「Nothing」と一致するもの

interview with Nanorunamonai - ele-king

まばらな星 半分の月
降ろされたシャッター
絵にならない絵を描く芸術家
彼らはとてもアンバランスを保つのが上手で
お日様にも見つからないほど遠くへ
波乗りのリーシュ
笑えないジョーク 人づてに聴く文句
まわりくどい皮肉 一人よりも孤独
焦げ付いた記憶 手のひらに食い込む 油汗と蝋燭
遠のく永遠なるスローモーション

赤い月の夜 何もない空を漂う
赤い月の夜 ひび割れた鏡を叩き割る
赤い月の夜 重力を振りほどく 
赤い月の夜 俺は俺を殺す
赤い月の夜

 12月某日。なのるなもないの取材から数日後。〈タワーレコード渋谷店〉の4階のフロアの一角には人だかりができていた。なのるなもないのインストア・ライヴを観ようと集まった多くのファンで埋め尽くされていたのだ。ファンたちの熱い視線が、蛍光灯のまぶしい灯かりの下で、幻想的な詩をメロディアスにフロウするラッパー/詩人に注がれる。このイレギュラーなシチュエーションで、しかし、なのるなもないもファンも素晴らしい集中力だ。そこには甘美で、濃密な小宇宙が発生していた。そして、ライヴ後のサイン会には長蛇の列ができた。僕は試聴機でブリアルの最新作を聴き、久々に会う友人や知人とおしゃべりをしながら、その光景を感慨深くながめていた。


なのるなもない
アカシャの唇

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 降神のなのるなもないが、昨年12月にセカンド・アルバム『アカシャの唇』を発表した。ファースト『melhentrips』からじつに8年ぶりとなるアルバムだ。8年という歳月は長いようで短く、短いようで長い。『アカシャの唇』は、まとまった作品を完成させるのに8年という歳月が必要だったことを証明する素晴らしい出来栄えとなった。降神の作品や前作『melhentrips』の延長線上にありながら、なのるなもないは詩とラップに確実に磨きをかけ、次のステップに進んでいる。詩とラップが不可分に結びつき、ひとつひとつの曲の世界観に明確な方向性を与えている。

 初期の降神の毒や狂気、抵抗を好んだ僕のようなリスナーには、その点に関しては欲を言いたくなる気持ちもある。だが、なのるなもないのように、幻想的で、空想的な詩を書き、メロディアスに、ハーモニックにフロウできるラッパーは他にはいない。そのラップをこうして堪能できることをまず喜びたい。
 “宙の詩”という曲では、ことばにジェット・エンジンを装備させて、宇宙の彼方に飛ばすような凄まじいフロウを魅せつけている。ことばと音のめくるめくトリップだ。谷川俊太郎や宮沢賢治、稲垣足穂といった作家の文学に、なのるなもないが独自の現代的な解釈を加えられているように感じられるのも『アカシャの唇』の魅力だ。ここには、童話とSFとラップが混在している。

 サウンド的にいえば、ポストロックやエレクトロニカとラップの融合という、00年代初期から中盤にかけて、アンチコンを中心に盛んに行われた試みの延長にある。そして、今作の共同プロデューサーであるgOと、ビートメイカーのYAMAANから成るユニットYAMANEKOがトラックを制作した“めざめ”と“ラッシュアワーに咲く花を見つけたけど”は、その発展型と言えるかもしれない。この2曲は、ギャング・ギャング・ダンス流のトライバルな電子音楽とラップの融合のようだ。後者に客演している女性シンガー、maikowho?の透き通る歌声には病みつきになる不思議な魅力がある。アルバムには盟友である志人、toto、tao、sorarinoといったラッパー/シンガーたちも参加している。

 前置きが長くなっているが、ここでもうひとつだけ言いたいことがある。『アカシャの唇』をきっかけに、00年代初頭から中盤に独創的な音楽を創造したオルタナティヴ・ヒップホップ・グループ、降神と彼らのレーベル〈Temple ATS〉の功績にあらためて光が当たってほしいということだ。この機会に、ファースト『降神』とセカンド『望~月を亡くした王様~』を聴き直し、降神の不在の大きさをいまさらながら痛感している。彼らのフォロワーはたくさんいたが、そのなかから彼らの独創性を凌駕する存在が生まれることはなかった。なのるなもないと志人というふたりのラッパーが中心になり、彼らは“降神”という音楽ジャンルを作り上げたのだ。時の流れが気づかせてくれる発見というものは、示唆的である。

 さて、これ以上書くと話が脇道にどんどん逸れて行きそうだ。2013年の年の瀬も迫る12月中旬のある寒い夜、渋谷でなのるなもないに話を聞いた。

結婚して、子育てをしながら、ライヴをしたり……要約しちゃうと、もう超簡単ですよ。

今日はなのるなもないの人となりにも迫りたいですね。

なのるなもない:人となりって言われると、別に語るべきことが俺にはよくわからないんだよね。

いきなりインタビュアーをがっかりさせるようなこと言わないでくださいよ(笑)。

なのるなもない:だってさ、自分を客観視するのは難しいし、そういうドキュメンタリー的なところで語るべき言葉がわからない。

大丈夫ですよ。

なのるなもない:秘すれば花っていうか、なんでもかんでも言うことがいいとは思ってないよ。訊きたいことがあれば答えるけどさ。

前作『melhentrips』から8年経ちましたよね。8年をざっくり振り返るというのはそれこそ難しいですけど、どうでした?

なのるなもない:結婚して、子育てをしながら、ライヴをしたり……要約しちゃうと、もう超簡単ですよ。

ははは。まあそうですよね。お子さんも大きくなったんですよね。

なのるなもない:うん。

『アカシャの唇』、興味深く聴かせてもらいました。00年代前半から中盤ぐらいは、たとえば〈アンチコン〉を筆頭に、ポストロックやエレクトロニカとラップの融合みたいな試みが盛んだったと思うんですね。本人がこういう言い方を喜ぶかはわからないですけど、音楽的にいえば、『アカシャの唇』はその発展型という側面もあると感じました。

なのるなもない:ふーん。

言うまでもなくこの作品で詩は重要な要素ですけど、変幻自在なラップのメロディとフロウが、とにかく圧倒的だな、と。

なのるなもない:ああ。

僕がいまのところいちばん好きで聴いている曲は、“宙(チュウ)の詩(シ)”ですね。

なのるなもない:あはっ(笑)。あの曲はね、“宙(ソラ)の詩(ウタ)”って読むの。

あ、そうなんですか。これは読めないや。

なのるなもない:まあ、これは読めないよ。

“宙の詩”は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や稲垣足穂の言語感覚を彷彿させるSFラップですよね。

なのるなもない:ああ、そうかもねぇ。

この曲、すごいカッコ良かったですよ。この曲について解説してもらえますか?

なのるなもない:最初にこの曲のトラックから宇宙的なものを感じて、「宇宙ってなんだろう?」っていう疑問から出てくる言葉を連想して書いていったんだよね。光とかロケットとか、自分の宇宙観から想起するものをフロウで表現しようとした感じかな。

とても映像的ですよね。言葉の意味に引っ張られるより先に、映像的なイメージが広がっていくんですよね。

なのるなもない:フロウに関しては、「風になったらいいのかな」とかそういうイメージで考えたりするね。人でない人っていうもので考えるときもあれば、もちろんリズムで考えるときもある。でもまあ言葉ありきだとは思ってるけど、両方だよね。どちらかに引っ張られることはあるかもしれないけど、両方とも捨てきれない。

なのるなもないのラップにおいて言葉の意味も重要な要素ですからね。『アカシャの唇』は、渋谷にある本屋さん〈フライング・ブックス〉がリリースしていて、インナースリーヴもパッケージも読み物として丁寧に作られていますよね。どうしてこういう形にしたんですか?

なのるなもない:前から本は作ってみたかったんだよね。だから、これはひとつの夢でもあったっていうことなんだよね。

でも俺はCDで出したかったんだ。CD屋に行ってCDを手に取って、開いてみて、買うっていう楽しさを伝えたかった。

詩集を作りたかった?

なのるなもない:うーん、詩集を出そうって気持ちで出してるわけではないんだよね。いまの時代にCDで出すっていうことはそんなに求められてないような感じもあるでしょ。

まあたしかに。

なのるなもない:でも俺はCDで出したかったんだ。CD屋に行ってCDを手に取って、開いてみて、買うっていう楽しさを伝えたかった。詩を書いてはいるけれど、ラップとしてアウトプットしてると思ってるし、ラップという表現じゃないときだってあるかもしれないけど、言葉があって、音があるというのが終着地点だと思うからさ。

『アカシャの唇』ってタイトルはどこからきたんですか?

なのるなもない:今回のアルバムはgOってヤツが半分ぐらいの曲で関わってくれてるんだけど。

共同プロデューサーの方ですよね。

なのるなもない:そう。お互いの分野にいろいろ入り込みながら、ああだこうだ言いつつ、よく遊んでもいたからね。ほとんど遊ぶ時間もなくなってきてるけど、gOとはよく遊んでもいたね。

gOさんとは何して遊ぶんですか?

なのるなもない:ドライブしたり、友だちのライヴを観に行ったりとか、まあいろいろだよ。でもすべては音楽を作る方向に向かっていて、そういう過程で、gOがアカシックレコードにアクセスしたみたいな話をしてきてね。

アカシックレコード?

なのるなもない:アカシックレコードは人類の魂の記録の概念のことで、そこにアクセスすれば、過去も未来も全部わかるという考え方があって、たまたま俺たちはそういう類の本を読んだりもしてたのね。まあ、「ルーシー・イン・ザ・スカイ」みたいな気持ちなのかな。

なはははは。“アカシャ”はサンスクリット語で“天空”も意味するんですよね。このタイトルについて、資料には、「人間のいろんな感情、聖者のような時も、毒々しい時も、無味乾燥なこともあると思うし、そういうの全部含めて話したい」と自身の言葉が引用されていますけど。

なのるなもない:自分は曲を書いているときの感覚が、そういうところにアクセスしようとしてるんじゃないかなっていうのが強くあって。自分で書いているんだけど、すでにそれがあったような感覚があって、そこに行き着くというかね。

そのアカシックレコードにアクセスする感覚や体験は、リリックを書くときとラップしてるときの両方にあるんですか?

なのるなもない:両方あるね。

制作はいつぐらいからはじめたんですか?

なのるなもない:制作期間がけっこうまばらなんだけど、“アイオライト”と“silent volcano”はけっこう前で、他の曲はここ2、3年だね。

『アカシャの唇』は、オーソドックスなラップ・ミュージックやヒップホップからは逸脱していると思うんですけど、いまでもラップやヒップホップは聴きます?

なのるなもない:聴くよ。なんでも聴くからね。

たとえば最近はどんな音楽を聴いてます?

なのるなもない:なんだろうなあ、昔のジャズとかまた聴いたりもしてるし、そんなに最近の音楽はわからないけど、まわりの友だちが教えてもくれるから、そういうのを聴いたり。中古のフロアを掘って、「なんじゃこりゃあ?」みたいな驚きだったり、そういうのを面白がる感覚は、昔より少なくなってきたかもしれないね。

なのるなもないさんは、ラッパー、詩人として表現に貪欲であると同時に、音楽を聴くことにも貪欲な人だと思うんですよ。ジャンル関係なく幅広く音楽を聴いて、それを自分で独自に解釈して、吸収して、表現として吐き出しているじゃないですか。たとえばの話ですけど、降神がファーストを出した00年代初期あたりに、ザ・タイマーズとかも熱心に聴いてたでしょ。僕はあの突き抜けた過激さみたいなものが降神の音楽にもあったと思っていたし、そういう意味でいまどんな音楽を聴いてるのか気になるんですよね。

なのるなもない:そうだなあ、特別にこの音楽が今回のアルバムに影響しているというのはないと思うけど、ボノボとかハーバートとかノサッジ・シングだって面白いと思ったし、ヒップホップだったらブラッカリシャスやマイカ・ナインとかブラック・ソートとかもやっぱり面白いなって思うよ。現行のラッパーだったら、タイラー・ザなんとか、とかさ。

タイラー・ザ・クリエイターですね。

なのるなもない:そう、ああいうのも気持ち悪いかっこいいなーって思ったりするよ。いやー、でももっと聴かないとね。俺さ、あんまり四つ打ちを聴かなくて、ある先輩に「もうちょっと深く聴いて」って言われたりもしたよ(笑)。四つ打ちって言い方も悪いか(苦笑)。でも、トライバル・ハウスとか、チャリ・チャリとかかっこいいなって思って買ったこともあるよ。

ダンス・ミュージックにどっぷりハマってレイヴに行ったりとか、そういう経験はなかったんでしたっけ?

なのるなもない:行ったことはあるけど、俺はそっち側にはガチに行かなかったんだよね。

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俺は俺なりの「on and on」を言うまで、ここまで時間がかかったってことかもね。

いまでも自分がヒップホップをやっているという意識はありますか?

なのるなもない:スタンスとしてそれはあるよ。いろんな表現があるなかでよく「これはヒップホップじゃないね」とか言う人がいるけど、「その考え方がヒップホップじゃない」と思うときもあるよね。そもそも破壊と再生をくり返して、吸収して進化を続けるものだと思ってるからね。それに自分はジャンルの区切りとかなく音楽を聴いてきたし、現行のシーンらしい音でそれっぽいことをやるっていうのは、自分にとってはすごくどうでもいいっていうかさ。自分なりの本当のところを追求したいと思ってるよ。

冒険のススメ”で「on and on and on and on and on」っていうリリックを独特の節回しでセクシーに歌ってるじゃないですか。あの歌い方がすごく面白いと思って。「on and on」って熟語は、ブラック・ミュージック、R&Bやヒップホップの常套句じゃないですか。

なのるなもない:うん。

その常套句をこんな風に解釈して歌うんだって。そこがすごく面白かった。

なのるなもない:あはははは。

僕はあの歌い方になのるなもないのBボーイズムを感じましたよ(笑)。

なのるなもない:だから、やっぱりそういうことだよね。タカツキくん(ベーシスト/ラッパー。スイカ/サムライトループスのメンバー)が、「チェケラッ!」って言葉を言えるまでに10年はかかるみたいなことを冗談かも知れないけど言っていて、でもそうかもなとも思ってさ。俺は俺なりの「on and on」を言うまで、ここまで時間がかかったってことかもね。

降神の初期や前作『melhentrips』のころと比べると、毒々しさは薄まりましたよね。

なのるなもない:そうだね。でも意味ある毒を与えたいとは思う。ただ、自分のなかから出てきた毒を無責任に放つことはしたくないよね。

吐き出す毒に、より責任を感じるようになったということですか?

なのるなもない:うん、それはある。吐き出した毒で(リスナーを)どこへ連れて行きたいのか?ということには意識的になるべきだし、(表現者は)みんなそうなんじゃないのかな? わかんないけどさ。キレイ過ぎてもしっくりこないときもあるし、毒っていうものはどうしても潜んでしまうと思う。皮肉や毒がない世界で生きられたらいいけどね。

降神の魅力のひとつに、狂気と毒があったと思うんですよ。不吉さと言ってもいいと思います。社会や人間の矛盾を生々しく体現するグループだったと思うし、そこに魅了されたファンも多かったと思うんですね。表現の変化とともに、なのるなもないのファンも変遷しているだろうし、表現者としてリスナーやファンを裏切りたくないか、あえて裏切りたいか、そこについてはどう考えてますか?

なのるなもない:金太郎飴みたいなスタイルってすごいとは思うんだけど、俺はわりと良い意味で裏切りたいって気持ちを持ってるね。でも、いまでも降神のころのようなスタイルも持っているし、スタイルが特別変化したとは思ってないかな。ただ、いまは社会や政治、時事的なことについて吐き出すべき時期ではないという感覚はある。そういうものは、もっと溜めて溜めて、自分の意志を固めてから表現したい。べつにそういうことはラップで表現しなくてもいいかな、とも思うしね。具体的に行動したいっていう気持ちが強い感じかな。そうやって自分のなかでいろいろ思うことがあるのに、なかなか動けていない自分についても含めて語るっていうのもありかもしれないけど。

ここ最近世の中で起きていることで関心のあることは?

なのるなもない:社会や政治の問題をひとつひとつ検討して、結論を導き出すレヴェルに俺はいないと思うから、それを手にした上で語りたいとは思う。そりゃあさ、東電の対応とか、当たり前に「おかしいでしょ」「本当に大丈夫なの?」って思うことはある。政党が変われば疑問に思うこともあるよ。でも10年、20年やらせてみて、それから判断するのもひとつの真実だとも思う。でも、もちろん誰が見ても「これはおかしいだろ」っていうことはたくさんある。そういうところで闘ってる人は応援してるし、力を貸したいなとは思ってる。

学生だって、仕事やっている人だって、それとは別に夢を持って頑張ってる人だって、その世界のなかで思い切り遠くに飛んでしまえば、人からしたら現実逃避って言われてしまうかもしれないけれど、その世界のなかでは成立しちゃうことでしょ?

降神のセカンドに入ってる“Music is my diary”って曲で、「現実逃避も逃げ切れば勝ちさ」というリリックがあるじゃないですか。厭世的といえばいいのかな、そういう感覚はいまでもあります?

なのるなもない:若ければ若いほど、世の中に対して「クソヤロウ」って思うこともあるし、降神でそういうこともラップしてたけど、人からすれば「お前に言われたかねーよ」っていうのもあったかもしれないよね。なにが現実で、なにが現実逃避かは一概に言えないよね。犬猫じゃないから、子どもはほっといたら死ぬからさ。いまは子育てという現実も常にある。そこからは目を背けられない。でもやっぱり、自分のやりたいことにも向かっているしね。「現実逃避も逃げ切れば勝ちさ」ってリリックには、学生だって、仕事やっている人だって、それとは別に夢を持って頑張ってる人だって、その世界のなかで思い切り遠くに飛んでしまえば、人からしたら現実逃避って言われてしまうかもしれないけれど、その世界のなかでは成立しちゃうことでしょ? だから、そうなったら勝ちじゃねえかという意味があったの。

現実逃避とつながる話だと思うんですけど、降神や〈Temple ATS〉は、活動がはじまった当初から一種の共同体みたいなものでしたよね。なのるなもないさんは、当時〈Temple ATS〉の事務所兼スタジオのような高田馬場のマンションに一週間ぐらい寝泊まりしてた時期もありましたよね。部屋に行ったら、ソファで気だるそうに寝てる、みたいな(笑)。

なのるなもない:いや、もっと長かったね。なんだろうね。自分がいっしょになにかを成し遂げたい仲間たちがそこにいたんだよね。あのころは、そこから離れたらいけないという強迫観念があった。だから、マサ(onimas。降神のトラックメイカー。〈Temple ATS〉の一員)の部屋に転がり込んで自分の家に帰らなかったりしたんだろうし。東京に住んだり、東京の近くに住んだりしているほうがやりやすいことはあるし、物理的な距離が関係ないとは言わないけど、自分がしっかりやっていれば、いろんなコミットの仕方があって、本当になにかをやろうとしたらできるといまは思うね。

降神と〈Temple ATS〉のメンバーの関係はかなり濃密でしたし、あの濃密な共同性があったからこそ降神の音楽が生まれたと思いますね。なのるなもないも志人もフリースタイルでしか会話しない、みたいな時期さえありましたよね。お互い、激しく、厳しく切磋琢磨してましたよね。

なのるなもない:そうだね。志人が「真の友は影響し合う」みたいなことをなにかに書いていたけど、その通りだなと思う。

最近は志人には会ってますか?

なのるなもない:このアルバムのリリース・ライヴ(2013年11月10日に〈フライング・ブックス〉で行われた)のときに会ったね。

アルバムに一曲ゲスト参加してますしね。今後、降神としてはやったりしないんですか? 気になっている人は多いでしょう。

なのるなもない:やりたいよね。でも、うーん、俺だけの気持ちじゃないから。あいつ(志人)の気持ちもあるからさ。俺が言える想いもあるけど、まだ公で話すような感じじゃないかな。とにかく、俺はあいつの表現が好きだし、尊敬しているし、いつも挑戦して成し遂げてきたヤツだと思うね。いっしょにやりたいけど、お互い忙しいってのもあるよね。

降神で作った曲でリリースされていない曲はある?

なのるなもない:けっこうあるよ。

本人たちは望まないかもしれないけど、未発表曲だけで一枚アルバムできちゃうんじゃないですか?

なのるなもない:「作れ!」って言われたら、できるかなっていうのはあるけど、それぞれやりたいことがあるからね。ふたりの伝えたいメッセージも必ずしも同じではないからね。

でも、それは最初からそうなんじゃないですか?

なのるなもない:昔はもう少し散文的だったというか、お互いのメッセージや世界観、リリックの方向性が違っても曲が成立したというか、びっくり箱の中身を作ってるみたいな感覚だったんだよね。

ああ、なるほど。『アカシャの唇』はひとつひとつの曲に明確な方向性と主題がありますよね。僕は、『アカシャの唇』はジャンル云々以前に、とにかく美しい音楽だなと感じましたね。

なのるなもない:自分のなかでの様式美を追求しつつ、息苦しさや喜びや気づき、そういうものはぜんぶ詰め込みたかったね。音楽を作っている人はみんなそう思っているかもしれないけど、前よりもっといいものを作りたいとは思うよ。聴いた人が前より良いとか、悪いとか思うのはまた別だけど、そういう気持ちはある。

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NHKの「みんなのうた」じゃないけどさ、みんなのうたを歌いたいというのはあるよね。みんなが存在している世界について歌わないとやっぱりウソだと思う。でも目に映るすべてをそのまま伝えるべきとも思わない。

リリックはどんな風に書いてるんですか?

なのるなもない:描くように書いたり、外郭を描くことで、言いたいことが発見されていく、そんな作り方をしてると思う。それからその画を動かすことで、より鮮明になっていく感じだね。

SF的でもあり、童話的でもありますよね。

なのるなもない:NHKの「みんなのうた」じゃないけどさ、みんなのうたを歌いたいというのはあるよね。みんなが存在している世界について歌わないとやっぱりウソだと思う。でも目に映るすべてをそのまま伝えるべきとも思わない。

さっき毒の話をしましたけど、アルバムのなかで心の暗部を描いていて、しかも他の曲よりも生活感が滲み出ている曲があるとすれば、“赤い月の夜”ですよね。それこそ、「くそったれ/てめえなんて死んじまえ/出かけたセリフをあわてて飲み込む」というリリックは、さっきの吐き出す毒とその責任の話に通じるなと。

なのるなもない:この曲には不幸の前兆みたいな要素があるよね。仕事とかで擦り減りまくって、自分がどんどん無くなっていくのに、それでもヘラヘラしてる。それは逆に狂気だと思うし、そういう現実が狂ってるなというのはあるよね。いわゆるヒップホップ的な“リアル”とは違うけど、自分のなかの魂の記憶にアクセスしたいんだよね。そこで描き出されるヴィジョンみたいなものを表現したい。そこには怒りだって絶対ある。怒りっていうものをそのまま吐き出すことはいけないって思ってる部分もあるんだけど、どんなときでも怒らないっていうのも非現実的だと思うし、“赤い月の夜”に関しては、あえてそういう怒りを表現したかった。

『アカシャの唇』を聴いて真っ先に思い浮かんだ作家が、谷川俊太郎と宮沢賢治、あと稲垣足穂だったんです。ここ最近で、好きな作家や印象に残ってる作品はありますか?

なのるなもない:いまの3人の本を持ってはいるけど、今回の作品に彼らからの直接的影響があるのかは、自分ではちょっとわからないなあ。“アルケミストの匙”に関していえば、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』にインスパイアされた部分はあるね。というか、あの小説のなかに好きなエピソードがあるんだよね。

どういうエピソードですか?

なのるなもない:幸せに生きるにはどうしたらいいか? という問いに対するひとつの答えを描き出しているエピソードがあるんだよね。ある賢者が少年に油を入れたスプーンを持たせて、油をこぼさずに宮殿を歩いてくださいと命じるの。で、少年は最初、スプーンの油に集中し過ぎて、宮殿をまったく見なかった。そこで賢者はもういちど宮殿を見てくるように命じる。今度は、少年は宮殿を見てくるんだけど、スプーンの油はなくなっていた。でも、幸せというのは、スプーンの油をこぼさないようにしながら、宮殿の美しさも見渡すことなんだと。

だからあの曲に、「二人の旅は日々の営み/アルケミストの一匙さ/こぼしてはいけない日々の営み」というリリックがあるんですね。

なのるなもない:その一方で、ものすごい印象的な一夜だったり、そういうものを求めてる自分がいる。

特別な体験を求めてる?

なのるなもない:俺は今日どこまで行けるだろう、みたいなことは求めてる。

あはははは。なるほどー。

なのるなもない:ははは。それも幸せだと思う。

いわゆるヒップホップ的な“リアル”とは違うけど、自分のなかの魂の記憶にアクセスしたいんだよね。そこで描き出されるヴィジョンみたいなものを表現したい。

音楽を聴いていてもそれは伝わってきますね。じゃあ、聴いている人にぶっとんでもらいたいという気持ちもある?

なのるなもない:あるよね。

やっぱりあるんですね。そういう音楽ですもんね、この作品は。

なのるなもない:なんだよ、その質問! ははははは。

いやいや、音楽の重要な要素のひとつじゃないですか。

なのるなもない:二木のなかでそのプライオリティが高いということだね(笑)。まあ、“ぶっとぶ”って言葉はすごい抽象的だけど、理路整然としているところはしていたいし、そのレールからはみ出してどこにたどり着くんだろうっていうスリリングさも表現したい。で、たどり着いた場所がここなんだって納得できる音楽を作りたいね。

では、なのるなもないにとって、そういうスリリングさを味わわせてくれる音楽にはどんなものがありますか?

なのるなもない:それはもう、それこそジャンルとかじゃなくて、出会ったことのない感覚に尽きるよね。あれだよ、ブランコを漕いでいて、高く舞い上がって、臍のあたりがうーってなる感覚があるじゃん。わかる?

わかりにくい(笑)。

なのるなもない:フライング・パイレーツとかで急にぐーっと上げられて、臍がぐううーってなるでしょう。で、「これ、大丈夫かな?」って一瞬思うんだけど、「やっぱり大丈夫だった」って戻ってくる。それでまた乗りたくなる。そういう感覚に近いかも。

最近、具体的にそういう音楽体験で記憶に残っているのはありますか?

なのるなもない:うーん、ちょっと思い出せないけど、それぞれのジャンルが発展していくときってそんな感じなんじゃないの? ダブステップをはじめて聴いたときも、「すげぇ空間が曲がってるぞ」って思ったし。ダブだったらさ、俺には子宮がないけど、子宮に響いているみたいな感覚があった。ジミヘンが逆再生をやり出したときだって、はじめて聴いた人は「なんだよ、これ?」ってなったと思うし。

『アカシャの唇』は、グッドとバッドの両方の旅の境界線が曖昧な音楽ではありますよね。バッドな状況も楽しんじゃうタイプなんじゃないですか?

なのるなもない:そのときに楽しめるかどうかは別でさ、苦しいけどね。嫌な思いもそのときしかできない体験だし、それだけ心が動いたってことだからさ。

最後は戻ってこれたと。

なのるなもない:そう。俺はこんなことを考えていたんだって感心するときもあるし、バカだなあと思うときもあるよね。で、小さいかも知れないけど、自分なりの未知な世界の終着地点までを表したい。いちど出したものは、俺のものじゃなくて、その人のものだから。聴いてくれる人が楽しめる状況にしておくのがやる側の責任……とかいうとイヤだけど、当たり前のことだよね。そのレヴェルにつねにたどり着きたいと思ってやってるよ。

アムネジアの風に吹かれても忘れてしまうわけない
アクエリアス 溢れてしまう 生きたシャンデリア
飛ばすレーザー 静かなるエンターテーナー
ラフレシア アモルフォファルスギガスへ今届けておくれ
うまくできた? 完璧じゃなくても笑っていたいならやってみな
SL1200のターンテーブル BPM66星雲で
33回転する 記憶にないものまで再現する
あなたならこの景色をなんていう その海どこまでもふくらんでく
一つの愛my name is ビビデランデブー
宙の詩

Gabriel Saloman - ele-king

 ピート・スワンソンの『パンク・オーソリティ』がその熱で赤く光る鋼鉄の花だとすれば、ガブリエル・サロマンの『ソルジャーズ・レクイエム』は黒く燃え落ちた末に白い粉をまとった灰色の彼岸花といったところだろうか。間違いなく2000年代を代表するフリー・ノイズ・デュオであり、2008年の解散までに数え切れないほどのカセット、ヴァイナル、CD-R作品をリリースし続けてきたイエロー・スワンズ。その元メンバーである2人が、2013年にエクスペリメンタル・ノイズを棲家としつつも、それぞれ好対照なソロ作品をリリースした事実はとても興味深いことである。外宇宙から享楽に向かうピート・スワンソンに対し、内宇宙から終末に向かうガブリエル・サロマンというか。なんというか。

「兵隊の葬送曲」と名づけられたタイトル。そしてアートワークはヴァイオリンを奏でる底気味悪い骸骨。なんともビザール嗜好をくすぐる、好きものにはたまらない恍惚を与えてくれるこの暗黒風情。筆者もCDショップの試聴機に並ぶこのパッケージを見て迷わず手に取り耳にした口であるが、冒頭から危うい響きを奏でるピアノ、そして不安定ながらもエレガントに折り重なるゴースト・ドローンに意識もろともすとんと他界に突き落とされてしまった。調べてみるとこの作品、バンクーバーにあるサイモン・フレイザー大学・現代芸術学科の学生たちによって演じられた、戦争を題材にしたライヴ・パフォーマンス『ウォー・レクイエム』のために作られた音楽とのこと。なんでも「ダンス、音楽、メディア、光、衣装のアイデアが絶頂に統一されたパフォーマンス」と評されていてその舞台の動向も気になるところだ。

 さてアルバムの内容だが、先の退廃的音響に続く“マーチング・バンド”では、ガブリエル・サロマンによるドラミングを聴くことができる。ドラムといっても快音とはほど遠くがらんどうのような響きがバタバタと連続する。そのスネアロールはタイトルどおりに「マーチング」と解釈するにはあまりにも七曲がりで、むしろデヴィッド・ジャックマン(オルガナム)がかつて鳴らした悪夢のマシンガン・ドローン・ノイズにも似た恐怖と憂鬱を与えてくれる。そして本作の肝となる“ブーツ・オン・ザ・グラウンド”。トレードマークともいえるギターがくぐもったフィールドレコーディングを通り抜け、(イエロー・スワンズ時代の過剰に加工されたものとは違い)はっきりとした輪郭をもってメロディーを紡いでは漆のような闇をうつらうつらと彷徨う。やはりガブリエル・サロマンのギターは格別だ。のっぴきならない虚無感のなか時折仄見えるリリシズムに、いままで世界のはずれでこの音楽に耳を澄ましていたはずが、じつはここが世界の中心であるかのような錯覚に陥る。そんな妙な安堵感を打ち消すように再び現れるあのマーチング。まるでよるべない死が転がり回るような不吉なスネアロール。さらにとどめはパワー・エレクトロニクスよろしく冷たい壁をなす悲愴美あふれるパワー・ギターだ。ああ……もう何もいらない。いや、もとい。この官能はくせになる。もっとほしい。もっとくれ。もっとだ。もっと堕落を!

 CDジャケットの内側にさり気なく記された「Fight War, Not Wars(戦争で戦うな、戦争と戦え)」の文字。もちろんイギリスのアナーコ・パンク・バンド、クラスのファースト・アルバム収録曲から引用されたメッセージである。そしてよくよく考えるとアルバム・タイトルの『ソルジャーズ・レクイエム』はシカゴ・パンクの異端児、ネイキッド・レーガンの曲名から採られたものに違いない。なるほど。タイトルにそのまんま「パンク」をもってきたピート・スワンソンに対し、それとなくパンク心を開示するガブリエル・サロマン。哀調を帯びた憂鬱質な男にしてじつに粋な男である。

interview with Black Knights (John Frusciante) - ele-king

 昨年末に流れたインフォメーションにより、界隈では待望となっていた、ブラック・ナイツの新作――なんと元レッド・ホット・チリ・ペッパーズのギタリスト=ジョン・フルシアンテがプロデューサーとして加わったヒップホップ作品――が日本先行という形でリリースされた。フルシアンテは、いまやその名を聞いて大方の人たちがイメージするような、ファンキーなギター弾き語りアルバムを作っているわけではない。本作国内盤特典となる40000字にも及ぶ超ロング・インタヴューから、事の経緯をかいつまんで紹介してみよう。インタヴュアーを務めているのは、信頼のハシム・バルーチャ氏。このライナーの文字量には、誰もがギョッ! とすることだろう。

彼らが最初に俺の家にレコーディングに来たときにブラック・サバスの『Master Of Reality』を聴かせたんだ。


BLACK KNIGHTS / MEDIEVAL CHAMBER
(Produced by John Frusciante)

RUSH!×AWDR/LR2

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 ウータン・クランの通算5枚目となるスタジオ・アルバム『8 Diagrams』(2007年)に参加したことで、ウー総統=RZAとの関係ができたジョン・フルシアンテ。ふたりが会う機会に必ず同行してきたのが、本作の主役を半分務めたラグド・モンクだったらしい。

 「彼らはコンプトンとロングビーチ出身のグループなんだ。俺がレッド・ホット・チリ・ペッパーズを辞めた頃から、RZAと仲良くなって、よく家に遊びに来るようになった。RZAが来るとき、必ずモンクが同行していた。一緒に音楽を聴いたり、ツルんだりするようになった」(ジョン・フルシアンテ)

 米西海岸コンプトン出身のラグド・モンクとロングビーチ出身のクライシス・ザ・シャープシューターからなる2MCが本作の主役=ブラック・ナイツだ。1995年に結成され、1997年にウータン・クラン・ファミリーとなった彼らは、これまでウー関連の作品には多数参加してきたが、アンダーグラウンドな活動を余儀なくされてきたグループだ。ブラック・ナイツのスタイルは、自身が語るように「ストリートでありながらもリリカル」といったアブストラクトなものでもあり、それはRZA曰く「オマエらのようなウェストコースト・ラッパーを聴いたことがない」ということらしい。

 「もちろん出身がこのエリアだから、ウェストコースト・ミュージックを聴いていたけど、東海岸のラッパーはリリックがディープだったから、東海岸のラッパーもよく聴いていた。東海岸のラッパーのリリックの書き方がすごくクリエイティヴだったんだ」(ラグド・モンク)

 「スヌープ・ドッグ、ドクター・ドレー、アイス・キューブを聴いていたし、ウータン、ナズなど深くて知的なライムをしていた連中も聴いていた」(クライシス)

 90年代中期を席巻した〈ロウカス・レコーズ〉などに代表される「アングラ・ヒップホップ」のムードも想起させるふたりのマイクマナーは、たしかにジョン・フルシアンテが手掛けたトラックとの相性がいいものだ。

 「彼らが最初に俺の家にレコーディングに来たときにブラック・サバスの『Master Of Reality』を聴かせたんだ。このアルバムのサウンドがいいかどうか彼らに尋ねてみた。また、彼らにブラック・サバスのこのアルバムの後の作品はサウンドが明るくなっていったことを説明した。70年代後半、レコーディング業界ではサウンドが明るくなったほうがいいサウンドだと思われ、その考え方は80年代にさらに強くなっていった。トレブルを強調した鮮明なサウンドこそ最高のサウンドだという考え方が当時は主流になっていた。ラモーンズやブラック・サバスは、初期の作品のサウンドが不明瞭でこもったサウンドだった。俺は『Sabbath Bloody Sabbath』よりも、その前にリリースされた『Masters Of
Reality』のほうが優れたサウンドだと思っている。簡単に言えば、彼らに“俺は『Masters of Reality』のサウンドは好きなんだけど、君達はどう?”ということを尋ねた。彼らもそのサウンドが好きだと言ったから、その瞬間に求めていた情報を彼らから聞き出すことができたと思った。つまり、80年代後半のヒップホップ・プロダクションのアプローチで、このアルバムの制作に取り組めるということだった。あと、このアルバムの音質を70年代初期の音質に近づけてもいい、ということだった。70年代初期の作品のサウンドはあまりシャープな高域がなくてこもったサウンドだった。俺はそのこもったサウンドが好きで耳に心地いいと思っている。そういう時代のレコードを聴くと大音量で聴きたくなる。レコードを聴くときにトレブルが強調されすぎると大音量で聴いたときに耳が痛くなる。でもブラック・サバスの『Paranoid』や『Master of Reality』みたいなレコードは爆音で聴いても耳が痛くならないし、小さい音量で聴いても素晴らしい。そういう音質の作品を作りたかった。それがエンジニアリングのコンセプトだった」(ジョン・フルシアンテ)

 ジョン・フルシアンテはブラック・サバスをたとえに、本作のサウンド・コンセプトをブラック・ナイツと練り上げた。これはなかなかユニークな逸話ではないだろうか? 彼らはこのアルバムで、「80年代のルールとガイドラインに基づいたヒップホップを作ることだけを意識した」とも語っている。それは、1987年に初めてSP1200を手にしたセッド・ジーのテンションと、時空を超えて共振しているような興奮をジョン・フルシアンテに与えたとも言える。

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俺は5年前から不協和音がたっぷり入った音楽を作っているけど、それは昔のヒップホップの概念と同じなんだ。

 「80年代からポップスというのは、楽器やヴォーカルのピッチが全部ぴったり合っていないといけないという概念に基づいている。でもヒップホップでは、必ずしもすべての楽器の音のピッチが合っているわけじゃない。ミュージシャンは楽器のチューニングをチューナーでぴったり合わせるけど、いろいろなサンプルを組み合わせて曲を作る場合、それぞれのサンプルのピッチを完璧に合わせることは不可能に近い。楽器の音符でハーモニーを作り出すのではなく、ヒップホップでは色々な音色でハーモニーを作り出すわけなんだ。俺は5年前から、不協和音がたっぷり入った音楽を作っているけど、それは昔のヒップホップの概念と同じなんだ。ギターの音符のピッチを合わせる概念じゃなくて、音色そのものの組み合わせ方からハーモニーを作り出している。ヒップホップを作ることも、俺の音楽を作ることの取り組み方は同じなんだ」(ジョン・フルシアンテ)

 サンプリング・アートの快感をここまで天真爛漫に語れるジョン・フルシアンテに嫉妬すらおぼえる。彼は本作で音楽の可能性を実感し打ち震えている。しかし、それは逆説的に、彼がかつて在籍したレッド・ホット・チリ・ペッパーズが、いかに楽理的なコードに縛られたなかで、新しいサウンドを模索してきたかという、苦しみの証左でもある。ジョン・フルシアンテが麻薬にアディクトしていた絶頂期に作られた、ファースト・ソロ作『Niandra Lades and Usually Just a T-Shirt』(1994年)は、アシッド・フォークの名作として、いまでも扱いがいいアルバムだが、この作品を聴いた大方のリスナーの脳裡によぎったことは、「この人はもうじき死ぬのだろうな」という感慨だったはずだ。そういったリアリズムが先のアルバムには充満していた。だが、その20年後、ジョン・フルシアンテが元気にヒップホップ・アルバムを作っているなんて、誰が想像できただろうか?

 「このアルバムがヒップホップに聴こえるのは、こういう音楽を作るためのテクニカルなスキルを身につけたからなんだ。べつにしょっちゅうヒップホップを聴いて、それを真似しようとしているわけじゃない。
 たとえばデペッシュ・モード、ピーター・ガブリエル、デヴィッド・ボウイのプロダクションに刺激されることのほうが多い。ヒップホップのトラックを作ることは、自然にできるし、とくに努力する必要もないし、過去のヒップホップばかりを研究しているわけじゃない。前にも説明したことがあるけど、ジャングルの作り方を探っていた時期があって、その技術を習得した頃には、ジャングルを作ることに興味がなくなり、ヒップホップを作ることに興味が湧いた。でもジャングルを作るスキルとヒップホップを作るスキルは基本的に同じなんだ。ジャングル・プロデューサーの中には、ヒップホップを作らない人もいるし、作れない人という人もいるけど、それはその人の人間性によるものだと思う。ジャングルとヒップホップを構成する音楽的な要素は基本的に同じだ。サンプルを使って、自分独自の音楽を生み出すアプローチは、ジャングルもヒップホップも同じだ。ヒップホップを作ることは俺にとって自然なんだ。長年ヒップホップを作ることに抵抗してきたんだけど、じつはトラックを作ってほしいと昔からラッパーの仲間に頼まれていた。つねに自分にとって音楽的に興味がある分野を研究して何かを学ぼうとしている。誰かの役に立つために音楽をやっているわけじゃなくて純粋に興味があり、そこから学ぶことがなければ取り組まない。だから、ヒップホップを作ることが俺にとっていちばん自然なスタイルになったのはたまたまなんだ。誰かとコラボレーションをすることや、他人にいいところを見せたり、他人を喜ばせる音楽を作ることよりも、音楽的に自己教育することのほうが俺にとって重要だ。俺とブラック・ナイツの相性が完璧なのは偶然でしかないんだ」(ジョン・フルシアンテ)

 「ジョンのことをトリックフィンガーと呼んでいるんだけど、彼のすごいところは、ビートを一曲の中でどんどん変えていくことなんだ。曲の途中でまったく違うビートに変化するから、曲の中にまた別の曲が入っているような感覚になるんだ。それは俺たちにとってチャレンジになる。曲が途中で変化すると別の世界観が広がる」(ラグド・モンク)

 「俺は個人的に単調なビートの上でラップすることは退屈だから、逆にジョンのトラックの上でラップができて刺激になったよ。音楽的に深みのあるトラックの上でラップしたほうがおもしろいしジョンは究極までそれを表現した」(クライシス)


ブライアン・イーノは“自分の声はデヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーに匹敵しないから歌わなくなった”と以前言っていた。いまはプロデューサーとして彼の見解は理解できる。

 『メディーヴァル・チャンバー』=中世の部屋、と題された本作には、いろいろなタイプのトラックが並んでいる。なかには、シカゴ発祥の変則ダンス・ミュージック=ジュークにインスパイアされたというトラックまであって驚いたが、それは同時に、欧米におけるジュークへの期待値の高さを表してもいる。ヴェネチアン・スネアズと組んだスピード・ディーラー・マムズなどの活動で研鑽を積んだエレクトロニクスへのアプローチも手伝い、ジョン・フルシアンテは本作のコンポーザー/エンジニア/プロデューサーとして、立派にヒップホップ対応を務め上げている。

 「モンクとクライシスのヴォーカルと同じくらいに高度なメロディを俺が作れて、彼らのポリリズムと同じくらいに複雑なリズムを俺が作れるんだったら、自分の曲は作りたいところだけど彼らの声の周波数帯の方が俺よりも幅広い。だから、彼らの声にディレイをかけたり加工したほうが、俺の声でやるより面白い音になる。ブライアン・イーノは“自分の声はデヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーに匹敵しないから歌わなくなった”と以前言っていたけど、それを最初に聞いたとき“ブライアン・イーノの声は素晴らしいのに、なんで歌をやめちゃったんだろう?”と思った。でもいまはプロデューサーとして彼の見解は理解できる」(ジョン・フルシアンテ)

 ジョン・フルシアンテにここまで言わせてしまったブラック・ナイツとのコラボレーションは、当然、本作だけで終わるものではなく、なんと、セカンド・アルバムはすでに完成していて、現在はサード・アルバムの制作が佳境を迎えているとのことだ(!)。

 今年2月には新作ソロ・アルバム『エンクロージャー(Enclosure)』のリリースも控えているというジョン・フルシアンテ。「サンプリングとロック・ミュージックとジャングルと抽象的なエレクトロニック・ミュージックは相反するものではなく、全部をひとつに融合できるということを見せたかった」と語る新作ソロ・アルバムにも、ファンの期待は集まることだろう。しかし、ジャングル・リヴァイヴァルにジョン・フルシアンテが乗っかっていることがほんとに面白い。スーパー・ロック・ギタリストのキャリアの変遷としては、乱調も乱調、かなりユニークな部類に属するものではないだろうか。興味深い話はまだまだ尽きないのだが、このつづきは国内盤特典のロング・インタヴューで楽しんでもらうことにしよう。アメリカとヨーロッパのツアーも予定されているという、ブラック・ナイツ『メディーヴァル・チャンバー』は、お互いのキャリアの中でもきっと重要作になることだろう。RZAのレーベル=〈ソウル・テンプル・レコーズ〉からのリリースも控えているというブラック・ナイツの今後ともども、追いかけて聴いていくといいことがありそうなミュージシャンたちである。

野田努

 たとえコミカルな映画であっても、返り血で床が赤く染まるような、血なまぐさい暴力シーンは誰にでも好まれるわけではない。デビュー当時のエミネムのリリックが顰蹙を買ったように、強姦を面白可笑しく表現することへの拒否反応はあるだろう。しかし4年前、11歳のヒット・ガール(クロエ・グレース・モレッツ)が、ジョーン・ジェットの曲に合わせて、大勢の悪党を片っ端からやっつける場面には突き動かされるものがあった。世間体なんか気にしないというパンク・ソングが流れるなかで、武器を持って襲いかかる大人の男を次から次へと倒していく小さな彼女は、力でねじ伏せようとする世界をひっくり返す象徴としての、いわばスーパーヒーローにおけるパンクだ。その続編である『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』においても、思春期を迎えたヒット・ガールは、あまりにも格好良かった。(以下、ネタバレあります)

 原子炉エネルギー開発会社を所有する資産家のバットマンが格差社会の極貧困層の反乱を鎮圧する『ダークナイト ライジング』と違って、『ジャスティス・フォーエバー』では頭のいかれた鼻持ちならない金持ちが超悪党だ。その彼──クリス(異名マザーファッカー)は、作中において「自分のスーパーパワーとは、クソとしての金持ち(rich as shit)であることだ」と自己認識する。キック・アスとヒット・ガールというふたりのヒーローは孤独なティーンエイジャーだが、悪党クリスもおそらくティーンエイジャーであり、孤独だ。キック・アスはクリスと死闘を繰り広げるが、助けようともする。そう見ていくと、『ジャスティス・フォーエバー』は、無名の市民が世界を救うという政治性を匂わせつつも、表向きにはティーンエイジャーのファンタジーとして作られている。
 15歳のヒット・ガールは学校で同級生の女たちの陰湿なイジメにあうが、これは日本でも日常的な光景だ。ほかにもいちいち風刺が効いていて、台詞のひとつひとつにも無駄がない。現代アメリカ社会のリベラルな知識人が過敏になっている差別表現や卑語を包み隠さず、むしろ図太く使っている。そんなところにも、外面的には礼儀正しい社会へのアイロニカルな感性が読み取れる。暴力描写も、大人を怒らせるためのティーンエイジ・ライオットの一環かもしれない。
 が、単純化できないこの物語には困惑させられもする。たとえば、元悪党の、宗教に目覚めたことで改心し、古くさいGIジョーの格好をしたジム・キャリー演じる大佐、彼の名前はスターズ・アンド・ストライプス、つまり星条旗大佐だ。その彼の睾丸がイヌに食いちぎられる場面は深読みできなくもないが、彼はあくまでキック・アスの味方として登場している。また、典型的な保守的アメリカ人として描かれているのがキック・アスの父親で、キック・アスはそんな父の生き方に反発しながら、親子の愛情は受け入れている。

 思春期を迎えた登場人物たちは、この年頃の若者特有のアイデンティティの悩みを抱えている。こと15歳のヒット・ガールは、義父から若い女性として、もっと学生としての生活をエンジョイするよう、執拗に問い詰められる。そして、実の父によって有能な暗殺者に育てられた彼女から「子供時代」をうばったのはその父だと説き伏せられる。お洒落したり、デートしたりと、彼女自身も一時期は失った子供時代を取り戻そうと努めるが、結局のところ彼女は、子供でいることが必ずしも幸福ではないと、返す刀で世間の常識をはねのける。それが本作を逆説的なファンタジーへと転換させる(友だちを作りなさい、友だちができて良かったね、などという大人の言葉が子供にとってどれほど抑圧的に働くか……)。
 この見事な反旗と重なるように、『ジャスティス・フォーエバー』で最大の見所となっているのが、ヒット・ガールのアクション・シーンだ。明らかに前作以上の見応えがある。考えて欲しい、あれだけ素晴らしかった前作をしのいでいるのだ。ダンスするシーンも、紫色のドゥカティに乗って爆走するシーンも、素晴らしい。彼女が何度もぶん殴られるシーンには目を背けたくなるだろうが、はっきり言えば、躍動するクロエ・グレース・モレッツを見るだけでも、この映画には価値がある。ナウシカにパンクはない。彼女はいまや、虚構ではなく、本物のスーパーヒーローになったと言える。「HIT & RUN(やって、逃げる)」と記されたナンバープレートのバイクに乗って街を去る彼女を見ながら僕は……、いや、もうこの辺で止めておきましょう。

野田 努

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木津 毅

 ナイーヴな文化系男子たちがいかにクロエ・グレース・モレッツが好きか、前作『キック・アス』での少女の登場にヤラれたかはわかった。それはいい。冒頭、防弾チョッキを着てクロエに吹っ飛ばされる主人公デイヴの嬉しそうな表情には「やれやれ」とはまあ思うけれども、それは自分のなかでずいぶん前に解決した問題だ。だから先に書いておくと、たしかに本作のクロエもまた、最高だ。学園ドラマのヒエラルキーの最高ランクに位置する女王蜂とその取り巻き(たぶん、きみのことを10代のときにキモいオタク扱いしたあいつらだよ)を、颯爽とクソ扱いし、将来とアイデンティティに迷うデイヴを(そして、きみを)男として鍛え上げてくれる。

 問題は、「ジャスティス」のほうだ。第一作の時点で、クリストファー・ノーラン『ダークナイト』においてぐずぐずと正義に悩んでしまうバットマンに対するカウンターとして機能していた本シリーズはまたこの2作目で、(バットマンのような)特権階級でもなく、警察のような権力でもない、普通の人びとの正義はもっとシンプルなものであるはずだと主張する。たしかにそうだ……いや、そうなのか? 僕はそこに引っかかる。「市井の人びとの理想主義」を称揚する僕のような人間はむしろ本作を味方しなければならないのではないか、という内なる声も聞こえるがしかし、彼らが作る自警団に賛同しきることができない。
 この映画で敵として設定されるのは、私怨を晴らすために金で暴力を雇う資産家だ。それが現代資本主義社会のカリカチュアであるならば、本作の主張は「正しい」。しかしその正しさはおそらく同時に自分の首を絞める罠にもなり得るだろう。たとえばクロエ演じるヒット・ガールが卒業試験としてキック・アスと戦わせるチンピラたち、彼らにどれほどの「悪」があるのだろう? 資本主義の奴隷だから? そうかもしれない……が、本シリーズは痛快さを追求するあまり、おもにゼロ年代からのアメコミ・ヒーローものが取り組んだ倫理の多様性の問題をやや大雑把に扱っているように感じられてしまう。
 たしかに僕も『ダークナイト』は過大評価されているとは思う。あの薄暗い画面のなかで、自意識を募らせるばかりで身動きが取れないバットマンには苛立ちを感じる……。ただ、もしあの映画に「正義」があったとすれば、観念的な論理を繰り広げるジョーカーに翻弄される「ヒーロー」の下にではなくて、暴力の被害者になりながらあっさりと暴力の誘惑を放棄するフェリーの船長……まさしく「小市民」の下に、であった。だとすれば、本作『ジャスティス・フォーエバー』で自警団の闘いがどうにも小競り合いに見えてしまう僕にとって、ここでの正義は主人公デイヴの父親の下に宿っているように見える。小市民たる父は暴力に屈するばかりなのだが、しかし自分の弱さを隠さない。しかしながらそれは「正義」という言葉よりも、「愛」のほうが近いのかもしれない。

 『キック・アス』が3部作になるとして、僕が次回作に期待したいのはデイヴの成長ではなくてヒット・ガール=ミンディ=クロエ・グレース・モレッツの成長だ。それは本シリーズのコアがまさにクロエそのものであるという事実によってだけでなく、彼女が自分の強さのなかに弱さを見つけたときに、またそれを認めたときにこそ、『キック・アス』における人びとの正義は深みと多様性を持ち始めるのではないかと思うからだ。『バットマン』シリーズへの痛快な苦言としてではなく、ヒット・ガールがただ存在するだけでパワフルなメッセージが放たれる瞬間が見たい。

木津 毅

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Jar Moff - ele-king

 グルーパーことリズ・ハリスとタイニー・ヴァイパーズのジョシー・フォーティノが2012年に結成したユニットはミラーリングと名付けられていた。ミラーリングというのは神経科学でもかなり最近の発見で、大雑把にいえば人間の模倣能力がニューロンに由来し(=ミラーニューロン)、これが会話や学習を可能にするというもの。俗流の解説書などでは人間の社会はミラーリングによって結ばれる無線LANのようなものだと説明されたりもする。言ってみれば「利己的な遺伝子」に対するカウンター概念としてドーキンスが考え出した「ミーム」に生化学的な根拠が与えられたようなものといえ、これが機能していない状態を自閉症と考える仮説も立てられている(興味のある方はマルコ・イアコボーニ著『ミラーニューロンの発見』早川書房など)。彼女たちが「ミラーリング」を名乗るということは、だから、歴史概念や連続性の標榜であり、これに『フォレイン・ボディ(=異物)』というタイトルを与えたことは、ミーム同様、前の時代のアウトサイダーから次の時代のアウトサイダーへの再編=進化概念の更新を意味することになる。当然のことながら、裏表で「淘汰」も想定されていなければならない。

 そのようなマニフェステイションを経て、リズ・ハリスは、2013年後半、さらに2つのコラボレイションを進めている。最初は〈ルーム40〉主宰、ローレンス・イングリッシュとのスロウ・ウォーカーズで、もうひとつが〈ルート・ストレイタ〉主宰、ジ・アルプスなどで知られるジャフレ・キャンツ-レズマとのラウム。スロウ・ウォーカーズは淡々としているというのか、終始一貫、地味にメランコリックなアンビエント・ドローン。ラウム(=スペース)はさまざまに表情が変わり、『取り置きの内容』というタイトルだけあって、曲自体もランダムに転がり出てくるような印象がある。「リズ・ハリスの引き出しの多さ」とでもいえばいいだろうか。とくに後者は『A I A 』のようなソロ・ワークとは違った側面が散見され、西海岸のバリアリック傾向に馴染んでいこうとする姿勢が意欲を感じさせる。美しくも鬱々としたスロウ・ウォーカーズは、その世界観をそのまま写し出すようにジャケットに金の箔押しが使われ、ラウムも折りたたみ式のカヴァーを採用している。いずれもシンプルだけど、粋なデザイン・センスである。

 ティム・ヘッカーやディープ・マジックがリズムを導入したのに対し、リズ・ハリスは文字通りのドローンにこだわり続けている。一見するとミラーリングの進化概念からは取り残されているようだけれど、彼女たちが「異物」を表明していたことに着目すると、それも納得がいく。ショーン・マッカンやティム・ヘッカーが示し合わせたようにスティーヴ・ライヒを取り入れたことは(それこそ無線LANのように)、明らかに商業的なベクトルがドローンに混入しはじめたことを予想させる。イエロー・スワンズやKTLが現在、アンディ・ストットやエンプティセットといったデザインの領域に様変わりしていることを思うと、こういった力はどうしても働いてしまうものなのだろう。そこから意識的に逸れること(=無線LANからの逸脱)が彼女にとってはミラーリングの意義を全うするものなのだろう。次の時代に「異物」を反射させること。それこそ『フォレイン・ボディ』の最後の曲は“ミラー・オブ・アワ・スリープ”と題されていたではないか。「眠りの真似」である。現在の気運にのって、いま、立ち上がってはいけない。スロウ・ウォーカーズのエンディングで“ウェイク”と題された曲は「起きる」と訳すことも可能だけれど、これには「通夜」や「葬儀」といった意味もある。どちらを示唆しているかは曲調を聴けば明らかである。

 以前にも書いたように、マッチョ的なドローンはここ数年でフェミニンな変奏に取って代わられ、あるいは、ダンス・ミュージックへと擬態していった。モードというのはそういうものである。僕はモード化していく瞬間が最も好きで、そのような助走段階を聴き遂げるためにアンダーグラウンドに関心があるといってもいいぐらいである。ところがここに、マッチョ的なドローンが擬態をよしとせず、そのままモード化しようとする例が現れた。ジャー・モフである。紙エレキングの年間ベストでも3位に挙げたジャー・モフが年末ギリギリになって(ギリシャなのに)『財政豊か』と題されたセカンド・アルバムをリリースし、リズムが幅を利かせていた前作から一転、あらゆるものが高速で崩れ落ちていくドローンを構築してきたのである。若き日のノイバウテンがドローンをやればこうなったかもしれない。あるいは、この何年かギリシャで暮らしていれば、このようなカタストロフィーは心象風景として当然、目に見えるようなものといえたのかもしれない。しかし、それを正確に写し取ることができる(=ミラーリングできる)かどうかは才能を選ぶところだろう。『フィナンシアル・グラム』の描写力は凄まじいの一語に尽きる。ダンス・ミュージックに吸収されてしまうかに見えたドローンの行く末がグルーパーとジャー・モフによって、再び、わからないものになってきた。

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Connan Mockasin - ele-king

 わたしはアリエル・ピンクにはそれほど乗れない。乗れないものは乗れないでいいのだが、コナン・モカシンが「ニュージーランド出身のアリエル・ピンク」と呼ばれていることを考えると、じゃあなんでアリエルには乗れないのか。と思ってしまうのだ。
 そもそも、誰も読んでないブログに阿呆のような長文を垂れ流して来たわたしにとってオタクは同士だ。それに「パティ・スミスは大嫌い」というアリエル・ピンクの発言もジョン・ライドンのようである。が、アティテュード的には共感できても、サウンドに乗れない。ということはどうしたってある。

             **********

 思えば、ホラーズやトム・ヨークが絶賛していたコナン・モカシンの前作には、わたしはあまり乗れなかった。ドルフィンがどうのこうのというストーリーもどうでも良かった。
 が、新譜の『キャラメル』は耳の中で溶ける。でもそれがキャラメルのようなスウィートな溶け方なのかというと、それは違う。マーマイトだ。このアルバムのタイトルは『マーマイト』にすべきだった(本人もそれを考えていたと読んだが、信用できる情報かどうかはわからない)。
 マーマイト。というのは、英国に住んだことのある方ならご存知だろう一度嗅いだら忘れ得ぬ激烈なかほりを持つスプレッドである。日本でこれに匹敵する食品と言えば納豆か。だが、納豆はまだ塗り物でないだけ佇まいも美しく、味も淡白だ。一方、マーマイトは臭いソックスの匂い×10みたいな凄まじい匂いがするし、チョコレートでもないのにこんな漆黒のでろでろをどうしてパンに塗るのか。しかも、これがクソ苦い。苦いのに変な旨味のようなものがてんで間違った濃度で凝縮しており、およそ常人の味覚ではエンジョイできないので、英国では「マーマイト」という言葉は、「好きな人は死ぬほど好きだが、嫌いな人は死ぬほど嫌い」の比喩として使用される(んで、怖いことに英国人は幼児にこの食品を進んで与える。ビタミンBが豊富。とか言って)。

 このアルバムは東京のホテルの一室で制作されたらしい。そのせいか、ジャパニーズ・ガールズのCUTEなクスクス声や、「さんきゅー・こなん」などのジャパイングリッシュも録音されており、なんだなんだ、この青年もひょっとすると『ロスト・イン・トランスレーション』の大ファンだったりして、あの感じを再現したくて東京で録音したのか。という疑念も頭をもたげるが、『キャラメル』というタイトルが相応しかったのは寧ろあの映画だ。コナンの新譜は、そんな愛らしいものではない。他者を笑いのネタに使いながら、でも本当は僕が一番笑われたいの。というような変態的苦味が残る。

            **********

 ゲイの同僚に「アリエル・ピンクに乗れないわたしがコナン・モカシンに乗れるのは、何故?」と聞いてみた。
 「コナン・モカシンのがブルーズィーなギターだから?」
 「ああ」
 「それから、あの女性的でヒステリックな声。女の人は共感するかも」
 「いや、もうそれはない。わたし更年期だから」
 「じゃあ世代的に、ドゥルッティ・コラムっぽさ?」
 と言われて、ははーん。と思う。確かに『Caramel』でわたしが一番好きなのは、一部メディアに「訳が分からん」、「不要」と評されている実験的な(アンビエントと言ってもよい)”It’s Your Body “の1から5まで(のギター音)だ。
 「あとさ、そこはかとないプリンス感ね。わりと好きって言ってたっしょ」

 ブルーズィーなドゥルッティ・コラムは、プリンスだから好きなんです。
 と書くとさっぱり訳がわからないし、ドゥルッティが紫のサテンのスーツを着てプリンスをやっているというイメージは、両者を知る中年にとってはシュールである。
 が、コナン・モカシンは平気でそれをやっている。どうりで風味が尋常でない筈だ。まったく昨今の若いもんときたら、怖い者知らずで何でもかんでもぶち込むから異様な味になる。あと、やはり”It’s Your Body “の1から5までのような曲を平気でアルバムに収録して来るところが、そこら辺のサイケ系とは一線を画しているところだと思う。
 (ちなみにわたしはマーマイトが大好きだ。日本に帰省する時ですら一瓶持って帰るほど)

interview with GING NANG BOYZ (Kazunobu Mineta) - ele-king


銀杏BOYZ - 光のなかに立っていてね

〈初回限定仕様〉 Tower 〈通常盤〉 Tower HMV


銀杏BOYZ - BEACH

Tower HMV

 「ヒーローはいつだって君をがっかりさせる。僕は、04年に刊行した拙著に、これまでのロックへの皮肉と、これからのロックへの期待を込めて、そんなタイトルをつけた。アンタイ・ヒーロー。ファッキュー・ヒーロー。キル・ザ・ヒーロー。しかし、峯田和伸という人間と接していて思うのは、どうしたって、ヒーローとしか言いようがない人間がいるということ、銀杏BOYZのライヴを観ていて思うのは、どうしたって、ヒーローにしか救えない人間がいるということだ」。
 以上は、07年の夏から冬にかけて銀杏BOYZに密着取材をした際に書いた文章だ。そしてーー
 音楽が終わって、人生が始まる。僕は、11年に刊行した拙著に、音楽がなければ人生もないなどと嘯くとあるキャッチ・コピーへの皮肉と、人生が続いて行くなかでまたふと鳴り出すだろう新しい音楽への期待を込めて、そんなタイトルをつけた。ノー・ミュージック、バット、ライフ・ゴーズ・オン。しかし、峯田和伸という人間と久しぶりに会って思うのは、どうしたって、音楽に捧げることでしか成り立たない人生があるということ、銀杏BOYZの『光のなかに立っていてね』と『BEACH』を聴いて思うのは、どうしたって、人生を捧げることでしかつくり得ない音楽があるということだ。
 実に9年ぶりのニュー・アルバムをリリースし、いまや、たったひとりのメンバーとなった銀杏BOYZ=峯田和伸に話を訊いた。20000字を越えるロング・インタヴュー、まずは、その前編を。


4人で乾杯をしてない。いつかやりたいね。何歳になってもいいから、4人だけで集まって。そうしたら、オレも飲めないビールを飲むよ。


インタヴューでは、「なんで、アルバムをつくるのに9年もかかったのか?」ってことと、「なんで、メンバーが辞めたのか?」ってことばっかり訊かれてるんじゃないですか?

峯田:うん、そればっかり(笑)。

いや、僕も訊きますけど(笑)。

峯田:メンバーを呼べればよかったんだけどね。メンバーがいれば言えることもあるんだけど。

欠席裁判みたいになっちゃうのが嫌だってことですか?

峯田:そうだね。

アルバムが完成したときは、すでにチンくん(チン中村/ギター)とあびちゃん(安孫子真哉/ベース)はいなかったんですよね。

峯田:いなかった。だから、4人で乾杯をしてない。いつかやりたいね。何歳になってもいいから、4人だけで集まって。そうしたら、オレも飲めないビールを飲むよ。

ははは。じゃあ、アルバムが完成したという達成感はまだ味わっていないと。

峯田:普通、アルバムが出るときのインタヴューって、アーティストは祝福されるじゃん? 「おつかれさま~」って。

それが、責められるわけですよね(笑)。

峯田:そう、こんなのイジメだよ(笑)! 別れた彼女についてさ、「なんで別れたんですか? あんなに可愛かったのに!」って言われても、すいませんって言うしかないよね。キッついよ。それにしても、皆、潔いよな。気づいたら誰もいなかった。……でも、こうやって取材で、いろんなひとと久しぶりに会えるのは楽しい。磯部くんと最後に会ったのは、『裏切りの街』(2010年5月の舞台。作・演出/三浦大輔、音楽/銀杏BOYZ)の楽屋だっけ? あのときも「あと2曲でできる」って言ってたもんね。結局、そこから3年かかったけど。

2007年の8月と11月に、シングルの「あいどんわなだい」と「光」を立てつづけに出して。当時は、アルバムもすぐつくるって言ってたじゃないですか。でも、その後、リリースのペースが遅くなって、ライヴもやらなくなって。端から見ていると、スランプなのかなと思っていたんですけど。

峯田:スランプだったのかもしれない。まぁ、ライヴをやるのを止めたのは、もともとは、アルバムのためだったんだけど。2009年の12月にシングルの「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を出して、そこから、完全にアルバムをつくるっていうモードになって、「じゃあ、ライヴは断ろう」「レコーディングに専念しよう」って。あのときは、すぐ終わると思ってたから。本当は同時進行でできればよかったんだけどね。いま振り返ると、そのせいで悪い方に行ったようなところもあったと思う。

それは、息抜きができなかったということ?

峯田:うん。2011年に東北ツアーをやったんだけど、やっぱり、それがすごいよかったんだよ。ポジティヴになれて。勢いで、“ぽあだむ”って曲は一発で録れたし。まぁ、そのときも、「もうちょっと」って思ってたら、そこからさらに2年かかったんだけど。


端から見てると止まってるように思えただろうけど、うちらは動きまくってたんだよ。ただ、それが、“三百六十五歩のマーチ”みたいな感じっていう(笑)。

僕は2007年の夏から冬にかけて銀杏に密着取材をしていましたが、その時点で、峯田くんは、「次はスタジオ・アルバムとライヴ・アルバムを同時に出す」と言っていて、そこから、基本的に方向性は変わっていないですよね。

峯田:Twitterだったり、ブログだったりで、「僕らはいまこういう状況ですよ」っていうのをリアルタイムで発信できていれば、またお客さんの見方も変わったと思うんだけど……やっぱり、まず、チンくんの調子が悪くなって、次にあびちゃんも……そういう状況はなかなか伝えられるもんじゃなかった。だから、端から見てると止まってるように思えただろうけど、うちらは動きまくってたんだよ。ただ、それが、“三百六十五歩のマーチ”みたいな感じっていう(笑)。

まず、同級生だったマネージャーが辞めて。次にチンくんとあびちゃんが辞めそうって話もなんとなく聞いていましたし、漏れ伝わってくる情報がネガティヴなものばっかりだったから、心配だったんですよね。

峯田:スタッフはきつかったと思うよ。レコード会社からは「いつ出るんだ」ってせっつかれて。でも、オレらがやってるところは見てるわけだから。

それまで銀杏は……峯田くんのブログだったり、単行本『GING NANG SHOCK!』だったり、ドキュメンタリーDVD『僕たちは世界を変えることができない』だったり……自分たちの内情を洗いざらいみせて、それを物語にしていくというやり方をしていたじゃないですか。この数年の間に、たとえば、twitterやUstreamのような即時性のあるメディアがどんどん出てきたわけですけど、そういったものを使おうとは思わなかった?

峯田:そういう、ここ数年のネットのスピード感はすごいなと思っていたし、乗っかろうかなとも思った。個人的にも、パソコンは持ってないけど、スマートフォンでいろいろチェックしてるしね。でも、他のひとたちのやり方を見たときに、ちょっと、つまんなさみたいなものも感じたんだ。もったいないっていうか。あと、アルバムをつくっている間の銀杏の内部のごたごたっていうのは、これまでとは異質で、それはどうしても伝えられなかった。やっぱり、伝えるとしたら、全部、伝えたいから。何かを濁して良いところばかりを発信するのは美学に反するっていうか。だから、アフガニスタンの地下組織じゃないけど、ひと知れず鍛錬して、機が熟したら外へバッ! と出た方が効果的なんじゃないかと思ったの。

先程は、「そのせいで悪い方に行ったようなところもあったと思う」とも言っていましたが。

峯田:いや、自分では、そのジャッジが正しかったかどうかはいまでもわからない。でも、ライヴをやらなかったからこそ、4人で閉じこもっていたからこそ、アルバムに異様な雰囲気がパッケージできたのかなとも思う。

ただ、銀杏は以前から、あえて、自分たちを共依存関係に陥らせることでバンド・サウンドに狂気を宿すというような人体実験みたいなことをしていましたよね。今回は、アルバム・リリース以外のアウトプットをなくすことで、さらに、密度を濃くしようと思った?

峯田:うん。4人だけで結界をつくって、風通しを悪くして、そこから生まれてくるものが、正しいか間違ってるかは措いといて……その澱みこそが、意図的に出そうとしなくても出てしまうものとして武器になるんじゃないかなって思ったんだ。


4人で閉じこもっていたからこそ、アルバムに異様な雰囲気がパッケージできたのかなとも思う。

僕個人としては、最近、生活と活動を両立させるタイプのバンドというか、お店をやっていたり、地元に根づいていたり、そういったライフ・スタイルを音楽に還元するようなバンドに興味を持っていたんですよ。ただ、銀杏はそれとは真逆だなって。完全に生活が活動の犠牲になっているでしょう?

峯田:ははは! ロマンだよ! オレたちにあるのはロマンだけ!

ロマン主義だ(笑)。

峯田:白樺派(笑)。たぶん、オレにはロマンっていうものが重要で……いま、若い人が音楽に対して、ロック・バンドに対してどういったものを求めているのか。古臭い考えなのかもしれないけど、オレ、たとえば中学生にアンケートを取って、「将来なりたい職業は?」って質問の1位が公務員になって欲しくないのね。自分はサッカー選手とかロック歌手に憧れがあって、世の中もそうであってほしい。もちろん、こういう時代だとどうしても安定を求めてしまうとは思うんだけど、だからこそ、オレたちを、中学生が見ときに、「あー、キツそうだな」とか「貧乏臭いな」とか感じさせるようなものにはなりたくなくて。「オレでもやれそう」とか「ひと稼ぎできそう」とか感じさせるようなものでありたい。

サッカー選手はいまだに人気だと思うんですけど、1位にロック歌手は来ないでしょうね。ラッパーも稼げないような国じゃ。でも、銀杏はキッズに夢を見せたいからこそ、生活を捨てると。

峯田:そういう奴らが1組ぐらいいてもいいじゃない。

古臭い考えなのかもしれないけど、オレ、たとえば中学生にアンケートを取って、「将来なりたい職業は?」って質問の1位が公務員になって欲しくないのね。自分はサッカー選手とかロック歌手に憧れがあって、世の中もそうであってほしい。

それって、4人の中でコンセンサスは取れていたんですか?

峯田:うん、「やりきろう」って話はしてた。でも、オレ以外の3人は結婚してるからね。しかも、チンくんとあびちゃんには子どももいるし、そういう意味で、オレに見せてないところで戦ってるんだなっていうのは感じてた。オレの前では、遊んでるときも、仕事中も、いっさい、家の話はしなかったしね。オレ、あいつらの結婚式すら出てないし、チンくんとあびちゃんの子どもの顔もほとんど見たことないんだよ。あびちゃんは、一回だけ写真見せてくれたか。すげー、申し訳なさそうに。「へー、可愛くないね」って返したけど(笑)。やっぱり、彼らはロマンと現実との間で戦ってたのよ。オレはロマンだけで行けたけど。独り身だし。ただ、それでも、どうしようもなく、現実ってのは襲ってきてさ。貯金が少なくなってきたとか、家賃の振り込みが迫ってるとか、親から「あんた、どうすんの? 本当はアルバムなんて出ないんでしょう?」って電話がかかってきたりとか。最近、雑誌にインタヴューが載りはじめて、親もようやく安心したみたい。

でも、それこそ、アルバムの制作のみに時間を費やすなんて、いまの若いバンドにはできないですよ。GOING STEADYの頃はまだCDが売れていたおかげっていうか。

峯田:いや、贅沢なことだと思います。本当に。


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たとえばフライング・ロータスがよかったからそういうものをやろうとしたって、無理じゃんそんなの。でも、その作品の匂いを覚えておいて、それを銀杏の結界の中で放ったら面白いかなって思ったの。

さて、新作の内容について訊こうと思うんですが、『光のなかに立っていてね』の特徴は「ノイズ」と「打ち込み」だと思うんです。こうしたベクトルに向かっていったのはいつ頃からなんでしょうか?

峯田:まず、打ち込みに関して言うと、ライヴをやっていくなかで、いつからか、限界を感じはじめたというのもあったかもしれない。GOING STEADYの時代からずっと、肉体的に戦うことこそがライヴだと捉えていたんですよ。集まってきてくれたひとたちを、わーっと踊らせるのではなくて、何かに対して足掻いている姿を見せる場所。いま思うと、その空間はバンド・メンバーもお客さんもぐちゃぐちゃになった異常なものだったと思う。でも、そればっかりをやりつづけていると、身体がぶっ壊れたりだとか、喉を潰したりだとか、現実的な問題が出てきて。だから、どこかで、オレは肉体的なところだけではやっていけないと思った。いちばん理想なのはバンドを続けることであって、そのために、これまで10割肉体的なところでやってきたのを何割か……2割でも3割でもいいんだけど、非肉体的なところをスポイトで入れてあげないと、多分、もう、バンドはもたないなって考えたの。それが、2008年ぐらいかな。

では、省エネといったら響きが悪いですけど、バンドの今後のことを考えた上での打ち込みの導入、という側面もあったんですかね?

峯田:ただ、それも、付け焼き刃ではだめで。デジタルを1回、自分たちの肉体に取り込んで、吐き出さないといけなくて。そのためには、1週間ではできなくて、どうしても時間がかかってしまったということなのかな。

肉体性から離れるための打ち込みとは言え、打ち込みを肉体化するのにはそれなりの時間が必要だったと。打ち込みのドラムに関してはあびちゃんと村井(守/ドラム)くんが担当したと聞きましたが。

峯田:そう、リズム・トラックはふたりで。ウワモノはチンくんとオレ。基本的には、あびちゃんとチンくんが主導で、村井くんも意見を言って、最終的にはオレがジャッジ。「これは面白くない」とか「ここはもうちょっとこうしよう」とか。

そこは、マニピュレーターは入れずに自分たちでやろうと?

峯田:やっぱり、結界の中から生まれるものが大事だから(笑)。

結界の中に他人を入れたくないから、自分たちで打ち込まないといけないんだ(笑)。

峯田:打ち込みの音楽も好きだよ。とは言え、たとえばフライング・ロータスがよかったからそういうものをやろうとしたって、無理じゃんそんなの。でも、フライング・ロータスの音を再現するんじゃなくて、その作品の匂いを覚えておいて、それを銀杏の結界の中で放ったら面白いかなって思ったの。

ただ、いちから勉強するところからはじめたわけですよね? 全然、省エネになってない(笑)。

峯田:だから、そっちの畑の人には絶対に勝てないんだよね。でも、うちらだけにしかできないこともあるはずで、本気になれば面白いものになるんじゃないかっていう確信も持っていた。たとえば、(“あいどんわないだい”の新しいヴァージョンの)“I DON’T WANNA DIE FOREVER”もあまりテクノの方には行かないで、もうちょっと、ゲーセンの音みたいな感じを取り入れられないかなって。あと、パチンコ屋の音とか。阿佐ヶ谷のパチンコ屋が、また、すげーうるさいんだよ!

“I DON’T WANNA~”はガバみたいだと思ったんですけど、あの強烈なハイと、煽動的なリズムはパチンコ屋なんだ(笑)。

音楽ではなくて、生活の中にあるノイズがあてになっていて。震災のときはさすがにテレビを観ていたんだけど、(中略)その後ろで鳴っている、ゴーーーっていう地鳴りの音。津波に街が飲まれていく音。それが、どんなレコードよりも、どんなCDよりも強烈で。

峯田:オレ、全然、パチンコやんないの。でも、レコーディングの追い込みのときは他の音楽を聴きたくないからテレビもつけられなくて。あと、飯を食おうと思って店に入ってもジャズとか流れてるでしょ? あれすら気になって外に出たりしてたの。そうすると、どんどん、ストレスが溜まってきて。そんなときに、気晴らしにパチンコ屋に行くと、バーッて洗い流してくれるんだよ。

ノイズで頭が空っぽになる。

峯田:そうそう。あれがいいの。だから、金は2千円ぐらいしか使ってない。音を浴びに行くの。

じゃあ、前の2枚……『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』と『DOOR』は、“トラッシュ”の歌詞に象徴されるように、たくさんの音楽からインスパイアされていたと思うんですけど、今回のレコーディングの間は、他人のレコードを聴いていなかった?

峯田:うん。音楽ではなくて、生活の中にあるノイズがあてになっていて。震災のときはさすがにテレビを観ていたんだけど、何よりもショックだったのは、一般のひとが携帯とかで撮った映像も流れてたでしょう?

あまりにも生々しくて、その後は流れていないようなものも多いですよね。

峯田:そうそう。その後ろで鳴っている、ゴーーーっていう地鳴りの音。津波に街が飲まれていく音。それが、どんなレコードよりも、どんなCDよりも強烈で。テレビを消しても、目を瞑っても、あの音から逃れられなくて。ただ、音楽をやっているオレからすると、どうしても、「あの音の原理は?」とか考えちゃうんだよね。ノイズを取り入れたのはそういうこともあったのかな。

じゃあ、パチンコっていう通俗的なものだったりとか、地震っていう自然のものだったりとか、音楽以外のものが音楽を超えちゃっている状況があって、銀杏なりにそれに対峙するというか、それを越えるものをつくろうと考えたからこそノイズを取り入れたのだと。

峯田:かといって、アヴァンギャルドなものにはしたくなくて、ロックの定義が若い人に影響を与えることだとすれば、エンターテイメントのど真ん中に、自分がショックを受けたあの音をぶつけないと意味がないとも思った。

個人的には、『光のなかに~』を初めて聴いたとき、銀杏BOYZとSTRUGGLE FOR PRIDEっていう、自分が2000年代半ばに衝撃を受けた2つのバンドが融合したように思えて、びっくりしましたけどね。

峯田:チンくんは、NERVESKADEとか、ノイズ・コアのライヴに行って、最前列でエフェクターのセッティングを見てたみたいよ。でも、オレは、そういったギター・ノイズをあまり聴かないようにしてた。オレまでハマると真似になっちゃいそうだから、あえて距離を取ってたの。

ロックの定義が若い人に影響を与えることだとすれば、エンターテイメントのど真ん中に、自分がショックを受けたあの音をぶつけないと意味がないとも思った。

峯田くんがブログを熱心にやっていたときは、いつも、最後に「おやすみBGM」という項目があって、それを読めばいまどんな音楽に興味があるのかわかったけど、最近はそれすらも書かなくなっていたから、何を聴いているんだろうって気になっていたんですよね。

峯田:レコーディングの悪影響にならないために聴かないようにはしてたけど、でも、勝手に入ってくるものは避けられないよね。パソコンをつければYotubeの関連動画に目が行って、ふと観てみたりさ。「へー、最近、こういうのが流行ってるんだ」って。あと、たまにテレビをつけると、CMで流れてきたり。クリープハイプとか、「あー、いい歌だな」って思ったよ。ただ、自分たちの結界の中には持ち込まないようにしてた。

フライング・ロータスの匂いの話にしても、結界の外と中の違いに関してはかなり意識的だったんですね。

峯田:まぁ、音楽は聴きたいって意志がなくても、勝手に入ってくるものじゃん? だから、そこまでしても聴こえてくるものはすごいなぁと思ってた。

ノイズって情報量がゼロでもありマックスでもあるから、情報量が多かった前の2枚を振り切ってそっちに行くのはよくわかるんですよ。ただ、『光のなかに~』に他の音楽からの影響が感じられないかというとそうではなくて、さらに、新しい要素も入ってきてますよね。たとえば、“愛してるってゆってよね”はラップじゃないですか。

峯田:あれは、もともと、〈ザンジバルナイト〉(リリー・フランキー主催のイヴェント)にソロで出た際に、数曲、ギターの弾き語りで歌って、最後にカラオケを流して歌うために、カオシレーターでつくったんだよね。そのときは面白半分でやってたんだけど、メンバーが気に入って、もうちょっと格好よくしてアルバムにも入れようってことになったの。

ここ数年は、Eccyだったり、オロカモノポテチだったり、広義のクラブ・ミュージックのアーティストたちとも共作していましたけど、彼らをゲストに入れるつもりはなかった?

峯田:うん。ノウハウはいろいろと教えてもらったけど、今回は、やっぱり、自分たちだけでやろうって。

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やっぱり、自分のいまの気持ちに正直な音楽じゃないと、恥ずかしいんだよね。世の中だとか、お客さんだとか、これから巻き込んでいこうって人たちに示しがつかないし。

『君と僕~』と『DOOR』は、GOING STEADYの後期からの延長って感じもあるじゃないですか。実際、同じ楽曲も再演しているし。あるいは、解散と結成の熱気のなかでつくられた感じもあると思うんですけど、今回のレコーディングに関しては、やはり、勢いではつくれなかったのでは?

峯田:そうだね。前は音楽ってものをまったく考えていなかったかもしれない。だから、今回は初めてアルバムをつくるような感じだったの。それも、やっぱり、あぐらをかいてはいられなくて。いろんな音楽が溢れかえってるなかで、新しいことをやってやろうっていうことではないんだけど、少なくとも新しい腹づもりで、いままでの銀杏BOYZを否定するものでもいいから、何かを切り開いてやろう! って。そういうことにならないと、つくる意味がないなっていう気はあったんですよ。……オレ、10何年前とかだけど、GOING STEADYの頃は敵ばっかりだと思ってたの。ハードコアやメロコアの連中からしたら、「何、日本語でやってんだよ」みたいに思われてただろうし、だから「面白くねぇや」って打ち上げには出なかった。それが、最近になって、若いひとが、「聴いてました」とか「影響を受けてこういうバンドをやってます」とか言ってくれて。何かが変わってきてて。あのときのオレらを「お前らはよくやってるよ」って褒めてあげたい(笑)。

だって、いま、20代半ばから後半のバンドの子たちに話を訊くと、ゴイステと銀杏の存在って本当に大きいですもんね。

峯田:どついたるねんとかね。彼らはまだ高校生ぐらいの頃、よくライヴに来てくれてて、当時から客として面白かったの。「こういうやつらがバンドやったら最高なんだけどな」と思ってたら、まんまと楽器持っちゃってさ。良かったなぁって。あと、大森靖子ね。あのひとは、2年ぐらい、毎日、オレにメールをくれてたんだよ!

ああ、メールアドレスを公開したときがありましたよね。

峯田:そうそう、15人、毎日、メールを送ってくるやつがいて、そのなかのひとりだったの。だんだんと減っていったけど、まだ4人ぐらいいる(笑)。大森さんは、いつも、今日はこんなことがあってみたいなやつを40行ぐらい送ってきてくれてて、やっぱり、「あ~、こういうひとが音楽やんねーかな」と思ってたんだ。だけど、いつ頃からかメールが来なくなった。それで、ふと、雑誌を見たら、“大森靖子”って書いてあって、「あれっ、あいつじゃねえよな?」って写真を見たら「やっぱり、あいつだ!」って。自撮りの写真も送ってきてたから顔を覚えてたの(笑)。

他にもそういうひとがたくさんいるんでしょうね。

峯田:まさか、オレが誰かに影響を与えるんだなんて考えもしなかったよ。どうせ嫌われて終わるんだよ、こんなバンドって思ってたし。でも、自分より歳下のひとが頑張ってるのを見ると、素直に嬉しいし、自分も頑張んなきゃと思うよね。

それに、リスナーは上下関係なんて気にしないですからね。フォロワーの方が格好いいと思う場合もある。

峯田:だから、さっきも言ったようにあぐらをかいてられないのよ。ちゃんと、音楽ですごいものをつくらないと、やってる意味なんてないよね。

そういう意味でいうと、『光のなかに~』は「大人になるということ」をテーマにしたアルバムだと思いました。

峯田:“グローイング・アップ”だ。

まぁ、峯田くんも36歳なんだから当たり前ですけど(笑)。ただ、前の2枚は意識的に幼児退行ならぬ童貞退行しているようなところもあったと思うんで、なおさら、今作における成長ぶりが印象的でした。

峯田:やっぱり、自分のいまの気持ちに正直な音楽じゃないと、恥ずかしいんだよね。世の中だとか、お客さんだとか、これから巻き込んでいこうって人たちに示しがつかないし、ましてや、あのノリで止まっていても面白くないから。


ここから抜ければ、きっと、オレはすごい楽になるって感覚が当時はあったんだけど、じつは抜けても楽じゃないっていうさ、そっちの痛みの方がキツいような気がして。

今回の取材にあたって、前の2枚を聴き返していて思ったんですけど、どうして、あのアルバムは学校をテーマにしていたり、中高生が主人公の楽曲が多いんですかね? あの時点で既に20代半ばだったのに。

峯田:そうだよね。“SKOOL KILL”とか、『BEACH』にも入っているけど。

ただ、『光のなかに~』では、人生を積み重ねていくことの苦しみが歌われていますよね。それについて話をする前に、初期の銀杏における「学校」が何のメタファーだったのか訊いておきたいんです。

峯田:たぶん、「枠」ですよね。誰もが枠の中で生活していて、社会人なら会社っていう枠でもいいんだけど、学校ってわかりやすくシンボリックな存在だから使ったんじゃないかな。でも、当時はそれが有効だったのが、いまはインターネットがより身近になって、「枠」っていうテーマがあまり意味がないものになってきたことで、オレの中から「学校」っていうキーワードもなくなってきたような気がする。

それは面白いですね。たとえば、スクールカーストももちろん息苦しいと思うんですけど、実際の社会にはそれとはまったく別種のしんどさもありますよね。

峯田:ここから抜ければ、きっと、オレはすごい楽になるって感覚が当時はあったんだけど、じつは抜けても楽じゃないっていうさ、そっちの痛みの方がキツいような気がして。恋愛もそうなんだよね。彼女がいなくて、童貞で、クリスマスもひとりだっていう孤独と、彼女もいるのに、子どももいるのに、愛人もいるのに、孤独。どっちがキツいかな? オレは後者の方がキツい気がする。そういうアルバムなのかな、今回のやつは。

その話を聞いて思い出したんですが、ゴイステの“童貞ソー・ヤング”っていう青春パンクや童貞ブームを代表するような楽曲がありますよね。あれは、「一発 やるまで死ねるか!!!」って歌詞に耳を引かれがちですけど、実はその後の「一発 やったら死ねるか!!? 一発 やったら終わりか!!?」の方が重要だと思うんですよ。あの時点で、暗に、大人になったからといって幸せになれるわけじゃないんだぞ、むしろ、それからの方が苦しいんだぞっていうことが歌われていた。そして、『光のなかに~』はまさにそれを突き詰めたアルバムなんじゃないかと。

峯田:そうだね。いまの若いひとは、「学校さえ出れば、童貞さえ捨てれば楽になる」なんていう甘いことは考えていないだろうなっていうか、むしろ、「大人の方が辛そうだな」って思ってるだろうけど。そういう意味では、オレらが10代、20代の頃に比べて希望のようなものを持ちにくくなっているのかもしれないね。でも、最初に言ったように、こんな時代にも「ロマン」はたしかにあって。オレはそれを意地でもいいから見せたいんだよね。現実を見せるんじゃなくて。クソ面白くない生活のなかで、最低な彼女がいて、妹はメンヘラで……そこに音楽はあって欲しくないの。鳴った瞬間に、「はじまるんだ!」っていうものであってほしいの。

えっ、『光のなかに~』はそういう現実を突きつけるアルバムだと思いますけど。

峯田:わはは! ただ、オレは日常と非日常のどちらでもなく、そこの合間に一瞬だけ見えるような、スーパー・フィクションみたいなものをつくりたいんだよ。今回、それが成功しているかどうかは別としてね。


いまの若いひとは、「学校さえ出れば、童貞さえ捨てれば楽になる」なんていう甘いことは考えていないだろうなっていうか、むしろ、「大人の方が辛そうだな」って思ってるだろうけど。(中略)でも、こんな時代にも「ロマン」はたしかにあって。オレはそれを意地でもいいから見せたいんだよね。

なるほどね。たとえるならば、実生活でもなく、ネットでもないものがロマンだと。そう考えると、いまってたしかにロマンが持ちにくい時代っていうか。

峯田:アホだって言われるよね、そんなの持ってたら。

僕は、学校とか会社とかが辛くて、twitterとかネットの繋がりに救われるみたいなことが悪いとは思わないんですよ。辛いことはなるべく発散できた方がいい。ただ、峯田くんはそこで死にそうになってでも、ロマンを追いかけたい?

峯田:オレは、10年前と比べてネットが普及して、捌け口が増えたっていうかもしれないけど、ネットにすら捌け口が見つからないひとっていっぱいいると思うんだよ。そういうやつにとってみれば、現実もダメだ、ネットもダメだ、「じゃあ、オレはどこに行ったらいいんだよ?」みたいなさ。でも、そういうやつって面白い音楽をやりそうな気がするの。そういうやつらがロマンを持てるようなものをオレはつくりたいのかな。

まだまだ、ロックはキャッチャー・イン・ザ・ライとして機能すると。

峯田:うん、オレはそう思っているけどね。

(後編へつづく)


Christina Kubisch & Eckehard Guther - ele-king

 ベルリン出身のベテラン・サウンド・アーティスト、クリスティーナ・クビッシュは、その長い活動歴において、「環境音のリ・コンポジション」を、いかにして音響として定着させるかを思索・実験・実践してきた作家といえよう。彼女は「鑑賞者が専用のヘッドフォンで街を歩き、様々な場所で鳴らされている電子音に耳を澄ます」というサウンド・アート作品などを制作してきたのだが、それもまた聴き手による「都市環境音の再生成」という思索が込められているように思える。録音作品としても街の環境音録音に自作シンセサイザーの音を重ねたカセット作品『On Air』(1984)などを発表。さらに近年では18世紀の楽器グラスハーモニカを用いたドローン作品『ARMONICA』(2005)や、〈raster-noton〉的な電子音響作品『Dichte Wolken』(2011)を発表するなど勢力的な活動を継続中である。

 そして本作『Mosaique Mosaic』はクリスティーナ・クビッシュ、2013年発表のフィールド・レコーディング作品だ。2010年12月にクビッシュがインスタレーションを制作するためにカメルーン滞在時に録音された様々なフィールド・レコーディング音に、ワークショップの音風景を録音したサウンドを加え、それらに絶妙なエディットを施すことで一枚のアルバムとして音盤化したものである。この作品もまた、「環境音のリ・コンポジション」を実践したアルバムに思われる。リリースは〈グルーンレコーダー〉。優れたフィールド・レコーディング作品をリリースし、マニアに評判のレーベルだ。

 本盤に定着された音は、カメルーンの空気や響きを真空パックしたような実に見事なものである。アーティスト・クレジットが録音技師エックハルト・ギュンター(様々なサウンド・アートの録音やエンジニアリングにも参加)と連名になっているのも頷けるというものだ。何故ならば録音とは「世界の音を録音する=切り取る=操作する」という意味では、演奏でもあり作曲でもあるのだから。この音の質感も、まさに一種の作曲/コンポジションといえよう。

 盤を再生すると、まず耳に飛び込んでくるのは人の叫び声だ(教会でのコール&レスポンス?)。そこから街角で流れる現地のポップ・ミュージック、上手くはないが土地の空気を見事に表しているストリート・ミュージック、雑踏、虫の音や自然の音など、カメルーンの街や土地に満ちていた音環境が見事に捉えられていくのだ。

 さらに注意深く聴き進めていこう。するとある奇妙な、まるで音記号の陥没点のような瞬間が訪れる。意味がひき剥がされ、音の物質的な響きが露わにされる瞬間。虫の鳴き声がまるで電子音響のドローンのように響く/聴こえるとでもいおうか。それもまたフィールド・レコーディング聴取の魅力である。遠く離れたカメルーンの土地で鳴っていた音響が録音として切り取られた瞬間、それらが元の音の意味から逸脱し、誰もが聴いたことのない「新しい音楽」として生まれ出る瞬間を、私やあなたの「耳」(この環境や記憶や体調によってすべてが変わってしまう曖昧なもの!)が聴きとることができるのだから。そこに、かつて、「あった」はずの、音が新たに再生され、生成し、変容していくという驚き。

 本作において、クリスティーナ・クビッシュはそんなフィールド・レコーディング作品が持つ驚きを見事に作品化している。だが、同時に、彼女は、あるメッセージを細やかで大胆な編集によって、作品に紛れ込ませている。それは何か。本作を聴いていると、乾いたカメルーンの街角の雑踏、声、ストリートや教会の音楽は、互いに互いを呼び掛けていく、大きな音の連鎖のように聴こえてくる。もしかするとクリスティーナ・クビッシュは、そこに人と人、人と音、音と世界の、大らかで自由なコール&レスポンスを聴き取ったのかも知れない。だからこそ、あれほどに現地の音楽(演奏)や人の大きな声でのやり取り、教会のコール&レスポンスなどを取り入れているのではないか。

 フィールド・レコーディングと編集による土地と音と世界のコール&レスポンスの浮上と生成。そこにクビッシュが込めた大切なメッセージがあるように思える。私たちは呼びかけ、世界は応える。世界が私たちに呼びかけ、私たちが答える。それは言葉の会話ではなく、音による応答。クリスティーナ・クビッシュは、そんなフィールド・レコーディングによる「アワーミュージック」を浮かび上がらせたかったのではないか、と……。

 ともあれ、ことさらに空想めいた結論を急いでも仕方ない(同時に音は人にインスピレーションを与えるものだからどんな想像でも間違っているとは思えないが)。音楽は音の悦びだ。まずは本盤の見事な録音と編集を存分に味わおう。ここにあるのは音の編集よる記憶と記録と逸脱の定着と共有だ。この「私たちの音楽」は、聴くほどに世界と音との関係が生まれ直すような感覚を味わうことができる。だからこそ私はこれからも何度も何度も何度も(当然、これを書いているいまも)、この遠く離れたカメルーンの環境音を定着した銀盤を聴き返すだろう。アルバム全13トラック。映画のシークエンスのように繋がるこれらの音響に耳を澄まそう。自分と音と世界、その三つの関係性を調律するように。そして、問い直すように。

interview with Kingdom - ele-king


Kingdom
Vertical XL

Fade to Mind

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Bass Music


Kelela
Cut 4 Me

Fade To Mind

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R&BBass Music

 2013年も更けるころ、〈ナイト・スラッグス〉(Night Slugs)からエジプトリックスの新譜『A/B・ティル・インフィニティー』が出たけれど、これがなんともダークで重苦しい。“わが人生はヴィヴィッド、わが目は開かれている”なんて曲名もあるけど、いやいや、そんな。インダストリアル・ブームの一例でしょう。派手に花開いた妹レーベル〈フェイド・トゥ・マインド〉(Fade to Mind)とは対照的に、〈ナイト・スラッグス〉は暗闇のなかへ潜もうとしているのだろうか。ロゴも「深夜」バージョンに変わったし。

 海外の音楽メディア各誌の年間ベスト・トラックに“バンク・ヘッド”(Bank Head)が選出されたことは、なにも驚くことではなかった。朝焼けのように拡がっていくシンセにシンプルなクラップが響くサビ、そこからベースにのってケレラのファルセットが舞う瞬間を聴けば、まさに諸手を挙げてそう言いたくなるに決まっている。身体が、ゆっくり宙に浮くように、無理なくダンスへ誘導される、あの昂揚感。そのトラックを仕込んだのがキングダムだ。
 〈フェイド・トゥ・マインド〉をプリンス・ウィリアムと共同経営しているキングダムに訊いたのは、彼のルーツ。〈ナイト・スラッグス〉との出会い。レーベルの始まり。ケレラ(Kelela)をふくめ、彼が愛してやまないR&Bのこと。ファッションと音楽。グラフィティ。そして、これからのこと。

 おっと、昨年末に出た紙版エレキング最新号は見ていただけましたか? エレキングのためにリエディットしてもらった〈フェイド・トゥ・マインド〉のグラフィック特集が綺麗なカラーで8Pも掲載されているのでぜひ買ってみてください。
 そして、全5色もある〈フェイド・トゥ・マインド〉スナップバック・キャップの一番ベーシックでかっこいい黒色も〈Anywhere Store〉で販売中なのでぜひ買って被って街を歩いてください。

田舎だったからレイヴなんて夢のような話だったよ。高校に入る頃には、ジャングルのような当時流行ってた電子音楽にすごく入れ込んではいたけど、レイヴへのアクセスの仕方を知らなかった。部屋でブラックライトを点けて、友だちを呼んで音楽を聴くことはあったけどね。だからベッドルーム・レイヴァーだったとは言えるかな。

では、最初に訊かせてください。「Where Were U in '92?」

キングダム:ははは(笑)。そのときは10歳だったから小学4年生だったのかな。僕はマサチューセッツ州のなかでも本当にマサチューセッツなところで育ったんだ。文字通り森のなかでさ。毎日小学校に行くために森を抜けて行かなくちゃいけなかった。当時はたしか、ア・トライブ・コールド・クエストだったり、マドンナみたいなユーロダンスものとか、クリスタル・ウォーターズやC&Cミュージックファクトリーのような、風変わりな90年代のダンスミュージックを聴いてたよ。それに僕はとても野蛮な子供だった。両足に違う色の靴下を履いたり、すごくクレイジーな格好をしていたよ。それが1992年の僕だね。まだベイビーだった頃の話(笑)。

ベイビーの頃からスタイリングに意識があったんですね。もしかしてレイヴに行っていましたか?

キングダム:いいや。僕が育った場所はすごく田舎だったからレイヴなんて夢のような話だったよ。90年代後半になって高校に入る頃には、ジャングルのような当時流行ってた電子音楽にすごく入れ込んではいたけど、レイヴへのアクセスの仕方を知らなかったしどこへ行ったら参加出来るのかもさっぱりだった。ボストンにはいくつかシーンが存在していたみたいだけど、もちろん18歳か21歳以上じゃないと入れないようなパーティだし、僕の街でジャングルを聴いてる人なんて他に誰も知らなかったから一緒に行く人もいなかった。部屋でブラックライトを点けて、友だちを呼んで音楽を聴くことはあったけどね。だからベッドルーム・レイヴァーだったとは言えるかな。
 18歳になってアートスクールに通う為にニューヨークに出てくるまで、クラブ自体行ったこともなかったんだ。それに2000年頃にはニューヨークのレイヴカルチャーの勢いは既にだいぶ落ち着いていた。有名なマイケル・アリグの事件(レイヴァーの若者によるドラッグが原因の殺人事件)が起きた直後だったこともあってニューヨークの多くのクラブが閉鎖されてしまった時期だったから。だからニューヨークでレイヴイベントに行くには時期的にも少し遅すぎた。

〈フェイド・トゥ・マインド〉の姉にあたる〈ナイト・スラッグス〉の本拠地はイギリスですが、住んだことはありますか? 

キングダム:イギリスに住んだことはないけど、何回も赴いているね。僕は音楽をずっとやってるけど、パーソンズ美術大学に通っていたこともあって、元々はアーティストになることが目標だったんだ。当時ニューヨークのギャラリーで働いていたんだけど、そのギャラリーが『フリーズアートフェア』(Frieze Art Fair ロンドンで毎年10月に開かれる国際的な美術展)に出品したときにブースに立って作品を売る仕事を任された。そんなに得意な仕事ではなかったけどね。それが初めてのロンドンかな。それから色んな偶然が重なって、次第にDJとして知られるようになってギグも増えてきて。それで2007年に最初のミックステープをリリースしたんだ。
 〈ナイト・スラッグス〉(Night Slugs)のボク・ボク(Bok Bok)のことはフリッカーで見つけたんだよ。彼がデザインした作品が載っていて。それで作品について彼にカジュアルなメッセージを送ったことがあったんだけど、返事が来なかった。そしたら後々彼から「ミックステープいいね! 僕、こんどニューヨークに行くんだけどさ」ってメールがきた。フリッカーで無視したくせにって言ったら彼は笑っててさ(笑)。それからメールのやりとりが始まってたんだけど、ボク・ボクがニューヨークに来るときに、当時僕がやってた〈クラブ・ヴォーテックス〉(Club Vortex)っていう小さなパーティーでDJすることになった。結局彼が来る前に僕がロンドンに行くことになって、その代わりに〈ナイト・スラッグス〉の第二回目のパーティーで僕もプレイしたんだ。2008年頃のことだけど、音楽が理由でロンドンに行ったのはそれが最初だよ。

マサチューセッツの森のなかやニューヨークに住んでいた時は、どうやって音楽を聴いていたのですか?

キングダム:マサチューセッツ州に居た高校時代は、90年代後半とはいえインターネットはまだそんなに発展していなかった。でもボストンには良質でインデペンデントな音楽文化が存在していたこともあって、レコード屋にはアメリカのものに限らず、ロンドンから輸入されたジャングルの12インチなんかもたくさん置いてあったんだ。だから最新のロンドンのジャングルにはとても簡単にアクセスできる状況だったし、たくさん集めても居たよ。当時はそういうものをレコードで聴いていたね。ニューヨークに住んでいた2002年から2010年までの間は、初期のころはとくにそうなんだけど、地元発の音楽がすごく魅力的だったな。例えばプエルトリコ系移民がたくさん居たから、大衆音楽になってしまう前のクラシックなレゲトンのスタイルにはとても魅了されていた。サンプルを大胆にチョップして作られた生々しさのあるクラブ・ミュージックだったんだけど、ストリートでブートレグのCDを買ったりしていたよ。ジャマイカ系移民がやってたダンスホールも同様だったし、ヒップホップも〈HOT97〉(ニューヨークのヒップホップ専門ラジオ局)からキャムロンやディップセッツのようなニューヨーク発のヒップホップが流れていた。
 地元にそういう音楽があった一方で、インターネットではUKベースやジャングル、グライムなんかのイギリスの音楽を掘り下げて聴いていたんだ。だから当時の僕の音楽的背景はニューヨークのアーバン・ミュージックと初期のUKレイヴ・ミュージックから成り立っていたと言えるね。

UKガラージからの影響を他メディアのインタヴューで語っているのを拝見したのですが、どんな部分に影響を受けていたのですか? そしてそれらもインターネットで聴いていた?

キングダム:ジャングルにハマったときにUKガラージも多少聴いてはいたけど、大体は2006年くらいになってインターネットからmp3で集めて知ったものばかりだよ。もうすでにジャンルとして成熟してしまった後のことだけどね。ニューヨークでパーティに行っていた当時にはUKの音楽をかけてるDJなんて全然居なかった。グライムが注目された2004年頃にちょっと流行ったくらいで、それ以降はパーティで聴く機会なんてなかったね。ニューヨークで僕以外にそういう音楽から影響をうけて新しいことをやろうとしてる人も周りには居なかったんだ。
 そしてUKガラージには常に影響を受けてきたよ。なぜならガラージは、ヘビーなベース音とシンコペーションとソウルフルなR&Bヴォーカルを融合することに成功した初めてのジャンルだと思っているから。最近はUKガラージをプレイすることはないけど、そのコンセプトはいまやっていることに深い影響を与えているね。

当時のニューヨークで一番ヒットしたUKガラージの曲は何ですか?

キングダム:クレイグ・デイビットだね。曲名は忘れちゃったけど、グーグルで彼の名前を検索したら一番初めに出てくる曲だと思うよ(笑)。

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ニューヨークに住んでいたころは地元発の音楽がすごく魅力的だった。プエルトリコ系移民がたくさん居たから、クラシックなレゲトンのスタイルにはとても魅了されていた。サンプルを大胆にチョップして作られた生々しさのあるクラブ・ミュージックだったんだけど、ストリートでブートレグのCDを買ったりしていたよ。ジャマイカ系移民がやってたダンスホールも同様だったし、ヒップホップもね。


Kingdom
Vertical XL

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Kelela
Cut 4 Me

Fade To Mind

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R&BBass Music

〈フェイド・トゥ・マインド〉はングズングズをリリースするためにはじまったと聞いていますが、どのような流れだったのでしょうか? また、なぜ〈フェイド・トゥ・マインド〉はイギリスの〈ナイト・スラッグス〉の姉妹レーベルとして運営されているのでしょうか?

キングダム:ングズングズのことはボク・ボクに出会った頃くらいから知ってるけど、インターネットとアシュランド(=トータル・フリーダム)を通して知り合った感じかな。
 遡ると、そもそもアシュランドと出会ったのはたしか2004年頃。僕がバンドをやっていたときに、当時シカゴに居た彼にブッキングされたんだ。その時は彼が住んでたロフトで演奏したんだよね。
 彼の紹介やマイスペースをとおして、シカゴに住んでたングズングズとも連絡を取り合うようになって。彼ら、スプレーで雑に塗装したCDRにデモを入れて僕に郵送してくれたりしててさ。2008年頃のことなんだけど、当時のアンダーグラウンドの音楽的ランドスケープはエレクトロとかブログハウスだとか呼ばれてるジャンルで構成されてた。だからボルティモアクラブにR&Bやノイズを混ぜてるような、めちゃくちゃな音を聴くのは本当に……なんていうか、ただただ僕はングズのファンだったんだよ。それで実際に出会ったその日からすぐに打ち解けることが出来たし、アズマとは誕生日が同じだったしで、本当に仲の良い友だちになった。トータル・フリーダムやングズの近くにいくためにLAに引っ越して、それからレーベルをはじめたんだ。
 だからわかると思うけど、仲のいい友だち同士で作品をリリースしなくちゃいけなくなったときに、そういうディレクションでやってるレーベルが他に無かったから、レーベルを立ち上げるのはごく自然な流れだった。それに〈ナイト・スラッグス〉にも僕ら全員が入り込む余地はなかった。アメリカには多くのアーティストの友だちがいたし、みんな〈ナイト・スラッグス〉とは少し違う方向性に向かっていて。ボク・ボクはすでに彼自身のヴィジョンをはっきりと持っていたし、〈ナイト・スラッグス〉のディレクションを変えるだなんてことはあり得なかったからね。だからふたつのコレクティヴでやっていくのに意味があったんだ。
 ふたつのレーベルに繋がりが必要だったっていう点に関してだけど、元々僕はアーティストとしてシーンに居た人物だし、レーベルを運営した経験もなかった。それでアレックス(ボク・ボク)はレーベルを運営していく事に対して明確な意見を持っていたし、彼のレーベルの構築の仕方を本当にリスペクトしていたから、Tシャツやカヴァーアートのデザインを決める際に、始めから〈ナイト・スラッグス〉の持っている一貫性を参考にするのが一番だった。それに、レーベルに属しているみんながインターネット上だけでの関係に留まらず、実際にハング・アウトする仲の良いコミュニティーなんだ。ふたつのレーベルに繋がりがあるのは、何よりも僕らがみんなパーソナルな関係で繋がっているからだよ。マイクQ(Mike Q)とかリズラ(Rizzla)はニューヨークにいるけど、僕自身LAとニューヨークを行ったり来たりしているから、彼らのこともとても近くに感じているんだ。

■(インタヴュー会場で流れていたキングダムのミックス内の1曲を聴いて)

キングダム:この曲なんだけど、これはガール・ユニット(Girl Unit)の“クラブ・レズ”っていう曲にリズラがヴォーカルとパーカッションを乗せたリミックスなんだ。みんなが気に入ってかけているよ。今後の話をすると、〈ナイト・スラッグス〉と〈フェイド・トゥ・マインド〉ではこれからより多くのコラボレーションを行っていく予定だ。ふたつのレーベル内で様々なコンビネーションが生まれつつあるからね。大体の場合〈ナイト・スラッグス〉のインストゥルメンタル曲に〈フェイド・トゥ・マインド〉がヴォーカルを乗せるパターンが多い。例えばこのリミックスもそうだし、エルヴィス1990とマサクラマーンはいま一緒に音楽制作をしている。今後がとても楽しみだね。

女性シンガーの重要性に関しての話を他メディアのインタヴューで読んだのですが、やはりレーベルを発展させていく上で女性ヴォーカルは重要な要素だったのですか?

キングダム:そうだね。男性ヴォーカルも好きなんだけど。ただ女性をフィーチャーした革新的な作品が近年はそこまで出てきていなかったように思う。とくにここ5年間くらいは女性シンガーの人気が低迷していたように感じていたし、それはヒットチャートを見れば明らかだった。とくにアーバン・ミュージックの世界では目立った女性シンガーの数が異常に少なかったよね。だからいまその状況を変えるのは重要なことだと思ったし、それは同時に次の5年間では女性のヴォーカルが再び台頭してくることを意味していると思った。だってそう思わないか? 90年代後半にミッシー・エリオットや女性のR&Bグループがあれだけ出てきていたのに、それ以降はめっぽう新しい女性の声を耳にしなくなっただろう?

ケレラは素晴らしいシンガーですね。

キングダム:彼女は素晴らしいよ。すごくエキサイティングだ。というのも世の中には歌が入っている音楽しか聴かないリスナーがたくさん居るから、レーベルがそういう人たちにもアプローチできるのは本当に良いことで、僕らみんながやりたかったことでもある。それに僕とングズングズとアシュランドも昔からDJでのミキシングやサンプリングの場面において、様々なR&Bのヴォーカルの使い方を実験的に試してきていた。
 ケレラは僕らがやっている音楽について昔から知っていた訳ではないんだ。昨年友だちになって僕らのやっている音楽を初めて聴いたんだけど、彼女はとてもスマートだから、僕らがヴォーカルをどう受け止めているのかをすぐに理解した。だから僕らの持っていたコンセプトと、サンプリングやリミックス文化でのヴォーカルの使われ方も考慮に入れながら、彼女はピッチングやハーモニー、そしてメロディーを作った。だからそういう点ではこの音楽はポスト・リミックスR&Bなんだ。

女性シンガーの話から派生しますが、アルーナジョージFKAトゥイッグスなどについてはどう思いますか?

キングダム:アルーナジョージはそんなに聴いたことがないな。でも良い評判は聞いてるよ。FKAトゥイッグスは好きだね。高校時代にたくさん聴いていたトリップホップを彷彿させる。それにプロデューサーのアルカ(Arca)も友だちなんだ。人びとが彼女とケレラを同じような括りで見ていることもクールだと思っているよ。新しい実験的なR&Bのカテゴリーとして。もちろん僕は個人的にケレラに深く関わっているから全然違う音楽に聴こえるけれど、多くの人びとが彼女たちをまとめてひとつのムーヴメントとしてとらえているみたいだね。

ケレラをフィーチャリングした“バンク・ヘッド”も収録されているあなたの最新作「ヴァーティカル・XL」では、以前の作品よりもタムの音が増え(ゴルくなっ)たように感じるのですが、その点は意識していたのでしょうか?

キングダム:タムの音はいままでもあちこちで使ってきたからなぁ。ただ多くの音楽にクラップとスネアが使われすぎているよね。タムはただ単にそれらと違うっていうことじゃないのかな(笑)。クラップを使わずに曲を仕上げるのはすごく難しいし、いい音のスネアを見つけるのもすごく大変だ。そしてタムってのはキックとスネアの中間に位置していて……説明するのが難しいけど、とにかくジュークをたくさん聴いていたからそのクレイジーなタムの使い方には影響されたよ。

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ケレラはとてもスマートだから、僕らがヴォーカルをどう受け止めているのかをすぐに理解した。だから僕らの持っていたコンセプトと、サンプリングやリミックス文化でのヴォーカルの使われ方も考慮に入れながら、彼女はピッチングやハーモニー、そしてメロディーを作った。だからそういう点ではこの音楽はポスト・リミックスR&Bなんだ。

本誌では今年のキーワードとして「インダストリアル」をあげています。インダストリアル・ムーヴメントについて何か言うことはありますか? (ジャム・シティのインタヴュー記事のページを見せる)

キングダム:ああ、クール! インダストリアルにはすごく影響されているよ。そしてこのムーヴメントにおいては、やはりジャム・シティが非常に重要なポジションにいる。彼のアルバムがその後の僕ら全員の作品に影響を与えているといっても過言ではないと思う。僕らは外部からの影響も受けているけれど、内部からの影響力の話となると、やはりジャム・シティが僕らのサウンドを大きく変えるきっかけだった。僕とングズングズとアシュランドも昔から似たようなコンセプトでノイズを使ってはいたんだけど。以前からソウルフルなヴォーカルを多用していたから、金属的で恐ろしい音っていうのはそれに対して素晴らしいコントラストだった。

ヴェイパーウェイヴやシーパンクについてはご存知ですか?

キングダム:ヴェイパーウェイヴか。呼称は知ってるんだけど、どういうものかは知らないんだ。
 シーパンクはそんなに好きではないな。すごくインスタントで、目新しさばかりが目立つように感じられる。ヴィジュアル面での美学が非常にはっきりと提示されていることはわかるよ。だけど、それ以外でどう定義できるものなんだろう? そこにはっきりとした音は果たしてある? 見た目以外で姿勢やコンセプトのようなものが提示されているかな?
 タンブラーのリブログという発生方法自体、そこに何か普遍的な基盤があるのかどうか疑問に思えるんだ。実際にそんなに良く知っている訳でもないんだけど。事実、僕が知っていることと言えばその見た目だけなんだ。遺跡やヤシの木とかが多用されているよね。でも本当にそれしか知らない。

タンブラー文化に関しては、プリンス・ウィリアムやサブトランカとも意見が一致していますね。では、あなたのグラフィック・アートについて教えてください。

キングダム:〈フェイド・トゥ・マインド〉のロゴはボク・ボクがデザインしたんだ。僕にはロゴの才能は無いからさ。だからグラフィックや文字要素のデザインは彼に任せてある。僕はそれ以外のフォト・コラージュなんかを僕は手がけているよ。壊れたり、燃えたり、事物がトランスフォームしている瞬間に動きを感じるんだ。〈フェイド・トゥ・マインド〉って名前自体、ものごとの状態ではなく起きている過程を意味する言葉を用いているでしょう? 状態ではなく変化していく過程にフォーカスしているんだ。たとえば、ここにコップがあることではなく、このコップが溶けていく過程なんかの方が面白いと思っている。
 それと同時に、コラージュを作る際にいつもゴールとして意識している事は、安っぽいものやゴミみたいなものを使って何かスピリチュアルなものを構成することかな……。だってグーグルの検索で集められる画像ってすごくローテクなものが多いじゃない? 画質の悪い.jpgだったりさ。それらの素材で作ったコラージュが、メディアを通しても伝わってくるような純粋性だったりスピリチュアルな雰囲気を持てるようなものだと面白いよね。
 カヴァーアートを作る最中には大体作品を聴いている事が多いね。カヴァーアートをいつも最後に作るよ。

〈フェイド・トゥ・マインド〉のアートワークに使われるモチーフなどを見ていると物質主義への批判的な姿勢を感じるのですが、そのような意識はありますか?

キングダム:ファティマ・アル・カディリのあのカバーアート(『デザート・ストライク・EP』)に関しては、彼女の育ってきた背景にあるクエートのことや物質主義への批判的な視点はあるかもしれない。あのアートワークはほとんどが彼女のコンセプトで、サブトランカのマイルス・マルティネスがそれを形にしたから。でも僕はそういう視点を常に意識している訳ではないかな。そういう見方があるっていうのもすごく分かるけどね。

本誌のインタヴューでプリンス・ウィリアムが、エズラはメディテーション(瞑想)をしてるというようなことを言っていたのですが、本当ですか?

キングダム:瞑想の趣味は無いけどな(笑)。でも瞑想的なことはするよ。ひとりでハイキングに行ったりね。それに僕は新しいプロジェクトの話やリミックスの依頼が来たときには、行動に移す前にじっくり時間を費やして考えるタイプの人間なんだ。彼は僕のそういう部分のことを話していたのかもしれない。

日本のアーティストやミュージシャンで影響を受けた人は居ますか?

キングダム:日本の音楽だったら坂本龍一はずっと聴いてるよ。影響を受けたかどうかはわらないけれど、彼は日本のアーティストというカテゴリーには収まりきらないくらい、もう普遍的な存在だよね。音楽以外で言うと日本のファッション・カルチャーには影響を受けている。実は高校の卒業プロジェクトのテーマに日本のファッションデザイナーを選んだことがあるんだ。当時は高校を卒業したらファッションの道を目指そうと思っていた。結局大学ではファインアートを学ぶことになったんだけれども、ファッションは僕のバックグラウンドに常にあったんだ。〈コム・デ・ギャルソン〉や〈イッセイ・ミヤケ〉に関して論じたことを覚えているよ。〈ファイナル・ホーム〉(https://www.finalhome.com)にも90年代後期の頃から熱中していたよ。だからヴィジュアル面ではこれらの影響は大きく受けている。

それら日本のファッションブランドのどういった面に魅了されていたのですか?

キングダム:〈コム・デ・ギャルソン〉と〈イッセイ・ミヤケ〉はアヴァンギャルドで脱構築的な部分に、〈ファイナル・ホーム〉にはテクニカルな機能性と斬新なデザイン性が同居しているところに興味を惹かれていたね。〈ファイナル・ホーム〉は特にコンセプチュアルなアートのプロジェクトでありながら、終末的なサバイバルの状況においての機能性を追求していた面がすごく面白かった。

Tシャツやキャップも積極的にリリースしていますし、〈フェイド・トゥ・マインド〉にとってファッション/アパレルは重要なのでしょうか?

キングダム:音楽からのファッションへの影響の方がその逆より大きいように感じるな。ファッション・デザイナーをやってる友人が何人もいるけど、彼らのほとんどが音楽から多大なインスピレーションを得ている。ファッションからの影響を音楽に表すっていうのは難しいし、それが良いアイデアなのかどうかもわからない。
 でもね、僕は〈フッド・バイ・エア〉(Hood By Air)の初めの5~6シーズンのランウェイ用の音楽を担当したんだけど、そのときだけはそれが例外だった。っていうのもデザイナーのシェイン(Shayne Oliver)からコンセプトについてメールがくるんだけど、この曲のリミックスを2ヴァージョン欲しい、だとか、ミリタリーがヴォーギングしてるような音をくれ、だとかいう内容なんだ。コレクションで発表する服はその段階ではまだ出来上がっていないから、彼のヴィジョンについて具体的に言葉のみで説明されたからこそ、それにそって音楽を仕上げることができた(註:「ドリーマ・EP」〈ナイトスラッグス〉に“フット・バイ・エアー・テーマ”が収録されている)。
 日本のひとたちが僕らのキャップをかぶってくれてるのを見たときは本当に驚きだったよ。東京のファッションに合わせているのを見るととても嬉しい。ただ音楽を知らずに着てる人もいるよね。だから、キャップに書いてある文字をグーグル検索してそこで僕らの音楽やアートワークをもっと知ってもらえるといい。取扱店もCDやレコードとかと一緒にパッケージで売ったり、何らかの形でレーベル全体のコンセプトも含めて買い手に伝えてもらえたら、すごく嬉しいよ。

夢でもいいので、コラボレーションしてみたい人を挙げてください。

キングダム:一緒に仕事したいシンガーなら山ほど居るよ。シアラにブランディー、ジェネイ・アイコ(=Jhene Aiko。EPにはケンドリック・ラマーも参加)……もちろんアリーヤとできたら最高だったね。プロデューサーではドレイクのビートをつくっているノア40(Noah 40 Shebib)かな。ファッションブランドでいうと、カセット・プレイヤ(Cassette Playa)やビーン・トリル(Been Trill)とTシャツを作る予定もあるよ。

〈フェイド・トゥ・マインド〉の次なる展望(ヴィジョン)を教えてください。

キングダム:もっとヴォーカリストを増やしたいな。そしてもっとケレラの仕事もしたい。それからより頻繁に作品をリリース出来るようにもしていきたいね。最近になってようやく出来てきた事だけれど、その前は半年に1枚のペースだったから。まだいろいろ学んでいる最中なんだ。それに僕らはカヴァーアートまで含めて相当な完璧主義でここまでやってきた。プリンス・ウィリアムは常にみんなの意欲をかき立ててくれたり、細かい部分で仕事してくれるムードメイカー的な存在だけど、レーベルとしてのミキシングやフォトショップでのプロダクションなんかの作業は今は僕一人でやっている。ステップ・バイ・ステップだからまだすごく時間がかかるんだ。
 同時にアパレルのグッズも増やしたいね。デザインは貯まってきているんだけど、もっとキャップとTシャツのリリースをしたい。
 それと、〈フェイド・トゥ・マインド〉のフェスティヴァルをすることについても話をしているよ。アートの展示やシンガーとラッパーとDJ達を、テクノロジーを使ったハイテクな演出で披露したいと思ってる。奇妙な構造のステージで、ワイヤレスマイクを使って入れ替わりたちかわりで出てくるシンガーたちに、アシュランドがエフェクトをかけまくってるようなイメージだね。

では最後に、2013年にリリースされたダフトパンクとディスクロージャーのアルバムでは、どちらが好きですか?

キングダム:どちらも全部は聴いていないんだ。ラジオでシングルは聴いたよ。どちらか選べと言われたらディスクロージャーだけど、どちらもそこまで好みではないかな。でも新しい類いのエレクトロニック・ミュージックがメインストリームで成功しているという事実にはとても感謝している。なぜなら、それは〈フェイド・トゥ・マインド〉だってそうなれるっていうサインでもあるからね。

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