「Nothing」と一致するもの

Roma/ローマ - ele-king

 スティーヴン・スピルバーグがストリーミング・サーヴィスはアカデミー賞ではなく、TVドラマを対象としたエミー賞で扱うべきだったと提言を下した『ローマ』。世界で同時配信される前に3週間の劇場公開をしているのでアカデミー賞を競う条件は満たしていると反論するネットフリックス(カンヌは選考外としている)。前にも書いたようにNHKニュースでも『グリーンブック』はほぼスルーで、『ローマ』を観ること=映画はもはや映画館で観る時代ではなくなるという論点ばかりが語られ、それはもしかすると最大で66億円もつぎ込んだというキャンペーンの成果なのかもしれないけれど、いずれにしろ横長のスクリーンで観たいと思ったこともあり、遠くの映画館まで足を延ばしてきた(都心ではやっていない~)。結論からいうと『トゥモロー・ワールド』よろしく横に水平移動するカメラが多用され、それも視点が移動したりしなかったりと効果も臨機応変で、画面の右側を三分の一しか使わない構図など、バカでかいTVを持っていない僕としてはスクリーンで観たことは完全に正解だった(ちなみに僕が行った回はガラガラで、珍しくおっさんばっかり)。

 オープニングがまず美しい。画面いっぱいに敷石が映し出され、やがてそれが水浸しになっていく。水たまりには空が映り、はるか上空を飛行機の陰が飛んでいく。いつまででも観ていられるアート・フィルムのようで、真上から撮っていたカメラが視点を上昇させていくとヤリッツァ・アパリシオ演じるクレオが掃除を終えて家に入っていくシーン。この質感はヌエーヴォ・シネ・メヒカーノそのもの。ハリウッド以前は世界の映画シーンをリードしていたメキシコが50年ぶりに再生を賭けて起こした芸術運動がヌエーヴォ・シネ・メヒカーノで、イニャリトゥ『アモーレス・ペロス』(00)が代表作とされている。カルロス・レイガダス『闇のあとの光』(12)のようなマジック・リアリズムは一切なく、端正なモノクロ仕上げはキュアロンが製作したフェルナンド・エインビッケ『ダック・シーズン』(04)と同じくルイス・ブニュエルの精神に立ち返ったことを表している。クレオは同じく先住民のアデラと共に家政婦として働いていることがだんだんとわかってくる。彼女たちが住み込みで働いているのはアントニオとソフィア夫妻に子どもが4人とグランマのテレサを加えた7人構成の中産階級の上……ぐらいの家。アントニオが車で帰ってくるシーンが序盤のハイライトになるだろうか。ただの車庫入れをここまで誇張して描くかと思うほどバカみたいなアップが笑ってしまう。それはおそらく子どもにはそう見えていたということで、この映画は実際、キュアロン自身の子ども時代を描いたものらしく、舞台はメキシコのローマ地区、時代は1970年から71年にかけて。ちなみにキュアロンは自分が特権階級として育ったことに罪悪感があるとも語っている。

 クレオとアデラはこまめに働き、休みになるとボーイフレンドたちとドイツ映画を見たり、ベッドを共にしたり。繁華街のにぎやかさといかがわしい物売りたちのデモンストレーションは念入りに再現されていて、TVに登場するビックリ人間なども含めて、それらは子どもたちに見えていた世界観が色濃く反映されているのだろう。子どもたちが様々な遊びに興じるなか、そして、アントニオはカナダに出張で出掛けていく。(ここからはネタバレというと大袈裟だけれど、知らない方が楽しめるストーリー展開で)雹に打たれて遊んでいる子どもたちを呼び寄せ、出張中の父親に手紙を書くよう指示したソフィアにクレオは自分が妊娠したこと、そして、そのことを話すとボーイフレンドは行方をくらませてしまったことを告げる。「クビですか?」と尋ねるクレオにソフィアはそんなことはしないといって翌日、かかりつけの病院にクレオを連れていき、自分は別な医者とベタベタしている。診察を済ませたクレオは「新生児室を見てくれば」とソフィアに促されるまま生まれたばかりの赤ちゃんたちを眺めているといきなり大地震に襲われる(前の日にTVで3・11特番を目にしていた僕はこの場面、本気で怖かったです)。

『ローマ』には様々な音楽が流れているものの、それらはすべて作中で鳴っている音楽であって、いわゆる劇伴はまったくつけられていない(最後にエンドロールでクレジットされている曲の多さにはあッと驚くものがあった)。にもかかわらず、場面転換は非常にリズミカルで、どちらかといえばミニマリズムに近い作風ながら、だらだらとして思わせぶりなカットが多いデヴィッド・リンチとは対照的に編集のテンポだけで淀みなく日常は織り成されていく。先住民たちが住むゲットー地区の描写を経てクレオがテレサに伴われて家具店に赤ちゃん用具を探しに行くと、外で渦巻いていた学生たちのデモ隊が政府に支援された武装組織と衝突し、後に120人が殺害されたことが判明する「血の木曜日事件」が勃発。家具店の中に「殺さないでくれ」と逃げ込んできた学生を撃ち殺したひとりがクレオに銃を向けたまま、しばらく微動だにせず、やがて走り去っていく。それはクレオを妊娠させたフェルミンであった。クレオはそのショックで破水し、病院に運び込まれる。テレサは病院のスタッフにクレオの名前や家族のことを訊かれるものの、ミドルネームすらわからず、ほとんどのことには答えられない。そして分娩室でクレオが産んだ子どもは死産であった(新生児のベッドが地震で瓦礫に埋まったり、新年のお祝いでコップを割ってしまうなど予兆はいくらでもあった)。

 打ち沈んだクレオには休暇のつもりで、ソフィアは子どもたちと海辺の避暑地へ行こうと提案する。実は出張だといっていたアントニオはそのまま別な女性と駆け落ちし、留守の間に本棚を運び出しに来ることになっていた。ソフィアもクレオも男に裏切られたと言う意味では同じ境遇になったのである。キュアロンは前作『ノー・グラヴィティ』で生きることに絶望した宇宙飛行士ライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)がもう一度生きようという意志を持った時に「重力」がその助けとなるという設定を与えていた(原題は『グラヴィティ』で、邦題が『ノー・グラヴィティ』だと教えると英語圏の人たちにはバカ受けします)。しかし、もう一度生きてみようとストーンが思い直す時に彼女は幻覚を見ていて、ジョージ・クルーニー演じるマット・コワルスキー(=男)がそのアシスト役になっている。それが『ローマ』ではアントニオとフェルミンだけでなく、他の細かいシーンでも男性は役立たずか裏切り者として描かれ、男たちは見事に女性が生きることを邪魔する存在でしかない。それは意図的なのかもしれないし、キュアロンにとっての過去が偶然にも#MeTooと共振しただけなのかもしれない。ビーチで繰り広げられるクライマックスではソフィアとクレオには階級差がなくなったともとれるような場面が逆光の中に映し出される。そして、死産がクレオにとって悲劇ではなかったことが明かされる。

 ソフィアはしかし、あまりにも強い女性として描かれすぎな気もしないではない。母親に求めるものが多過ぎると批判された細田守『おおかみこどもの雨と雪』(12)と同じく、妊娠したことで戸惑うクレオと比較して何に対してもめげる様子を見せないソフィアの気丈さはさすがに尋常ではない。女性がその意志を貫くという意味では初期の代表作『天国の口、終りの楽園。』にも通じるものがあるのかもしれないけれど、この作品が扱っている人種問題や経済格差、あるいは#MeTooに通じる部分よりも僕はどうしてもそこが気になってしまった。マザコンをよしとするメキシコの気風なのかもしれないし、キュアロンが母親の弱い面を見ないで育ったというだけのことかもしれない。わからない。ちなみに最初から最後まで犬だらけで、犬と人間の距離感も僕にはナゾだらけでした。

『ROMA/ローマ』予告編
                  

sugar plant - ele-king

 90年代の日本の音楽シーンにおいてもっとも重要なバンドのひとつ、シュガー・プラントが超久しぶりにワンマンをやります。ヴェルヴェッツ系のサウンド、ヨ・ラ・テンゴやギャラクシー500とも音楽的同士といえるそのサウンドをたっぷり堪能しましょう。なお、当日の入場者全員には、名作『headlights』からの6曲のダブ・ヴァージョンを収録したCDRがプレゼントされます。

sugar plantワンマン『another headlights』
4月20日 (SAT)
新代田FEVER
open / start 16:30
sugar plant on stage 18:30
guest DJ : マイケルJフォクス
前売3,000円 当日3,500円 ドリンク別
チケット:e+、ローソン(Lコード:70464)、FEVER店頭にて発売中

入場者全員に6曲入りDub Album『Another Headlights』CDRプレゼント

sugar plantのキャリアを総括するワンマンが決定!
94年リリースの『hinding place』から昨年リリースの『headlights』まで25年の歴史を振り返るスペシャル・ライヴ。
また当日ご入場のすべての方に『headlights』収録曲のうち6曲をオガワシンイチ自身がDub Mixした『another headlights』のCD-Rをプレゼント!『another headlights』は5月中に配信でリリースの予定。

sugar plant
Galaxie500やYo La TengoなどのUSインディーに大きな影響受けたロック・バンドとして活動を開始、当初からはっきりと海外志向があり実際すべての音源が海外リリースとなっている。3度にわたるアメリカ・ツアーではSilver ApplesやLow、Yo La Tengoなどとの共演も経験し当時まだ人気のあったカレッジ・チャートでは大きな評判となった。90年代中旬、日本のクラブ・シーンの黎明期をメンバーがその中心で体験したことによりバンドのサウンドもより広がりを見せ、ポスト・ロックや音響派の先駆けとしても評価は高い。
sugarplant.com

 UKのアンダーグラウンド・テクノ・シーンと共振するファッション・ブランドのC.Eがまたまたカセットテープをリリースする。今回は、Ben UFO、Peason Sound、Pangaeaが共同主宰する〈HESSLE AUDIOや〉Batu主宰の〈TIMEDANCE〉といった人気レーベルからのリリースで知られる、UKのプロデューサー/DJのPLOYによるミックス作品。値段も1000円とお手頃で、収録されている音もデザインも格好いいです。お早めに!


タイトル:PLOY
アーティスト:PLOY
価格:1,000円(税抜)
発売日:2019年3月23日(土)
販売店舗:C.E 東京都港区南青山5-3- 10 From 1st #201
問い合わせ先:C.E


『何が私をこうさせたか』は、わずか23歳で獄中自殺した大正時代の活動家・金子文子が遺した膨大な自伝であるが、このタイトルは官憲が文子について最も知りたがり、文子に投げかけ続けた問いそのものである。文子はこの世に存在するものすべてをぶち壊したいと本気で思っていた。文子は大逆罪の疑いで引きずり出された法廷を舞台として、同志でありパートナーである朝鮮出身の活動家・朴烈とともに、攻撃的かつ切実な言葉で自身の思想を開陳し続けた。文子を尋問した者、裁こうとした者、取り締まらんとする者は、文子を見て思った──どうして金子文子は、「こう」なのか?

「此の呪いを何処に持って行くか、自然を呪い社会を呪い生物を呪って私は総ての物を破壊して自分は死なうと思ひます。」(『裁判記録』15ページ、カタカナをひらがなに訂正している)

 文子の思想はまぎれもなく文子のものであったが、官憲どもは文子から何度も思想を奪おうとした。やつらは文子の思想を、文子の激情を、文子という人間が心から抱いているものだと認めたくなかったのだ。頭がおかしいのではないか? そんなに激昂するのは生理だからか? 身体の具合が悪いのではないか? その思想は朴烈への義理立てなのではないか? その信念を断念するわけにはいかないか? 違う学問をするわけにはいかないか? 文子の裁判を担当した立松判事は、何度も何度も転向するよう文子を説得した。文子は「かわいそうな女の子」として憐れまれ、舐められ続けていた。
 文子の苦しみはいつも主体性にあった。無戸籍児として教育のかわりに虐待を受け続けた文子の生い立ちがどれほど選択肢のないものであったかは、自伝で確認できる通りだ。文子は教育を渇望していたが、「女だから」という理由でその意志は尊重されなかった。選びたい道を選ぶ自由はなかった。文子は存在しているようで存在していないことになっていた。その地獄から立ち上がり、「私は私自身を生きる」という信念を貫き通すために、文子は主体的に死を選んだのである。

 2月16日よりイメージフォーラムほか全国で放映中の映画『金子文子と朴烈』(原題『朴烈 植民地からのアナキスト』)は、関東大震災における朝鮮人虐殺の正当化のため「テロを企てた朝鮮人」として起訴された朴烈と文子の裁判を中心に描いた作品である。
 正直に言って、私はこの作品を高く評価できない。私が文子に強すぎる思い入れを持っているからかもしれないが、「金子文子の人生」を扱った作品として期待はずれであったと言わざるを得ないからだ。文子の人生を朴烈の人生に合わせて切り取るやり方が気にくわないからだ。今作では文子の葛藤がすっぱりと消えている。「女性」という役割、思想の変化、死との対峙について、文子が一人で考え込んでいたことは描かれない。妙に「男を愛する女」なのである。それもまた文子の一側面であるとは思うが、この作品に出てくる文子は、私が痛いほど感情移入した文子とは違う。
 そして朴烈についても、確かにかっこいいのだが、虚無主義者としての側面はほとんど描かれない。朴烈が社会に突き立てた鉾がいかに鋭いものであったか、その鉾が何を目指すものであったかについて、ありのままに描いてほしかった。

 ただ、批判を始める前に書いておきたいことがある。この映画に込められた思想と深い怒り・悲しみについて、私は深く敬意を表し、加害者の系譜を持つ者として引き受ける覚悟を持たねばならないと考える。今作の原題が「朴烈」であるように、製作者が光を当てようとしたのは、民族主義者として日本の帝国主義に抵抗した朴烈の姿だ。作中では日本で起きたすさまじい朝鮮人差別と迫害・虐殺の歴史が描かれる。文子と朴烈の運命を狂わせた関東大震災における朝鮮人虐殺事件では、6000人以上(この数字は「わかっている限り」であり、実際はもっと多いであろう)の朝鮮人が日本人自警団によって殺害された。映画には登場しないが、例えば千葉では陸軍が捕縛した朝鮮人を各地の村落に引き渡し、分担して殺害させたというおぞましい記録が残っている。虐殺はデマと混乱のなかで市井の人々によって行われ、伝播していったのだ。決して「昔の悪い人」が犯した「誰かの罪」ではない。今作は歴史を忘れるなという悲痛な叫びそのものであり、耳をふさぐわけにいかない。
 私はアナキストであり、おのれの意志に従わないあらゆる所属を否定するが、この考えが構造的・歴史的責任を回避する言い訳になっては絶対にいけないと思っている。日本の帝国主義の被害を受けた人々からすれば、わが思想と関わりなく私の姿は加害者の流れに属するものとして映るだろう。人間として相手の苦しみを想像し、おのれにできることを考え、引き受けるべきものはきっちり引き受けたい。私はこれからこの映画への批判を書き連ねていくが、この批判は『金子文子と朴烈』が持つ政治的文脈の否定、映画の背景となる歴史の否定では決してない。そうなってはならない。
 以上、私の批判が私が尊重したい潮流をどこかで抑圧するのではないかと心配しているがゆえに、ごく長い前提を説明させてもらった。それでは内容に触れていくこととする。なお、このレビューは史料から確認できることを映画の内容と比較する内容を中心としている。映画はフィクションなんだから気にするほうが野暮だと言われるかもしれないが、史実に基づいて描いたと標榜している作品であること、この映画がどのように過去を切り取っているのかを確認するために意義のある行為であると判断した。セリフや展開など各種ネタバレへの配慮はないので、気にされる方はどうかこの先は鑑賞後に読んでいただきたいと思う。

 物語は朴烈と文子の出会いから始まる。当時「社会主義おでん」の通称で親しまれた「岩崎おでん屋」で働いていた文子が、朴烈の書いた詩「犬ころ」に魅せられ、出会い頭に告白するのだ。文子は「私もアナキストです」と名乗る。
 この時点で実際にあったこととは相当食い違っている。まず文子が朴烈と出会ったとき、二人はすでにどちらもアナキストではなくなっていた。虚無主義者=ニヒリストであり、二人とも宇宙の万物を絶滅させたいと考えていたのである。二人の思想は一貫していたわけではなく、数度の変遷があった(文子はその後再び無政府主義へ回帰し、朴烈は虚無主義のまま民族主義へ傾倒していく)。原題のサブタイトル「植民地からのアナキスト」は、映画で描かれる時期の朴烈が実際に抱いていた思想との間で齟齬があると言わざるを得ない。朴烈が主催していた結社「不逞社」は無政府主義を掲げていたものの、これは間口を広く取ったためであり、あくまで朴烈と文子にとってはニヒリズムに至るプロセスとしての無政府主義であった。
 文子はお互いがそれぞれの人生のなかで同じ思想を育てていたことに感激し、配偶者として、同志として、同棲したいと考えた。そのさいに文子は以下のことを念入りに確認している。

「[……]私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」
「[……]あなたは民族運動者でしょうか……私は実は、朝鮮に永らくいたことがあるので、民族運動をやっている人々の気持ちはどうやら解るような気もしますが、何といっても私は朝鮮人でありませんから、朝鮮人のように日本に圧迫されたことがないので、そうした人たちと一緒に朝鮮の独立運動をする気にもなれないんです。ですから、あなたがもし、独立運動者でしたら、残念ですが、私はあなたと一緒になることができないんです」(『何が私をこうさせたか』400ページ)

 二つの問いに、朴烈はそれぞれノーと答えた。文子はそこで「(交際・同棲に至るための)すべての障碍は取り除かれた」と判断している。ここからわかるのは、文子は朝鮮の独立運動に深い配慮と理解を示していたとはいえ参加の意思がなかったこと、そしておのれとできる限り同一の思想を持っている者でなければパートナーにできないと考えていたことだ。それゆえに朴烈が民族主義の色合いを強めていったとき、文子は葛藤を抱えるようになる。

 同棲を始めた直後、文子が提案した三つの誓約を壁に張り出し、母印を押すシーンが登場する。張り紙は氏名を除いてハングル表記になっていたので、原文直訳なのか多少アレンジが加わっているのかはうまく確認できなかったが、この誓約じたいは実際に存在しており、その内容は以下のようなものだった。

 宣言1:「同志として同棲する事」
 宣言2:「運動の方面に於ては私が女性であると云ふ観念を除去す可き事」
 宣言3:「一方が思想的に堕落して権力者と握手する事が出来た場合には直ちに共同生活を解く事」
 約束:「相互は主義の為めにする運動に協力する事」
(『裁判記録』19ページ、カタカナをひらがなに訂正している)

 三つの宣言が文子から朴烈への要請、最後の約束は互いに取り決めたものだろう。注目したいのは宣言2である。
 文子と朴烈が同棲を開始した1922年に二人に会った文子の母親の証言によると、朴烈と同棲して朝鮮人参商をしていたころの文子は、髪を切り、朝鮮服を着て、男性の格好で生活していたという。文子の男装は女性扱いに対する抵抗であった。性別を理由に主体性を奪われ続けた自身の経験を参照した文子が、主体的に生きるために選んだ試みだったのだ。さらに和服ではなく朝鮮服を選んだことには、日本人でありながら日本人が憎くて仕方ないと独白した文子の葛藤が見えるように思われる。「女性」に疲弊し、「日本人」であることに苦悩し、それでもどうしようもなく「女性」であり「日本人」である自身に向き合わざるを得ない。この苦悩のなかで、文子は「女性」「日本人」の記号を避け、身にまとわりつくものを必死に振り切ろうとしていたのではないか。
 文子は獄中で「あたしの宣言として」と題した手紙を書き送っている。

「同一戦線上に立つ者の間に、何の性的差別観の必要があらうか。性慾の対象としてゞも見ない限り、女とか、男とか云ふ様な特殊な資格が、何の役に立つであらう。同じ人間でいいではないか。そしてそれ以上に何が必要であらうか。
 妾はセックスに関しては、至極だらしのない考へしか持っていない。政敵直接行動に関しては無条件なのだ。だがそれと同時に妾が一個の人間として起つ時、即ち反抗者として起つ時、性に関する諸諸のこと、男なる資格に於て活きてゐる動物──さうしたものは妾の前に、一足の破れ草履程の価値をも持ってゐないことを宣言する。
 今の妾が求めてゐるものは、男ではない。女ではない。人間ばかりである。」(『金子文子』328~329ページ)

 文子は自分が性交渉を持つことについてあまりよい印象を持っていないようだ。それは幼いころに見てしまった父親の不倫現場の影響かもしれないし、朴烈と出会う前の悲しい性体験の影響かもしれないが、それ以上におそらく「女」という立場そのものへの葛藤があったのだと思う。文子の言葉を裏返すと、「性慾の対象」とする場合は女や男という立場が役に立つ、ということになる。文子は自身が性欲を持つときは「女」であると感じ、その自認と「女」扱いに苦悩している自分との間で板挟みになっていたのではないだろうか。
 文子はただ人間として平等に築かれた信頼関係のみを他者とおのれとの関係の前提とすることを「あたしの宣言」としている。性別を理由に舐められ続けた文子の言葉は、現代に生きるわれわれの胸にも強く響く。
 映画では宣言2について掘り下げられない。「あたしの宣言」も出てこない。また、作中の文子はずっと髪も長いままで、日常着には着物をまとい、容姿を褒めそやす野次にも笑顔で応え、性的な言葉を判事相手に挑発的に告げてみせる、コケティッシュな「いい女」だ。この描き方には強い違和感を覚えた。

 本作の朴烈は実にかっこいい。ひょうひょうと振る舞うイ・ジェフンの肉声で語られる天皇制批判には非常にしびれた。もっとやっちまえと叫びたくなる(今作の「応援上映」があったらどうなるのか、大いに興味がある)。
 しかし作中に出てくる朴烈の思想は帝国主義・朝鮮民族迫害への抵抗を宣言する部分がほとんどで、虚無主義者としての朴烈の言葉はほとんど出てこない。著作を執筆するシーンでちらりと「俺の宣言」(先に引用した「あたしの宣言として」と関連があるのかもしれない)の一部「滅ぼせ! 総べてのものを滅ぼせ」のあたりが読まれたと思うが、それぐらいしかないのだ。朴烈が目指した社会は、朝鮮独立を中継点としているが、その理想の終点は宇宙の万物の絶滅にあった。

「滅ぼせ! 総べてのものを滅ぼせ
 火を付けろ! 爆弾を飛ばせ!
 毒を振り撒け! ギロチンを設けよ! 政府に、議会に、監獄に、工場に、人間の市に、寺院に、教会に、学校に、町に、村に。
 斯うして総べてのものを滅ぼすんだ。赤い血を以って最も醜悪にして愚劣なる人類に依って汚されたる世界を洗ひ清めるんだ。さうして俺自身も死んで行くのだ。其処に真の自由があり、平等があり、平和があるんだ。真に善美なる虚無の世界があるんだ。
 嗚呼最も醜悪にして愚劣なる総べての人類よ! 有ゆる罪悪の源泉! 何うか願はくば汝等自身の滅亡の為めに幸あれ、虚無の為めに祝福あれ!」(『裁判記録』77ページ)

 これが映画で読まれた「俺の宣言」の最終段落に当たる部分だ。これは搾取される朝鮮半島、蔓延する迫害、運動を行うなかで繰り返した決裂を経験した朴烈がたどり着いた、人類に対する最後の愛である。徹底してニヒリストであった朴烈の生について、もっと立体的に描いてもよかったはずだ。

 ついで大審院のシーンについて言及したい。徹底的に帝国と敵対する決意をした朴烈と文子は、裁判の場を意見表明のために利用する。その終盤、1926年2月27日の大審院公判の場面で文子が読み上げる手記「二十六日夜半」は、自らににじり寄ってきた死と距離なく向き合った文子の切実な言葉が綴られている。

「私は朴を知って居る。朴を愛して居る。彼に於ける凡ての過失と凡ての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める。そして外の仲間に対しては云はふ。私は此の事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嗤ってくれ。其れは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては云はう。どうか二人を一緒にギロチンに投り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。して朴には云はう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです。──と。」(『金子文子』7ページ)

 この文子の宣言はただの愛の告白ではない。
 文子が死を覚悟するうえで最も苦悩したのは、爆弾事件が文子自身の主体的な計画ではなかったという点だった。そもそも爆弾事件は実現可能性も計画の具体性も薄く、大逆罪として裁かれる正当な理由のない案件であるが、文子はさらに裁かれるいわれのない位置にあった。文子は自分が一言謝り、反省したふりさえすれば出所できるであろうことも知っていた。その道を選ぼうかと悩んでいた。文子だって死にたくはなかった。自分の意志で起こしたわけではない事件によって死刑になることは、果たして主体的な行動だと言えるのか。文子はおのれの関与について考えぬいた末、自らのなかに爆弾事件に同意する叛逆の意志があることを理由に「私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める」と言ったのである。
 またこの手記は、朴烈と「同志」として付き合うことにこだわり抜いてきた文子が、すでに自らと違う政治思想の道を歩んでいた朴烈を、その差異を超えて愛すると宣言するものでもある。このときの文子はもう虚無主義者ではなく、自分は何主義者かわからないが「個人主義的無政府主義」であろう、と判断していた。人間が権力のない共同体を築く世界について再び想像し始めていたのだ。かつて「私は世の中の『愛』といふものを極端から否定して居ります」(『金子文子』298ページ)とすら言った文子が死の間際に口にした「愛」に、私は断絶を超える巨大な何かを見る。
 映画では文子と朴烈の思想の食い違いとそれに対する苦悩は描写されないため、この言葉は朴烈と意志も運命も共にすることを了承する愛の告白のように聞こえる。しかし「二十六日夜半」の意義は、文子と朴烈という「二人」の関係のなかで位置付けるより、文子という「一個人」の人生がたどり着いた境地であることが重要だと思う。この手記を読み上げるまでにかかった長い長い文子の思索の旅こそ、私は尊重したい。

 最終局面、無期懲役に減刑された二人はそれぞれ異なる刑務所へ移管されることとなる。朴烈は千葉へ、文子は宇都宮へ。映画ではこの離別を決定的なものとして描き、移送のシーンの直後に朴烈が文子の死を告知されるシーンが持ち込まれていた。ここに時系列にまつわる説明はない。
 そのまま鑑賞すれば、いかにも文子は朴烈と別れたことによって自殺を遂げたかのような印象だ。しかし実際に文子が自殺したのは移送から三ヶ月半後のことである。文子が死を選んだ背景については恩赦への抵抗であると解釈する向きが強いが、山田昭次は移送後の三ヶ月半の間に文通のいっさいを禁じられ読書を強く制限されたことを原因の第一として推察している。すなわち判決確定後も続いた転向政策に対する抵抗として自殺が選ばれたと判断しているのだ。
 文子が何を思って自死したかはわからない。文子が遺書を書かなかったとは考えられないが、遺書は残されていない。自殺の理由が一つに絞れるとも思わない。しかし文子が最期の三ヶ月半、読書も文通も抑圧されたまま死ぬまで獄に繋がれる自分を想像していたであろうことは見逃せない。自身の生育環境ではいっさい与えられなかった読み書きと学問を強く志向した文子の人生に照らして考えれば、文子の生から無期限に文字と交感を奪う仕打ちはこれ以上ないほど堪えたことだろう。この苦痛と絶望は、映画ではほとんどあらわれない。

 映画の最後に表示されるテロップも心苦しいものだった。一言一句覚えているわけではないが、朴烈が建国勲章(朝鮮独立に功績のあった個人を表彰する韓国の勲章)を受勲したこと、さらに弁護士布施辰治が日本人として初めて建国勲章を受勲したことが示されていた。もちろん意味はわかる。民族主義者としての朴烈を描いた切実な映画なのだから。帝国主義への抵抗がナショナリズムに接続するのは、朝鮮半島が日本によって搾取され尽くし蹂躙され尽くした以上当たり前だ。何度もいうが明らかに今作の主題は民族主義者としての朴烈なのだ。
 そのうえで、それでも、ここまで文子を取り上げてくれたというのに、結局国から表彰された男の話で終わるのは、やはりどうにもやるせなかった。こんな終わり方をするのなら、わざわざ邦題に文子の名前など入れないでほしかった。
 昨年秋に、文子は「日本人」として二人目の「建国勲章」を受けたという。これは映画公開後のできごとなのでテロップには出てこない。なんども言うが文子は最終的には無政府主義者としてその生涯を終えている。申し訳ないが、死者に鞭打つとはこのことか、と思わずにいられない。

 私は文子が好きだ。心から尊敬し、嫉妬し、感情移入し、今も文子に揺すぶられている。ここまで書き連ねてきた内容は相当私自身の感傷と解釈が含まれているだろうと思う。書かずにいられねえという気持ちだけで書いた。どうしようもないから書いた。
 この文章が今作の勢いを止めることはあってはならないと思う。何度もいうがこの映画に込められた思いは悲痛かつ切実で、歴史的責任を伴う。その一方で、『金子文子と朴烈』があらゆる場所から浮遊する「一人」と「一人」でもあったことを、私は忘れたくないのだ。

「時折は、かつてかうした不逞の一人間が、女性らしくない人間が存在してゐた。そしてこの人間が幾分にせよ、貴方とかなり永い間、しかも深い間交際し続けて来た──と云ふ事実を思い出して下さい。」(『金子文子』333ページ)



参考文献

再審準備会編『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社、1991年

(注:同一タイトルの著作として1977年に発行されたものがあるが、こちらは原資料の写真を掲載したものであり、私が入手した1991年度版は活字版である。こちらに掲載されているのは調書が中心で、大審院入り後の公判の内容は掲載されていない。よって公判で語られた言葉はほかの書籍からの孫引きとなっている。)

山田昭次『金子文子──自己・天皇制国家・朝鮮人──』影書房、1996年

金子文子『何がわたしをこうさせたか』岩波書店、2017年

Myriam Bleau - ele-king

 零秒の音楽は可能なのか。始まった瞬間に終わり、時間を超えて記憶の層に永遠に格納されるような音楽。色彩と線の交錯による時間の凍結のよう抽象絵画のごとき音響。例えるならあのサイ・トゥオンブリの絵画のような時間と空間を越境するようなアブストラクトな音楽/音響。そんな音響音楽を希求するのは、ただの夢なのか。
 いや、そうではない。例えば池田亮司、カールステン・ニコライ、そしてリチャード・シャルティエ、クリスチャン・フェネス、マーク・フェルなどのマイクロスコピックなサウンドアート作家・電子音響作家たちは、いずれもそのような不可能性を希求し追求してきたアーティストではないか。それらは21世紀的なコンピューター音楽による未来の追求でもあった。コンピューターと電子音とグリッチノイズによる人間を超えた細やかで繊細で多層的な強靭な音響たちである。
 今回、取り上げるカナダはモントリオールを活動拠点とするサウンド・アーティストであるミリアン・ブローのファースト・アルバム『Lumens & Profits』もまたそんなマイクロスコピック電子音響作品の系譜にある作品である。アンビエント/ドローンやインダストリアル/テクノ以降の先端的電子音楽においては珍しい作風ではないかと思う。

 リリースはUKの先端レーベル〈Where To Now?〉。同レーベルはこれまでも KETEV(Yair Elazar Glotman)、ニコラ・ラッティ(Nicola Ratti)、CVN、デール・コーニッシュ(Dale Cornish)、N1L、YPY、ルット・レント(Lutto Lento)、アゼール(Assel)、H.Takahashi、ベン・ヴィンス(Ben Vince)など2010年代のエクスペリメンタルな先端音楽の注目作のリリースを連発してきたが、ミリアン・ブローの本アルバムは2019年以降の電子音響のモードを体現している。せわしなく、かつ細やかに接続・変化していくマーク・フェル的なグリッチ音響は「テクノ以降の音楽的記憶」が一気に圧縮されているような印象ももたらすが、同時にデータの流動化というよりは、その音からは「モノ的」な存在感も増している。マテリアルな質感を有しているのだ。まずはライヴ動画を観て頂きたい。

 手とデバイス=モノを駆使することで彼女はマテリアルとデジタルの領域を交錯させたサウンドを生成している。レーベルも「彼女のハイブリッドな電子音は、文化的表現としてのパフォーマンスを探求し、ポップカルチャーの要素と音楽の歴史の傾向を再文脈化する」と書き記しているが、良く聴き込むとテクノのキック、ヒップホップのグルーヴ、エレクトロニカのサウンドなどの電子音楽の痕跡が解体され、細やかにスライスされてコンポジションされていることも分かってくる。結果、聴くほどに音楽の記憶が刺激され、同時に記憶が喪失する感覚も生れてくる。そこには00年代的な電子音響作品のコンピューターによるエラー=グリッチとは違う不思議な「身体性」が蠢いているように感じられた。彼女のパフォーマンス動画を観ても分かるように、マテリアルとデジタルの領域を再交錯させているのだ。その意味で同じくカナダ出身のニコラ・ベルニエ(nicolas bernier)(https://vimeo.com/48493242)の系譜に連なる現代の電子音響作家ともいえよう。いわば2010年代後半のミュジーク・コンクレートである。

 そしてミリアン・ブローのサウンドは、まるで鳥の鳴き声のように軽やかな電子音だが、そのサウンドは直観と構築の往復のように偶然と構築の両極を行き来している。断続的なキックは解体されたテクノのようだし、優雅な舞踏のようにスライスされた電子音の運動はポスト・グリッチ的で、短い数秒のサウンドの中にいくつもの電子音楽が圧縮されている。
 その意味で細切れに編集されたヴォイスとコードが鳴り響く2曲め“Constructivism”、細やかな音の粒子と時間が浮遊するようなアンビエンスが端正にミックスされる美しい3曲め“Hidden Centuries”、鳥の鳴き声のような電子音が軽やかに反復と非反復のあいだを行き来する4曲め“Vapid Luxury”などは本アルバムを象徴するトラックだ。
 むろん、これらの雰囲気はアルバム全トラックに共通する感覚でもある。時間軸を超えて音響を摂取するような感覚はマイクロスコピックな電子音響作品の系譜に連なるサウンドだ。中でも微細な電子ノイズが非反復的に構成されることでマーク・フェル以降の偶発的なグリッチ・サウンドを超越する電子音響空間を生みだす7曲め“Shapes”などは、そんな時間軸を超えて音響を聴くような感覚をもたらしてくれるニュー・マイクロスコピックなトラックに仕上がっていた。そして静謐なラスト8曲め“Darling”によって幕を閉じる。ミニマムに解体されたループは、どこかグリッチ化したヒップホップのトラックのように響く。

 そして本作のように00年代的な電子音響を基調にしつつも、そのスタイルもジャンルも解体されたような、いわばテクノ以降の音楽のエレメントが圧縮・再構成されている電子音響作品が、〈LINE〉や〈Entr'acte〉などのサウンドアート・レーベルからではなく、〈Where To Now?〉のようなクラブ・ミュージックを進化・解体する先端的なレーベルから発表されたことも重要に思える。
 2010年代前半のエクスペリメンタル・ミュージックと2010年代後半のエクスペリメンタル・ミュージックを繋ぐ存在とでもいうべきだろうか。電子音の欠片が高速で、軽やかに、優雅に、舞踏のように、踊り、駆け抜けていくようなサウンドを一気に聴取するような感覚をぜひとも体験して頂きたい。

 ヒップホップは、個人のオリジナリティやアイデンティティを尊重するが、ひとつの音楽ジャンルとしてのヒップホップは、集団性によって更新されてきた。トレンドセッターが切り開いた方法論を共通のルールとするかのように、ヒップホップ・ゲームの競技場のプレイヤーたちが集団となって更新されたルールをフォローし、互いの似姿に多かれ少なかれ擬態し合い、互いのヴァースのみならずスタイルをもフィーチャーし合い、互いに切磋琢磨し、表現を洗練させ、ジャンル全体(あるいは各サブジャンル)を発展させる。隣の仲間が進行方向を変えれば自分も向きを変える、ムクドリの群れさながらに。数え切れないほどのビートが、フロウが、僅かな差異を積み重ねグラデーションを描きながら上方に堆積していく。より高み(ネクストプラトゥー)を指向して。しかし、そのような集団性のなかで、トレンドをセットするわけではないほどにアヴァンギャルドさを持ち合わせているがために、単独で逸脱する、ベクトルを異にする個体が、突如として現れる。
 たとえば2000年前後のアンダーグラウンド・ヒップホップの興隆の中でも、特にアンチ・ポップ・コンソーティアムやアンチコンの作品群の記憶が鮮烈に蘇るし、ゴールデンエイジにおけるビズ・マーキーやクール・キースを端緒に、ODB(オール・ダーティ・バスタード)の孤高を思い出してもいい。もっと近年ではクリッピングクラムス・カジノリー・バノンデス・グリップスヤング・ファーザーズシャバズ・パレセズらのビートとフロウがもたらす異化、ダニー・ブラウンジェレマイア・ジェイ、スペース・ゴースト・パープの変態性、そしてタイラー・ザ・クリエイターやアール・スウェットシャーツらオッド・フューチャー勢の快進撃がこのジャンルの外縁を示し、僕たちはその稜線を祈るような思いでみつめてきた。「ヒップホップ・イズ・ノット・デッド」と呪文のように繰り返しながら。特に近年、ネットというインフラ上で発光するエレクトリック・ミュージックの多面体と、その乱反射するジャンルレスの煌めきは、明らかに、ヒップホップの集団性からの逸脱を誘引する磁力として働いている。

 ルイジアナ出身の28歳のペギー(Peggy)こと JPEGMAFIA は、その乱反射を吸引し尽くし、自らが多面体化するのを最早留められなくなった如き異能の人だ。彼のオフィシャルでは2枚目のアルバム『Veteran』は、エスクペリメンタルなトラップ以降のビートをベースに、ローファイに歪ませたサウンドのバラバラの欠片やグリッチーに暴走するリズムをあちこちに地雷のように仕組んで、全体を多重人格的な──多声による──メタラップで塗り固めた怪作だった。
 メタラップというのは、前作『Black Ben Carson』収録の“Drake Era”に“This That Shit Kid Cudi Coulda Been”や、シングルの“Puff Daddy”、そして“Thug Tear”といったようにラップ・ゲームやリリックで歌われることをメタ視点で俯瞰する、人を食ったようなタイトル群を見ても明らかだろう。
 しかし彼がそのメタ視点を用いて差し出すのは、モリッシーをディスったことで大きな話題をさらった“I Cannot Fucking Wait Until Morrissey Dies”に代表されるような、ポリティカルなメッセージ群だ。初めはインスト音楽を作っていたペギーは、自分がラップすべき本当に言いたいことがあるのかという懐疑に捉われていた。多くのラップのリリックを聞いても、所詮皆同じことを歌っているだけではないかと。だがジャーナリズムで修士号を持つ彼は、アイス・キューブのやり方と出会うことで、ポリティカル・ラップに活路を見出したという。
 1990年にリリースしたファースト・ソロ・アルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』において、フッドの現実を過激な言葉で描写したアイス・キューブは、実存というよりも、「アイス・キューブ」という視座を仮構してみせた。そして同アルバムのオープニング“The Nigga Ya Love To Hate”では、人々が「ファック・ユー・アイス・キューブ!」と叫ぶ様をフックとした。
 一方のペギーはオフィシャルのファースト・アルバム『Black Ben Carson』で、2015年に共和党から初の大統領選への黒人立候補者となり早くからトランプ支持を表明、現在アメリカ合衆国住宅都市開発長官を務めるベン・カーソンにあえて「Black」を付けて、リリックのなかで「white boys」を煽ってみせる。ここには確かに、キューブの方法論と通底するメタ視点が働いてはいないか。さらに後述するように、彼は表現のレベルにおいても、従来のコンシャス・ラップを俯瞰するように、異なる方法で実装してみせる。

 『Veteran』というタイトルは二重の意味を持つ。文字通りペギーは元空軍出身(=退役軍人/veteran)だということ。そして14歳から音楽制作を始めていた彼は、クリエイターとしてキャリアを積んでいるということ。自身、インタヴューで次のように語っている。曰く、この世界には誰にも知られることなく長い間音楽を作り続けている人間(=ベテラン)がいるし、『Veteran』収録曲の中にもどうせ誰も聞くことはないと思って作ったものもある、と。
 かつての MySpace はそのような音楽家たちが論理上は万人に開かれるインフラとして機能したし、SoundCloud や Bandcamp においてもその点は同様だ。しかし星の数ほど存在するアカウントの小宇宙を相手取り、衆目を集めるのは簡単ではない。『Veteran』は高評価で受け入れられたが、このようなメッセージ面でもサウンド面でもエッジィな作品が受け入れられたのは、たまたまタイミングが合ったからだと本人は分析している。
 しかし逆に、誰にも聞かれることがないと思っているからこそ、クレイジーな音楽が生まれる可能性もまた、存在するだろう。そしてそのようにして作られた音楽が世界に接続されうるメディウムとして、インターネットは、かつての人々が抱いた理想像の残滓を担保したまま、そこに存在し続けている。
 2019年3月9日現在ペギーの SoundCloud のアカウントにアップされている最も古い楽曲は“Fatal Fury”で、アップの日付は7年前と表示されている。総再生回数は6478回と、決して多いとは言えない数字で、5件のコメントが付いているがどれもこの10ヶ月以内だ。つまり、この楽曲は2012~2018年まで、具体的には『Veteran』のブレイクまで、ほとんど誰にも発見されずにインターネットの小宇宙の片隅に鎮座していたのではないか。
 しかしその〈黙殺〉にも関わらず/のおかげで、彼のエッジィな創作意欲は『Veteran』と名付けられた作品にまで昇華された。そう考えることはできないだろうか。この作品は幸運にも、巨大な迷宮として、その姿をはっきりと僕たちの前に示している。

 この『Veteran』という複雑に入り組んで先の読めない迷宮はしかし、いかにも平熱を保った表情で幕を開ける。冒頭の“1539 N. Calvert”は、ウワモノのメロウな響きが支配する耳障りの良いオープニングだが、そこかしこに痙攣するように乱打されるビートが顔を覗かせ、様々な素材からサンプリングされ引用される短い文言の断片や、多重人格さを披露するペギーのヴァースがジャブのように繰り出される小曲だ。だが決して、その喉越しの爽やかさに騙されてはいけない。いや、一旦は彼の策略に乗ってみてもいい。すぐにやってくる狂乱とのギャップを楽しむために。
 ODBの喉ぼとけの震えのループがトライバルなドラムを狂気に駆り立ててしまう2曲目“Real Nega”を前に、僕たちはどんな風に四肢を振り回しながら踊ればいいのか? しかも、ベッドルームで。というのも、彼の表現はクラブのダンスフロアよりも、僕たちの薄汚れたベッドルームで踊り狂う想像力を掻き立ててくれるからだ。これらのビートの雨あられに身を曝し、どうしようもなくエレクトするプリミティヴな欲求を必死に隠し薄ら笑いを浮かべながら、僕たちは終盤の子供声のようなハイピッチ・ヴォイスが煽るフレーズに頷くしかない。こいつは「ホンモノのxx」だ。
 続く“Thug Tears”でも、分裂症の残酷さが開陳される。冒頭のキックと逆回転で乱射されるグリッチの雨から、転がる電子音のリフとその間を埋め尽くすボンゴのリズムに楔を打つゴミ箱を叩くようなローファイなスネアに、僕たちのダンスステップはもつれる。今度は体を揺らさずに黙って聞いていろと? ペギーの透明感溢れるコーラスと捻くれたシャウトの対比をベースにしつつも、そこに次々と闖入してくるサンプリングされた文言の数々が、綿密にデザインされたコラージュの語りを駆動する。しかし突然ビートのスカスカな時空間を埋めるブリブリに潰れたベースラインが現れる中盤以降、今度はペギーの語り口は一気にクールを気取り、剃刀のフロウで溌剌とビートを乗りこなす。
 シングル曲“Baby I'm Bleeding”が匿う快楽。冒頭から僕たちのアテンションをコルクボードに画鋲で止めてしまうミニマルなヴォイスの反復の上に、ペギーのフロウが先行して絡まり、やがてキックとスネアが後を追うようにビートに飛び込んでくる瞬間のカタルシスよ。さらに1分35秒で聞かせるハードコアなシンガロングとEDMのアゲアゲシークエンスの超ローファイ版を挟み、またもやモードを変化させるキックとスネアの上で何が歌われているのか。もともとは“Black Kanye West”という曲名だったというヴァースは、「ペギーをキメる田舎者/俺は次のビヨンセさ/俺の銃には悪魔が憑いてる/ダンテのように切り裂く(カプコンのヴィデオゲーム、デビルメイクライのキャラクター)/絶対カニエのように金髪にはしないと約束するぜ(カニエ は2016年、ライブ中にトランプを賛美する演説をしてツアーの残り日程をキャンセル、その後金髪にして再びその姿を見せた)/その代わり俺はたくさんのスタイル(so many styles)を持ってるからペギーAJと呼んでくれ(WWEのチャンピオン、AJ Stylesと掛けたワードプレイ)」とのこと。分かった。しかしこの男が匿っているスタイルの数は「so many」じゃない、「too many」だ。

 そのスタイルの多声性は、ビートのサウンドにも、リズムにも、旋律にも充満している。そして勿論ラップのサウンドにも、ライムにも、デリヴァリーにもだ。そしてメッセージという観点で見れば、前述の通り、いわゆるコンシャス・ラップと呼ばれうる、ポリティカルなスタンスを表明するライムが混沌としたサウンドに包囲され異彩を放っている。しかし彼曰く、彼はそれをコンシャス・ラップの括りではなく、「イケてる」曲として援用できるというのだ。そう聞いて想起されるのは、次の事実かもしれない。パブリック・エネミーがあれだけ人気を博した大きな原因のひとつは、彼らのヴィジュアル面を含めた方法論が「イケて」いたからだ。しかしペギーのアプローチはそれとは異なる。
 モリッシーを直接的にディスったことで話題となった“I Cannot Fucking Wait Until Morrissey Dies”では、その直球なタイトルそのまま、右翼的発言を繰り返し、ジェイムズ・ボールドウィンをデザインしたTシャツを売るモリッシーに対し「俺は左翼のハデスさ、フレッシュな.380ACP弾で武装した26歳のね」と怒りを爆発させる。しかしそれはあくまでも「イケてる」方法でだ。確かにビートを牽引するシンセのアルペジオがポップかつ美しく、音楽的な洗練とペギー自身の歌唱の先鋭さが、ある種のコンシャスなメッセージに含まれる鈍重さを無化してしまうようだ。
 他にも“Germs”ではトランプをメイフィールドのようにのしてしまいたいと批判するし、“Rainbow Six”でも銃とフラッグを掲げて集会を開くオルタナ右翼をからかう。それらはどれも、サウンドや歌唱の徹底的にエクスペリメンタルな展開のなかにあって、多重に張り巡らされたレイヤーのひとつとして、受け取られる。
 かつてタリブ・クウェリは、コンシャス・ラッパーとしてレッテルを貼られることへの違和感を指摘した。一旦そのイメージが付いてしまうと、リスナーを著しく限定してしまうことになるというのだ。しかしペギーのやり方はどうか。厳めしい顔で説教めいたライムをドロップするでもない。パンチラインとしてリフレインするでもない。あくまでもそれらは多くのレイヤーのうち、次々と通り過ぎていく一行として、表明される。そしてその言葉が発される声色やフロウも、それを支えるビートも、音楽的かつ現在進行形のテクスチャーが担保された──こう言ってよければ──「ポップさ」に満ちている。イケてるコンシャス・ラップとは、そのような多才さ=多重人格性の所以と言えるのではないか。

 しかし、、、数え上げればキリがないほど、このアルバムには豊かな細部が溢れている。折角なのでもういくつか数え上げておこう。またもや逆回転攻勢のアトモスフェリック・コラージュ・アンビエントの上で、何度目か数え切れないが明らかにペギーがロックを殺す瞬間を目撃できる“Rock N Roll Is Dead”。ペギー流のイカれたメロウネスが炸裂する“DD Form 214”では、ドリーミーなフィメール・ヴォーカルやウワモノを提出したそばから、下卑たキックと割れたベースのコンビネーションがくぐもったニュアンスを加えるために、いつまで経ってもドリームに到達できないという、つまりイキ切れない一曲。シャワーでパニック発作に襲われた際にレコーディングしたという“Panic Emoji”では、文字通りシャワーの環境音と並走するメロウなアルペジオにブーミンなベースがこれまでないエモい、エクスペリメンタル・トラップチューン。パニック発作に襲われ「俺は厄介者で/使えない奴だ/最悪だ/苦しい」と嘆く抑えたフロウが悲痛に響く。
 最後にもう一度触れておきたいのは、ペギーのサウンドの質感だ。たとえばノイジーなアンビエント・ラップ“Williamsburg”では、アクトレスことダレン・カンニガムばりに粗いヤスリで磨かれたノイズの層が、ビートにこれでもかと言わんばかりに馴染んでいる。組み合わされているサウンドのひとつひとつが、元々そのようなロービットな音像で、生まれ落ちたものであるかのように。しかしローファイをデザインするとき、ここまで馴染みのよい肌理を見つけ出すことのできる所以は? それこそが、JPEGという非可逆圧縮方式をその名に持つ彼の、天賦の才なのだろう。
 繰り返し、繰り返し、決して飽くことなくイメージをJPEG変換するように、サウンドの粒子は荒く膨張していく。この奇才の脳内に溢れ返るロービットの想像力に押しつぶされないよう、僕たちは、本作を噛みしだく、噛みしだく。

ここ5年ほど、アイスランドや北欧のフェスティバルに積極的に参加している、アイスランド・エアウェイブスhttps://icelandairwaves.is。2013年から数えて5回アイスランドや北欧のフェスティバルに参加し、バルセロナのプリマヴェーラhttps://www.primaverasound.es/には2回、ノルウェイのフェスには最近参加し始めた。

私がNYのインディ・オンライン・ストアの〈インサウンド〉insound.comで働いていた1999年頃、同僚がノルウェイのオスロで開催されるフェスティバル、Øya(オイヤ)https://oyafestivalen.noについて話していたのを覚えている。当時、創業したばかりのインサウンドとØyaは、同じようなアーティストを扱っていた。ノルウェイなんて遠い異国だと思っていたが、NYからは約7時間、時差も6時間で、時差ボケも酷くない。


会場への道

私は2017年に初めてオスロのØyaに参加し、2018年には同じくノルウェイのトロントヘイムで開催されるPstereo(ぺステレオ)https://pstereo.noに参加した。
Øyaは1999年にスタートし、ソニック・ユース、イギー・ポップ、アークティック・モンキーズ、ベックなど、ピッチフォーク系のバンドが出演することを売りにしている。一方、Pstereoは2007年にスタートし、クラフトワーク、モグワイ、ロイクソップ、スロウダイブなど、エレクトロニカ、ポップ、ロックなどのバンドが主に出演している。2019年のØyaのヘッドライナーは、キュア、ロビン、テーム・インパラ、ジェイムス・ブレイク。同じ年、ぺステレオには、ホイットニー、イェーセイアー、ブロック・パーティ、ビッグバンなどが出演した。



コンファレンス

コンファレンス会場


今年2019年は、オスロのBy:Larm(ビ・ラーム)https://bylarm.noに参加した。By:Larmでは音楽フェスと一緒にコンファレンスも行われ、SXSWの北欧版と言える。3日間(今年は2/28-3/2)講義、セミナー、ネットワーキングが昼間に行われ、夜は18の会場で、350ものコンサートが開かれる。By:Larmは北欧の音楽と海外の音楽の出会いの場である。

1998年に始まったBy:larmはスタート当初、バーゲン、トロントへイム、トロムソ、クリスチャンサンドなど毎年異なるノルウェイ内の都市で行われていたが、参加者が増え続けたために大きな会場やホテルが必要になり、2008年からはオスロを拠点としている。

今年のレクチャー内容は、「デジタルミュージックの世の中でアーティストが侵す10の間違い、それを避ける方法。」、「デジタル革新の世の中でアーティストとレーベルはどうやってインパクトを与えるか。」、「ストリーミングの技術は熟したが、収入が公平になるディストリビューション問題。ユーザー中心の世の中でどのように音楽経済を変えることが出来るか。」、「ブランドやスポンサーが古臭さや妥協なくどのように音楽業界に新しい内容を提供出来るか。アーティストは信頼性を損なわず収益を上げるため、スポンサーを利用できるか。」、「自分のバンドはホット。では次は。」、など興味あるトピックが続く。〈シークレットリー・カナディアン〉や〈モ・ワックス〉のA&Rの話や、マネージャー、エージェントからも直接話を訊けて音楽業界で働く人には気になる話題が満載である。



Girl in red

Kelly Moran

ショーケースされるバンドは北欧のバンドが殆どで、2日間で30ほどを駆け足で観た。ノルウェイのマック・デマルコと言われているBrenn.(ブレン)は、演奏は下手だし何がしたいのか分からなかったのだが、とにかく音を掻き鳴らしていて「やってやる!」という姿勢も伝わってきたし、期待のホープに思えた。青とピンクの色違いのジャンプスーツも可愛かった。〈ベラ・ユニオン〉のPom Poko(ポンポコ)は、柔道着風ツナギとバスケットボールのユニフォームというよくわからないアウトフィットだったが、元気一杯エナジー爆発で、ガール・イン・レッドと同じくオーディエンスにダイブしたり、ファンのサポートも熱かった。スウェーデンのMeidavale(メイダヴェール)は、ウォーペイントとワォー・オン・ドラッグスを足したようなサイケデリックな浮遊感が漂うバンドで、黄色のジャンプスーツが可愛かった。〈DFA〉からも作品をリリースするアバンギャルドアーティストの、Nils bech(ニルス・ベック)はストリングス隊をバックに歌い、同時に会場の外に3Dマッピングをしていて、現代的なアートのようなパフォーマンスを見せた。


Selma Judith

Maidavale

土曜日は、Torggata通りで行われるTorggatafestというフリーショーが3時から7時まで8つのお店や会場で行われ、50ほどのバンドがプレイした。さらにアン・オフィシャルパーティが近くで行われ、ビール、アップルサイダー、ビーツ・スープ(!)などが振る舞われた。

SXSWと同じで知り合いが出来ると数珠繋ぎにどんどん人を紹介され、見たいバンドを見逃すという事態に陥るが、ネットワーキングを目的に来る人が殆どである。アジア人は全く見なかったが、中国からのジャーナリスト、DJが来ていた。その他は北欧の違う都市から訪れていた音楽業界の人々だった。彼らはSXSWにも行くらしく、月に一回はNYに行くという人も居て、世界中を飛び回ってるのだなあと。オスロは、レイキャビックやコペンハーゲンと同じく、Wi-Fiや充電場所が何処にでもあり、水道水も飲めるが、アルコールは外では飲めない。日曜日にはフリーマーケットがあったり、少し散歩も出来る、小さいがとても便利なオスロを体験出来た。

大満喫した次の日NYに戻ろうとすると、フライトが悪天候のためキャンセルに。何故かロンドンに行く事になった。旅もフェスも予測出来ないという事で、初のロンドンを楽しむ事にする。


Yoko Sawai
3/4/2019

椅子を持って出かけるだけで、公園や河原、野山や海岸などお気に入りの場所があなただけの酒場やリビングに!
その手軽さと意外な快適さに虜になる人も続出中。インスタでも「#チェアリング」は人気ハッシュタグとなっています。
そんな「チェアリング」の命名者であり提唱者である飲酒ユニット「酒の穴」(パリッコ&スズキナオ)によるチェアリングの手引書が登場!

ライムスター宇多丸、中尊寺まい(ベッド・イン)、和嶋慎治(人間椅子)、コナリミサト(『凪のお暇』)、谷口菜津子(『彼女は宇宙一』)などの豪華ゲストを迎えた実践レポートのほか、おすすめ椅子&アウトドアグッズガイド、チェアリング向きのつまみ徹底検証、100均で揃う便利グッズなど情報充実!


ライムスター宇多丸さん、ラッパーMETEORさんとTBS局内でチェアリング座談会


中尊寺まいさん(ベッド・イン)とお台場チェアリング


和嶋慎治さん(人間椅子)に竹林でチェアリングしながらアウトドア談義


著書のスズキナオ&パリッコ

■著者略歴

スズキナオ
東京生まれのフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「excite bit」「メシ通」などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。パリッコとの共著『酒の穴』(シカク出版)がある。

パリッコ
東京生まれ。酒場ライター、DJ/トラックメイカー、漫画家/イラストレーター、他。酒好きが高じ、2000年代後半よりお酒と酒場関連の記事の執筆を始める。雑誌でのコラムや漫画連載、WEBサイトへの寄稿も多数。著書に『酒場っ子』(スタンド・ブックス)、11人の著名人との対談集『晩酌百景』(シンコーミュージック)など。

■目次

まえがき
チェアリングとは
キャプテンスタッグ全面協力! チェアリング向けアウトドアチェアの世界
「ベッド・イン」ちゃんまいさんと、お台場“トレンディ&アーバン”チェアリング
「人間椅子」和嶋慎治さんと、都内で気軽に自然を感じるチェアリング
すてきナイスチェアリスト名鑑
椅子にプラスで快適さワンランクアップ! コールマンの使えるアウトドアギア
コナリミサトさん×谷口菜津子さんの「チェアリング女子会」
ライムスター宇多丸さん、孤高のラッパーMETEORさんと飲む! TBS生放送スタジオ内でチェアリング
チェアリング向きのおつまみ食べ比べ徹底検証!
ベランダチェアリングの気楽な楽しみ
酒の穴対談「チェアリングのこれまでとこれから」
晴れた日曜にふらっと楽しむ大阪城公園チェアリング
安田理央と愉快な仲間たちによるチェアリング初体験ツアー
ほとんどキャンプ! 川の水に足を泳がせながらの武蔵五日市チェアリング
ちょっと遠出してチェアリングしてみる~茨城県・水海道篇~
都市部で気軽に水辺チェアリング「隅田川テラス」
チェアリングが憧れの雑誌に載った日
秋冬におすすめ、バードウォッチング×チェアリング=バードチェアリング
500円あれば手ぶらでOK! 100均チェアリングを試す
あとがき
年表

K Á R Y Y N - ele-king

 ラビットが出てきたとき、ビョークは彼の音楽を「いわば21世紀型のテクノね」などと呼んでいるが、そのビョークも認めた才能というわけで、〈ミュート〉が肝いりでデビューさせるこのカーリーンも「いわば21世紀型のテクノね」である。アルメニアとシリアをルーツに持ち、アメリカで生まれ育った彼女は、ロンサジェルスで活動をはじめ、やがてNYに移住し、ベルリンにも滞在しながらIDM系の作品を作っている──なんてたしかに21世紀っぽい。プロモ用の写真では、仏教と『スターウォーズ』に影響を受けた衣装を着ているらしい。インターネットのおかげで趣味が地球規模になってきているのだ。
 音楽的にみて、FKAツイッグスやホリー・ハーンドンあたりがカーリーンと似たもの同士ってことになるのだろうけれど、彼女のデビュー・アルバム『ザ・クアンタ・シリーズ』はビョークの『ヴェスパタイン』とも繫がっている。レイキャビックで公演されたオペラに出演中のカーリーンを見てビョークが賞賛したという話だが、そもそもカーリーンがビョークに似ている。その感情のこもった歌い方とエレクトロニクスの実験とのバランスにうえに成り立っているという意味において。
 
 1曲目の“EVER”にはポップのセンスも注がれている。この曲は多分にR&Bからの影響が出ているのだが、しかし、カーリーンの歌声は、ソウルというよりもコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーに近い。いわゆるエーテル系、彼女のエレクトロニック・ミュージックにおいては彼女自身の声が音のパーツのひとつとして使われている。声はこの作品の聴き所なので、注意深く聴いて欲しい。彼女のちょっとしたアイデアが随所で楽しめる。
 カーリーンのメロディラインには、おそらくはアルメニア人である父親の影響が大きいと思われる。西欧でも東洋でもブラックでもない。独特の節回しがところどころで聴ける。まあこれはつまり、グローバル・ミュージックである。
 そして『ザ・クアンタ・シリーズ』にはメランコリーが充満している。シリア内戦の悲劇を歌っている曲もある。これはとても重たいテーマだ。ほかのいくつかの曲でも悲しみが歌われているし、最後の曲などはレクイエムと言ってもいいだろう。と同時に、これはちょっと面白かったのだが、彼女の歌詞にはコンピュータに関する単語がときおり出てくるし、サウンドのところどころからはある種機械へのフェティシムズムも感じなくもない。彼女が歌う「二進法で愛して」という言葉の意味はぼくにはよくわからないけれど、ひょっとしたら彼女は人間に絶望しているのかもしれない。それこそフィリップ・K・ディックの世界で、アンドロイドのほうがよほど人間らしいやという逆説である。しかしまあ、それと同時に、恋人への思いが綴られているわけで、恋物語のアルバムとしても聴ける。かなり風変わりな。

 それではいったいこのアルバムはいつ聴いたら良いんだろうかという問題がある。ぼくは真夜中に聴くことをオススメする。ちなみに彼女のもっとも素晴らしい瞬間は、2曲目の“YAJNA”という曲にある。これは最高に格好いいです。

中原昌也 - ele-king

 先週のDOMMUNEで宇川直宏、『前衛音楽入門』を刊行したばかりの松村正人とともに、目の覚めるようなトーク&ライヴを披露してくれた中原昌也。彼の作家デビュー20周年を記念し、最新の小説が河出書房新社より刊行される。……だけではない。さらになんと、さまざまなアーティストが中原の小説を“リミックス”したというトリビュート作品集までリリース! 朝吹真理子、OMSB、五所純子、柴崎友香、曽我部恵一、高橋源一郎、町田康、三宅唱、やくしまるえつこ、湯浅学と、そうそうたる顔ぶれである。発売は3月26日。詳細は下記を。

日本列島を震撼させた話題作、
『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』
から20年!!
中原昌也最新作、2冊同時リリース決定!

【最新小説】
『パートタイム・デスライフ』
職場から逃亡した男に次々と襲いかかる正体不明の暴力――。
圧倒的スピード感で押し寄せる悪夢の洪水に、終わりはあるのか?
中原昌也のマスターピース、ついに刊行!

巻末に「中原昌也の世界」を特別収録。青山真治、小山田圭吾、椹木野衣が異才20年の軌跡と奇蹟を描く。

【あらすじ】
MIT仕込みのノウハウによって完璧に管理された職場から逃亡したパートタイムで働く男に次々と襲いかかる正体不明の暴力。NHKのビデオテープ紛失事件、アウトドアショップでの定員の諍い、スクランブル交差点で遭遇したサポーターの狂乱と警官からの痛打……。この悪夢に終わりはあるのか!? 徹底的な絶望を生きる男の悲劇的な人生が怒涛の笑いと爽やかな感動を誘う、中原昌也の最新小説。

【仕様】
タイトル:中原昌也『パートタイム・デスライフ』
解説  :青山真治・小山田圭吾・椹木野衣(巻末別丁「中原昌也の世界」に掲載)
刊行予定:2019年3月26日(予定)
仕様  :168ページ/仮フランス装/定価本体2,200円
AD  :前田晃伸+馬渡亮剛
Art work:中原昌也

【トリビュート作品集】
『虐殺ソングブック remix』
remixed by 朝吹真理子、OMSB、五所純子、柴崎友香、曽我部恵一、高橋源一郎、町田康、三宅唱、やくしまるえつこ、湯浅学

前代未聞!!! 既存のテクストをコラージュし、文学を、世界を震撼させる作家・中原昌也。その破壊的作品群を、各界第一線の才能が大胆不敵にリミックス。いま、中原昌也の新たな衝撃が鳴り響く!

【目次】
Ⅰ remix edition
待望の短篇は忘却の彼方に(町田康 tabure remix)
独り言は、人間をより孤独にするだけだ(OMSB’s “路傍の結石” remix)
子猫が読む乱暴者日記×レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー(柴崎友香 Kittens remix)
天真爛漫な女性(曽我部恵一 “Tell her No” remix)
怪力の文芸編集者×誰も映っていない(朝吹真理子 remix)
『待望の短篇は忘却の彼方に』文庫版あとがき(三宅唱 “小日本” remix)
鳩嫌い(五所純子 tinnitus remix)
子猫が読む乱暴者日記(湯浅学 “博愛断食” mix)
『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(やくしまるえつこ “type_ナカハラ_BOT_Log” remix)
『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(高橋源一郎 “こんな日もある” remix)
Ⅱ Original version
待望の短篇は忘却の彼方に/独り言は、人間をより孤独にするだけだ/路傍の墓石/子猫が読む乱暴者日記/天真爛漫な女性/怪力の文芸編集者/誰も映っていない/『待望の短篇は忘却の彼方に』文庫版あとがき/鳩嫌い/『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(抄)

中原昌也と同じく文学と音楽を横断する町田康やドゥ・マゴ文学賞で『作業日誌』を支持した高橋源一郎を始め、柴崎友香や朝吹真理子など豪華な小説家が結集。音楽シーンからは「すべての若き動物たち HAIR STYLISTICS REMIX」の記憶も新しい曽我部恵一(サニーデイ・サービス)、SIMI LAB で活躍するラッパーOMSB(初小説)、そして相対性理論などを手がけ美術や文筆でも注目を集めるアーティスト・やくしまるえつこが参加。映画『きみの鳥は歌える』の監督・三宅唱(初小説)や文筆家・五所純子(初小説)ら新たな才能に、音楽仲間の湯浅学(音楽評論)も加わった。さらにカバーではコラージュアーティストとして活躍する河村康輔が中原のデビュー作『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』単行本カバーをリミックス。20周年を記念した豪華なグルーヴが響き渡る!!

【仕様】
タイトル:中原昌也ほか『虐殺ソングブック remix』
刊行予定:2019年3月26日(予定)
仕様  :288ページ/並製/定価本体2,400円
AD  :前田晃伸+馬渡亮剛
Art work:河村康輔 (Mari & Fifi's Massacre Songbook Re-ILL-mix)

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