「Nothing」と一致するもの


パオロ・パリージ 著
アサコ・イシハラ 訳
コルトレーン

ele-king books

ComicJazz

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 2009年にイタリアで発表され、現在では、英、米、仏、デンマーク、ブラジル、アルゼンチンと計7カ国で翻訳版が出版されているスピリチュアル・ジャズ・コミック『コルトレーン』。今年2016年は、ele-king booksでも日本版をつくらせてもらうことになり、きっとすでにお買い上げくださった方もいらっしゃることと思います。ありがとうございます。

 誰もが知るジャズの巨人コルトレーンの、少年時代、軍隊時代、薬物依存、政治活動、そして恋愛と数々の伝説的レコーディングや時代背景にせまるこの評伝コミックの刊行を記念し、大谷能生さんと菊地成孔さんにご対談をいただくことができました。トークの模様はSPACE SHOWER NEWS「菊地成孔×大谷能生 ジョン・コルトレーンを語る」にて放送、このテキストはその全文を収めたものになります。日本人が漠然と抱いているコルトレーン像の虚実を切り分け、その全仕事へと誘われる、いつもながらに読みやめられないお話です。

 まだまだ大型書店さんでは平積みでご展開くださっているので、音楽書コーナーへお立ち寄りの際は、ぜひページをめくってみてください。

いまはグラスパー以降の時代が続いているわけだけど、それに先行するクラブジャズやサン・ラ再評価と連結して、クラバーはやっぱり、カマシ・ワシントンのようなピースフルなものが好きなんだってことがわかったでしょ? それで、その大元がコルトレーン。(菊地)

菊地成孔(以下、菊地):こういうものが出まして……パオロ・パリージ著『コルトレーン』。簡単に言えば、コルトレーンの伝記をイタリア人の若手、といっても30代ですが、イラストレーターが漫画化したものです。昔だったら『スイングジャーナル』(スイングジャーナル社)が出していたんじゃないかというところですが、時代は変わりましたね(笑)。

大谷能生(以下、大谷):意外と英訳もされているし、世界各国で出ている模様です。

菊地:鈴木孝弥さんが訳した、『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?』(2011年、うから)しかり、ジャズ本はスマッシュヒットするからね。で、この日本語版の解説を大谷君が書いているということもあり、これをネタにコルトレーンの話をするということですが、この『コルトレーン』はどうでしたか?

大谷:イタリア人の方が書いていますが、いわゆる定番の話です。要するにコルトレーンはジャズの殉教者(セイント)であると。そして非常に苦労して自分の技術を作っていったという話なわけですよね。それが時代にぴったりきているということも含めて驚きはなかったんですけど、丁寧には描かれているなと思いました。

菊地:そうだよね。いまは悪い時期じゃないというかね。世界的にね。

大谷:政治的にもそうだし。

菊地:それもあるし、いまはグラスパー以降の時代が続いているわけで、彼だけ見ちゃうと現在のジャズがR&Bとヒップホップに吸収されているように感じがちなんだけど、それに先行するクラブジャズやサン・ラ再評価と連結して、クラバーはやっぱり、カマシ・ワシントンのようなピースフルなものが好きなんだってことがわかったでしょ? それで、その大元がコルトレーン。

大谷:スピリチュアル・ジャズだよね。それはそうなんだけど、『ライヴ・イン・ジャパン』なんかCD4枚組なわけですよ。もともとはLPで分散していて、何枚あったかわかんないくらいなものだったわけで(笑)。迫力が違うっていうか、開けたら「マイ・フェイヴァリット・シングス」とだけ書いてあるっていう(笑)。この前の「文藝別冊」のコルトレーン特集(2012年2月)で、菊地さんは亡くなられた相倉久人さんと対談していますね。僕は違うところで、要するに「リキッドルームの夜だと思って聴くといいんだ」という話をしていたんですよ。産経ホールだと勘違いしちゃうんだけど、リキッドだと思えば、ジミー・ギャリソンのベース・ソロが途中で40分くらい挟まっても、あれはチルの時間であると。そのときは飲み物を買いに行けばいいんだっていう話になりましたが(笑)。

これを読んでいて思ったのが、俺が思っているコルトレーンの受容のされ方と同じだなと。イタリアでもそうなのかって思ったわけ。要するに自伝とかインタヴューとかの読み物を読むと全世界的にこうなるのかなと。(大谷)

コルトレーンって65歳くらいまで音楽を探求していたんじゃないかと漠然と思われているじゃない? 40歳で早死にしたとはあまり思われていないんじゃないかと。(菊地)

菊地:この間、慶応で簡単なジャズの話をする機会があって、そのときに一応作ってみたんだけど……。

マイルス
65年の生涯で現役は21歳から44年間(中央にカインド・オヴ・ブルー)

パーカー
34年の生涯で現役は21歳ぐらいから13年間

バド・パウエル
41年の生涯で現役は大体18歳ぐらいから26年間

コルトレーン
40年間の生涯で現役は20歳から21年間

ミンガス
58年間の生涯で現役は21歳から33年間

モンク
64年間の生涯で現役は25歳から30年間(晩年10年は無活動)

ギレスピー
75年の生涯で現役は18歳から57年間

マックス・ローチ
83歳の生涯で現役は20ぐらいから約60年

ロリンズ
現在86歳で存命 現役は19歳から67年目に

オーネット
85年の生涯で現役は20ぐらいから65年間

エリック・ドルフィー
36年の生涯で現役は15年間

アイラー
34年の生涯で現役は26歳から8年間

セシル・テーラー
現在87歳で存命 現役は27歳から60年目にサッチモ
69年の生涯で現役は19歳から47年間

エリントン
75年の生涯で現役は17歳から58年間


大谷:これだけで俺らならずいぶんと喋れますね(笑)。

菊地:あとでネットに上げますね(笑)。いわゆる「コルトレーン昭和」って聴き方があるじゃないですか? 「コルトレーン/昭和/ジャズ喫茶/念仏」という聴き方をするひとが、はたしてコルトレーンが40歳という若さで亡くなっているというイメージを持っているのかどうかって考えちゃうの。

大谷:40ってけっこう若いよね。

菊地:若いんだよ。パーカーが早死にしたのは、ジミヘンとか、後のロック・スターが亡くなるのに似てるんだけど。

大谷:モーツァルトとかキリストとかにも似てるね(笑)。だいたい36歳。

菊地:パーカーや、あとバド・パウエルみたいに頭が割れちゃって病気になったひとは別としてね(笑)。あるいは、ソニー・ロリンズというひとはいまだに現役だからね。そういうなかで、コルトレーンって65歳くらいまで音楽を探求していたんじゃないかと漠然と思われているじゃない? 40歳で早死にしたとはあまり思われていないんじゃないかと。まぁ、イメージは大切なんだけれども。

大谷:著者の住むイタリアでどう思われているのかも気になるよね。イタリアにはライヴハウスはあるけど、ジャズ喫茶がたぶんないわけ。だからこのパオロさんがどういう教育を受けてこれを書いたのか、多少気になるところだよね。おそらくジャズ喫茶でレコードを聴いていたわけじゃないじゃん?

菊地:ただYouTube時代ではあるからね。もちろんヴァイナルで聴いているだろうけど。クラブジャズくらいからはじまって、ロバート・グラスパー以降、日本では“今ジャズ”とも言われたりするニュー・チャプターが出てきた。その流れでジャズをレジェンダリーなものから聴くとなったときに、サッチモからってことにはならないんで(笑)。

大谷:瀬川昌久さんはそれをやろうとして、サッチモの音源を自分でまとめたやつを4枚出しているけどね(笑)。あれがまたすごくて。

菊地:パーカーのダイレクトな大元はルイ・アームストロングなんだっていう仮説ね。わたくしはこの間、サッチモが出ている映画を見ながら瀬川さんと対談しましたね。

大谷:その流れをコルトレーンからはじめるとして、これを読んでいて思ったのが、俺が思っているコルトレーンの受容のされ方と同じだなと。イタリアでもそうなのかって思ったわけ。要するに自伝とかインタヴューとかの読み物を読むと全世界的にこうなるのかなと。

菊地:俺たちの世代だとコルトレーンの伝記はJ・Cトーマスの『コルトレーンの生涯』一冊で決まりだったけど、もう少し精緻なものが出てきた。この本はそれに負っているとあとがきには書いてあるよね。伝記の第一接触というのは、大谷君が言っているようにロマンティックでカリカチュアされている。

大谷:ほとんどベートーベンとかといっしょなわけだからね。「そして、死」みたいなさ。

菊地:「雷鳴に拳を突き上げる」とかね(笑)。

大谷:降りてきたら「第九」ができていたみたいな、やはりそういうノリなのかなイタリア人はと。でも俺らが書いてもこうなるかもね。

極端にいうと、アフリカ世界、アジア世界、インド世界というような大陸との繋がりを、アメリカ国内の有色人種が掴まえていこうとする流れのなかにいたのがコルトレーンなんですよ。(大谷)

菊地:マイルスは65歳で亡くなったから比較的長く生きたと思うんだけど、コルトレーンもマイルスもジャンキー経験者でしょう? それでどっちも肝臓を壊すわけ。マイルスは持病で糖尿病だったけど、コルトレーンは肝臓ガンで41歳で亡くなる。生物学的、医学的にいうと、人生で一度ジャンキーを経験すると長生きできないんじゃないかというか。ソニー・ロリンズは例外だけどさ(笑)。ひとを死に至らしめる力は複合的であり、決定論的じゃないから証明できないんだけど、思うことがある。コルトレーンはラヴィ・シャンカールと4、5年文通して、精神世界にものすごく傾倒したけど、自分のグループをラヴィ・シャンカールに聴かせたらダメ出しされて心が折れたのも関係しているんじゃないかと。この漫画にも書いてあるけど、そのあとコルトレーンはオラトゥンジのアフリカ・センターに献金する。

大谷:感覚的にインドもアフリカも同じと思っちゃうくらい、宗教的で、アメリカじゃなきゃなんでもいいみたいな、イメージの「第3世界」のほうへいっちゃうわけですよね。シャンカールとオラトゥンジはぜんぜん関係ないじゃないですか? そういう大雑把なところがコルトレーンにはあるんだよね。

菊地:うちらが書いた『M/D』(『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』2008年、エスクァイア マガジン ジャパン)を読み返してみると、……って言ってもみんな細部まで読んでくれないんだけど(笑)。

大谷:読みたいところにたどり着かないまま、迷宮に迷い込んで帰ってこれなくなる本なんで(笑)。

菊地:あれに書いたのが、コルトレーンの音楽には、中東ならびにアフリカ音楽の要素が『カインド・オブ・ブルー』のときからあったんだけど、インドへの傾倒という逸れ方をするってことなんだよね。アフリカとインドの音楽はだいぶ違うから無理がたたり、かつメンターにあたるラヴィ・シャンカールに厳しくダメだしされた。それから『コルレーン』にもあるように、最初の奥さんのナイーマさんとの子どもができず離婚して、のちに精神世界へコルトレーンを引っ張ることになったアリス・マクロードと再婚するわけだ。あと、この本にもちょっと触れられているんだけど、コルトレーンが亡くなる時期っていうのは、ブラック・パンサーとかが出てきたときで、ブラック・パンサーはアフロ・アメリカンなんだけどムスリムなんだよね。

大谷:マルコムXがネーション・オブ・イスラムを抜けて、1965年に暗殺されちゃうじゃないですか? ブラック・パンサーはそこから先の話なんですよね。そのあたりにテロ組織であるとか、白人のほうではウエザーマンが出てきたりという時期と重なっているという。しかも極端にいうと、アフリカ世界、アジア世界、インド世界というような大陸との繋がりを、アメリカ国内の有色人種が掴まえていこうとする流れのなかにいたのがコルトレーンなんですよ。

菊地:この本はさっき言ったようなコルトレーン聴きのひとたちが扱わないようなところにも着目してる。コルトレーンの晩年っていうのは公民権運動の嵐が吹いている時代であると同時に、ボサノヴァとビートルズっていう楽しいものがさ、音楽のマーケットを改革していった時期でもあるわけ。そのタイミングで後者の動きとコルトレーンを比べたときに、パブリック・イメージとしてはどっちかというと公民権運動のほうに近い。“アラバマ”って曲も出しているしね。

大谷:“ブラジル”って曲も出しているけどね(笑)。

菊地:うん。コルトレーンはね、最後はしっちゃかめっちゃかなんですよ(笑)。混乱のなかで死んだんだよね。

コルトレーンはね、最後はしっちゃかめっちゃかなんですよ。混乱のなかで死んだんだよね。(菊地)

大谷:アフリカとインドは混ぜると危険なんだっていう(笑)。音楽的にも相反するし、おそらく政治的にも混ぜちゃダメ。宗教的にもダメ。日本と朝鮮と中国を混ぜるくらいの危険度があるわけ。そのくらいインドとアフリカの相性は危険なのに、そのふたつを混ぜた音楽をアメリカの黒人がやっちゃったら混乱するよね。

菊地:ただそういう混乱があってもファミリー・プロットは大切で、奥さんとの離結婚が後を引いたり、ヴェトナム戦争に心を痛めたり。コルトレーンはナイーヴなひとだからね。ただ、それだけじゃひとは死なないだろうと。そこで最後にコルトレーンに覆いかぶさってきたのがラヴィ・シャンカールのダメ出し。

大谷:シャンカール、悪いやつだね。ジャズ界的には抹殺したいですね(笑)。

菊地:ラヴィ・シャンカールは悪人認定で問題無いと思う(笑)。

大谷:「セックスはいいぞ」とか言ってるんでしょう(笑)?

菊地:そうそう。でもラヴィ・シャンカールがコルトレーンに言った「音楽はこんなに苦しそうなものじゃない」っていう言葉は正しい(笑)。

大谷:「お前は混乱しているんだ」。ホント、その通りだっていう感じだよね(笑)。それで、結果的に混乱の最初の一歩になったのが“マイ・フェイヴァリット・シングス”だってのが私の見立てで。あれって要するに、もともとは『サウンド・オブ・ミュージック』じゃん? あの作品っていうのは、アメリカ人が作ったミュージカルで、ナチス直前のオーストリア付近が舞台の話じゃないですか? アメリカ人が作ったヨーロッパの話で、その時点でファンタジーなんだけど、“エーデルワイス”も“マイ・フェイヴァリット・シングス”もユダヤ系のリチャード・ロジャースが作っている。彼は軽くエキゾ入った歌曲作る天才で、非アメリカを舞台にした『南太平洋』とか『王様と私』とかの音楽も彼の筆で。そんなユダヤ人がニューヨークでミュージカル用に、勝手にウィーンの民謡みたいなものを作るわけ。で、それをコルトレーンがアフロでやる。この段階でかなりおかしいよね。ところがそれが音楽的にすごく成功しちゃうわけじゃないですか? リズムを6/8にして、ウィンナー・ワルツをアフロでやる。しかもそれが晩年まで使われる(笑)。この段階で文化的なポリってものすごいことになっているんだけど。

結果的に混乱の最初の一歩になったのが“マイ・フェイヴァリット・シングス”だと思うわけ。『サウンド・オブ・ミュージック』の文化的なポリってものすごいことになっているんだけど。(大谷)

菊地:さらに言えば、可愛く作られた童謡みたいなマイナーな曲を、Dドリアン一発でやってしまうというね。

大谷:それで成功しちゃって勘違いしちゃったんじゃないかと思うんですよね。実はいろいろ混ぜれるんじゃないかと(笑)。コルトレーンはアフロは出来てるんですよね。“グリーンスリーヴス”とかもアフロ解釈でやれてるし。

菊地:それから“チム・チム・チェリー”もやる。

大谷:『ザ・クラシック・カルテット』の箱を見ると、“グリーンスリーヴス”があって“トゥンジ”って曲があって、“ナンシー”ってスタンダードがあって、もう何がなんだかですよね。“アラバマ”はあるは、“ネイチャー・ボーイ”はあるはっていうね。そして“チム・チム・チェリー”がきて(笑)、“ディア・ロード”があって“ブラジル”もある。全部カルテットでアンサンブルが同じだから気がつかないけど、めちゃくちゃですよね。“ブラジル”から“サン・シップ”まで(笑)。だからラヴィ・シャンカールも「なんだ!」と思うかもしれないですよね。

菊地:ラヴィ・シャンカールが聴いたのは、もっと後期の、演奏がフリーキーなやつだけどね。この本ではラヴィ・シャンカールはひとコマ、レコードが出てくるだけで、彼のことはバッサリ切っているというか。その代わりに、コルトレーンものとしては、マルコムXの演説や、ブラック・パンサーが登場したことに触れているところが特徴。それは精神世界や政治も混ざっているという、60年代の良いところでもあり、悪いところでもあるんだけど。まぁ、ミュージシャンなので宗教的にも政治的にも適当なんだというか。「適当」という言葉が悪いのならば、ファンタジックなんだよね。

コルトレーンものとしては、マルコムXの演説や、ブラック・パンサーが登場したことに触れているところが特徴。それは精神世界や政治も混ざっているという、60年代の良いところでもあり、悪いところでもあるんだけど。(菊地)

大谷:コルトレーンはとくにそうですよね。ファンタジーとしての宗教だし、ファンタジーとしての政治だし。これがマックス・ローチになるとガチでいきますからね。

菊地:政治にも宗教にもガチになったミュージシャンもいる。でも、どんな音楽も宗教的であり、政治的でもあるわけなので、あえて音楽が政治だ、宗教だということを言わなくても、チャーリー・パーカーのようにふざけた曲をふざけた態度で演奏したとしても政治性や宗教性は入ってくる(笑)。逆に言うと、音楽はそのふたつからは逃れられない。なのに「本来は娯楽である音楽を宗教と政治に結びつけたひと」というイメージが固まりつつあるんだよね。コルトレーンだけじゃないんだけど、どんなつまんないミュージシャンでも、……と言ったあとに名前を出すのは悪いんだけど(笑)、たとえばいきものがかりみたいな音楽ですら政治と宗教は入っているわけ。

大谷:男性ふたり女性ひとりってだけで政治的だね。

菊地:いや、ホントそう。

大谷:だいたい途中で男と女のデュオになるじゃないですか? ドリカムしかり。

菊地:それで必ず第三項が入るっていうね。

1961年の『アフリカ/ブラス』ってタイトル、カッコよくないですか? (大谷)
カッコいい。(菊地)

大谷:まったく問題ない! ……で、コルトレーンはこんな状態で“アフリカ”って曲を作っちゃうわけだからさ。1961年の『アフリカ/ブラス』ってタイトル、カッコよくないですか? 

菊地:カッコいい。『至上の愛』ってちょっとベタだけど、それに対して、『アフリカ/ブラス』ってさ……

大谷:そのふたつを並べるの!? っていうさ(笑)。だって大陸の名前とブラスがいっしょになるって、意味がわからないじゃないですか。

菊地:ジャズ・オリエンテッドに言えば、エリック・ドルフィーのアレンジャーとしての腕前がものすごいってことがわかるアルバムだよね。

大谷:彼のアレンジした、木管が入った、あのアルバムのバックのアフリカ感って……何て言えばいいんだろうね。ギリギリ映画音楽にならない、完全なモダンなサウンドっていうか。もっとそのあたりは聴きたかったな。

菊地:この本にも出てくるけど、ドルフィーはコルトレーンよりも早くバーン・アウトしてしまった。

大谷:コルトレーンの周りを固めるひとたちもたくさん出てくるので、わりと個性は捉えられていると思います。マイルスが偉そうだとかね。

菊地:マイルスもメンターだけど、じつはコルトレーンと同い年なんだよね。

大谷:菊地さんが書いていたけど、コルトレーンは指導してくれるひとをずっと欲しがるタイプで、「あなた、もう先生はいらないでしょ!?」って言われるひとだよね(笑)。習わなくてもいいのに学校へ行きたいひとって多いじゃないですか? 指導期間が終わって、「あなたはもう卒業です」と言われた瞬間、途方にくれてしまうというか。コルトレーンは信者体質のミュージシャンの典型例なんですよ。日本には信者体質が多いのかな? そんなことはないと思うんだけど、「こいつのやっていることはわかる!」っていうある種の指導者がいて、その下で真面目にナンバー2を目指して成長する、みたいな話が好きなひとが多いように見えますよね。

コルトレーンは信者体質のミュージシャンの典型例なんですよ。(大谷)

菊地:コルトレーンは典型的な信者体質で、死ぬまでメンターを欲しがっていた。

大谷:そういう自覚がある方はコルトレーンを聴くといいと思いますよ。自覚がなくてもコルトレーンを聴いて「うぉー!」って興奮するひとは、基本的に信者体質なのかなとか。あと学生時分というか、若いひとにはそう時期があるから、ピンとくるかもしれない。真面目にやりたいひとっていうか。モダンの芸術ってさ、どうしても手数を減らすというか、ストイシズムじゃない? あんまりミックスド・メディアにしないっていうか。そういう意味でいうと、コルトレーンはクラシック・カルテットの同じメンツでどんどん進化していくんです。
 ちなみに今日遅刻した理由は、コルトレーンが死んだ月の『スイングジャーナル』を探してて……速報だったんですね。ページをばかっとめくると、いきなり「巨星墜つ」って出てくる。

菊地:これはすごいね。

大谷:表紙がこれで、「なんだこの写真は?」っていう感じなんだよね。松尾伴内に似ているっていう。

菊地:もう松尾伴内に似てないときだね。『至上の愛』のときが松尾伴内がピークだった(笑)。

大谷:これも似てるけど、コルトレーンじゃなくて、チャールズ・ロイドなんだよね(笑)。

菊地:いろんなやばいことが載ってるんだけど、ジャズのものを読みたいひとが読みたくないものばっかり載っているから。

大谷:このひととこのひとがのちにヤバくなるっていうね。(スイング・ジャーナルのグラビア・ページに、白木秀雄とジミー・ギャリソンの写真がある)。

菊地:これは言えませんよ(笑)。

大谷:どちらも死んだときは女装していたっていう話……。それで、コルトレーンの訃報が日本に入ったときに、日本で出た最後の日本盤は『クル・セ・ママ』だったんだって。ちょっと軽い驚きというか。これが最後だったら、やっぱり来日時の音にはビックリするよね。『至上の愛』のあとにはこれしか出てないってことで、まあ、ふつうに考えたら、一年に4枚もアルバムを出さないからね。これは大変なことですよね。ずいぶんと変わる。われわれが今日持ってきた盤にはコルトレーンの死後に出たものも多いよね。

菊地:俺はコルトレーン発掘音源3部作と呼んでいるものがあって、まずは有名な57年のセロニアス・モンクとのカーネギー・ホールでのライヴ録音。音源が物置にあったってやつ(笑)。それから、ファイヴ・スポットで演奏していたときの記録。あと2010年に出た63年のシュトゥットガルトのライヴ録音。これも1曲1時間コースで、死してなお、そういったものがどんどん出てくる(笑)。

大谷:格調高いと言われる『至上の愛』だけど、『アセンション』はめちゃくちゃ(笑)、『メディテーション』は過渡期(笑)、ライヴ盤、ヴォーカル入り、どんどんいろんなことをやっている。

コルトレーンは変わっちゃってから来日した。もとはハードバップをバリバリにモーダルに吹くひとっていうオーバーグラウンダーのイメージだったのに、アンダーグラウンダーになってから日本にやってきたので、みんな混乱しただろうね。(菊地)

菊地:66年にはビートルズの来日があって、それと逆相を取っているっていうかさ。コルトレーンと関係のない話だけど、ビートルズって、本当はあの段階では『サージェント・ペパーズ』とかを出すときだったんで、リチャード・レスターの映画の感じではなくなっている。でも来日公演ではギリギリ、映画に出てくるアイドルの格好でライヴをやったおかげで、日本人は混乱しなくてすんだんだよね。髭を生やすわインド音楽をやるわってタイミングと、コルトレーンは一手違いっていうかさ。コルトレーンは変わっちゃってから来日した。もとはハードバップをバリバリにモーダルに吹くひとっていうオーバーグラウンダーのイメージだったのに、アンダーグラウンダーになってから日本にやってきたので、みんな混乱しただろうね。

大谷:そうですね。それで、その一年後にはもう死去っていう。「信じがたいことではあるが、受け入れなければなるまい。しかし、時間がかかる」って書いてある。

菊地:ははは。親じゃないんだから(笑)。

大谷:「父の死を知らされたら、きっとこんなショックを受けるだろう」、そりゃそうだろうね。でもコルトレーンは40歳だから、そんな歳じゃないよっていう。

菊地:偉大なひとってイメージがあるからね。信者体質のひとって、作用反作用みたいな感じで教祖になってしまう。だけど、実際のところコルトレーンはメンターが欲しい信者体質なので、教祖として扱われたことも心身に大きな負荷がかかったと思うのよ。マイルスがセレブリティ扱いされることは、彼の心身には何の負荷も与えない。むしろ健康にした。だから、コルトレーンを引っ張っていくひとが常に現れることが、彼にとっていちばんよかった状態なんだよね。

大谷:意外と、ひとそれぞれに的確な配置ってものがあって、たとえば俺、先生をやっていると調子悪くなるんだよね。

菊地:俺は先生をやっていると調子いいね。

大谷:菊地さんは初等教育に対する情熱がすごいよね。

菊地:高等教育に対する情熱もすごいよ(笑)。

大谷:いやいや(笑)、そうだけど、初等教育って高等教育のためにあるって考えるひとが多いじゃない? 菊地さんそうじゃないからね。初等教育にはまったく違う喜びがあるんだっていうか。そういうのが向いているひとと、そうじゃないひとがいるし。あと、毎日同じ場所へ行くのが向いているひとと、向かないひとがいるし(笑)。

菊地:作業を一本に縛りたいひとと、バラバラにやりたいひとがいるし。

大谷:そういうものが体質か培ったものかはわからないですけれど、調子が悪いなって思うひとは自分の生活とか、指導者とかを見直してみるといいかも(笑)。

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簡単に言うと、また神格化が起こっているんだよ。(菊地)

菊地:それからこの本がele-king booksから出てくるってこと。もう死語だけど「クラバー」と呼ばれているひとたちがさ、やっとジャズをネクスト・レベルのものとして捉えるようになり、クラブジャズはハードバップのダンス・ミュージック形だということも知っちゃったいま、ピース系やフリー、スピリチュアルなものを聴いて高揚感を得ることがクラブの効用で、その源流にコルトレーンがあることから、この漫画が出たことは……

大谷:そうね。『スイングジャーナル』がないからあれだけど。もうジャズ・メディア最後の宝ですよね(笑)。

菊地:簡単に言うと、また神格化が起こっているんだよ。アリス・マクロードとくっつくのは必然的だから難しいけど。

大谷:一応ね、われわれの啓蒙活動もあり、ポリリズムの話もわりと通用するようになったじゃないですか? コルトレーンはアコースティック・サウンドで、ベースがあって、4ビートでいっしょだから、リズム構造がわからない状態で聴いているひとが多いでしょう? たくさんの作品があるんですけど、それぞれけっこう違う。いちばんアラブに寄っているものとか、けっこうめちゃくちゃになっているのとか(笑)。『ライヴ・イン・ジャパン』を聴いていて思うのは、混乱したまま進んでいるときと、スカッとやっているときがあったりとか。

菊地:メンターがほしいひとっていうのは、いつまでたっても弟子でいたいわけなので、言葉はあれだけど、ファザコンな娘さんがいつまでも小娘でいたいっていうかさ。比較的幼稚なことをコルトレーンがしているのを、昭和のコルトレーン聴きのひとは絶対に認めないっていうか(笑)。コルトレーンが“チム・チム・チェリー”にまで手を出していたことを見て見ぬふりをするっていうか。

大谷:「これはなかったことに」ってのがコルトレーンは多いんだよね。

菊地:「なかったことにする」っていう人間の心的営為はね、年々重要度を増していると思うんだよね(笑)。SNSが発達したりとか、過去のテキストを読んだりっていうときにね、見たくないものをなかったものにする。チャーハンのなかのネギやグリーンピースは取っちゃうみたいなさ(笑)。大人買いに対する子ども食いっていうかさ(笑)。
 あと、有名な話で、『ブルー・トレイン』のジャケットのコルトレーンはじつは飴を舐めていたっていう。これ、作者は気づいて書いてる?

有名な話で、『ブルー・トレイン』のジャケットのコルトレーンはじつは飴を舐めていたっていう。これ、作者は気づいて書いてる? (菊地)

大谷:これはね、気がついてないですね。描き方がそう。

菊地:あれは亡くなった中山康樹先生の卓見っていうかね。

大谷:あれは棒付きのキャンディを舐めているんじゃないかという説があって、その目で見ると随分と印象が変わって見える。実際に棒がちゃんと写っているんですよ。

菊地:哲学的な思慮深いジャケットってことになっているし、あと『ブルー・トレイン』っていうくらいだから、青いフィルターを通しちゃっているから見にくいけど、じつは飴食ってんじゃないかと(笑)。

大谷:そう思うと、この本の絵は目が点になってますけどね。

菊地:この漫画は作画上、全員の目が点になっていて、すべてのメガネが白になっている。で、ブラック・パンサーだけ黒いんだよね。俺は漫画評論なんかやるわけじゃないけれど、ひとつのフォーマットを置いてますよね。あと筆者自身があとがきで書いていますが、当たり前のことだけど、これは伝記としておもしろくするために多少のフィクションは自覚していると。たいしたことじゃないんだけどね。ボブ・シールの着任を1年ズラして書いているから、クリード・テイラーに〈インパルス〉へ引っ張られたというのが抜けるんだよね。マイルスにおけるテオ・マセロとは言わないけれど、ボブ・シールは大変なパートナーになっていくわけで、そこを史実よりも1年早く書いている。それを含めて、これはフィクションとして読んでほしいと。そんなこと言われても相当伝記なんだけどね(笑)。
 コルトレーンが意外と早く亡くなっていることと、その負荷になった理由は、昔麻薬をやっていたから体が弱かった、というだけではすまない。やっぱりストレスは大きい要素だからね。早婚の妻を捨てて、自分のメンターであるアリス・コルトレーンに向かったっていう。俺はアリス・コルトレーンが好きだけど、アリスをオノ・ヨーコさん扱いするひとがいるんだよね。オノ・ヨーコさんも俺は好きだよ(笑)。要するに、インテリでスピリチュアルな女性を、子どもっぽいアーティストが奥さんとしてメンターにしていくことの典型例というかね。それに対して、何度も言うけど、昭和マッチョのジャズ聴きたちは、あんまり問題にしていなかったというか。子ども聴きでそのことは抑えちゃう。でもこの本は、そこを丁寧に描いていて、それはさすがイタリアっていうかさ。

大谷:うん。恋人の影響は大事だよって。奥さんをメンターにするというか、アーティストにはそういうひとが多いですからね。マネージャーが嫁とか。

やっぱり、デザイン的にうちらはもっと知っているなと思うんだよね。〈ブルー・ノート〉や〈プレスティージ〉のトリミングの仕方とかね。タッチはいいとして、これを描くんだったら〈インパルス〉のデザインでやれよって思うところもあるわけ。(大谷)

菊地:でもアリス・コルトレーンとオノ・ヨーコさんはそれどころじゃないからね(笑)。ジョン・レノンとジョン・コルトレーンというふたりのジョンの人生を変えているわけで。ジャズはすごくホモ・ソーシャルな世界で、そこをまだぬけていない。ヒップホップですら現在柔らかくなってきたんだけどね。

大谷:付き合っている女で人間が変わるということを認めたがらないバンカラな感じだね。あと、漫画を読んでいて逆説的に気づいたのは、渋谷系はコンテンポラリー・プロダクションのデザインのパワーがすごくイメージ作りに大きくて、たとえば昔のレコード・ジャケットの名作をリアレンジしてカヴァー・イメージを作ったりしたじゃないですか。それがやはり秀逸だったんだなと。この漫画を見ると、基本的にコマはレコード・サイズで全面的にやってるんだけど、その二次創作具合が甘いっていうか、デザイン的には日本の方が全然進んでるなって。〈ブルー・ノート〉や〈プレスティージ〉のトリミングの仕方とかね。タッチはいいとして、これを描くんだったら〈インパルス〉のデザインでやれよとかって思うところもあるわけ。字をどこに置くかでも印象は変わってくるじゃない? でも残念ながら、イタリアには渋谷系はなかった(笑)。信藤三雄さんがいなかったから、そういうデザイン感覚がないのかなーとかね。キャラ化も含めて、日本の二次創作ってすごいじゃない? 日本で漫画化したら、コルトレーンもキャラ化しそう。そういう意味で日本は特殊なんだなと思いました。

菊地:さっき言ったけど、クラブへ行ったひとが、EDMは空虚だって思ったときに、何か空虚じゃないものを求める。俺はEDM好きだけど、たぶんそこで求められるのは、コルトレーンの精神性と同じものなんだよね(笑)。宗教的でもあり政治的でもあるということから、EDMとは違った、内実のある音楽としてコルトレーンを拝めていくということなのかなと。この作者は80年生まれでしょう? 95年に15歳だから、クラブ全盛期世代なわけだよね。日本だと野田努さんとかもさ、俺たちが東大に呼んでよせばいいのにジャズの話をした(笑)。「おれはジャズのことなんか何にもわからない」って言ってた(笑)。さらに、イギリスのクラバーにとってジャズなんか、ブラック・ミュージックのフィクションなんだってハッキリ言った人間が、いまはもうカマシ・ワシントンみたいなものにどっぷりっていうかさ(笑)。やっぱり人間、子どもができるとそうなるもんですか、みたいな。

大谷:野田さん、スタイル・カウンシルならわかるんだけど、って言ってたじゃないですか、とか。

菊地:一生デトロイト・テクノでいいって言ってたのにね(笑)。セオ・パリッシュが新譜を出したのはいいんですか? まぁ、俺が『ele-king』読んでないだけで、何か言ってるんだろうけど。

大谷:まぁ、ヨーロッパ経由のジャズっていうイメージがよっぽど変わるよね。

「私は聖者になりたい」は、真に受けるものではないっていうさ(笑)。

菊地:逆にアメリカだけにこれがないっていうか。アメリカの外側に広がる、クラブでジャズを聴くってひとたちに対して、いちばんストイックでいちばんスピリチュアルな役回りを負わされていて、本人も実際に負わされていたところがあるんだよね。だから、やっぱり負荷がかかっているよね。

大谷:みんなにそう言われたら、コルトレーンだったらそう答えるよね。

菊地:答えるだろうね。それに、このひとはモンクとやっているときがいちばんのびのびしてるんだよ。モンクがメンターだから。マイルスとやっているときもすごいんだ。あと、メンターじゃないんだけど、エリック・ドルフィーが隣にいてくれたときも相当心強かったと思うよ。『アフリカ/ブラス』もそうだし『オレ!』もそうだし。ところが先に死んじゃうからさ。モンクも頭がおかしくなってしまいますし。マイルスとはつかず離れずだったけどね。だから、自分の体質に合わないパブリック・イメージを背負わされ続けると、すごく負荷になる。自覚される誤解によって苦しむことは、逃げ出せるからそんなに負荷じゃないんだけど、コルトレーンはそれを自分で背負ってしまって、自分の体に向いていないことを、神輿に乗せられてやっちゃうっていうのがコルトレーンの最晩年だよね。だって4、5年ズレていたら公民権運動もこうなってはなかったし、第3世界の音楽がアメリカにとってどうのこうのってふうにもなってなかった。

大谷:あと4、5年生きていれば……たとえばチック・コリアが「永劫回帰(リターン・トゥ・フォーエバー)」とかって言い出すし、ショーターも入信するわけでしょう? その時代に突入していたら意外と大丈夫だったかもね。

菊地:あと藤岡靖洋先生がやたらと、自著やいろんなところで言いたがる、コルトレーンが来日会見で言った「私は聖者になりたい」は、真に受けるものではないっていうさ(笑)。「もう悪いことはやめます」って言っているだけだっていうさ。

大谷:あれは後ろに「(笑)」をつけるのがちょうどいいんだっていう。「私は聖者になりたい(笑)」。

菊地:そのことも漫画のなかには何もないよね。大谷君がキャンディ話とその話をあとがきで指摘しているけど。ただ、伝説を信じたいひとは、それを破壊されるのが怖いから、伝説破壊的な言説をすると、袋叩きに遭うじゃない? だからコルトレーンがメンターが欲しかった体質だったっていう、よく見ると誰でもわかる現実なのに、それを言うだけで特定のひとに嫌がられると思うんだよね。だからわざわざ嫌がられることをウェブに載せたり、スペース・シャワーTVで話してもね……(笑)。

大谷:だんだんそうなっちゃいますよね。最後に組んでいるドラマーなんてラシッド・アリだよ(笑)。みんなわかってんの(笑)?

マイルスはクールにモードになっていって、コルトレーンはホットにモードになっていった。それがフリー・ジャズと直結しちゃった。さらにはギャラクティック・ソウルというか、銀河に想いを馳せるてしまうというね。(菊地)

菊地:俺なんて2005年の時点で鈴に気をつけろってあんなに言ったのに、この漫画のはじまりはドラだからね(笑)。(※編集部注 ラシッド・アリとのデュオによる『インターステラー・スペース』では曲の冒頭に鈴の音が入る)

大谷:コルトレーンはドラは叩いてない。鈴まではいったけど(笑)。演奏の最後にドラをバーンって叩いたら面白いけどね(笑)。

菊地:そういうバンドは他にはいっぱいあったからね。

大谷:ディープ・パープルとかレッド・ツェッペリンと間違えてんじゃない(笑)? プログレ・バンドのドラマーのうしろにはなんでドラがあるんですかね。コルトレーンのバンドがやったら面白いけど。

菊地:ドラを叩きそうな勢いだったけどね。最後はバタドラムといっしょにやってるし(笑)。民族楽器を使ってワールドへ行くところだったんだよね。普通にエチオピアン・ジャズみたいなさ、「コルトレーンの影響なんて知らねえよ」って感じのファンクに毛が生えたみたいなアフリカのジャズって、いっぱいあんのよ。「エチオピアン・ジャズ コンピ160」とかさ(笑)。

大谷:しかもほとんど60年代後半でコルトレーンと同世代。

菊地:あんな感じでアフリカだって言いながらサックスを吹いていたら、もうちょっといけただろうね。

大谷:写真を見ればわかるわけで、コルトレーンはアルトも吹いていたからね。なのに意外とみんな子ども食い、子ども聴きしてしまう。どう考えてもジャケットにはアルトを吹いている姿が映っているでしょっていう。コルトレーンは「ヤマハからもらったアルトをずっと吹いていました」って言っているし。

菊地:来日ライヴね。もらってうれしかったんだね(笑)。

大谷:もらってうれしくて、その晩に使っちゃうっていうのも子どもっぽいね。コルトレーンを聴くときは、そういうところも確認してほしいんですよね(笑)。この写真なんて、「はい、先生」みたいな感じじゃないですか。はっきりと師匠と弟子の関係ができている。

菊地:この段階で学生みたいな顔ができるっていうね(笑)。あとは、ビーバップに対するモーダルみたいなものを、独力で身につけたでしょう? マイルスと手に手を取ってと言ってもいいんだけど。モードについて説明をすると、ものすごく時間がかかるからね。ジョージ・ラッセルやマイルスを含むモーダリストっていうかさ。バップを超えてモードへ行くっていうことの月と太陽っていうか。マイルスはクールにモードになっていって、コルトレーンはホットにモードになっていった。それがフリー・ジャズと直結しちゃった。さらにはギャラクティック・ソウルというか、銀河に想いを馳せるてしまうというね。

コルトレーンは宇宙船に乗らなかったことで、神話性が消えてないっていう。(大谷)

大谷:サックスの奏法の話でいうと、コルトレーンはダブルリップで、上を巻くじゃないですか? 歯が悪かったのかもしれませんね。この漫画ではそこは意識しているように見える。あとモードのサックスのタンギングをするのに、シングルじゃなくてダブルタンギングで切っていくやり方。マニアックな話ですが(笑)。

菊地:バップはハーフタンギングだからね。

大谷:昨日けっこう音源を聴き返していたんだけど、58年の時点でずいぶんとフレージングが違うなと。

菊地:元祖ワールド・ミュージックだよね。『カインド・オブ・ブルー』なんてまだまだジャズっぽいだろうと油断して聴くと、あの段階でエチオピア民謡みたいになっているからさ。相当モードだよね。

大谷:マイケル・ブレッカーの『ドント・トライ・ディス・アット・ホーム』の一曲めってさ、スコットランド民謡みたいなやつじゃん? EWI使って。ああいう方向もあったんだろうなっていうね。変なワールド・ミュージックという意味でいうと、ブレッカーはコルトレーンを受け継いでいるっていうか。

菊地:サキソフォンって楽器が新しいからね。いろんな奏法ができるから。擬似民族楽器としても使える。

大谷:アラブの笛や、ティンホイッスルみたいな、あんまりタンギングしないでも使えるっていうか。このあたり吉田隆一氏が詳しいですけど。

菊地:両巻きはチャルメラの吹き方と同じだからね。

大谷:そういう要素がサックスのなかに混ざっているので、けっこうやり散らしているなと。

菊地:早い段階から民族音楽的ではあったと思う。それはモードだから。パーカーはぜんぜんモードじゃないからね。そこからモードのやり方に向かっていく時点で、時限爆弾は仕掛けられていたというか。最後の方にやり散らかしのレリジョン・ミックス、もしくはエスニズム・ミックスみたいになっているというね。

大谷:簡単に言うと『スター・トレック』というかさ(笑)。「宇宙にはなんでもあるんだぞ?」っていう状態になっていく過程で、亡くなったようなところがあったもんね。

菊地:ミクスチャーされた状態を、なんとなく宇宙ってことでいいんじゃないかっていうふうに、コルトレーンはできなかったんだよ。リアルなので。その点では殉教の感じがあるし、リスペクトせざるをえないっていう。ギャラクティックな方向へ行っちゃうと、「お気の毒」っていう気持ちから「面白い」って気持ちになっちゃうからね(笑)。たとえば、サン・ラやジョージ・クリントンにはコルトレーンみたいなリスペクトは抱けない。違うリスペクトなら抱けるんだけどね。

大谷:コルトレーンは宇宙船に乗らなかったことで、神話性が消えてないっていうね。

コルトレーンは宇宙船が救いにこなかった。だからシリアスなんだよ。宇宙船がきちゃったら笑えるから。笑えるってことは素晴らしい癒しであり、赦しであるわけで。(菊地)

菊地:もうちょっと体調がよかったらコルトレーンが宇宙船に乗ったかどうか、誰にもわからないね。だけど、コルトレーンのすぐ後のひとたちは、宇宙船にも乗ったしね。アルバート・アイラーみたいにすぐに死んじゃったひともいるけど。アイラーなんてチャーリー・パーカーと同じで34歳で死んでいるんだから。現役8年間。コルトレーン以後のブラック・ミュージックが、アメリカ国内で迎えたレリジョン、エスニズムとポリティクスの混乱を、音楽家という本来は快楽的でバカなひとたちがなんとかまとめようとしたときに、宇宙にしてしまう(笑)。サン・ラの『サン・ソング』っていうさ、ハーマン・ブラントがサン・ラに変わった瞬間のアルバムとね、カール・グスタフ・ユングの絶筆『空飛ぶ円盤』って本が1年違いで出てるの。もうちょっとくっついていたら、ユングはおそらく臨床例として、サン・ラを挙げていたかもしれない。自分のことを土星人だと思っているんだから(笑)。『空飛ぶ円盤』は翻訳で読めるんだけど、やっぱ運命の糸を感じざるをえない(笑)。野田くんの『ブラック・マシン・ミュージック』(2001年、河出書房新社)の大きなテーマになっていくギャラクティカという問題はさ、レイヴから繋がっているじゃん? 要するに、大麻だとか、ドラッグを使って飛ぶのだと。それで山のなかで音楽を聴いて、クサを食って宇宙へ行った気がして現生から逃げるという欲望がさ、白人や黄色人種どころじゃなかったでしょうな、というね。

大谷:宇宙に行きかけたひととしてのコルトレーンだね。

菊地:鈴も鳴らしたし、お寺まで行ったからもう一歩だったんだけどね(笑)。ただ、コルトレーンの場合は宇宙船が迎えに来なかった(笑)。

大谷:これは死んだ後に出たやつだからな(「インターステラ・スペース」)。よく見るとここらへんに宇宙船が写っていたりして(笑)。

菊地:それは矢追純一イズムでしょう(笑)。写っていないものが見えてくる。……結論としてはコルトレーンは宇宙船が救いにこなかった。だからシリアスなんだよ。宇宙船がきちゃったら笑えるから。笑えるってことは素晴らしい癒しであり、許しであるわけで、ジョージ・クリントンがあんな格好をしてるよとか、サン・ラっていう土星人は泣けるよねっていうのは赦しがあるんだけど、コルトレーンは赦されなかった。

大谷:サン・ラとかアルバート・アイラーみたいな格好をして出てくればよかったのにね。それにも間に合わなかった。

宇宙まではあと一歩。(大谷)

菊地:アリスがしてあげればよかったのに、惜しいところだったよね。全部を一気にアウフヘーベンして、しかもギャラクティックではなく、ストリートなまま政治や宗教の混乱の負荷を受けてしまって、一種の殉教者みたいになって。いつまでたってもコルトレーンを神格化するひとがいる原因はそこにある。音楽のなかからそれが読み取れるなら、コルトレーンにとってはそれがいちばん幸せなんだけど、音楽の構造分析的には読み取れないんだよね。聴いた感覚ではわかるんだけど。そりゃ、1曲1時間もやったら誰でも飛ぶよ(笑)。

大谷:だからリキッドで立って聴くのがいいんだよ(笑)。

菊地:ジャズ・クラブで座って1時間聴いていたらたまったもんじゃないよね。産経ホールはやばかったでしょう。あの知的な相倉先生だとか、あらゆる知将たちがコルトレーンが聖人だって物語には乗っているからね。悪いというわけじゃなくて、ヒップなひともいたと思うの。コルトレーンの最後は若気の至りで、〈ブルー・ノート〉時代がいちばんよかったよなってひともいっぱいいたと思う。いまそうじゃなくて、円盤が迎えに来なかった殉教者としてのコルトレーンがクラバーにもてはやされているのが現状っていう。

大谷:もてはやされるといいな。

菊地:ははは(笑)。

大谷:まだ予断は許されない。この一瞬で消え去るかもよ。

菊地:でもみんなコルトレーンは聴かないんだよ。甥っ子であるフライング・ロータスを聴く。コルトレーンの血脈がラヴィまで含めていまのクラブ・シーンに繋がっているけど、それは全部ぶっ飛ぶ音楽だから、そういう意味で先駆だよね。

大谷:フラローのおかげでロスまでは来てるから、宇宙まではあと一歩。カルフォルニアには(UFOが)よく来ているからね(笑)。

Melt Yourself Down - ele-king

 6月は丸々ベルリンに行っていたのですが行きの飛行機が途中で欠航してしまい、結局成田~アブダビ~ローマ~ベルリンと4つの空港を経由してドイツにたどり着いたところ当時フランスで開催中だったユーロ(サッカー)2016に当たり、首都ベルリンでは随所に各国のナショナル・フラッグがはためいておりました。自分はトルコ対クロアチア戦があった日にうっかりクーダムという目抜き通りに行ってしまい、どちらかの国旗をたなびかせてクラクションを鳴らしながら暴走する車が果てしなく続く(どこにもドイツが含まれていないのに何だこの盛り上がりは)という頭がおかしくなりそうな光景のなかで、英国でMelt Yourself Downがデビューしたときの「57年のカイロ、72年のケルン、78年のニューヨーク、そして2013年のロンドン」というキーワードと、彼らの音を思い出していた。

 2013年に自身のバンド名を冠したデビュー盤『Melt Yourself Down』を初めて聴いたとき、メキシコのテクノ音楽集団、Nortec Collectiveとも共通する妙な高揚感が沸き上がってきた。音はたしかに間近で鳴っているのに若干ずれてやって来るというか、例えば不意にどこかから聞こえてきた祭囃子が意味不明に格好いいぞ、といった類の感覚に近く、音の出所を探しながら耳から体が動いてしまうような音楽である。耳を塞いでも入って来てしまう騒音や、興奮して旗を振り回す人と警察が小競り合いをしているような喧騒を目の前にしたりすると対抗して自然と脳内再生されてしまう音楽、というものからはどこかしら似た匂いがする。

 最近発表された彼らの新作『Last Evenings on Earth』では前作に引き続き、それぞれ独特な「声」を持ったヴォーカル・サックス・パーカッション・ドラム・ベースが世のなかのあらゆる喧騒に拮抗している。踊りだしたくなる、というよりは脚が独りでに歩きはじめてしまいそうになるビートが痛快な1曲目“Dot to Dot”で始まるこのアルバムにおける楽隊のなかでもとくにサックスの雄弁さは甚だしく、8曲目の“Body Parts”などは吹くのを止めて喋ったほうが早いのでは、というくらいの人語ぶりであるし(何を言ってるのかはわからないけれど何となく言いたいことはわかる、とでも言いますか)、5曲目の“Jump the Fire”に至ってはまるで超アグレッシヴな電子チンドン屋のようである。

 そのMelt Yourself Downと在籍メンバーが重複するThe Comet is Comingのデビューアルバム『Channel the Spirits』の曲名や公式サイトの文章を見たりすると(たしかにMelt Yourself Downとも違ったヴァーチャルな空間で鳴っているかのような音ではあるけれど)、こういう「スピリチュアルなコンセプト」みたいなのはサン・ラーやアリス・コルトレーンの頃から大して変わってないのか? と思いそうになりますが、実際に音を聴けばこれが紛れもなくその後の数十年を経過した現在の音楽である事がわかる。例えば3曲目の“Journey through the Asteroid Belt”の、ほとんど手癖で仕上げたのではないかとすら思える進行の素晴らしさは、先行する楽曲の系譜を抜きにしては捉えられない(自分が真っ先に思い出したのはラテン・プレイボーイズ)。

 マット・デイモンが(不承不承ながら)火星ひとりぼっちで80年代ディスコ・ミュージックを聴き倒していた映画『オデッセイ』を思い起こしてみても、宇宙船の外に投げ出された人間は音を聴いている場合ではないし(そもそも空気が無い)、アクシデントで音楽が不意に止んでしまったとき、そこに静寂を感じている余裕があるのかどうかも怪しい。にも拘らずそんなギリギリ緊急事態発生中の境界線(の隣)をすっとぼけた顔をして横切って行く楽隊が居るとすれば、それは彼らのようなバンドなのかも知れない。ベルリン滞在中「英国、EUを離脱」などというニュースが入ってくるなか、そんなことはお構いなしにドイツが得点するたび住んでいたアパート(ベルリンのゲイエリアど真ん中)の至近距離で花火が炸裂するので自分らは怯えていたものでしたが、和むかどうかは兎も角として各人がやりたいことをやりたいようにやっているだけである。

 さて日本人としてはこの音を夏の盆踊り会場で聴きたい。ライヴ会場でステージに正対して拝聴、という感じではないし、かと言ってクラブで踊る音としてはスペースが足らないかもしれず(何と言うか、聴いている場所からふらふらどこかへ移動したくなる音なのだ)、何より櫓の上で生演奏をしている周りをぐるぐると廻りながらいつでも離脱可能な気楽さが欲しい。そんな盆踊りをやってくれる自治会も無いでしょうが、こういうのでも喜んでくれるご先祖様(溶解人間たち)が何処かに隠れているかも知れません。

TwiGy - ele-king

「日本語ラップ技術史としてのTWIGY自伝」

 『フリースタイル・ダンジョン』が人気をはくし、スキルフルなラップがあふれている現在、とくに若いファンにとって、ツイギーとはどういう存在なのだろう。雷、マイクロフォン・ペイジャーの一員として知られていると思うものの、とは言え、ソロ作品にわかりやすい大ヒットやクラシックがあるわけではない。筆者は中学生時代、さんぴんCAMPの直後にヒップホップにハマったクチである。そんな自分からすると、ツイギーはいまも当時も異彩を放ちつづけている。ツイギーを早くから評価していたECDは、ツイギーについての文章を「TWIGYは紛れもなく天才と呼んでいいアーティストの一人である」(アルバム『TWIG』のライナーノーツ。ツイギーについて書かれた最良のテキストだと思う)という一文から書きはじめているが、あふれ出る天才性のままにラップをしている存在として、ツイギーはほとんど唯一無二なのではないかと、筆者も思う。そんなツイギーが『十六小節』という自伝的な語り下ろしエッセイを出した。

 ツイギーおよび日本語ラップ・ファンからすると、まずは日本語ラップ黎明期における細かなエピソードが、それだけでおもしろい。自分のような後追い世代にとっては、なおさらである。個人的には、ツイギーがHAZU(現・刃頭)と出会う名古屋時代から、東京に進出してくるあたりのエピソードがいちいちおもしろかった。ツイギーとHAZUによるBEAT KICKSが名古屋のローカルなコンテストで優勝したときの曲が、スペシャル・AKA「ネルソン・マンデラ」のうえでラップをしたものだというのも初めて知った。ツイギーもHAZUも2トーン・スカが好きで、とくにトロージャンズ好きのHAZUは、ギャズ・メイオールのDJにも影響を受けているのだとか。この事実は、いままで抱いていたHAZUに対するイメージと違って印象的なものだった(まあ、同時期のブギ・ダウン・プロダクションズの存在などを考えれば、そんなにおかしいことではないのかもしれないが)。

いろいろな本を読み、いろいろな人の話を聞くと、シーンの最初期におけるジャンル未分化の野蛮なおもしろさを感じることがしばしばある。これは当然と言えば当然で、たとえば、そもそもクラブの数自体が少なかったりすると、周辺ジャンルは必然的に集まってしまうことがある。ツイギーの音源デビューがオーディオ・スポーツ(恩田晃によるユニット。山塚アイや竹村延和が参加している)の曲だったり、あるいは、レス・ザン・TVのコンピ盤にキミドリの曲が収録されていたり、というのは、そういう気分を反映したものに思える(このあたり、山下直樹・浜田淳『LIFE AT SLITS』をぜひ参照してほしい)。そういう、シーンが確立するごとに見えづらくなるジャンル横断的な交通をかいま見られることが、このような自伝的エッセイの楽しみのひとつである。スカ好きという話もあったが、本書で感じるのは、ツイギーが思いのほかレゲエから多大な影響を受けていることだ。たしかにツイギーは、BOY-KENをはじめとするV.I.P. CREWとの交流も厚いし、YOU THE ROCK主宰の伝説的なイヴェント〈ブラック・マンデー〉の様子を記録したカセットテープでは、ツイギーによるかなりラガマフィン調のラップを聴くこともできる。現在から振り返ると、これも黎明期的なジャンル横断の一端に見えるが(思えばヒップホップとレゲエも、ここ10年強くらいで、けっこう分化してしまった気がする)、ここで重要なことは、ツイギーの魅力的なフロウがレゲエ・シーンのなかで育まれていたことである。

 筆者は、甲高いツイギーのラップが、変幻自在に倍速になったり、かと思ったらテンポダウンしたことに、大きな衝撃を受けたことをよく覚えている。「こんなラップは聴いたことない!」と。アルバム『SEVEN DIMENSIONS』と『リミキシーズ呼吸法』が出た2000年のときだ。“GO! NIPPON”(『SEVEN DIMENSIONS』)や“今は昔(風雲STORM RIDERS REMIX)”(『リミキシーズ呼吸法』)など、本当にすごいと思った。ツイギー自身も本書で、「斬れる言葉が研ぎ上がったのは、『SEVEN DIMENSIONS』(2000年)だと思う」と言っている。そして、その「斬れる言葉」は、ツイギーによればレゲエによってもたらされている。ツイギーは、「小節に対して倍速で言葉を入れることに気付いて、最初はすごい発見をしたと思ったんだけど、でも、それをレゲエのビートに乗っけてやってみたら結構普通の感じだった」と前置きしつつ、次のように言う。

俺はV.I.P.の現場でBOY-KENやシバヤンだったり、レゲエのみんながやっていたスタイルをRAPに変換したんだ。と、……そう簡単に言ってしまうと俺も自分なりに模索しながらやってきたことがあるから、認めたくない部分もあるんだけどね。それまでレゲエの現場でRAPでラバダブをやると、俺の言葉だけ間延びする感覚がずっとあった。それが俺はすごくイヤだったんだけど、倍速で入れるとそれが解消されることに気付いたんだ。
 そうやってレゲエの現場で体で学んだやり方をもってして俺はRAPに戻ってきた。そうしたらビートに対しての、みんなのRAPの乗せ方が俺にはすごく感じたんだ。だからHIPHOPの現場でライヴするとバシっバシっと斬っていく感じがあった。それが試行錯誤の末に、間延びする日本語に対して俺が生み出したやり方だった。

 現在のように、本当にゆたかなフロウの数々に囲まれているとつい忘れそうになるが、まだ生まれていないフロウを生み出すことは、本当にたいへんなことである(だからこそ、少なくない人にとって、日本語ラップをめぐる現在の状況がこのうえなく感慨深いのだろう。日に日に新しいラップのモードが出現する!)。ラッパーでない俺なんかが共感することではないかもしれないが、それでも、ツイギーの「小節に対して倍速で言葉を入れることに気付いて、最初はすごい発見をしたと思った」という気持ちは、曲がりなりにもリリックを書こうとしていたひとりとして、とても共感する。DJマスターキーのアルバム『DADDY’S HOUSE vol.1』(2001)のラストには、ツイギーをフィーチャーした“MASTERPLAY”という曲が収録されているのだが、ここで聴くことのできるツイギーのラップは絶品だ。マスターキー自身、当時のインタヴューで「ツイギーの新しいラップが引き出せたと思う」といったようなことを言っていた。遅めのビートに対して速度が自在に変化して、変拍子的にアクセントが入るラップは、リアルタイムで聴いたとき、本当に感動したものだ(「っき!ほんっ中!の基本!っダ!っディー!ズハー!ウス」)。

 速度が自在に変化するようなフロウは、サウス系のラップも通過した現在ではほとんど前提の技術になっている感があるが、これはどこから来たものだろう。現在のゆたかなラップをひと括りにするのは困難だし、そこに単一の起源を求めるのもまた無茶なことだが、僕がその気持ちよさを最初に感じたのがツイギーのラップだったのは間違いない。しかも、サンプリング主体のトラックではなく、アブストラクトなトラックのうえで(『リミキシーズ呼吸法』では、カンパニー・フロウのリミックスなども収録されている)。ツイギーは2000年前後の時期について、マイクロフォン・ペイジャーのような「ニューヨーク・スタイルのローファイなループの上でやるのがイヤだという思いがあった」と言いつつ、「メロウなビートの上で、違うリズムでRAPを乗せる、シンコペーションしている」ような、サウス的なスタイルを「研究」していたと振り返っている。こういう個々人の「K.U.F.U」(ライムスター)の蓄積が、新時代の表現を生むのだろう。そういう意味で、現在のラップの底流には、2000年前後にツイギーが追求した方法論が存在していると感じる。そして、さらにその奥底には、V.I.P. CREWの水脈がある。先のECDは、「日本語でラップをするという試行錯誤の一つの到達点がTWGYのラップなのだ」と書いている。

伝説的なイヴェントである、さんぴんCAMPから20年。現在、『フリースタイル・ダンジョン』をはじめ、スキルフルなラップは多くの人の心をつかんでいる。サウスの影響も色濃い現在の日本語ラップのシーンと、東海岸的なサウンドが色濃かったいわゆる「さんぴん世代」的な日本語ラップのシーン。そのあいだを方法論的につないでいたのは、さんぴんCAMPのさなかにジャマイカ(レゲエ!)に行っていたツイギーだったのではないか。2000年前後にツイギーに夢中になっていた筆者は、本書を読みながら、そんなことを思った(異論歓迎である)。

Powell - ele-king

 さあ、大声で叫んでみよう。ファァァァァァック! あー、気持ち良い。物わかりの良いお利口さんの音楽には、あるいは、おっさんおばはんの音楽には付き合いきれないぜという若いキミ、若くてうずうずしているキミ、お待ちどうさま。パウウェルが控えている。
 百聞は一見にしかず。まずはコレを聴いて。

 最高に格好いいよな、EDMなんかよりも。悪いけど、それがわからなければ、あんたは永遠にダサい。どんなウンチクを並べようともな。
 〈XL・レコーディングス〉から近々発売予定の、パウウェルのオリジナル・ファースト・アルバムに向けて、ロンドンとニューヨークでは写真のようなビルボード広告を出している。このメールアドレス(powell@xlrecordings.com)にメールを送るとPowell本人が返答し、徐々にアルバムの詳細などを明らにされることになっている。ぼく? もちろん、すでにメールしたよ。
 FACT MAGによれば──何故直接コミュニケーションを取る方法をとったかについて、パウエルは、彼の新作がもうすぐリリースされること、そして「溜まりに溜まっていたものを全部吐き出したかったんだ。世に出ることのない昔作った音楽を一掃したかったんだよ」と語っている。
「俺はメールをしてくれた全員に返信するよ。俺がすでにしているメールのやりとりは気が狂ってるものだね」
 昨年がジェイミーXXなら、今年はコレかよ。〈XL〉、やるなー。
 

 

七尾旅人 - ele-king

 何10年ぶりかにサッカー(フットサル)をやったが、さすがに疲れた。50を過ぎた人間だ。若い人間と混じってガチでやるには、無理がある。ゲームに参加することは、ひとりで黙々と走るのとはわけが違うのだ。身体的に無理を強いなければならないし、ただ動けばいいってものでもないし、頭も精神も使わねばならない。だが、爽快である。政治の話をしながらどんどん窮屈になっていくのとは正反対だ。しかし、ではなぜビヨンセを良いと思っているのだろう。矛盾しているじゃないか。熱狂があるからか。まだ快楽産業に回収されていない熱狂が。いや、それ以前の問題として、彼女のパーソナルな事柄からはじまっているがゆえの、人生のより深いところに突き刺さる何かを持っているからだろうか。
 たぶんそうだろう。足をすりむきながらサッカーをやっているのも、すでに終わっているはずのフィッシュマンズのライヴにありえないほど涙してしまうのも、(たとえそれが単にあの娘とのことに過ぎなかったとしても)人生は生きることの誘惑にほかならないという当たり前にして当たり前のこと(だとぼくが勝手に思っていること)をぼくに思いおこさせるからだ。アホらしいと思うなかれ。音楽がもっとも得意とするところは、そこだ。

 七尾旅人が本当に思い詰めていたのが、この作品からはよくわかる。だが、これは感情の寄せ集めではない。コンセプト作品だ。ロバート・ワイアットの『コミックオペラ』と少し似ているかもしれない。あれは、男女の対話を混ぜながら、イラク戦争で家や家族を失ったレバノン人の気持ちを歌うことで、たとえば今日のISが生まれる温床(=憎しみ)に触れているアルバムだった。
 『兵士A』にはふたつの物語がある。戦死する自衛官、すなわち憲法改正を弾きがねとしたであろう『兵士A』とそれを取り巻く物語、もうひとつは七尾旅人というアーティスト自身の創作行為に関わる物語だ。ことに映像は後者を際立たせている。当たり前の話だが、視線は七尾旅人の表情に集まり、表情の変化や彼の一挙手一投足を注視することになる。本作は、2015年11月19日のライヴ公演の実況録音盤であり、その映像作品だ。ここには、3時間にもおよぶライヴが収録されている。

 七尾旅人の根幹に政治的な憤りがあるのは確実だ。それもかなり激しい憤り、絶望。『兵士A』には、彼のお茶目さのひとかけらもない。
 とはいえ、とくに前半だが、弾き語りの名手たる彼の持ち味は発揮されている。七尾旅人は、ギターの単音と声だけでも人を魅了するミュージシャンだ。ファンのなかには声だけでも十分だと思っている人も少なくない。電子音を混ぜてはいるが、最終的には、今回もその魅力は変わらない、が、『兵士A』はしかし、彼はナイーヴさを排し(ある意味ではこれ以上ないほどナイーヴに振る舞い)、そして受け手をアンビヴァレントな気持ちにさせる作品なのだ。“ぼくらのひかり”がそうだ、“Tender Games”もそうだ。“I'M WARBOT”での七尾旅人は激殺気だっている。“エアプレーン”もそうだ。自分の作った歌の登場人物たちに取り憑かれているかのようだ。
 ステージ上の共演者は梅津和時ただひとりである。七尾旅人と同様、このベテラン・サックス奏者も日本兵の格好をしているわけだが、ふたりが演奏する光景を見たら、だれであろうと思い描くことはひとつかもしれない。しかし、『911FANTASIA』と比較される作品だが、じつは本作のほうが解釈はいろいろできる。とくに気になったのは最後の曲だ。“誰も知らない”を、彼はなにゆえに「あの子はバカだから~」という歌い出しからはじめたのだろう、取材するチャンスがあるのなら、ぼくはまずそのことを訊きたい。

 七尾旅人の、アーティストとしてつねに刺激を与えたいという大望は素晴らしいと思う。なにかおかしいぞと思ったら、とことんその疑問を追求する真摯なところもだ。『兵士A』が彼のベストだとは思わないが、いまの日本の絶望感を捉えている真摯な音楽作品であることは間違いない。
 が、政治的コンセプトがあるとはいえ、これは論文ではない。『911FANTASIA』もそうだったが、たとえば七尾旅人は戦中戦後から未来(戦前)へと、数世代にわたる物語を繰り広げている。しかし……ぼくは少年サッカーを見ながらつくづく思う。未来に待っている次世代は、そもそも現在の若者よりもずっと人数が少ないのだ。不安項目はいくつもある。政治的トピックとしては戦争よりも貧困問題を最優先すべきだという意見もよく耳にする。また、万博文化に取って代わるもののひとつは、ぼくは、スマホに象徴される通信テクノロジー商品にあると思っている、などなど。いろんなことが頭を巡る。いろんなことが。そのひとつを取りあげて、このレヴューの締めとしよう。
 ぼくは若い頃、RCサクセションや忌野清志郎のライヴで、梅津和時のソウルフルなサックスを何度も聴いている。そのステージ上には、いつも「愛と平和」という決まり文句があった。しかし、いまでは「自由」という言葉が塗り替えられたように(ネオリベもリバタリアンズも自由の産物)、あの頃と比べると問題はずっと複雑になっている。それもあるのだろう、「愛と平和」などという言葉はもう何年も聴いていない。「愛」も「平和」もさんざん欺瞞的に使われてきた/軍事的にも使われてきた/個人の都合の良いように使われてきたということなのだろうけれど、「平等」はどうだろう。トランプだって平等を要求する。そう、いま政治の問題を考えるときにつくづく思うのは、それでも性懲りもなく音楽にこだわっている自分たちはどこから来たのだろうか、ということである。まあ、ナイーヴで、おめでたいところから来たことは自分でもわかっているけどね。
 サッカーの試合中も、ずっと動いているわけにはいかない。うまくいかなければ、あるいは体力温存のため、ときどき立ち止まり、ふと考える。同じことをずっと言い続けることは無駄にはならない。疲れたときの思考時に効力を持つからだ。戦術が理解され、目指すべきゴールが見えているなら、問題ないだろう。たとえ監督とキャプテンがいなくても、だ。ちなみに、「人生で重要なことはすべてサッカーから学んだ」と言ったのはアルベール・カミュだが、それでもぼくは言う。人生で重要なことは音楽から学んだ。

R.I.P. WOODMAN - ele-king

 衝撃のeep大阪でのウッドマン・ライヴから16年の歳月です。ステージからの光を浴びたガタイのでかい彼のクネクネダンス&変態サウンド。その衝動を今でも鮮明に記憶しています。それから数年後、氏とのALTZの1stアルバム制作がスタート。6ヶ月に及ぶマスタリング作業や、ジャケットのイメージ作り。手描きのイラストも含め、音楽が好きすぎる彼のたっぷりの愛情を受けた『FANTASTICO』が誕生しました。
 この時点でボクにとってのプロデュースの神です。〈レア・ブリーズ〉こんなクールな名前のレーベルからアルバムを発表させてもらえるなんて。
 見事遅咲きのアルバムデビューでしたが、師匠として、ライバルとして、感謝しきれない感慨深い時間を共に過ごさせてもらいました。

 当の本人ウッドマンの処作は、以前から驚愕のハイペースでリリースされていて、タケ&ロス・アプソンが絡んだ流れや、意味不明の自主作品など。未だ全部のCD、CDRを確認できていないんです。多分一生かけても聴けないんだなと思いました。彼の愛機YAMAHAミニQYや、HDレコーダーには消去されたり、再生されない秘密のサウンドが相当数眠っていたはずです。サウンドと歌(ラップ?)を行き来したスタイルも理解不能ですが、今なら聴けるのかな。
 そして何よりもあのしつこいおしゃべり魔女のようなスタイルが鼻につく。ウッド大阪時代の数々の変態調教を通して今想う事 は、蝶になって自由に跳びたいウッドマンの光速メッセージだと自負しております。ほっつき歩きのプロとはまさに彼のことでしょうね。
 しかしもういちど関西弁で語り合いたかったで、ウッドマン! ありがとう……。

 合掌

ALTZ(RARE BREEZZE)

Solo andata - ele-king

 何もしたくない。そんなときにはアンビエント・ミュージックが効く。怠惰。この勤勉と抑圧の近代国家ニッポンでは、もっとも反社会的と思われる行為への誘惑。そう、アンビエント・ミュージックは、社会からの逸脱=怠惰へと誘う。ああ、なにもしたくない。ああ、疲れた。ただ、寝ていたい。いや、なにもしたくないから、寝ることすら面倒である。ゆえにアンビエントを聴いてゴロゴロしていたい。できることなら休みたい(いや、休めない)。そう、怠惰という極楽への誘惑。その意味で夏こそアンビエント・ミュージックを聴きたい。なぜか。暑いからだ。なにもしたくない。そこで今回は、そんな気分に合うアンビエント作品と一作と、正反対に、そんな気分を瓦解させてしまうようなエクスペリメンタルな作品を紹介してみたい。どちらも、とてもクールな作品である。

 まずは、ニューヨークの〈12k〉からリリースされたソロ・アンダータの新作『イン・ザ・レンズ』について語ろう。ソロ・アンダータは、ケイン・アイキンとポール・フィアッコによるオーストラリアのアンビエント・ユニットである。2009年に〈12k〉からリリースしたファースト・アルバム『ソロ・アンダータ』は、いま思い出してもかなりの傑作だ。イーノ的な環境音楽/アンビエント・ミュージックでもなく、KLF的なチルアウト/アンビエント・ミュージックでもなく、日常の隙間にアンビエントの空白を生むための「00年代以降のエレクトロニカ・音楽的アンビエント」を、彼らは『ソロ・アンダータ』で確立したのだから(むろん、当時、似たような音楽は、たくさんあったが、彼らのクオリティは抜きん出ていた)。

 そして6年ぶりとなる新作は、その「エレクトロニカ・アンビエント」の、その先を見据えたような作品に仕上がっていた。電子音のみならず、ピアノやベース、ギターなど楽器演奏=アンサンブルによって楽曲が成立しているわけだが、そこにさまざまな細やかな物音やノイズがレイヤーされ、音楽の層とやわらかく融解しているのである。そのソフトなノイズと音楽のアンサンブル/融解は大変に気持ちがよく、聴き進めていくと夢の中にいるような感覚になってくる。ノイズと楽音的なハーモニーの境界線がシームレスになっている。これこそまさに2010年代的なアンビエント/ドローンの新しいオトノカタチではないか。クラシカルでもあり、ジャズのようでもあり、しかしそのナニモノでもない音楽と音響の生成。まさに音楽/アンビエントの深化。では、この進化の源はなにか。私には、曲のなかで、そこかしこに鳴っているベース(低音)の存在が大きいように聴こえた。つまり、ひかえめなベースの進行が音楽としての構造を生んでいるのだ(ウワモノが持続音でもベースが旋律と刻むと進行が生まれるのだ)。それにしても、本当に素晴らしい作品ではないか。これぞポスト・ノイズ、ポスト・エレクトロニカというべきアルバムだ(本年、ケイン・アイキンのソロ『モダン・プレッシャー』もリリースされている。インダトスリーでありながら浮遊感と現実感が入り交じったような秀作であった)


***


 そんな夢見心地の気分に、砂漠の崩壊していくさまを顕微鏡のような音響/映像感覚で表象し、われわれの現実の足場がすでに倒壊しているのだということを、極めてスタティックなスタイルで示す作品が、 ベルリンのサウンド・アーティスト、ヤコブ・キルケゴールの『サブレーション』である。

 ヤコブ・キルケゴールは、これまでも環境の中に存在する音響の変化を主軸においた音響作品を発表してきたアーティストだ。その作品はまるで、彼の耳のありようをトレースするかのように音響の要素がコンポジションされており、聴き手は、アーティストの耳と同化するような感覚を持つことになる。たとえば2013年に〈タッチ〉からリリースされた弦楽作品『コンバージョン』は、弦の軋みや揺らぎを録音・再構成した作品であったが、同時に、彼の耳の反応そのものを音に「変換」したものにも思えた。

 本年、日本の〈マター〉からリリースされた新作『サブレーション』は、「砂漠化」の名のとおり、オマーン砂漠の映像と音響によって成立している映像作品である。もともとは2010年のあいちトリエンナーレで池田亮司の作品などとともに公開されたインスタレーションが元になっているというが、今回、ついにDVD+フォトブックという形態でリリースされた。まるでヤコブからの「手紙」が届いたような美しく親密な装丁も素晴らしい。

 砂漠が崩壊していく集積/運動のさまを捉えた緻密な音響とモノクロームの映像のコンビネーションは圧倒的で、ずっと聴いている/観ていると、まるで自分の足場が倒壊していくような感覚に襲われてくる。それは知覚の拡張ともいえるのだが、私たちの知覚=現実が倒壊していくような感覚でもあった。ちなみに本作は勅使河原宏の映画『砂の女』(1964)へのオマージュでもあるようで、いわれてみると不穏感覚や、現実への崩壊感覚には通じるものがある。そこからわれわれ「日本という現状/問題」へと結びつけることは、さほど困難でもないだろう。そして、先に書いたように近年のアンビエントが再び足場を確かめるように「低音」を導入しているのに対して、ヤコブは、幾千、幾万もの砂塵が、砂が散り散りに倒壊するような崩壊感覚を音響化/映像化している。そう、これは、「砂漠化」し、やがて崩壊する「世界」そのものではないか。本作の表象は、抽象的に見えつつ/聴こえつつ、やはり一種の(強烈な)リアリティに思えてならない。

 だが、である。いまは暑い。夏が本格化してきた。現状への批評的な視線も大切だが、この美しく砂漠が倒壊していくさまを捉えたモノクロームの冷たい質感の映像と音響に、いつまでも浸っていたい気もすることも事実である。美しい、からだ。たしかに本作はアンビエントというより音響的にはフィールドレコーディング作品(映像)だが、われわれはヤコブの耳をトレースするように、音の磁場が生むアンビエンスを聴くのだからアンビエントとしても聴取/視聴可能なはず。なにより、このモノクロームの砂漠の映像/音響は、灼熱のなかの氷のように冷たい。ゆえに夏の猛暑に効く……。
 
 ともあれ、「ベースと崩壊」である。それは夢と現実の表象でもある。この2作からは、そんな響きを、音楽を聴き取ることができたわけだ。それにしても、今年の日本の夏は夢見るように不安定だ。本当に夢だったらよいとすら思えるほどに。冒頭の無気力さは、暑さのためだけではないかもしれない。

interview with Jun Togawa - ele-king


戸川階段

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 戸川純、非常階段、ともにいま、外国の人からよく名前を聴くミュージシャンである。この組み合わせは意外なのか。意外ではないのか。80年代の日本で彼らの活動に気を留めた人でも意見は分かれるところだろう。アルバムに付けられたライナーでは非常階段のリーダー、JOJO広重がいかに当時から戸川純にシンパシーを抱いていたかということが切々と書かれている。昭和歌謡の趣味が同じだということから実際にコラボレイションをはじめた経緯など。では、一方の戸川純にとって非常階段というのはどういう存在だったのか。毎年恒例となっている3月31日のバースデイ・ライヴ@新宿ロフトを前に戸川純に話を聞いた。

戸川純 / Jun Togawa
1961年、東京生まれ。82年、ゲルニカ『改造への躍動』でデビュー。個性的なキャラクターでテレビ、映画、CMなどで活躍。84年にソロ・アルバム『玉姫様』、戸川 純&ヤプーズとして『裏玉姫』をリリース。85年には戸川純ユニットとして『極東慰安唱歌』発表。ヤプーズ・ゲルニカで活動後、1989年、再びソロで芸能生活10周年記念盤『昭和享年』(テイチク)を発表。ノイズ・バンド「非常階段」とのコラボレートがスタジオ録音のアルバムにまとめられ、2016年、『戸川階段』としてリリースされた。

非常階段
1979年、京都でJOJO広重を中心として結成。『蔵六の奇病』等の作品や、過激と評されるライヴ・パフォーマンス、自身らが立ち上げた〈アルケミーレコード〉の存在によって、日本のインディーズ史にカリスマ的な存在感を残している。近年はTHE原爆オナニーズ、ザ・スターリンとの合体ユニット「原爆スター階段」としてのイヴェント出演や、『初音階段』(初音ミク×非常階段)『BiS階段』(BiS×非常階段)『私をノイズに連れてって!』(ゆるめるモ!×非常階段)『Nois Join Inn』(大友良英×非常階段)などコラボ作品に意欲的であり、2016年にその最新作として戸川純とのアルバム『戸川階段』を発売した。

JOJOさんが言ってくださっているとおり、わたしの声も非常階段さんとのコラボにおいてはノイズなのだな、と思いました。


戸川さん、こんにちは。久しぶりのインタヴューですが、今日はよろしくお願いします。戸川さんが初めて聴いたノイズ・ミュージックは何でしたか?

戸川純(以下戸川):わたしが初めて歌をやることになった、ゲルニカというユニットが昔ありまして、そのゲルニカの前に付いていたユニット名が「イントナルモーリ」 という、昔の未来派の騒音楽器でした。そのイントナルモーリの音楽(音?)も、カセットで、もちろん古いレコーディングだったけども聴くことができまして、それがノイズを聴いた初めてだと思います。人も飲み込むような、野外にしか置けないすごいデカさなのに、ボー……!! しか鳴らなかったのを憶えています。ちなみに、わたしがなかなかイントナルモーリという単語を憶えられなくて、バンド名も変わりました。その後、歌詞に入っていたので、やっと憶えられました。

普段、ノイズ・ミュージックを聴くことはありますか?

戸川:ないですね。でも関わることはけっこうあったんですよ。羅生門というお芝居のとき、それはドイツで初演されて、ドイツでは、ノイバウテンが音楽 (音?)を担当していて、1幕では演じる役者がその音を出させられてたり、ね。

では、非常階段のことはいつ頃、どのようにして知りましたか?

戸川:80年代半ばか、初期だったと思います。申し訳ないのだけど、音楽もお聴かせいただいたことはなく、あの頃特有の、いわゆる過激なパフォーマンスのバンド、と人からきいてたくらいでした。ごめんなさい。

戸川さんにはメジャーとマイナーで線引きをするという感覚があまりないと思いますけど、そういった線引きを超えて非常階段に惹かれる部分があるとしたら、それはどの部分になりますか?

戸川:やっぱり、BiS階段さんのときのアルバムを聴かせていただいて、非常階段さんが、一歩も譲ってないと感じたところとかですね。とにかくノイズでグチャグチャにしてもらう、というのをレコード会社の人は望んでたのかもしれないけど、それだけでなく、すごく音楽的に仕上げてもいらっしゃるなあ、とほんとに思ったんです。あと、お人柄とのギャップも大切ですね。ノイズとかパンクをやってらっしゃるから、普段もそういう方々、というのでは、ミーティングできませんし。とくに大人同士だから、昔とは違うしね。

なるほど。非常階段とは四谷〈アウトブレイク〉でも穏やかに対談もやってましたものね。ちなみに非常階段にちがう名前をつけるとしたら何がいいですか?

戸川:他にまったく浮かばないですね! 非常階段ってネーミング、危機感はあるし、キャッチーだし! 私事ながら、ゲルニカがイントナルモーリじゃなくてよかった、みたいな、ね!


同じ80年代という時期を生きていまなお活動しつづけているという点で、このコラボの音にもそのことが如実に表れているのでは、と思います。


(笑)BiS階段から“好き好き大好き”をカヴァーしたいというオファーがあったとき、最初はどう思いましたか? ふだん、自分のライヴでは取り上げていなかった曲ですよね。

戸川:若い女の子たちが、とか、非常階段さんが、とか。お話をいただいたとき、とにかくびっくりしました。でもグチャグチャになるんだろうなとは思っていました。だけど、それにアイドルさんがどうやって歌うのかが、ぜんぜんわかりませんでした。それでも、可愛いいんだろうなと思ってうれしかったです。音源をいただいたとき、非常階段さんとBiSさんとの対比がおもしろくて、「アンバランスがとれてる」という印象でした。あの曲は、それまでもよく歌詞についてファンの人の支持があったものなのですが、曲がテクノ歌謡っぽいから(ピコピコな編曲)。そして、ファルセット部分以外の歌唱法……。あのときは、「戸川純アイドル路線」なアルバムを1枚作りたかったのです。でもどうしても、切った貼ったが出てきちゃったものでした。で、自分のところでは、その中では歌詞だけアイドル路線じゃなくてなんだかイタイ、とか思って、ずーっとやらなかったのですが、BiS階段さんみたいにノイズなものでなくても、 もっと生のバンド感を生かしたロックなアレンジや歌い方にすれば、できるなあ、と、思いました。それで、たまにうちでもロックっぽくやってます。だけど、どうしてもサビからのファルセットな歌い方だけは浮くから、サビ少し前から、パンキッシュな歌い方になってしまうけど、編曲との兼ね合いを考えてます。

実際に、非常階段と四谷〈アウトブレイク〉を皮切りに共演してみて、「思っていた通りだったこと」と、「思っていたことと違ったこと」はありましたか?

戸川:思っていたこととちがうのは、やはり非常階段さんとわたしの相性の良さです。こんなに相性良いって意外でした。わたしはずっと歌ものをやってきましたから。もちろん、非常階段さんはかなり合わせてくださってるのだと思うのですが、それにしても、JUNKOさんの声とはまたちがう意味で、JOJOさんが言ってくださっているとおり、わたしの声も非常階段さんとのコラボにおいてはノイズなのだな、と思いましたし。
 思っていたこととわりと近いかな、と思うのは、やはり同じ80年代という時期を生きていまなお活動しつづけているという点で、このコラボの音にもそのことが如実に表れているのでは、というところです。

『戸川階段』の選曲の基準は何でしょう?

戸川:選曲は非常階段さん側です。たぶんJOJOさんだと思います。先日また、戸川階段でライヴをやったのですが、2曲増えてまして、それも JOJOさんのセレクトだと思います。わたしからは、選曲の基準は考えたこともなくて、非常階段さんにとって、やりやすいとか、面白いことができそう、とか、そういうことかなぐらいにしか思ってなくて、お恥ずかしいかぎりです。でも、JOJOさんが“ヒステリヤ”を泣ける曲と言ってくださっていたり、“肉屋のように”の出来をなかなかエグいですよと言ってたりしたから、激しい曲と静かめな曲を選んだんじゃないかな。でも、 どっちも、わたしの中では感情がすごく渦巻いてる曲たちなので、そういうところをわかってくださって、選んでくださった感じがしちゃいます。 意外と非常階段にもある、接点と思ってくださったというか。


“ヒステリヤ”も“肉屋のように”も、わたしの中では感情がすごく渦巻いてる曲たちなので、そういうところをわかってくださって、選んでくださった感じがしちゃいます。


Vampilliaのような若い世代とコラボレーションするのと、非常階段のような同世代とコラボレイトするのでは何が違いますか?

戸川:若い世代でも、Vampilliaはちょっと特別で、すでに風格があるんです。でもライヴは「はいー! どーもー! バンピリアですー、今夜も頑張っていきたいと思いますー!」みたいな軽ーいMCではじまって、お笑い劇場?! みたいなんです。それでも曲とのギャップがおもしろくて、爆音にデスヴォイスに派手なファルセット、と地獄のようでもあり、ときおり天使のようでもあり、で、お笑い劇場と真逆の、どシリアスぶりで、たぶん本拠地が大阪だから、照れ屋でバランスとってるんじゃないかな。それに、ツインドラムにわたしの大好きな吉田達也さんもいるし、同学年の方もいらっしゃったりもするんですよ。それでも、わたしと同世代だけで作られていまも活動してるバンドさんとちがうところははっきりしてますよ。そんな明るく楽しいMCでありながら、デスヴォイスでありながら、生バンドという点でありながら、とにかく元気があるバンドさんでらっしゃるんです。体力がとにかくすごい。音楽性はもちろんのこと、体力が、ね。それが、若さじゃないかな。
 一方、非常階段はというと、これも同世代では変わっていて(まず、同世代のバンドはほとんどが解散しちゃってて、もう活動してなかったりね。あるいは最近なぜか再結成するバンドもけっこういるみたいに見えるけど)、長いキャリアを感じますし。やっぱり落ち着いてるんですよ。ノイズとはいえ。長年やってきた安定感というか。若いバンドさんにも、同世代のバンドさんにもピンキリあると思うけど、わたしは贅沢に、これは、と思うふたつのバンドさんとコラボさせていただいてます。対照的だけど、両バンドさん共に、音の洪水の中、わたしの歌を立ててくださってますし。それに、両バンドさん共に、いまロフトで定期的にやってるわたしのソロ名義のバンドとも、ヤプーズとも、ちがいますからね。

“肉屋のように”や“ヒステリヤ”などライヴで頻繁に取り上げている曲を、あらためてレコーディングし直したことで、なにか感じたことはありますか?

戸川:感じたことというより、レコーディングにあたり、本当に考えこみましたね。全体的には、非常階段さんとのコラボだからオリジナルとはちがうようになるとは思っていましたが、個人的に“ヒステリヤ”も“肉屋のように”も、他に歌い方が見つからなくて、同じ歌い方になってしまいそうで。 結局どの曲も、普段と同じような歌い方になってしまうから、歌はエフェクト頼りにしかなれませんでした。そういう意味では、まずヴォーカルは チャンネルを部分的に2本いただいたり、あと、肉屋は声を割ってもらったり、なんといってもヴォーカル全体を、非常階段さんの演奏に埋もれた感じにしていただきました。わたしの声のヴォリュームを小さくしていただいてね。選曲はお任せしたけど、ミックスには立ち合わせていただきました。
 そんな、歌入れやミックスのことばかり客観的に考えていたから、もともとの曲自体を客観視、ということは、あまりできなかったので、あらためて感じることができなかった、というのが正直なところです。

後編に続く

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 今年の初めにリリースされた、非常階段と戸川純とのコラボレーション・スタジオ・アルバム『戸川階段』。本作をめぐる戸川純へのインタヴュー後編を公開! 7月20日には、その『戸川階段』発売記念ライヴ(2016年2月21日)の実況録音盤もリリースされる。詳細は記事の最後にて。前半部分は「1」よりどうぞ。

コラボしたら、もれなく「ナントカ階段」というネーミングになる、と思いこんでいたんです。

レコーディングは具体的にどのように進められたんでしょうか?


戸川階段

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戸川純(以下、戸川)::まだ、レコーディングすると決まってなくて、非常階段さんのライヴにゲストで出て数曲歌ったときの、その感じをベースに、非常階段さんがノイズが全部入る前のオケを作って、それを聴いてからわたしが歌入れして、そのあとギターその他のノイズをさらに足した、と記憶しています。もしかしたら、ギターその他のノイズは全部入ってたのかな? ミックス前だったから、オケを若干下げてくださってて、ノイズが本チャンより少なかったという印象だったのかもしれません。あとはミックスに立ちあって、大まかなところや細かいところ(ヴォーカルをけっこう埋もれさせてもらったり、エフェクトかけたり)を調整した、という感じですね。

ちなみに「戸川階段」というネーミングはどうやって決まったんでしょう?

戸川:わたしは友だちから数年前に、the原爆オナニーズとスターリンと非常階段で「原爆スター階段」というのがあると聞いたことがあって、その後初音ミクとの「初音階段」というネーミングも知って、「BiS階段」はもちろん知らされまして、コラボしたら、もれなく「ナントカ階段」というネーミングになる、と思いこんでいたんです。そうでないのもある、と後から知ったのですが。そういう訳で、ゲストに呼んでいただいたわたしが非常階段さんのライヴで数曲歌ったときMCで、冗談のように、JOJOさんに「今度やる? 戸川階段(笑)」と言って、それが本当に実現してしまったのでした。戸川階段て語呂もいいし、ほんとに冗談のつもりで言ったのですが、あのとき、ポロッとそう言ってよかっなあ、といまはしみじみ思います。本気ととられてたら、わたしってすごく生意気! って感じがしたと思います。だけど時として、他愛ない冗談が、幸せな現実を呼ぶこともあるのだなあ、という感じがして、JOJOさんには感謝の気持ちでいっぱいです。

一か所だけやり直すとしたらどこを変えますか?

戸川:歌ものですが、ライヴ感というか、インプロヴィゼーション感が強いので、直すところはあまり浮かびませんね。もちろんパーフェクトでは、ぜんぜんないのですが、直したいところはとくにないですね。戸川階段は、全体を引きで見るというか聴く感じなので、そうなるのかもしれません。それに、非常階段さんの演奏の、インプロヴィゼーションの要素を多分に含んだ感じに合わせると、ヴォーカルも、スタジオ録音であってもライヴ感があったほうがマッチングがいいとも思うし、多少荒削りでも流れを大事にしたいから、ヴォーカルで直したいところはとくにはないです。

わたしは、ヤプーズの演奏をクールだと思ったこと、ないんですよ。曲によりますが。基本、わたしとともに感情が渦巻いてる、と思ってて、だからいっしょにやっててほんとに相性良い、って続けてられてきたし。

ヤプーズは演奏がクールで歌がエモーショナルという対比があったと思いますけど、戸川階段は演奏も歌もエモーショナルで、歌いにくくはなかったですか? 戦いながら歌ってしまうとか?

戸川:わたしは、ヤプーズの演奏をクールだと思ったこと、ないんですよ。曲によりますが。基本、わたしとともに感情が渦巻いてる、と思ってて、だからいっしょにやっててほんとに相性良い、って続けてられてきたし。とくに90年代のヤプーズは、インダストリアル系のガシガシの音デカい系で、それでわたしも、イヤモニして、デカい声で、ほとんど全編叫んでました。おのずとパンク色が強いヴォーカルになって、お客もわいてくれてたので、喜んでいてくれてると勘違いしてて──やっぱりヤプーズのヴォーカルはこれがいちばん合ってる、と思っていて、きれいな声がもう出なくてもいいや、みたいにも思ってたんですが、ネットで「もはやデスヴォイスしか出なくなった戸川に、未来はない」って、けっこう書かれて、あれっ? なんて思いました。ネットのカキコミなんかで芸風を変えるなんて愚かなことはしませんが、あれから数年、ブランクもあって、声のリハビリをしてるので、わたしの歌手生命の基本に戻ろう! と思い、いまは、デス・ヴォイス(パンキッシュながなり声)はライヴの終盤に持ってって、なるべくきれいな声で歌うようにしてます。
ヤプーズの曲は“肉屋のように”にしても“ヴィールス”にしても“赤い戦車”にしても、曲先で、この曲につりあう歌詞なんて、わたしに書けるだろうか? そして、そんな曲をわたしが歌えるだろうか? と不安になったくらい、ヤプーズの曲や演奏も、エモーショナルなものもたくさんあるんですよ。わたしがどうしても派手に見えるから、ヤプーズがクール、って思われちゃうんじゃないかな。まあ、演奏は、たしかにカッチリしてるかもしれませんね。クールというのとは ちょっと違うとは思いますが。
非常階段さんは、ノイズなのでかなりグチャグチャにするから、パンク色が強いので、闘うどころか、わたしの声はかき消される感じなので、JOJOさんの言うように、非常階段さんといっしょだと、声もノイズなんだなあ、とやっぱり、ここでも思いますね。戦いといえば、火花を散らしながら演ってて、結果成功! というのは、かつてのゲルニカが、むしろそうだったんじゃないかな。

わたしは、流行りを追うとそのあと絶対古くなる、と思ってたから、追わないできたので、いまの若い方々にも聴いてもらえるのかな、と思います。

“好き好き大好き”がカヴァーされたこともそうなのかもしれないですけれど、新しいファンも増えていると思います。以前とは歌詞の受け止められ方が変わってきたと感じますか?

戸川:ぜんぜん変わりましたよ、お客さんもファンの方全体も。若いお客が、ほんとに増えましたね。ありがたいことです。わたしは、流行りを追うとそのあと絶対古くなる、と思ってたから、追わないできたので、いまの若い方々にも聴いてもらえるのかな、と思います。
わたしと同じくらいの歳の方々ばかりだと、青春のメロディとか青春の懐メロみたいなライヴになっちゃうから、若いお客が聴いてくださるのは、ほんとにありがたいことです。もちろんわたしと同じくらいの歳のお客も大事にしなきゃ、とは思ってはいるんですよ。ここまでわたしを育ててくださったのだから。
でもね、昔は酷かったですよ。ファンクラブで、日本戸川党というのがあったのですが、当時わたしは曲に合わせた衣装を一生懸命考えて、巫女さんやランドセルの小学生やトンボのかっこをしてたんですが、戸川党に寄せられるファンレターの多くが、とにかく奇抜な衣装を、と、純ちゃん次は大魔神の扮装やってーとか、もうめちゃくちゃでしたね。曲なんて聴いてくれてないんだなーという感じが、ライヴでもしてましたし。スタッフからしてそうでしたしね。広いキャパでやってたとき、アンコールの“レーダーマン”で、まったくきいてなかったのですが、色とりどりの風船がほんとにたくさん落ちてきて、その広いステージの床を埋めつくしまして、社会派な曲なのに、こんなファンシーな演出して!! と、悔しくて悔しくて、風船を一生懸命割りながら踏んづけて歌いました。それはそれで絵になっちゃったみたいで、でも踏んづけないと、可愛い感じになっちゃうし、手の施しようがなかったんです。まだバック・バンド的扱いになってたヤプーズが、本番前に、舞台監督たちがたくさんの風船を膨らませてるのを見て、純ちゃんには内緒だよ! と楽しそうに口止めしてたそうで、風船が降ってきてステージを埋め尽くすことを、間違いなくわたしが喜ぶ、とニコニコしてたという様子だったそうです。お客はその演出を喜んだにしても、ばっかじゃねーの! と思ったにしても、どっちに転んでも哀しくなりました。他にもたくさんたくさん、いまと違うところはありますよ!
あとは、わたしはいまヤンデレとかマジ基地とか言われることが多いのですが、昔より、ライヴ・パフォーマンス的にまともになったと思うのですけどねえ。歌うことを主体に精進していて、新しい曲はまだ少ないから、昔は興味深いと言われた曲が、いまは病んでると言われてしまったり。でも、大魔神のかっこしてーとかばっかり言われてたときより、いまのお客さんは、ちゃんと曲を聴いてくださってるみたいで、暖かみを感じますね。

不思議少女、というのは皮肉にもわたしの造語なんですよ。80年代前半に書いた本の中に出てきます。苦手な女の子のタイプとして。まさか自分が不思議少女とか不思議ちゃんとか言われるとは、思ってもみませんでした。

戸川さんが自分のことを「不思議ちゃん」ではなく「説明ちゃん」だというのは、自分や自分が考えていることをわかってもらいたいという気持ちから出ていると考えていいでしょうか。

戸川:わかってほしいと思うというより、わたしやわたしの歌の内容は本当にわかりやすいものだ、と思ってるんです。「不思議ちゃんではなく、むしろ説明ちゃんと言われたほうが、人はなるほどーと思う」というか。不思議なところは、ひとつもないんじゃないかな、という自覚から、わたしは自分のことを不思議ちゃんとはどうしても思えないもので。それでもわたしを不思議ちゃん、と呼ぶ人は、わたしとは「不思議ちゃん」の定義が違うのかもしれませんね。そういう人が言う不思議ちゃんて、どういう意味の類いなんだろう。わかりませんねえ。ただ、わたしにも定義するところがあって、自我が肥大してて、でも逆にそれを表に出さず、意味不明な言動で神秘的に見せてる女の子、って感じかなあ。とにかく関わりたくないタイプです。ちなみに、不思議少女、というのは皮肉にもわたしの造語なんですよ。80年代前半に書いた本の中に出てきます。苦手な女の子のタイプとして。まさか自分が不思議少女とか不思議ちゃんとか言われるとは、思ってもみませんでした。

(笑)今回、再レコーディングされた“ヴィールス”の歌詞は、「説明ちゃん」というよりまるで小説のようですが、これは自分を客体視した表現と考えていいでしょうか(「拒否感や嫌悪感を/ひとが私にいだいたとき/驚異的な感度で察知しそれをエネルギーに/吸収して増殖する/人忌み嫌うべき私に巣食うヴィールス」)。

戸川:書いた当時は客体視とは思ってなかったのですが、そういうフシはあるなあ、という感じだったし、わたしの歌詞は、自分にその要素がまるっきりないとどれも書けないので、少なくとも当時は、嫌だけど自分の中にもあった要素で書いたのだと思います。“ヴィールス”は、発表した当時、病んでいて苦しんでいた方々から、励まされた、というお手紙をずいぶんいろいろいただいて、わたしのほうがそれで励ましていただいたという思い出があります。そのお手紙の中のけっこうな数の方々が、“ヴィールス”のように境界例で苦しんでいる、と書いてて、病名があるのかあ、と思いました。

本当に必然性を持って、それがいちばん届く、と思って書いているんですよ。逆に、シュールに感性だけで書くことは、これまで、そしてこれからも、絶対ないです。

戸川さんの歌詞にはそれまで誰も使わなかったような単語がよく出てきますが、これは意識的にやったんでしょうか?

戸川:それでしか表現できない、という必然性を持って書いてると、そういう印象にとられる言葉になるのです。本当に、言葉を選んで、いちばん合う言葉を使っているのです。ペダンチックととられても、もういい、という覚悟でして。たとえば、“諦念プシガンガ”という曲の歌詞に「我一介の肉塊なり」というフレーズがありますが、これが「わたしはただの肉の塊よ」という言葉では、重い覚悟とか、そのいさぎよさとか、いろいろなことが表現できないのです。この歌詞はずっと、難しい言葉の歌詞、と言われてきて、でもいちばん難解なのはタイトルではないであろうか、と書かれたことがあります(笑)。
これも、諦めの念、じゃ長いから諦念、にしたにすぎませんし、プシガンガはアンデスの言葉で、お酒を飲んで歌い踊る、という意味で、わたしの中では、ほんとにただ、まっすぐに必然性を持って、というだけなのです。ちなみに、古語でも、自分でわかっていながら間違いのままの歌詞もあります。“蛹化の女”の、「木の根掘れば蝉の蛹の、いくつも出てきし」の最後は「いくつも出てきぬ」にしたかったのですがそれだと、たぶんいくつも出てこない、と、とるリスナーがいるのでは、と思い、あえて間違った言葉を使いました。“夏は来ぬ”(なつはきぬ)という唱歌をそんなにご存知な世代ではない方々が聴いてくださるのではと思いまして。あとは、字数の問題の場合も、たまにあります。ね? 本当に必然性を持って、それがいちばん届く、と思って書いているんですよ。逆に、シュールに感性だけで書くことは、これまで、そしてこれからも、絶対ないです。でも、そういう歌が歌いたいときは、人様に歌詞を書いてもらうよう、お願いすると思います。

最近だと“ライラック”は人が書いた歌詞でしたよね?

戸川:“ライラック”については、ほんとにラッキーでした! 人様に、書いてとお願いしたわけでなく、先方から歌うオファーが来て、デモもできていて、曲も歌詞も編曲も大好きになり、お引き受けしたのです。そこから、Vampilliaさんとのつながりができました。MVも大好きです。東京や大阪で、ゲストに何度か呼んでいただきました。“ライラック”は、元相対性理論の真部(脩一)さんが作詞作曲で、たぶん編曲もやられてたと思います。違ったらごめんなさい。というのも、ライヴでは スタジオ・レコーディングの「ライラック」や、他のわたしの持ち歌の編曲が、ぜんぜん違うものになり、10人くらいの人数のメンバーで、すごい爆音での生音の編曲にもなるもので。地獄のようだったり、天使のようだったり、というのは、わたしの歌うコーナーに限らず、楽屋のモニターやステージの袖で聴いているわたしの、いちリスナーとしての印象でもあるんですよ。わたしの歌うコーナーは、それに比べむしろメチャ、ポップに聴こえるんじゃないかな? それでも、Vampilliaさん色に塗り替えられてる感じです。すごくうれしいですね。全体的に若いのに、アレンジの力がすごくあるから、今後とも、お付き合いしたいバンドさんです。

“蛹化の女”の「ああ」と、“パンク蛹の女”の「あ~!!」かなあ。

最近、歌っているときに、発音するといちばん気持ちいい歌詞、もしくは単語はなんでしょう?

戸川:最近歌ってていちばん気持ちがいい、というより、感情がいちばん乗っかってるんじゃないかな、と思うのは、“蛹化の女”の「ああ」と、“パンク蛹の女”の「あ~!!」かなあ。前者は、言葉では伝えきれないので むしろ 「ああ」のほうがいさぎよいのかな? 後者は、もうほんとに、自分の中の、感情の渦巻いてるいちばんのところだからかな。両方とも、歌詞ではないのがお恥ずかしいですが(笑)。
あとは、蜷川さんのこともあって、“諦念プシガンガ”が、自分の中で新鮮ですね、こんなに歌ってきてるのに。まあ、曲は生き物ですからね。

最後にタイトルの文字はどうして戸川さんが書くことになったのですか?

戸川:タイトルの文字は、普通に、書いてください、みたいに言われて、非常階段さんとコラボした人はけっこう書く人がいると聞かされてたので、疑問も持たずスンナリ書きました。戸川が草書で、階段が楷書みたいで、邪道ですが!(笑)

リリース情報

非常階段×戸川純『戸川階段ライヴ!』
7月20日発売(テイチク)

*1月にリリースされたスタジオ・アルバム『戸川階段』がフランスでカラー・ヴァイナルでもリリースされることに!

Tower HMV Amazon

ライヴ情報
10/5 札幌KRAPS HALL(ワンマン)
10/14 新宿ロフト(ワンマン)
10/21 福岡BeatStation(ワンマン)
10/27 渋谷 TSUTAYA O-EAST(イベントのゲスト)
11/16 大阪AKASO(ワンマン)

yahyel(ヤイエル)を聴いたか? - ele-king

窓の外まで何かが来ている。
風景を歪め、一変させるような何かが──。


yahyel - Once
ビート

iTunes Apple Music

 ジェイムス・ブレイクを方法的に消化しながら、持ち味ともいえるブルージーな節回しで“日本人離れ”したヴォーカル・スタイルを聴かせるこの強烈な個性は、ぜひポップ・フィールドでこそ鳴り響いてほしい。よくも悪くも天然鎖国状態の国内ポップ・シーンだが、まあそれはそれでいいじゃないかと思いかけていたアタマに、彼らは、しかしポップのスタンダードもまたけっしてここにあるわけでないということを思い出させる。ヤイエル(yahyel)の音楽はわたしたちを我に返らせる。

 ベース・ミュージックやR&Bのワールド・スタンダードとして自然に鳴っているヤイエルは、だから、世界進出したJポップでもなければヨウガクでもなく、そういうストレスフルな国境性を感じさせないところから聴こえてくる力強いオルタナティヴだ。しかも音がいい。欧州ツアーが好評だったようだが、国内のテレビなどで普通に流れたときに空気は一変するだろう。今週末に迫った〈フジロック〉にも出演予定だ。

 それでは最新MVの情報を。この“Once”のマスタリングは、ジェイムス・ブレイクはじめ、エイフェックス・ツインにアルカにブラッド・オレンジにFKAツイッグスなど、まさにオルタナにしてスタンダードな第一級の前線アーティストたちを手掛けるマット・コルトンが担当している。



BADBADNOTGOOD - ele-king

 デビューしてから自主制作のフリー・ダウンロードでアルバムを出していた2011年から12年頃、バッドバッドナットグッドは良くも悪くもヒップホップをジャズでインスト・カヴァーするバンドという印象が強く、それは彼らの音楽性を限定していたように思う。オッド・フューチャー、MFドゥーム、Jディラ、ナズ、ATCQ、カニエ・ウェストなどいろいろカヴァーし、またヒップホップ以外でもジェイムズ・ブレイク、ファイスト、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどの楽曲を取り上げていた。それによって大きな注目を集めるようになったのは事実だし、ジャズを聴かないような若年層のファンも獲得した(ジャズ・ファンよりも、むしろヒップホップやロック・ファンの間での認知が高かった)。ただ、演奏自体はわりと同じアプローチのものが多く(悪く言えば一本調子)、あくまでネタのチョイスと、それとジャズとの取り合わせの意外性で勝負している感じが強かった。ライヴ自体も粗削りで、若いパワーとパンキッシュな初期衝動でとにかくデカい音を出す、そんな感じのバンドだった。

 ところが、〈イノヴェイティヴ・レイジャー〉と契約し、アルバムに向けた楽曲制作を意識するようになった2014年頃から、彼らの演奏や作風にも変化が表われる。まず、作曲そのものを意識するようになり、それによっていままでは即興的なアプローチによるジャム・セッションが多かった彼らの演奏に、コンポジションに基づいて構築する面が現れていった。また、あくまでピアノ・トリオである3人がメインで、サックスやギターがほんの一部でサポートする程度だった演奏が、より多くの楽器をフィーチャーして膨らみを増していった。実際に2014年リリースの『III』では、サックス奏者のレランド・ホイッティが第4のメンバー的な扱いとなり、彼はテナー・サックス、バリトン・サックス、バス・クラリネットのほか、ヴァイオリンも演奏している。ほかにもトランペット、チェロなどがフィーチャーされたこのアルバムは、全てオリジナル曲で構成されていた。管楽器や弦楽器が入ることにより、それらのアレンジが作曲面にも作用し、より空間を意識した繊細で叙情的な作品が増えていった。もともと演奏能力は高かったが、それを生かすコンポジションを得ることによって、彼らの本当の魅力が開花していった。ある意味で、本当のジャズ・バンドっぽく洗練されていったのだ(それまでは、どちらかと言えばヒップホップ・バンドがジャズをやっているようなイメージだった)。

 そして、通算4枚目のアルバム『IV』では、レランド・ホイッティ(サックス、クラリネット、フルート、ヴァイブ、ギター、シンセ)が正式メンバーとなり、マシュー・タヴァレス(ピアノ、エレピ、シンセ、ベース)、チェスター・ハンセン(ベース、ピアノ、エレピ、オルガン)、アレックス・ソウィンスキー(ドラムス、パーカッション、ヴァイブ)の4人へとBBNGは改まった。彼らは『IV』の前にゴーストフェイス・キラーとの共作『サワー・ソウル』(2015年)を制作しているのだが、そこではゴーストフェイス・キラーはじめいろいろなラッパーたちと共演し、インスト・バンドからの脱皮も図っていた。その成果は『IV』にも表われ、ミック・ジェンキンス、サム・ヘリング、シャーロット・デイ・ウィルソンの歌やMCをフィーチャーした作品が収められる。同じカナダのケイトラナダがパーカッションとシンセ演奏でコラボした“ラヴェンダー”もあり、“コンフェッションズ・パート2”ではアーケイド・ファイアやボン・イヴェールの作品やツアー参加で知られるコリン・ステットソンがバリトン・サックスで参加している。

 楽曲は多重録音したものが多く、たとえば“アンド・ザット、トゥー”でリランドはテナー・サックス、ソプラノ・サックス、フルート、クラリネット、バス・クラリネット、ヴァイブ、シンセを演奏する。この楽曲は彼のブラス・アンサンブルがもたらす重厚で荘重な雰囲気が鍵となっており、その編曲はギル・エヴァンスやジョージ・ラッセルの作品のように複雑な表情を与えている。“スピーキング・ジェントリー”も個々の演奏というより作曲や編曲が興味深く、かつてのデヴィッド・アクセルロッドを想起させるようだ。“ストラクチャー・ナンバー4”や“チョンピーズ・パラダイス”もそうだが、一種のライブラリー・サウンドやサントラ的な味わいもあり、彼らがいかに「ムード」を大切にしているかがわかる。“IV”はアップ・テンポのジャズ・ロック系作品で、この手のサウンドが熱かった70年代初期の空気感を孕んでいる。疾走するリズムが途中でスロー・ダウンするなど動と静の切り替えが鮮やかだ。こうした音は昔のレコードなどを聴かない限り体得できないものなので、恐らく彼らもいろいろと聴いて研究しているのだろう。“カシミア”は70年代でいくと、スティーヴ・キューンのブッダ盤や、アルチュール・ヴェロカイのアルバムに通じるところを感じさせる。ジェイムスズーは彼らのこのアルバムからインスピレーションを受け、『フール』に2人をゲストとして招いた。ほかにもフローティング・ポインツなど、キューンやヴェロカイの影響を受けたアーティストはクラブ・シーンには多いが、BBNGについてもそれは言えるのだろう。

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