「Nothing」と一致するもの

寺尾紗穂 - ele-king

 たとえば出稼ぎにやってきた外国人労働者を描いた“アジアの汗”、愛や他人への無知や無力を歌い上げ、それが原発作業員の労働環境へと接続される“私は知らない”。寺尾紗穂は、こうした世界に黙殺される小さな声に耳を傾け続けている人だ。彼女はそれをビッグ・イシューのサポートによるフェス「りんりんふぇす」の主催や、ノンフィクション・エッセイの執筆など、多角的に、かつ継続して行ってきた。

 特にここ数年の寺尾は音楽と並行して精力的に執筆活動をこなしており、近年の著作は3冊。2015年には原発作業員への聞き取り調査をもとに構成された『原発労働者』と、長い歳月をかけて南洋をめぐりながら戦争の痕跡を書き留めた『南洋と私』の2冊。そして今年の8月には、パラオを訪れ、日本の植民地下だった1920年代のこの島国の当時を知る老人たちに話を聞きながら探っていく『あのころのパラオをさがして』を上梓した。連載をまとめたものもあるとはいえ、かなりのハイペースだ。そしてどれもいわゆるアーティストが自身の感性を頼りに書いたようなタイプの本ではなく、「シンガー・ソングライター」という肩書きからは切り離されて存在している。寺尾自身がそういった肩書きを特に標榜していないので、こうした観点がそもそも野暮かもしれないが、それでも「自分はどういう人なのか」を決めず、ひとつを選ばない寺尾のスタンスは、その活動を考える上で重要な視点になるのではないかと思う。

 前作『楕円の夢』もそうだった。第二次世界大戦中・戦後に活躍した評論家、花田清輝の『楕円幻想』にインスパイアされてできたというこの作品で、彼女は楕円というモチーフを「1や「真実」を否定するもの」と話している

 円には中心がひとつしかないが、楕円には中心となる焦点がふたつある。花田は他を無視してひとつの中心だけを見て円を描くのではなく、ふたつの点を焦点に楕円を描くことが、矛盾しながらも調和した社会に必要だと暗示した。寺尾はその「楕円」を多様性の象徴としてアルバムのテーマに据え、路上生活者をメンバーに擁する舞踏グループ「ソケリッサ!」のMV起用やツアーでの共演を行い、その存在を表舞台に引っ張り上げた。

 昨年発表された『わたしの好きなわらべうた』も、各地のわらべうたをリアレンジして、忘れ去られようとしているわらべうたの中に残る人びとの暮らしの跡をすくい上げようとしたものだった。これもまた過去のものを過去のものと決めつけず、そこに息づく手触りの確かさを信じた試みだったといえる。

 一方で、こうした活動は彼女を通好みの存在にしてしまっている側面もあるかもしれない。たとえば前作“楕円の夢”のMVを見て、ごく普通のおじさんが街中でゆらゆらと舞踏を踊る姿に、戸惑いを覚えた人もいるだろう。コンセプチュアルな『わたしの好きなわらべうた』に、食指が動かなかった人もいるかもしれない。熱心な原発や外国人労働者についての活動も、聞く人に選択を迫る。その真面目な姿勢は、近年の彼女を絶賛する声を増やす一方で、間口を狭くしてしまっていた。

 活動初期の彼女にはこうした社会派ともとれる表現は少なく、時にエキセントリックながら情熱的な恋愛模様を歌い上げるシンガー・ソングライターだった。もっと個人的で、内省的に歌を歌ってきた人だ。しかしながらその個人的な考えが社会的なメッセージ性を身にまとった時にこそ、寺尾の歌はより強く輝いた。“アジアの汗”や“私は知らない”が聴く人の胸を打つのは、寺尾が何かを告発するようにではなく、ただ自分にはこう見えている、というような純粋さで歌うからだ。その視点に異物感を覚える時、私たちは自分たちの暮らしがどれだけいびつに歪められているかを思い知る。しかし近年の彼女の活動は、そうした純粋な視点が見えにくくなっていたところがあった。それは寺尾自身が変わったというよりは、扱われ方の問題でもあると思うのだけど。

 その寺尾が2年ぶりに発表したオリジナル・アルバムのタイトルは『たよりないもののために』。いかにものように思えるタイトルだが、今作には直接的に労働者や路上生活者など「小さな声」の主は登場しない。その代わり、これまで以上に普遍的な強度を持ったポップ・ソングが、寺尾らしい凜とした佇まいで並んでいる。

 様々なミュージシャンと共演して楽曲を深化させる方法はこれまで通り。蓮沼執太やゴンドウトモヒコ、柴田聡子、マヒトゥ・ザ・ピーポーなどが名を連ね、アルバムに彩りを添えている。中でも変化を感じるのはオープニングを飾るナンバー“幼い二人”だ。これまでの寺尾の作品では、自身の音楽性を印象づけるようにピアノと歌が前面に出ている曲がオープニングに選ばれていたが、この曲はあだち麗三郎のドラムと伊賀航のベースが刻む素朴なリズムで幕を開ける。さらに、寺尾がピアノではなくエレクトリック・ピアノのウーリッツァーを弾いているのも特徴。エレクトリック・ピアノは前作『楕円の夢』でも何曲か使われているが、オープニングに配置されたことで、これまで寺尾のアルバムを聴いてきた人は新鮮に感じたのではないだろうか。新たに公開されたMVでは新バンド・冬にわかれてを寺尾と結成したことがアナウンスされたあだち麗三郎、伊賀航との3人での演奏がフィーチャーされており、洗練された映像からは寺尾の新たな一面を見ることができる。他にも疾走感のあるポップ・ソング“雲は夏”や、尾崎翠の歌詞に曲をつけた郷愁を誘うメロディの“新秋名果”など、ピアノと歌というアイデンティティを大切にしつつ、様々なアプローチが試みられている。賑やかというのではないが、明るく、生命力に満ちた1枚になっている。それは大森克己が手がけた鮮やかな草花のジャケットが示す通りだ。

 しかし、寺尾は小さな声に耳を傾けるのをやめたわけではない。タイトル・トラックの切実さはやはりどこか、そうした存在を想起させる。今作で社会的な事柄は具体的に描かれてはいないが、それは意図的というより、必ず登場させようと意気込んでいるわけではないということなのだろう。このことからは、路上の生活にも都市の恋愛にも同じように情熱を傾ける彼女の姿勢が浮かび上がる。その結果、『たよりないもののために』は聴き手に開かれた作品になった。

 たよりないもののために
 人は何度も夢を見る
 ぼろぼろになりながら
 美しいものを生む
“たよりないもののために”

 今作の英題は「For the Innocent」。“たよりないもの”の訳語に“イノセント”を持ってきたところに寺尾の現代社会へのスタンスがあらわれているが、とても多様性のある表現だと思う。たよりなくて、イノセントなもの。それは信念だったり、誰かの未来だったり、まったく別の何かであったりするだろう。前作のモチーフになった「楕円」よりさらに曖昧で、しかし誰もが何かを思い浮かべるもの。

 “たよりないもの”は、誰の日常にも息づいている。私にも、あなたにも、路上生活者のおじさんにも。ゆるやかに束ねられて気づく普遍。寺尾が放つ美しい最大公約数の言葉は、多様な生に向けられる眼差しを塗り変えていく。

Xth Réflexion - ele-king

 本作はシカゴを拠点とするレーベル〈chained library〉からリリースされたXth Réflexionのファースト・アルバムである。〈chained library〉は、カセット・レーベル〈Aught〉のヴァイナル専門のサブ・レーベルで、このアルバムは〈Aught〉から2015年に発表されたXth Réflexionの「/\\05」と「/\\06」をコンパイルしたものだ。

 〈Aught〉は2014年あたりから作品のリリース/発表を始めた超少部数プレスのマニアックなカセット・レーベルであり、Xth Réflexionに加えて、Elizabethan Collar、Topdown Dialectic、De Leon、ACI_EDITSなど謎度の高いウルトラ・マニアックなアーティストたちのスーパー・ミニマルなカセット/音源を送り出してきた。その成果を受けて〈chained library〉は2017年初頭から運営を開始し、Agnes『012016002001』とXth Réflexion 『/\\05-06』の2作をリリースする。両レーベルともにサウンド、アートワークなどが徹底的にミニマルな美意識で統一されており、00年代的な電子音響以降の新ミニマリズムを追及しようとする意志を感じる(アナログ盤はクリア・ヴァイナル仕様)。

 じじつ、彼らは完全に匿名のプロジェクトなのである。情報による先入観を可能な限りなくすことで、完全なミニマリズムの実現を遂行しているかのようだ。それは彼らの上の世代、つまり〈raster-noton〉や〈Editions Mego〉などの電子音響/グリッチ・レーベルが既に失ってしまった要素ともいえよう(むろん仕方がないわけだが)。つまり〈Aught〉/〈chained library〉は、意図的に、歴史も相互影響も情報によって作用しない環境・空間・状況を生みだそうとしているわけだ。リリースにあたっての情報がほとんどない点などからもそれは分かってくる。いわばレーベルの活動・運営自体が一種のアノニマス的なメディア論思想に貫かれているのだろうか。じっさい〈Aught〉はアルバム名がすべてナンバーで統一されていたし、〈chained library〉のアルバム名が数字であることからも、記号性/匿名性へのこだわりが理解できる。

 さて、Xth Réflexion『/\\05-06』は、1トラックめから4とラックめまでが「/\\05」(レコードだとA面・B面)、6トラックめから10トラックめ「/\\06」(レコードだとC面・D面)という構成となっている。ミニマル・マシン・アンビエント的な「/\\05」と、よりリズミックな要素が全面化している「/\\06」という流れになっており、対比的な構成ともいえる。さらに深いダブのかかったミニマリズムはどこか蒸気機関車の音のようでもあり、21世紀以降のポスト・ヒューマン的な響きのようである。つまり、このユニットのトラックは聴き飽きたグリッチでもなく、ありきたりなミニマル・テクノでもない。このダブとミニマリズムの交錯は20世紀と21世紀の歴史性を消失させてしまうだろう。この歴史の「消失」感覚にこそ、2017年以降の「新しいミニマリズム」を感じる。レーベル特有の匿名性や記号性を抜きにすれば、同時代的なサウンドとして、N1L、ZULI、DJ Sinclair、Assel、Dale Cornish、Mumdance & Logos、Machine Woman、Yann Leguayなどの分断的エクスペリメンタル・ミニマル・テクノ・トラックへと繋げてみることも可能である。つまり2017年以降の先端的な「新しさ」の系譜だ。これらのアーティストのトラックを聴くと、今という時代のサウンドには、どこか「壊れたミニマリズム」が炸裂しているように思えてならない。ポスト・ミニマルでもアフター・ミニマルでもない。いわばブロークン・ミニマルの時代を感じてしまう。破壊されたミニマリズムの破片が高密度かつ高速に再生/生成している。新しい音の快楽原則が生まれているように思えてならない。

 本作は、リマスタリングをベルリンのRashad Becker(Dubplates & Mastering)が行っており、サウンドの質感・クオリティが一段と向上している点にも注目したい。

[編集部註:タイトルおよび文中に登場する「​\​」は、正しくは反対向きのスラッシュ(「\」の半角)です]

DJ KRUSH - ele-king

 『軌跡』というアルバムに対峙して考えさせられたこと。それは、DJ KRUSHの音楽がダンス・ミュージックではない可能性、より正確に言うなら、ダンス・ミュージックでない可能性に潜んでいる、もっと別の可能性についてだった。

 iOS用の「hibiku」というアプリがある。文字通り、現実の音に「響き」を加えるアプリで、仕組みはシンプルだ。イヤフォンを装着してこのアプリを立ち上げると、イヤフォン付属のマイクを通した現実の身の回りの環境音に、残響音が付加されてイヤフォンに帰ってくる。この残響音により、ユーザは大聖堂や、洞窟にいるかのような聴覚体験をする。例えば電車の中でこのアプリを立ち上げれば、走行音や周囲の話し声、車内アナウンスなどが、全て遥か遠くから響いてくる。いわば、残響音が加えられることで自身が映画の登場人物になったかのように演出され、世界の捉え方が完全に一変する。異化効果を司るアプリ。

 そして、KRUSHのビートも、まさにこのような効果を齎すところがある。イヤフォンで彼のビートを聞きながら街を闊歩するとき、MCたちが描こうとする風景に、異化効果を齎すのだ。そしてこのような世界の眺め方は、何もMCたちに限定されるわけではない。リスナーたちが漫然と眺める風景にも、同様に適用される。

 だから冒頭の問いに戻るならば、DJ KRUSHのビートは、ダンスのためというよりも、街を彷徨い歩く、つまり彷徨のためのサウンド・トラックとでも言うべき側面を持ち合わせているのではないか。

 というのが「ダンス・ミュージックではない可能性」についてのスケッチなのだが、少し結論を急ぎ過ぎたかもしれない。まずは改めて、このアルバムを再生してみよう。

 冒頭、その煙の中から立ち上がるようなアブストラクトなSE。続いてディレイに彩られた「2017」「DJ KRUSH」というコールが、このアルバムの立ち位置を表明する。重いキックがウーファーを揺らし、スピーカーは自分の本来の役割を思い出したようにリスナーの腹へ低音を届ける。このイントロがわずか43秒間しかないこと、そしてインスト曲が中盤の「夢境」のみであるのは、今回のラップ・アルバムとしてのコンセプト通り「ラップの言葉」に語らせようという明確な意志が感じられる。

 イントロに導かれたラップ曲のオープナーは、OMSBによる“ロムロムの滝”。琴を思わせる弦楽器的な音色によるフレーズのループがくぐもった呟きを洩らす。小節単位でカウントされるループ。1、2、3、4、、、そして満を持して200Hz中心に叩きつけられる重心が低く粒子の粗いスネア。そして3拍目の3連のタメが効いているブーミンでファットなキック。キック、スネア、ハットと一緒に録音されている空気感(=アンビエントなホワイトノイズ)もロービットで汚され、コンプでブーストされ、そのざらついた存在感を主張している。

 ビート・ミュージックのリスナーたちは、たった1発のスネア、キックに身を捧げるため、スピーカーの前に集結する。曲の開始と共に、イントロでリスナーは焦らされる。そして自分が焦らされていることも分かっている。やがて満を持して叩きつけられる、1音のスネア、あるいは1音のキックがもたらすカタルシスを、息を止めて待ち焦がれる。それは、ビート・ミュージックの持つ最も幸福な瞬間のひとつだ。そんな瞬間のために、DJ KRUSHは最高のスネアとキックの一撃を追求してきた。彼はビートによって、動物の本能がつかさどる領域に踏み込み、欲望を露わにし、さらなる衝動を突き動かす。彼が長年キックとスネアとの対話を通して探究してきたのは、ある問いの答えだ。人は、なぜビート・ミュージックを、求めるのか。

 DJ KRUSHのようなビートメイカーと共演するということは、ビートの側から自己を見つめ直すことに等しい経験だ。自身のスキルの限界はどこか。太いビートに埋没しないフロウをどのように発揮するのか。その曲がワンアンドオンリーのクラシックとして残るようなリリックとは、等々。そのような試行錯誤を経て、彼のキックとスネアに対し、ときに正面からぶつかり合い、ときにその間を縫うように流れていく8つのヴォイスたち。OMSBがまき散らすのは、ビートを棍棒で叩くような即物的なフロウと、ビートの太さに挑み掛かる強靭なヴォイス。チプルソは“バック to ザ フューチャー”において、ビートボックスを拡大解釈し、打楽器と金管楽器双方を兼ねる楽器としてのヴォイスを駆使する。そのスキャット的なフロウは、子音でスタッカートを乱打し、母音を引き伸ばして音階を上下する。5lackは粘つくモタりをクールな表情で処理し、これまでのKRUSHのラップ曲史上類をみない粘度の高い“誰も知らない”グルーヴを生み出している。そして、かつて重力を無視して遥か上空から東京の街を見下ろすように言葉を泳がせたRINO LATINA II(“東京地下道”)は、地に足を着けた今もなお揚力を失わないフロウで、20年以上前の記憶の軌跡を“Dust Stream”で辿る。

 一方、リリック面はどうか。R-指定によるメタ視点が効いたリリックで、これまで散々語られてきたMCのステイト・オブ・マインドについて、“若輩”の視点から新たなページを加える。そして前半のラストを飾る“裕福ナ國”では、アルバム随一の抒情的な旋律を感じされるビートの上、Meisoの絶妙な角度から社会の陰部にメスを入れる視線がここでも健在だ。MCとしての自意識よりも、監視社会の構成員の一員として世界を俯瞰する視座から、2017年現在のディストピア的な日本に生きる肌感を伝える。一方、呂布カルマの“MONOLITH”を貫通するのは、MCバトルで鍛え上げられたメタファーとユーモアに彩られたバトルライムだ。ボディブローのようにじわじわと効いてくる、無自覚な同業者たちへの痛烈な警鐘。それが、KRUSHも一目置く独特な抑えられたトーンでデリヴァーされるのだが、ビートの前景と後景の間に貼り付くような良い意味で籠り気味の声質は、逆にリスナーにリリックの一言一句に聞き耳を立てさせる効果をもたらしている。

 そしてこれらのフロウとリリックの双方を綜合するかのように、10曲目に鎮座する志人の“結 –YUI–”。志人はここでも彼にしか示せない世界との関わり方を提示している。そのフロウもリリックも、古典芸能からの連続性のうちに捉えられるような「和」の表現を展開しており、特に同曲の後半においては、自然に満ち溢れたほとんど人外境を舞台にする様は白眉だ。これは従来のヒップホップにおいては支配的なステレオタイプである、「アメリカ産」「都会の音楽」といった属性とは見事に真逆だ。にもかかわらず、彼の表現はヒップホップ的にも「ドープ」としか言いようのないものとなっている。そして、このような異形のヒップホップが存在し得る土壌を開拓したのも、他でもないDJ KRUSHだと考える。どういうことだろうか。

 1990年代中盤以降、彼のビートはそれまでになかった表現として欧米を中心に世界に受容されたが、その音楽性は、同時代的に活躍したポーティスヘッドやマッシヴ・アタック、そして何よりも盟友と言ってもよいDJシャドウらと共に「トリップホップ」や「アブストラクト・ヒップホップ」としてカテゴライズされた。「トリップホップ」は頭に働きかけるダンス・ミュージックとも言われ、アメリカが独占状態のヒップホップに対する、ブリストルのシーンを中心とするUKからの新たなる可能性の提示でもあった。「トリップホップ」という命名はアーティストからの不評も買ったが、ここで注目しておきたいのは、その代替として使用されることも多かった「アブストラクト(ヒップホップ)」という呼称である。なぜDJ KRUSHやシャドウのサウンドは、「アブストラクト」と形容されたのか。

 ここでは、大きくふたつの理由を考えたい。ひとつめは、彼らは、ラップとビートのセットではなく、ラップ抜きのインストだけでそれが成立することを示したことだ。MCたちの直面するリアリティを「具体的」に示す言葉を持たないインストのヒップホップは、「アブストラクト」ヒップホップと呼ばれた。簡単に言えば「ラップという〈言葉〉による表現=具象」と「〈音のみ〉の表現=抽象」というわけだ。つまりこの場合の「アブストラクト」は、ビート自身が音で語りかけるインストゥルメンタル・ミュージックの別名である。

 そしてふたつめの理由は、ビートのサウンド自体の特性にある。「抽象的」なサウンドとは何かを考えることは、反対に「具象」とは何かという問いにつながる。例えば1950年代にフランスで勃興したミュジーク・コンクレートにおいて、「コンクレート=具体」としてのサウンドは、自然音、人や動物の声、インダストリアルな環境音、電子音などを指していた。では、ヒップホップのサウンド面における「具象」の条件とは何か。ひとつには、ビートを構成している音を「具体的」に指し示すことができること。その音は、何の楽器で奏でられているのか。どのような音階やリズム、つまりフレーズとして奏でられているのか。そしてもうひとつ、サンプリング・ミュージックとしてのヒップホップにおける「具象」とは、参照先を「具体的」に特定できることも指すだろう。このブレイクビーツは、このレコードのこのフレーズからのサンプリング。この上ネタのエレピとストリングスは、あのレコードのサンプリング、というように。

 であるならば、逆に「抽象的」な音とは、例えばピッチを下げることで音程もリズムも失ったサウンドだ。かつてエドガー・ヴァレーズは、テープレコーダーの誕生に伴い再生スピードを変化させることや音の順序を組み替えることが可能になったことで、レコードの時代には困難だった様々な音響実験を加速させた。同様に、ビート・ミュージックによる抽象表現も、まさにサンプラーやデジタル・エフェクターというテクノロジーの発明によって実用化されたと言える。元は何の楽器から発された音なのかも判然としない。同様に、短く断片化されたり、ディレイやリヴァーブが深くかけられたり、ロービットでサンプリングされたりと、様々な理由でソースを特定できないサウンドの断片たち。あるいは、一部のフリー・ジャズやドローンにおいて聞かれるような、元々リズムやフレーズ感の希薄なサウンドたち。それを鳴らしている楽器も、リズムも音階も具体的に指し示すことが困難であり、さらにどのレコードからサンプリングしているのかも不明なサウンドの断片たち。

 こうして考えてみれば、アブストラクトの定義のうち前者、インストとしての「アブストラクト・ヒップホップ」の展開を背負ったのはDJシャドウであろう。そこにはMCの言葉はなく、ビートが物語を代弁する。1996年リリースのファースト・アルバム『Endtroducing.....』は、物語性をまとったビートが描く一大絵巻物だった。

 一方、後者の「〈アブストラクトなサウンド〉のヒップホップ」を体現したのが、他でもないDJ KRUSHではなかったか。このことは、例えば〈Mo' Wax〉から1994年にリリースされたDJシャドウとDJ KRUSHのスプリット盤の収録曲“Lost And Found (S.F.L.)”と“Kemuri”を聞き比べてみればよく分かる。シャドウの“Lost And Found”は実に彼らしいスクラッチと「You said to me, I'm out of my mind」というナレーションからスタートし、ブレイクビーツとエレピのループをベースに、次々とギター、トランペット、人の声といった「具体音」が入れ替わり立ち替わり現れる。いわゆる各パートの「抜き差し」によってダイナミズムを伴う楽曲展開を見せてくれる、約10分にわたる従来の物語構造を持つ「短編映画」のような作品だ(対するKRUSHのビートも決して映画的/映像的でないということではなく、映画に喩えるならヌーヴェル・ヴァーグ的ということになるだろうか)。ここには「ラップの言葉」は一切表れないが、聞き手が物語を読み込んでしまうようなサウンドスケープが展開されるのだ。

 対するDJ KRUSHによる“Kemuri”はどうか。紛うことなき彼の代表曲であるこの曲は冒頭から、ブレイクビーツの上に乗る不穏なノート、ディレイで左右に飛ばされるノイズ、ターンテーブルから発せられるスクラッチ混じりのサウンド、そして管楽器風のサウンドのメインフレーズ、その背後のサイレンなど、全ての音が、どのようなジャンルの音楽の、どのような楽器の、どのような演奏からサンプリングしたのか計りかねるような、出自不詳のサウンドたち。それらが、まさに「煙」のように輪郭が曖昧で互いに混ざり合いながら、粛々と驀進するブレイクビーツに寄り添い漂う。DJ KRUSHのトレードマークである、ディレイで左右に飛ばされる音は「煙」なのだ。これらの「抽象的」なサウンドで描かれたビート群は、KRUSH自身の出自も相まって、当時の聴衆に非常に新規性のある音楽として映ったのは想像に難くない。DJ KRUSHは、ヒップホップから派生したビート・ミュージックに、ブラック・ミュージックとは異なる系譜の「煙たさ」を持ち込んだのだ。

 そのような抽象的なインストのみで成立する、あるいはインストが語りかけるようなビートに、改めてラップの言葉を乗せてみようというのもまた、DJ KRUSHやシャドウ(U.N.K.L.E)の試みのひとつだった。そのようなアブストラクトなビートの上に、MCたちはどのようなライムを乗せようとするだろう。例えば1995年にリリースされた『迷走』からのタイトル・トラックで、初期のKRUSHラップ曲を代表する1曲でもある、ブラック・ソートとマリク・Bをフィーチャーした“Meiso”。冒頭のハービー・ハンコック(ジョー・ファレルのカルテットに参加)によるエレピのフレーズは、KRUSH愛用のAKAI S1000によって低いビットレートでサンプリングされ、その輪郭を失った「抽象音」と化している(同じハービー・ネタで言えば、「具象」という意味で対極にあるのがUS3の「Cantaloop (Flip Fantasia)」だろうか)。そしてクオンタイズの呪縛から脱出するように僅かにつんのめるブレイクビーツ。両者のヴァース間、1分32秒以降KRUSHが擦るのは、ジャズのライヴでプレイヤーたちのインタープレイの一瞬の間隙を抜き取ったような「キメ=空白」のサウンドや、あるいはこれもジャズのレコードからと思しき、輪郭が曖昧なベースラインだ。通常のDJ的な感性に倣えばスクラッチ映えするアタックとハイが強調されたサウンドを選ぶのだろうが、彼の独創性が、敢えてビートに滲み、埋没するサウンドを選ばせた。しかしこれらの曖昧で歪なパーツたちが織り成したのは、途轍もないグルーヴだった。JBネタのビートたちとは全く異なるアプローチで現前せしめられるファンクネス。聴衆たちは、この衝撃への興奮を包み隠さずぶちまけ、狂乱のフロアに沈み込んだ。

 だから当然ブラック・ソートことタリークも、最高のライムをぶちまけた。しかしKRUSHのアブストラクトなグルーヴに誘引されたのは、いつもとは異なるボキャブラリーのライムだった。例えば「俺はイラデルフ(フィラデルフィアとイルの合成語)出身、そこじゃお前の健康は保障できない/この惑星を一周するサイファーの中、赤道ほどの熱を持つ場所/あるいは普通じゃない、王宮の正門から現れた奴らがお前の魂を要求する/八仙の七番目をコントロールする者/この終わりのない迷宮の中で、夜が昼に戦いを挑む場所で」という中盤のライン。注目すべきは、1行目から2行目、そして2行目から3行目への跳躍。このような路線のリリックは後にザ・ルーツの“Concerto of The Desperado”のような曲に引き継がれることとなるが、このとき既にリリースされていたザ・ルーツのファースト・アルバムの彼のライムとは明らかなギャップがある。ザ・ルーツのファースト・アルバムの独自性とは、ジャズ的なインプロヴィゼーションを重視するバンドがビートを演奏することであり、ブラック・ソートもそれに合わせるように、即興性の高い、フリースタイルの延長のようなライムを披露していたが、その内容は良くも悪くもラップのゴールデンエイジのテンプレートを脱するものではなかった。であるならば、タリークからこのようなエキゾチックで抽象的なライムを引き出したのは、KRUSHのビートが生みだした異形のグルーヴだったのだ。

 アブストラクト。音楽以外の抽象芸術に目を向ければ、例えばカンディンスキーの抽象絵画は、音楽の視覚化の試みでもあったことが知られている。共感覚を持っていたがゆえの発想かもしれないが、そもそもこのような音楽の視覚芸術による翻訳=置き換え(あるいはその逆)は多くのアーティストたちの表現の核心を担ってきた。さらには、音楽や視覚イメージの「言語化」の試みが、多くの作家や詩人、あるいは批評家たちによって、時には通常の言語で説明的に、時には「詩的言語」を駆使して為されてきた。

 例えば『迷走』のUK版のアナログのジャケットのアートワークは、抽象的なグラフィティで知られているFutura 2000によるものだが、アメリカの詩人のロバート・クリーリーが、「Wheels」と題された次のような詩をFutura 2000に捧げている。「ひとつ その周りに ひとつ/あるいは内側、限界/そして飛散/外側、その空虚/縁のない、丸く/空のように/あるいは見つめる眼/過ぎゆく全て/沈黙のにじみの中で」と、言葉少なげに探るような一篇。ここにはFutura 2000の抽象的な作風に呼応するように、抽象的な「詩的言語」との格闘の痕跡を認めることができるが、同様に、DJ KRUSHのアブストラクトなビートにMCたちがライムを乗せようとする場合も、彼のビートの「抽象性」が「詩的言語」に類するワードプレイを誘引する。そこでは、少なからずそのビート自体の「言語化=言葉による描写」がリリックに混入する。MCたちが一人称で自己の姿とリアルな日常を描くとしても、描かれる自己とは、そのビートを聞いている自己であるからだ。KRUSHの抽象的なビートを聞きながら街を彷徨い、見えるものを描く。異化される街並み。異化される日常。

 そう考えてみれば、KRUSHのビートこそが、MCたちの言語世界の新しい扉を開いたと言える。そして結果的に、アブストラクトと呼ばれる類のビート・ミュージックにライムを乗せることで立ち上がる、原風景を示すことになったのだ。

 そしてこの原風景は、一方ではカンパニー・フロウやアンチコンらの世界観(従来「黒い」と形容されるヒップホップに精神的にも音楽的にもカウンターとして成立した)に、他方ではTHA BLUE HERB(そして流の“ILL ~BEATNIK”でBOSS THE MCが到達した極北)や、降神やMSCらの世界観の通奏低音として、常にその影を落としていた(そう考えてみれば、KRUSHと彼らとの共演も必然だったのだろう)。グローバル規模で展開するアンダーグラウンドな「異形」のヒップホップが共有するライムとビートの関係性における「ドープ」という概念は、KRUSHが持ち込んだ「抽象性」と、それが誘発する「抽象」と「具象」のギャップ(抽象的なビートにストリートを描くライムが乗る、MSCやキャニバル・オックスの世界観)にこそ、宿るのだ。その通奏低音が、再び前景化するこのアルバム。DJ KRUSHの25年の営み。僕たちが目撃しているのは、アンダーグラウンド・ヒップホップの生成と隆盛であり、もっと言えばその生き死にの「軌跡」なのだ。

 では、MCたちのライムに表れるKRUSHのビートの「抽象性」の影響とは何だろうか。『軌跡』において、それらは具体的にどのような形を取っているのか。それを確かめるために、近年のKRUSHのビートの抽象性を確認しておこう。

 『覚醒』(1998年)までと『漸』(2001年)以降、2000年を境にサンプラーによるサンプリングから、PCとDAW上の打ち込みのサウンドに上ネタが変化しても、KRUSHの一貫性が保たれているのは、あくまでも重心がかけられている太いビートと、上ネタが保持する「抽象性」によるものだ。『軌跡』のビート群においても、この「抽象性」を担保しているのは、残響音だ。深いリヴァーブ。ロービットで太くドライなブレイクビーツと、比較的高解像度の残響音を湛えるシンセ・サウンドがメインの上ネタは、強いコントラストを成している。

 残響音は、サウンドとリスナーの距離感も示している。ビートは、ダンスフロアで、いつでもリスナーの側で、寄り添うことで、ダンスを誘引する。ビートは、心臓の鼓動のように、身体の中心で、鳴り続ける。その意味で、ドライな音場を持つ音は、非常に身体的だ。一方の深い残響を有するサウンドは、その残響を生み出す空間的な広がりを意識させ、それがある種の想像力へ接続されるだろう。世界の広がりへ向けて、無機物の沈黙へ向けて、あるいは宇宙の静謐さへ向けて、駆動される想像力。幼少期にトンネルで声が響くことを発見し、何度も声を上げた経験があるなら、その響きのために、見知っているはずの世界の表情が少し違って見えたのではないだろうか。

 残響音が示し得るものは多様だ。深い残響音を得るためには、室内の場合は残響音を生みだす空間や壁といった環境が必要だ。1970年代のデジタル・リヴァーブの誕生以降、DAWを用いるビート制作に至るまで、これは実際にはデジタル処理で再現された人工的な響きなのだが、プラグインソフトのリヴァーブのプリセット設定に「ルーム」「ホール」「トンネル」等の名称が一般的に付与されているように、それは一定の「広さ」の音が響く空間が存在し、そのように「遠く」まで「深く」響くことを示している。だから自然とこの深い残響音が聞き手に想起させるのは、「広さ」「遠さ」「深さ」などと結びつくようなイメージだろう。

 であるならば、MCたちのリリックにも「広さ」「遠さ」「深さ」を翻訳したイメージが忍び込むに違いない。例えば、自身の目の前のリアルから「遠く」離れ、どこか別の場所の出来事を描くこと。狭い現実世界とは異なる「広がり」を持った視点で「遠い」風景を物語化すること。MCとしての自分自身から抜け出す、三人称の視点で、それらを寓話化すること。あるいは演出された残響音を擁する舞台装置であるビートの上で、自身をその物語を生きる映画の主人公のように描くこと。

 このことを踏まえれば、このアルバムにおいてまず目に付くのは、物語性を押し出した、寓話的なリリックたちだ。チプルソの“バック to ザ フューチャー”は、歌詞カードの最初に「-Storytelling-」と記されていることでも明らかなように、タイトル通り映画的物語が展開される。そのスペイシーな残響音をまとった上モノのシンセは、リリックにもある通り「部屋の煙」の中で「迷宮の出口」を探している自身の過去、2006年という11年前の記憶を物語化する距離感=「遠さ」の象徴のようだ。RINOもまた、「BACK IN DA DAY」と歌う90年代の日本のヒップホップの現場の記憶を「遠い」物語としてライムしている。また、Meisoが「土砂降りの時代」と歌う現代の日本の状況は、その寓話的な描き方もあり、どこか別の時代の「遠い」場所の物語とも響き合うような、普遍性を獲得しているようにも聞こえる。例えば「外じゃ戦争 中じゃ崩壊/ここじゃジョーカーが王様となる/やるかやられるか環境の産物/天使に生まれて化け物に変わる」というフックに顕著なように。抒情的な旋律を包み込むような残響音が詳らかにするのは、日本の陰部の広大さ、そしてその深淵だ。

 そして志人による“結”においては、「我」とその片割れである人類の「遠さ」がまさに主題となっている。志人は超越的な「我」という「遠い」視点に憑依し、地球規模での人類の蛮行を俯瞰する。ここでKRUSHが提出しているビートは、志人のリリックの深さをも収納できる、深い器であり、彼のフロウが演舞する舞台装置だ。削ぎ落とされた音数の少なさと、その分耳に入ってくる打楽器の残響音の深さ。志人のフロウの音程に場を譲るように、ビートは旋律を規定することもなく、そこに器として全身を差し出している。

 一方で、「駅前」「神奈川座間」「平常運転な日常」といった言葉が頻出するOMSBの“ロムロムの滝”や、MCが日々直面しているスキルやスタイルへのマインドが表明される5lackによる“誰も知らない”は、大雑把にいえば、日常の現実を相手取っている。そしてそのような「具体」性を持つ現実が、「抽象」的なビートに重ね合わせられたときのギャップ=異化効果が両者の組み合わせの醍醐味だ。あるいは「遠さ」の象徴としての残響が深いビートと、「近さ」の象徴として日常を描くリリックのギャップ。かつてブラック・ソートが「迷宮」と言い表した地元フィラデルフィアの街並みと同様、OMSBがそこに棲息する人々を描写しながら闊歩する地元の街並みは、どこまで行っても果てのないラビリンスと化す。そしてそのリリックの傍に現れる、例えば34秒からのシンセ音や、46秒に響くヴォイス・サンプルの残響音の深さは、街の雑踏の深さや、闊歩するOMSBに視線の前を通過する時間の経過を示しているようだ。残響音の深さは、何よりもリリックの光景を映像化する装置として、効果的に機能している。

 これらの残響音が、OMSBのリリック自体に与えている影響。その証左は、ヴァースでは地元の街の極めて具体的な日常の姿を描写しながらも、フックで「現実かどうかはどうでもいい」「見慣れたデジャヴを、常に行き来」と歌っている点にある。なぜならこれは、残響音という演出の施されたビート越しに眺める日常の景色が、非現実的なもの、あるいはデジャヴに映ってしまうという、まさに異化効果への言及だと理解できるからだ。このことに呼応するかのように、KRUSH自身が中盤のインストに「夢境」と名付けているのは、それがアルバムの前半と後半を区切る境でありつつ、個々の楽曲が「現」と、それを異化するような「夢」を行き来する本作において、同曲がその境でもあることを示してはいないか。

 サイエンス・ライターのマーク・チャンギージーが指摘したのは、音楽を特徴付けるのは、音の高さの変化ではなく、「拍=ビート」であることだった。そしてそれは、人間の動作に起源を持っており、具体的には「足音」の似姿であると。この指摘は、ヒップホップというビート・ミュージックには殊更当てはまるように思える。90年代に西海岸という車社会でヒップホップが興隆する以前、ニューヨークのヒップホップのビートとBPMは、颯爽とストリートを歩行する速度とシンクロするBGMだった。“Walk This Way”という例を引くまでもなく、ウォークマンと共に街を闊歩しながら、あるいは彷徨いながら受容されるビート・ミュージックという側面が確かにあったのだ(今やウォークマンなど遠い昔の話に聞こえるかもしれない、ストリーミング・サービスの普及でスマホとイヤフォンで音楽を聞くのが日常となった今こそ、アクチュアリティを取り戻してきているのもまた事実だ)。ラン・DMCのニューヨークから、ブラック・ソートのフィラデルフィア、そしてOMSBの座間へと続く彷徨の「軌跡」を追うこと。そしてそれらのラン・DMCのニューヨークに比べ、KRUSHのフィラデルフィアと座間が、どのような景色をMCたちとリスナーたちに見せてしまうのか。KRUSHのビートは、そのギャップを伴う景色を、残響音を媒介にして示しているのだ。

 しかし本作の解釈はそれだけでは終わらない。都市での彷徨と対置されるべき、“結 –YUI–”における、志人による森林を歩行するBPMは、遅い。それは「追われたてた物の怪や除け者の獣達」の歩みだ。「未来こそ懐かしいものに」することを目指す彷徨だ。「お前だけが良しとされる」都市に対置される自然の歩みにシンクロするBPMをも射程にするのが、KRUSHが提示した異形のヒップホップのドープさであり、その器となるビートであった。同曲は、90年代から加速し続けるヒップホップの商業主義化の中で、2017年現在最もエッジイな異形さを顕現させている楽曲のひとつだ。『軌跡』という作品が到達した地平のラストを締める1曲。この25年という年月でKRUSHの抽象的なビートという器が、どれだけの具象性=言葉を熟成させて来たのか。このアルバムに象られているのは、その「軌跡」でもあった。

 DJ KRUSHにとって、ビート・メイキングとは、スネアの1音、キックの1音の追求とは、何よりも日々の歩行であり、彷徨に準えられる営みだ。KRUSHが次々に踏み出す右足、そして左足としてのキックとスネアの響き。そのことはこれまでの彼のアルバムのタイトル群にも表れていた。それは「迷走」であり、その状態からの「覚醒」であり、継続して少しずつ「未来」へ、そして「深層」へ進む「漸」進であり、この25周年という月日の蓄積が示すものこそが、その「軌跡」だった。

第1回:アメーバの記憶をとりもどせ - ele-king

いくぜ共謀、キャッツアイ
ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!!

 おひかえなすって。栗原康ともうします。こんかいは連載の1発目なので、おもに自己紹介を。わたしは単細胞だ。いまハヤリのミドリムシを食べているとか、そういうことじゃない。たんに細胞レベルでバカなのだ。なにか好きなことができると、サルのようになんどもなんどもおなじことをくりかえしてしまう。それこそおぼえたてのオナニーのように、無闇やたらとおなじことをくりかえしてしまうのだ。たとえば、ずっとハマっているのがドラマをみることだ。毎日、昼すぎにおきて、朝ドラの再放送をみて、テレ東の海外ドラマをみて、午後のロードショーか、相棒の再放送をみて、フジテレビのドラマの再放送をみて、ちょっとだけ夕寝をして、夜ごはんを食べて、また9時からのドラマをみる。それでフロにはいって、ビールを飲んで、深夜ドラマをみて、睡眠をとって、また昼すぎにおきるのだ。毎日、毎日、おなじことのくりかえし。日々精進だ。
 もちろん、はじめからのぞんでそうしたわけじゃない。15年くらいまえからだろうか。大学院にはいって、授業数もすくないので大学にいく機会もへり、しかもカネがないので、外であそぶこともできやしない。埼玉の実家にひきこもった。大学院をでてからは、ほとんど仕事もなくて、奨学金で借金まみれになったので、なかなか東京にでることもできなくなって、ひきこもりに拍車がかかった。それでなにをしたのかというと、ドラマだ、ドラマをみまくったのである。正直、しんどいときもあった。親からもかの女からも友だちからも、おまえそろそろはたらけよ、成長しろよ、大人になれといわれて、ヘドがでるぜとおもいながらも、グッタリしてテレビをつけたら、再放送でみたことのあるドラマがまたやっているわけだ。なんか成長どころか、過去にもどったというか、どうあがいても先へはすすめないとおもわされる。オレの人生、ずっとこのくりかえしか。あたまがグルグルまわって、めまいがする。いきぐるしい。
 でもおもしろいもんで、これをさらにくりかえしていると、きもちよくてしかたがなくなってくる。ドラマが現実になるというのだろうか。いっとき深夜になると、宮藤官九郎脚本のドラマがひたすら再放送されているときがあったのだが、これがまたいい具合に郊外の若者をえがいていて、それこそ『木更津キャッツアイ』(2002年)なんかは、なんどみたのかおぼえてないくらいだ。ちょっとだけあらすじを紹介しておくと、主人公・岡田准一が演じるぶっさんは、20代前半にして無職、地元の木更津でただブラブラしていた。でも、とつぜんガンで余命半年の宣告をうけてしまって、生きかたのみなおしをせまられる。ガーン。こりゃもう死んだつもりで生きるしかない。ということで、やりはじめたのが窃盗団だ。オレ、キャッツアイにあこがれてたんだよといって、地元の野球仲間をあつめて、じゃんじゃかじゃんじゃか、金持ちのものをかっぱらい、ビールを飲んではしゃいでおどる。ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! ひゃあ、サイコーだ。とちゅう、ホームレスの友だちがチンピラにゴミみたいにぶっ殺されて、検死にきた警察にもゴミみたいなあつかいをうけて、ぶっさんが猛烈にブチキレたりと、ド迫力のシーンもあったりするのだが、とはいえ全体としてはコミカルで、ぶっさんが死ぬ、死ぬといって、なかなか死なないというのが肝のドラマだ。死ぬまえにいちどはといって、ぶっさんが東京にいく回もあるのだが、うごく歩道に驚愕して、なんじゃこりゃあ、ウキャキャキャッとサルみたいにはしゃぎまくったりもする。そういうのもみどころだ。くりかえすと、テーマは死んだつもりで生きてみやがれ。ぶっさんの心意気が友だちの心をうって、みんなに伝播していく。そんなものがたりだ。いくぜ共謀、キャッツアイ。ニャア。

過去にむかって進撃せよ
アメーバの記憶をとりもどせ

 そんなドラマをみつづけていたら、いつしか自分もぶっさんの生きかたがあたりまえになっていた。オレもおまえもキャッツアイ、友だちだ。というか、だれだっていま死ぬかもしれないのに、成長だ、成長だ、かせげ、かせげ、もっとかせげと、そんなことやらなきゃいけないなんて意味がわからない。ああ、めんどくせえ。そうおもったら、パッと体がかるくなっていて、この先どうこうじゃない、いまつかえるものをつかって、なんでも好きにやっちまえばいいんだとおもうようになった。親のSuicaをかっぱらって東京にでたり、友だちがやっている大学の授業にもぐらせてもらったり、ゴミ箱からなのか本屋からなのか、どこからともなく友だちが本をひろってきて、それを借りてむさぼりよんだりした。カネがあったらビールを飲んで、なければないでビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! とはしゃいでいると、だれかがかならずおごってくれる。こんどはそのくりかえしだ。ムダなことしかマジになれない。無闇やたらと本をよめ。
 きっとドラマをみるというのは、そういうことなんだとおもう。もじどおり、単細胞になるといってわかるだろうか。ふだん、わたしたちは時間のながれを、未来にむかって上に、上にすすんでいかなくちゃいけないとおもわされている。成長、進歩、あめあられ。子どもから大人へ、野蛮人から文明人へ。もっと文明的に、もっと文明的に。いそげ、いそげ、カイゼン、カイゼンといわれて、そのスピードがどんどんはやまっている。いまだったら、スマホから片時もはなれずに、時間のムダなく情報をつめこんだり、たれながしたりするのが文明的というところだろうか。かせいで、ホメて、ホメられて。自由だ、自由だ、リベラル、リベラル。情報に情報で着飾っていく。
 もはや人間はスマホのデータみたいなもんだ。これ冗談じゃなくて、マジでそうおもっている連中がふえているからこそ、役たたずというか、ずっと街でブラブラしていたり、はたらこうとしなかったり、はたらけなくてグッタリしていたりしたら、つるしあげられたり、襲撃されてぶっ殺されたりするようになっているのだ。家にもいられず、公園にもいられず、ネットにもいられず、施設にいてもやられてしまう。有害なデータは消去せよ。みんなに迷惑かけるから。いそげ、いそげ、ムダをはぶいて、カイゼン、カイゼン。文明社会を防衛しよう。データをとって、不穏分子を事前にハイジョ。抑圧、抑圧、いきつく先はファシズムだ。どうしようもねえ。
 で、はなしをもどすと、単細胞だ。アメーバでもなんでもいいが、単細胞はチマチマなにかをたくわえて成長するんだとか、上昇するんだとか、そんなことは考えていない。だって、なんかグニャグニャうごいているとおもったら、体がバンッとはじけて、ふたつのアメーバに分裂してしまうのだから。しかもひとつの母体から、もうひとつがうまれるわけじゃない。まえのアメーバは消滅してしまって、まったくべつのアメーバがうまれているのだ。そこには、上昇もカイゼンもありゃしない。いつだって、ゼロからはじまるいまこのとき。死んだつもりで生きてみやがれ。ぶっさんだ。ぶっさんが死ぬまえに窃盗団をつくりてえといったのとおなじである。よく考えてみると、むかしもいまも革命や暴動がおこったとき、群衆は自分の命をかるがるとなげすてて、警察や軍隊とバトルしているが、それもおなじことなんじゃないかとおもう。そうだ、人間の身体には、太古から単細胞の記憶がやどっている。あとは、それを覚醒させればいいだけのことだ。きっと、ドラマにはそれをよびさます力がやどっている。ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! リベラルもファシズムもクソくらえ。そもそも文明社会なんていらないんだ。過去にむかって進撃せよ。子どもだ、サルだ、野蛮人。アメーバの記憶をとりもどせ。ドラマをみるということは、文明人の皮をひっぺがすのとおなじことだ。1枚、1枚、ゆっくりとやろう。細胞レベルでさけんでみせる。ドラマバカ一代。ニャア。

Liars - ele-king

 隠された内面の吐露であるとか、もっともらしいメッセージであるとか、「リアルであること」とか……、「シリアス」なロック・ミュージックがおおよそ陥りがちなクリシェ(すなわち停滞)からライアーズはつねに身をかわし続けてきた。何しろ彼らは「嘘つき」だ。ライアーズは2001年のデビュー作からコンスタントに7枚アルバムを発表しているが、作品ごとに極端にサウンドとコンセプトを変えていくというのは批評や聴き手を煙に巻くということに他ならず、つまりバンドの本質を誰にも悟らせないということだ。そもそも本質なんてまやかしに過ぎないとでも言うように、飄々と実験で遊んできたことがライアーズをライアーズたらしめてきた要素であった。もしライアーズがポストパンクであるならば、それはたんなる音の記号の引用ではなく……スーサイドのシンセ・サウンドでもギャング・オブ・フォーのベースラインでもなく、知性とユーモア、それにアイデアで停滞を乗り越えていこうとする態度のことである。
 だが、8作めとなる『TFCF』の再生ボタンを押せば、1曲め、“The Grand Delusional”ではすすり泣くようなアコースティック・ギターの演奏とアンガス・アンドリューの歌が聞こえる。ジョークでは……なさそうである。アンドリューは本作のことを「孤独であること」を見つめたものだと説明している。そして、そこに潜るためにアコースティック・ギターが必要だったと。「“リアル・ミュージック”って最悪な言葉のセンスだ」と言いながら、それでも彼にとってなにか「リアル」なものがこのアルバムにおいては必要だったのである。ライアーズは嘘つきであることを手放したのだろうか?

 そこには、バンドの内的要因が働いている。本作の制作に取り掛かる前、結成以来のメンバーであったアーロン・ヘムフィルが離脱。ライアーズは実質アンガス・アンドリューのソロ・プロジェクトとなる。アンドリューは自身が育ったオーストラリアに居を移し、人里離れた場所でひとり音楽創作と向き合うこととなった。
 テクノ的にかっちりとしたエレクトロニック・ビートとプログラミングを多用した前作『メス』と本作は極めて対照的で、これまで避けてきたアコースティック・ギターの演奏とサンプリング・ワークが『TFCF』において大きなサウンドの特徴となっている。が、それはこれまでのコンセプト主義によってもたらされた変化ではなく、やむにやまれず取り組まれたものだ。アコギを弾くことで触発されたのか、歌詞はひどく内面的。躁的だった『メス』とはこれも対照的に、全編を通してダウナーなムードに満ちている。初期のシャープさもない。ライアーズが一角を担っていたとされるブルックリン・シーンやポストパンク・リヴァイヴァルが霧散したいまとなっては余計に、何やら物寂しげなアルバムである。アコギの弾き語りにシンセの丸い音をいくつか与えたばかりの“No Help Pamphlet”、弱々しく歌うバラッド“Ripe Ripe Rot”など、ライアーズらしからぬ寂寥感が響いてくる。
 だが……ウェディング・ドレス姿のアンドリューと見つめ合いながらアルバムを聴いていると、彼が諧謔を捨てていないことがにわかに伝わってくる。ライアーズを培ってきたエクスペリメンタリズムはもはやガッチリと根を張り、自然と茎を伸ばしている。西部劇が爛れたシンセ・ポップに侵食され飲み込まれていくかのような“Cliché Suite”、呪術的なノイズが蠢くばかりの“Face To Face With My Face”、アコースティックなリフが脱力的なダンス・サウンドで脱臼する“No Tree No Branch”、ベック『オディレイ!』をすさまじくダルくしたかのようなサンプリング・コラージュ“Cred Woes”、高圧的なビートと低音がランダムに叩きつけられる“Coins In My Caged Fist”……。たしかにこれまでのような都会のアート・ロックという佇まいではなくなっているが、オーストラリアの美しい田舎の風景のなかで作ったにしては何かが強烈に歪んでいる。ディス・ヒート『ディシート』が時空を超えて蘇ったかのような不穏さと奇妙さ。『TFCF』には彼、アンガス・アンドリューの「リアル」な内面の探求がたしかに込められているはずなのに、その表出において「シリアス」な聴き手を何度もからかっているようだ。あるいは内面に沈みこもうとする自分自身も。存在の危機に直面してなお、嘘つきの矜持は守られたのである。


ハテナ・フランセ - ele-king

 シモーヌ・ヴェイユとジャンヌ・モロー、最近亡くなった一見あまりつながりのない2人を取り上げたい。

 シモーヌ・ヴェイユは1927年、ジャンヌ・モローは1928年生まれとほぼ同じ歳の2人は正反対のやり方ながら、フランスの女性観を大きく変えた。
 日本語読みでは「重量と恩寵」の哲学者と同じや読み方だが、苗字の綴りが違うフランスの政治家シモーヌ・ヴェイユはユダヤ系のブルジョワな家庭に生まれ、第二次世界大戦中はアウシュビッツ強制収容所に一家で容され妹と彼女だけが生き延びるという凄絶な少女時代を過ごした。ジャック・シラク、レイモン・バール両内閣で保健相を務め、1975年に妊娠中絶を合法化し、その法は彼女の名を取ってヴェイユ法と呼ばれた。そのことにより彼女は「女性の権利を守った重要な政治家」として亡くなるまで高い評価と尊敬を集めた。だが、シモーヌ・ヴェイユは実は先進的なフェニミストではない。元々保守的なブルジョワジーの家庭に育ち、政治家を目指す夫と3人の子を成し添い遂げるという、保守的なスタイルを生涯に渡って貫いた。もともと政治家への道は実は彼女の夫が目指していた道だったが1974年にその夫を差し置いて保健相のオファーを受け、夫は逆に政治の世界から退き彼女をサポートした。だが、それでも彼女の保守的な姿勢は変わることなく、保健相として妊娠中絶を合法化したのも女性の権利という観点ではなく、違法な中絶を受けることにより損なわれる健康被害という観点から取り組んだ法案だったという。政治界を退いて久しい2012年、オランド政権が同性婚法を成立させようとする中、シモーヌ・ヴェイユは法案に反対の立場を表明したのだった。完全に今の政治的正しさの逆を行く発言に「そんなピント外れな発言をわざわざして輝かしく保っていたキャリアにミソをつけなくても……」とフランスの多くのインテリ層はがっかりした。シモーヌ・ヴェイユは保守的な政治的信条を曲げぬまま、フェミニズム史上に名を残す業績を残した稀有な女性政治家なのだ。

 対してジャンヌ・モローは、生涯を通じて社会の枠組みの中で女性にかけられていた制限をことごとく壊し、自由を標榜し続けた女性だ。彼女はシモーヌ・ド・ボーヴォワール、カトリーヌ・ドヌーヴらと並んでヴェイユ法を通すための署名をした有名人の一人だが、”イズム”という枠組みにはめられたくないということでフェミニストではないと公言していた。1975年、テレビのインタヴューに応えたジャンヌ・モローの映像は今でも度々メディアで引用されるほど伝説のものとなった。Youtubeなどでも見られるが、ヴェイユ法を通すための署名になぜ参加したのかなどを、階級社会であるフランスにおける貧しい女性たちの置かれた過酷な状況へ鋭く言及しつつあくまで個人的な視点を保ちながら話している。緑のドレスを着てタバコを燻らせながらアンニュイに、時にジャーナリストの挑発に反抗的な色を目に宿しながら反論するジャンヌ・モローは美しく痺れるほどかっこいい。結婚を2回し子供を1人持ったが、子供は欲しくなかったとメディアで堂々と話し物議を醸し、出産も2時間という超特急で済ませ分娩室から戻った途端に監督に電話し18日後には撮影現場に戻れると宣言したという。離婚後も自他共に認める誘惑者たるべく、幼い息子と一緒に暮らしながらもいつでも恋人を招けるように大きな家に住み、そのせいで一人息子のジェロームは子供の頃から孤独に苦しんだという。従来男性にとっては勲章であり、女性にとっては侮蔑にもつながりかねない誘惑者のレッテルを堂々と引き受け謳歌すること、それがフランス映画界のトップ女優によって発せられることによって、フランスにおける女性のあり方そして女性観は確実に変わったと言えるだろう。そしてシモーヌ・ヴェイユがインテリ層をがっかりさせたのと同じ最晩年の2013年、ジャンヌ・モローはロシアで拘束されていたプッシーライオットのメンバーの解放を求め声明を発表する。それにより老いてもなおジャンヌ・モローの知性と政治的姿勢は少しも揺るぎないことにフランス国民は尊敬を新たにしたのだ。

 6月末に4人の閣僚が身内雇用疑惑などで相次いで辞任するとともに、これまでの大統領と結局変わらないのではという失望感を持たれ始めている現マクロン政権だが、政権発足当時閣僚の半数が女性、そして重要なポストをバランスよく占めたことをフランス国民は高く評価した。ここに至るまではシモーヌ・ヴェイユやジャンヌ・モローらのような女性たちの戦いが日の当たる場所当たらない場所で数かぎりなくあったに違いない。

Vacant - ele-king

 ヴェイカントなる名前からも察することができよう。完全にベルリアル・フォロワー。10数年前はアルファやファーリーズのメンバーなんかとも一緒にやっているので、新人というわけではなさそうだ。配信のみだが“High Rise”なる曲も発表しており、J.G.バラーディアンぶりもしっかり見せている。『アントゥルー』の続きを聴きたかった……という人にはオススメである。
 UKアンダーグラウンド・シーンも過渡期の真っ直中にあり、こうした寄り戻し、バック・トゥ・ベーシックがそれを物語っている。ハウス・ミュージックと同じように、2ステップ・ガラージのリズムも汎用性が高く、雑食的な展開が可能で、なおかつメロディも載せやすく、とにかく型としての応用がきく。ベリアルは敢えてそれをやらない試練/苦行を自らに課したわけだが、殺風景な都会のランドスケープのサウンドによる描写は、今日の厭世的な動きとリンクする。ヴェイカントの12"と同時にリリースされたエイサー(Aether)の12"、ないしはこのレーベル、〈Fent Plates〉のコンピレーションを聴けばわかることだが、それら作品にはベリアルを教科書にしながら、この5年のあいだに起きた厭世派が好むところのダーク・アンビエントやチルウェイヴをはじめ、トリップホップ、ウェイトレス、ディープ・ハウス、ブロークンビート・リヴァイヴァル、IDMリヴァイヴァルがミックスされている。まあいかにもUKらしい折衷ぷりで、ハウスを基本とする〈Rhythm Section International〉が〝陽〟といえるなら、〈Fent Plates〉は徹底した〝陰〟であり、終末的な雰囲気を弄んでいるようですらある。エイサーの12"の題名は「私たちがかつて持っていた未来」……だ。

 ちなみに〈Fent Plates〉傘下には〈White Peach〉なるサブレーベルがあり、ここからはパワフルなグライムの12"が精力的にリリースされている。今年に入ってからもすでに8枚も出しているようだから、すごい勢いである。ぼくがゲットしたのはOpusという新人の「 Marbles EP」だが、ダンス・ミュージックへのパッションのなかに初期ダブステップの見直しがあり、また、インストゥルメンタル・グライムがいま音楽の実験場にもなっていることも示している。もっと詳しいことが知りたければ、下北沢の階段を上がってZEROのドアを開けることだ。

Toro Y Moi - ele-king

 夏の夕暮れどきのビーチにピッタリの音楽が今年もいろいろとリリースされた。『ele-king』のレヴュー・コーナーで取り上げたものだと、ウォッシュト・アウトの『ミスター・メロー』やピーキング・ライツの『ザ・フィフス・ステイト・オブ・コンシャスネス』がそれにあたる。そして、かつてウォッシュト・アウトと共にチルウェイヴの旗手として鮮烈に登場したトロ・イ・モワことチャズ・バンディック(チャズ・ベアー)。彼の新作『ブー・ブー』も2017年の夏を彩る1枚だ。ウォッシュト・アウトもトロ・イ・モワも、いつも夏シーズンにアルバムをリリースすることが多いが、そのあたりはもう確信犯的とも言える。そして、両者には共通項も多い。初期のシューゲイズ的な作風から、次第にディスコなどを取り入れたダンサブルなサウンドへと変化していった点がそうだ。

 トロ・イ・モワについて言えば、そうした変化の兆しは既にセカンド・アルバムの『アンダーニース・ザ・パイン』(2011年)の頃から見られ、EPの「フリーキング・アウト」(2011年)ではシェレールとアレキサンダー・オニールのクラシック“サタデー・ラヴ”をカヴァーし、1980年代前半のブラコンやシンセ・ブギーをリヴァイヴァルするデイム・ファンクあたりともリンクしていた。サード・アルバムの『エニシング・イン・リターン』(2013年)では、そうしたダンサブルな傾向はハウス・サウンドとの融合という形で表れている(チャズの別名義のレ・シンズは、この路線をさらに強化したエレクトロニック・ダンス・プロジェクトである)。この年はダフト・パンクの『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)がリリースされるのだが、そうしたディスコ/ブギー回帰とも同期した作品と言えるだろう。その後、第4作目の『ホワット・フォー?』(2015年)は1970年代のトッド・ラングレンやチン・マイア、コルテックスなどにインスパイアされたというように、ロックやポップ・ミュージック、AORに改めて向き合うような作品が目に付いた。彼の作品中でもっともロック~シンガー・ソングライター色が濃い作品で、チャズのギターを中心に、バンド演奏が前面に出た録音である。

 今年2017年に入るとチャズは、双子のジャズ~ポスト・ロック~サーフ・ミュージック・コンビのマットソン2とのコラボ作『スター・スタッフ』を発表する。『ホワット・フォー?』の路線をよりエクスペリメンタルなジャム・バンド風セッションへと導き、ジャズ、ロック、ファンク、ディスコなどが融合した内容で、チャズのギタリストとしての魅力も最大限に発揮されている。今までのチャズの作品の中でも毛色の変わったコラボ作品となったが、その反動としてメイン・プロジェクトであるトロ・イ・モワの新作『ブー・ブー』は、セルフ・プロデュースでほぼひとりで全楽器を演奏している。ほとんどインスト集だった『スター・スタッフ』に対し、チャズのヴォーカルが多く配され、またギターではなくシンセを中心とした80sサウンドを軸とした作りとなっている。バンド作品的であった『ホワット・フォー?』とも異なり、『エニシング・イン・リターン』以前のセルフ・スタイルへと回帰している。サウンド的には『ホワット・フォー?』でのポップスやAOR、『エニシング・イン・リターン』の頃のブギーやディスコが結びつき、トロ・イ・モワ作品中でも極めてソウルフルでメロウなアルバムとなっている。たとえば“ミラージュ”はボビー・コールドウェルやデヴィッド・フォスター路線のAORディスコ。山下達郎など和モノ・ディスコにも繋がる曲だし、ウォッシュト・アウトの『ミスター・メロー』と同じ方向を向いていると言えよう。“インサイド・マイ・ヘッド”も同系のナンバーで、よりエレクトリック・ブギー色が強い。“モナ・リザ”は日本好きの彼らしく、日本語の天気予報ニュースのSEを配しているのだが、楽曲自体は80sシンセ・ポップ的な作品。“ラビリンス”は80年代のポリスとかティアーズ・フォー・フィアーズの曲などと遜色ない作品だ。先行シングル・カットされた“ガール・ライク・ユー”はじめ、“ウィンドウズ”や“ユー・アンド・アイ”は、そうした80年代のシンセ・ポップやエムトゥーメイなどのブラコンと、現在のフランク・オーシャンやブラッド・オレンジなどのアンビエントなR&Bを繋ぐ曲である。“ノー・ショウ”や“W.I.W.W.T.W.”は、アルバム全体を貫くメロウネスとチャズの実験的な側面がうまく融合している。特に“W.I.W.W.T.W.”は曲の途中から前半と全く異なるアンビエントな展開を見せる。“ミラージュ”や“インサイド・マイ・ヘッド”でのポップな側面と、この“W.I.W.W.T.W”における実験性の落差。そんな両面を有するところがチャズの最大の魅力だろう。

Iglooghost - ele-king

 まだ20歳だという気鋭のプロデューサー、イグルーゴースト。すでに〈Brainfeeder〉から「Chinese Nu Yr」(2015年)と「Little Grids」(2016年)の2枚のEPをリリースしている彼が、9月29日に待望のデビュー・アルバムを発売する。先行公開されたシングル曲“Bug Theif”の雑食性はさすが〈Brainfeeder〉と言うべきか、次々といろんな要素がぶち込まれていく展開は飽きがこない。これはジェイムスズーに続く期待の星である。要チェック。


IGLOOGHOST

フライング・ロータス主宰〈Brainfeeder〉から
待望のデビュー・アルバム『Neō Wax Bloom』を9月29日にリリースする
弱冠20歳のUK発気鋭プロデューサーのイグルーゴーストが
先行シングル「Bug Theif」を公開!


弱冠20歳のUK発気鋭プロデューサーのイグルーゴーストが、フライング・ロータス主宰〈Brainfeeder〉から待望のデビュー・アルバム『Neō Wax Bloom』を、9月29日にリリースする。2015年の4曲収録デビューEP「Chinese Nü Year」の続編とも言える本作は、ミステリアスなマムーの世界に遭遇した巨大なふたつの目玉にまつわる話をもとにしており、強烈で狂った世界観を演出している。また京都を拠点に活動するドリーム・ポップ・プロデューサーCuusheやMr. Yoteらが参加している。LPには12ページのリソプリント・ブックレットと『Neō Wax Bloom』のキャラクター・ステッカー・シートが封入される。
アルバム・アナウンスに併せて先行シングル「Bug Thief」が公開された。

Iglooghost - Bug Thief
https://youtu.be/2Y1rWasqPMA

『Neō Wax Bloom』アルバム・プリオーダー (iTunes)
https://apple.co/2wlpUGj

Label: Brainfeeder
Artist: Iglooghost
Title: Neō Wax Bloom

Release Date: Sep.29th, 2017

Format: CD/2LP/Digital

Bicep - ele-king

 アンドリュー・ファーガソンとマシュー・マクブライアからなるハウス・デュオ、バイセップ。すでに多くの12インチを発表しており、“You”(2012年)や“Just”(2015年)などで高い評価を得ている彼らだが、遂にそのデビュー・アルバムが9月1日に〈Ninja Tune〉からリリースされる。これは注目。


Bicep待望のデビュー・アルバム『Bicep』が
〈Ninja Tune〉より9月1日に遂にリリース!
そして先行シングル 「Aura」が公開!
また10月7日にContact Tokyoにて来日公演が決定!

先行シングル:Bicep - Aura [Official Audio]
https://youtu.be/Xvlym4g9SQQ

Coachella、Glastonbury、Primavera、Melt、Dekmantel、 Lovebox、Parklifeへの出演、また2016年『Resident Advisor』年間DJランキングにて第8位に選出され、現行エレクトロニック・ミュージック・シーンにおいて最も信頼のおけるキュレーターして知られるロンドンを拠点に活動するマット・マクブライアーとアンディ・ファーガソンのデュオ、バイセップが、セルフ・タイトルのデビュー・アルバムを〈Ninja Tune〉より2017年9月1日に発売する。
この10年、ふたりはFeelmybicepというブログを通じて、インスパイアの源となる音楽を紹介してきた。最初はレコード収集の趣味を披露する場として始めたが、結果的にはさまざまな活動のきっかけへとなっていった。2008年に開設したこのブログには月に10万人が訪れるようになり、ここから同じ名前のレコード・レーベルやクラブ・イベントが誕生することになる。そしてふたりはUKのみならず、ディープダグ・ハウスとディスコ(再発見され、再び機会を与えられた)をミックスしたエディットとアップフロント・トラックのブレンドなど、ブログで人気のDJセットを携えて、国際的なステージに立つようになった。その結果、今日のエレクトロニック・ミュージック界で、大きな信頼と高い評価を得るキュレーターとして尊敬を集めるようになった。バイセップは、〈Throne Of Blood〉〈Traveller Records〉〈Mystery Meat〉〈Love Fever〉といったレーベルと手を組んだ後、ウィル・ソウルの勧めで彼の〈Aus Music〉から作品をリリースしたが、その中にはすでにクラシックと化した「Just EP」も含まれている。あちこちで耳にするタイトル・トラックは、誰もが認める2015年のクラブ・トラックで、『Mixmag』と『DJ Mag』双方の「Track of the Year」を獲得した。また、もうひとつの先駆的なUKデュオ、シミアン・モバイル・ディスコとコラボし、ディスクロージャーやブラッド・オレンジ、808ステイトのリミックスもおこなっている。

「ぼくらにとって大切なのは、大きな眼で音楽を見つめているレーベルの一員になることだ」
「〈Ninja Tune〉には固定概念を持たれるような制限を感じなかった」

またアルバム・リリース・ツアーの一環として、Contact(東京)にて10月7日に来日公演が決定している。

[来日公演]
10月7日@Contact Tokyo
https://www.contacttokyo.com/

label: Beat Records / Ninja Tune
artist: BICEP
title: Bicep

release date: 2017/09/01 FRI ON SALE
cat no.: BRZN244
price: ¥1,929+tax
国内盤仕様: 帯/解説・歌詞対訳付き

[ご予約はこちら]
beatkart: https://shop.beatink.com/shopdetail/000000002175

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