがいちばん直感的に鳴らせるから。

7曲目の“Self Similarity”はあなた版のジャングルという感じですが……

OJ:ふふふ……。

どうですか、この言い方(笑)。

OJ:おもしろいね。じつはあれ、最初はラップやヒップホップのリズムをイメージしていたんだ。でも、それをスピードアップするとたしかにドラムンベースっぽくなるし、そのほかのリズムの要素も相まってジャングルっぽいヴァイブになっているかもしれない。ハーフテンポとダブルテンポの掛け合いが、あの曲の醍醐味なのは事実だし。ただ、自分ではジャングルじゃなくてファンクのリズムを踏まえているつもりで、そこにメランコリックな感じも加わって、レコードのなかでもっともポップな曲とも言えるんじゃないかな。でも、言われるとたしかにジャングルなノリもあるよね。おもしろい指摘だな。

ジャングルやドラムンベースは個人的にも聴きますか?

OJ:最近はあんまり。そっち方面でまた最近、おもしろいのがどんどん出てきているのは知ってるんだけど……。プロダクション的に90年代のカッコいいジャングルを思わせるやつが、最近はまた増えてるよね。IDMアプローチの、たとえば、スクエアプッシャーの実験的なやつとか、ブレイクビーツを使ったジャングルはすごく刺戟的だし、いまだにクラブでそういういい感じのジャングルがかかると、それがピーク・モーメントになったりするね。

前作がビート・ミュージックの枠を超えた壮大な作品だったのに対して、今回はビート・ミュージック的な要素がまた濃くなったのでは、という指摘もありますが、どうでしょう。

OJ:うん、今回のアルバムは、僕に言わせればいままで自分がやってきたことを振り返って総括したような作品だよ。前作的な要素もプロダクション面ではかなり色濃いんだけど、音楽的にはたしかに……うん、もっとまえの作品のほうが近いかもしれない。ある意味、いままでの自分をまとめて振り返って、ここに至るまでの自分の音楽的進化に結論を出した、というか。だからおもしろくなると思うよ、僕が何をやるか、その……

次のアルバムで?

OJ:そう、次に何をやるのか(笑)。新たなるスタート、みたいな感じになりそうだから。

このアルバムで一巡したな、と。

OJ:うん、僕自身はそう感じてる。

それと関係あるのかな……さっき“Self Similarity”の話でメランコリックという言葉が出ましたが、ほかにもセンチメンタルな雰囲気を漂わせた曲がいくつもありますよね。“A Mother's Lament”、“Dishwater”、“No Time Not Mine”、“You Give And Give”あたり……

OJ:ああ……

それはいまの話にあった、これまでを振り返って総括する、という感覚と繋がっているでしょうか?

OJ:そうかもしれない。じっさいあったからね、その……なんて言うんだろうなあ……たとえば……いや、そのたとえも違うかな……、うーん……、まあ、ほかにいいたとえが思い浮かばないからスポーツ選手にたとえて言うけど、サッカー選手でもなんでもいいや、これが最後の試合だと思って自分にあるものをすべて絞り出そうとするような、そんな感じ。わかる?

はい。

OJ:自分が溜めてきたもの、知っているものを総動員して、ありったけのインスピレイションを働かせて、そしてできたものを解放する……みたいな感じだった。解放(letting go)というのは、僕にとって今回のアルバムを表す大きな意味でのメタファーだな。

なるほど。だから自分のヴォーカルを入れることになった?

OJ:ああ、それはあるね。自分の声を使うのはまえのアルバムから始めたことだけど、あのときはテクスチャーとして人間的な要素を加味するために使ったのに対して、今回はもっと……まあ、いつも自分で自分の曲に合わせて口ずさんではいたから、歌を入れるのも自然な成り行きだったのかな。いままで自分の歌をちゃんと録音したことはなくて、メロディのアイデアは自分が歌いながら作るものの、それをシンセサイザーで演奏して使うことがほとんどだったのが、今回はなぜか「ま、いいんじゃない?」って思って。声という人間的要素を楽器として取り入れる、という感覚で使ったんで、人間の魂や精神により訴えかけることができたんじゃないか、と。とはいえ、ひとつの楽器であるという見方だから、極めて民主的に、すべての楽器を平等に用いることを心がけたつもりさ。

そしてアルバムのタイトルは『The Nature Of Imitation』……と聞いて、「芸術は自然の模倣である」という有名な言い回しや、あるいはそれを顚倒させたオスカー・ワイルドの「自然が芸術を模倣する」というフレーズを思い起こす人もいるようです。何か関連はありますか?

OJ:へぇぇ、おもしろいね。たしかに……いや、おもしろいと言ったのは、アルバム制作中に具体的にその言葉が頭に浮かんだことはないんだけれども、たしかに繋がるなと、いま思ったからで。そもそもインスピレイションはどこからくるのか? 兄が源なのか? と考えると、たとえば子どもって、親が何をしてるのか何を言っているのか理解できなくても、とりあえず真似をしようとするだろ? それが何を意味するのか? たしかな知識は持ち合わせていないのに。それと同じことが、今回のアルバム制作のプロセスにもかなり言えそうなんだ。インスピレイションが湧いたら、それがなんなのかきちんとした知識や理解がないままに飛びついてみる、そして僕なりにやってみたヴァージョンがどんな音になるか試してみる……。僕はそもそも、ピアノの覚え方からしてふつうと違っていて、いわゆるフォトグラフィック・メモリーの能力があるらしいんだ。知ってる? 一度見るとすぐに記憶してしまうやつ。

はい。

OJ:あ、この話はまえにもしたよね。ピアノの先生の手を見て覚えてしまっていたから、楽譜は読めなくても弾けていたという……。

はい、はい。

OJ:だから模倣という言葉には個人的な思いも込められているのかもしれないと、いま思った(笑)。その重要性を僕は早くから知っていたんだ、と。

模倣の重要性を。

OJ:そう、真似から入ることにも意味がある、と。音楽の世界では「イミテイション」という言葉はネガティヴに取られるし、ある意味、烙印を押された言葉かもしれないけど、僕が音楽を習得する上では意味のあることだった……というのと、今回のアルバムでは自分自身を模倣するというか、これまでの自分の断片をなぞるようなことをやっているから筋はとおると思う。こうして話を聞くと人それぞれにタイトルの解釈があってほんとうに興味深いよ。

いいことですよね。

OJ:そう思うよ。

僕の音作りやプロダクションは電子機器を道具として用いたものだけど、インスピレイションそのものはむしろ人が演奏する音楽の世界から来ているんだよね。その中間のどこかに自分を置こうとしている。中間=in betweenというのが僕の立ち位置。

さて、もう30分以上お付き合いいただいてますが、まだ時間は大丈夫? あとふたつぐらい質問させてもらえたら嬉しいんですが。

OJ:ああ、大丈夫だよ。

では、エレクトロニック・ミュージックの地図上であなたの現在位置は? という質問を。さっき名前が出たジェイムスズーは、そのすべてを知りたいと言っていたそうです。そして「ミュジーク・コンクレート、シュトックハウゼン、ディムライト」ときて「ドリアン・コンセプトまで」と。

OJ:ワォ……(笑)。

彼はレーベルメイトでもあるわけですが。

OJ:うん、おもしろいな、というのも自分で思う僕の立ち位置はむしろ……、もちろんエレクトロニック・ミュージックの方面に向けても思い切り開いていて、クラフトワークやエイフェックス・ツインや、その中間にいる数々の革新者たちにもエレクトロニック・ミュージックに歴史にも大いに敬意を払っているけれど、一方で僕のインスピレイション源にはエレクトロニックじゃないものも同じくらいたくさんあるから。たとえばジャズ。ジョン・コルトレーンに触発された発想や試みもかなりあるし、はては……ジャズ・ファンク、70年代のフュージョン、90年代の即興音楽……と……だから、たしかに僕の音作りやプロダクションは電子機器を道具として用いたものだけど、インスピレイションそのものはむしろ人が演奏する音楽の世界から来ているんだよね。その中間のどこかに自分を置こうとしている、ってことかな。インプロヴァイズされた音楽とエレクトロニック・ミュージックの真んなかあたりのどこか、に。僕がやっていることを具体的にジャンルで説明するのが難しい理由もそこにあるんだろう。中間=in betweenというのが僕の立ち位置。中間でうまくバランスをとっている……というふうに僕は自分を見る傾向にある。

コルトレーンといえば、彼の新作は聴きましたか? 新作というのも変だけど、未発表曲のアルバム……

OJ:うん、聴いたよ。ダウンロードした。『Impressions』の新しいヴァージョンが聴けたのは嬉しかったなあ。あれが3つ目のヴァージョンだと思うけど、ピアノはマッコイ・タイナーだし、2018年になってコルトレーンの未発表音楽を聴けるなんてほんとうに昂奮したよ。あの時代のコルトレーンのカルテットは、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・タイナーという特別な顔ぶれで、とくに発展的で野心的で、まだ自分たちの音を模索しているような……フリージャズにはまだなっていない、そこまで実験に走ってはいないけれども、ところどころでカルテットの形式やジャズの様式から逸脱する感じがものすごくエキサイティングだ。聴いていてワクワクして、現時点で僕の年間最優秀レコードだな(笑)。

自分の演奏が2018年の世界で、形のないダウンロードという方法で聴かれることになろうとは、コルトレーンも驚いているでしょうね。

OJ:まったくだね。この脈略のない時代に。僕なんか、ここしばらくそのコルトレーンとソフィのアルバムばっかり聴いてるよ。すごいコントラストだろ?(笑) でも、まさにさっき言った、エレクトロニックと生演奏の間に僕はいるわけで。

たしかに。時代の狭間でもあるし。

OJ:そうだね。

最後に、チド・リムについてコメントをもらえますか。お友だちですよね。

OJ:うん、幼馴染だよ。最初にできた友だちのひとりかも。小学校から一緒だった。だから、6歳か7歳の頃からの知り合いだ。音楽を一緒にやるようになったのは14歳ぐらいかな。あいつのお父さんのオフィスのガレージにドラムセットがあって……ガレージっていうか、倉庫みたいなところなんだけど、4平方メートルくらいの部屋だったかな。僕は当時エレクトリック・ベースをやっていたから、そこで、そんな子どもの頃から一緒に音を出して遊んでいたんだ。『Joined Ends』のトリオでは彼がドラマーだった。いまは自分のプロダクションで忙しくしている……って、もう10年以上になるのかな、あいつがプロデューサーとして忙しくなってから。リズムに関しては、僕がいちばん影響を受けたのが彼だと言っていいと思う。ジャズ・スクールで正式にドラムを勉強した人だから、僕は彼からずいぶんいろんなことを教えてもらったよ。いまの同世代のエレクトロニック系ミュージシャンのなかではもっとも親しい友だちで、最新作の『Material』なんかはもっと高く評価されてしかるべき作品だと思う。時間がかかってもいいから、もっといろんな人が注目して聴いてくれたらいいな。あれがいまのところあいつの最強盤だから。

ありがとうございました、長々と。

OJ:ありがとう。日本でみんなと会うのを楽しみにしてるよ。

こちらはいま、熱波で大変なんですよ。

OJ:あ、聞いた、聞いた。そうらしいね。世界中が温暖化してるよね。

まったくです。でもインドアのコンサートだから大丈夫(笑)。

OJ:そうか。それを聞いて安心した。みんなによろしくね。

ヒロインズ - ele-king

 「なんじゃそれ」と思う。大学の入試問題。性差で試験の点数が異なるってどういうこと? 男のぼくは得したことになる。それでいいのか女たちよ。オレより君の方が能力が上なのにただ男ってだけでオレは優遇されちゃうのよ。それでよいの? と自分の性を棚上げにして思う。しかし女性の怒り狂った声はほんの少ししか聞こえてこない。諦観ゆえなのか。それとも怒る感情を忘れてしまったのか。怒るやり方を思い出そうというならぜひともこの本を読んでほしい。
 1977年生まれの著者は怒り狂っている。1920年代、男のものであったモダニズム文学の歴史からさかのぼって、その作家の妻たち、ゼルダ・フィッツジェラルド、ヴィヴィアン(T・S・エリオットの妻)、ジェイン・ボウルズら、また女性作家のヴァージニア・ウルフやシルヴィア・プラスなどと読書というチャネリングを通して共謀し男性作家たちの行状をつまびらかに明らかにしてゆく。なぜ女たちは自分たちの言語で語ることが困難なのか。なぜ男たちの作った土壌の上で書かなければいけないのか。なぜ女たちの言葉は軽くみられるのか。なぜ男の作家たちは妻の書く言葉を恐れるのか等々。そしてモダニズム文学の周縁に置かれ続けてきた彼女たちの姿を浮かび上がらせてゆく。

 20年代はモダニズム文学の時代であるとともに精神分析の時代。たくさんの作家たちが精神の破綻を文学のなかに取り入れた。彼女たちは作家の創作の汀で精神の安定を失っていく。「婚姻」によってただ男の傍らに置かれたもともと創作好きなフツウではない女たちが被る不自然な社会的な構造状態が浮き彫りになるのだ。表現者の妻、つまり一番作家の文学に近しい同志であるはずなのに、婚姻という制度が間に置かれることによって破綻をしてしまう。作家自身もどこか社会的にフツウでない存在ではあるけれど作品によって、また男という立場によって社会的な地位を得ることができる。しかしその妻はただ狂気のなかに置いてけぼりを喰ったまま。そして妻の狂気を夫は作品にさえ記録してしまいその表現が文学として大きな評価を得てきたのだ。考えてみてほしいのは、妻たちも自分たちの言葉を必死に書いたということ。しかし彼女たちは精神分析によって、また作家によってフツウではないと二重に都合よくカテゴライズされその存在をある意味消されてきたのではないか。
 女の存在を消してしまう文学とはなにかという問題系はヴァージニア・ウルフやジェイン・ボウルズなどが男性作家のなかで、また家庭を持ちながら創作をする困難から説明される。そこにはどこか男性のように書かなくてはいけないという規範が押し付けられていないか。また家庭を維持しながらよい妻、よい母親でいながら書かなくてはいけないという困難など。
 この本はそのように表現者の女性たちをスポイルしているものが何かを問う本であるのと同時に、著者が「何かを書きたい」と思ってからの半生を振り返ったものでもある。作品をむさぼり読む。ゼルダたちの作品にもならなかった手稿、手紙、日記までを丹念に読み込んでゆく。なぜ私は書けないんだ、作家になれないんだ、前に立ちはだかる抑制され洗練された男たちの文学に対して怒りをぶちまけながら立ち向かってゆく半生が描かれる。
 そして現在の若者文化。手帳、紙片、日記、ブログ、タンブラーに書き散らされたさまざまな痛々しくも切実な「自分を描きたい」という衝動の言葉の数々をも著者はそれが文学表現なのだという。また「作家であるか否かは基本的にアイデンティティの問題だ」とまでいう最終章を読みながら、考えてしまう。スノッブが洗練されない落書を評価しようとするようなやり方だとは思わない。まずは書くことをあきらめないこと。始める場所だけは取り戻さなくちゃ。
 作家には誰でもがなれるのかもしれない。しかし著者が作家になるために書かなければならなかった400頁にも及ぶ分量はどうだろう。彼女の言葉を読ませてしまうのは、やはり彼女の書く文学の強度であり、むさぼり読んだ後に出来上がった否定し去るべきモダニズム文学も併せ持った文体なのではないだろうかとも思うのだ。それに「私」というものの豊かな厚み。抑制のない書き散らされた散文から強固に作り上げられたモダニズム文学までのふり幅のなかで書かれているからこそこの本が面白いのではないかという矛盾がはらまれている。著者のフェミニズムが異性とのファックをも肯定したフェミニズムでもあるように著者のなかに矛盾を矛盾のまま抱え込んでいて、だからこそこちらに強く届くのだ。
 zineを作ったり個人ブログの公開をするなどして無名なまま創作する人たち、とくにそのような表現をしようという女性たちに向ってこの本は書かれている。どんなことがあっても自分がここにあるという表現を手放してはだめだというアジテーションで締めくくられている。

 本書はC.I.P. Booksという静岡県の東側、三島市の小さな版元から出版された第一冊目。CIP(クライ・イン・パブリック)は本書の訳者:西山敦子さんが主宰しているオルタナティブな場所で、日々さまざまなミーティングやワークショップやライブが行われている。


Binker and Moses - ele-king

 南ロンドンのジャズ・シーンや周辺のアーティストたちの間で、よく名前が挙がるライヴハウス兼ラボにトータル・リフレッシュメント・センターがある。ロンドン北東部のダルストンという町にあるのだが、南ロンドンのミュージシャンもよく利用しており、箱側としても彼らの活動をサポートしている。リハーサル・スタジオなどの設備も完備しており、比較的安価な料金で誰でも利用できるという点がポイントで、通常のライヴ営業時間の後にフリーで飛び入り参加できるアフター・アワーズ・セッションがある。このセッションでミュージシャンたちは腕を競い、お互いの技術向上を図り、横の繋がりが生まれていく。こうした環境が南ロンドンのジャズ・シーンが発達していく要因のひとつでもあるのだ。トータル・リフレッシュメント・センターはレーベル運営もおこない、ヴェルズ・トリオがEPを出しているほか、サンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミング、トライフォースなどが録音スタジオとして用いている。今回紹介するビンカー・アンド・モーゼス、イル・コンシダードのアルバムは、共にこのトータル・リフレッシュメント・センターでのライヴ録音だ。

 ビンカー・アンド・モーゼスはテナー・サックス奏者のビンカー・ゴールディングとドラマーのモーゼス・ボイドによるユニットで、これまでに『デム・ワンズ』(2014年10月録音)、『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』(2016年7月録音)という2枚のアルバムをリリースしている。また、ビンカーはモーゼスのソロ・ユニットであるエクソダスにも参加することがあるほか、モーゼスがプロデュースするザラ・マクファーレンの『アライズ』(2017年)でも演奏しており、お互いに重要なパートナーとなっている。ビンカーはそもそもフリー・インプロヴィゼイション畑出身で、英国フリー・ジャズ界の重鎮サックス奏者であるエヴァン・パーカーあたりからの影響が見られる。実際に『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』にはエヴァン・パーカーがゲスト参加したほか、バイロン・ウォーレン、ユセフ・デイズ、サラシー・コルワルらも加わってのセッションを展開している。モーゼス・ボイドは南ロンドンのジャズ・シーンを牽引するドラマーで、ジョー・アーモン・ジョーンズ、ヌビア・ガルシア、テオン・クロスなど数多くのセッションに参加している。トニー・アレンからアフロ・ビートを伝授され、自身のエクソダスではヒップホップからジュークなどクラブ・ミュージックに接近する一方、ピーター・エドワーズのトリオでは正統的なジャズ・ドラミングも見せ、ザラ・マクファーレンの『アライズ』ではジャマイカ音楽へのアプローチを見せるなど、非常に柔軟でレンジの広いミュージシャンである。ビンカー・アンド・モーゼスではビンカーのプレイに対応して即興的でフリー・フォームなプレイを見せ、ライフタイムを率いていた頃のトニー・ウィリアムスを彷彿とさせるような、スリリングで激しいドラミングを展開している。

 最新作の『アライヴ・イン・ジ・イースト?』は、こうしたビンカー・アンド・モーゼスの活動を総括するもので、前述のとおりトータル・リフレッシュメント・センターで観客も交えてのライヴ(2017年6月録音)となっている。ただし、『デム・ワンズ』と『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』との曲の被りはなく、すべて新曲で構成されている。ゲスト参加者は『ジャーニー・トゥ・ザ・マウンテン・オブ・フォーエヴァー』のときと同様に、エヴァン・パーカー(テナー&ソプラノ・サックス)、ユセフ・デイズ(ドラムス)、バイロン・ウォーレン(トランペット)、トリ・ヘンズレイ(ハープ)。モーゼスとユセフのツイン・ドラムは強烈極まりなく、彼らのリズム上でビンカー、エヴァン、バイロンがソロのバトルを繰り広げ、観客も交えたトータル・リフレッシュメント・センターの熱気がそのまま真空パックされている。

 イル・コンシダードの『ライヴ・アット・トータル・リフレッシュメント・センター』も同様に、ジャズのライヴの興奮をそのまま凝縮したものだ。彼らはそもそもライヴ活動に主軸を置くグループで、デビュー・アルバムもロンドンのカンバーウェルにあるザ・クリプトという会場でのライヴ盤(2017年7月録音)だった。メンバーはアイドリス・ラーマン(サックス、クラリネット)、レオン・ブリチャード(ベース)、エムレ・ラマザノグル(ドラムス)、サテン・シン(パーカッション)で、自主で『ライヴ・アット・ザ・クリプト』、『イル・コンシダード』(2017年)、『イル・コンシダード3』(2018年)をリリースしている(『イル・コンシダード』のみパーカッションはヤエル・カマラ・オノノが担当)。アイドリス・ラーマンはイギリス生まれだが、父親がベンガル(バングラデシュ)系で、スースセイヤーズ、ワイルドフラワー、ユナイティング・オブ・オポジッツでも演奏する。レオン・ブリチャードはアイドリスとトム・スキナーと共にワイルドフラワーを組むほか、イビオ・サウンド・マシーン、メルト・ユアセルフ・ダウン、タイ、ロンドン・アフロビート・コレクティヴなどのセッションに参加してきた。エムレ・ラマザノグルはトニー・ウィリアムスとレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムの影響を受け、ノエル・ギャラガー、リリー・アレン、デヴィッド・ホルムズ、マーク・ロンソンなどさまざまなセッションに参加している。サテン・シンは在英インド系で、メルト・ユアセルフ・ダウン、リール・ピープル、バー・サンバなどでも演奏している。イル・コンシダードもビンカー・アンド・モーゼス同様にフリー・インプロヴィゼイションを志向しているが、インドやバングラデシュ系のメンバーがいる点、パーカッションも交えたより有機的なリズム構築がポイントで、楽曲によってインドや中近東から、エチオピアなどアフリカの民俗音楽のエッセンスを取り入れたジャズやジャズ・ファンクを演奏する。

 『ライヴ・アット・トータル・リフレッシュメント・センター』は2018年3月の録音で、これまでの3枚のアルバムでやってきた曲を選りすぐって演奏している。“デルージョン”を筆頭に、これまでのスタジオ録音に比べてテンションの高いパーカッシヴな演奏を披露する。後半にいくにつれてどんどんエキサイトしていき、“サンフラワー”や“アンリトゥン・ルール”で盛り上がりはピークに達する。後者でのベース、ドラム、パーカッションによる立体的なリズムの出し入れと、それに対するサックスのインタープレイの応酬は、これぞジャズの醍醐味と言えるだろう。一方で“ナダ・ブラーマ”における瞑想的でミステリアスな光景も、またイル・コンシダードの魅力のひとつでもある。

 2作品とも非商業的なジャズで、USの新世代ジャズと比較しても非常にアンダーグラウンドな部類に属するものだが、現在の南ロンドン・ジャズ・シーンの現場の風景、その盛り上がりを体感することができるアルバムと言えるだろう。また、ジャズはあくまでライヴ・ミュージックであり、スタジオ録音では生み出せないテンションやエネルギーがそこに存在していることを教えてくれる。

interview with X-Altera (Tadd Mullinix) - ele-king


X-Altera
X-Altera

Ghostly International / ホステス

Drum 'n' BassTechno

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 ダブリー(Dabrye)名義の諸作で知られるタッド・マリニックスによるエクスペリメンタル・ビーツ・プロジェクト、エックス・アルテラ(X-Altera)が同名義のアルバムを発表した。1994~95年頃のジャングル/ドラム&ベースを思わせる、というかモロに「あの時代」なディテールがあちこちに仕掛けられており、思わずニヤリとしてしまう。
 アルバム『エックス・アルテラ』で聴ける「あの時代」のディテールとは? まずはドラム。ピッチを上げたブレイクビートのビットレートを粗くしてさらにフェイザーで潰したドラムは、ファットなヒップホップのドラム・キットにはないメタル・パーカッションのようなクランチな響きと、頭上から音の粒が降ってくるような不思議な聴感をもつ。このドラムをサイン波を用いた低周波のベースと組み合わせることで、中音域にスペースを取った広がりのある音響空間を設計し、浮遊感のあるサウンド・エフェクトを演出することができる。
 こうして書いてみると、やっぱりものすごい発明だったんだなあ、あれは。当時のジャングル/ドラム&ベースのシーンでは、イノベーションがものすごい速度と物量でおこなわれていた。その後ドラム&ベースはより機能的に、ダンス・オリエンテッドに進化していき、機材もサンプラー+シーケンサーからDTMへと変化していった。そんなわけで、あの時代のドラム&ベース・サウンドは、いまでは再現困難な技術革新期のロスト・テクノロジーのような存在となっている。
 『エックス・アルテラ』には、ほかにも当時の定番というかお約束の、トランスポーズしたシンセ・ストリングスのブロックコードや、タイムストレッチしたラガMCのかけ声、エコーのかかった女性のヴォイス・サンプルなんかもあちこちに散りばめられており、あまりの懐かしさに思わず笑ってしまう、そして、エレクトロニック・ミュージックが無邪気でオプティミスティックだった時代の空気が真空パックされているような感覚に、ちょっぴり切なくなってしまうアルバムだ。
 いわばシークレット・テクノロジーとなってしまったこういった音作りを、なぜいま再現しようとしたのか? というわけで、コンセプトや制作に至る背景、制作環境などを本人にたずねてみた。

強すぎるコンプレッションやサチュレイション、超広域での極端なスタジオ・エフェクトに、俺の耳はうんざりしてきてしまった。90年代半ばのポスト・プロダクションが、いまの自分にしっくりくるんだ。

X-Altera のアルバムは、1994年~95年頃のドラム&ベースを思わせる音作りで、とても懐かしく、新鮮に感じました。あなたがどのような思いでこのアルバムを制作したのか、とても興味があります。まず、当時アメリカであなたはどのようにドラム&ベースに出会い、触れていましたか? レコード・ショップやクラブ、ラジオなど、当時のあなたの音楽と出会う環境について教えてください。

タッド・マリニックス(Tadd Mullinix、以下TM):90年代半ば、エレクトロニック・ミュージックにハマり出した時期にドラム&ベースと出会ったんだ。高校の友だちとスケートボードをはじめて、デトロイトのレイヴ・パーティなんかにも行くようになって。俺よりもいくつか年上の Mike Servito が Submerge に連れていってくれて、そこでDJをさせてもらったりね。友だちとレコード・ショップに通って、レイヴで聴いた曲のレコードを集めるようになった。いつも誰かと一緒に音楽を作っていたな。スピード・メタルからパンク、パンクからインディ・ロック、ロックからシューゲイズ、シューゲイズからIDMって感じで、いろんなジャンルをとおったよ。
 当時は欲しかった機材の値段が高くて、10代だった俺に買えたのはせいぜい Boss のドラムマシーンか中古のグルーヴボックスくらいだったんだけど、それだけじゃジャングルみたいなスタイルの音楽はどう頑張っても作れないから、それがすごく不満で。だけどそんなときに、ロジャーっていう友だちのパソコンオタクが、自分のコンピューターで動かせるトラッカーソフトの使い方を教えてくれてね。それからそのソフトウェアで実験的に、テクノやヒップホップ、ハウス、アシッドにジャングルと、いろんなタイプの音楽を作りはじめた。いま思えば、あれが大きな転機だったな。
 デトロイトのテクノのレイヴにはゲットーテックかディープ・ハウス、もしくはジャングルだけを流すセカンド・ルームがわりとあったりしたんだ。そこで地元のレジェンド的存在だった Rotator がワイルドでヤバいジャングルをプレイしてるのを見て、そのときかけた曲を必死でレコード・ショップで探したよ。そういったパーティの現場とか、友だちとテープを交換したり、レコード・ショップを漁っているうちに、様々な発見があった。当時レコード・ショップってのは本当にどこにでもあって、ジャングルとドラム&ベースも必ず置いてあったしね。Goldie の『Timeless』と AFX の『Hangable Auto Bulb』が新作の棚に並んでいたのを思い出すよ。
 そのうちに Todd Osborn がやってた Dubplate Pressure って店を知って、気づけば常連になっていて、Toddと一緒に音楽を作るようになった。店にはグラフィティの雑誌とか、ターンテーブリズムのテープにブレイクダンスのビデオ、ジャングルとヒップホップのレコードがとくに充実していて、ユニークで最高だったよ。その後、彼のところで仕事をするためにアナーバーに引っ越して、一緒に〈Rewind〉っていうレーベルを立ち上げてから、Soundmurderer & SK-1 って名義でジャングルの曲をリリースできるようになった。そのうちに Todd が俺に Sam Valenti (註:〈Ghostly International〉の創立者)を紹介してくれて、それが〈Ghostly〉でのキャリアに繋がった経緯でもあるんだけど、それ以前は Todd とふたり、デトロイトでジャングルのレジデントDJとしても活動していたよ。

あなたが好きだった1994年~95年頃のドラム&ベースのアーティストやDJ、レーベルを教えてください。

TM:Photek、Source Direct、Peshay、Dillinja、Doc Scott、Jamie Myerson、4 Hero、Goldie、LTJ Bukem。レーベルは〈Metalheadz〉、〈Reinforced〉と〈Certificate 18〉だね。

2018年の新譜でこういう音が聴けるとは思ってもいなかったので、とても驚きました。90年代にすでにあなたはドラム&ベース・トラックを作っていましたか?

TM:90年代はラガ・ジャングル・スタイルのプロデュースをしていたよ。それからダークなドラム&ベースも。X-Altera はそのほかにいろいろなストラテジーやテクニックを取り入れているけど、基本の部分はとても似ている。X-Altera はテクノやIDM、アンビエントな雰囲気をより多く持っているけど、本質的に、その文脈にブレイクビートのサンプルは含まれていない。パーカッションのデザインもまったく違うね。
 ミックスの仕方については、X-Altera が90年代と結びついているといえるもうひとつの要素だ。一般的に、現代的なエレクトロニック・ミュージックはミックスもマスタリングもすごくアグレッシヴなんだ。強すぎるコンプレッションやサチュレイション、超広域での極端なスタジオ・エフェクトに、俺の耳はうんざりしてきてしまった。90年代半ばのポスト・プロダクション、アーティストとしての形成期だった頃のやり方が、いまの自分にしっくりくるんだ。もっと自然で、よりダイナミック、コマーシャルな要素が少ないサウンドがね。

アルバムの楽曲の多くは1993~1994年頃のドラム&ベースと同じく、BPM 140~150で作られています。このテンポは、ブレイクビートを使ってダブやジャズ、ブラジル音楽のような刻みが細かく複雑で豊かなリズムを作ることができます。その後、1996年以降のドラム&ベースはBPMが160~170に上がり、リズムの隙間がなくなり刻みが半分になります。BPMが上がりリズムが単純になることで、ドラム&ベースはダンスフロアでより踊りやすく機能的な音楽になりましたが、そのぶんリズムの複雑性と多様性は失われました。アルバムの楽曲をこのBPMに設定した意図は?

TM:そのとおりだよ。テンポに少し空間があることによって、より複雑に作り込むことができるし、テクノやゲットーテックへとリンクさせることも容易になるからね。それに、ジャングルとドラム&ベースのアーティストは比較的短い期間だけど、同様にデトロイト・テクノを解析していたんだ。多くのドラム&ベースがテクノからの影響を受けているのは明らかだけど、デトロイトはそこに異なる作用をもたらしているということを強調しておきたい。デトロイト・テクノは奥深いし、その時点から新たに切り開かれていった要素も多くある。遅めのテンポのレンジに関してもうひとつ言えるのは、ポスト・ダブステップやトラップ、ネオ・フットワークのようなスタイルや、そこで流行している半拍のグルーヴからは完全に分岐しているということだね。

多くのドラム&ベースがテクノからの影響を受けているのは明らかだけど、デトロイトはそこに異なる作用をもたらしているということを強調しておきたい。

『X-Altera』の制作機材について教えてください。当時はサンプラーとソフトウェア・シーケンサー(CuBaseやLogic)、ラック・タイプのコンプレッサーやエフェクターが多かったのですが、サンプラーのメモリーには限界があり、またブレイクビートのエディットも手間のかかるものでした。当時は機材の制約がありましたが、それゆえのクリエイティヴィティもありました。ラップトップですべて制作できる現在の環境とはずいぶん違いますが、あなたはどうやってこの音を作りましたか? あえて機材の制約を設けて作ったのではないかと、私は想像しています。

TM:素材をいじりすぎないってのがベストなんだ。厳密に言えば、それはもちろん制約ではあるけれど、自分の作業のなかでいうと、もっと自制に近い感じさ。考え方としては絵を描くことと同じだよ。絵が完成するまでに執拗に手を加えすぎると、その作品に「手さばき」みたいなものが出てきてしまうだろう? そこで、自信を持ってプロセスを完遂できるかどうかが試されるのさ。機材には Renoise という最新のトラッカーと、Ableton Live を使ってアレンジ、エフェクト、ミックスまでやった。Ableton 内蔵の数多くの楽器に加えて、いくつかハードウェア・シンセも使った。自分仕様にした Make Noise Shared System に、Alpha Juno 2、JV-2080。それに自分が90年代から溜め込んできたサンプルもたくさん使ったよ。

クラブ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックの歴史において、ドラム&ベースが成し遂げた最大の功績はなんだと思いますか?

TM:いちばんの偉業は、ひとつのサンプルに対して何ができるのかっていう問いを作り手側に投げかけたことじゃないかな。

『X-Altera』のリズムや音響に対するアプローチは、当時の A Guy Called Gerald に似ていると思いますが、ご自身ではどう思いますか?

TM:核心をついてるね! 俺が何に影響を受けたかといえば、彼のレーベル〈Juice Box〉のサウンドと、『Black Secret Technology』さ。それこそが自分のバックグラウンドやいまの環境を作ってきた音楽だけど、タイムレスだし、いま聴いてなお未来的なものだよ。

X-Altera をはじめるきっかけのひとつが、Kenny Larkin の『Azimuth』を聴き直したことだったそうですね。また「X-Altera」という名義には X-102 や X-103 へのオマージュも込められているそうですが、あなたにとってデトロイト・テクノはどのような存在なのでしょう?

TM:そのとおりさ。「X-Altera」の「X-」って部分は自分に多大なる影響を与えた H&M/UR のプロジェクトのリファレンスだよ。それに、Larkin や Twonz、K Hand、Claude Young に D-Knox、D Wynn、Bone をはじめとするデトロイトのテクノ・フューチャリストたちへのリスペクトははかりしれないね。ちなみにこの名前はラテン語の「ex altera」にも由来していて、「べつの面から」という意味でもあるんだ。

他方で、本作を作るにあたって B12 や The Black Dog などの〈Warp〉の「Artificial Intelligence」シリーズからもインスパイアされたそうですね。そのようなサウンドとドラム&ベースを両立させるときに、もっとも苦心したことはなんですか?

TM:そういった作業のなかでいちばん難しかったことは、コンセプトに執着しすぎないようにすることだった。あくまで健全に、リラックスした姿勢でいることが大事なんだ。そういった自分のなかの勝手な制約みたいなものは、作品に音として出るべきではないと思うし、ひとつのアイデアに囚われすぎることのないよう意識したよ。

このアルバムを作ったことであなた自身に変化はありましたか?

TM:確実にあったね。とくにこれからの針路や目的において、かなり重要な変化があったように感じている。

あなたは Dabrye 名義でのヒップホップを筆頭に、James T. Cotton 名義ではアシッド・テクノをやったり、Charles Manier 名義ではインダストリアルなEBMをやったり、あるいは 2 AM/FM や MM Studi といったグループではほかのアーティストとも積極的にコラボレイトしています。じつに多くの活動をされていますが、各々のプロジェクトにはコンセプトがあるのでしょうか? またそれぞれのあいだに優先順位のようなものはありますか?

TM:すべてのプロジェクトにはユニークなエッセンスがあって、順位ではなく、各々に伝えたいことが異なっているんだ。それぞれがジャンルで切り分けられるけれど、どれもその原型に忠実になりすぎないようにしているんだ。

次はどんな音楽を作ろうと考えていますか?

TM:Nancy Fortune の新しいプロジェクト Deathwidth を X-Altera がリミックスする予定で、いまはちょうどそれに取り組んでいるんだ。すぐにでもレコーディングに取りかかれそうな、新しい JTC の素材も揃っているし。それに、Dabrye のビートについても新たなチャプターに進むつもりでいるよ。できることなら、どれも早めに届けられるといいけど。

いま音楽以外でいちばんやってみたいことはなんでしょう?

TM:じつは絵を書いているんだ。アブストラクト、もしくはフィギュラティヴなもの。アール・ブリュットやネオ・エクスプレッショニズムと呼ばれるジャンルのものをね。それからワインと料理することが好きだから、食に関連することもできたら、なんて思うこともあるよ。

The Sea and Cake - ele-king

 去る5月、じつに6年ぶりとなるニュー・アルバム『Any Day』をリリースしたザ・シー・アンド・ケイクが、今秋11月に来日公演を催します。前回の来日は2014年ですから、4年ぶりですね。この滅多にないチャンスを逃す手はありません。11月5日@ビルボードライブ大阪、11月7日@ビルボードライブ東京、いずれも1日2回公演となっております。詳細は下記よりご確認ください。

ザ・シー・アンド・ケイクの来日公演が11月に東京・大阪で開催決定

【来日公演詳細】
11/5(月)ビルボードライブ大阪
https://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=11163&shop=2
11/7(水)ビルボードライブ東京
https://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=11162&shop=1

【CD情報】
The Sea and Cake (ザ・シー・アンド・ケイク)
『Any Day』 (エニイ・デイ)
https://www.faderbyheadz.com/release/headz229.html


【ビルボードライブ大阪】 (1日2回公演)

11/5(月)
1st ステージ 開場17:30 開演18:30
2nd ステージ 開場20:30 開演21:30

サービスエリア ¥7,000-
カジュアルエリア ¥6,000- (1ドリンク付き)
※上記に加え別途ご飲食代が掛かります。

【ビルボードライブ東京】 (1日2回公演)

11/7(水)
1st ステージ 開場17:30 開演19:00
2nd ステージ 開場20:45 開演21:30

サービスエリア ¥7,000-
カジュアルエリア ¥6,000- (1ドリンク付き)
※上記に加え別途ご飲食代が掛かります。


【発売日】
Club BBL 会員先行=8/29(水)AM11:00 より
一般予約受付開始=9/5(水)AM11:00 より
Billboard Live Official Web:https://www.billboard-live.com/


Khalab - ele-king

 ひと言で言えば、ぶっ飛ばされますね、これは。トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』から歌メロを削除して、あの音響のみを凝縮し、さらにダブ・ミキシングを加えて、高速で再生してみる。アフロ・ファンクのえもいわれぬエコーとグルーヴ。ポリリズミックな武装。圧倒的なトランス・ミュージック。
 いまでもまだ、アフロ・ミュージックのフレーズ/リズム/音色を取り入れているエレクトロニック・ミュージックには多少はもの珍しさという価値があるのかもしれない……いや、もうないか。ま、なんにせよ、しかしDJカラブのこれ──その名も『ブラック・ノイズ2084』は、記号的にアフロを取り入れているから面白いというわけではない。情報をかき集めて作ったものであることはたしかだろうが、小手先で作った音楽とは思えない濃密さと説得力がある。雑食性の高いサウンドだが、すべての音は有機的に結びついているし、そのすごさは下調べを要することなく伝わる。
 基本的に、『ブラック・ノイズ2084』はダンス・ミュージックのアルバムだ。その冴えたミキシングによる音響の独特さを備えた1枚であり、なんといってもここにあるリズムの迫力、躍動感に満ち満ちたアフロ・エレクトロが展開される。

 まずはアルバムの前半、Tenesha The Wordsmithという女流詩人がリーディングする表題曲“Black Noise”からシャバカ・ハッチングスがサックスを吹きまくる“Dense”という曲までの展開が最高。続く“Chitita”もヤバい。ダブ処理されたチャント、地面を這いつくばるベースライン、ゴーストリーなエコー……超越的なアロフ・フューチャー・テクノ。
 
 DJカラブは、クラップ!クラップ!のマブダチで(ele-king vol.20参照)、モー・カラーズニノス・ドュ・ブラジルとも親しくしているそうだ。もともとはラジオDJだったというが、10年以上前からローマでアフリカをコンセプトにしたパーティをはじめている。イタリアの音楽は将来的によりアフリカと交わっていくだろうという読みが、カラブにはあった。
 そしてアフリカの多彩なリズムのミキシングを試みるようになったというそのパーテで、カラブはエチオピアン・ジャズのリジェンド、ムラトゥ・アスタトゥケを招いているし、マリのベテラン・シンガー、ババ・シソコ(※アート・アンサンブル・オブ・シカゴにも参加している)にも出演してもらっている。そんな縁もあってカラブは2015年、ババ・シソコとのコラボ・アルバムを出しているが、それもまた素晴らしいです。
 2015年といえば、カラブはその年、〈ブラック・エーカー〉からのEP「Tiende! 」(クラップ!クラップ!も参加)によって注目を集めているようだが、しかし本作『ブラック・ノイズ2084』は、とてもそのEPなんかの比ではない。

 アフロ・ミュージックに精通している人が聴いたら、いろんな地方のいろんな音楽が、そして多彩な楽器音が再編集されていることに気づくだろう。シャンガーン、ゴム……、まあいろいろ。ぼくは最初はマーク・エルネトストゥスのンダガ・リズム・フォースを思い出したけれど、先述したように、『ブラック・ノイズ2084』はより雑食的であり、雑種である。そういう意味でも“ブラック・ノイズ”だし、そしてたしかにこの音楽はとことんやかましく、つまりノイジーなのだ。
 アルバムの制作時に、カラブはブリュッセルの王立中央アフリカ博物館を訪ねている。同所には、国王レオポルド2世による非情な植民地政策の痕跡も残されているというが、『ブラック・ノイズ2084』の背後には、植民地主義への批判精神、ヨーロッパ中心主義への怒りが込められている。2084とはリズムにちなんだ数字のようで、リズムは、呪いを振り払うための手段でもあった。
 とはいえこのアルバムは、政治的な音楽にありがちな悪い重さに支配されてはいない。アルバムの後半、コラージュ・アートめいたクラップ!クラップ!との共作“Cannavaro”から気鋭のUKジャズ・ドラマー、モーゼス・ボイドが参加している“Dawn”への流れもまったく拍手もの。

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