1966年6月にゴールデン・カップスの一員としてデビューし2020年9月26日に世を去ったルイズルイス加部こと加部正義氏のゆうに半世紀を超える音楽歴には当然ながら幾度かの転轍点があるが、それが描く軌道をふりかえれば、この国のロックがたどった道のりそのものだった、そのことを私たちはもっともっと知らなければならない。
先の述べたとおり、加部正義はGSの一翼を担うゴールデン・カップスのベーシストとしてキャリアをスタートした。若い読者に超訳まじりにご説明さしあげると、GSとはグループ・サウンズの頭文字をつづめた、1960年代なかごろのベンチャーズやビートルズら舶来サウンドのあいつぐ上陸に感化された若者たちを中心にまきおこった流行の総称で、かまえこそロックだったが中身は歌謡曲というか、芸能事務所主導だったことは、のちにタイガースとテンプターズからPYGに転じたジュリーやショーケンやサリーへのロック・ファンからのすげない態度にもうかがえる。とはいえこの構図は定説あつかいだったふしがあり、かくいう私も、高校のころ、これから日本のロックを一所懸命聴くぞ!と誓ったそばからGSは歌謡曲だからやめとこうと思ったくちだった。その頑迷な思いこみがとけたのは黒沢進さんらの浩瀚な研究や、80年代なかば以降、レコードからCDへの媒体のきりかえにともない、過去の名作が廉価で入手できる体制がととのったことにもよる。
耳をならすと、なかには歌謡曲ロックの枠組みからハミだすフリーキーな響きもそこかしこに聴きとれる。世界史との時間軸を確認すると、当時は68年を中心とした政治の季節で、米国西海岸にはグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインやクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスらシスコ・サウンドが存在感を増した時期ともかさなる。すなわちサイケデリックの誕生である。海の向こうの動きにもっとも直截に反応したのは鈴木ヒロミツや星勝らのモップスでその名も『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』(1968年)なるデビュー・アルバムを世に問うたことは、海外の最新動向を伝達する回路でもあったGS期の邦楽の位置づけも裏書きする。スパイダースのように音楽的なオリジナリティを積極的に打ち出す例もあったが、ポップ音楽では日本はまだまだ後進国であり、海外の最新動向の紹介も本邦楽団の重要な役割のひとつだった。上述のモップスのアルバムでも鈴木ヒロミツと星勝によるバンドのテーマソング風の “アイ・アム・ジャスト・ア・モップス” をのぞく全曲がカヴァーか職業作家の手になる提供曲(1曲目の “朝まで待てない” はのちに一世を風靡する作詞家阿久悠のデビュー作)である。
このような分業制は内田裕也や大瀧詠一らをまきこんだ日本語ロック論争の下地でもあるが、話が広がりすぎるのでいまは措く。留意したいのは、いまだ支配的だった和魂洋才の和と洋の線引きである。加部のいたゴールデン・カップスもそのことでは例外ではなかった。1948年横浜は本牧に生まれた加部正義は中学でギターを手に、高校のころには米軍キャンプで演奏をはじめていたという。のちのパワー・ハウスの竹村英司らとのミッドナイト・エクスプレスをへて平尾時宗(デイヴ平尾)とグループ・アンド・アイにベースで加入したのは66年、これが翌年に活動拠点の店の名前をとってゴールデン・カップスに改称する。デビュー・シングルは「いとしのジザベル」で、なかにし礼と鈴木邦彦への外注だが、静から動への弾けるような展開は彼らのキャラクターをうまくいいあてている。なかでも楽曲内を駆け抜けるランニングベースのうねりながら加速するグルーヴは加部の持ち味のひとつで、リードベースの呼び声も高いそのプレイスタイルは爾来、アンサンブルの牽引車の役目を担っていく。本領発揮の場はなんといってもスタジオよりライヴであり、私はその観点からカップスの最高傑作は69年の『スーパー・ライヴ・セッション』だと断言したくなる。
とはいえ全9曲中オリジナルは掉尾をかざる “ゼンのブルース” のみ。のこりはブルース、R&B、お気に入りのナンバーか、前年に出たアル・クーパーとマイク・ブルームフィールドの『スーパー・セッション』の援用からなる。名うてのミュージシャンを糾合しその化学反応に期待するスーパーセッション方式の本邦へのもっともはやい導入例だが、方法論以上に注目すべきは彼らの演奏の質である。ガレージの鋭利な切っ先が反射させるステージライトがかもしだす酩酊感とでもいえばいいだろうか、デイヴ平尾、エディ藩、マモヌ・マヌーにミッキー吉野らコンボが発するテンションはきわめて高い。ルイズルイス加部のベースは音楽空間の下部を滑り、曲をかさねるごとに内圧を高め、パワー・ハウスの陳信輝と柳譲治が加わる “ゼンのブルース” はどんづまりにひしめく魑魅魍魎の図を想起させる。このような現場が昭和40年代の横浜の地に存在していたことは当時の日本でロックの受容が急速にすすみつつあったことをものがたる。むろん決定権をにぎるのはいまだ大人だが、バンドの仕組みやロックへの理解度は格段に高まっていた。これが60年代末から70年代初頭にかけてのスーパーセッション方式の重用につながっていく。そのことはあの『ジャップロック サンプラー』(和書は白夜書房より2008年刊行)でジュリアン・コープも誤解と曲解まじりに指摘する点でもある。コープは陳信輝、水谷公夫、柳田ヒロ、クニ河内らの名前のなかで前述の『スーパー・ライヴ・セッション』については「ブームの尻馬に乗ろうとした」(165ページ)とすげないが、前後関係をみるとカップスのが先である。というのはさておき、器楽演奏に焦点をあてたこの方式は70年代前半のニューロックにきわめて親和的であり、この潮流からは多くの演奏家が輩出している。大音量の長尺の演奏を旨とするスタイルゆえ、そのほとんどはギタリストだが、加部正義はそのなかで例外的なベーシストとして70年代以降のロック史で異彩を放ちつつづけるのである。
陳信輝とのフード・ブレイン、スピード・グルー&シンキ、ジョニー・ルイス&チャー──、加部正義が名を連ねるバンドがことごとく無頼派集団風なのは演奏の場を共同作業より勝負の場ととらえるからか。男性原理を尊ぶ60年代末の時代の影もおちている。それにより幅をきかせるハードな不良のロックの向こうを張るように、スピード・グルー&シンキはジュリアン・コープが「アンフェタミンの入手にまつわるブルース・ベースの葬送曲」と形容する “Mr. Walking Drugstore Man” にはじまるわずか1年あまりの活動で日本という社会と時代をつきぬけようとする。71年の『イヴ 前夜』と翌年の『スピード、グルー&シンキ』の2枚がこの日中、日仏、米比混血児トリオがのこした音源のすべてであり、作風には同時代人であるジミの影もちらつくが、フード・ブレインで未消化に終わった実験性をフリークアウトぶりでとりかえすかのごとき濃度と(加)速度はやはり圧巻である。
その後復活したデイヴ平尾とゴールデン・カップスや、山口冨士夫とビショップとのリゾートに参加し活動の場を広げつつも、めまぐるしく変わる状況に疑問をおぼえた加部正義は自省の期間をもうけようと旅にも出たが、帰国をまちかまえていたかのように、78年にはチャーに乞われてジョニー吉長とのジョニー・ルイス&チャーの一員として前線に舞い戻ることになる。のちにピンク・クラウドと名をあらためるトリオの本邦ロック史における功績はいくつもあるが、私のような後発組には大人のロックなるものがもしあるとして、説教くささ抜きにかっこよくあるべきにはどうすればいいかおしえてくれたのも彼らだった。ロックなどというものは、バンドマンなどというものは楽器をかまえた姿がさまになってなんぼであり、テクニックなどいうだけヤボである──といいたげな余裕と色気と自由な精神。その中心で加部正義はハードなロックを中心に、ファンク、フュージョン、ラテンやAORにいたるまで、さまざまなモチーフに芯の詰まったグルーヴでしなやかに応じている。その融通無碍な音楽性は80年代を席巻し来たるべき90年代以降の多様性と横断性をさきがけてもいたが、そのような状況から出来した並列化と細分化はロックという坩堝を旧式の調理道具とみなす風潮も用意した。むろんこれは概況にすぎず、加部正義は21世紀以降も、いくらか間遠にはなったとはいえ、TENSAW の鈴木享明、富岡義広らとのぞくぞくかぞくなどで活動を継続していた。鈴木、富岡は加部の94年のソロ『eyeless sight』でもリズム隊をつとめた間柄でもある。それ以前にも加部にはチャーがプロデュースした83年のはじめてのソロ『ムーン・ライカ・ムーン』とマシュー・ザルスキーJr.と加部みずからプロデューサー役を買って出た『コンパウンド』(1985年)の2作のソロもある。ことに後者は旧知の清志郎との合作で “非常ベルなビル” と題した、ふてぶてしさと脱力を誘う諧謔ぶりが同居するハードなロックンロールもおさめている。このロック的な、あまりにロック的な佇まいは2020年9月26日以降も、加部正義の音楽から陽炎のようにたちのぼってくる。
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90年代にデビューした年齢的にも現在40代後半以降のラッパーのなかで、いまもなおヒップホップ・シーンおよび広くアメリカ社会に対しても大きな影響力を持つアーティストとして真っ先に名前の挙がるのは、おそらく Jay-Z と Nas のふたりであろう。アーティストとしての活動だけでなく、ビジネスマンとしても(それぞれ規模の違いはあれど)大きな成功を収めているふたりであるが、自らのレーベルである〈Mass Appeal〉を通じてアンダーグラウンドなシーンのサポートなども積極的に行なっている Nas は、リリース作品に関しても年々よりストイックな方向性を貫いているように感じる。
Kanye West をトータル・プロデューサーとして迎え、ソロ・アルバムとしては6年ぶりのリリースとなった前作『Nasir』に続く今回のアルバム『King's Disease』では、Jay-Z、Kanye West、Beyoncé、ASAP Rocky、Drake、Kendrick Lamar、Jay Park など錚々たるアーティストたちの楽曲を手がけてきた Hit-Boy が全曲のプロデュースを担当。様々なヴァリエーションのサウンド・スタイルでありながらも、そこには一本の真っ直ぐな芯が貫かれており、ワンパッケージのアルバムとして非常に完成度の高い作品に仕上がっている。
先行シングル曲でもある “Ultra Black” は間違いなく本作を象徴する一曲であるが、タイトルが示す通り、BLMムーヴメントとも連動して、Nas の黒人としての高いプライドがこの曲には込められている。様々なヒットチューンを生んできた Hit-Boy であるが、この曲のサウンドはサンプリングを多用し、おそらく楽器も足しながら全体のトーンをコントロールして抑制を効かせることで、Nas のラップのなかにあるエモーショナルな部分を見事に引き出す。Lil Durk と共に黒人女性の持つ強さについてラップする “Til the War Is Won” や、さらに直接的に切り込んだ “The Definition” など、“Ultra Black” と同様にBLMと深くリンクした曲を盛り込む一方で、Big Sean をフィーチャした “Replace Me” や Anderson .Paak との“All Bad” では恋愛(および失恋)をテーマにしていたりと、このリリックのトピックの振れ幅も実に Nas らしい。そして、サンプリングと打ち込みのビートのバランス感が絶妙な Hit-Boy のトラックとの相性も実に見事だ。その反動というわけでもないだろうが、ボーナストラック的なラストチューンの “Spicy” では Fivio Foreign と ASAP Ferg というヤンチャな若手勢を引き連れながら、強烈なトラップ・ビートの上でダーティなストリート臭を思いっきり吐き出すのもまた痛快である。
本作の最大のサプライズが、90年代に Nas が一時的に組んでいたスーパーグループ、The Firm のメンバーである AZ、Foxy Brown、Cormega が参加した “Full Circle” という曲だ。The Firm、あるいは Nas “Life's A Bitch” をリアルタイムに聞いていた人であれば、AZ が登場する瞬間、頭が20年以上前に持っていかれる感覚になるだろうし、Foxy Brown の相変わらずのラップの格好良さに身震いするだろう。さらにこの曲の最後にシークレットゲストとして The Firm のプロデューサーでもあった Dr. Dre がスピットする演出も実に見事としか言いようがない。
ベテランならではの貫禄を見せながら、通算13枚目というアルバムでこれだけ強い満足感を与えてくれる Nas。まだまだ枯れることのない彼のクリエイティヴィティが今後も末長く続くことを期待したい。
1985年から遅くとも88年までにデトロイト・テクノは確立されている。そこからジェフ・ミルズがハード・ミニマルを分岐させたのが1992年で、ひとつのジャンルから新たな飛躍が起きるまでに5~6年はかかったことになる。その変化は徐々にというよりも一気に起きたように感じられたので、デトロイト・テクノとハード・ミニマルを連続体として捉えられなかった人もいたことだろう。ビートがハードになると、それだけで根本的なことまで変わったと感じてしまうのは仕方がない。それはジェフ・ミルズが意図的に上げようとしたハードルだったわけだし。何が言いたいのかというと、イタリアのラスト・ライフことマウロ・ピッチャウ(Mauro Picciau)のファースト・アルバム『Recon(偵察)』がまさに「ジェフ・ミルズの登場」を思い出させる作品で、ジェフ・ミルズが初めてリキッドルームのDJブースに立った日を蘇らせてくれたのである。ただし、ここで用いるタームは「ハード・ミニマル」ではなく「ハーフタイム」。ハーフタイムというのは一般的には8ビートだったら8で刻むのではなく、オフビートを駆使して4しか叩かずに8ビートを表すリズムのことだけれど、ここ最近、ジャンル名として使われているハーフタイムはドラムンベースを16ではなく8で刻むスタイルを指し、ロンドンのエイミット(Amit)が00年代前半に完成させたスタイルのこと。エイミット自身はハーフタイムを主軸とせず、ドラムンベースに雪崩れ込む前半の展開としてハーフタイムを用いるだけで、そのポテンシャルを最大限に引き出したのは2010年代に入ってDブリッジを待ってから。カリバー “Steptoe”(10)やダブ・フィジックス “Marka”(11)も話題を呼び、ストゥラテジィをMCに起用した後者のヒットによってラガマフィンのサンプリングやフォックスのような現役のダンスホールMCを起用することが増え、ハーフタイムとダンスホールはヒップホップとラップのようにワンセットとして動くようになっていく(そうではない動きももちろんあった)。イキノックスやデムダイク・ステアがダンスホールとテクノを結びつけてリヴァイヴァルさせた際にもハーフタイムは不可分のものとしてあり、エイミット自身もそうした余波に煽られたか、最後までハーフタイムで押し通したシングルは”Acid Trip”(14)が最初だったはず。おそらく、どの流れであれ、ハーフタイムを包括的に扱っていたのはDブリッジと彼の主宰する〈イクジット・レコーズ〉で、僕が最初に飛びついたハーフタイムもDブリッジとスケプタによる“Move Way”(13)だった。そして、彼らが8人編成のモジュール・エイトを名乗ってアルバムをリリースしたのが2015年だから、ラスト・ライフがハーフタイムを一気にハードに展開させるまでにはやはり「5~6年はかかったことになる」。しかも『Recon(偵察)』にはジェフ・ミルズの用いるクリシェがふんだんに重ね合わされ、ジェフ・ミルズがハーフタイムをやればこうなるでしょうと言わんばかりな面も。オープニングのタイトルが“The Minimal”だし。
ラスト・ライフのことはアルバムを聴くまで知らなかったので、初期のシングルを聴いてみた。デビュー作らしき「85-15 EP」は2015年のリリース。この段階ではまだハードではなく、IDMに近い印象もあり、2017年には「Nether Regions(股間とか冥土の意) EP」が続く。ここでようやく『Recon』へとつながるアグレッシヴな方向性が見え始め、同じ年に〈サムライ・ミュージック〉に移って早々と「Nootka EP」をリリース。そこから彼は独自の道を模索するために配信のみで4枚のセルフ・リリースを重ね、そのまま一直線に『Recon』へ向かったというより彼はここでやってみたいことを様々に試し、好きなだけ実験を重ねたという印象が強い。ジュークやダーク・アンビエントなど、どれもが彼の作風に染まっているのはさすがだし、それらをアルバムにまとめる力がないとは思えないほど独自のカラーは漲っている。しかし、彼に新たな集中力をもたらしたのはパンデミックだったようである。多くのプロデューサーにとって作曲と編集の能力はまったくの別の才能で、同じ課題がラスト・ライフの前にも立ち塞がっていた。タイミングよくパンデミックによってスタジオに閉じ込められたことが、そして、それを解決してくれたのではないかと。どんな方向にも行けた気がするラスト・ライフが『Recon』ではしっかりとストロング・スタイルに照準を合わせている。ラスト・ライフにもドラムン・ベースを16で刻むことには未練があるようで、中盤の3曲がやや退屈に感じられるのはそのせいだろう。しかし、それ以外は基本的にドラムが前景化せず、時には途切れてしまうこともあり、ブリープ音のループや獰猛なベース・ラインが必要以上に強迫的なムードを煽っているあたりはどうしてもジェフ・ミルズを想起させる。それに16できちんと区切っていくリズムはいまとなってはかなり単調に感じられ、トラップを早回しで聞いているような感覚はまさに同時代性のもの。ラスト・ライフがドラムン・ベースをここまで変化させた鍵はジュークにあるのではないかと思うけれど、それ以上のことはよくわからない。ハーフタイムを独自に発展させた動きはほかにもあるので、ハーフタイムが呼び込むリズムの自由さをどのように生かすかはそれぞれの才能に委ねられている時期ということか。
90年代後半、UKディープ・ハウス・シーンのキイパースンとして活躍したチャールズ・ウェブスターが、2001年の『Born On The 24th Of July』以来じつに19年ぶりとなる新作『Decision Time』を送り出す。
アルバムには(マッシヴ・アタック『Blue Lines』への参加で知られる)シャラ・ネルソンを筆頭に、これまでチャールズが関わってきたヴォーカリストたちが多くフィーチャーされている。フォーマットはヴァイナル/CD/配信の3種で、11月20日に発売。それに先がけ10月9日にはシングル「The Spell」もリリースされる。
注目すべきは、アルバム収録曲 “The Second Spell” のプロダクションにベリアルが参加している点だろう。シングル「The Spell」でも彼はリミックスを手がけており、これはかなり珍しい。なんでも今回のコラボは、かつてベリアルがチャールズのプレゼンス名義による『All Systems Gone』(1999年)を自身の重要な影響源としたことがきっかけになったそうだ。
驚くべきコラボ、これは大いに期待できそう!
single
Charles Webster
The Spell (feat Ingrid Chavez)
format: 12” vinyl / digital
release: 2020/10/9
A1. The Spell (Burial Mix)
B1. The Spell (Charles Webster Dub)
B2. The Spell (Charles Webster Vocal Mix)
album
Charles Webster
Decision Time
format: double vinyl / CD / digital
release: 2020/11/20
01. Burning (feat Sio)
02. This Is Real (feat Shara Nelson)
03. We Belong Together (feat Thandi Draai)
04. Love Lives (feat Sio)
05. I Wonder Why (feat Sipho Hotstix Mabuse)
06. Music (feat Thandi Draai)
07. Wait And See (feat Terra Deva)
08. Secrets Held (feat Emilie Chick)
09. The Spell (feat Ingrid Chavez)
10. The Second Spell (feat Ingrid Chavez)
偉大なるテクノ・マエストロ、かつて一緒にカラヤンをリコンポーズドしたふたり、カール・クレイグとモーリッツ・フォン・オズワルドが新たなコラボ・プロジェクトをスタートさせている。
新曲 “Attenuator” はここ2年のあいだにデトロイトとベルリンでおこなわれたセッションから生まれたもので、カールとモーリッツそれぞれのヴァージョンがある。それらを収めたシングルが10月23日に発売、フォーマットは配信と12インチ・ヴァイナルが予定されている。
現在ショート・ヴァージョンが〈プラネットE〉のサウンドクラウドで公開中。予約はこちらから。
これは観たい! 曲目リストを眺めているだけで興奮してくるけれど、超貴重かつ超入手困難なじゃがたらの映像作品、かつてVHSにてリリースされていた『ナンのこっちゃい HISTORY OF JAGATARA』3作を、Blu-rayにて復刻する企画が始動している。
オーダーメイド方式で、予約数が一定に到達すれば商品化が実現、という流れ(10月1日現在では41パーセントの達成率)。予約の〆切は12月29日とまだ先ではあるが、いまのうちに予約しておきたい。
詳細は下記URLからご確認を。
https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&ima=0208&cd=DQXL000000785
JAGATARA、5時間超えの大作ヒストリービデオがBlu-rayで復活!
1990年、ヴォーカリスト江戸アケミの逝去に伴い制作され、JAGATARAの10年間に渡る活動から膨大な量のライヴ、リハーサル、レコーディング、インタビュー等の映像を3本のVHSに収めたヒストリー作品『ナンのこっちゃい HISTORY OF JAGATARA I〜III』。現在廃盤で超入手困難となっている本作品から約5時間半にわたる映像を1枚のBlu-rayディスクに収録。JAGATARA研究の第一級資料とも言える、貴重なシーン満載のファン必携作。
※本作品は商品化を前提としない資料用映像を素材にしており、お見苦しい箇所、お聴き苦しい箇所がございます。画質、音質クオリティは2003年発売のDVDと同等です。またオリジナル発売時に収録されていた「UNDER THE MOON」「SEX DRUG ROCK'N ROLL」は制作上の都合により収録されておりません。以上ご了承ください。
[ナンのこっちゃい HISTORY OF JAGATARA I]
01. HEY SAY
02. 無差別テロ
03. アジテーション
04. HEY SAY
05. 日本人て暗いね
06. ヴァギナ・ファック
07. HEY SAY
08. 日本株式会社
09. BABY
10. 家族百景
11. 夢泥棒
12. 少年少女
13. タンゴ
14. 裸の王様
15. 日本人て暗いね
16. 日本人て暗いね
17. クニナマシェ
18. ジャンキー・ティーチャー
19. もうがまんできない
20. ジャンキー・ティーチャー
21. 少年少女
22. タンゴ
23. 裸の王様
24. 日本人て暗いね
25. ある平凡な男の一日
[ナンのこっちゃい HISTORY OF JAGATARA II]
01. 夢の海
02. クニナマシェ
03. 岬で待つわ
04. 南国美人
05. 南国美人
06. みちくさ
07. BABY ROCK
08. BIG DOOR
09. OPENING
10. 少年少女
11. 都市生活者の夜
12. VIENUS WALTZ
[ナンのこっちゃい HISTORY OF JAGATARA III]
01. BLACK JOKE
02. TABOO SYNDROME
03. 中産階級ハーレム
04. ゴーグル、それをしろ
05. GODFATHER
06. CASH CARD
07. もうがまんできない
08. アジテーション’89
09. SUPERSTAR?
10. つながった世界
11. タンゴ
池袋を拠点に2001年より活動を続けてきたというヒップホップ・グループ、BLYY (ブライ)が、活動20年目にして初のフル・アルバムとしてリリースした本作。メンバーの年齢的にもおそらく40歳を過ぎており、ベテランと言っても差し支えないと思うが、ライヴを中心に地道に(かつ着実に)キャリアを積んできた彼らの年輪のひとつひとつがしっかりと刻まれた、実に深く染み入ってくるファースト・アルバムだ。
5MCによるマイクリレー、MCでもある alled がフルプロデュースしたトラック、そして DJ SHINJI によるスクラッチと、それら全てが、彼ら自身、リアルタイムに経験してきたであろう90年代から2000年代初頭のヒップホップがベースとなっており、現在進行形の日本のヒップホップとは全く違った空気感を放っている。例えばブーンバップ・ヒップホップの流れとも共通する部分は感じられるものの、しかし結果的に目指している方向性は全く異なる。個人的には最盛期の LAMP EYE や BUDDHA BRAND などを思い出したりもしたが、BLYY が醸し出すムードは、そういった往年のグループともまた異なる。彼らのサウンドの中にあるモノクローム感というか、ピュアでありながら薄汚れたようなダークな感触は、もしかしたら池袋という街の空気感がダイレクトに反映された結果なのかもしれない。
勝手な想像ではあるが、彼らがグループ結成当初に作り上げたスタイルをそのまま継承し、純粋培養させながら、ひたすら磨き上げてきた結果でき上がったのが本作だとすれば、非常に納得がいく。その一方で、流行りには一切乗らずにひとつのやり方をひたすら20年も続けてきたのであれば、正直驚くしかない。アルバム1曲目の “MAN” を聞いただけでも、彼らの声質からフロウ、ライミング、リリックに込められた言葉のひとつひとつ、さらにサンプリング・ソースやトラックの出音まで、おそらく30代後半以降の日本語ラップ・ファンであれば、何か強く心に引っかかってくる部分があるだろう。単なるノスタルジーともまた違う、彼らなりの美学が作り出した究極のアートがこの作品には宿っている。
ちなみに本作のリリース元は PUNPEE や BIM、SIMI LAB、C.O.S.A. らを擁する、あの〈SUMMIT〉だ。いまの日本語ラップ・シーンを背負って立つ存在である〈SUMMIT〉が、BLYY のようなアーティストの作品を世に送り出すというのは本当に意義深いことであり、改めてその審美眼には恐れ入る。
縁の下の力持ち──大物を陰で支えるミュージシャンたちが一堂に会したコレクティヴ、カタリストのデビュー作がリリースされる。
故ロイ・ハーグローヴのRH・ファクターの一員であり、最近ではソランジュの世界ツアーに帯同していたブライアン・ハーグローヴを筆頭に、アンダーソン・パーク『Malibu』や(フローティング・ポインツの〈Eglo〉から出た)シャフィーク・フセイン『The Loop』、カマール・ウィリアムズ『Wu Hen』などに参加していた精鋭たちが集結、鮮やかなアンサンブルを聞かせるジャズ・アルバムに仕上がっている(各メンバーのバイオはこちらから)。
日本盤はハイレゾ仕様とのことなので、チェックしておきましょう。
KATALYST
Nine Lives
ビヨンセやアンダーソン・パーク、ケンドリック・ラマーやソランジュ、ジェイ・Zといったビック・アーティストを支える大注目の精鋭ジャズ・コレクティヴ、カタリストによるデビュー作!! 確かなテクニックと絶妙なアンサンブルを聴かせてくれる、珠玉のアルバム。日本限定盤ハイレゾCD「MQA-CD」仕様にてリリース!!
Official HP : https://www.ringstokyo.com/katalyst
カタリストが掲げる “コンテンポラリー・インストゥルメンタル” は、ジャズのみならず、ヒップホップやR&Bのスターたちも魅了し、彼らはこれまで数々の重要なレコーディングやライヴに参加してきた。LAを拠点とする精鋭ジャズ・ミュージシャンたちによるコレクティヴが遂に完成させたデビュー・アルバムは、これまでの集大成であり、ここから始まる新たな変革を我々に聴かせてくれる。(原 雅明 rings プロデューサー)
アーティスト : KATALYST (カタリスト)
タイトル : Nine Lives (ナイン・ライヴス)
発売日 : 2020/11/25
価格 : 2,600円+税
レーベル/品番 : rings (RINC68)
フォーマット : MQA-CD
* MQA-CDとは?
通常のプレーヤーで再生できるCDでありながら、MQAフォーマット対応機器で再生することにより、元となっているマスター・クオリティのハイレゾ音源をお楽しみいただけるCDです。
Brian Hargrove: Piano (Roy Hargrove’s The RH Factor, Solange)
David Otis: Sax (Mac Miller, SiR, Theo Crocker, Anderson Paak, Shafiq Husayn, Kendrick Lamar)
Corbin Jones: Bass, Sousa-phone & Tuba (Beyoncé, Jay-Z, Lupe Fiasco, Kendrick Lamar)
Jonah Levine: Piano, Trombone (Anderson Paak, Kanye West, Chance the Rapper)
Emile Martinez: Trumpet (MNDSN, SiR, Van Hunt, Iman Omari, Shafiq Husayn)
Greg Paul: Drums (Gary Bartz, Roy Ayers, Joao Donato, Kamaal Williams)
Marlon Spears: Bass (SiR, Lonnie Liston Smith, Kamaal Williams)
Brandon Cordoba: Piano
Ahmad DuBose: Percussion
Tracklist :
01. WhatsAname
02. FreeHand
03. BBB
04. Leimert Day
05. Leimert Night
06. Fitted
07. Fresh: Earth
08. Fresh: Fire
09. Fresh: Wind
10. FITTED Fitted
+BONUS TRACK 追加予定
ケニア・ナイロビ出身のKMRU(ジョセフ・カマル)は、2017年ごろからDJ活動とアーティスト活動を開始し、翌2018年には「Resident Adviser」の「15 East African Artists You Need To Hear」にも選出された。
活動初期は現在のようなエクスペリメンタルな作風ではなく、シンガーとのコラボレーション・トラック/曲を発表し、ケニアのエレクトロニック・ミュージック・シーンでは知られた存在だったという。トラックメイカー時代(?)のジョセフ・カマルはドイツのレーベル〈Black Lemon〉からジョン・トーマスとのコラボレーションEP「Eternal Summer」をリリースしたり、ポエトラ・アサンテワとのコラボレーション曲 “Round Pegs” を生みだしたりするなど精力的な活動を展開していた(https://soundcloud.com/poetra-asantewa/round-pegs)。
やがてジョセフ・カマルはアンビエントなサウンドへと変化を遂げ、本作のリリースへと行き着く。あえていえばそのサウンドはまるで別物といっても良い(サウンドの変貌は彼のバンドキャンプで発表されたトラックを追いかけていくと分かってくるだろう)。
彼はウィリアム・バジンスキーからステファン・マシューの系譜に連なるアンビエント・アーティストへと生まれ変わったのだ。本アルバムのマスタリングをステファン・マシュー/Schwebung Mastering がおこなっていることは象徴的に思える。
ナイロビ出身のジョセフ・カマルが生み出すアンビエントには、深い安息への渇望があるように聴こえてくる(もしかするとナイロビの治安も関係しているのかもしれない)。その「安息への渇望」への感覚が、アンビエント・リスニングにおける現代的な「チル」の問題について考えるときに重要なテーゼを投げかけてくれるように思えるのだ。
現在、アンビエント・ミュージックはいわゆる「環境音楽」から、自宅・自室のリラックスした環境で聴く「安息の音楽(チル)」としての側面が強まっている。その「ホームステイ」的な聴取・生活は、コロナ・ウィルス以降の世界においてより現実的になってきたが、しかし一方でコロナ禍以前から「チル」な音楽は一定の浸透力を持っていたことも事実だろう。なぜだろうか。
ここでひとつの私見・私論を蛇足ながら述べさせて頂きたい。それは「こうまで00年代末期から20年代にかけてチルな音楽が広がった時代背景には世界的な経済不況と治安悪化の問題が根柢にあるのではないか。だからこそ安心できる家にいるときに過剰にくつろぎたい/安息したい欲望が高まったのではないか?」である。このように考えてみると2020年代的なチルな音楽、そしてアンビエント音楽が希求され浸透した背景には、そういった過酷な現代社会と表裏一体の関係にあったかのかもしれない。
本作『Peel』はKMRUが現代実験電子音響の聖地〈Editions Mego〉からリリースしたアルバムである。しかも『Peel』リリースの翌月には『Opaquer』を立て続けに発表した。さらに9月にはデジタル・リリースで「while we wait」をリリースする。どれもアンビエントの楽曲であり、彼の創作意欲はとても高まっているのだろう。
あえて簡単に分類するなら『Opaquer』の方がクラシカル、ミニマルなどの音楽的な要素が多く、音楽家/作曲家としての彼の力量を聴くと満喫できる仕上がりとなっていた。一方『Peel』は彼の特有の「チル」な感覚が全6曲・70数分に渡って持続し、アンビエントの現代性を体現するような稀有な仕上がりになっている(「while we wait」は『Peel』の音を融解したようなドローンと環境音を基調とした38分強の長尺トラックだ)。
『Peel』にはこの時代の「空気」が濃厚に漂っているように感じられた。それもそのはずだ。カナダ・ケベック州モントリオールへと旅していたジョセフ・カマルだったが、新型コロナ・ウィルスの影響で国境が閉鎖され、ナイロビへの帰国を余儀なくされ、母国ケニアへと帰国、自宅に籠って48時間で完成させたアルバムというのだ。1曲目が “Why Are You Here” という曲名なのも本作を象徴しているように思えてくる。
コロナ禍のロックダウン的状況のなか制作された『Peel』は、同時に体を休息し、安息へ導くアルバムである。やわらかい電子音に空気のなかを漂うかのごときノイズ、時間をかけて生成し変化するアンビエンスには「親密さ」があり、深い睡眠のように無時間的な「安息」の感覚もあり、家族たちとの穏やかな時間の記憶のような音色の色彩に横溢していた。
1曲目“Why Are You Here” の静謐な始まりから、穏やかな波のように持続する2曲目 “Well” と3曲目 “Solace”、次第にサウンドが拡張され聴覚と知覚に浸透していくかのごとき “Klang”、夢の中のミニマル/ドローンのごとき “Insubstantial”、そして22分に及ぶアルバム最終曲 “Peel”。全6曲がシームレスにつながり、70分におよぶ音の波を生成する。なかでも “Peel” はアルバム全般を統合したような長大な曲であり、透明な空気と濃厚な霧が交錯するような美しさに満ちている。
長々と言葉を連ねてきたが、何より「夜」の光景を捉えた印象的なアートワークが、本アルバムのムードを雄弁に表現していることはいうまでもない。深い夜にたちこめる霧の時のようなアンビエンス/アンビエント。まるで満ちる音の波のように、もしく音の空気のように70分強のあいだ濃厚なアンビエントが展開していくのだ。私たちは彼のサウンドを聴取することで、睡眠と覚醒のあいだにあるような不可思議な安息を得ることになるだろう。
世界が危機的であればあるほど、人間には世界から隔離された睡眠のような時間が必要だ。現実には否応なく戻ることになる。人には休息が必要だ。KMRU『Peel』は、われわれにとって、そんなひとときの安息を用意してくれる美しいアンビエントだ。
現実から遊離してしまうでもなく、ことさらに現実を突きつけるでもない。自分と世界の距離感がちょうどいいと思いながら先行EPの「Hate This Pain」を聴き、通算14作目となる『Fall to Pieces(落ちて粉々に)』を聴いていた。いつもそうだけれど、3年前の『Ununiform(不均一な)』よりもさらに音数が減り、なけなしの躍動感もなくなっている。どうして僕はこんなに『Fall to Pieces』に惹かれるのだろう。これまでに経験したことがないような音楽でもないし、台風でもない(10号上陸前夜に書いています)。かつてバードがいた位置にはマルタがいて同じように歌っている。オープニングから静かに鳴らされるバスドラムとスネア一発のループ。隙間だらけのシンセ・ベースに遠くで薄く鳴るギター。2曲目もあまり変わらない。ヤング・マーブル・ジャイアンツにシンセ・ベースが加わっているだけというか。続いてタンゴ。途中で3拍子から4拍子に変わる。次もその次もよく音数がこんなに少なくて曲が成り立つなと思うほど。“Hate This Pain”はおどろおどろしいトリッキーのヴォーカルとピアノのリフにわずかな管楽器のインサート。「なんだよ、この遊びは なんだよ、このゲームは~」。苦しみから逃れようとする歌だけれど、重くのしかかる要素はない。DAFかと思えば“Pump Up The Volume”を思わせるワシントン・ゴーゴーと、簡素ななかにも音楽性の幅広さには確かなものがある。「聴けば聴くほどスルメ」というのはこういうことを言うのだろう。
1993年のデビュー以来、トリッキーがこの世界を素晴らしいところ、百歩譲って居心地のいいところとして表現したことはほとんどなかった。一度は自壊したクラブ・カルチャーが1992年に立て直しを図り、再びアシッド・サマーを謳歌していた時期に暗い表情で現れたエイドリアン・サウスは「扱いにくい」とか「ズルい」を意味するトリッキーを名乗り、同じくブリストルのポーティスヘッドと共にトリップ・ホップというタームを確立する。デビュー・アルバムのタイトル『Maxinquaye(マクシンクェイ)』は自殺した母親の名前(マクシン・クェイ)で、独我論とソシオパスに満ちていると評された曲の多くは彼がマッシヴ・アタックの初期メンバーだった頃にボツをくらった曲だったという。曲のテーマから録音方法に至るまでどこをとってもネガティヴなエピソードしか出てこないトリッキーはそれから約10年後には音楽に対する情熱を失い、しばらく音楽活動を休止するも4年ほどして(アメリカに住んでいたからか)ドライでゴージャスな雰囲気の『Knowle West Boy』(08)で復帰。奇跡的にカリビアン・ムードが楽しい『Mixed Race(混血)』、淡々とした作風に戻った『False Idols(偽のアイドル)』、本名をタイトルにして珍しくゲスト多数の『Adrian Thaws』と順調にキャリアを再開させ、『Fall to Pieces』はヴォーカルのバードとの間にできた娘が鬱で苦しみ、自殺した後にリリースされた初のアルバムとなった。『Fall to Pieces』を聴くと『Maxinquaye』でさえ明るいトーンに聞こえてくることは否めない。『Maxinquaye』がリリースされた翌月に生まれた娘は昨年、24歳になったばかりだった。トリッキーがマッシヴ・アタックを離れてソロで立った年齢である。
“Hate This Pain”で歌われていた苦痛とはこのことだったのだろうか。前作で久しぶりに歌っていたバードがこのアルバムでは歌っていない理由もおそらく同じで、「石になったみたいだ ドラッグじゃないのにストーンしてる~」と繰り返す“Like A Stone”からは、彼がショックで何もできなかった様子がみっちり伝わってくる。“Like A Stone”からはまたトリッキーのサウンドにはおなじみとなっているウエスタン調がぶり返し、運命論のようなものに強く支配されている印象が拭えない。トリッキーの歌詞は一般的に「問いかける」タイプのものが多いとされるけれど、彼自身、自分の置かれた境遇が過酷すぎて、自然と誰かに解決策を求めるようなものになってしまうだけなのだろう。ラストの“Vietnam”はどこか『ツイン・ピークス』みたいで、絶望的なのにどことなく甘美。どんな歌詞なのかと思えば「オレは爆弾をつくっている 誰でもいいんだよ、ヴェトナム~」とやはりソシオパス(反社会性パーソナリティ障害)は健在だった。社会に対する脅迫状のような歌詞を書いてしまう男がそして、昨年末に出版した『Hell Is Round The Corner』は意外にも個人的な自伝であると同時に底辺の声を記録した社会の記録としても読めるものだという。徹底的に個人であることが、それ以上のものになる。これ以上、不幸なこともないのかもしれない。