「Nothing」と一致するもの

On-U Sound - ele-king

 いやー、嬉しいニュースですね。かなり久びさな気がします。〈On-U〉がそのときどきのレーベルのモードをコンパイルするショウケース・シリーズ、『Pay It All Back』の最新作が3月29日に発売されます。
 最初の『Vol. 1』のリリースは1984年で、その後1988年、1991年……と不定期に続けられてきた同シリーズですけれども、00年代以降は長らく休止状態にありました。今回のトラックリストを眺めてみると、ホレス・アンディリー・ペリーといった問答無用の巨匠から、まもなくファーストがリイシューされるマーク・ステュワートに、思想家のマーク・フィッシャーが『わが人生の幽霊たち』(こちらもまもなく刊行)で論じたリトル・アックスなど、〈On-U〉を代表する面々はもちろんのこと、ルーツ・マヌーヴァやコールドカットやLSK、さらに日本からはリクル・マイにせんねんもんだいも参加するなど、00年代以降の〈On-U〉を切りとった内容になっているようです。これはたかまりますね。詳細は下記をば。

Pay It All Back

〈On-U Sound〉より、《Pay It All Back》の最新作のリリースが3月29日に決定! リー・スクラッチ・ペリーやルーツ・マヌーヴァらの新録音源や未発表曲を含む全18曲入り! 日本からはリクル・マイ、にせんねんもんだいが参加!

ポストパンク、ダンス・ミュージックなど様々なスタイルの中でダブを体現するエイドリアン・シャーウッドが率いるUKの〈On-U Sound〉より、1984年に初めてリリースされた《Pay It All Back》シリーズの待望の最新作、『Pay It All Back Volume 7』のリリースがついに実現! リリースに先立ってトレイラーと先行解禁曲“Sherwood & Pinch (feat. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich”が公開された。

Pay It All Back Volume 7 Trailer
https://youtu.be/Ro8QcLi5azg

Sherwood & Pinch (feat. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich
iTunes: https://apple.co/2W5AA6l
Apple: https://apple.co/2R36YD1
Spotify: https://spoti.fi/2DmeqW0

今回の作品にはルーツ・マヌーヴァ、リー・スクラッチ・ペリー、コールドカット、ゲイリー・ルーカス(from キャプテン・ビーフハート)、マーク・スチュワート、ホレス・アンディといった錚々たるアーティスト達の新録音源、過去音源の別ヴァージョン、そして未発表曲などを収録した、まさにファン垂涎モノの内容となっている。また、日本からはリクル・マイ、にせんねんもんだいが参加している。

LPとCDには〈On-Sound〉のバックカタログが全て乗った28ページのブックレットが付属し、デジタル配信のない、フィジカル限定の音源も収録されている。また、アルバム・ジャケットにはクラフト紙が使用された、スペシャルな仕様となっている。

〈On-U Sound〉からのスペシャル・リリース『Pay It All Back Volume 7』は3月29日にLP、CD、デジタルでリリース。iTunes Storeでアルバムを予約すると、公開中の“Sherwood & Pinch (feat. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich”がいち早くダウンロードできる。

label: On-U Sound / Beat Records
artist: VARIOUS ARTISTS
title: Pay It All Back Volume 7
cat no.: BRONU143
release date: 2019/03/29 FRI ON SALE

BEATINK.COM:
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10072

TRACKLISTING
01. Roots Manuva & Doug Wimbish - Spit Bits
02. Sherwood & Pinch (ft. Daddy Freddy & Dubiterian) - One Law For The Rich
03. Horace Andy - Mr Bassie (Play Rub A Dub)
04. Neyssatou & Likkle Mai - War
05. Lee “Scratch” Perry - African Starship
06. Denise Sherwood - Ghost Heart
07. Higher Authorities - Neptune Version*
08. Sherwood & Pinch ft. LSK - Fake Days
09. Congo Natty - UK All Stars In Dub
10. Mark Stewart - Favour
11. LSK and Adrian Sherwood - The Way Of The World
12. Gary Lucas with Arkell & Hargreaves - Toby’s Place
13. Nisennenmondai - A’ - Live in Dub (Edit)
14. African Head Charge - Flim
15. Los Gaiteros de San Jacinto - Fuego de Cumbia / Dub de Sangre Pura (Dub Mix)
16. Little Axe - Deep River (The Payback Mix)
17. Ghetto Priest ft. Junior Delgado & 2 Bad Card - Slave State
18. Coldcut ft. Roots Manuva - Beat Your Chest

ともしび - ele-king

 シャーロット・ランプリングは笑わない。少なくともそのイメージは強い。かつて桃井かおりは自分の演技に限界を感じてイッセー尾形の元に弟子入りした際、演技することが苦しいと感じるようになった理由は「桃井かおりが桃井かおりしか演じていないから」とかなんとか言われたそうで(いまなら木村拓哉とかほとんどの役者がそうだけど)、シャーロット・ランプリングも演じる役柄に幅がなく、同じイメージを厚塗りしていくことに息苦しさを覚えたりはしないのかと心配になってしまう。「シャーロット・ランプリングは笑わない」と最初に僕が思ったのは1974年のことだった。どっちを先に観たかは忘れてしまったけれど『未来惑星ザルドス』と『愛の嵐』を立て続けに観て、表情筋がピクリとも動かない彼女の表情がそのまま海馬の奥深くに焼き付いてしまったのである。当時、色気というものを覚え始めた僕はジャクリーン・ビセットがひいきで、胸の開いたドレスを吸い込まれるように凝視していたはずなのに、45年後のいまもインパクトを保っているのはシャーロット・ランプリングの方であった(偶然にもランプリングもビセットもデビュー作は『ナック』)。『マックス、モン・アムール』ではチンパンジーと愛し合い、『エンゼル・ハート』ではあっという間に殺されてしまう占い師、最近では『メランコリア』で結婚式の雰囲気を台無しにするシーンも忘れがたい。ショービズで無表情といえば元祖はマリアンヌ・フェイスフルで、日本だとウインクなのかもしれないけれど、老齢というものが加わってきたランプリングにはそれらを寄せ付けない迫力があり、やはり説得力が違う。クイーン・オブ・ポーカーフェイスが、そして最新主演作となる『ともしび』で、またしても表情からは何ひとつ読み取らせない老女役を演じた。

 「脚本の段階、しかもオーランド・ティラドと一緒に書いた最初の一言目の段階から、シャーロット・ランプリングのことを想定していました」と監督のアンドレア・パラオロはプロダクション・ノートに記している。オープニングはちょっとびっくりするようなシーンなので、監督の言葉が本当だとしたら、ランプリング演じるアンナを常識とはかけ離れた人物という先入観に投げ込み、観客とは一気に距離を作り出したかに見える。しかも、夫は何らかの罪を犯して自ら刑務所に足を向け、何が起きているのか掴みきれないままに話は進行していくのに(以下、ある種のネタバレ)その後はひたすらミニマルな日常だけが流れていく。だんだんとアンナの行動パターンがわかってくるので、時間の経過とともに特別なことは何もなく、むしろ日常的な惰性や疲れに引きずり込まれていくだけというか。一度だけ孫に会いに行こうとして息子らしき人物に拒絶され、トイレにこもって号泣するシーンがあり、そこだけは物語性を帯びるものの、それも含めて「伏線」や「回収」とは無縁の断片化された日常の継続。新しい日が始まると、喜びはもちろん、今日も生きなければならないのかという嘆きもなく、ただ淡々と日課をこなすだけである。近年の傑作とされる『まぼろし』では夫が波にさらわれて死んでしまったことを受け入れられず、夫が生きているかのように振る舞うマリーを演じ、4年前の『さざなみ』では結婚45周年を迎えたものの、夫婦関係がゆっくりと崩壊していくことを止められないケイトを演じ、これらに『ともしび』のアンナを加えることで、いわば物理的に、あるいは心理的に「夫と離れていく妻の日常を描いたミニマル3部作」が並びそろったかのようである。どれもが女性の自立からはほど遠く、夫への依存度が高かったことが不幸を招き、3作とも自分を見失う設定になっていることは興味深い。「笑わない」というイメージから連想する「強さ」やリーダー的存在とは正反対の役どころであり、それこそランプリングは女性たちに最悪のケースを見せることで逆に何かを伝えようとしているとしか思えない。

 アンナの視界は狭い。彼女以外の視点から語られる場面はないので、何が起きているのか観客にはわからないままの要素も多い。このように「神の視点」を排除した語り口やカメラワークは近年とくに増えている。最近ではイ・チャンドン『バーニング』やリューベン・オストルンド『ザ・スクエア』にもそれは部分的に応用されていたし、『ともしび』では他の人の感情や存在感もほとんど消し去られていた。これは一見、主観的な表現のようでありながら実際にはヴァーチュアル・リアリティを模倣しているのだと思われる。あらゆるものをあらゆる角度から見渡せるといいながら、自分の視点からしか見ることができない視野の狭さがヴァーチュアル・リアリティには常に付きまとう。他の人の視点を交えることができない時に、映画というものはどのように見えるのか。こうした客観性や間主観性の排除がトレンドとなり、いわば古臭い物語でもヴァーチュアル・リアリティのような体験として蘇らせることがフォーマット化されつつあるのである。それこそスマホやSNS時代の要請なのだろう。フィリップ・K・ディックの世界と言い換えてもいい。そして、そうした方法論を最初から徹底的に突き詰めていたのがハンガリーのネメシュ・ラースロー監督であった。彼のブレイクスルー作となった『サウルの息子』(16)はホロコーストに収容されたユダヤ人の眼に映る光景だけですべてが構成され、主人公はいわば一度も客体視されず、観客が主人公となってホロコーストを「目撃」し、あるいは「体験」するという作品であった。自分の背後や周囲で起きていることが完全には把握できないことが無性に恐怖感を煽り、70年以上前のホロコーストをリアルなものへと変えていく。

 ネメシュ・ラースローの新作が公開されると知り、偶然にもハンガリーでデモが起きた当日に試写室に押しかけた。ブタベストで起きたデモは残業時間を年間250時間から400時間に引き上げるという法案が議会を通過したことに対して抗議の声が上がったもので、当地では「奴隷法」と呼ばれているものである。デモは昨年末に5日以上続き、催涙弾が飛び交う悲惨な事態となったようである(日本ではちなみに先の働き方改革法案で残業時間は年間700時間と定められた)。冷戦崩壊後のハンガリーはソヴィエト時代を嫌うあまり王政復古を望む声の高かった国である。そのことが直接的に現在の右派政権につながったかどうかは軽々に判断できないものの、ラースローが『サンセット』で描くのはそうした王政の最後、いわゆるハプスブルク家支配の末期である。ユリ・ヤカブ演じるレイター・イリスが帽子店で働こうと面接試験を受けに来るところから物語は始まる。イリスはその外見をカメラで捉えられ、客体視はされているものの、しばらく見ていると『サウルの息子』よりも少しカメラの位置が後退しただけで彼女の眼に映るものがそのままスクリーンに映し出されているものとイコールだということはすぐにわかる。ほんとにちょっとカメラの位置が後ろにズレただけなのである。イリスが働こうとする帽子店はとても高級で、どうやら王室御用達であることもわかってくる。イリスは経営者と交渉するが、その過程で彼女の家族に関する大きな秘密を明かされる。イリスは経済的に困っていただけでなく、アイデンティティ・クライシスにも陥り、いわば何もできない女性の象徴となっていく。そして、歴史が大きく動き始めたにもかかわらず、自分がどうすればいいのかはまったくわからない。当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国がその直後にフランツ・フェルディナンドが狙撃され(サラエボ事件)、第1次世界大戦が始まることは観客にはわかっているかもしれないけれど、イリス(=ヴァーチュアル・リアリティ)が体験させてくれるものはその中で迷子になっていく市民たちであり、とっさにどれだけのことが個人に判断できるかということに尽きている。このところハンガリー映画が面白くてしょうがないということは『ジュピターズ・ムーン』のレビューでも書いたけれど、ラースロー作品にはハンガリー映画をヨーロッパ文化の中心に近づけようとする強い意志も感じられる。

 『ともしび』のアンナも『サンセット』のイリスもどちらも名もない女性である。彼女たちの内面ではなく、その視点だけを通して、この世界を見るというのが両作に共通の構造となっている。時代の転換という大仕掛けを用意した『サンセット』とは違って『ともしび』には格差社会や人種問題といったマイノリティの理屈さえ入り込む余地はなく、アンナの目に映るものは実にありふれた光景ばかりである。にもかかわらず、そのラスト・シーンで僕は心臓が止まるかと思うようなショックを受けた。映画が終わるとともにいきなりヴァーチュアル・リアリティのヘッドギアを外されたように感じたのである。

映画『ともしび』予告編

Paulius Kilbauskas - ele-king

 まるでスティーヴ・ライヒとデリック・メイを同時に聴いているみたいだ。ガムランの響きに始まり、トライバル・ドラムが絡み、以後も同様な曲が続くものの、ところどころでクラブ・ミュージックのクリシェが面白いようにミニマル・ミュージックに加えられ、ライヒとは異質の高揚感が湧き出してくる。リトアニアにニュー・ウェイヴを紹介してきたゾーナ・レコーズから1年前にリリースされたエディションにオープニング曲を加えた8曲入りがライセンス盤として出回り始めたようで、シンプルな“Space”から始まる構成が余計にそうした演出度を高めてくれる。どこまでいっても低音は響かず、ガムランの音が密度を変化させながら空間性を担保していく。ブラシの抜き差しはどうしてもデリック・メイを強く想起させ、これで影響を受けていないといわれたら嘘でしょうとしかいえない。正月からデザイナーの祖父江慎がデリック・メイで朝の5時まで踊ったというから、余計にそう思えてしまうのかもしれない(なんて……しかし、祖父江さん、何歳よ~)。

 後半はデリック・メイをまさにガムランでカヴァーしていると捉えた感じになっていく。チャカポコという響きがほんとにそれらしく、デトロイト・テクノをここまでオーガニックに聴かせた例はないのではないかと思ったり。“Seven”にはハープ奏者も加わり、瑞々しさは一層増していく。“Space”と”Fire”にはゴングとメタロフォンという楽器で実際にインドネシアのガムラン奏者である通称バロットも参加し、とくに”Fire”は華やかで音が自由に乱舞しまくり(イントロとアウトロでポクポクと打ち鳴らされるのは木魚だろうか)。ぜんぜん知らなかった人なので、調べてみるとパウリウスはどうもリトアニアのギタリストで、リトアニア語をグーグル翻訳で読んだのではっきりしたことはわからなかったけれど、小学校もロクに行かなかったらしく、4弦ギターと出会うことから彼の人生は変わり始めたらしい。93年に結成されて、ドラムとキーボードが死んだために01年に解散せざるを得なくなったエンプティ(Empti)というバンドでプログラムなども手掛けていたそうで、それまではアシッド・ジャズの流れでトリップホップとかブロークン・ビートとカテゴライズされる音楽性を追求していたという(フェスティヴァル・オブ・ワースト・グループで優勝したとも)。ソロ活動は07年に『バンゴ・コレクティヴ』と題されたダンスホールとブレイクビーツを組み合わせたようなアルバムからスタート(これがまたなかなか)。続く『ペピ・トゥリー』(09)ではゲーム音楽、マリウスくんたちと取り組んだ『スタジオ・ジャム』(09)はいわゆるインプロヴィゼイション・ジャズと、音楽的にはなんの脈絡もない。2014年には2枚のサウンドトラック・アルバムを手掛け、それらがロックンロールだったり、現代音楽だったりするのは映画の種類に合わせたものだから仕方がないとしても、ダブリケイトの名義ではハードコアから発達したジャンプスタイルにもチャレンジしているらしく、これは昨年、イタリアのアドヴァンスド・オーディオ・リサーチが『ファースト・グレード』で極めて面白い展開を見せたジャンルとしても気になっていたので、がぜん興味が増してくる。これを2013年にはすでにやっていたとは。『Elements』に通じる作品としては09年の『スケッチ・トゥ・ペインティング』やマーク・マッガイアーをユルくしたような3枚のライヴ・アルバムがオーガニックなギター・アンビエンスを展開していて(『LRTオーパス・オーレ・ライヴ』“Part 2”の前半はベイシック・チャンネル風)、この辺りから少し『Elements』へと通じるものが見えてくる。しかし、決定的だったのは1年間、家族4人でバリに住んだことらしい。それはゴミが燃え、犬が飛び、色が現れる世界だたっという。

 バリで受けた影響は曲名が地水火風に基づいていることや「空気を吹き付けるような音楽を探していた」という表現などニューエイジに向かってもおかしくはないはずなのに、時間がなくてガムランをベースに音楽を組み立てるまでには至らず、ガムランに多大なインスピレーションを受けながらも伝統音楽との間に距離を感じたままのレコーディングとなったらしい。そのことがむしろ幸いしたのだろう。中途半端にクラブ・ミュージックの要素が残ったことが新たな道筋を切り開いたという気がしてしまう。彼はすでに次のアルバムのことも考えていて、ニューエイジに近づきかねない「軽くて明るい音楽」というヴィジョンを語っているから、良かったのはここまでだったということになりかねない恐れはあるものの、この瞬間が素晴らしいことはとにかく間違いがない。

好評につき重版出来
2022年12月2日以降順次全国の書店に入荷予定

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音楽からなぜ未来が消えたのか

過ぎ去ったものたちの残滓から現れる幽霊という希望

21世紀の終わりなき倦怠感をいかにして打破しようというのか
──イギリスの気鋭の現代思想家が『資本主義リアリズム』に次いで著した文化論
そして、加速主義にたいする応答

解説:髙橋勇人/註釈:坂本麻里子+野田努

【本書で取り上げられている音楽】
ジョイ・ディヴィジョン、ベリアル、ザ・ケアテイカー、ゴールディー、トリッキー、ジョン・フォックス、ジェイムス・ブレイク、カニエ・ウェスト、ダークスター、ジュニア・ボーイズ……ほか

【映画およびTVシリーズおよび小説】
『シャイニング』、『メメント』、『裏切りのサーカス』、『ライフ・オン・マーズ』、『コンテント』、『土星の環』、『ハンズワース・ソングス』、デイヴィッド・ピースのヨークシャー四部作……ほか


■『わが人生の幽霊たち』に寄せられた声

あの傑出した『資本主義リアリズム』のあとで、『わが人生の幽霊たち』は、マーク・フィッシャーが、幽霊や亡霊や、過去や現在や未来のあいだにあり、戦慄と不和に貫かれた、さまざまな蝶番からはずれた時間の、もっとも偉大でもっとも信頼にたる案内人であることを確証するものだ。
──デイヴィッド・ピース(著書にヨークシャー四部作、『レッド・オア・デッド』など)

マーク・フィッシャーは、その惨めさや狂気や道徳についての他のどんな分析者とも異なるかたちで現代世界を解釈する。彼を駆りたてるのは怒りである。だが得がたいことに彼はまた、そうした反応が理にかなったものであることを広く知らしめるのも忘れない。彼の仕事はひとを鼓舞し、活気づけ、ふかく魅了するもので、そしてなにより、徹底して生気に満ちている。われわれが生みだしてきたこの世界は、彼のこの本なしではさらに酷いものになるだろう。
──ニール・グリフィス(著書に『シープシャガー』など)

ポップ・カルチャーは、政治学や、デジタル資本主義によって感情を管理された個人の生活とどのように結びついているのか。『わが人生の幽霊たち』は、マーク・フィッシャーがこうした問いにたいするもっとも洞察に富んだ探求者であることを確証している。フィッシャーの仕事のなにより感嘆すべき点は、その明晰さにある。だがその明晰さは、ポピュラー芸術がもつ挑戦し啓蒙し治療する力によせる彼の大きな期待や、妥協することにたいする断固たる拒否といった発想を伝達していくことにたいする、彼の義務感が生んでいる衝動を反映したものである。
──サイモン・レイノルズ(著書に『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』など)

モダニストたち、そして未来を恋しがる者たちの必読書。この本は、「憑在論」と称されてきた発想の曖昧さを真にあきらかにする最初の著者である。『わが人生の幽霊たち』はたんじゅんに読んで面白く、新しく、そして刺激的だ。
──ボブ・スタンリー(セイント・エティエンヌ/DJ)

■『資本主義リアリズム』にたいする称賛の声

「はっきりいっておこう。断固として読みやすいこのフィッシャーの本は間違いなく、われわれの苦境にたいする最良の診断だ。日常生活やポピュラー・カルチャーからとられた例をとおしつつ、しかし理論的な厳密さを犠牲にすることのないままに彼は、われわれのイデオロギー的な惨めさについての、容赦ない肖像を提示している。この本はラディカルな左派の視点から書かれたものだが、フィッシャーは安易な解決を示してはいない。『資本主義リアリズム』は、理論的かつ政治的な忍耐強い仕事への真剣な呼びかけである。この本は、この時代のべとついた大気のなかで、自由に呼吸することを可能にする」。
──スラヴォイ・ジジェク

「われわれの未来になにが起きたのか。マーク・フィッシャーは最上の文化の診断者であり、『資本主義リアリズム』のなかで彼は、目下の文化的な病理の徴候を調査する。われわれは、何度も何度もくりかえし〈オルタナティヴはありえない〉と聞かされつづける、そんな世界のなかで生きている。「ジャストインタイム」な市場の過酷な要求は、われわれのあらゆる希望や信念を枯渇させてしまった。〈永遠のいま〉を生きるなかで、現在とは異なる未来を創造することはもはやできそうにない。われわれは泥沼にはまり、なすすべはもうなにもないように見える。この本は、そうした広く普及したシニシズムにたいする、卓越した分析を提示している」。
──スティーヴン・シャヴィロ

「厳密な文化の分析と尻込みすることない政治的な批判が組みあわさった、現代資本主義にたいする分析がようやくあらわれた。教育現場における「ビジネス存在論」と公共生活のなかでの「市場スターリニズム」が生みだしている有害な影響を描きだしつつ、フィッシャーは、資本の新たな文化的ロジックを暴露している。刺激に満ちた必読の本、とくに教育における政治の問題について真剣に語りたいと願うひとにとっては必読の本である」。
──サラ・アムスラー


【著者】
マーク・フィッシャー(Mark Fisher)
1968年生まれ。ハル大学で哲学を専攻、ウォーリック大学で博士課程修了。ロンドン大学ゴールドスミスで教鞭をとりながら自身のブログ「K-PUNK」に音楽論を展開する。これが多くの学生およびミュージシャンのあいだで評判となる。『ガーディアン』や『ファクト』に寄稿しながら、2009年に代表作『資本主義リアリズム』を発表。2017年1月48歳のときに自殺する。彼の死は、サイモン・レイノルズ、ジョン・サヴェージ、ポール・モーリーといったUK音楽評論界の大御所たちから惜しまれ、また彼の業績への讃辞や回顧がさまざまなメディアで展開された。

【訳者】
五井健太郎(ごい けんたろう)
1984年生まれ。現在、東北芸術工科大学非常勤講師。翻訳にマルグリット・デュラス「ただ狂人たちだけが完璧に書く」(『マルグリット・デュラス』河出書房新社、2014年)、ヴァージニア・ウルフ「壁のしみ」(『HAPAX』7号、夜光社、2017年)など。専門はシュルレアリスム研究。


目次

〇〇:失われた未来

「緩やかな未来の消去」
わが人生の幽霊たち──ゴールディー、ジャパン、トリッキー

〇一:七〇年代の回帰

もはや喜びはない──ジョイ・ディヴィジョン
スマイリーの計略──『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』
過去はエイリアンの惑星である──『ライフ・オン・マーズ』の初回と最終回
「世界はその見かけほどに惨めなものになりうるか」──デイヴィッド・ピースとその翻案者たち
さあさあ、それはおいといて──ジミー・サヴィルと「係争中の七〇年代」

〇二:憑在論

レイヴ以後のロンドン──ベリアル
うつむいた天使──ベリアルへのインタヴュー
ザ・ケアテイカーのライナーノーツ
記憶障害──ザ・ケアテイカーへのインタヴュー
家庭は幽霊のいるところ──『シャイニング』の憑在論
憑在論的ブルース──リトル・アックス
モダニズムへのノスタルジー──ザ・フォーカス・グループとベルベリー・ポリー
ノスタルジーのアーチ──ジ・アドヴァイザリー・サークル
他の誰かの記憶──アシェル、フィリップ・ジェック、ブラック・トゥ・カム、G.E.S、ポジション・ノーマル、モーダント・ミュージック
「別の時間と別の人生から射しこむ古い太陽の光」──ジョン・フォックスの『タイニー・カラー・ムーヴィーズ』
電気と霊たち──ジョン・フォックスへのインタヴュー
もうひとつの灰色の世界──ダークスター、ジェイムス・ブレイク、カニエ・ウエスト、ドレイク、そして「パーティー憑在論」

〇三:場所の染み

「じぶんたちから逃れていった時間にずっと憧れている」──ローラ・オールドフィールド・フォード『サヴェッジ・メサイア』への序文
ノマダルジー──ジュニア・ボーイズの『ソー・ディス・イズ・グッドバイ』
曖昧な部分──クリス・ペティットの『コンテント』
ポストモダンの骨董品──『ペイシェンス(アフター・ゼーバルト)』
失われた無意識──クリストファー・ノーランの『インセプション』
『ハンズワース・ソングス』とイギリスの暴動
「知覚できない未来の震え」──パトリック・キーラーの『廃墟のなかのロビンソン』

解説
開かれた「外部」へ向かう幽霊たち──マーク・フィッシャーの思想とそれが目指したもの (髙橋勇人)

interview with Gang Gang Dance - ele-king

 いまから振り返って、ゼロ年代に盛況を見せたブルックリン・シーンはブッシュ政権に代表されるような強くて横暴なアメリカに対する意識的/無意識的な違和感や抵抗感を放つ磁場として機能していたのではないだろうか。古きアメリカをサウンドや音響の更新でモダンに語り直そうとしたアメリカーナ勢が注目されるいっぽうで、ブルックリンのエクスペリメンタル・ポップ・アクトたちは「非アメリカ」を音にたっぷり注ぎこむというある種わかりやすくアーバンなやり方で旧来的な「アメリカ」に抗したと言える。だとすると、トライバルなリズムと異国の旋律や和声を生かしながら、それをミックスしグツグツと煮詰めてポップにしたギャング・ギャング・ダンスは、ブルックリン・シーンにおける「非アメリカ」を象徴する存在だった。ブルックリンの街の風景がそうであるように、「アメリカ以外」が当たり前に混ざっていることこそが現代の「アメリカ」なのだと。いまでこそ多様性という価値観でマルチ・カルチュラル性を標榜することは浸透したが、当時の内向きな情勢にあって、外の世界を積極的に見ようとした彼らの功績はいま振り返っても大きい。
 10年代に入るとブルックリン・シーンは次第に拡散し、ニューヨークの地価と物価は上がり続けた。金のないアーティストたちはブルックリンを離れ、そして、ギャング・ギャング・ダンスも11年の充実作『アイ・コンタクト』から沈黙した。それぞれソロや別名義の活動を続けつつ、中心メンバーのブライアン・デグロウは山に住居を移して瞑想をしていたという。ニューエイジを聴きながら……。

 ブルックリンという地域性はなくなったものの、当時そこで活躍したインディ・ロック・アクトが近年再び活躍を見せはじめているのは、アメリカの社会情勢の混乱と無関係だとは思わない。他国の音楽をその境界がわからなくなるまでリズムや和声に溶けこませたグリズリー・ベア。あるいは、(現在はブルックリンを離れているという)ダーティ・プロジェクターズの前向きな気持ちが詰まった新作『ランプ・リット・プローズ』も、現在を覆い尽くす恐怖や不安に対抗するものだったという。ブライアン・デグロウはニューヨークの街に戻り、そして、ギャング・ギャング・ダンスは2018年に7年ぶりの作品をついにリリースした。
 そのアルバム、『カズアシタ』はGGDらしいトライバルなリズムとエキゾチックな旋律を持ついっぽうで、ニューエイジ色を非常に強めたものとなっている。近年の都市部でのマインドフルネスの流行を一瞬連想するが、サウンドはもっと深いところで、アルバムを通して瞑想的な平安を希求する。リジー・ボウガツォスの湿り気のある歌が陶酔的な響きを持つ“J-Tree”や“Lotus”、“Young Boy”などには現行のオルタナティヴなR&Bとシンクロするようなポップさがあるが、それも全体の一部として溶けこませるようにサウンドの統一感が演出されている。いくつかのアンビエント・トラックを通して内的世界に潜りこみ、『カズアシタ』は“Slave on The Sorrow”の壮大なサウンドスケープに包まれて何やらエクスタティックに終わりを迎える。
 怒りと怒りがぶつかり合う時代にこそ、GGDはスピリチュアルな探求を選んだ。越境する音が混ざり合うことで得られるピースフルな精神。来る日も来る日も報じられ続ける狂ったニュースに我を失いそうになったら、テレビを消して、インターネットの画面を閉じて、『カズアシタ』の音の揺らぎに身を任せるといいだろう。

※ 以下のインタヴューは、昨年のアルバム発売時におこなわれたものです。

アーティストとか、あんまり金のないひとたちにとっては住みにくいところになったし、すごく金に動かされてる。居住空間が高くなったしね。生活が維持できなくなったんだ。これってニューヨークだけの話じゃなくて、あらゆる場所で起きてることだけど(笑)。

前作『アイ・コンタクト』から本作の間、ブライアンさんがソロを出すなどメンバーそれぞれで活動をされていましたが、あらためてギャング・ギャング・ダンスのアイデンティティについて考えることはありましたか? だとすると、それはどのようなものですか?

ブライアン・デグロウ(Brian Degraw、以下BD):ふむ。僕らは自分たちのサウンドがどんなものか、ある程度意識してると思う。僕らが集まると何をするのか、どういうことが可能なのか。つまり、僕ららしさはつねにあるものなんだ。でも、僕らがそれに頼ってるとは言えない。音楽を作るとき、そういう思考プロセスに頼っているとは思わないからね。より自然なもので、逆にそこに頼らないようにしてるんじゃないかな。たとえば、今回のアルバムはこれまでに比べて前もって考えた部分が大きかったんだけど、とくにこういうサウンドはキープしようとか、そういうのはまったくなかった。たしかに僕ららしいサウンドというのはあるんだろうけど、意図的なものじゃない。だからこそ、それが何か説明できないしね。ギャング・ギャング・ダンスのサウンドの定義なんて絶対できないよ(笑)。

ギャング・ギャング・ダンスとして7年ぶりのアルバムを制作するにあたって、はじめに設定したゴールのようなものはありましたか?

BD:これはきっとほかのどのレコードより、青写真的なものがあったレコードだろうな。普段はそういうものはまったくなしに、そのままスタジオに入って音を鳴らして、何が起こるか見てみようって感じだから。でも今回はそうしなかった。あらかじめどういうレコードにしたいか、よりクリアなアイデアを持っておきたかったんだ。もうちょっと空間があって拡張的なもの、ある意味、よりシンプルなレコードにしたかった。簡単な言い方になっちゃうけど、カオス的なサウンドというよりは、シンプルなレコードだね。そう……落ち着いた、平静なサウンドというか。

本作はリズムよりもサウンド・テクスチャーやメロディに重点があったということですが、逆に言うと、ギャング・ギャング・ダンスにとってリズムのボキャブラリーはすでに身についたという自信の表れでしょうか?

BD:BD:うん、だと思う。あと、いまの音楽のほとんどがリズムをベースにしてる、っていうのとも関係してる。ラジオで流れるようなポピュラー・ミュージックでさえ、多くがリズム中心、ビート・オリエンテッドの曲だったりするよね? ビートを起点にしたエレクトロニック・ミュージックとか。で、僕らには、そのときの流行りがなんであれ、その正反対に行こうとする傾向がある。だから、それも前もって決めたことにかなり関係してると思う。

“( infirma terrae )”や“( birth canal )”のようにインタールード的なアンビエント・トラックが入っている狙いは何でしょうか?

BD:このレコードは、全体をひとつの曲として聴くように作られてるんだ。だから、そういうトラックもレコードのほかの曲と同じくらい重要で。でも、いまの音楽やレーベルのあり方というか、音楽をどう提示するか、っていうところで、レーベルには「レコードとして出すなら、曲を分けてほしい」って言われてね。そうやって見ると、分けるのも可能ではあったし、いくつか独立した曲として出せるものもあった。ただ、君が挙げたようなアンビエントなトラックもあるし、僕にとってはそういう部分こそ、このレコードでいちばんエキサイティングなところなんだ。いつ聴いても僕自身興奮する。まあ、ある意味では曲と曲を繋ぐような役割とも言えるんだけど、僕としてはいちばん聴いてて楽しいんだよね。

アルバム全体で流れがあるいっぽうで、“J-TREE”、“Lotus”、“Young Boy”辺りは独立したポップ・ソングとして完結した強度があるトラックだと思います。ギャング・ギャング・ダンスならいくらでも長尺のジャム・ナンバーが作れると思うのですが、完結したポップ・ソングを作るというのは本作にとって重要でしたか?

BD:僕らはああいう曲、よりポップな曲を作るのも好きなんだ。2005年からはそういうこともやってきたと思う。その頃からはじめたんだけど、それ以前はまったくそういう曲を作ろうとしたこともなかった。純粋に即興で、サウンド・ベースの音楽をやってたから。曲を構築したり、作曲しようとしたりはしてなかったんだ。だから2005年くらいから徐々にはじまって、あるレコードのある部分ではかっちりとした曲を作ろうとしたり、でもほかの部分ではそんなアイデアは捨てて、そうならなくても構わない、って感じだったんじゃないかな。うん、僕らはずっと、いわゆる「ポップ・ソング」を作ることに興味はあった。それがいまのところ、どこまで達成できてるかはわからないけど、ずっとトライはすると思うよ。

そうしたことと関係しているかもしれませんが、“Lotus”や“Young Boy”からはこれまでよりR&Bの要素が聞きとれます。近年のR&Bから刺激を受けるようなことはありましたか?

BD:僕らはこれまでもずっとR&Bに影響されてきた。きっと……90年代あたりからかな。実際、僕ら全員に大きな影響を与えてきたんだ。多くの場合、ある音楽からの影響はメンバーの誰かにはあっても、ほかのメンバーにはなかったりするんだけど、R&Bとヒップホップは僕ら全員が影響としてシェアしてる。ずっと僕らの音楽に影響を与えてきたひとをひとり挙げるとしたら、ティンバランドかな。いっしょに音楽をはじめて以来ずっと彼について話してきたし、リファレンスになってる。ティンバランドと、J・ディラもそう。僕らの話題にずっとあがってきた、ふたりのプロデューサーだね。アリーヤの話もよくするよ。

いっぽうで、“Snake Dub”は本作でももっともエクスペリメンタルなトラックのひとつですが、とくにエディットの緻密さと大胆さに驚かされます。本作のトラックのエディットにおいてもっとも重要なポイントはどういったものでしたか?

BD:“Snake Dub”はかなり最後のほうでできたトラックで。実際、レコード全体の順番、流れを作ってるときだった。その時点で、ほかにもいくつか、レコードに入れるかどうか迷ってるトラックがあったんだ。で、結局、より曲らしい曲を2、3、削ることにした。僕からすると、その時点でレコードとしてのバランスが、ちょっと「曲」、ソングに偏りすぎてたから。もっとルースな抽象性が足りなかった。どんなレコードを作るにせよ、やっぱりそういう部分は欲しいんだよね。だから、レコードの曲順を作ってるとき、最後の段階であのトラックをまとめたんだ。それまでにやってたいろんなインプロヴィゼーションを繋いで、コンピュータでエディットした。それもやっぱり、レコード全体のバランスを考えてやったんだよ。だからエディットの重要性というより、全部をひとつのものとして考えることが第一だった。

よりフィジカルで、ほとんど血管のなかに入って、身体のなかを循環するような感じ。僕にとっては時折、ドローンやアンビエント・ミュージックは僕の体のなかに存在するような気がするんだ。

現在は山のなかで暮らしているということですが、山の暮らしからもっとも学んだことは何でしょう?

BD:いまはまたニューヨーク・シティに戻ってきてるんだ。どうかな、ほんとにいろんなことを学んだから。ひとつだけ挙げるのは難しいよ。僕はたくさんのことを学んだんだ(笑)。そのほとんどは……うまく言えないけど、いまの僕が生活に対してどうアプローチするようになったかに関わってる。いろんな点で前とは違うんだ。山で暮らすことで、自分の優先順位について考える余地ができたから。僕自身や自分のアートにおいて、何にフォーカスしたいのか。生き方そのものについても考え直したしね。振り返ると、そういうことを僕は一度も考えてこなかったんだよ。長く街中で暮らして、とにかく前に進むことばっかり考えて、立ち止まることがなかった。「何が自分を幸せにするのか」さえ考えてなかったんだ(笑)。ちゃんと自分のこともケアしなかったし、健康にも気をつけてなかったし。だから、音楽やアート以外のこと、それまでネグレクトしてたことを考えられる機会になった。料理やサステイナブルな家、サステイナブルな生活みたいな、ほかの興味にもゆっくり時間をかけられたし、ガーデニングにもかなり夢中になった。だから、いまの僕には音楽やアートの領域以外にも、大事なことがたくさんできたんだ。

いっぽうで、ニューヨークの街はどうでしょう? 前作『アイ・コンタクト』の頃からとくに変わったと感じられることはありますか?

BD:実際、また街に戻って適応するのがかなり大変だったんだよね。最初は時間がかかった。いまはだいじょうぶだけど。前といちばん違うのは、いまは自分のアート・スタジオがあること。長い間住んでたのに、ずっとアート・スタジオを持ってなかったんだ。でもいまはアート・スタジオも音楽スタジオも持ってる。そういう空間があると、僕はずっとクリアにものが考えられる。でも最初に都市を離れて田舎に住もうと決めたときは、そういう場所がなかったんだ。だから、心の平安を見つけるのが難しかった。いまは自分がそこに行って、ちょっとしたものを作れるような空間があれば、街でももっといい生活が送れるんだ、っていうのを発見してるところ。以前はそういう場所がなかったからね。前の僕は小さなアパートメントで暮らして、落ち着かなくなって外に出たら、街中はもっとクレイジーだったりした。でもいまはスタジオ用の部屋があって、そこで落ち着いて考えたり、何か作ったりできる。実際、静かだしね。

通訳:街のほうも変わりましたか?

BD:うん。前とは違うタイプのひとたちが住んでる。ニューヨークはアーティストとか、あんまり金のないひとたちにとっては住みにくいところになったし、すごく金に動かされてる。居住空間が高くなったしね。もちろん、よくなったところもある。ある意味クリーンになったし……まあ、僕はときどき、30年前のクリーンじゃないニューヨークが懐かしくなるけど。でもやっぱり、一番変わったのは物価やコストだろうな。それでアーティストが押し出されて、僕を含め大勢が北部や田舎のほうに引っ越していった。生活が維持できなくなったんだ。とはいえ、これってニューヨークだけの話じゃなくて、あらゆる場所で起きてることだけど(笑)。

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いまってものすごくクレイジーな時代だから、みんなネガティヴになりがちだし、すぐ「もう希望なんてない」って考えてしまうだろう? でも僕は、希望はあると思うんだ。

最近は瞑想に使われるアンビエントやニューエイジ、インド音楽などをよく聴いていたということですが、これらの音楽のどのようなところが面白く感じられたのでしょうか?

BD:まあ、僕としては瞑想するために聴いてたんだ。で、うまく言えないけど、僕にとっては音楽というより非音楽的なものになったっていうか、感覚に訴えるフリーケンシー、周波数になったんだよね。よりフィジカルで、ほとんど血管のなかに入って、身体のなかを循環するような感じ。僕がそれほどアンビエントじゃない音楽、たとえばポップ・ミュージック寄りの音楽を聴くときには、必ずしもそういうふうには消化しない。全然受け入れ方が違うんだよ。そういうタイプの音楽は、自分の外側にあるように思い描く。僕にとっては時折、ドローンやアンビエント・ミュージックは僕の体のなかに存在するような気がするんだ。

『カズアシタ』にはスピリチュアリティが入っていると言えますか?(通訳註:スピリチュアリズムは英語で心霊主義の意味になるので、こう訊きました)

BD:僕としては、聴くひとがそう解釈するなら嬉しいけどね(笑)。僕にとってはスピリチュアルなレコードだから。僕が聴く音楽のマジョリティは、ニューエイジ音楽と分類されるような音楽だったりもする。だから、そういうふうに聴いてもらえるのはポジティヴだと思う。スピリチュアルな効果があるといいよね。それは、さっき言った「自分の体のなかにある音楽」ってことでもあるし。あと、このレコードのナラティヴがそうなんだ。僕にはほかのレコードよりスピリチュアルっていうか……いや、違うな。いまのは言うべきじゃなかった。どのレコードも僕にとってはスピリチュアルなんだけど、今回はナラティヴがよりスピリチュアルな領域に入っていく。ほかのレコードよりね。とくにエンディングがそうなってると思う。

印象的なジャケットのアートワークについて教えてください。SF映画のヴィジュアルを連想させますが、これは本作とどのように関わっているのでしょうか?

BD:あの写真は友人のデヴィッド・シェリーのイメージなんだ。彼は素晴らしい風景写真家で、あれはアメリカの北西部、オレゴンの沿岸で撮った写真なんだよ。うん、僕があのイメージを好きなのは、SFというよりは、世界の終わりであり、世界のはじまりでもあるようなところ。あのイメージには二重性がある気がするんだ。世界の終わり、もしくは始まりであって、同時にその両方でもあるような。その意味で奇妙なフィーリングがある写真なんだよね、僕にとっては。うまく説明できないんだけど……自分でもそのどっちかがわからない。そこが好きなんだ。

サウンド的にもSF映画のスコアを連想させる部分があると感じましたが、『カズアシタ』にSF映画やSF小説からの影響はありますか?

BD:サイエンス・フィクションではないけど、このレコードを映画のスコアとしては考えてたよ。作ってるときには、僕自身ずっと「映画」として話してたんだ(笑)。僕には映画として見えるレコードだから。聴いてると、映画のなかにいるのが想像できる。実際、いまもこのレコードに合わせた長編映画のプロジェクトを手がけてるところなんだ。そういう意味でも、これはとても映画的なレコードだね。

『カズアシタ』というアルバム・タイトルは(元メンバーの)タカ・イマムラの子どもの名前にちなんでいるそうですが、曲単位では“Kazuashita”や“Young Boy”に子どもが登場します。子どもの存在はこのアルバムのテーマに関係していますか?

BD:それも、この映画のナラティヴに関係してる。いくつか理由はあると思うけど、ひとつは僕らの年齢だよね。僕らの友人がみんな親になった。子どもを持つようになったんだ(笑)。だから周りに子どもたちがいて、それがレコードに影響を与えてる。周りで次々赤ん坊が生まれて……僕ら自身には子どもがいないんだけど、ここ数年で周りの友人に子どもが生まれたんだよ。で、周りにいる小さい子たちのことを考えるようになった。レコードのナラティヴに関して言うと、曲の“Kazuashita”はタカの子どもがこの世界に生まれたことであり、最終的にはいまのクレイジーで混乱した世界を指し示してる。彼がはじめてその世界を旅してるんだ。だからこそあの曲は“Kazuashita”っていうタイトルだし、“birth canal”っていう曲は彼が生まれる直前、母親の胎内から産道(birth canal)を通ってるところを描いてる。カズアシタが外界に出てこようとしてるんだ。で、“Young Boy”はまた別の話で。あれはリズが書いた曲。ここ数年アメリカで、若者たちに沈黙が向けられてることについて彼女が書いたんだ。

みんなに落ち着いてほしかったんだよ(笑)。攻撃に対して、さらなる攻撃で返したくなかった。むしろ静かな感覚を作り出すことで、カオスに対抗したかったんだよね。聴くひとを助けるっていうか、激しさを鎮めて、混乱を少なくしたくて。

ラストの“Slave on The Sorrow”は非常にスケール感の大きなナンバーで、歌詞も希望を暗示するものになっていると思います。この曲を最後に置いたのはなぜでしょうか?

BD:それはやっぱり、希望があるからだよね。僕はこのレコードをネガティヴな感じで終わらせたくなかった。また別のレイヤーが次に開かれていくような感じにしたかったんだ。世界の次のフェイズにね。だから希望があるし、ポジティヴだし。というのも、いまってものすごくクレイジーな時代だから、みんなネガティヴになりがちだし、すぐ「もう希望なんてない」って考えてしまうだろう? でも僕は、希望はあると思うんだ。僕はこのレコードで、いま起こっていることのあらゆるネガティヴな側面に目を向けたかった。でも最後に希望のある形で締めくくるのは、僕らにとってすごく重要だったんだ。「このフェイズを乗り越えるんだ」って感じられるようにね。この政治的な混乱やドナルド・トランプを乗り越えて、最後には光が見えてくる──っていうフィーリングにしたかった。新しい考え方や、新しい空気が開けてくるんだよ。

ギャング・ギャング・ダンスの音楽はつねに、さまざまな地域の音楽性を越境し、ミックスするものでした。『カズアシタ』にも、そうした多様な音楽性が前提として共存しています。いっぽうで現在、トランプ政権に代表するように、世界が内向きになっている傾向がありますが、そんななか、越境的な音楽はそのような(内向きの)ムードに対抗する力を持てると考えますか?

BD:持てればいいよね。そうあってほしい。これまで僕が話してきたいろんなひとたち、インタヴュアーやこのレコードについて書いてくれたライターのひとたちに関して言えば、そういう効果があったみたいだし。僕にはそう感じられる。それに、そこは僕らのゴールのひとつでもあったんだ。ある意味、落ち着いた感覚を作りだすことがね。このレコード全体がひとつの曲、ひとつのピースである理由もそこにある。アイデアとしては「我慢強くあること」っていうのかな。途中で気を逸らすことなく、最後まで見通すこと。少なくとも、そういうふうに聴いてほしいんだ。何かほかのことをしながら、次々早送りにしたりするんじゃなくて、ちょっとくつろげる場所を見つけて、最初から最後まで聴いてほしい。映画を観るようにね。映画観るときって、みんな途中で別のこと始めたり、バックグラウンドで映画を流したりすることってあんまりないだろう? だから、このレコードもみんなリラックスして聴いて、自分の中に取り込んで、ちょっとした旅に出るような気持ちになってほしい。そう、このあいだ別のインタヴューでも話したんだけど……ちょっと似たような質問が出て。そのときに言ったんだけど、いまみたいな政治的、社会的な状況下だと、音楽もそれと同じリアクションになってしまうことが多いよね。「これだけ社会が怒りに溢れてるんだから、こっちも怒りのある音楽、攻撃的な音楽を作るべきだ」みたいな。でも、僕はそうしたくなかった。そういうとき僕が聴きたかったのは、それとは正反対の音楽だったんだ。みんなに落ち着いてほしかったんだよ(笑)。攻撃に対して、さらなる攻撃で返したくなかった。むしろ静かな感覚を作り出すことで、カオスに対抗したかったんだよね。聴くひとを助けるっていうか、激しさを鎮めて、混乱を少なくしたくて。そういうふうにこのレコードが作用するといいなと思う。

通訳:毎日の生活でもそうですよね。私もニュースを見てものすごく怒ったりするんですけど、それがどんどんエスカレートするような感覚があります。

BD:そう、怒りって伝染するんだよ。怒ったひとたちはそのエナジーを君に投げつけて、怒りやすい環境を作りだす。それは、まさに君を怒らせるためだったりもするんだ。だからこそ、それを思い出して、まったく逆の方向に進まなきゃいけない。他人の攻撃に対抗するタイプの攻撃、アグレッションでは何も成し遂げられないからね。

STUMM433 - ele-king

 こ、これはすごい。昨年より続いている〈MUTE〉のレーベル設立40周年企画、ついにそのメインとなるプロジェクト「STUMM433」が発表されることとなった。ジョン・ケイジの“4分33秒”を〈MUTE〉ゆかりの50組以上のアーティストがそれぞれの解釈で演奏するという内容なのだけれど(ケイジが何をやった人なのかについては、まもなく刊行される松村正人『前衛音楽入門』を参照のこと)、とにかく参加面子がすごいったらない。詳細は下記よりご確認いただきたいが、ア・サートゥン・レイシオ、キャバレー・ヴォルテール、ノイバウテン、去年ともに佳作を発表したクリス・カーターイルミン・シュミット、まもなく 1st がリイシューされるマーク・ステュワート、さらにはデペッシュ・モードやニュー・オーダーまで! 昨年レインコーツのアナ・ダ・シルヴァとの共作を送り出した Phew も参加しています。同プロジェクトの第一弾として現在、ライバッハのムーヴィーが公開中。それらの映像作品を集めたボックス・セットは5月にリリース予定です。

〈MUTE〉レーベル設立40周年企画のメイン・プロジェクト発表!
ジョン・ケージの歴史的作品「4分33秒」を、独自解釈で演奏した映像作品を集めたボックス・セットを今年5月に発売!
ニュー・オーダー、デペッシュ・モードなど、50組以上のレーベル関連アーティストが参加!
第一弾としてライバッハによる映像作品を公開!

「僕らがどこにいようとも、聞こえてくるのはほとんどがノイズなんだ」 ──ジョン・ケージ

〈MUTE〉は、レーベル設立40周年企画「MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ」のメイン・プロジェクト「STUMM433」を発表した。
50組以上のレーベル関連アーティストによる新たな作品を集めたボックス・セット「STUMM433」を今年5月に発売することとなった。

レーベル創始者ダニエル・ミラーのプロジェクトでありレーベル第一弾アーティストのザ・ノーマルから、ニュー・オーダー、デペッシュ・モード、そして最新アーティスト K Á R Y Y N (カーリーン)に至るまで、まさに過去・現在・未来の50組以上のアーティストがこのプロジェクトに作品を提供する。また、ポスト・パンク時代の歴史的作品を今月25日に再発するマーク・スチュワートや、〈MUTE〉からアルバム『Our Likeness』(1992年)を発売したPhewも参加する。

内容は、全てのアーティストがそれぞれひとつの楽曲を独自の解釈を持って披露するというもの。その1曲とはジョン・ケージの歴史的な1曲、「4分33秒」である。「4分33秒」はあらゆる現代音楽の中でも最も重要な作品のひとつとされている。発表されたのは1952年で、この曲はあらゆる楽器、もしくはあらゆる楽器構成で披露することができる作品である。というのもこの曲の譜面は、一人の奏者、もしくは奏者たちが演奏時間内(4分33秒)に一切自分の楽器を演奏しないことを記している。初披露されたときはもとより、いまでも挑戦的で前代未聞とされるこの作品は、静寂、サウンド、作曲、そして聞くという一般概念を完璧なまでに変えてしまったのだ。

ダニエル・ミラー(レーベル創始者)はこのプロジェクトに関して次のように語っている。「ジョン・ケージの“4分33秒”は自分の音楽人生の中で長い間、重要で刺激を受けた楽曲としてずっと存在していたんだ。〈MUTE〉のアーティストたちがこの曲を独自の解釈でそれぞれやったらどうなんだろう? というアイデアは、実はサイモン・フィッシャー・ターナーと話してるときに浮かんだんだよ。私は即座に、これを〈MUTE〉のレーベル40周年を記念する《MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) 》シリーズでやったら完璧じゃないか、と思ったんだよ」。

このプロジェクトの第一弾としてライバッハが作品を披露した。ザグレブにある HDLU's バット・ギャラリー・スペースでおこなわれたインスタレーション「Chess Game For For」開催中に撮影・録音され、クロアチアのパフォーマンス・アーティストのヴラスタ・デリマーとスロヴェニア製の特製空宙ターンテーブルをフィーチャーした作品だ。

ライバッハ「4分33秒」映像リンク
https://youtu.be/mM90X-9m_Zc

この作品から発生する純利益は英国耳鳴協会とミュージック・マインド・マターへ寄付される。この団体が選ばれた理由として、インスパイラル・カーペッツの創設メンバーでもあるクレイグ・ギルが、自身の耳鳴りの影響による心身の不安から不慮の死を遂げたことが挙げられている。このボックス・セットは2019年5月にリリース予定、詳細はここ数ヶ月後にアップデートされていく。

「STUMM433」参加アーティスト一覧

A Certain Ratio, A.C. Marias, ADULT., The Afghan Whigs, Alexander Balanescu, Barry Adamson, Ben Frost, Bruce Gilbert, Cabaret Voltaire, Carter Tutti Void, Chris Carter, Chris Liebing, Cold Specks, Daniel Blumberg, Depeche Mode, Duet Emmo, Echoboy, Einstürzende Neubauten, Erasure, Fad Gadget (tribute), Goldfrapp, He Said, Irmin Schmidt, Josh T. Pearson, K Á R Y Y N, Komputer, Laibach, Land Observations, Lee Ranaldo, Liars, Looper, Lost Under Heaven, Maps, Mark Stewart, Michael Gira, Mick Harvey, Miranda Sex Garden, Moby, Modey Lemon, Mountaineers, New Order, Nitzer Ebb, NON, Nonpareils, The Normal, onDeadWaves, Phew, Pink Grease, Pole, Polly Scattergood, Renegade Soundwave, Richard Hawley, ShadowParty, Silicon Teens, Simon Fisher Turner, The Warlocks, Wire, Yann Tiersen

MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ
https://trafficjpn.com/news/mute40/

MUTE関連情報
1) マーク・スチュワート(ex. ザ・ポップ・グループ)の歴史的デビュー作が、 新たに発掘された10曲の未発表曲を加えた決定版として1/25に再発!
https://trafficjpn.com/news/ms/

長袖Tシャツ付き限定盤も予約受付開始!
https://bit.ly/2TKcCLO

2) ウィンター・セール開催中! 〈MUTE〉作品(ニュー・オーダー、CAN、スワンズ、キャバレー・ヴォルテール、アルカ等)のウィンター・セール開催中!
国内盤CD:1,500円、輸入盤LP:1,300円、輸入盤CD:1,000円など(税別)。お見逃しなく!
https://bit.ly/2TKcCLO

mute.com


Big Joanie - ele-king

 なんとまあ、伸び伸びとした演奏だろうか。「ダーシーキシャツ(アフリカの民族衣装)を着て80年代DIYとriot grrrlを通過したロネッツ」、彼女たちは自らをこう表現している。たしかにビッグ・ジョーニーはジーザス&メリー・チェインとロネッツの溝を埋めるかのようだし、曲によってはニュー・オーダーめいたエレクトロ・ロックだし、あるいは初期のレインコーツみたいだし、アルバムの最後にはバラードまでやっている。ロンドンの移民の娘っこ3人。アルバムには3分ほどの曲が11曲。ラップもないし、R&Bもない。トレンディではないどころか、ある意味黒人らしくもない。そういう意味では、オールド・ファッションでもないしステロタイプでもない。ドラマーのシャーダインは、初期ジーザス&メリー・チェインのように立ってドラムを叩いている。ひと昔前なら、不健康そうに前髪を長く垂らして黒いコートを着て白人の若者がやっていたような音楽を彼女たちはやっている。だからどうしたというわけではない。そもそも今日では、時代錯誤とはタイムリーを意味するし、パンクでありダンス・ミュージックでもあるビッグ・ジョーニーの溌剌とした『シスターズ』がただ素晴らしいというだけのことである。

 「ブラック、フェミニストそしてシスター・パンク」これがビッグ・ジョーニーのモットーだ。それだけ聞くと、ああ、なるほど、わかったようなわからないような、しかし漠然としたイメージは生まれる。「ブラック、フェミニストそしてシスター・パンク」──なるほど。じっさい彼女たちはアナキスト系のDIYスペースに関わっているそうだが、ビッグ・ジョーニーにはTLCのヒット曲“ノー・スクラブ”(デスティニーズ・チャイルドの“ビルズ・ビルズ・ビルズ”とならぶ、現世的な男を見下す生意気娘系の曲として知られる)をカヴァーするくらいの余裕と茶目っ気がある。ミソジニーや階級社会を風刺したポリティカルな歌詞を歌っているらしいのだが、彼女たちの曲はポップスとして成り立っているし、なんといっても堂々とやりたいことをやっている感じが良い。スリーフォード・モッズよりは育ちが良さそうだが(まあ、バンドをやれるくらいだし?)、彼らと同じように流行りに流されている感/やらされている感はない。それは歯並びが良くスマートな体型のアメリカやインスタ文化(などと偉そうに言っているがあまりよくわかってない)が、結果として抑え込んでいるものを解放するかもしれない。君は君自身のままでいいんだよっていうふうにね。

 ささやかな一撃だが、これが時代に馴染めないひとたちを勇気づけて、未来のためのきっかけになることは大いにありえる。2018年の暮れに、ビッグ・ジョーニーのデビュー・アルバム『シスターズ』がサーストン・ムーアのレーベルからリリースされた(レコードにはブックレットが付いている)。

Allysha Joy - ele-king

 ハイエイタス・カイヨーテの登場を機に、ジャズやソウルなどとクラブ・サウンドのミクスチャー・バンドが注目を集めることが増えてきた。USのムーンチャイルドやスペース・キャプテン、UKのノヤ・ラオやトロープ、シンガポールのスティーヴ・マックイーンズ、ノルウェーのローヘイなどがそうしたバンドで、ジョーダン・ラカイキングなども同じような傾向を持つアーティストと言える。同時にハイエイタス・カイヨーテの地元であるオーストラリアの音楽シーンにもスポットが集まるようになった。特にハイエイタス・カイヨーテを輩出したメルボルンはいろいろな音楽が盛んで、かつてはランス・ファーガソンが率いるバンブーズやカイリー・オールディストなどから、近年は30/70、レジャー・センター、エレクトリック・エンパイア、ミッドライフ、カクタス・チャンネル、ハーヴィー・サザーランド、アンドラス・フォックスなど注目のアーティストが続々と登場している。

 この中でも30/70はポスト・ハイエイタス・カイヨーテの筆頭と呼ばれる10人組のグループで、2017年にファースト・アルバムの『エレヴェイト』をリリースしている。彼らはハイエイタス・カイヨーテに通じるオーガニックなバンド・サウンドを持つが、面白いのはリリース元がUKのサウス・ロンドンの〈リズム・セクション・インターナショナル〉だったことで、ロンドンの音楽シーンとメルボルンの音楽シーンの結びつきを示していたことだ。オーストラリアからロンドンに移住したジョーダン・ラカイも〈リズム・セクション・インターナショナル〉から作品を出したし、昨年末もハーヴィー・サザーランドの作品にヌビア・ガルシアやマンスール・ブラウンがフィーチャーされるなど、いろいろとアーティストたちの交流があるようだ。〈リズム・セクション・インターナショナル〉からのリリースということもあり、30/70はハイエイタス・カイヨーテに比べてさらにエレクトリックなクラブ・サウンドの側面も強かったのだが、その中心人物であるドラマーのジギー・ツァイトガイストは2018年初頭に『ツァイトガイスト・フリーダム・エナジー・エクスチェンジ』というソロ・アルバムもリリースした。こちらはエレクトリック・ジャズ/フュージョンにブロークンビーツなどのエッセンスを交えたもので、ディーゴ&カイディからフローティング・ポインツあたりへ繋がる作品だった。同じころに〈リズム・セクション・インターナショナル〉のコンピで『コンピレーション・フォー・ドミニカ』が出たのだが、そこに収録された“セルフィッシュ”という曲を歌っていたのがAJことアリーシャ・ジョイで、彼女もまた30/70の看板シンガーである。ちょうどハイエイタス・カイヨーテにおけるネイ・パームのような存在で、歌声やヴォーカル・スタイルにも似通ったところが見いだせるし、ファッション・センスもネイ同様になかなかのものだ。

 そのアリーシャ・ジョイのソロ・アルバム『アケィディ:ロウ』がリリースされたが、今度のリリース元はマンチェスターの〈ゴンドワナ〉。〈ゴンドワナ〉と30/70及びアリーシャ・ジョイとの間にどのような関係があるのか不明だが、これもUKがメルボルンの音楽シーンを注視していることの表われのひとつだろう。また〈ゴンドワナ〉にとってはノヤ・ラオと並ぶようなアーティストという位置づけで、こうしたネオ・ソウル~フューチャー・ソウル方面をより強化していこうという意向がくみ取れる。『アケィディ:ロウ』は前述の“セルフィッシュ”のほか、2017年にシングルでリリースされた“FNFL”と“アカラ”という曲も収録する。演奏メンバーはドラムのジギー・ツァイトガイスト、ベースのヘンリー・ヒックス、サックスのジョシュ・ケリー、バック・コーラスのダニカ・スミスと、ほぼ30/70のメンバーがバックを務めている。従ってアリーシャ・ジョイのソウルフルな側面にスポットを当てた、30/70のもうひとつ別のアルバムと見ることもできる。アリーシャ自体はヴォーカルのほかに作詞・作曲とキーボード演奏をおこなっており、特にエレピの演奏が歌声とともに本作の重要なポイントとなっている。

 エレピにワードレス・ヴォイスを交えて始まる“FNFL”は、コズミックな質感を持つジャズ・ファンク~フュージョン系のトラックに、自在に動き回るヴォーカルという30/70直系のナンバー。リズム・チェンジを繰り返しながら最後はヒップホップ調のトラックへと変調する様はハイエイタス・カイヨーテと同様で、こうした先の読めない展開や即興性を有したパフォーマンスが彼らの魅力でもある。“セルフィッシュ”や“オネスティ”はメロウネスとブラック・フィーリングに満ちたナンバーで、陰影に満ちたエレピとソウルフルな歌声のコンビネーションはロイ・エアーズの諸作を彷彿とさせる。“スワロウ・ミー”もメロウでジャジーなソウル・ナンバーだが、バックのトラックはアフリカ色が強くて土着性に富む。アリーシャの作品にはスピリチュアル・ジャズとの近似性が感じられることもあるが、それの顕著な一曲だろう。“ノウ・ユア・パワー”はアルバムの中でもっともジャズ色が強く、前半の変拍子から後半のジャズ・ファンクへと変調するが、この展開はエディ・ラスの“シー・ザ・ライト”を思い起こさせるようだ。“アカラ”はスロー・バラードで、幻想的で浮遊感たっぷりのエレピが存分にフィーチャーされる。ダンサブルな曲だけでなく、こうした美しいナンバーをじっくりと聴かせるあたりはムーンチャイルドにも匹敵するものだ。楽器のアンサンブルという点では、サックスとドラム、ベースのコンビネーションで徐々に形を作っていく“ドゥーム”は、30/70のジャズ・バンドとしての力量が見事に反映されている。“イーグル”は歌というよりもポエトリー・リーディングのようなパフォーマンスで、“オネスティ”にもスポークン・ワード的なパートが登場する。実際のところアリーシャはシンガー/ポエットという立ち位置のようだ。ジャズとソウルのブレンド具合、ポエトリー・リーディングを駆使したヴォーカル・スタイル、そしてロイ・エアーズやエディ・ラスなどに通じる音像を見ていると、アリーシャはフューチャー・ソウルとかネオ・ソウル、またはブロークンビーツなどよりも、むしろ知らず知らずのうちにアシッド・ジャズ的なところを受け継いで、それをいまの時代のサウンドとして変換しているアーティストと言えるのかもしれない。

彼女は頭が悪いから - ele-king


 2016年に起きた東大生強制わいせつ事件に想を得た「小説」。昨夏に刊行され、年末に東大で著者を含めた大規模な討論会が開かれている。昨年は財務官僚のセクハラ辞任やBBCで「Japan's Secret Shame 」が放送されるなどエリートと性暴力が強く関連づけられた年といえ、気になっていたのでようやく正月に読んだ。事件の骨格はほとんどそのまま使われているので最初はノンフィクションにした方がよかったのではないかと思ったけれど、著者によれば個人の話に収斂させることで見失うものがあると考え、実際に存在した人物とは異なる人物造形を行なった上で、あくまでフィクションの力に訴えたという。リアリズムとは遠い距離にいたはずのトルーマン・カポーティが作風を変えた『冷血』に取り組み、以後、執筆活動から離れてしまった轍は踏まないということだろう。小説の前半は被害者の女子大生(美咲)と加害者のひとり(つばさ)を高校時代から交互に描くという青春小説のような趣き。この部分におけるある種の入れ込みようが人によっては長すぎると感じただろうし、ディテールを積み上げただけのことはあったと思った人もいただろう。僕はもう少し短くてもよかったかなと思いつつ、後半はまったく雰囲気が変わってしまうので、連続性を見失うような感覚に襲われ、何が起きるかはわかっているはずだったのに、それでも「暴力」はいきなりやってきたという展開に感じられた。後半は気持ち悪くなって読み続けられなかったという読者がいたのもわかるし、最後まで読むことのできた読者は、そのような人たちと比べて多少とも「暴力慣れ」しているともいえる。そのことは自覚した方がいい。また、前半でとくに気になったのは美咲が気にしている「重たい女」という表現で、「別れたらもう会わない女と思われたくない」という意味で使われていたと思うものの、「重たい女」という言葉が美咲を性暴力の被害者に導くマイティワードになっているのではないかと感じられたこと。「重たい女」という言葉が悪いのか、仮にこの言葉でいいとしても、恋愛という局面において「重たい女」ではなぜいけないのかということがもうひとつ僕にはよくわからなかった。もしくは「別れても友だちでいたい」というのは美咲の欲望であり、そのことを肯定するための理屈としてはやはり弱かったのではないかと。「重たい女」の反対は「軽い女」で、とはいえ美咲が「軽い女」に見られたかったということもないだろうから彼女の心理描写としてはどうしてもモヤモヤしたものが残ってしまった。

 海外のウェブサイトなどで自分たちのセックスを実況放送しているカップルがいたりする(日本にもいるだろう)。お金目的の人もいるだろうから、動機や目的などは様々だろうけれど、そこで展開されているセックスはあまり煽情的ではなかったりする。旧東ドイツの性事情を回顧したドキュメンタリー『コミュニストはセックスがお上手?』(06)も同じくだったけれど、いわゆるアダルトヴィデオと比較すると、セックスという行為をどのように進めたいかという時に、ウェブカムでの実況中継や東ドイツの夫婦はお互いがやりたいことの接点を探っているという印象があり、セックス自体がコミュニケーションになっていると感じられる。これに対してポルノだったりアダルトヴィデオだったりは男がリードしていようが、女が主導権を握っていようが、多かれ少なかれ相手をモノ扱いしている傾向があり、どんなにソフトな内容のものでも、そうした作品はやはり「暴力性」が興奮を導き出しているところがある。「暴力性」もまたコミュニケーションのヴァリエーションだと言われればそれまでだけれど、『彼女は頭が悪いから』で描かれている強制わいせつのシーンはまさに「モノ扱い」を際立たせ、人間が人間をモノとして扱える冷酷さを冷静に描写していくところが良くも悪くもポイントではあった。喩えは悪いかもしれないけれど、戦場に転がっている死体にさらに弾を撃ち込んでいるような触感を味わわされるというか。誤解を恐れずにいうとそれこそレイプでもしてくれた方がまだわかりやすかったといえるほど東大生たちの行動はありえない方向へと進み、先導役をおかしいと思えばいいのか、集団心理を呪えばいいのか、どのピースを外せばここまでのことにはならなかったのかと考えることさえ無駄な気がしてくる。強制わいせつのシーンは現実に起きた事件をほぼ踏襲したものだそうで、小説自体がセカンド・レイプだという意見もあるし、だったら、この文章もそうだし、興味を持つ人はもうそれだけで似たような部類ということになる。著者が書きあがった小説を被害者に見せて発表してもいいかどうかを確認したかどうかまではわからないけれど、著者が主張するようにフィクションだから伝えられることがあるとしたら、彼らの「冷酷さ」を現実とは異なる強制わいせつの方法で追体験させる手もあっただろうとは思うし、この部分をフィクションにしなかったことはちょっと引っかかるところではあった。そしてそれを言ったら「東大」という名称だってボカせばよかったのかもしれないけれど、でも、そこは譲れなかったのだろう。冷酷になれる根拠がエリート意識にあり、とくにエリートでもない男たちが起こした性犯罪とは違う種類の事件だと強調することに意味があったのだろうから。

 本書を読んでいて思い出したのが日本では2016年に公開されたロネ・シェルフィグ監督『ライオット・クラブ』である。これは「ポッシュ」という舞台劇を映画化したものだそうで、イギリスのエリートたちが所属する実在の秘密クラブをモデルに、彼らが開く晩餐会ではどれだけ女性を辱めれば気がすむのかという余興や店の破壊が慣習的に行われ、時の首相であったキャメロンがこの会のメンバーであることから、その失脚を狙って製作されたものだという。映画はしかし、ヒットせず、キャメロンもブレクシットを決めてさっさと首相の職を退いてしまう(この映画についてはブレディみかこさんも連載で触れていたので、詳しくはこちらを→https://www.ele-king.net/columns/regulars/anarchism_in_the_uk/004442/)。複数の男性がひとりの女性をレイプしたり、あるいは単に言葉でからかったりといった事件やそれに基づく作品は無数にある。世界で初めてのセクハラ裁判を扱った『スタンドアップ』(05)や国連がボスニアの売春組織と裏で繋がっていたことを暴き、アメリカでは上映されることがなかった『トゥルース 闇の告発』(11)が最近だとすぐに思い浮かぶけれど、こういった作品と『彼女は頭が悪いから』や『ライオット・クラブ』を隔てるのは、エリートたちは自分のしていることがどういうことかはわかっているはず(というか、わざとやっているわけ)だから、教育がない人たちの同様な行為とは違って、階級社会の力学や支配者意識が作品の随所から漏れ出ていることだろう。暴力の主体が個人ではなく、組織暴力の延長のようなものだと考えたくなる傾向というか。とはいえ、移民や外国人が女性をレイプしたという報道があったとして、その時に外国人全体がまるで潜在的なレイプ犯のようなニュアンスで語られることもあるだろうから、すべての外国人が犯罪予備軍のはずがないように、すべてのエリートが組織暴力の可能性と結びついているということはなく、となるとやはりこうした問題は個人を単位で考えるべきであり、著者が「個人の話に収斂させることで見失うものがある」と考えたことは間違いだったのではないかという気もしてくる。しかし、強制わいせつの場面から章を改めずに、事件を知った人たちがネットで引き起こす反応へ話が進むと、様相は少し変わり始める。強制わいせつの場面までは冷静に書かれていた文章も、その直後から急に怒りが吹き出してきたかのように僕には感じられた。邪推かもしれないけれど、著者がこの小説を書こうと思った動機は事件そのものではなく、この事件に対して巻き起こったネットの反応に対するものではなかったかとさえ思ったり。

 僕の家から15分ほど歩いたところに東大はある。いろいろと便利なので、学食を利用したり、三四郎池でボーッとしたり、バカ田大学の授業を聞きに行ったりもした(東大って、いろんなことやってますよね)。そして、いつも異様だと感じるのは赤門の前である。ここを通る時には誰かが撮影をしていないということがない。在校生なのか、観光客なのか、落ちた人なのか、単なる通行者なのかはわからないけれど、とにかく撮影者が途切れることがなく、撮影の邪魔になっては悪いと思うので歩きづらいことこの上ない。季節が悪ければ通り抜けるのにも時間がかかってしまう。考えてみると東大生強制わいせつ事件は東大の外で起きたことだし、『彼女は頭が悪いから』も東大の外で書かれた小説である。そして、ネットで巻き起こった被害者への過剰な攻撃や「東大生狙いだったんじゃないの?」という類いの書き込みはそれこそ東大の外から湧き上がってきた視点であり、東大というものがどのようにみられているかを増幅させた結果だろうと思える。実際には個人が犯した犯罪ではないのかという思いが、被害者に対する中傷との組み合わせによって、むしろ東大と名指ししなければすまないファクターへと押し上げられ、個人の問題では終わらせようがなくなった感がある。要は『彼女は頭が悪いから』はネット時代であることと切り離しては成り立たない小説であり、事件が起きるまでの情報量の多さに対してネットで飛び交う意見のプアーさをこれでもかと印象付け、実体としての東大とは異なった東大がネットの中には聳え立っていることを描き出したといえる(東大で行った討論会がもうひとつピント外れだったというリポートが多いのは、当事者がいたのは「外」だったからだろう)。読者はすでに美咲とつばさがああなってこうなってそうなってどうなったかを飽きるほど説明されているので、ネットの書き込みが振りかざす見解の浅さにはどうしたってうなずきようがない。また、犯人を擁護している人たちはミソジニーがほとんどで、美咲が東大生たちを司法に訴えたことについて腹を立て、様々な意見を述べているようだけれども、そのどれもが女性を部屋に呼ぶ男は全員が性暴力を振るう存在だという前提でしか意見は述べられていない。それでは女性を部屋に呼ぶことのできた男には女性を襲う権利があるみたいだし、彼らにとっては女性だけが行動を制限される社会が当たり前になっているのである。女性が自動車を運転し、映画館にも入ってもいいことになったりと、あのサウジアラビアでさえ変わろうとしている時代に。

 この小説からすっぽり抜け落ちている要素がある。東大の女子学生たちである。東大生強制わいせつ事件は「東大生」が他の女子大生をターゲットにしたものであって、東大の女子学生を襲う話ではない。東大に女子学生は2割しかいないらしい(小説の中では1割とあるけれど、2割が正しいらしい)。その数値が指し示すものは女性たちが知力で劣るとか、入試で男子の得点が水増しされているからではなく、女性には東大を出ることに魅力がないからである。場合によっては結婚する時に東大出であることを隠すこともあるらしい。男子は東大を出れば、その能力に見合ったポストを手に入れるべく進むべき道が整っているのに対し、女性には権力に近づく手段が限りなく狭められているので東大に入るメリットが男よりも希薄なんだそうである。なるほど政治家にも高級官僚にも女性はあきらかに少ないし、数少ないロールモデルが片山さつきでは夢もしぼんでしまうだろう。東大に女子学生が少なく、権力を目指すことに限界があることと、美咲が犯人たちを訴え、いわば女性の権利を訴えたことは相似形である。男の部屋で酒を飲んでも何もされないという権利を女性に認めろという主張は、女も医局長になって白い巨塔の回診をやりたいとか、日産の役員になりたいとか、土俵に上がりたいとか、『新潮45』の編集長になりたいとか、なんらかの決定権を寄こせということの第一歩みたいなものでしかない。それほど女性たちが権力と結びつくことは恐れられ、この社会を動かす決定権を握らせるなという意志が明確に働いているようなものである。東大生たちを擁護して「これ、女の陰謀じゃねーの?」と書き込んだ例に即していえば、東大出の男性たちが日本という社会の多くを動かし、無意識(?)に女性たちの権利を拡大させまいとしているんじゃねーの? と返してみたくなるし、東大に女子学生が少ないこととある種のネット民が美咲の行動に攻撃を仕掛けてくることは同じパワーの発露にほかならない。だから、この話は「東大」でなければならなかったのである。

山口美央子 - ele-king

 山口美央子が80年代初頭にリリースした3作品(『夢飛行』、『NIRVANA』、『月姫』)がようやく復刻再発されたということは、昨年2018年のリイシュー・シーンの中でも特に大きな出来事だった。デンシノオト氏によるレヴューでも言及されているように、これらのリイシューは、単に「懐かしの和モノ盤」の発掘というわけではなく、昨今の音楽シーンの動向と密接に連動するものだった。
 井上鑑がアレンジを担当し、《4人目のYMO》松武秀樹がプログラミングを担当した1st 『夢飛行』と 2nd 『NIRVANA』は、シティ・ポップとテクノ・ポップの小粋なマリアージュとして、いかにもテン年代末的リスニング・センスに合致するものだ。そして、一風堂の土屋昌巳がアレンジャーとして参加し、前2作と同じく松武がプログラミングを担当した 3rd 『月姫』は、収録曲“白昼夢”に象徴的なように、昨今のジャパニーズ・アンビエント再評価以降のムードにドンピシャなこともあって、3作中でも最もリイシューが望まれていた作品だ。ニューエイジ~アンビエント的なるものが様々なジャンルへ波及していった2010年代後半に再評価されるにあまりにもふさわしい、決定的名盤として、『月姫』への再評価はとどまることを知らない。

 そんな中、昨年驚くべきニュースが飛び込んできた。その山口美央子が、35年ぶりに新作アルバムをリリースするというのだ。前述のオリジナル作をリリースした後の彼女は作曲家に転身し、プロフェッショナルとしてもっぱら様々な歌手へ楽曲を提供してきた(一般的な歌謡曲~和モノ・ポップスのファンにはそうした側面の方が馴染み深いかも知れない)。その輝かしい作曲キャリアでこれまで曲提供をおこなってきた歌手は、今井美樹、稲垣潤一、奥菜恵、CoCo、郷ひろみ、ともさかりえ、原田知世、光GENJI、渡辺満里奈、鈴木雅之、John-Hoon、田村ゆかりなど、錚々たる面々だ(個人的には、斉藤由貴との仕事は、いまこそじっくりと聴き返すべき素晴らしいものばかりだと思っている。『月姫』の世界がさらに発展していたら、という妄想を抱かせたりもする)。
 そのように、いわゆる《歌謡曲~J-POP》の王道で仕事を続けていた彼女だったが、上述の通り昨年過去作3作が松武秀樹が主宰するレーベル〈pinewaves〉からリイシューされたことをきっかけに国内外から再度大きな注目を集めることになり、トントン拍子で新作制作の話が持ち上がったのだという。

 昨年の5月から制作が始められたという本作は、松武からの提案もあってアレンジは山口美央子自身が担当することとなった。元来作曲家・歌手と並行してサウンド・クリエイター的志向を強く持っていた彼女だけあって、今作のアレンジではその類稀且つ精緻なセンスが縦横に花開いている。先日 Real Sound にて公開された山口と松武の対談記事によれば、山口は DAW に Cubase を使用し、そこで作成したデータを松武とやりとりしながら仕上げていくという形を取っているようだ。山口自身によるソフト・シンセや松武によるアナログ・シンセサイザーなどが縦横に絡み合う様は、シンセ・ポップ~テクノ・ポップを時代の先端で切り拓いてきたふたりが、先駆者ならではのやり方で現代の機材と伸び伸びと戯れる様を彷彿とさせる。ベテランならではの靭やかさと余裕に溢れた、風通しの良い音が耳に飛び込んでくる。
 もちろん、収録曲全体から、80年代の3作へのセルフ・オマージュとでもいうべき要素も垣間見られるのだが、やはり注目すべきは『月姫』との連続性だろう。あえてFM音源的なシンセサイザー・サウンドを駆使し、2019年とあの時代を太くつなぎながら、この作品がいま生まれるべくして生まれたのだということを強く喚起する。特にM5 “エルフの輪”はせせらぐ水の音とクリスタルなシンセサイザーが空間を浸し、小品ながら再注目を集めるニューエイジ~アンビエントの美点を強く訴えかける。そういった視点では、ここから続くアルバム後半の流れこそが白眉といえるかもしれない。特にM7 “幸せの粒”の、円熟の極みと言えそうなソングライティング。さらに深みを増したその歌声がメロディーをゆっくりと慈しみ、シンセサイザーのみずうみに漂っていく。

 また、『夢飛行』の“お祭り”、そして『月姫』に収録されていた“さても天晴 夢桜”に続く「和風三部作」の完結編と位置付けられているM3 “恋はからげし夏の宵 / Ton Ten-Syan”も、今作のもう一つの側面を象徴する楽曲だろう。かねてより彼女が志向していた《ジャパネスク》路線の完成形とも呼べそうな本トラックは、メロディーの叙情や三味線とシンセの交差が特徴的で、そこからいま反射的に思い出すのは、ボーカロイドなどが定着してからこちらの、ドメスティックなJ-POP~アニソン的な DTM 風景かもしれない。しかしながら、むしろそれらは、彼女や松武秀樹といった先駆者が耕した音楽的大地で育った後の世代によって芽吹いた《日本的な》音楽文化でもあるわけで、ここではオリジネーターとして現在のそういった J-POP サウンドに逆オマージュを捧げているようにも思われる。また、続くM4 “異国蝶々”でも同じくオリエンタル(=俯瞰してみた異国としての日本)なテイストが横溢し、爽快なシンセ・スカ・ポップに仕上げられている。

 上述の Real Sound でのインタヴューでも述べられているように、彼女の興味は、内外の古典やゲーム、オリエンタリズム、デカダン、ファンタジー、SF、海外ドラマ、音楽の形而上学、スピリチュアリティなど、非常に多岐に渡っている。それらひとつひとつを、80年代から現在に続く時間軸の中、過去と未来に様々な音楽要素として反射し続けてきたことで、アーティストとして、作曲家として、彼女はこの国のポピュラー音楽界に大きな輝きを与え続けてきたのだろう。実際、彼女が関心を寄せる上記のトピックは、音楽以外も含めてこの国のポップ・カルチャーで常に重要な要素として参照されてきたものだし、また大変興味深いことに、現在のポスト・インターネット状況下の思想の前衛において、色々な文脈で関心が向けられている事柄にもシームレスに連結されるものでもある。
 そういった意味でもまさしく、このアルバムは、いま2010年代末に作られるべくして作られたものだと言えるだろう。ドメスティックとグローバルの表裏関係がメビウスの帯のようにねじれ、過去が新しく、未来が懐かしくなる、いまという時代において。


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