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(編集部註)本記事は結末(ラスト)に言及しています。
ジャレット コベック著『くたばれインターネット』はダグラス・クープランドの疎外感をミシェル・ウェルベックが踏みにじりながらビアスの『悪魔の辞典』をあちこちに差しはさんだような小説で、ネット社会をボロクソにこき下ろしている割に登場人物が何を着ているのかいっさい描写がないという意味で同じギークの世界観をさまよう不合理な衝動の産物であった。何をどうすることもできないけれど、インターネットがある限り世の中の雰囲気はけして良くならないということだけはわかるというか、この世界をネット社会にしてくれと頼んだわけではないのにネット社会になってしまった不幸を噛みしめたい時には最適のロードマップではないかと。シャルロット・ル・ボンの初監督作『ファルコン・レイク』はバスティアンの家族がフランスからカナダの避暑地に移動してくるところから始まり、一足先に来ていたクロエが彼女の母親から「スマホ禁止!」と言われると、そこからはインターネットが存在しない世界になっていく。バスティアンもクロエも70年代のティーンエイジャーのように夏休みを過ごし、とても充実した日々を過ごす。最初はまだ不満げだったクロエがバスティアンに「スマホは?」と訊くと、「14歳になったら」と答え、16歳のクロエもそこからはスマホを知らないバスティアンと同じ目線で遊ぶようになる。彼らは湖で遊び、親の目を盗んでワインを飲み、バスティアンが悪酔いして吐くと、クロエはゲロまみれのバスティアンをシャワーで洗ってあげる。至近距離でクロエと接したバスティアンはクロエを異性として意識するようになり、クロエに向ける視線が微妙に変わっていく過程がとても繊細に描かれている。バスティアンとクロエは性の知識を互いに小出しにするようになり、性と自意識が結びつくことで一人前の人格が形成されていく様子も滑らかに伝わってくる。クロエがおっぱいを見せてくれそうな場面でシダ・シャハビの音楽がシガー・ロスみたいになるのはなんか納得だった。性の主体になることが人の成長においてどれだけ大きな意味を持つことか。このことをスマホを手にする前にバスティアンは経験する。
バスティアンから見えるハイティーン=性の主体が加速度をつけて錯綜する様子も巧みに織り込まれていく。とくに避暑地の10代が集まって騒ぐDJパーティのシーンは秀逸で、ミクスチャー・ロックで踊り狂うお兄さん、お姉さんがバスティアンの目には野獣のごとく見え、60年代のヒッピー・パーティを描いた『ダーリング』(65)や『セコンド』(66)の異様さを思い出させるに充分な迫力があった。中から見るのと外から見るのでは大違いというか、まさかダンス・パーティというものをこんなにも暴力的に見せてしまうとは。少し下の世代にはレイヴ・カルチャーもこんな風に見えていたのだろうか。野獣のようなハイティーンはそして、日常的に恋人を取っ替え引っ替えしているような印象操作が続き、人格形成に不安を覚えたバスティアンはクロエを置いてその場から1人で脱出する。帰りの路上で彼は子鹿の死体を目にする。このカットがあまりに長い。セックス・ピストルズ『ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル』の裏ジャケットと同じ構図で死んでいる子鹿のカットはさすがに長すぎると思ったけれど、最後まで観終わった時にその意味はようやくわかる。そして、これと同じ意味を伝えるシーンが何度も繰り返されていたことも最後になって気がつく仕掛けになっている。(以下、ネタバレ)似たようなトリックはフランソワ・オゾン『スイミング・プール』(03)でも使われていて、ということは『ファルコン・レイク』も『シックス・センス』(99)を起点とするニューエイジの余波のなかにあり、肉体を超越する志向を持っているということになるけれど、困難と成長が結びつかず、弁証法的なロマンに解消されないという意味で近代はすでに過去形なのだということが印象づけられる。
バスティアンが取り返しのつかない嘘をついたことで物語の終盤は急速に焦燥感を帯び始める。マンガだとページをめくる手が止まらなくなる部分である。バスティアンがハイティーンの振る舞いに脅かされたことで主体性を失いかけ、これを挽回するために嘘をついたことは明白で、嘘をつくことは大人になるための近道であり、思春期にはよくある振る舞いでもある。しかし、バスティアンの嘘は一通のメール(というネット社会の産物)によって暴露され、彼はクロエの信用を失ってしまう。1回の失敗ですべてを失うというのは極めてネット的で、それによって導かれるバスティアンの死はりゅうちぇるやコーネリアスの追い詰められ方を想起させる。登場人物たちはインターネットを使わないとしても彼らを取り巻く世界はもはやネット的なのである。失敗を乗り越えて次に進むという成長の図式は初めからなく、一度失敗をしたらずっとその場で足踏みをしていなければならない。弁証法どころか話し合いも成立しないのがネット社会であり、コミュニケーションが成立しているようで、自分に向けられた言葉でもすべてが他人同士の会話でしかなく、「みんなって誰?」を繰り返すしかない。それこそ主体性がどこにあるのかわからないニューエイジそのままで、バスティアンが泣いて謝ってクロエが一発ぶん殴ってぐちゃぐちゃになれば70年代の青春映画のようになったのかもしれないけれど、そのような感受性がネットに取り巻かれていることで導線を失い、誰の意志なのかわからないままに人が死んでいく。エンディングではバスティアンが死んでも誰も泣いていない。呆然としているだけ。死んだ当のバスティアンも同じくで、自分の姿が誰にも見えていないことを悟り、諦めたような表情にしかならない。その瞬間にこの作品は最初から時間軸が歪んでいたことが判明する。クロエはオープニングから何度も死体のマネをしていたこと。死の記憶が予感として何度も先取りされていたこと。バスティアン自身が幽霊のコスプレをしていたこと。またイメージは時間軸を移動できても、スマホを手にする前に死んだバスティアンには言葉を現在に伝えるすべがない。死んだ人の言葉が届かなくなるのは当たり前だけれど、この作品では過去も未来も同時にふさがれてしまうのがネット社会だという印象にすり替えられる。ネット世代の橋元優歩が編集部にいた頃、「歴史なんて必要ですか?」と言っていたことを思い出す。
フランスの有名な討論場組でご機嫌なお天気お姉さんを務めていたル・ボンが役者になることは約束された道だったのかもしれないけれど、まさか映画監督になるとは思いもしなかった。しかも、初監督とは思えない出来である。上映が終わると、背後から呼びかけられ、振り返ると木津くんだったので、どちらからともなくフランスは女性の映画監督が増えたよねという話になった。レベッカ・ズロトヴスキ、ミア・ハンセン=ラヴ、レア・フェネール、ヴァレリー・ドンゼッリ、メラニー・ローラン、レア・ミシウス、ソフィー・ルトゥルヌール……と実力派が並び、なかではセリーヌ・シアマが頭ひとつ抜けている(音楽はほぼ全作、TTCのパラ・ワン)。2000年代にはオゾン、オディアール、ノエ、ゴンドリー、ケシシュと男ばっかりだったのに、こんなにも変わってしまうとはさすがに驚く。そしてこの列にル・ボンも加わったと。見終わってからなぜか岩館真理子『アリスにお願い』が読み返したくなり、家に帰ってすぐに読んでみると、ストーリーや設定は似ても似つかないのに「嘘」をついたことと「人の命」がつながっているというテーマが両作には共通していた。
待ってました御大、ハート・オブ・ダブ、ダブ・リジェンド・イン・国立、ミスター・サイレント・プレイヤー、ダブとトランペットとビールの芸術家、ペシミズムとロマンティシズムの複雑なかたまり、珠玉のメンバーが集う最高のレゲエ・バンドのひとつ、ザ・ダブ・ステーション・バンドをバックにトランペットを吹いて歌も歌う……
KODAMA AND THE DUB STATION BANDのカヴァー・アルバムが出るとは、2023年の望外の僥倖なり。しかもライヴまで観られるのだからもう思い残すことはない。『COVER曲集 ♪ともしび♪』は10月4日発売。ライヴは9月27日と9月29日@立川A.A.カンパニー。さらに10月25日には、この春Kazufumi Kodama & Undefinedとしてすばらしいサイレント・ダブを響かせたWWWにも帰ってくる。かならず空けておきましょう。
元ミュート・ビートのこだま和文率いるKODAMA AND THE DUB STATION BAND。
そのライヴの定番となっているカヴァー曲の数々をスタジオ録音した待望のアルバム、10/4リリース!リリース記念ライヴも決定!
元ミュート・ビートのこだま和文(Tp/Vo)を中心に、HAKASE-SUN(Key/リトル・テンポ、OKI DUB AINU BAND等)、森俊也(Dr/ドリームレッツ、Matt Sounds等)、コウチ(B/やっほー!バンド、Reggaelation IndependAnce等)、AKIHIRO(G/ドリームレッツ、川上つよしと彼のムードメイカーズ、Matt Sounds等)という日本のレゲエ界を代表する面々が集い、そこに、在籍するバンド、ASOUNDでも注目を集めるARIWA(Tb/Vo)が加わったKODAMA AND THE DUB STATION BAND。
2019年にリリースした初のオリジナル・フル・アルバム『かすかな きぼう』がきわめて高い評価を受けた彼らが、ライヴでたびたび披露してきた、ファンの間ではもはやおなじみとなっているカヴァー曲の数々をスタジオ録音。
ついにリリースするカヴァー・アルバム。
反戦歌として有名な「花はどこへ行った」、「Fly Me To The Moon」「Moon River」といったスタンダード、こだまが作詞したチエコ・ビューティ・ヴァージョンでARIWAが歌う「End Of The World」、
こだまとARIWAの二人で歌う「You’ve Got A Friend」から、「Is This Love」「Africa」といったレゲエ・クラシックス、2021年にリリースし、話題となった「もうがまんできない」につづいてのカヴァーとなる、
盟友JAGATARAの「タンゴ」、ミュート・ビートの「EVERYDAY」、さらには「ゲゲゲの鬼太郎」の衝撃のダブ・ヴァージョン、こだまとARIWAの二人で歌うルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」まで、
ヴァラエティに富んだ選曲は、すべてこだま和文によるもの。
唯一無二のメランコリックな響きを湛えたこだまのトランペットを軸に、よりいっそう豊潤となった精鋭メンバーによるバンド・アンサンブルをもって、取り上げた楽曲に新たな息吹を吹き込んでいる。
「もうがまんできない」で第二期ダブステとしてははじめて正式に作品となったこだまの歌声も味わい深く、清々しく凛としたARIWAのヴォーカルも心地好い。
オリジナルとはまったく違う魅力を放つ楽曲の数々を存分に楽しんでほしい。
10月25日(水)に渋谷WWWにて、9月27日(水)と29日(金)に立川A.A.カンパニーにてリリース記念ライヴの開催も決定している。
《リリース情報》
アーティスト:KODAMA AND THE DUB STATION BAND
タイトル:COVER曲集 ♪ともしび♪
レーベル:KURASHI/P-VINE
商品番号:KURASHI-007
フォーマット:CD
価格:定価:¥3,300(税抜¥3,000)
発売日:2023年10月4日(水)
収録曲(オリジナル・アーティスト)
01. 花はどこへ行った(ピート・シーガー)
02. Is This Love(ボブ・マーリー)
03. Fly Me To The Moon(スタンダード)
04. Moon River(オードリー・ヘプバーン)
05. End Of The World(スキーター・デイヴィス)
06. EVERYDAY(ミュート・ビート)
07. Africa(リコ・ロドリゲス)
08. You've Got A Friend(キャロル・キング)
09. ゲゲゲの鬼太郎 (DUB)
10. タンゴ(JAGATARA)
11. What A Wonderful World(ルイ・アームストロング)
12. What A Wonderful World (Trombone Version)(ルイ・アームストロング)
《ライヴ情報》
KODAMA AND THE DUB STATION BAND
LIVE ♪September♪ 飛石2DAYS
公演日:9月27日(水)、9月29日(金)
会場:立川A.A.カンパニー
出演:KODAMA AND THE DUB STATION BAND
時間:開場19時 開演20時
料金:6,500円+1D
予約(8月10日20時より):
立川A.A.カンパニーホームページ
https://www.livehouse-tachikawa-aacompany.com/
『KODAMA AND THE DUB STATION BAND』予約専用コンタクトホームよりお一人様ずつお申込みください。
返信メールが届いた時点でご予約完了となります(返信は2、3日以内に連絡いたします。1週間が過ぎても返信がない場合は、お手数ですが菅原[09054193255]までご連絡ください。)
※両日とも10月4日発売のcover album♪ともしび♪の先行販売を予定しております。
公演日:2023年10月25日(水)
会場:渋谷 WWW
※詳細は後日発表
先月、1年ぶりの新曲 “夏の雫” を発表したヴォーカリスト/鍵盤奏者の遊佐春菜。昨日新たな楽曲 “夜明けの夢” の配信が開始されている。
https://big-up.style/nk1y6kHfEA
また、上記2曲を収める新作EPのリリースもアナウンスされている。オリジナル・ヴァージョンに加え、Eccy による “夏の雫” リミックス、Sugiurumn が遊佐をフィーチャした楽曲などを収録。島崎森哉主宰〈造園計画〉からの作品で注目を集めつつある新世代エレクトロニック・ミュージシャン、大山田大山脈による “夜明けの夢” のリミックスも気になるところです。カセット作品とのことなので、なくなってしまうまえにチェックしておこう。
遊佐春菜1年ぶりの新作をリリース!
遊佐春菜をフィーチャーしたSugiurumn初の日本語シングル収録
10月13日発売
遊佐春菜 / 夏の雫 ep
KKV-156CA
カセット+DLコード
2,200円税込
2,000円税抜
「Cassette Store Day x Cassette Week 2023」参加作品
収録曲
Side A : 夏の雫、夜明けの夢、All About Z (Sugiurumn feat 遊佐春菜)
Side B : 夏の雫(Eccy Remix)、夜明けの夢(大山田大山脈Remix)、All About Z(YODA TARO Remix)
2022年、ソロとして2作目となるHave a Nice Day!のカバー・アルバム『Another Story Of Dystopia Romance』が大きな話題となった遊佐春菜。自身のバンドである壊れかけのテープレコーダーズをはじめHave a Nice Day!など多くのアーティストのサポート活動をしながら1年ぶりの新曲をリリース。
今回はレーベルメイトであるStrip Jointの名曲「Liquid」を日本語詞にして再構成、彼女のマジカルな声が夏の一瞬を切り取っている。
また日本のクラブ・シーンをリードしてきたハウスDJ Sugiurumn初の日本語シングルで遊佐春菜がシンガーとして抜擢、その楽曲「All About Z」とリミックス「All About Z(YODA TARO Remix)」も収録。
「All About Z」は劇作家、演出家である川村毅作、演出の同名舞台のテーマ曲を再構築した話題曲!
カップリングの「夜明けの夢」ではアンダーグラウンド・シーンで静かに話題となっている大山田大山脈によるリミックスを収録。
文:水越真紀
久しぶりに赤痢を聴いて思うのは、なんと楽しいバンドなのかということだ。ドラムとベースの、乗るものを決してうらぎらないおもったい確かさの上で好きなように不機嫌になり、照れ、言葉を駆使し、頭を痺れさせる赤痢の楽しさったらない。赤痢が何度も何度も発売され続けるのは、このリズム隊の心地よさと歌詞の古びなさのためだろう。
ユーモアと切なさに満ちた歌詞はほとんど1分から2分という短い一曲でも同じフレーズの繰り返しが多い。つまり言葉を尽くして、言葉を駆使してストーリーや心情を語ったり、描写をするのではなく、ときには、あるいは多くは、メロディやサウンドに呼び覚まされたたとえば「死体こぼれ死体こぼれ」(“ベリー・グウ”)のような唐突な、「音」優先のフレーズは、それでも何かのイメージを映しながら、身体と心を揺さぶる。
「うまいよこれほら食べてみて 愛してやまない理由がある 笑えない口で、はい、どーぞ 生きてりゃなんでも欲しくなる サバ、サバ、サバビアーン」(“サバビアン”)、「ひとつ食べたらばら色 ふたつ食べたらばば色 希望なんてないんだって チョッコレートブルース 欲望だけがあるんだって チョッコレートブルース」(“チョコレートブルース”)などが日常の些細なできごとのつぶやきなら、「にぎる万札 もらう給料 おきゅうりよ カツカツの生活にボーナスもらって夢見たことはお金返してすぐまた借りて まーた借りて」(“かつかつROCK”)も「ラリって吸ってラリって吸う もいちど教えてもいちど教えて はあほうらナッシングを抱く」(“デスマッチ”)、「頭をぶらぶら手足をぶら 体をスウィング 寄せては返すあなたの波 信じこむバカ」(“エンドレス”)もそうで、「ゆるんだネジをぐるぐる回して いやな時代ももうすぐ終わる」(“青春”)といった年齢に似合わないような、いや10代だからこそのニヒリズムも青春の日常のひとこまだ。と30年来のデフレ経済を生きてきた現代人は思うだろう。しかしこれが作られたのはデフレ世代が「夢見る」バブル経済期のことだと思い出せば、感じることは変わってくるのではないか。
改めて「赤痢」というバンド名さえ新鮮に思える。たとえば赤痢が結成された時代とはスターリンがいて、アレルギーがいた日本だったと同時に、というより、ロンドンにザ・スリッツがいて、ベルリンにマラリア!がいた世界だった。「赤痢」が “夢見るオマンコ” を歌ってなんの不思議があったろうか。むしろ自然な流れではないか、ということが体験としてわかるコロナ禍後の世界だ。
振り返られるときは赤痢結成前、つまり40年以上前ということになるが1981年辺り。西ベルリンのポスト・パンク・シーンではマラリア!という女性だけのポスト・パンク・バンドが活動していた。電子楽器を使ったサウンドは、初期衝動で発する新人バンドとは違っても、ふたつのバンドの野太く気だるい女性ヴォーカルを重ねてみたくなる。マラリアと赤痢──感染症の名前をバンド名につけることの不謹慎さと禍々しさ、それから細菌やウィルスという、我と世界の境界線で生き死にに関わる生命体、感染者への差別的視線などの数多くのイメージが、コロナ・パンデミックを過ごした直後の私たちには喚起される。そのマラリア!の少し前、ロンドン・パンク・シーンで女性性のモチーフを使い尽くしたバンド、ザ・スリッツも同時に思い出している。もちろん、赤痢のメンバーが高校時代にリリースしたデビュー・シングルに収録された “夢見るオマンコ” からのつながりでだ。
かつてなら、その存在自体が悲劇性を帯びた憂い顔の女性歌手に、性的に際どい歌詞を歌わせて、そこに男にとっての夢のような寛容さや包容力を想定し、〈菩薩〉と崇めるやり方があった。ポスト・パンクの80年前後以降の、日本もまだ含まれていたはずだった「世界の変化」は、女性表現者が社会の男性性による有言無言有償無償の要請からいかに離れて、コントロールの主体を奪うことだった(たとえば1980年の山口百恵の結婚への、当時の同世代の女たちの失望感は、阿木耀子との共作で山口百恵がそれを成しうるかと思った矢先の、なんだか元の木阿弥のような決断に対してだった)。
80年代といえばまだ「菩薩」的女性像や「女は子宮で考える」といった非科学的なファンタジーを男性中心のメディアが無邪気に広めていた頃で、京都のバンド赤痢が “夢見るオマンコ” をリリースした翌年、やはり京都の女子短大助教授だった上野千鶴子が『女遊び』(学陽書房)の巻頭に「おまんこがいっぱい」というエッセイを収録したことには、いまとなっては時代の曲がり角が見える気もする。が、当時実際には高校生バンドのデビュー・シングルとフェミニズムの第一人者となる学者のエッセイは無関係に、対象も意味も少し違うところに放たれた。
20世紀の女性解放運動の後、ウーマンリブ(フェミニズム)が主流男性社会から疎んじられ、女性たち自身にさえ距離を取られてしばらく経った頃、上野千鶴子が『女遊び』の中でまだ衝撃を持って取り上げていたAV女優黒木香の脇毛を見せた演技など、露悪的で挑発的で爆発的な「女自身による」と限りなく思える程度の、女性身体の相対化が試みられていた。女の身体または身体性を売るとすれば、それはあくまでも女性自身であり、その表現が誰の期待に応えていなくても、というか、応えていなければいないほど、それは観客ともなる女性自身も含めた社会の要請に応えているということにもなった。これもひとつのマーケティングだとしても、そのことをもう現代の経済システムでは逃れられなくても、ひとりの人生を超えて、ずいぶんマシなことだと思う。しかしその試みは歴史を振り返れば、それほどうまく進まなかったように思う。特に日本社会での女性性や女性身体の表層にまつわる問題は、ただ「表現の自由」といったリバタリアニズムに乗っ取られているように思えるからだ。
ところで私が赤痢を知ったのはファースト・アルバム『私を赤痢に連れてって』がリリースされた後だった(当アルバムは当時だけで5000枚以上の大ヒットになったという)。まず、あっけにとられたのは、アルバム・タイトルの大胆さとデザインのかわいらしさだった。これがいかに “でたらめさ感” (野蛮さ、大胆さ、不敵さといってもいい)を醸し出していたかについては、40年後のいまでは伝わりにくいものになっているかもしれない。言わずと知れた87年公開の日本映画『私をスキーに連れてって』のあまりにもシンプルなもじりを、公開数ヶ月後というこの速度でここまでベタにペーストした、そのあっけらかんとしたセンスにはいきなりクラクラした。当該映画はまさにバブル・カルチャー最盛期の、“映画” というよりCMに近く、すでにマーケティング重視で楽曲を作っていると公言していた松任谷由実による主題歌・挿入歌を含めて、完全なる広告代理店製のトレンディ・デート・ムーヴィーだった。その後、広告代理店文化がサブカルチャーの行き場をせっせと掠め取り、「作る部分」ではなく「売る部分」だけを国策化して中間マージン・ビジネスを確立してゆくハシリとなった。
赤痢はそういう作品(言葉)を、逆張りや奇を衒ったふうでもなく、(おしゃれでもパンクでもない)素朴で可愛らしいデザインとともに世に出した。まるで本家の、スマートでポジティヴで快楽的で資本主義的な、大人や男といったすでにより権力を持っている人たちが引いた社会デザインそのものを、上空から見下ろすような視点が最高にサイコーだ。しかも、彼女たちが見下ろしていたのはそれだけではなくて、女性性や女性の身体性が当事者から切り離されて金儲けシステムの棚に載せられてしまうことと、同じシステムが最もコストパフォーマンスがいいと判断した若さや姿形、軽妙さやコミュニケーション手法が同じようにジャッジされ、「プロデュース」されるという社会システム上の同じ問題をも眼下の視野に入れていたことは、これを40年後のいまに持ってきてもなお刺激的だ。
ともかく、高校生の赤痢のデビュー・シングルはそういう時代にリリースされた。「夢見るオマンコ」という単語の組み合わせのなんと愛らしいことか。ティーンエイジャーの性や性行為への距離感の、リアリティのある幸福さが現れている。しかし親しみやすくポップなメロディに乗せられた実際のこの歌の歌詞はさらにリアルだ。「恋した彼氏がおもしろくないから 一発やらして 一発孕んで 一発産み落とす あんなに夢見たオマンコも どうしてこんなにつまらない」「恋した彼氏があきらめられないから 一発おとして 一緒にホテルで 連発やりまくる」(“夢見るオマンコ”)と、これは恋するときの幸福をよく描いている。この「夢見る(オマンコ=性交)」と男たちの「菩薩女」へのファンタジーは同じように上野千鶴子が先のエッセイで指摘した「中産階級の子女の性的無知は、絵に描いたような近代のブルジョア性道徳の体現である」と指摘してみる。けれども同時に当時の私だって十分にその体現者だった。そりゃあもう、どんな強いこと言っても、その辺についてはブルジョアな道徳の体現者以外のものではなかった。思い出したのは高校生の頃に読んだ女性運動の本だ。「手鏡で自分の性器を見る」ことについて読み、「なるほど、“今度” やってみよう」と、私は本を閉じたことがあった。赤痢がデビューしたのは、じっさいそんな時代のすぐ先だった。私に何をえらそうなことが言えよう。妹たちのような年齢の彼女たちに、私は2、3枚の鱗を目から剥がしてもらったわけだった。
そのことが楽しい。いつだってそのドラムは裏切らない。私の体のあちこちを硬くしている、なんとまあ半世紀かけても落ちていない鱗を何度もはがし、それでいて残酷に床に叩き落としたりしないという意味でだ。轟くビートは私の重くなっていく足を、また跳ばせてくれる。
(8月10日記す)
文:清家咲乃
「こんなのって、つまらない」と感じながら日々を過ごしている人は、一体どれくらいいるのだろう。きっとほとんどが心の中でそう唱えながら生きているんじゃないだろうか。充実して見える人たちも、つまらない状態に陥らないために自転車操業的に輝きを補充してるんじゃあないか。反対に、完全な諦めの境地に浸かるのもまた難しい。あと一歩で悟りを開けるところまで来てしまっていることになるし。そう考えれば、つまらなさの打開へ至る破壊的衝動というものは何時の誰にでもリンク可能である。80年代に生まれていなくても、女性でなくても、それはとくに関係ない。
赤痢は80年代前半から90年代中盤にかけて活動していたパンク・バンドである。細かな活動経歴や実状、ソニック・ユースのサーストン・ムーアがファンであることを公言していたとか、彼女たちの出身地である京都にてリアル病(やまい)の赤痢が一時物理的に流行ったことに由来するバンド名らしいとか、そうしたことは当時を知る世代の方が既に記しているはずなので、そちらに任せたい。いや、本レヴューを書くにあたってざっと調べたところネット上では思いのほか情報が少なかったので、改めて語っていただけるなら是非にそうしてほしい。
現在の耳で聴きつつ過去をたぐり寄せていくなかで不思議なほどすんなり入ってきたのは、赤痢がデビュー作以降〈アルケミーレコード〉に在籍していたという部分だった。非常階段の中心人物・JOJO広重が主宰するレーベルだ。私が彼を知ったきっかけはおそらく高校時代にBiS階段を聴いたことだったっけと思い返して、ピンときたのだろう。アイドル界のタブーを破り尽くすBiSというグループと、言わずと知れたアンダーグラウンドの主による異色のタッグ。リアルタイム世代が綴る赤痢の第一印象と、赤痢の活動停止以降に生を受けたわれわれ世代がBiSにおぼえた高揚とも嫌悪感ともつかぬ衝撃が重なった気がした。痛いところをかばっているように不安定な演奏/歌唱。若い女性が忌避して然るべき(と思われている)猥語をためらいなくうたい叫ぶことによる威嚇。なりふり構わないパフォーマンスをしたかと思えば、自室に貼ってあるポスターを見られてしまった思春期の少女のような照れが顔を出すこともある。同じく非常階段が過去にコラボレーションを果たしたアイドル・グループ、ゆるめるモ!にも上記の特徴はかなりの割合で共通していると気づく。そしてもうひとつ。赤痢にもBiSにもゆるめるモ!にも、女性ファンは多くついている。赤痢は「ガールズ・パンクの先駆け」と評されていることからして、当時の客層は元々シーンにいた男性が主なのかと思いきや、『LIVE and VACATION』収録のライヴ映像に映るオーディエンスはほとんどがメンバーと同年代の女性だ。2010年代にヴィレッジヴァンガードに出入りしていたサブカルチャーを嗜む女の子たちが、尖った地下アイドルをロールモデルに選んだ現象に近いものが80年代にも起きていたのだと考えれば合点がいく。したがって、インターネット登場前夜、デジタル録音普及前の音楽が有している──そしていまとなっては完全に失われた──アウラとでも言うべきなにかを抜きにすれば、赤痢に隔世の感を感ずることはあまりない。これが表示されているデバイスと地続きである。
前段では女性を軸に語ってしまったが、冒頭で述べたとおり、そこは特段焦点をあてるべき部分ではない。つまらねえのを如何にかしたい気持ちはみな同じなのだ、と知らしめることにこそ彼女たちの目的があると思う。“夢見るオマンコ” を筆頭に女性性を開陳する楽曲が多い赤痢だが、それは自らが聖域化されないための破壊活動だ。こわれものだと目されてきた領域を内側から足蹴にしてみせる。みなさまがいやに丁重に扱っているこれは、真実この程度のものなんだ、というように。少女に夢見ていたのはどちらだったのか。わたしに夢見る他者が、わたしが夢を見るように仕向けていたのではないか。
作品を重ねるにしたがって不可抗力的に向上した演奏技術は赤痢をよりフラットに、いちバンドとして見せるための添え木となって補強されていく。『PUSH PUSH BABY』ではクシャクシャとブリキのおもちゃのように跳ねていて、いかにもガレージ・バンドというギリギリのバランスでまとまりを保っていたのが、1stアルバム『私を赤痢に連れてって』までのわずかな時間でグッと強度を増している。各楽器の鍔迫りあいだったものがアンサンブルと呼べる形になり、本筋以外の音をSE的に盛り込んだ “カメレオン” からはメンバーが遊び心を具現化する方法を仕入れたことがうかがえる。各所で指摘されている「気だるさ」が前面に出てきたのもここからだ。続く『LOVE STAR』で今度はメロディ・ラインが魅力を増し、旋回しながら攪乱するような演奏とのバランスで不可思議なポップネスを提示。もはや「10代の少女がショッキングな楽曲を演っているバンド」のみでは説明不足になるほど音楽的な面白みがあらわれており、万人のための退屈破壊装置としての機能を獲得している。
スリッパで踏みならす家の床もカーテンの向こう側もどうしようもなくつまらなく感じるとき、そういうときがきたらこの作品を手に取ってみてほしい。そろそろ春も終わるが、それでも「いやな時代ももうすぐ変わる」と信じながら。
(5月25日記す)
家から一歩でも外に出ると、ふらふらと倒れそうになる。熱線そのものである日差しがあまりにも暑く、熱く、痛い。
2023年、日本の7月は、観測史上最高の暑さになったという。昨日、東京のある巨大ターミナル駅に仕事で行ったとき、エスカレーター付近でスーツ姿の初老の男性が気を失って倒れており、警察官などがその人を囲っていた。「気候変動の被害者だ……」と思ってしまった。
とはいえ、「酷暑」という言葉以上にふさわしい表現が見当たらない今夏においても、この夏の暑さを音楽とともに楽しもうじゃないか、と誘ってくるレコードがある。享楽的なダンス・トラックも、涼やかで内向きなチルアウトも収められているジェシー・ランザの4作め、3年ぶりのニュー・アルバム『Love Hallucination』だ。特に今回は、あまりにもオプティミスティックな椰子の木のカヴァー・アートが物語るとおりの楽しいレコードである。ジェシーが移り住んだLAは、東京よりは過ごしやすいのだろうか。
クラブにはあまり行かない、クラブ・カルチャーがルーツというわけではない、メロディのあるダンス・ミュージックが好き、とはこのアルバムについて本誌のインタヴューで語っていたこと。個人的にすごく共感してしまったのだけれど、それはともかくとして、彼女のそういう個性は、『Love Hallucination』の雑食性と、あくまでもレフトフィールドには振り切れないポジティヴなポップ・ヴァイブに表れている。
ジェシーの雑食性については、いまに始まったことではないものの、1曲めの “Don’t Leave Me Now” がハウスで、次の “Midnight Ontario” がUKガラージ/2ステップ調で……という取り留めのなさに明らかだ。『Love Hallucination』と同時期に制作していたという『DJ-Kicks: Jessy Lanza』(2021年)にしたって、自作のフットワークである “Guess What” から、ちょっとスピリチュアルなムードでスタートする。ジェシーのパレットは常にカラフルかつ賑やかで、彼女はそこからお気に入りのビートやテクスチャーを選び取り、それを煌びやかなダンス・ポップに仕立て上げてみせるのだ。野田努編集長は以前、これについて「ポストモダン的感性」と評していたが(https://www.ele-king.net/interviews/007776/)、つまりはなんでもありなのである。
とはいえ、その手つきは、『Pull My Hair Back』(2013年)や『Oh No』(2015年)など、かなりローファイでベッドルーム的だった初期の作品に比べると、ずいぶん洗練されている。前作の『All the Time』(2020年)と比較してみても、特にアルバムの心躍る前半部はもっとダンス・オリエンティドで、なおかつ朗らかでわかりやすいメロディ志向になった。たとえば、同時期にリリースされたジョージアの『Euphoric』やカーリー・レイ・ジェプセンの『The Loveliest Time』といった優れたダンス・ポップ・アルバムと並べて聴いてみても、『Love Hallucination』の華やかな力強さが感じられるだろう。
アルバムからのファースト・シングルだった “Don’t Leave Me Now” は、楽天的なムードに貫かれた、アッパーなハウスだ。プロダクションはシンプルではなく、練りこまれている。速いテンポで打ちこまれるキック、聴き手を急き立てるようなパーカッションとドラム・マシーンのビートにのせて、ジェシーは狂おしいR&Bヴォーカルを披露し、ファルセットで天上へと突き抜けていく。
続く “Midnight Ontario” は、世界を席巻中の NewJeans から、密かに盛り上がっているNYCガラージまで、UKガラージ/2ステップがちょっとしたリヴァイヴァルを起こしていることとの共振を感じさせる。この曲をジェシーとともに手がけているのはジャック・グリーンで、〈LuckyMe〉を拠点に〈Night Slugs〉や〈UNO〉からも作品を発表した経験がありつつ、R&Bヴォーカルの扱いにも長けている彼の手腕が発揮されていると言えるだろう。ピアソン・サウンド=デイヴィッド・ケネディが要所要所に参加していることもあって、『Love Hallucination』は、米国と英国の地下を繋げて歌ったダンス・ポップ・レコードだと言うこともできそうだ。
LPからのラスト・シングルになった、テンスネイクことマルコ・ニメルスキーとの “Limbo” は、初期ヒップホップを思わせるエレクトロ・ファンク。と、ここまでジェシーは、あっちに行ったりこっちに行ったりと、忙しない。
一方、ジャム・シティを思わせるUKベース的な “Big Pink Rose” やデトロイト・テクノっぽいムードを纏った “Drive” などが構成する中盤からは、踊りやすさやメロディを志向するというよりは実験に寄っていき、耳への刺激は驚きが心地よさを上回る。ここではヴォーカルも、トラックを織りなす素材の一部のような扱われかたである。細野晴臣風のエキゾティシズムが横溢した浮遊感たっぷりの “I Hate Myself”(ジェシーはYMOのファンでもある)は、リリックとの落差もあって、なかなかユニークだ。
ダニー・ブラウンやオボンジェイアーなどとのコラボレーションでも知られるポール・ホワイトと初めて制作した “Marathon” は、「クリスタル」と形容したい80年代的な雰囲気が濃厚である。サックス・ソロやシンセサイザーの音色は、手前の “Gossamer” と次のクローザー “Double Time” と結びついて、多分にニューエイジ風で瞑想的。このあたりからはLAの風土や文化が薫ってくる気がするし、それはジェシーの初期のレコードや彼女が好むR&Bとの接続が立ち上がってくる面でもある。
『Love Hallucination』の印象を決定づけ、新鮮なイメージを聴き手に植えつけるのは、見事なシングルを立て続けに叩きつける冒頭の鮮烈な3曲である。「このアルバムで『信頼』と『脆弱さ』というテーマを描いてみた」とジェシーが語っていることを踏まえると、ポップで踊れる挑戦的な前半部は彼女から他者(新たに手を組んだプロデューサーたち)への「信頼」を、次第に実験的かつ内省的になっていく中盤以降は彼女自身の「脆弱さ」を表しているのではないだろうか。
このアルバムは、エアコンが効いた部屋で聴いてもいいし、手元のデヴァイスにダウンロードして外で聴いてもいい。ただ、「外で」とはいっても、人命が危機にさらされそうな8月の日本の日中よりは、シングルの “Don’t Leave Me Now” のカヴァー・アートのような、涼しくなってきた夕方に水分を補給しつつ、適度に涼みながら、という条件つきではあるものの……。