「Nothing」と一致するもの

interview with Jun Miyake - ele-king

 ジャズ、ロック、エレクトロニカ、クラシック、現代音楽、フランスやブラジルをはじめ世界各地の音楽など、多彩な音楽の要素をハイブリッドに融合し、映像性も豊かに展開する作曲家、三宅純の音楽は、ユニバーサルにしてパーソナル。聴き手の五感を刺激し、自由な想像の世界へと誘う。
 80年代、10代で日野皓正に才能を見出され、USAボストンのバークリー音楽大学で学び、帰国後、ジャズ・トランペッターとして活動をはじめた三宅純は、既成のジャンルにとらわれず冒頭に記した多彩な音楽を飲み込んで、独自の音楽世界を築いてきた。この15年余りは、パリを拠点に活動し、映画、演劇、舞踏、CMの音楽なども手がけ、中でも舞踏家・振付家、故ピナ・バウシュのドキュメンタリー映画『ピナ/踊り続けるいのち』(ヴィム・ヴェンダース監)の音楽は名高い。
 海外でも高い評価を得た三部作のアルバム『Lost Memory Theatre』(2013~2017年)に続き、2021年12月に発表したニュー・アルバムが『Whispered Garden』。東京、ヨーロッパ、南北アメリカで主にリモート録音をおこない、世界各国の多彩な歌手と演奏家が参加した新作について、話を聞いた。

「時間の流れる速さや順番が、訪れるたびに異なる庭園」というところに落とし込もうと思って。その庭園に行くと同じ曲が「あれ? この曲さっき別の人が歌っていなかったっけ? でも何かが違う」みたいになってるような。

『Lost Memory Theatre』の三部作が完結して次のチャプター、この『Whispered Garden』の構想に着手したのはいつでしたか?

三宅純(以下JM):構想、コンセプトが先ではなく、2015年ぐらいから単発で思いついた曲を作っていったのですが、実はアルバム・タイトルが全然決まらなくて、ほぼ全曲、出揃った後に、これは何か庭園にまつわる作品なのかもしれないと気づいたんです。「ガーデン」という言葉が最初に出てきて、歌手のリサ・パピノーに「ガーデンを使ったタイトルを思いついたら全部教えて」と相談して、自分でもいっぱい提案して、結局5~60個は出たと思います。そうこうするうちに『トムは真夜中の庭で』という本のことを思い出して。小さい頃に読んだ本なのでディテールはあまり覚えてなかったんですけど、ウィキペディアで粗筋を読んだら、これはもしかしたらアルバムと同じ世界観かもと思ったんです。「ガーデン」という言葉をどこかから囁かれた気がしたので、『Whispered Garden』というタイトルにしました。

このアルバムを最初に聴いたときに、三宅さんの脳内を旅行しているようなイメージが勝手に浮かんできました。いまうかがった、曲から作っていったというプロセスの影響があるんでしょうか。

JM:パンデミックをはさんだ、自分の環境も含めていろんなことがめまぐるしく変わっていった時期なので、脳内光景みたいなものが変わっていったのは確かだと思います。『トムは真夜中の庭で』の粗筋で僕がいちばん「あっ!」と思ったのは「時間の流れや速さや順番が訪れるたびに異なる庭園」というところで、それは僕が描きたかった、自分の中の世界と外の世界が交わるところでもある気がして。

今回もいろんな国の、いろんな分野のミュージシャンが参加しています。中でも「おっ!」と思ったのが2曲に参加したジャズのレジェンド、デイヴ・リーブマンでした。彼との出会いからはじまる歴史を聞かせてください。

JM:最初に彼の音を聴いたのは高校生のときだったと思います。彼が入ったマイルス・デイヴィスのバンドや菊地雅章さんのユニットはじめ、いちばんよく聴いてたのは、エルヴィン・ジョーンズの『Live at the Lighthouse』、スティーヴ・グロスマンとの2サックスのバンドでした。その頃から、彼らのフレージングがいちばん好きで、僕もトランペットでああいうふうに吹きたいと思っていました。76年に18歳でニューヨークに行って日野皓正さんのお宅に2カ月ほど居候してた頃、日野さんがデイヴ・リーブマンのバンドのメンバーになり、彼のロフトでのリハーサルに連れてってくれたんです。そこで初めて間近で見て、リハーサルが終わった後、スティーヴ・グロスマンも遊びに来てセッションになり、2曲ぐらい参加させてもらったんです。太刀打ちできないなっていう印象しかなかったですけど。そこで初めて個人的な接点がありました。向こうは覚えてないですけどね、自分のところに1回来ただけの若造のことなんて。

日野(皓正)さんがデイヴ・リーブマンのバンドのメンバーになり、彼のロフトでのリハーサルに連れてってくれたんです。リハーサルが終わった後、スティーヴ・グロスマンも遊びに来てセッションになり。太刀打ちできないなっていう印象しかなかったですけど。

今回、デイヴ・リーブマンとコンタクトをとったきっかけは?

JM:流れとしては本末転倒なのかもしれませんが、宮本大路というサックス奏者が亡くなってしまい(注:2016年、ガンで他界。享年59歳)、彼が生きてたら「じゃあここはちょっと、グロスマンとリーブマンを混ぜた感じで」とお願いしてたと思うのですが、いっそのこと一足飛びに本物まで行っちゃえ、というのが発想の原点です。

アルバムにはいま話に出た宮本大路さんの演奏もあります。他にも、以前のアルバムの中で聴いていたような既視感をおぼえる瞬間が何度かあって、ベタな言い方ですが音楽にもサステナビリティがあるのかなあ、なんて感じてしまいました。

JM:サステナビリティ(笑)! 彼(宮本氏)の存在は自分の音楽にとってすごく大事で、作り込んだ青写真を混ぜ返してくれると言うか、裏を見せてくれるようなところがあって、曲を書いていると彼の演奏が聞こえてくることがあるんですね。でも新しい演奏をしてもらえないことになっちゃったので、過去に録りためたものから、いわゆるウィリアム・バロウズ的なカットアップで、嵌めていってるんです。なので既視感がそこから生まれるかもしれません。ただ “Progeny” は、2015年に録った未公開の曲です。他の人の演奏の中にも、以前の音源をまたもってきたものもあります。アート・リンゼイのノイズ・ギターとか。それなりに大変な作業なんですけどね、全部掘り起こして、ここならハマるかなあという試行錯誤……。

“Undreamt Chapter” は2020年、TOKION(webカルチャーマガジン)の依頼で作った曲ですね。近年、大活躍のピアニスト、林正樹さんが参加していて、おそらく初共演だと思いますが、彼と知り合ったのはいつ頃ですか?

JM:僕の、めったにやらないライヴによく来てくれていることを大路くんに聞いてたんです。で彼が鬼怒無月さんとアコーディオンの佐藤芳明さんとやってるバンドでパリに来たときに紹介されたのが、10年くらい前でしょうか。その後、CMで演奏をお願いして以来、折に触れて参加していただいています。とても優秀な演奏家ですね。

“Le Rêve de L’eau” で歌っているアルチュール・アッシュ。昔からいろんな関係があったと思いますが、今回の参加に至るストーリーを教えてください。

JM:アルチュールにとって、それが名誉かはわからないんですけど、この曲は最初、デヴィッド・シルヴィアンにお願いするつもりで、どんなコラボにするか、2ヶ月ほど往復書簡を続けていたんです。彼はクリエイションに関して本当に真摯で、過去の自分を再現したくないって思いが強くて、もしかしたら引退するかもってところから、「君とだったらやってみようかな」というところまでは揺り戻せたんです。でもこの曲を聞かせたら、「過去の自分が聞こえてくる」と言われて、それはそうかもなぁと、アラビック・レゲエのような曲も作ってみたのですが「それでもやっぱり歌うと自分になっちゃう」と。結局、今回のアルバム・リリースには間に合わないということになったんです。それでもこの曲は収録したかったので、事情は伏せてアルチュールに聞いてもらったところ、ぜひやりたいと言ってくれたんです。彼は表現も存在感も独特で素晴らしいですよね、音域によって声の響きが変わるのが興味深いです。

“Time Song Time” を歌っているブロン・ティエメンは、初共演ですね?

JM:この曲はそもそもイメージとして、ギャヴィン・ブライアーズの “Jesus Blood Never Failed Me Yet” や、ハル・ウィルナーがプロデュースしたウィリアム・バロウズの “Falling in Love Again” といった酔いどれの雰囲気が欲しくて、このパンデミックの世へのララバイを作ってみたかったんですね。で、リサ・パピノーを通じて、彼女と同じバンドにいたことがあるブロン・ティエメンを知りました。彼は独特のライフスタイルで生きていて、曲の最後のほうで喋ってるところは自分で作った言語だったりして。不思議な才能なんですよ。

ブラジルの音楽家では、前作に続いてブルーノ・カピナン、そしてヴィニシウス・カントゥアリアは久々の参加ですね。

JM:ヴィニシウスにはいままで、ギターでは何度か参加してもらってたんですが、歌ってもらったのは『Innocent Bossa in the mirror』(2000年)以来です。ヴィニシウスが歌った “Parece até Carnaval” と同じメロディーが、ブルーノの歌った最後の曲 “Arraiada” で、途中まで出てくるんですが、これは最初、ブルーノに作詞と歌を頼んだんです。ただ、大サビのメロディーに詞をつけられずに止まっちゃって、そのうちに彼がコロナにかかってしまいました。それをヴィニシウスに伝えたらすぐに歌詞を付けて歌ってくれたんです。しばらくしてブルーノから治ったという連絡が来たので、それならアレンジを変えて大サビ違いの曲も作ってみようと。ライナーノーツにも書いた「時間の流れる速さや順番が、訪れるたびに異なる庭園」というところに落とし込もうと思って。その庭園に行くと同じ曲が「あれ? この曲さっき別の人が歌っていなかったっけ? でも何かが違う」みたいになってるような。

究極的には時間を操作したい、支配したいっていうか。それはつまり過去と未来と現在の共存でもあり、それが混濁した世界でもあり。音楽にはそういう力があると思うので。

三宅さんの音楽には、最初にお話しした脳内旅行の面と同時に、聴き手の僕たちに、個々の幼児体験だったり風景だったり、「あれ? これって……」というデジャ・ヴ現象を引き起こす力があると思います。

JM:それは僕にとっても嬉しいコメントです。究極的には時間を操作したい、支配したいっていうか。それはつまり過去と未来と現在の共存でもあり、それが混濁した世界でもあり。音楽にはそういう力があると思うので。

作曲に関して、パンデミック以前と以降で変わったところ、違いなど、ご自身で感じられてますか?

JM:特にTOKIONの依頼で作った “Undreamt Chapter” は、打ち合わせが最初の緊急事態宣言の前夜、六本木だったんですよ。街も雰囲気が違っていて、これから何が起こるんだっていう緊迫感がすごかったですね。でも帰宅すると、窓から見える景色は全く平穏で、静と動のコントラストが面白くて、僕にとっては今回のパンデミックの象徴みたいなのがこの曲。これが分岐点でした。

こんな時代ではありますが『Whispered Garden』をライヴで展開するとしたら、『Lost Memory Theatre』のライヴと編成などは変わりますか?

JM:近年やらせていただいたライヴは、いろんなものに対応できる編成だったので、あの16人編成を許していただける境遇であれば、このアルバムも再現できます。このアルバムは、パンデミック以降に書いた曲が9曲、それ以前の曲と、7/9ぐらいの割合ですね。

2005年からパリを拠点に活動されてきて、いまはコロナ禍で長期間、日本におられますが、今後の活動拠点のプランは何かありますか?

JM:目下それが最大の悩みです。そうこうしているうちにヴィザが切れちゃったんですよ。苦労してスタジオを作りこんだ家も、再来年の2月か3月までしかいられないことになって。それと日本のインフラの整ったところに比べると、パリは熾烈な環境なんですよ。家の中で水害が起こるとか、郵便が届かないとか、暖房が止まるとか、ネットが来ないとか、あらゆることがなぜか週末に起こる。週末だと誰も修理に来てくれないんですよね。そこにもう一回、立ち向かえるかなっていう不安もあり、もうパリにも16年住んでいるから、ちょっとヴィジョンを変えたいなって気持ちも実はあるんです。じゃあどこか、というのがすごく難しくて、例えばイタリアなら、食事は美味しいし、暖かいところ、海がきれいなところもあるし、いいなあと思うんですけど、インフラ的にパリと変わらないし、言葉もわからないですからね。じゃあ英語圏となると、いまのところ40年ぶりにニューヨークっていうのが有力ではあるんですけど、ニューヨークもずいぶん変わったと聞くので、一回行ってみないとわからない。いろいろと逡巡してますが、まずはパリの家を整理しにいくのが先決かもしれません。

 インタヴューの数日後、『Whispered Garden』リリース前夜祭と銘打って全曲を試聴しながら、ジャケットに作品を提供した画家、寺門孝之氏とトークするイヴェントが開催された。
 興味深い裏話もたくさん聞けたが、ひとつだけ発言を引用しておきたい。『Whispered Garden』には、三宅純がばりばりのジャズ・トランペッターだった20歳前後の時期に作曲した “1979” があり、そこでは当時から敬愛していたデイヴ・リーブマンが演奏している。また、ニーノ・ロータやクルト・ワイル、そしてこのふたりへのトリビュート・アルバムをプロデュースし三宅純との交流も深かったハル・ウィルナーへのオマージュが感じられる曲もある、彼の個人史を垣間見ることができるアルバムとも言える。このことについて彼はこう語った。

「自分の好きなものを隠さない」

 簡潔にして正直、そして見事な説得力! 年輪とキャリアを重ねた三宅純はいま、新たなチャプターを迎えている。そんな想いがした。

稀代の音楽家 “三宅純” が大作『Lost Memory Theatre』三部作完結から4年の歳月を経て導き出した最新作『Whispered Garden』発売&LP(2枚組)のリリースも決定!

[参加ミュージシャン]
デイヴ・リーブマン、リサ・パピノー、ヴィニシウス・カントゥアーリア、アルチュール・アッシュ、コスミック・ヴォイセズ・フロム・ブルガリア、ブルーノ・カピナン、ダファー・ユーセフ、アート・リンゼイ、ヴァンサン・セガール、クリストフ・クラヴェロ、コンスタンチェ・ルッツァーティ、宮本 大路、渡辺 等、山木 秀夫、伊丹 雅博、内田 麒麟、村田 陽一、勝沼 恭子 ほか

ご購入/ストリーミングはこちら
https://p-vine.lnk.to/aXoERz

アーティスト:三宅純
タイトル:Whispered Garden
発売日:【CD】2021年12月15日 / 【2LP】2022年5月11日
定価:【CD】¥3,300(税抜 ¥3,000) / 【2LP】¥6,600(税抜 ¥6,000)
品番:【CD】PCD18890 / 【2LP】PLP-7793/4
発売元:P-VINE

-収録曲-

【CD】
01.Untrodden Sphere
02.Hollow Bones
03.Counterflect
04.The Jamestown Bridge
05.Paradica
06.Farois Distantes
07.Undreamt Chapter
08.1979
09.Fluctations
10.Seshat
11.Parece até Carnaval
12.Progeny
13.Le Rêve de L’eau
14.Witness
15.Time Song Time
16.Arraiada

【LP】
SIDE A :M1-M4
SIDE B :M5-M8
SIDE C :M9-M12
SIDE D :M13-M16

三宅純official
https://www.junmiyake.com/
https://twitter.com/jun_miyake

Roy of the Ravers - ele-king

 そう、いま我々に必要なのはパン、そして笑いだ。ああ、腹の底から笑いたいぜ。そう思いながら、この鬱屈した状況下で息を吸って吐いている人も多いことだろう。しかしだからといって、アシッド・ハウスを延々と3時間というのも、レイヴの楽しさを知らない人やそのいかがわしさを面白がれない人には拷問かもしれない。いや、わかる、わかります、ずっとあの音がウニョウニョいってるだけだもの。それは低俗漫画と抽象絵画のあいだに広がる危険なゾーンを彷彿させる。つまり、これはミニマリズムだ。アートだ。とはいえ、間違っても高尚なものではないし、そうなることを忌避しているとも言える。アシッド・ハウスはダブにも似ている。奥深く解釈することもできるが、一笑に付すこともできる。曲名も簡単だ。〜ダブ、〜ダブ、〜アシッド、〜アシッド。
 
 1986年にシカゴで生まれたアシッドは、目を光らせながら暗闇に佇む野獣のように、2021年も終わろうとしている現在でも、そのいかがわしさをアンダーグラウンドで発光し続けている。たとえば、ノッティンガムのDJ/プロデューサーのRoy of the Ravers(サム・バックリー)が2020年にカセットテープと12インチのアナログ盤でリリースした「ザ・ルチェスター・ミックステープ」と「メルチェスター Acid EP」をチェックして欲しい。オンサイドには“ホームゲーム・アシッド”、オフサイドには“アウェイ・アシッド”が収録されている。それぞれ45分……とはいかないがそれぞれ20~30分はあるし(少年サッカー時間だ)、言葉に関してもなかなかのセンスの持ち主である。ちなみにRoy of the Raversとは、UKのフットボール雑誌に連載された少年向けのスポーツ漫画『Roy of the Rovers』のもじりで、主人公が所属するチームがマンチェスター・ユナイティドをモデルにしたであろう「メルチェスター・ローヴァーズ」なのだ。

 先日、ロイ・オブ・ザ・レイヴァーズ(以下、ROTR)がクリスマスのための特別作品をリリースした。そのアルバム『ロイ・オブ・レイヴァーズのクリスマス・スペシャル』は新作ではない。2019年の『Advent 2019』なる作品の改訂版に過ぎないとしてもまったく問題はない。そもそも、ROTRに代表されるカセットテープ&アシッドのUKアンダーグラウンドについてはあまり知られていないし、知る必要もないとも言える。こんなもの、時間の無駄でしかないのだから。が、しかし、蕩尽こそ人の喜びなのだ。それにROTRのアシッドは、ごくごく初期AFXを想起させたりもする。とくにROTRのヒット曲“Emotinium”は、AFXに酷似しているから困ったものだ。遊び心たっぷりで、いや、遊びでしかないのだろう。それなのに、なぜか切ない叙情性がとめどなく溢れるという。無難に作られた音楽とは偉い違いで、人はいまも我が道をひたすら追求したDIY音楽に心が温められるものなのである。泣けたぞ。
 ところで、漫画の主人公のほうのロイだが、ヘリコプターの事故で左足を失い選手生活を終えている。なんとも過酷な運命だが、物語は終わらない。その息子のロッキーがメルチェスターの選手となり、ロイはその監督と就任するのだった。結局『ロイ・オブ・ザ・ローヴァーズ』は、50年代に誕生し、70年代から連載がはじまり、2001年に雑誌が休刊するまで続いたという。
  
 ええい、サッカーの話は今年はしたくないので、話題をアシッドに戻そう。UKのニューカッスルに〈Acid Waxa〉という名のアシッドに特化した珍妙なレーベルがある。ぼくがロイのことを知ったのも、じつはこのレーベルを通じてのことで、彼はずいぶんと作品をリリースしている。〈Acid Waxa〉もまた、クリスマス・コンピレーションをリリースしたのだが、こちらはチャリティで収益はすべて慈善団体に寄付される。以前にも彼らは、たとえば難民海難救助団体やらウガンダの子供支援やら、アイルランドの貧困家庭支援などに寄付している。なんて美しい話だろう、アシッド・セイヴド・アワー・ライフ。で、今回のクリスマス・コンピのほうには、“ラスト・クリスマス”からはじまるクリスマス・メドレーのクソくだらない(要するに最高にいかした)アシッド・ヴァージョンもあり、また、レーベルの顔であるROTRも1曲提供している。なんとか毎日息を吸って吐いて寝たり起きたりしていると、いまでもこんな粋な連中に出会えることもあると、これまさに僥倖です。メリー・アシッド・クリスマス。

Pip Blom - ele-king

 たとえばそれはサッカーのリズム良く回るパスだったり、野球の糸を引くようなアウトローのストレートだったり、よどみなく喋る実況や会話のテンポのよい合いの手だったり、小気味よいと感じるものが世の中にある。小気味よさとは「痛快な感じがあり、胸のすっとするような快さを感じるさま」だとググった先の辞書が教えてくれたけど、「つまりそれってピップ・ブロムの音楽みたいなやつだよね?」とヘッドフォンをした僕は思う。
 オランダはアムステルダムのピップ・ブロムという名前の女の人がはじめたバンド、その名もピップ・ブロム(そのままズバリ)。イギリスの名門レーベル〈Heavenly〉と契約して2019年に1stアルバムをリリースして、そうして2021年の11月に『Welcome Break』というタイトルの2ndアルバムがやっぱり〈Heavenly〉から出た。ジャンルはインディのガレージ・ギター、あるいはギター・ポップと呼ばれるようなもので、かき鳴らされるギターの音とピップ・ブロム(つまりはバンドではない方の彼女のことだ)の快活でそれでいて少しメランコリーを感じさせる声が何度も「小気味よさ」を運んでくる。ピップ・ブロムのギターのリフは爽やかでセンチメンタルであり、塩気の効いたパンのように少しそっけなく、それがもうたまらなく病みつきになってしまう。それはよそ行きではない日常に潜む快感で、これこそがまさにインディ・ギター・バンドに求めている音だとそんな気分にだってさせてくれる。

 そしてその音はどこか誰もいない放課後の夕暮れの教室を思わせる。どうしてこんな風に感じるのかと少し考えると、それはおそらくピップ・ブロムがキャリアの初期に〈Nice Swan Records〉からリリースした「Babies Are A Lie / School」の7インチのタイトルとオレンジ色したジャケットに引っ張られているせいだろう(このジャケットはお気に入りで見えるようにして部屋に飾っている。手にとって眺めてもやっぱり良い)。ついでだからとそのままその頃のピップ・ブロムの事をちょっと考える。この7インチにしてもそうだし、ピップ・ブロムはオランダのバンドだけどなんとも最近のUKシーンのバンドみたいな動きをしている。最近のUKシーンのバンドというのはつまりブラック・ミディスクイッドブラック・カントリー・ニュー・ロード、あるいはピップ・ブロムと〈Nice Swan〉でレーベルメイトだったスポーツチームのことで、彼らはみんな新興のインディレーベルから素晴らしい7インチ・シングルあるいは12インチのEPをリリースした後、アンダーグラウンドにとどまることなく大きなレーベルに移って、その姿勢を保ったまま活動の幅を広げていった。この動きはサウス・ロンドン・シーンとして知られる最近のUKバンドの特徴のひとつだけれど、オランダのピップ・ブロムはこれらのバンドに先駆けてこの道筋をたどっていったのだ。ホテル・ラックス、コーティング、イングリッシュ・ティーチャーなどと契約し最近また勢いに乗っている〈Nice Swan Records〉のレーベル第4弾としてピップ・ブロムのレコード「Babies Are A Lie / School」はリリースされた。スポーツチームやデッド・プリティーズより前にリリースされているということからもピップ・ブロムの特殊性がわかるかもしれない。これは2017年に7回にも渡るUKツアーを敢行したということと無関係ではないだろう。当時のイングランドはまさにサウス・ロンドン・シーンが勃発し勢いを増し広がり続けているまっただ中で、野心を持ったレーベルも素晴らしいバンドと契約すべくこぞってライヴハウスに足を運んでいた。そんな中でピップ・ブロムはUKのバンドと肩を並べ自身の魅力を放っていたのだ。
 だから僕はピップ・ブロムのことを広義の意味で、サウス・ロンドン・シーンのバンドだとも捉えている。ゴート・ガールシェイム、ソーリー、ブラック・ミディ、スクイッド、数多くのサウス・ロンドン・シーンのバンドのアーティスト写真を撮っているロンドンの写真家 ホーリー・ウィタカがピップ・ブロムの “Babies Are A Lie” のビデオを撮影したのがまさにその証拠だろう。このビデオは2017年当時のシーンのドキュメンタリー・ムービーみたいなもので、マット・マルチーズが登場しソーリー、ゴート・ガール、シェイムのメンバーがバンド活動を通して友情を育んでいく姿が描かれている(余談だがこのビデオは後々サウス・ロンドン・シーン初期から中期にかけての空気を知るという資料的価値が出てくるのではないかと思っている。そのサウンドトラックがオランダのバンドの曲なのはなんとも奇妙な話ではあるが、しかしそれこそがこのシーンの特徴であったようにも思える。インターネットを通じそのアティチュードは国を超えて共有されていったのだ)。人が集まり、そこで音楽が鳴る、いまのこの日常、流れる時間がかけがいのないものだとわかっている、ピップ・ブロムの音楽はそこにぴったりハマるようなそんな魅力がある。

 そしてこの2ndアルバム『Welcome Break』はまさにそのかけがいのない特別な日常感に溢れたアルバムだ。小気味の良いギターのリフ、さりげないが気の利いた気持ちの良いコーラス、快感の裏側に潜んだセンチメンタリズム、それらが曲ごとにバラバラに入っているのではなく同じ曲の中に混在しているというのがこのアルバムの素晴らしいところだ。1stアルバム『Boat』と同じ路線ではあるが、曲の強度がグッと上がり、そして混ぜ合わされるセンチメンタリズムのバランスが絶妙でピップ・ブロムの持つ魅力が遺憾なく発揮されている。正直に言うと「Babies Are A Lie / School」の素晴らしい調合のバランスが『Boat』では少し崩れ、快活さはあっても感傷が足りてないと感じていたので、これこそが求めていたピップ・ブロムだとこの2ndアルバムを聞いて嬉しくなってしまった。“Keep It Together” では澄み切った空のようなギターが海辺を走る自転車みたいな快感をもたらして、そして若さの裏側にあるほんの少し感傷を覗かせる。“I Know I'm Not Easy To Like” は不機嫌なキンクスのように進行し、フラストレーションを解放し、それと同時に小さな後悔を滲ませる。“I Love The City” では感傷を前面に出すことで、その裏側に潜む快感が下地からにじみ出してくるような曲に仕上がっている。アルバムを通して響き渡るのは青春映画のあの感覚で、特別なイベントなどなくとも日常が特別になりうるということを教えてくれる。小気味よく、その中で静かに情熱が胸にくすぶり続けているようなバランスがきっとその空気を作っているのだろう。ピップ・ブロムの2ndアルバムは一筋縄ではいかない味わい深さとシンプルな快感が両方あって、だからいつだって聞く度に胸を小さくドキドキさせてくれる。それがなんとも小気味よく感じるのだ。

MURO - ele-king

 ご存じディガー中のディガー、あの宇川直宏もリスペクトしてやまないキング・オブ・ディギンこと MURO の最新ミックスが発売される。
 今回は〈Pヴァイン〉手がける “GROOVE-DIGGERS” シリーズの膨大なカタログのなかから、珠玉のレア・グルーヴをセレクトした内容。そのままミックスを楽しんで欲しいとのことで、収録曲は明かされていない(商品には記載)。タワレコ限定盤のため、お早めにチェックを。

MONJU - ele-king

 MONJU のヒップホップは街の音楽であり、夜の音楽だ。11月23日に渋谷の clubasia でおこなわれた『Proof Of Magnetic Field』のリリース・パーティは、クラブやライヴハウスというひとびとが集まる場所がいかに音楽の創造において重要な現場であるかを実感する一夜だった。

 MONJU はその晩のライヴを、本作収録の “In the night” からはじめた。サンプリングされたトランペットを 16FLIP が細かく刻みリズムの緩急を生み出したビートが、特別な、勝負の夜の訪れを告げる。彼らは15年ほど前に暗闇とともにわれわれの前に現れた。ISSUGI仙人掌、Mr.PUG の3MCから成る東京のグループ、MONJU は、2006年にEP「103 Lab. EP」(CD-R)で登場し、2008年のセカンドEP「BLACK DE.EP」(2019年にリマスタリング・ヴァージョンを発表)でその評価を決定づけた。暗闇を味方にする音楽の使者として。

 その日の “Blackdeep” (「BLACK DE.EP」収録)のパフォーマンスは、そのことを思い出させた。“黒い深み” という曲名通り、東京で生きるBボーイによる、モブ・ディープとJ・ディラへの最良の回答だった。ライヴの最後、“Coffee Break – New Joint-” (ISSUGI『Thursday』収録の、仙人掌との共作曲)を歌う前、照明スタッフにすべてのライトを消すようにマイクを通して伝え、ひしめき合うオーディエンスにライターかスマホの明かりで火を灯そうと呼びかけると、会場には闇と光の美しいコントラストが生まれた。それは、「マイクに降りてきたことば反射」(“In the night”)という ISSUGI のリリックが具現化した光景にみえた。

 過去2作のEPがそうであったように、本作のすべてのビートを制作するのは 16FLIP。ISSUGIのビートメイカー名義だ。16FLIP のプロダクションは近年、かつての音数の少ないワンループの美学から重層性の美学へと移行してきている。複数のサンプリング・ソースを重ね、細かくエディットし、また異なるビートを挿入、ときに急激に展開していく。90年代にDJ プレミアが編み出したフリップという手法を現代的に独自解釈したようなキレのいい編集を思わせる瞬間もある。こうしたコラージュめいたプロダクションは、実際にこれまでみてきたさまざまな街の風景、立ち会った場面の記憶を呼び起こす。

 当初は密室的で闇を味方にしてきた MONJU のサウンドは、本作でより開放的になった。そうした変化は、この15年間で、ゆっくりとベールを脱ぐように、3人が素顔を見せはじめ、自身の考え方をぽつりぽつりと公で語るようになってきたこと、彼らが年齢を重ね、実人生においても、音楽人生においても、経験を積んできたことと無縁ではないだろう。私にはそれが、ミュージシャンの理想的な成長のあり方に思える。

 アフロ・ブラジリアン・ファンクの名盤に収められた楽曲のブレイクと女性コーラスを用いたリード曲 “Ear to street”、ヒップホップ・リスナーであれば誰もが耳にしたことのあるオーケストレーションを駆使したゴージャスなソウルのピッチを速めた “In the night”、あるいは4拍のクリック音を模したようなビート後に一気に最高潮に到達する “ANNA(step in black pt.5)”。その “ANNA” の、ワウギターと一小節のビートのループが生み出す快楽には得も言われぬものがある。そして、スケートボードが路面を擦る音、ピアノの不協和音、3人のラッパーのガヤが交錯する2分前後に至っては、3人で作り上げている音楽にもかかわらず、そこに多くのひとびとがいるように錯覚してしまう群衆性がある。

 本作には未収録だが、“In The City” という彼らの新曲は、街で遊び、商売をし、生きる活力を蓄えているひとびとの気持ちを代弁しているようだ。コロナ禍で私の身の回りの飲食店やクラブやライヴハウスも軒並み苦境に立たされた。もちろん補助金で助かったり潤ったりした店もあるだろうが、その選択をしなかった、できなかった経営者もいる。そもそもそうした個人経営やそれに近いお店は、商売であると同時に、好きでやっている活動だ。そして、ひとびとが集うそういう場所で数多くの出会いがあり、素晴らしい音楽が生まれ、広まり、新たな才能と芸術を育む。その活動を制限されるのは生きることを否定されることと同義であり、経済活動と同様にそれは本質的な問題である。

 “In The City” で彼らがやっているのは、そういう苦境に立たされた街、本人たちを含めたひとびとを鼓舞するグルーヴィーな音楽と詩だ。彼らは、「街の喧騒がこのラップをつくる」「そこにひとりじゃ感じれない温度」(仙人掌)、「変わらずにやりつづけることの意味」(Mr.PUG)と歌う。そうした詩に説得力があるのは、彼らの音楽と言葉が、いわば “ストリート・ナレッジ” に裏打ちされているからである。“磁場の証明” と題された本作に一貫しているのも、街の磁場を経験して培った想像力と知性に他ならない。すでにMVも公開された “Ear to street” を訳せば、“ストリートに耳を傾ける” とでも言えるだろうか。つまり、MONJU のヒップホップとはそういう音楽なのだ。

クリスチャン・マークレー - ele-king

 音というものはつくづく不思議なものだ。高らかに鳴り響いたかと思えば、地を這うように轟きわたり、郷愁をさそうメロディの他方で聴くものを拒絶するノイズと化し、熱狂した観衆は踊り狂い、その瞬間に音はそのこと自体を言祝ぐファンファーレとなり、陶然とする私たちはただそれを描写することしかできない──

 上のような横書きの文字列が東京都現代美術館で開催中のクリスチャン・マークレーの展覧会「トランスレーティング[翻訳する]」の会場にはいってすぐの方形の展示スペースをかこんでいる。冒頭で「ような」とことわったのは文章そのものは私がうろおぼえで書いた創作だからだが、だいたいこのようなことが日本語で記してあったと考えていただいてさしつかえない。むろん私とて出版人のはしくれ。引用は正確の上にも正確を期すべきだとわかっている。わかっているが、この作品のテキスト自体、意味の伝達を優先しない。なんとなれば、今回の展示テキストはカタロニア語からの訳出で、その前が何語だったかは寡聞にして知らないが、本邦初披露のさいの展示はドイツ語からの翻訳で、このたび二度目のおめみえとなる。ただし前回と今回の文章は微妙にちがっているはずだ。翻訳=トランスレーションが逸失(ロスト)と不可分なのは日本を舞台にした映画の題名にもなったのでごぞんじの方もすくなくないが、聴覚に働きかける音ないし音楽という現象を対象とする場合、まかりまちがえばその懸隔はおそるべきものとなる。音を書くとは、その点で不可能事に属することは、ゆめゆめわすれてはなるまいが、それらを他言語に移しかえるともなれば、こぼれおちるニュアンスもひとしおであり、そのとき「翻訳」は「伝達=欠落」となる。


2.《ミクスト・レビューズ》 1999
壁に貼られたテキスト
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay.

 この作品のタイトルは《ミクスト・レビューズ》。1999年の発表で、新聞や雑誌に載った音楽にまつわる幾多のレヴューからサンプリングしたセンテンスをつなぎあわせ、文意はとおっていそうなのに全体的にはなにをいっているかわからない(わからなくてもいい)テキストになっている。クリスチャン・マークレーの個展「トランスレーティング[翻訳する]」はこの作品がぐるりをめぐる中央に「リサイクル工場のためのプロジェクト」と題した、ブラウン管式PCモニターやメディアプレイヤーなど、廃物を利用したメディアアートないしインスタレーション作品を設置した第一室からスタートする。サンプリングとリサイクリング、オブジェクトとコンセプトといった作者を基礎づける2作品、かつて国内で公開したなじみぶかい2作品でクリスチャン・マークレー「トランスレーティング[翻訳する]」展をおとすのである。


5. 「リサイクルされたレコード」のシリーズ 1979-1986
コラージュされたレコード
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York

 第一室をあとにした観客は通路沿いの《リサイクルされたレコード》、その前後をはさむように設置したふたつの映像作品《ファスト・ミュージック》《レコード・プレイヤーズ》を目にすることになる。ともに活動初期の作品で、ことにレコード盤にじかにマーカーで記号を書いたりシールを貼ったりするだけならまだしも、切り離して別のとくっつけて外見ばかりか中身もコラージュした《リサイクルされたレコード》はマークレーが特異なターンテーブル奏者としてニューヨークの即興音楽界隈で頭角をあらわしはじめた当時の代名詞というべき一作。ここでの「代名詞」の語には代表作や名刺代わりの含意があるが、そのように記す私はこの「代名詞」なる用語の匿名性と交換可能性をたのみに、言語そのものがマークレー的表現世界の一端であるかに思いはじめている。
 本展はこの「マークレー・エフェクト」とでも呼びたくなる現象の多面性をたしかめる場でもある。それらはレディメイド、フルクサス、ノーウェイヴ、DJカルチャーなど、歴史的文脈にも接続可能だがいずれも微妙に食いちがい、そのわずかばかりの空隙を発生源とする。たとえば初期サンプラーの粗いビットレートやいびつなループ感は時代性の傍証であるとともに特定の形式を想起させる記号でもある。いまでは80~90年代のサンプラーの解像度を再現することはたやすいが、マークレー・エフェクトはそのようなテクノロジー依存的で定量的なシミュレーションとはことなる原理原則に接近しながら働く法則だといえば、いえるだろうか。
 その点でマークレーはデュシャンやケージら考え方の枠組みを転換した先達の系譜につらなっている。ただし彼らのようにその前後を分割したりはしない。もっとカジュアルでしばしばコミカルなのは、お歴々ほど近代や制度や社会や教育や教養といった課題に真正面からとりくまなくてもよかったからかもしれない。むろん美大生時代のボストンでのノーウェイヴ体験、卒業後に出てきたニューヨークの都市の磁場も無視できない。80年代のニューヨークには猥雑で折衷的な空気が瀰漫していたと想像するが、先端的なモードのなかで近代なるものは失調しかけていた。モダニティの革命幻想が晴れてしまえば、あらわれるのは「post festum」としての事物と状況である。剥き出しのレコード盤を転々流通させることで、音楽から本来とりのぞくべきノイズを外部から付加するのみならず、エディションを一点ものに変化させる《レコード・ウィズアウト・ア・カバー》や、レコード店のエサ箱から中古盤のジャケットを改変した《架空のレコード》、おもにクラシックとポップスのジャケットをかさねて視覚をおもしろがらせるのみならず、鑑賞者固有のイマジナリーサウンドスケープの再生ボタンを押す《ボディ・ミックス》など、本展の中盤の要となる80年代末から90年代初頭の諸作の情報攪乱的なコンセプト、すなわち黎明期のサンプリング・カルチャーの戦術はおそらく先に述べた時代背景にも影響をうけている。また制度との摩擦熱を動力源とするこの戦術はおよそ形式や序列や経済性が存在すれば、どの分野にも応用可能であり、そのことを証明するように2000年代以降、マークレーは作風の裾野をひろげていくのである。


14 「ボディ・ミックス」シリーズより 1991-1992
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York

 とりわけ2002年の《ビデオ・カルテット》は映像分野の劃期として一見の価値がある。作品に登場するのは過去の映画から抜き出した音にまつわる場面で、マークレーは数百にもおよんだという断片を、カルテットの題名通り、四つの画面に矢継ぎ早に映し出しながら、時間の前後のみならず空間の左右にも目配せしつつ緊密に編みあげている。私はこのおそるべき労作を前にするたびに畏怖の念と笑いの発作におそわれるが、なんど鑑賞してもあきないのは作品の自律性によるものだろう。《ビデオ・カルテット》でマークレーはサンプリングした映像を人物や事物といった事象に分解しその記号的な側面を強調したうえで同時時進行する4面の映像と音が連関するようたくみに構成するのだが、そのありようは、ジャズのアンサンブルにも、実験的ターンテーブリストのエクササイズにも、チャールズ・アイヴズのポストモダン版になぞらえられなくもない。


9. 《ビデオ・カルテット》 2002
4チャンネル・ビデオ(同期、カラー、サウンド) 14’ 30”
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
サンフランシスコ近代美術館蔵 © Christian Marclay.

 きわめて音楽的であるがゆえに時間的な《ビデオ・カルテット》の主題はのちに長大な《The Clock》などに展開する。一方で速度や強度といった音楽体験の土台となる主観的な時間単位は「アクションズ」や「叫び」のシリーズで絵画という古典的な形式に擬態するかにもみえる。クリスチャン・マークレーの「翻訳」とは、それら相補的な問題の系を横切りながら、そのたびになにかを「欠落」していくことにほかならない。あたかも音の不在が沈黙を析出するように、翻訳のさい反語としてうかびあがるもの。私のいうマークレー・エフェクトもそこに淵源するが、そのことを体感するには本展のような企画はぜひとも必要だった。
 いうまでもなく「翻訳」とは二言語間に限定できず、言語の数だけ存在するなら、その行為は本来的に増殖的である──そのことを体感するのにも本展はうってつけといえる。やがて鑑賞者は本展後半にいたるころには、マークレーがアートそのものの翻訳作業にかかり、度外れにその意味を拡張するなかで、意図的に主題を空転させ、真空状の記号にすべての意味をすいあげさせていることに気づくであろう。翻訳行為にはえてしてこのようなパラドックスがつきまとうが、よくよく考えると、存命中の美術家でクリスチャン・マークレーほどパラドキシカルな作家もそうはいないわけで。私は本展の多様な作品を前にして上のようなことを思ったが、他方であらためて作品を前にして、マークレーを語るにあたってコンセプトに隠れがちな細部の繊細さ、情報が覆う作品表面の風合いや素材の質料や質感にも目をひかれた。《無題》と題した2004年のフォトグラムなどはそのことをさらに作品化したものともいえるのだろうが、ほかにもレコード盤やジャケットやマンガ雑誌の切り貼り、シルクで刷ったカンバスの表面、幾多のファウンド・オブジェクトに作者の手の痕跡のようなものを感じたのも本展の収穫だった。展覧会場の最終コーナーにもうけた「フェイス」シリーズや《ノー!》などの新作にも手の痕跡はみとめられる。2作品ともに2020年の発表で、コロナパンデミックというきわめて現代的で文明的な状況における人間のありようをマンガのコラージュであらわした作品だが、そこでは感情や身体性の表出が意味伝達の速度をおいこしていくのがわかる。その傾向は2021年の最新作《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》へ伸張し、ろう者であるパフォーマーが冒頭でとりあげた《ミクスト・レビューズ》を日本語へ手話通訳する模様をおさめた映像では音や口頭言語の伝達機能が希薄化するのと反比例するように身体性がたちあらわれるのである。この作品をもって「トランスレーティング[翻訳する]」は円環を閉じるように幕をひくが、そのとき私たちは「翻訳する」ことにみちびかれ、思えば遠くに来たもんだと、ひとりごつのである。

連鎖の網の目に位置する「誤訳=創造」のプロセス
——クリスチャン・マークレーと「翻訳」

 たとえば五線譜を演奏することについて、一般的にはそれを翻訳と呼ぶことはない。五線譜に記された記号は多くの場合、演奏内容を細かく規定しており、演奏者はそれらの記号を解釈しながら特定の作曲作品を音として再現する。他方で翻訳とは、なにがしか起点となる表現を別の文脈へと置き直すために別の形を作り出す作業のことをいう。通常はある言語を別の言語へと、できるだけ同一の意味内容を保ちつつ置き換える行為およびその結果を指す。だが周知のように言語学者ロマン・ヤコブソンは「翻訳」を三種類に腑分けし、そのうちの一つを自然言語にとどまらない「記号間翻訳」として定義した。彼の定義を踏まえるのであれば、言葉、音、イメージ、あるいはそれらの混合物をも含み込みながら、音楽、文学、絵画、写真、映画など、さまざまな記号系を置き換えることもまた、一種の「翻訳」と看做すことができる。この意味で異なる記号系を跨がる演奏、たとえば絵画を譜面と見立てて音楽を演奏する行為は一種の「翻訳」である。五線譜の演奏は譜面と音を異なる記号系と区別する限りにおいて「翻訳」と呼び得るだろう。そしてこうした「翻訳」は、自然言語においてもそうであるように、少なくとも次の二つの結果をもたらす。すなわち「翻訳」によって、わたしたちは異なる言語あるいは記号の体系を架橋し、これまでになかったコミュニケーションを生み出すことができる。同時に「翻訳」は、同一の意味内容を保とうと努めつつも、文脈と形が変わることによって、つねに致命的なズレを抱え込むこととなる——それをコミュニケーションの原理的な不可能性と言い換えてもいい。だがこうしたズレと不可能性は、たとえ情報の伝達という面で失敗の烙印が押されようとも、いみじくもヤコブソンが「詩」について述べたように、むしろ新たな表現へと向かうための創造性の源泉となっている。音楽に「翻訳」の観点を導入することに意義があるとすれば、まさにこの点にある。そしてそれは作曲と演奏のプロセスだけでなく、演奏と聴取の間にも創造的に寄与するはずだ。

 音楽家であり美術家のクリスチャン・マークレーによる、国内の美術館では初となる大規模な個展「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」が11月20日から東京都現代美術館でスタートした。展覧会の関連企画として、会期2日目の11月21日にはマークレーのグラフィック・スコアをリアライズするライヴ・イベント・シリーズ「パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する」の第1回が開催。∈Y∋のソロ・パフォーマンス、およびジム・オルーク率いるバンド(山本達久、マーティ・ホロベック、石橋英子、松丸契)による演奏が披露された(なお、同イベント・シリーズは2022年1月15日にコムアイと大友良英、翌16日に山川冬樹と巻上公一によるライヴが予定されている)。マンガをコラージュしたヴィジュアル・アートでもあるグラフィック・スコアを音楽へと「翻訳」する試みは、音楽と美術という異なるジャンルを渡り歩き、そしてそのいずれにも括り切れないマークレー独自のスタンスがあればこそ実現できた取り組みだったことだろう。

 クリスチャン・マークレーは1955年にアメリカ・カリフォルニア州で生まれ、スイス・ジュネーヴで育った。音楽家としては主にノー・ウェイヴの影響下でバンド活動を始め、ヒップホップとは異なる文脈で1970年代後半からターンテーブルを自らの楽器として使用し始めた先駆的存在として知られる。1980年代にはジョン・ゾーンらニューヨーク・ダウンタウンの先鋭的な音楽シーンと交流を持ち、1986年に当時「ノイズ・ミュージックの前衛的ゴッドファーザー」と呼ばれたヴォイス・パフォーマーでドラマーのデヴィッド・モスとともに初来日。音楽批評家・副島輝人の招聘ということもあり、来日の模様は『ジャズ批評』誌で取り上げられた。その後、マークレーは1989年に自身を含む12名のミュージシャンのレコードをそれぞれのミュージシャンごとにコラージュした12曲入りの傑作アルバム『モア・アンコール』を発表、さらに80年代のレア音源をコンパイルしたソロ・アルバム『記録1981~1989』を1997年にリリースしている。他にもギュンター・ミュラーやエリオット・シャープ、大友良英、オッキョン・リーらさまざまなミュージシャンとセッションをおこなった作品を多数リリースしており、こうしたコラボレーションの方が彼の音楽活動の大部分を占めているとも言える。演奏家としては近年はターンテーブル奏者としてではなく、日用品やオブジェを駆使したアコースティックなサウンド・パフォーマンスに取り組んでいる。2017年に札幌国際芸術祭が開催された際、廃墟となったビルの内部で大友良英とともにバケツやキッチン用品、食器、発泡スチロール、自転車、枕など無数のファウンド・オブジェを用いてデュオ・インプロヴィゼーションをおこなったことも記憶に新しい。

 他方でマークレーの足跡は音楽家だけでなく、ヴィジュアル・アーティストとしても40年近いキャリアがあることが一つの大きな特徴だ。もともとマサチューセッツ芸術大学で彫刻を専攻していた彼は、1979年から86年にかけてレコードをモノとして解体/再構築した「リサイクルされたレコード」シリーズを制作。1985年には音楽アルバムとも造形作品とも言い得る代表作の一つ《カヴァーのないレコード》を発表し、やはり不透明なメディアとしてのレコードそれ自体の物質性を前景化した。他にもレコード・ジャケットのステレオタイプなジェンダー・イメージをユーモラスかつクリティカルにコラージュした「ボディ・ミックス」シリーズ(1991~92年)、さまざまな人々が歌い叫ぶ口元を切り取った写真で構成される《コーラス》(1988年)、古今東西の映画から演奏シーンを抜き出して4つの画面に映した《ヴィデオ・カルテット》(2002年)など、発表されたヴィジュアル・アート作品は多岐にわたるが、そのどれもが音または音楽と関連する要素がモチーフとなっている点では共通している。2010年には無数の映画から時刻がわかる映像を切り出してコラージュし現実の時間と対応させた24時間にわたる大作《ザ・クロック》を完成させ——この作品もまた時間を構成するという点で音/音楽と密接に関わっている——、翌2011年に第58回ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得することで美術家として名実ともに確固たる地位を確立した。2010年代以降は《マンガ・スクロール》(2010年)を突端に、無音のヴィデオ・インスタレーション作品《サラウンド・サウンズ》(2014~15年)や近作「叫び」シリーズ(2018~19年)および「フェイス」シリーズ(2020年)など、マンガに描かれた絵やオノマトペを素材として用いた作品に目立って取り組むようになっている。

 このように音楽と美術の領域を跨ぎつつ、一貫して音/音楽にまつわる要素をモチーフに、一流のユーモアとクリティカルな視点を織り交ぜ、聴覚のみならず視覚的作品としても自らの活動を展開してきたのがマークレーの足跡だと、ひとまずは言うことができるだろう。そうした彼がミュージシャンによる演奏を前提として制作したグラフィック・スコアの一部が、《ノー!》(2020年)と《つづく》(2016年)である。21日のライヴ・イベントでは、∈Y∋が《ノー!》を、ジム・オルーク・バンドが《つづく》を、どちらも約20分弱の時間でリアライズした。通常のグラフィック・スコアがそうであるように、演奏内容の大部分は演奏者自身に委ねられているものの、これら二作品にはマークレーによるディレクションも記載されており、そのディレクション内容の違いも手伝ってか、∈Y∋のパフォーマンスがほとんど彼自身の個性を大々的に伝えるような独自のリアライズとなっていたのに対して、ジム・オルーク・バンドは極めて構成的で、スコア解釈も奏功することでマークレーのユーモアさえ感じさせるようなリアライズとなっていた。


パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する (2021/11/21)
「ノー!」∈Y∋
撮影:鈴木親

 最初の∈Y∋のパフォーマンスでは、ステージ上に15台の譜面台が扇状に設置され、それぞれの譜面台には計15枚ある《ノー!》のグラフィック・スコアのシートが1枚ずつ置かれていた。《ノー!》はソロ・パフォーマーのためのヴォーカル・スコアとして制作されており、15枚のシートをどのような順序で並べるのかはパフォーマーに委ねられている。シートにはマンガから切り抜いた間投詞を含むシーン、たとえば「AAAH!」「NNNN!」「WOO-OO-OO-OO!」といったさまざまなセリフが絵とともに貼りつけられ、パフォーマーはこのスコアをもとにヴォイスと身体で解釈していく。コップを持ちながら舞台袖から登場した∈Y∋は、向かって右端の譜面台へと歩み寄ると、おもむろにマイクを手に取って絶叫し始めた。そして左端まで1枚ずつスコアをリアライズしていったのだが、会場で準備されていた計3本のマイクを通じて∈Y∋のヴォイスにはディストーションやディレイなどの激しいエフェクトがかけられ、ほとんど言葉を聴き取ることが難しいような凶悪なノイズが響き渡っていた。身体を大きく後方に反らせてなにかに取り憑かれたかのようにヴォイスを振り絞るそのパフォーマンスは他でもなく∈Y∋そのものである。だが1枚ずつスコアをリアライズしていくという点では、自由な即興演奏でもなく、明確に15のブロックに分節されたパフォーマンスだったと言える。そして最後の1枚はタイトルでもある「NO!」というセリフがさまざまなシチュエーションで発されているシーンを切り抜いたスコアで——厳密には「NO!」以外のセリフのシーンも含まれているが——、ここに至って渦を巻くような絶叫ノイズからようやく誰もが聴き取ることができるほど明確な言葉が立ち現れる瞬間が訪れた。全てのスコアをリアライズした∈Y∋はステージ中央に戻るとマイクのプラグを荒々しく引き抜き、まるで示し合わせたかのように横に置かれたドラムセットのクラッシュシンバルが倒れて終わりを告げた。


パフォーマンス:クリスチャン・マークレーを翻訳する (2021/11/21)
「つづく [To be continued]」 ジム・オルーク(ギター)、山本達久(ドラム)、マーティ・ホロベック(ベース)、石橋英子(フルート)、松丸契(サックス)
撮影:鈴木親

 しばしの休憩を挟み、続いてジム・オルーク(ギター)が山本達久(ドラム)、マーティ・ホロベック(ベース)、石橋英子(フルート)、松丸契(サックス)とともに今回のパフォーマンスのために結成したバンドが登場。マークレーのグラフィック・スコア《つづく》がリアライズされた。同じグラフィック・スコアとはいえ《つづく》は制作経緯が《ノー!》とはやや異なっており、もともとスイスのグループ、アンサンブル・バベルのために考案された48ページからなる冊子タイプの作品である。アンサンブル・バベルは今回のジム・オルーク・バンドと近しい二管&ギターのクインテット編成で、《つづく》はギター、木管楽器、コントラバス、パーカッションを想定して作られているが、編成に若干の異同が許されている。スコアにはやはりマンガの切り抜きがコラージュされているのだが、必ずしもセリフが書かれているわけではなく、演奏シーンや楽器、機材、オノマトペ、あるいは音を想起させる描写、そして五線譜までが、まるで一編の物語を描くように配置/構成されている。コラージュされた五線譜にはところどころメロディとして解釈可能な音符も記されており、スコアに付されたマークレーによる複数のディレクションを踏まえるなら、通常のグラフィック・スコアよりも比較的明確に演奏内容が定められているとも言える。実際に当日のジム・オルーク・バンドによるリアライズでは、数10秒程度で次々にシーンが切り替わっていくように演奏がおこなわれ、その音像は時間の枠組みと分節を設定する現代音楽のコンサートのように構成的なものだった。そしておそらくスコアそれ自体のディレクションに加えて、スコア解釈にあたって演奏前にバンド内で交わした取り決めも、こうした構成的側面の創出に大きく寄与していたのではないだろうか——たとえば出演者たちが揃って足踏みするユーモラスなシーンは、あらかじめ定めたスコア解釈の一つの結果だったと言える。とはいえその分、当日のパフォーマンスでは全体を満たすアンサンブルの細部にも妙味が宿っており、スコアそれ自体や事前の取り決めに還元することができないような、5人のメンバーそれぞれに特有な楽器奏者として持ち合わせている音色、そして独自に開発しただろうテクニックも一つの聴きどころとなっていた。いずれにしても、個性的ヴォイスが前面に出た∈Y∋のパフォーマンスに比して、ジム・オルーク・バンドがリアライズした《つづく》には作曲家・マークレーの痕跡が色濃く刻まれていたとは言えるだろう。


《ノー!》2020
15枚のインクジェットプリントを含むポートフォリオ
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング [翻訳する]」展示風景(東京都現代美術館、2021年)Photo: Kenji Morita
© Christian Marclay

 どちらの演目も、マークレーが手がけたヴィジュアル・アートでもあるグラフィック・スコアを、音中心のパフォーマンスへと「翻訳」する試みであった。展覧会のテーマがそうであるように、「翻訳」はマークレーの活動の一側面を鋭く言い表した言葉だ。ただしコンサートにおいては、スコアとパフォーマンスの間を置き換えるプロセスはあくまでも秘密裏に遂行されている。観客はどのような「翻訳」がおこなわれているのかをリアルタイムで知ることはなく、ステージ上の演奏風景とそこから発される響きに耳を傾けるのみだった。こうした演出の仕方はマークレー自身の意向によるものである。というのも《つづく》に書き記されたディレクションには次のような箇所がある。すなわち「このスコアは演奏するミュージシャンたちのために作られたものであり、コンサート中にオーディエンスとシェアするものではない」のであり、しかしながら「この出版物はパフォーマンスとは別物として、誰もが楽しむことができる」のである。もしもイメージを音へと「翻訳」するプロセスそれ自体が作品となっているのであれば、ヴィジュアル・アートとしてのグラフィック・スコアをプロジェクターでスクリーンに投影するなどしつつ、視覚的要素がどのように聴覚的要素へと置き換えられるのかを明らかにした方がよりよく表現できるだろう。だがマークレーは《つづく》のディレクションで「プロジェクションを使用してはならない」と釘を刺してさえいる。つまり彼にとってイメージを音へと「翻訳」するプロセスは、観客に伝えるべき内容としては考えていないようなのだ。実際に《つづく》のみならず《ノー!》も、当日に会場でスコアが投影されることはなかった。観客にはパフォーマンスのみ体験させ、他方でスコアそれ自体をヴィジュアル・アートとして楽しむことは半ば推奨されているのである。


《つづく》2016
冊子(オフセット印刷、ソフトカバー、48ページ)
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング [翻訳する]」展示風景(東京都現代美術館、2021年)Photo: Kenji Morita
© Christian Marclay.

 このことからはグラフィック・スコアを用いたパフォーマンスに対するマークレーのスタンスが窺えるのではないだろうか。すなわち彼にとってグラフィック・スコアは、一方ではヴィジュアル・アートとして制作されているものの、他方ではヴィジュアル・アートとは別の記号系に属するパフォーマンスそのものを生み出すための手段としても制作されている。そして「翻訳」を通じて置き換えることはあくまでもパフォーマンスの裏にある作業として、受け手にはリアルタイムでは伝えることなく実行されなければならない。それは言い換えるならパフォーマンスそのものの価値を積極的に認めようとすることでもある。だが翻って考えるなら、このようにスコアを投影しないということ自体は、むしろ音楽においてはスタンダードなあり方だ。通常、譜面台に置かれた楽譜は演奏者が音を生み出すためにあり、観客に見せるためにあるわけではない。マークレーは映像をスコアとする《スクリーン・プレイ》(2005)のみ例外的にスコアを見せることで観客に「より積極的に聞く」よう仕向けることを企図したと明かしつつ、グラフィック・スコア(図案楽譜)を観客に見せないことの理由をこのように説明している。

大半の図案楽譜はミュージシャンのためにあります。楽譜のイメージは音楽を説明することは意図していませんし、テレビやインターネットのせいで私たちはサウンドにイメージを紐づけるよう飼い慣らされています。サウンド抜きのイメージだとなにかが欠けているという感覚を持ってしまう。私にとって楽譜のイメージは演奏の引き金であり、ミュージシャンのための通常の譜面となんら変わらないのです。
(「クリスチャン・マークレーに、恩田晃が聞く 音楽とアートの関係」『intoxicate vol.155』2021年12月10日発行)

 マークレーは大規模なコンサートで豆粒大にしか見えないミュージシャンの姿を映像として巨大なスクリーンに映し出すことを例に挙げながら「人々は音楽を聞きながら、何かが見えることを期待してしまう」とも述べる。たしかにわたしたちは、音のないイメージ、またはイメージのない音について、なにかが欠落していると感じてしまうことがしばしばある。野外フェスティバルではかろうじて視認できるミュージシャンの小さな姿よりもスクリーンに映る大きな映像を目で追ってしまう。たとえイメージが用意されていたとしても飽き足らず、動画サイトで静止画と音楽の組み合わせに出会すと、時間とともに変化する映像を欲してしまう。それは音楽体験の充実度を情報量の多寡で判断しているということなのかもしれない。音楽を情報として捉えるなら、できるだけ効率よく多量の情報を摂取することが望ましいのだ。だがこうした消費のあり方はどれほど効率的であっても創造性の観点からは貧しい体験だと言わざるを得ない。受け手が自ら想像し作品に積極的に介入する余白を持たないからだ。しかしマークレーの作品はむしろこうした想像/創造へと受け手が自発的に足を踏み出すよう誘い出す。なにも聞こえないヴィジュアル・アートは音の欠落ではなく、受け手自身が豊かな音を想起するきっかけとしてある。同様にグラフィック・スコアを用いたパフォーマンスは、響きを聴くことによって一人ひとりの観客が異なるスコアのイメージを思い浮かべることになるだろう。むろんイメージに限る必要はない。今まさにこうして書かれているテキストがそうであるように、当日のパフォーマンスに触発された受け手は、音とは別の記号系にあるなにがしかを想起し、あるいは具体的な形をともなう表現としてアウトプットする。「翻訳」という観点が重要なのはこの意味においてである。もしもスコアをスクリーンに投影していたのであれば、イメージとパフォーマンスの対応関係に観客の注意が向いたことだろう。それは「翻訳」を客体として眺めることであって、観客自らがそのプロセスに介入しているわけではない。例外とされた《スクリーン・プレイ》のパフォーマンスも、「より積極的に聞く」という意味において、やはり観客が自ら主体となって「翻訳」をおこなう契機となる。

 クリスチャン・マークレーのヴィジュアル・アートは観客に音を想起させる。だが彼のグラフィック・スコアが想起させる音楽と、ミュージシャンが「翻訳」することによって具現化する響きは、おそらくまったく異なるものとしてある。それはとりもなおさず観客とミュージシャンそれぞれの「翻訳」がつねに致命的なズレと不可能性を抱えた創造的な「誤訳」であることを示している。この点で音を譜面の再現と看做す通常の五線譜と彼のグラフィック・スコアは根本的に異なるあり方をしている。そしてヴィジュアル・アートとしてのスコアがあくまでも固定化された視覚的要素として存在しているのに対して、それを手段として生まれたパフォーマンスはつねに具体的なパフォーマーをともなうことによって、実現されるたびに新生し続けていく可能性がある。それはかつてマークレーがターンテーブル演奏に関して「死んだと思えるオブジェを、生きたライヴの文脈において使うための一つの方法」(『ur 特集 ニュー・ミュージック』第11号、ペヨトル工房、1995年)と語ったこととも通底している。ヴィジュアル・アートとしてのグラフィック・スコアは、他の人間によって「翻訳」されない限り、あくまでもある時点で記録され固定化された「死んだと思えるオブジェ」に過ぎない。それは一方では見られることで受け手の記憶をまさぐり、想像上の音の発生を引き起こすことで「生きたライヴの文脈」へと蘇ることになる。他方ではパフォーマンスのための手段として用いられることによって、やはり「生きたライヴの文脈」に鳴り響きをともないながら置き直される。それだけではない。さらにパフォーマンスそれ自体の受け手によっても「翻訳」されていくのである——まるで物体としてのレコードが延々と回転し続けるように終わりのない連鎖を呼び込みながら。他の音楽家による多くのグラフィック・スコアが作曲と演奏のプロセスに焦点を合わせ、あるいは視覚のための純粋な絵画へと近づくのに対して、マークレーの作品はあくまでも連鎖の網の目——そもそもが既存のマンガを流用したコラージュだ——のなかに位置している。その意味で∈Y∋とジム・オルーク・バンドによる「翻訳」のプロセスを通じたリアライゼーションは、グラフィック・スコアを生きた文脈へと置き直す一種の蘇生の儀式であるとともに、パフォーマンスそれ自体が「死んだと思えるオブジェ」のように観客の記憶へと刻まれることによって——あるいは記録メディアにアーカイヴされることによって——、新たな「翻訳=創造」のプロセスを駆動させる試みでもあったのだと言えるだろう。

Yusa Haruna - ele-king

 エレキングが2022年にリリース予定の作品でもっとも期待している1枚に、遊佐春菜のソロ・アルバム『Another Story of Dystopia Romance』がある。浅見北斗と遊佐春菜が時代の暗闇と向き合ったこのメランコリックな問題作から、去る12月20日に先行曲“Night Rainbow”の配信が開始された。ハウス・ミュージックの艶めかしさと刹那の切ない思いが入り交じった良い曲です。
 年明けの1月26日には第二弾“ミッドナイトタイムライン”の配信があり、また2月にもMVなどが公開される予定だとか。アルバムは〈キリキリヴィラ〉から4月にリリース予定。なお、アルバムには高木壮太(DJ善福寺)やSugiurumn、Satoshi Fumiらのリミックスも収録される。

Contact - ele-king

 コロナ禍で迎える年末年始のカウントダウン・パーティ、渋谷コンタクトの「New Year’s Eve Countdown Party 2011-2022」には、BOREDOMSの∈Y∋のライヴをはじめ、あっこゴリラと食品まつりとの共演、なかむらみなみのライヴほか、滝見憲司ほか、Contactでお馴染みのDJやMOTORPOOLのレギュラー陣、ファビュラスなDrag QueenやGoGo Boysも加わって、2022年の幕開けをお祝いする。

Félicia Atkinson & Jefre Cantu-Ledesma - ele-king

 フランスのエクスペリメンタル・アンビエント・ミュージック・アーティストのフェリシア・アトキンソン(エクスペリメンタル・レーベル〈Shelter Press〉運営者としても知られている)と、アメリカのノイズ・アンビエント・アーティストのジェフリー・キャントゥ=レデスマ(Tarentel、The Alps としても活動し、〈RootStrata〉の共同創設者としても知られている)の新作コラボレーション・アルバムが〈Shelter Press〉からリリースされた。

 「真夏の冬」と題されたこのアルバムは2021年の新しいアンビエント・ミュージックにおける最高の達成のひとつである。サウンドの質、構造、構成、そのどれもが瀟洒なガラス細工のように磨き上げられているのだ。澄んでいて透明。精密でやわらか。部屋に流しているだけで空間の凜とした空気が変わる。まさに「真夏の冬」のごとき音響作品である。美しくて浮遊するようなサウンドスケープは絶品としか言いようがない。
 
 フェリシア・アトキンソンとジェフリー・キャントゥ=レデスマのコラボレーション・アルバムは今回が初ではない。2016年に『Comme Un Seul Narcisse』、2018年に『Limpid As The Solitudes』の二作を〈Shelter Press〉からすでに発表している。どちらも10年代のエクスペリメンタル・ミュージックを代表するといっていいアルバムである。ちなみにこれら二作のアルバムは、ギー・ドゥボール、ボードレール、ブリオン・ガイシン、シルヴィア・プラスなどから導かれたコンセプトや引用によって成り立っているというのだから、このふたりの文学や芸術への造詣の深さもわかるというものである。

 そんなフェリシア・アトキンソンとジェフリー・キャントゥ=レデスマの出会いは2009年にさかのぼる。そこからふたりの音源のファイル交換がはじまったという。交換された音楽ファイルは積み重なり、やがてそれが先の二作のアルバムへと結実した。
 対して本作『Un Hiver En Plein Été』は、アトキンソンとキャントゥ=レデスマのふたりが初めてレコーディング・スタジオに入り、対面して録音した音源が基礎となっているアルバムである。録音は2019年8月にブルックリンでおこなわれた。つまり最初の出会いから10年後の出来事であり、コロナウィルスが世界を覆うほんの少し前の時期だ。
 そこで録音された音源は、まるでガラス細工を精密に加工するように、ふたりによって磨き上げられ、本アルバムに収録された宝石のような美しい音響音楽に生まれ変わったというわけだ。

 アトキンソンは本作の録音を「遊び場」のようだったと述べている。加えて「ゴダールの『はなればなれに』(1964)おけるルーヴルでの慌しさに少し似ている」(あの有名なルーヴル美術館疾走のシーンだ)とも語っている。比喩が的確で、録音の現場の楽しさが伝わってくる。一方、キャントゥ=レデスマは本作の制作過程を「それ自身の心」を持っているようだと言い、「ふたりは一緒に乗り込んだ」とも述べている。両者の意見の相違も面白いが通底しているのはレコーディング・スタジオで「共に、対面で、作りはじめた」ことよる反応・変化であろう。
 じっさい新作『Un Hiver En Plein Été』は、これまでの二作と随分と趣の異なるサウンドスケープに仕上がっている。印象でいえば『Comme Un Seul Narcisse』、『Limpid As The Solitudes』のキャントゥ=レデスマ的なノイズ・アンビエント感覚でなく、フェリシア・アトキンソンのソロ作品(それも近作)で展開されるASMR的なアンビエントのムードに近いのだ。
 とはいえエレクトロニクスの多くをキャントゥ=レデスマが手がけているようである。推測するにこの「変化」は対面でのレコーディングによって、それぞれが直接的に影響を受け合ったからかもしれない。

 じじつ全6曲、まるで澄んだ空気のように、もしくは浮遊する時間のようなアンビエントが生成されているのだ。1曲目 “And All The Spirals Of The World” ではアトキンソンの声に導かれ、柔らかな質感のアンビエント・ドローンが展開する。音の心地よさで時間が浮遊するよう感覚を得ることができる。
 続く2曲目 “Quelque Chose” では澄み切った音色の美麗なピアノの旋律も交錯し、モダン・クラシカルな様相を見せはじめる。
 3曲目 “Septembers” ではクラシカルでありながら即興的なピアノに、環境音やアトキンソンの声が交錯し、そこにジャズのリハーサル風景のような音が重なる。いわば音が堆積していくような音響空間を実現しているのだ。ここから音響世界はよりディープになっていく。
 4曲目 “Not Knowing” では現代音楽的な無調のピアノに、より硬いノイズが細やかにレイヤーされていくトラックだ。これまでの美麗なムードから一変し、不穏なムードに満ちていることも特徴だろう。アルバム中、もっともエクスペリメンタルなトラックともいえる。
 5曲目 “Ornithologie” は2分48秒程度の短い曲だが、4曲目 “Not Knowing” から続けて聴くと、まるで爽やかな朝を迎えたような清冽なサウンドである。耳の感覚が一気に拓かれるような感覚を得ることができた。
 アルバム最終曲である6曲目 “The Hidden” は、環境音で幕を開ける。そこに煌めくような電子音と細やかな持続音が微かに重ねられ、やがてそれらが環境音の音世界に侵食・交錯し、時空間を変えていくような音世界を展開する。アンビエント/アンビエンスな電子音が、まるでクラシカルな曲のアダージョのように鳴り響く。「持続する電子音のオーケストレーション」とでも形容したいほどに美しいサウンドである。モダン・アンビエントの粋とでもいうような楽曲といえる。

 この『Un Hiver En Plein Été』を聴き終わったとき、真っ先に思い浮かんだのは、「2020年代のエリック・サティ」という言葉だった。家具の音楽から、インテリアの音響へ? 彼らはサティの音楽的コンセプトを現代に再現しているのではないか。
 さらにいえば『Un Hiver En Plein Été』の優雅な音響実験の数々は、タイプライターの音、ラジオの雑音、空き瓶やパイプを叩く音などを取り入れたサティが1917年に手がけたバレエ音楽『パラード』を受け継ぐような音楽のようにも聴こえた。
 こう考えると、20世紀初頭、1917年にサティがおこなった音の実験は、2019年から2021年にかけて新しい感性と知性と技術によって蘇生・新生したのかもしれない。それほどまでに、この『Un Hiver En Plein Été』には、深化した実験的音響音楽の魅惑が横溢しているのだ。

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