「Nothing」と一致するもの

Filastine & Nova - ele-king

 いまエレクトロニック/クラブ・ミュージックはどんどんワールド・ミュージックと交錯していっている。とはいえ、一言で「ワールド・ミュージック」といってもそのあり方はじつに多岐にわたる。その多様性や複雑さを損なうことなく新たな形で示してくれるアクトのひとつが、世界各地の音楽を実験精神をもって表現しているデュオ、フィラスティン&ノヴァだ。バルセロナを拠点としているフィラスティンとインドネシア出身のノヴァから成るこのユニット、詳しくは下記のバイオを読んでいただきたいが、なかなかに尖っている(ちなみにフィラスティンは先日亡くなったECDこんな曲を共作してもいる)。そんな彼らの久しぶりの日本ツアーが開催されるとのことで、これは足を運ばずにはいられない。東京公演には KILLER-BONG や ZVIZMO(伊東篤宏×テンテンコ)らも出演。要チェック。

越境するマルチメディア・デュオ、FILASTINE & NOVAのジャパン・ツアー決定!
東京公演は2/11(sun)に代官山のSALOONにて開催!

 2月にバルセロナを拠点とする作曲家/映像作家フィラスティンと、インドネシア出身のネオ・ソウル・ヴォーカリスト、ノヴァ・ルスによるデュオが来日、ジャパン・ツアーを敢行する。「都市の未来を崩壊させるようなベース・ミュージック(Spin)」、「ワールド・ミュージックというよりも、もう一つの世界から来た音楽(Pitchfork)」と評される、映像、音楽、デザイン、ダンスを駆使したダイナミックなライヴ・パフォーマンスは必見だ。

FILASTINE & NOVA
Drapetomania Japan Tour 2018

2/6 福岡 art space tetra
2/7 尾道 浄泉寺
2/8 名古屋 K.D Japon
2/9 京都 octave
2/11 東京 SALOON
2/12 札幌 第2三谷ビル6F 特設会場

 2/11(sun)に代官山のSALOONにて開催される東京公演では、“最も黒い男” KILLER-BONG、アヴァン・エレポップ/ストレンジ・テクノイズを響かせる ZVIZMO(伊東篤宏×テンテンコ)がライヴを披露、また、オリジナルなワールド・ミュージック/伝統伝承の発掘活動も展開する Shhhhh、空族の映画『バンコクナイツ』への参加でも知られる Soi48、ヒップホップやアンビエントを行き来しながら活動を展開する YAMAAN といった独創的なDJたちがスペシャルなプレイをくり広げる。VJとして rokapenis の参加も決定している。世界各地域の音楽、文化を実験精神をもって独自に表現する面々によるクレイジーでダンサンブルな一夜になるだろう。

FILASTINE & NOVA
Drapetomania Japan Tour 2018 in Tokyo

2018.02.11 (sun)
@代官山 SALOON
Open/Start 18:00
Adv 2500yen(1D付き)/ Door 3000yen(1D付き)

| Live |
FILASTINE & NOVA
KILLER-BONG
ZVIZMO

| DJ |
Shhhhh
Soi48
YAMAAN

| VJ |
rokapenis

| Ticket |
前売りチケット取扱い店
・IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
・disk union
└ 渋谷クラブミュージックショップ
└ 下北沢クラブミュージックショップ
└ 新宿クラブミュージックショップ
└ 新宿ラテン・ブラジル館
└ 吉祥寺店
└ 池袋店

・予約 filastine.tokyo2018@gmail.com

| Info |
IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
https://ira.tokyo/filastine-nova-tokyo/ | 03-3352-6916


【PROFILE】

●FILASTINE & NOVA

バルセロナを拠点とする作曲家/映像作家フィラスティンと、インドネシア出身のネオ・ソウル・ヴォーカリスト、ノヴァ・ルスによるデュオ。ブラジルのカーニバルのバトゥカーダやモロッコの神秘主義者たちとの関わりから打楽器を学び、ラディカル・マーチングバンド The Infernal Noise Brigade を率いたフィラスティンと、幼い頃からペンテコステ派の霊歌やコーランを歌い、ガムラン・パーカッションを演奏し、インドネシアのヒップホップ・シーン草創期にラッパーとしても活躍したノヴァが生み出す音楽は、まさに「ワールド・ミュージックというよりも、もう一つの世界から来た音楽(Pitchfork)」である。世界各地の音楽フェスティバルに出演する以外にも、ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の公式ミックステープ制作や、フランス・カレーの巨大難民キャンプ「ジャングル」でのライヴ、掃除婦や鉱夫などの底辺の労働者がダンスによって解放される映像シリーズの制作など、音楽を通して「もう一つの世界」の実現を目指すラディカルな表現活動を続けている。2017年に最新アルバム『Drapetomania』を発表した。
https://soundcloud.com/filastine

●KILLER-BONG

〈BLACK SMOKER RECORDS〉主宰、最も黒い男。

●ZVIZMO

蛍光灯音具 OPTRON (オプトロン) プレイヤーの伊東篤宏と、アンダーグラウンド⇔メジャーを縦横無尽に行き来する テンテンコ によるデュオ・ユニット。テンテンコの聴き易いが意外に重たいエレクトロ・ビートと伊東のフリーキーだが意外とキャッチーな OPTRON が作り出すその音世界は「奇天烈だが何故かフレンドリー」な響きに満ちている。2017年11月に〈BLACK SMOKER RECORDS〉より1st アルバムをリリースした。

●Shhhhh(El Folclore Paradox)

DJ/東京出身。オリジナルなワールド・ミュージック/伝統伝承の発掘活動。フロアでは民族音楽から最新の電子音楽全般を操るフリースタイル・グルーヴを発明。13年に発表したオフィシャルミックスCD、『EL FOLCLORE PARADOX』のコンセプトを発展させた同名レーベルを2017年から始動し、南米から Nicola Cruz、DJ Spaniol らを招聘。アート/パーティ・コレクティヴ、Voodoohop のコンピレーションLPのリリースなど。dublab.jp のレギュラーや、オトナとコドモのニュー・サマー・キャンプ“NU VILLAGE”のオーガナイズ・チーム。ライナーノーツ、ディスク・レヴューなど執筆活動やジャンルを跨いだ海外アーティストとの共演や招聘活動のサポート。全国各地のカルト野外パーティー/奇祭からフェス。はたまた町の酒場で幅広く活動中。
https://soundcloud.com/shhhhhsunhouse
https://twitter.com/shhhhhsunhouse
https://www.facebook.com/kanekosunhouse

●Soi48(KEIICHI UTSUKI & SHINSUKE TAKAGI)

旅行先で出会ったレコード、カセット、CD、VCD、USBなどフォーマットを問わないスタイルで音楽発掘し、再発する2人組DJユニット。空族の新作映画『バンコクナイツ』にDJとして参加、〈EM Records〉タイ作品の監修、『爆音映画祭タイ・イサーン特集』主催。フジロックや海外でのDJツアー、トークショーやラジオなどでタイ音楽や旅の魅力を伝えている。その活動の様子はNHKのTV番組にも取り上げられ大きな話題となった。CDジャーナル、boidマガジンにて連載中。英Wire Magazineにも紹介された、『Soi48』というパーティーを新宿歌舞伎町にて不定期開催中。Brian Shimkovitz (AWESOME TAPES FROM AFRICA)、Zack Bar (FORTUNA RECORDS) からモーラム歌手アンカナーン・クンチャイ、弓神楽ただ一人の後継者、田中律子宮司など個性的なゲストを招いてのパーティーは大きな反響を呼んでいる。タイ音楽と旅についての書籍『TRIP TO ISAN: 旅するタイ・イサーン音楽ディスクガイド』好評発売中。
https://soi48.blogspot.jp/
https://www.instagram.com/soi48/

●YAMAAN

HIPHOPやAMBIENTを行き来しながら活動中。2017年2月に“NN EP”をリリースした。
@Mirage______

Ambient Jazz Ensemble - ele-king

 ジャズとアンビエントの結びつきを見ると、1950年代や1960年代のマーティン・デニー、アーサー・ライマン、レス・バクスターといったエキゾティック・サウンド、ジャン・ジャック・ペレイ、ガーション・キングスレイ、モート・ガーソンといった電子音楽にまで遡る。アンビエントは流動性のある概念なので、ジャズ系でもアリス・コルトレーン、ビル・プラマー、デヴィッド・アクセルロッドなど、さまざまなアーティストの中にその要素を見出すことができる。そして、アメリカよりもヨーロッパで発展する傾向が見られるが、それはクラシックやミュジーク・コンクレートとの結びつきが強いヨーロッパのジャズならではだろう。当然、ジャズ・ロック、プログレ、クラウト・ロックなどもそこに絡み、エレクトロニック・サウンドの発展と同調してニール・アードレイ、ラルフ・ルンドステンなど幅広いタイプのアーティストが登場する。ドイツの〈ECM〉は、こうしたアンビエント性の高いジャズを多く発信してきたレーベルでもある。クラブ・ジャズ以降を見てみると、やはりイギリス勢が強い。そもそもマイク・ウェストブルックやニール・アードレイなどのジャズ・オーケストラの歴史があり、ジョン・テイラーやノーマ・ウィンストンなどアンビエント性の高いアーティストを輩出してきたので、そうした伝統がクラブ世代のアーティストにも受け継がれてきた部分がある。そこへトリップ・ホップはじめ英国ならではの先鋭的なエレクトロニック・サウンドの要素が加わり、シネマティック・オーケストラやクリス・ボウデン、ヘリテッジ・オーケストラ、ヒドゥン・オーケストラなどが登場する。その多くがオーケストラ編成、もしくはそれに類する形態のプロジェクトというのが特徴で、ジャズに多いインター・セッションや即興演奏よりも、理論的かつ構築的な作曲技法をもとにしている。近年登場したアーティストでは、アンビエント・ジャズ・アンサンブルがこうしたアンビエントな英国ジャズ・オーケストラの系譜に属する。

 アンビエント・ジャズ・アンサンブルは英国ミッドランド生まれのベーシスト兼マルチ・ミュージシャン、コリン・バルドリーを中心とするスタジオ・プロジェクトである。バルドリーはオックスフォード近郊で長らくスタジオ・ミュージシャン/コンポーザー/プロデューサーとして活動し、ライブラリーや映画音楽の仕事もいろいろ行っている。そこにピアニストのニール・カウリー、サックス&フルート奏者のフィン・ピーターズが加わって、2013年にアンビエント・ジャズ・アンサンブルが誕生した。カウリーはブラン・ニュー・ヘヴィーズやゼロ7、ピーターズはマシュー・ハーバート・ビッグ・バンドや2バンクス・オブ・4などで演奏してきたほか、それぞれリーダー・アルバムも発表している。この3人のほか、ドラマーのベン・レイノルズ、ベーシストのクリス・ヒルなどを交え、2014年にファースト・アルバムの『スイート・ショップ』をリリース。このアルバムは映画『フィフス』のサントラとして作られたものでもあり、長らく映画音楽の仕事をしてきたバルドリーの作曲技法が生かされている。アンビエントやエレクトロニカな要素を持ち込んだ英国ジャズ・バンドには、近年でもゴーゴー・ペンギンポルティコ・カルテットなどいくつかあるが、3、4人などミニマムな編成のそれらに比べ、アンビエント・ジャズ・アンサンブルはホーン・アンサンブルやストリングスを交えた大掛かりな編成により(もしくはスタジオ・ワークでそれに準じる演奏を作り出している)、ダイナミックでスケールの大きなサウンドスケープを生み出している点が特徴だ。エレクトロニクスも用いているが、あくまでアコースティックな楽器群のアンサンブルを補助するもので、そうしてでき上がった作品はシネマティック・オーケストラあたりに近いだろう。

 その後、2015年の『スイート・ショップ』のリミックス集を挟み、3年ぶりのニュー・アルバム『AJE』が完成した。今回はニール・カウリーの代わりに、ジャズ・ロック・トリオのトロイカなどで活動するキット・ダウンズがピアノ/キーボードを担当するが、全体的にアンサンブルを拡大してクラリネットやパーカッションなど楽器が増え、本格的なストリングス・アンサンブルのほか、ヴォーカリストとしてドナ・ガーディアーも加わっている。アシッド・ジャズ時代にはロウ・スタイラスでも歌ったベテラン女性シンガーだ。内容としては『スイート・ショップ』を発展させ、それぞれミュージシャンの演奏やアンサンブルがより濃密なものとなる一方、そのスケール・アップした演奏に沿うべく、作曲面でもさらに緻密さや洗練度に磨きが掛かっている。そして、自らが歌として前面に出ることはなく、あくまで楽器の一部として機能するヴォーカル&コーラスが、作品に彩りや生命力を与えている。ブレイクビーツと美しいピアノのアンサンブルが印象的な“ブレス・イット・イン”でのコーラスは、どこか民族音楽的な風合いを感じさせるものだ。それに対し、“エングレイヴド”でのコーラスはゴスペル的なスピリチュアルなものを感じさせる。“アグファカラー”の導入部は、ブラインアン・イーノとジョン・ハッセルがやっていたようなアンビエント・ミュージック的なもので、そこから次第にアンビエント・ジャズ・アンサンブルらしいオーケストラル・ジャズへと展開していく。“フェルト”と“マイ・ファイナル・シーン”はネオ・クラシカルな曲想で、特に前者においては静と動の切り替えが鮮やかである。重厚なモーダル・ジャズの“イレヴン・デイズ”やバレアリックなムードの“サマー・スリップス・アウェイ”は、英国らしいダークでメランコリックな色彩を帯びている。哀愁のメロディを奏でつつ、次第に疾走感を帯びていくジャズ・ロックの“ザ・シークレット”には、ファースト・アルバムからさらに向上した作曲のスキルが反映されている。クラブ・ジャズの観点では、全盛期の4ヒーローを思わせるフューチャリスティックな趣の“シー・ザ・スカイ”が素晴らしい。そして、ギター、ソプラノ・サックス、オーケストレーションの見事なアンサンブルが飛翔感を放つ“ワン・オブ・ザ・ベスト・デイズ”。なお、アルバム・ジャケットはマリオン・ブラウンの『ヴィスタ』(1975年)を彷彿とさせるものだが、このアルバムもハロルド・バッドの作品を演奏していた。ブラウンはパリ時代にエリック・サティの作曲技法の影響を受けており、そうした点でジャズとアンビエントを結びつけた先駆者でもあったのだ。

6 ムードとモード - ele-king

 「ある雨上がりの夜。霧さえ出ていないものの、道路のミラーや駐まっている車のフロントガラスは、白く水蒸気の寄り場となり、映るすべてのものを抽象化して、妖気を与えている。街灯の光は月のように、自分の姿は知らない他人のように。幻覚のようなそこに映るものは、いつか見たことがあるような気がするというよりは、これから出会うかもしれないという妙な不安を誘うものである。そこで、はっと気づいた。いつか見たことがあるようなものと、これから出会う予感のするものに些かの違いがあるのだろうか」
 これは 2014 年くらいのメモにあったもので、僕は以前そんなムードの切れ端をメモしておこうという気を起こして『グッド・ナイト』の歌詞を書いた。さて、ドラムにもこのような郷愁を持ち込んでいいものかどうか。

 今は、このようなムードは一旦去った。ただ、モードが帰ってきている。モードは「~モード」とかよく一般的に言われているものと同義で差し支えない。ムードはある時期にしか属してくれず、すぐどこかへ行ってしまうけど、モードこそ気持ちでどうにかできるものでもないと気がついた。ただ、モードさえ帰ってくればムードは思い返すことならできるかもしれない。そういった点、僕は今図らずも「森は生きている」のよきリスナーになっているのかもしれない。当時ムードをドラムにまで持ち込みたかったどうかは覚えていないが、所謂きちんとしたドラマーの仕事をするというよりは、パーカッションからの影響を8ビートに還元することに執念を燃やしたり、ライヴではロイ・ブルックスやスティーブ・リードのように少し喋り過ぎていたようだ。
 そんな「森は生きている」のいつかのライヴのあとにgonnoさんと口約束したプロジェクトが約3年越しに実行する。(https://diskunion.net/latin/ct/detail/1007589182)僕は、周りをぐっと昇華させるようなレヴォン・ヘルムやナナ・ヴァスコンセロスに憧れる反面、喋り過ぎる(喋ることができる)ドラムを叩くロイ・ブルックスやスティーヴ・リードにずっと憧れていた。gonnoさんの音楽はどこか懐かしく柔らかい。それなのに強度もある。僕が喋り過ぎたくらい包み込んでくれる懐の深さがきっとある。というか、今回はあまり作戦立てをし過ぎず、お互いの処女の会話を作品にしたいと思っている。作戦立ては今後いくらでもできるし。だから、ムードをドラムに持ち込むモード全開だ。

 もう一つ新しいバンドのプロジェクトは歌を生かさなければならない。シンガーソングライター特有の曲の間にできる真空のようなものを共有しなければならない。これが絶妙で、一からドラムをやり直さなければならない練習モードにさせられている。最近、作詞の依頼から資料集めの一環で尾崎亜美などを聴いていたのだが、言葉のことより林立夫氏のドラムに驚いた。『大滝詠一』『HOSONO HOUSE』のドラミングはすごく聴いてきて、やはり一種のなつかしさがあって(駒沢氏のペダル・スティールが助長している節も大きい)、それなりにコピーにも取り組んできたのだが、それ以降のドラミングはなつかしさが多少去って、それでもかっこよさは残りながら、上手さと凄みを湛えている。はっきり言って勝手に凹んだ。でも、ちょうどいい。大分に一人でいるのも申し訳ない気持ちになることがいつも山に叩きに行かせるので、練習モードは歓迎だ。そして、最近話題の大貫妙子『SUNSHOWER』におけるクリス・パーカーや、ジェイムス・テイラーにおけるリーランド・スカラーと組んだ時のラス・カンケルのドラミングに改めて驚嘆した。”Nobody But You”の間奏明け1:52~1:56までスネアを抜いたプレイは圧巻。そしてスネア一発帰って来たときのなつかしさは言葉にできない。スティービー・ワンダー”bird of beauty”におけるボビー・ホールのドラミングも思い出した。なんだか急に色々思い出してきた。

 2月になったらすぐ東京へ行って2週間ほど滞在しながら、このどちらもを一気に進めます。岡田とのプロジェクトも並行して行います。あと一週間はスウェディッシュ・トーチの力を借りて、寒さに負けず山へ。


サバール練習会

R.I.P. ECD - ele-king

ECDさんといつまでも(Together forever)

矢野利裕

 ECDさんが亡くなってしまったことが、とても悲しく、つらいです。

 ele-kingのかたより「ECDさんの追悼文を書きませんか」と連絡をいただきました。わざわざ人前で追悼文を発表することに抵抗感があるし、「オレなんかが」という気持ちもあります。しかし、そういう局面において、いつでも覚悟を持って言葉を発することを選び続けることが、ECDさんをはじめとする日本語ラップの格闘だったはずで、僕自身、この20年、日本語ラップのそういうアティテュードにおおいに勇気づけられてきたので、自分なりにECDさんについて書かせてもらいます。

 紋切の言いかたですが、20年まえ、14歳のときに『BIG YOUTH』という作品でECDを知ったことからこそ現在の僕がいます。本気でそう思っています。具体的に言うと、地に足をつけた労働者であるとともに、表現者であるということ。僕はいま、自分なりのヒップホップ観の延長で、中高一貫校の教員という仕事をしています(ようするに、KRS ONE的「TEACHA」による「Edu-tainment」を目指している、ということです)。幸いなことに、それなりにまともな給料をもらっています。ただ、よく言われるように、教員というのはなかなか休みに恵まれません。運動部の顧問ということもあり、土日の休みもままならず、肉体労働の側面も強いと感じます。疲労とストレスがたまって、肉体的・精神的に弱ってくるたびに「いっそ文章を書くことに専念したい」と思います。でも、辞めない。なぜか。でも、お金の問題は関係ない。仕事を続けるのは、労働をしながら表現をすることが誠実でかっこいいことだ、と思っているからです。労働者であることと表現者であることが深く結びついていること。生活が表現を生むこと。その表現が生活に戻ってくること。そういう生きかたを強烈に体現した人が、ECDさんでした。「21世紀のECD」以降を生きる僕にとって、「好きなことをして食べる」という一途な生きかたは、それほど魅力的には映っていないのです。

 『BIG YOUTH』を初めて聴いたとき、ヒップホップというものに触れること自体がほとんど初めてだったから、めくるめくサウンドとラップに本当に衝撃を受けました。ああ、こんなにもスリルと喜びに満ちた音楽があるのか! すぐに心を奪われました。『BIG YOUTH』は、自分が音楽にのめり込むきっかけの大きなひとつで、例えば、マーヴィン・ゲイを聴くようになったのは、「ECDのロンリー・ガール feat. K DUB SHINE」で下敷きにされていたからでした。その他、ミュート・ビートにしてもデ・スーナーズにしても、「ECDが使ったから」が根拠になって、自分の音楽の世界は広がりました。『BIG YOUTH』の冒頭、クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュ、ラキム、KRS ONEの名前が出てくるのですが、無知な自分としては、それらがなにを意味しているのかまったくわからない。人の名前だったと知るまで、まるで呪文のように頭にこびりついていました。あるいは、「復活祭」においてシャウトアウトされるポール・Cや江戸アケミの名前。こちらは、人名だとは分かったけど、いくらヒップホップの棚を見ても、ポール・CのCDなどないし(エンジニアだから当然だ)、江戸アケミという人も見つからない。だから、さらに調べて探す(遅いぞ、追いついて来い)。僕にとって1998年とは、ECDさんに導かれるように、次々と新しい音楽に出会う幸福な時期でした(この点においては、実はもうひとり、同時期のDEV LEARGEという存在もすごく大きかったです。ECDさんもDEV LEARGEさんも亡くなってしまい、僕の音楽的原風景が無くなってしまった気持ちです)。

 ECDさんはその後、ヒップホップ自体から距離を取るようになりました。「ヒップホップでなければ何でもいい」という態度で制作された『MELTING POT』をはじめ、この時期の作品(ka『MELTING POT』『THRILL OF IT ALL』『SEASON OFF』)は、アルコール中毒に悩んでいた時期ということもあるのか、いびつな印象もありますが、そのぶん、ECDさんが切り拓く新しい領域に食らいついて行こうと、熱心に聴き込んだことを覚えています。だから、いずれも大好きな作品です。avexを辞め、ECDさんが本格的に働き始めるのもこの時期で、個人的には、このあたりからECDさんがまた違うフェーズに入ったと思っています。自主盤として『失点 in the park』『ECDVD』『Private Control』シリーズなどが、安価で発売されました。『失点 in the park』のジャケットは、「反戦」「スペクタクル社会」と書かれた公衆トイレの写真です。この公衆トイレがあるわかば公園は、まさにECDさんを聴き始めた中学生時代、友人たちとのたまり場になっていたところだったので、驚きました。この頃から、音楽以上にECDさんの生きかたや態度について、深く受け止めるようになった記憶があります。正確に言えば、ECDさんの音楽に向き合うことがそのままECDさんの生活や考えに向き合うことを意味した、という感じでしょうか。例えば、アルバム『失点 in the park』はたしか、定価が1500円でした。レコード会社を通して高くするより自主盤で安く届けたほうがいい、というECDさんの信念の反映です。あるいは、サウンドデモの不当逮捕に対して作られた「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」という曲は、著作権とは関係のないところで朱里エイコの曲をそのまま使い、即日ウェブにアップされました。政治的なリリックだから政治的なのだということではなく、音楽にともなうECDさんの振る舞いすべてが、政治的なアティテュードとしてありました。僕自身、社会問題や政治思想を自分の問題として考えるようになったのは、明確にこの時期、ECDさんがきっかけでした。僕が刺激を受け、惹かれていたのは、労働も生活も表現もすべて飲み込んで、全身で社会と対峙しているECDさんのありかたでした。意欲的であり続けるECDさんの新作を聴くたび、生活人としての自分の中途半端さに恥じ入るような気持ちとともに、またエネルギーが湧いてくるのでした(遅いぞ、追いついてない)。

 日々、仕事して給料をもらう。充実してもいるが、ときには疲弊もする。そんなときは、愛すべき音楽を聴いて、明日へのエネルギーとする。日々の労働のなかで感じたことや考えたことを、言葉にして文章を書く。生活のなかから言葉を練り上げる。その言葉をまた生活のほうに戻す。僕の暮らしは、だいたいこんなものです。でも、このなかに、話したこともないECDさんから受け取ったものがどれほどあることか。もちろん僕は、教員になるような退屈な男で、ECDさんのようなラディカルさやアナーキーさはありません。個別には、意見の違いもあるでしょう。とは言え、個人的な思いとしては、いま、この文章を書いている、明日、また仕事に行く、その行動ひとつひとつのなかに、ECDさんの存在が入り込んでいるように感じます。もしECDさんがいなかったら、いまの僕はばらばらにほどけてしまいそうです。その意味で、多くのファンと同じように、自分にとっていちばん大事なミュージシャンでした。とても悲しく、つらいです。

 昨年、ECDさんの自伝的エッセイ『他人の始まり 因果の終わり』が出ました。家族をめぐるこの作品は、パンクスとして「個」になったECDさんが、その地点から、ヒップホップによって新しい「つながり」(POSSE)を築く物語だと思いました。大学院生のとき、アルバイトさきの中古レコード店が素人の乱の近くでした。夕方になると、近所のバンドマンから冷えた味噌汁の差し入れがあるなど、オルタナティヴな「つながり」を肌で感じていました。素人の乱店主のひとり、松本哉さんがおこなった「高円寺一揆」にECDさんが来るかもしれない、ということを、僕がECDファンであることを知っている、インテリパンクさんという年上の友人に教えてもらいました。当日、フィラスティンのDJ中にふらりと現れたECDさんは、アカペラで「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」を披露しました。高円寺駅前に出現した一時的自律ゾーンで大好きな「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」がラップされる、というスリリングな状況に、僕はずいぶん興奮し、いちばんまえで、ECDさんに合わせて、ずっと大声でラップをしていました。このときのことについては、ECDさんの『いるべき場所』という音楽的自伝の最後に書かれています。

 しばらくして、司会らしきひとのリクエストで僕はアカペラで「言うこと~」をやることになった。最近のライヴではレパートリーから外れていた「言うこと~」は歌詞がうろ覚えで誤魔化し誤魔化しのラップだったが、ひとびとのレスポンスがそれを補って余りあるものだった。コール&レスポンスがあんなに自然発生的に盛り上ったのは自分のライブでは初めてのことだった。

 いまでも思い出すのは、このとき、ECDさんが「わかっちゃいるけど路上解放区」という一節が出てこなくて、大声で歌っていた僕の声だけが一瞬、鳴り響いてしまったこと。僕のなかでは気恥ずかしい思い出として残っていたのですが、のちの『いるべき場所』によれば、ECDさんはその場面を「ひとびとのレスポンス」として捉えていました。ECDさんが書いている場面と僕が思い出している場面が同じという保証もないのですが、『いるべき場所』を読んだとき、自分がECDさんの「音楽的自伝」のなかに参加したようで勝手に嬉しくなりました。なかば妄想として自分に言い聞かせるように書きますが、単にテンションが上がっているだけの僕の声が、目のまえのECDさんにとって、ほんの少しだけでも力になったのなら、それはなんと喜ばしいことでしょう。涙が出そうです。もっとも、僕がECDさんから受け取ったエネルギーに比べたら、ほんの微々たるものですが。まったくの「他人」である僕は、「他人」であるからこその仕方でECDさんとともに歩ませてもらった、という気持ちがあります。ここには書ききれませんが、アルバムから12インチから、本当に全作品がそれぞれに素晴らしいです。そのようなECDさんの表現に触れることは、僕にとって生きることの一部でした。これは、ECDさんの言う「つながり」(POSSE)と言えるでしょうか。言いたい気持ちはあるけど、わかりません。ECDさんの死後も、そのような「つながり」(POSSE)の感覚は維持されるでしょうか。ECDさんといつまでも。

 労働と生活と表現のすべてを飲み込んで、最後まで全身でこの社会を生ききったECDさんが亡くなってしまいました。ECDさんのファンである僕も、ECDさんのように、働き、生活をし、表現をし、全身で生ききりたいという気持ちがあります。でも。でも、ECDさんが亡くなった以降にそれを実践するのは、とても厳しいよ! ああ、悲しいよ! 体がばらばらになって、ふとしたとき、自分が自分でなくなってしまうようだ! だって、いまの仕事をしていることも、それを続けていることも、その合間にこうやって文章を書いていることも、その出発点にはECDがいるじゃないか! あの、まっすぐに社会と対峙し、そこから唯一無二の表現を練り上げるECDの姿が! ECDがいたから! 本当にありがとうございました! 本当に本当にありがとうございました! これからがんばってみます! どうか、安らかに。


追悼ECD

野田努

 ぼくが石田さんの曲でいまでも強く印象に残っているのは、“言うこと聴くよな奴らじゃないぞ”だ。2003年の対イラク戦争への反戦集会で、石田さんは1枚100円でこの曲のCDRを手売りしていた。その曲はデモ隊への励ましの曲だった。2年前のSEALDs主宰の国会議事堂前の抗議集会のときに、酸欠か何かでひとりの女性が倒れたことがあった。数人の男性がその女性を救護していたのだが、そのひとりが石田さんだった。あ、ECDがいる、と遠目に見ながら思った。石田さんはずっと変わらずに、仕事をしながら音楽活動を続け、ある時期からご家族を支えようと奮闘し、現場での献身的な(反戦、反原発、反差別などの)抗議活動も続けていた。そんなアーティストがこの世から消えたのだ。覚悟していたこととはいえ、あらためてその喪失感を感じている。とても悲しい。24日朝方の悲報に日本中のファンが大きな悲しを覚えたことと思う。
 ぼくが初めてお会いしたのは『Big Youth』(1997年)のときだった。「最近は働きながらバンドやっている連中に共感する」みたいなことを、当時はメジャーレーベルに所属して、ヒップホップのスポークスマン的な立場をこなしていた彼は言った(まだミュージシャンがそれなりに潤っていた時代にである)。『シック・オブ・オール・イット』のときは自分はヒップホップと同じようにパンクも好きなんだと、この元ロック少年はなんども「パンク」を強調した。それ以降も断続的にお会いする機会があった。2000年代前半の『ファイナル・ジャンキー』の頃はライヴハウスでなんどかライヴを観ている(共演者はハードコア・バンドのSFPであったり、ヒップホップ・グループのMSC であったり……まさにパンクとヒップホップのECDだった)。個人的に好きな曲がMute Beatをサンプリングした“ECDのAfter The Rain”だったので、こだま和文さんと対談してもらったこともあったな。
 ぼくが最後に編集長を務めた009年の『remix』で(『天国よりマシなパンの耳』の頃)、「ボヘミアン」をテーマに原稿を依頼したことがあった。そうしたら文中に当時の自分の所得額をしっかり書いて、月40万もらっていたメジャー時代の収入の半分にも満たない「いま」のほうが、もちろん不安を抱えてはいるが、生きていて楽しいというようなことを書いてきた(家族がある身でそれだけじゃダメなんだけど、とも加えて)。そういうことを本心からさらっと言えてしまうのが、ECDだった。ピュア、あるいはピュアリストという言葉は、ときにシニカルな使われ方をするけれど、石田さんはぼくから見て、デヴィッド・ボウイの歌詞の世界を本気で実践しているかのような、あまりにもピュアで、ある意味ピュアリストだった。その真面目さに息苦しさを感じたこともあったけれど、ぼくが知る限りで言っても、ECDは見えないところで人を助ける人だった。くだんの原稿のときは、ジョージ・オーウェルの『葉蘭を窓辺に飾れ』の翻訳本の表紙を自分のページのヴィジュアルに指定してきたが、この世知辛いご時世のなか、ある種プロレタリアートめいた自分を誇りにさえ思っていたのではないだろうか。それはいわゆる清貧主義ではないと思う。それはいまになってもぼくには説明がつかない、ひとつの信念のようなものが彼にはあるんだとずっと感じていた。そうえいば、ECDとは稲垣足穂の『弥勒』に出てくる江美留について話したこともあった。
 昨年の春頃、紙エレキングのヒップホップ特集の際に取材でお会いしたのが結局は最後となってしまった。貧困問題をテーマに喋ってもらったそのときにも「お金がなくても自由だぜ」ってことを伝えたい、と彼は言った。気の利いた未来像などラッパーは言わない、ただ「生きてるぜ」ってことを見せるのがラッパーだ、と彼は言った。なんて力強い言葉だろう。いつだってECDは弱き者、不器用な者、ドロップアウター、スマートには生きられない者たちの味方であり、基本的にそこから外れたことはなかった。石田さん、本当に本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。心からご冥福を祈ります。
(※写真は、カメラマンの小原泰広が2007年に『失点 in the Park』で描かれた下北沢の公園で撮影したものです)
 
 


『いるべき場所』のこと

大久保潤

 ECDによる私的音楽史を書いてほしいと思ったのは、『RECORDer』というミニコミと『クイック・ジャパン』誌に載った「ECDの音楽史」という記事がきっかけだ。前者は日本のパンク/ニューウェイヴ、後者は日本のヒップホップ・シーンについての貴重な目撃証言だった。
 とはいえ、当時の自分はECDとは面識もなく、紹介してもらえるような知人もいない。どうやって連絡を取ったらいいか考えた末、『SEASON OFF』収録の“GO!”という曲で、自分の住所をラップしていたので(!)、それを頼りに手紙を書くことにした。
 「もう引っ越してるかも……ていうかそもそも本当の住所なのかな?」とか思いつつ投函するとほどなくメールが届き、下北沢駅前の、駅舎に隣接したドトールで会うことになる。寡黙だが発言に無駄のない人なので、話は早かった。音楽的自伝という趣旨で、基本的に1章につき10年分とすること(1960年生まれなので、産まれてからのことを10年ごとに書いていくとちょうど60年代、70年代……となるのだ)にして、毎月1章ずつ書いてもらうことにした。途中から内容の濃くなる時期は5年で1章になったりもするが、それでも半年くらいで書き上がる計算だ。
 それから月に1度、同じドトールで会うことになる。原稿用紙に鉛筆書きで推敲の跡も生々しく残った原稿を受け取り、その場で目を通す。書いた本人が目の前にいて、無言でじっと見ている中で原稿を読むというのはこちらも緊張する時間だったが、さいわい毎回面白かった。そのドトールはもうずいぶん前になくなってしまったけれど、下北の南口に出ると今でも当時の店内の様子とECDの顔が目に浮かぶ。
 締め切りはきっちり守ってくれて(時にはちょっと前倒しでくれることすらあり)、そこから本が出るまではスムーズだった。こちらは『ECDの音楽史』というタイトルを考えていたのだが、本人が『いるべき場所』にしたいという。ちょっとわかりにくいでは?という気もしたのだが、居場所を求めて様々なシーンを転々とする軌跡を描いた本なので、すぐに納得した。一冊の本のタイトルであることを超えて、ECDの人生を表すキーワードのとなったと思う。
 最後に新しく彼女ができたことを明かしてこの本は終わっている。その「彼女」と結婚して間もなく子供も生まれ、ECDの人生はまた新たな局面を迎えた。それ以外にもいろんなことがあったその後10年のことを加えた『増補版 いるべき場所』を作りたかったのだけれど、それもかなわなくなってしまった。「直したい箇所がある」とは聞いていたので、せめてそこだけでもちゃんと教えてもらっておけばよかった。今はそのことばかり考えている。

R.I.P. Mark E. Smith - ele-king

 1990年代にイギリスで大きくなった人間として、僕はザ・フォールのことをただ「そういうバンドがいる」という程度にぼんやりとしか認識していなかった。ザ・フォールとマーク・E・スミスは影の集団のような存在だったし、ポップ・カルチャーの背後で不可解に動き回っては、たまにそのスクリーンを突き破ってこちらをまごつかせる超俗的な何がしかをカルチャーの中へとすべり込ませていた。

 スミスの声はインスパイラル・カーペッツの“アイ・ウォント・ユー”での電話を通してがなり立てるようなかすかにアメリカ英語っぽいマンチェスター訛りのヴォイスとして、そしてエラスティカとの共演曲“ハウ・ヒー・ロート・エラスティカ・マン”でおなじみだった。

 コメディアンのステュワート・リー&リチャード・へリングのコンビはザ・フォールの“キュリアス・オレンジ”を自分たちのテレビ・コメディ番組(*1)のテーマ曲に使い、同番組に出てくる「ザ・キュリアス・オレンジ」なるへんてこな常連キャラもその曲が元にしていた(キュリアス・オレンジは人間の顔をした巨大なオレンジで、回答には興味がないくせにもったいぶった質問を発し、どういうわけか人間の肉が好きなキャラでもあった*2)。

 ラジオ界では元ザ・フォールのメンバーのひとりのマーク・ライリーがDJとしてレギュラー番組を抱えていた。一方でザ・フォール最大のファンのひとりとしてもよく知られていたジョン・ピールは、BBCのお恥ずかしい番組編成のごたつきのせいで番組の時間枠をあっちこっちに動かされても必ずザ・フォールの曲はかけてくれる頼りになる存在だった。

 ポップ・カルチャーに走ったひびを縫って入り込んでくる、こうした混乱を招くようなザ・フォール(:転落)の断片の数々は面白可笑しく不思議に思えたものだったが、同時に彼らは常にどこか少々ダークで危険でマジカルで、何かしら魔法めいた(hexen)ところも備えていた。心をそそられるとはいえ、それらの断片を踏み越えていざ実際にザ・フォールの世界へと歩を進めるのは、もっと難易度の高い行為だった。その世界というのは当のバンド側もあっぱれな自覚と共に既に「素晴らしくも恐ろしい」(*3)と称していた世界だったわけだが、実はその形容の上をいくものだったし、90年代のイングランドには彼らを手っ取り早く押し込められるような場所が存在しなかった。

 90年代のブリテン島におけるポップおよびロック音楽に関するメディアの論調というのは、オアシスのようなバンドに代表される「労働者階級、英北部出身でリアル」とブラーが都合のいいステレオタイプを提供することになった「中流階級、英南部出身で気取り屋」のふたつの間に存在する、極端に単純化された二次元的な分かれ目に特徴づけられていた。

 マーク・E・スミスはそうした安易な時代に向いてはいなかったし、メディアの側も彼を分類し、彼を人びとの口に合うように仕立て、彼の魔法の技を中和するのに四苦八苦していた。その結果、彼は有名人のキャラを表現する形容詞のいくつかにまとめられてしまった。「気むずかしい」、「怒りっぽい」、「強情な」。時間が経つにつれて陳腐なクリシェにまで使い古されていったこれらの形容詞によって、マーク・E・スミスは気むずかしい年寄りのカリカチュア、支離滅裂でとりとめがなく風変わりな、でもそのエキセントリックさで愛すべきおじさんへと変えられていった──そうやってあの、もっともグロテスクかつ害のない文化的な概念である「人間国宝」というやつに取り込まれてしまったのだ。こうした単語の数々は彼の周囲を魔法陣で囲むことで彼をイギリス人にとって安全な存在にし、彼に備わっていた本当の意味での危険性からイギリス人を保護する役割を果たした。

 イギリス文化は労働者階級出身のインテリという概念への対処の仕方に常に頭を抱えてきた。ワーキング・クラスの人びとは素朴な民で、地に足が着いていて、気取りがなく(これは「想像力に欠けている」という意味合いを持つ)、読書をはじめとする文化エリート主義めいた匂いを放つものには何であれ懐疑的な態度をとるものとされてきた。労働者階級はその点を誉めたたえられるわけだが、と同時に彼らはその点ゆえに見下されてもいる──彼らが分をわきまえおとなしくしているように仕向ける、それは支配階級側のやり口のひとつだ。その一方で、芸術、詩、知的な野心は中流のリベラル人が追求するものとされる──中流リベラルとは僕のような人間のことであり、ワーキング・クラス側は僕らのことを(概して正しい見方なのだが)軟弱な、現実は見て見ぬふりのリアリティと接点を持たない連中として考えるよう促されている。

 マーク・E・スミスはイギリス文化を理解するためのこうした類型を脅かしてみせた。70年代終わりから80年代初期にかけて「労働者階級の音楽」という概念をもっともすんなり定義してみせたのはポール・ウェラーとザ・ジャムのキッチン・シンク型リアリズム(*4)だった。それに対してスミスは詩人だったし、彼の詩は謎めいたオカルト調な飛躍を見せ、ナヴォコフやラヴクラフト、実存主義作家コリン・ウィルソンらを引用し、またバンド名そのものもアルベール・カミュを踏まえていた(*5)。

 彼のソングライティングはまたポストパンク時代に備わっていた芸術学校あがりの知性偏重主義に耳ざわりな風穴を開けるものでもあって、否定しようがない偉大な同期生バンドだったギャング・オブ・フォーやザ・ポップ・グループの表したラディカルな情趣、同じくカミュ好きだったザ・キュアーといった連中すらザ・フォールに較べると取り澄まし抑制されたものに聞こえるほどだった。

 作詞家としてのスミスは知性、神秘主義、下品さと辛辣な観察眼を併せ持つユーモアとを組み合わせ、そしてそこに言語の持つ美的価値観に対する本能的でまったくもって彼特有な理解も混ぜ込んでいた。スミスは「プロレタリアートによるアートへの威嚇」(*6)であり、その威嚇はがっちり形成されていた労働者階級に対する偏見、そしてブロジョワによるアート独占状態の双方に向けられたものだった。

 言葉の面ばかりではなく、スミスがザ・フォールと共に作り出した音楽そのものも同じくらい重要だった。仮に、基本的にザ・ダムドとザ・セックス・ピストルズは「ストリートにたむろす音才のないごろつきの誰にでもロックンロールは演奏できる」ことを証明したバンドだったとすれば、ザ・フォールは同じく音才のない輩にもひとつの音楽世界を生み出せると証明したバンドだった。反復型で、雑然としていて執拗な彼らの作品の多くはシンプルなパンク・ロックあるいはガレージ・ロックのコードやリフを基本に据えていたが、そこにはまたスカスカで現実離れした、ノイ!とCANのインダストリアルな亡霊も漂っていた。彼らの音はどんなパンク・ロックにも引けを取らないくらい直観的かつ直接的だったとはいえ、あの寓話的な要素、真の意味でもっとも霊感に満ちた音楽的な幻視者だけが掴むことのできる、あの転位してバランスがずれた現実の感覚も備えていた。

 僕からすれば、ザ・フォールをあれだけ重要なバンドにし、またマーク・E・スミスをあれだけ素晴らしいフロント・マンにしていた要素のすべてはアルバム『ヘックス・エンダクション・アワー』収録曲の“アイスランド”でひとつになっている。ピアノの鍵ふたつがえんえんとループしながら前景で叩かれていき、曲が進むにつれ増していくドラムスと引っ掻かれたギター、さまよう右手が弾くピアノから成る不協和音を曲の背景に流れる質感へと抑えていく。その間スミスは我々に向かって「最後の神聖なる者たちを目撃せよ(witness the last of the god-men)」、「さあさあ寄ってらっしゃい、男性下着ショウですよ(roll up for the underpants show)」、「祈禱書を引っ掴め(make a grab for the book of prayers)」、「己の魂に向けてルーン文字を投げかけよ(cast the runes against the self-soul)」とけしかける──無意味そうでいて、しかしやはり何かを心に喚起する一連のイメージ群であり、魔法(hex)は1980年代のイギリスのポップ・カルチャーの地平のそこかしこに無差別にばらまかれ、その後の数ディケイドに神秘的なマジックをにじませ続けている。

 30枚以上にのぼるアルバム群を通じてマーク・E・スミスとザ・フォールは充分なだけの足跡を残してきたし、彼らの与えた影響の大きさをこれ以上証明する必要もない。それでもやはり、彼らのかけた魔法がまだ効果を発揮しているのを知ると励まされるものだ。

 これは興味深くも悲しい偶然だが、スミスの死とほぼ時を同じくして日本人ラッパーのECDが亡くなった。彼もまたスミスと同じようなバックグラウンドから出てきたカテゴライズしにくいアーティストであり、ユニークな詩の感覚で愛され、そしてその影響がさりげなくもパンクに地下音楽、ヒップホップ・シーンからそれを越えた場所にまで浸透している人だった。

 2017年を振り返るレヴューを書こうと思い、去年出会った日本のインディおよびアンダーグラウンド界発のベスト・アルバムをいくつか聴き返す作業をしていたところ、そこにもザ・フォールの残響が流れ続けていた。ボストン・クルージング・マニアの『アイデア』の奇妙なガレージ・ロックとうねうねしたわめき声、トリプルファイヤーの『ファイヤー』に響く反復性リズムのミニマリズム、世界的なバンドの『ニュー』およびWBSBFKの『オープン・ユア・アイズ』に鳴るドライで不満を抱えたポストパンクなどにそれらを聴き取ることができるはずだ。

 昨年発表された『ニュー・ファクツ・イマージ』がおそらくザ・フォールの最後のアルバムになるであろう状況で、あの魔法を未来の世代にまでかけ続けていく任はいま名前をあげたようなバンドたちや他にももっといる連中たちにかかっていくことになるだろう。

<補記>
「hex」という言葉について。この言葉を僕は文章の中で何度も繰り返しているが、それはマーク・E・スミス自身が歌の中で多く使った単語だったからだ。「hex」というのは英語の中でも変わった言葉で、普通は「magic」、「sorcery」(いずれも魔法/魔術の意味)、「enchantment」(魔法/魔法にかかった状態)といった単語を用いるものだし、場合によっては「curse」(呪い)もありかもしれない(それがどういう類いの「hex」なのかによるが)。このかなり耳慣れない単語の方を彼が好んだ事実は大事なことだと思うが、この文章を日本語に翻訳した際にその微妙な違いを表現するのが難しいのではないかと察するので、短く説明を加えさせてもらった。

<註>

*1:BBCが90年代末に放映したコメディ番組『This Morning with Richard Not Judy』。

*2:キュリアス・オレンジのコーナーは番組内で進化し、映画『エイリアン』に登場するチェストバスターそっくりな人肉好きキャラ=キュリアス・エイリアンに取って代わられた。

*3:『The Wonderful And Frightening World Of The Fall』は1984年発表のザ・フォールのアルバムのタイトル。

*4:戦後イギリスで起こった社会主義リアリズムを備えた演劇•小説•映画他の風潮で、恵まれない庶民や労働者階級の暮らしぶりを実直に描いた。

*5:カミュの小説『La Chute』(1956年:邦題『転落』)の英語タイトルが『The Fall』。

*6:ザ・フォールのエP『Slates』(1981年)収録曲のタイトル(“Prole Art Threat”)。

interview with Nightmares On Wax - ele-king

 ダンス・ミュージックがもたらしたリズムの発明は、フィジカルな肉体の運動を促すものだけではない。ある種の、甘美なる怠惰のためのBGMというか、リラックスのためのビートも生み出している。ある種のヒップホップの手法だったブレイクビーツから派生したダウンテンポと呼ばれる音楽は、リラックスのための最良のグルーヴを生み出した(もちろん、そのリズムであなたがゆったりと体を動かすことは自由だ)。ジョージ・エヴリン(DJ E.A.S.E.)を中心としたプロジェクト、ナイトメアズ・オン・ワックスとは、その名前とは裏腹に、心地よいその手のサウンドのイノヴェイターとしてUKの音楽史に30年近く君臨してきたアーティストだ(そういえば、LFOのマーク・ベルが2014年に死去したことを考えれば〈WARP〉の最古参アーティストでもある)。

 1995年にリリースしたセカンド・アルバム『スモーカーズ・デライト』が、そのアーティスト史的には転機と呼べる作品であり、音楽史に残るある種の発明でもある。ソウルやファンク、R&B、そしてレゲエ/ダブなどを吸い込んだ、ヒップホップ的なサンプリング・センスと、ザ・KLFの『チルアウト』のコセンプトを掛け合わせたというそのサウンドは、まさにヒップホップのある種の“チルアウト性能”を極限まで音楽的に増大させた。それはダウンテンポ(もしくは当時の流行り名でいえばトリップホップ)と呼ばれる音楽の雛形のような作品となった。そのタイトルが象徴するようなある種の実用性(むろん、そこから離れた単なるリラックスした空間での実用性も含めた)のなかでのサウンドトラックとして増殖し続け、フォロワーも星の数ほどいるジャンルとなっている。


Nightmares On Wax
Shape The Future

Warp / ビート

DowntempoR&B

Amazon Tower HMV iTunes

 前置きが長くなったが、ここにナイトメアズ・オン・ワックスの実に5年ぶりとなる8作目の新作『シェイプ・ザ・フューチャー』が届いた。野太いベースとソウルフルなサウンドに支配されたダウンテンポ──基本サウンドはもちろん『スモーカーズ・デライト』から変化がないと言えるかもしれない。しかし、もはやそれは彼の作品を貫く美学でもある。もちろん、これまで以上に熟成したサウンドが展開されてもいるし、そして新たな変化もある。ひとつ新作の特徴を挙げるとすれば、それは歌にフォーカスしたアルバムと言えることだ。これまでの作品にも参加してきた、モーゼズ、LSK、クリス・ドーキンス、JD73、シャベルといったシンガーに加えて、サディー・ウォーカー、ジョーダン・ラカイ、アンドリュー・アショングなど新世代のシンガーも参加しており、アルバム全体としてはR&Bへとそのサウンドの舵をきっているとも言えるだろう。彼のサウンドの長年のファンに説明するとすれば、どちらかといえば近作2作のファンキーなビート・サウンドの作品よりも、『マインド・エレヴェイション』や『イン・ア・スペース・アウタ・サウンド』といった、歌モノが心地よい、よりチルな雰囲気のシルキーでソウルフルなサウンドを思い浮かべてもらえればいいかもしれない。甘美な怠惰のためのビートはソウルフルに鳴り続けるのだ。

メディアの言うこと、政治、他人が言ったことではなく、自分のフィーリングや自分と誰かの会話から生まれるものに従って世界を見て、未来を作っていくという意味さ。

現在もリーズに住まわれているんでしょうか? それともイビサですか?

ジョージ・エヴリン(George Evelyn、以下GE):イビザだよ。もう11年になる。

制作はどのくらいの期間で行われたのですか?

GE:3~4年くらいかな。はっきりとは言えないんだけどね。というのも、俺はアルバムを作ろうと決めて作品を作り出すわけではないから。常に曲を作っていて、ある程度の数ができあがったときに、それにアルバムとしてのまとまりを感じれば、そこで「お、これはアルバムになるな」と思うんだ(笑)。

〈WARP〉の他のアーティストもそうだと思いますが、リリース・サイクルは自由なんですね(笑)。

GE:そうだよ。あまり「なにかを作らなければいけない」という考えに縛られるのが好きじゃないんでね。自分のなかから自然に出てくるものを活かしたいんだ。締め切りとかに制限されず、自分の音楽には自由なスピリットを取り入れたい。そっちの方が、誠実な作品を作ることができるからね。

資料には本アルバムの制作をして「肉体的にも精神的にも新しい旅をした」と書かれていますが具体的にはどんなところでしょうか?

GE:肉体的というのは、もちろんツアーで旅をしていたこと。そして、その旅を通じて様々な文化を体験したし、国を訪れる度に、現地の人たちに聞いて、その土地の社会や経済、政治、音楽シーンについて学んだんだ。それによって、世界をまた違った角度から見ることができた。様々な問題や崩壊したシステムが存在することがわかったし、俺は、それに興味を持ったんだ。精神的というか、内面的にも様々なものを見て、感じたんだよ。その経験を通して、世界の見方について考えるようになった。多くの人々は、自分の目で世界を見ていないと思う。外部からの情報に影響されていて、その情報は正しいものでなかったり、ポジティヴでないものが多いんだ。そこで、もし自分たちがそういうものに左右されず、情報、政治、宗教がなく、自分たち自身の見解で未来を考えたらどうなるだろうと考え始めた。世界をどう見るか自分たちにはどんな未来にするかを選ぶ選択肢があるということ。それに気づき、それを表現したいと思ったんだ。

それでアルバムのタイトルが「Shape The Future」なんですね?

GE:その通り。メディアの言うこと、政治、他人が言ったことではなく、自分のフィーリングや自分と誰かの会話から生まれるものに従って世界を見て、未来を作っていくという意味さ。

本作はこれまでのあなたのキャリアで最も“歌”に注力したアルバムではないかと思うんですがいかがでしょうか? もしそうであれば理由も教えてください。

GE:結果的にはそうだね。でもさっきも話したように、俺は計画して作品を作るわけではないから、たまたまそうなったんだ。ただそれくらい、今回は伝えたいメッセージがあったんだろうね。俺の音楽は作っている時の自分の状態が映し出されたものだから。

Little Ann “Deep Shadows”をカヴァーしたのはなぜですか?

GE:アルバムに女性のミュージシャンをフィーチャーしたらいいんじゃないかという話をマネージャーとしていて、マネージャーが送ってきた曲の候補の中にあの曲があって、いいなと思ったんだ。誰かと親しくしていても、その関係の中でなにかが満たされないというか。ひとつの方向にとらわれず、複数のアングルから人間関係を見ているのが面白いと思った。そういう曖昧な部分に惹かれたんだ。

これまでの作品にも参加してきたシンガーに加えて、ジョーダン・ラカイ、アンドリュー・アショングといったシンガーも名を連ねています。彼らはどのように起用したのでしょうか?

GE:ふたりとも、俺のイベント《Wax Da Jam》に参加してくれたアーティストなんだ。アンドリューとは、曲を作って、去年EPとしてリリースしたんだけど(註:2016年のEP「Ground Floor」のこと)、その作品の出来が良かったからまた彼を招くことにしたんだ。さっき話したイベントのクロージング・パーティーでジョーダンはプレイしたんだけど、その次の日に俺の家でバーベキューをやって、それに彼が来て、その流れで一緒にスタジオに入ってレコーディングした。その曲をアルバムに入れることにしたんだよ。

ベースは、暖かい毛布のようなもの。そう考えればいいのさ(笑)。寒かったら、俺のレコードを聴けばいい(笑)。

また今回はウォルフガング・ハフナーなど、ジャズ・ミュージシャンの演奏も多く取り入れている模様ですが、このあたりはどういったコンセプトがあったんでしょうか?

GE:いや、ないね。さっきも話したように、あまり何かを決めて作品を作ることはないから。これまでもジャズ・ミュージシャンたちとはたくさん共演してきているから、俺は特に多いとは感じていない。アルバムに参加してくれているミュージシャンたちは、皆友だちなんだ。彼らのような素晴らしいミュージシャンに参加してもらえたのはすごく嬉しいね。

全体の何割ぐらいをミュージシャンの生演奏を使っているのですか?

GE:50%くらいだと思う。このアルバムに限らず、俺は常にアナログとデジタルの融合を意識している。

やはりいまでもサンプリングという作曲方法にマジックを感じていますか? それはどんな部分ですか?

GE:もちろん。サンプリングは俺にとって主要な表現方法だからね。サンプリングに自分のアイディアを混ぜ、新しいものを作る。俺のバックグラウンドはヒップホップだから、サンプリングは俺をここまで連れてきてくれた基本。曲作りにおいてだけでなく、曲選びのスキルもサンプリングで鍛えられたと言ってもいい。サンプリングの魅力は、ある曲のわずかな数ミリの瞬間をもとに、そこにアイディアを加えて混ぜることで、全く新しい作品が生まれるところだね。

あなたやJ・ディラといったアーティストが切り開いたブレイクビーツ・ミュージックが逆に新世代のジャズ・アーティストに影響を与えるという状況もでているようです。こうした事態に関してあなたはどう思いますか?

GE:興味深いと思うよ。インスピレーションの循環のひとつだと思うし、それがナチュラルに起こっているならより良い。意識してやってしまうと、それはコピーになってしまうからね。インスパイアされることによって自分の作品がより深いものになるなら、それは素晴らしいことだと思う。

最近のジャズやR&Bのアーティストでおもしろいと思うアーティストはいますか? たとえばハイエイタス・カイヨーテやロバート・グラスパーなどはどう思いますか?

GE:Electrio っていうイギリスのグループで、彼らはすごく面白いよ。それからニック・ハキム。ハイエイタス・カイヨーテもロバート・グラスパーも素晴らしいと思うよ。ハイエイタスはアルバムも良かったし、去年フェスで一緒になったからパフォーマンスを見たけど、あれは素晴らしかった。あと、カマシ・ワシントンも最高だね。

アラン・キングダムはなぜ起用したのでしょうか?

GE:すでに作っていた曲があって、そこにもっと若いエナジーを加えたいと思いつつそのままになっていたんだ。でも、あるときアランがスタジオに来る機会があって、彼がピッタリだと思った。彼はコンテンポラリーなヒップホップ・アーティストだし、アルバムにダイナミックさをもたらしてくれると思ったんだ。

この作品に限らず、いくつかの例外はあるにせよ、あなたの作品は基本的にある種のベース・ミュージックだと理解しています。とても心地よいヘヴィーなベースがずっとなっていて、それが楽曲全体を印象づけていると思っています。

GE:どうだろう(笑)。心地よい音楽を作っているつもりではあるし、暖かいベースを作りたいとは思っているけど(笑)。暖かくもありながら、セクシーな気分になったりダンスをしたくなるベースでもあり、かつハッピーにもなれるベースが最高だね(笑)。

ベース・ミュージックをうまく作る秘訣を教えてください!

GE:ハートで音楽を作ることさ。頭ではなく、ハートで作ること。ベースは、暖かい毛布のようなもの。そう考えればいいのさ(笑)。寒かったら、俺のレコードを聴けばいい(笑)。

あなたの音楽は『Smokers Delight』という作品の名前が象徴的ですが、スモーカーたちを喜ばせ続けるようなサウンドをリリースし続けています。歳をとるとやめてしまう人もいますが、あなたはいまでも優秀な“スモーカー”ですか?

GE:今は若い時ほどは吸わないね。例えば、今も3日間吸ってない。自分にとって前ほど必要なものではないよ。


超プロテスト・ミュージック・ガイド - ele-king

自分の人生に対して
政治的インパクトを持った音楽について
考察する、註釈つきのプレイリスト集!!

日本版コントリビューター
荏開津広、木津毅、栗原康、桑原茂→、坂本麻里子、
ブレイディみかこ、松村正人、三田格、行松陽介

私は、音楽において、“ポリティカル”な側面こそが、営利主義のメカニズムや“耳あたりのよさ”といったものの幅を利かせた支配力によってとかく頻繁に脇に追いやられるものだと考えました。音楽は、おそらく、それが自由とか社会的正義に対する私たちの政治的願望を形にして見せてくれるとき、あるいはそれらと同調するときに、最も説得力を持つものになり得るのですが。 (序文より)

contents

本書について

序文
イントロダクション
音楽とアジテイション:ある曖昧なカテゴリー、そしてそれがよい

Agit Disco 1 DJ クラウトプリーザー (DJ / 映写技師)
Agit Disco 2 ジョニー・スペンサー (アーティスト)
Agit Disco 3 トム・ヴェイグ (雑誌『Vague』主宰)
Agit Disco 4 マーティン・ディクソン (写真家)
Agit Disco 5 ピーター・ヘイニング (アート研究)
Agit Disco 6 ステュワート・ホーム (アーティスト / 作家)
Agit Disco 7 トム・ジェニングス (ライター)
Agit Disco 8 ハワード・スレイター (ライター / ソーシャルワーカー研修生)
Agit Disco 9 メル・クラウチャー (デザイナー / ライター)
Agit Disco 10 サイモン・フォード (ライター / アーティスト)
Agit Disco 11 ルーム・13・ロッキーサイド (アート・センター併設学校の小学生たち)
Agit Disco 12 シャーン・アディコット (写真家)
Agit Disco 13 ピーター・コンリン (アーティスト / ライター)
Agit Disco 14 ルイーズ・キャロリン (レズビアン雑誌編集)
Agit Disco 15 アンディー・T (DJ)
Agit Disco 16 サラ・ファルーン (ベルファスト在住のアクセサリー制作者)
Agit Disco 17 ミシュリヌ・メイソン (活動家)
Agit Disco 18 ロジャー・マッキンリー (アーティスト / ライター)
Agit Disco 19 ステファン・ジェルクン (アジット・ディスコ創始者)
Agit Disco 20 ニール・トランスポンタイン (音楽ライター)
Agit Disco 21 ルーカ・パーチ (詩人)
Agit Disco 22 ジョン・イードゥン (音楽ライター)
Agit Disco 23 トレイシー・モーバリー (アーティスト / 作家 / ラジオ番組ホスト)

セレクター紹介
『アジット・ディスコ』ジャパニーズ・エディションに寄せて

Japanese Edition Bonus Playlists

Agit Disco 24 荏開津広
Agit Disco 25 木津毅
Agit Disco 26 栗原康
Agit Disco 27 桑原茂→
Agit Disco 28 坂本麻里子
Agit Disco 29 シンドストラン・ラヴ+鈴木孝弥
Agit Disco 30 ブレイディみかこ
Agit Disco 31 松村正人
Agit Disco 32 三田格
Agit Disco 33 行松陽介

日本版セレクター紹介

訳者あとがき

Double Clapperz & EGL - ele-king

 君はダブクラを知っているか? もしまだ知らないのなら早めにチェックしておいたほうがいい。グライムから影響を受け、いま東京でもっとも尖った音楽をやっているアクトのひとつだ(インタヴューはこちら)。そんなダブクラこと Double Clapperz が新たに10インチEPをリリースする。今回は東京の若手トラックメイカー、EGL とのコラボEPで(EGL はファティマ・アル・ケイディリのリミックスも発表している)、発売は2月中旬を予定。リリース元は彼ら自身のレーベル〈Ice Wave Records〉。また、フィーチャーされている Ralph は20歳の若きラッパーで、彼にとっては本作が初のフィジカル・リリース作品となるそう。そろそろ君も馴れ合いをやめて、斜に構えてみてはいかがだろう?

Double Clapperz & EGL -
斜に構える feat. Ralph / Obscure VIP

A. EGL - 斜に構える feat. Ralph (Double Clapperz VIP)
B. Double Clapperz - Obscure (EGL VIP)

発売 - 2月中旬

※アナログ・リリース・オンリー
MP3ダウンロード付き

購入リンク:https://doubleclapperz.bandcamp.com/

■Ralph
Instagram - https://www.instagram.com/ralphlamed/

■EGL
SoundCloud - https://soundcloud.com/itsegl
Twitter - https://twitter.com/ItsEGL
Instagram - https://www.instagram.com/itsegl/

■Double Clapperz
SoundCloud - https://soundcloud.com/doubleclapperz
Twitter - https://twitter.com/doubleclapperz

サファリ - ele-king

 「午前中、ある村から帰るとき、大きな狒狒が、車のわずか十メートルくらい前の道路を横切った。リュタンはよだれを流す、文字通り。しかし僕は、いかなる狩猟本能の爆発も感じないので、ただ、猿の青い尻に目をとめただだけだ。思ったより鋼鉄色を帯びた青だ」(ミシェル・レリス/岡谷公二・田中淳一・高橋達明訳/平凡社)

 ミシェル・レリスは1931年5月19日から33年2月16日までの1年9ヶ月にわたったダカール=ジブチ、アフリカ横断調査団の公的な日誌の体裁をかりた日記文学『幻のアフリカ』の31年7月31日づけの記録に上記の文章を書きつけている。彼らはこのとき仏領スーダン、いまのマリ共和国西部のキタに滞在していた、午前いっぱいをあたりの調査についやした帰り道、同じ車に乗り合わせた調査団の同僚リュタンは車上から猿をみてよだれをながさんばかり。というより文字通りよだれをながしたのだった。興奮したのだろうね。それは狩猟本能の爆発だとレリスは書く。しかし彼の指摘は日本人の読者にぴんとこないかもしれない。食料をえるためにではなく、動物を狩る、仕留める、殺すことはこの社会一般に広く浸透しているようにはみえない。すくなくとも私にはそう思われた。むろん封建時代の王侯貴族や、日本では大名や将軍にとって狩りは彼らの特権を確認する余暇であり、近代以降はブルジョワがとってかわり、たとえば、この映画の資料も言及するヘミングウェイがアフリカへの狩猟の旅をもとにしたためた『アフリカの緑の丘』などにも脈々とうけつがれている。ヘミングウェイのアフリカにいったのは1933年なので時期的にはちょうどレリスがフィールドワークしてまわったころとかさなる。広大なアフリカ大陸でふたりは交錯する、私はそこに偶然ときってすてられない符牒めいたものをおぼえもする。大戦間の欧米には非西欧への憧憬がまだ生きていた。近代におこったそのような機運は20世紀にはいってから、音楽でいえばサティやドビュッシーを刺激し、ブルトンの通底器となり――かつてシュルレアリストだったレリスはブルトンと袂を分かってアフリカに出てきた――フロイトの無意識にも働きかけたかもしれないが、産業革命以後、狭くなった人間の世界認識が求める他者と外部は同時に帝国の海外侵出の契機ともなった。国家にとってのエキゾチシズムとは侵略である。日本が東アジアに乗り出したように欧州はアフリカや東南アジアに植民地をもうけた。とはいえポスト・コロニアルの論点整理は本稿の任ではないのでこのあたりできりあげたいが、レリスのアフリカ行もほとんどがフランスの植民地をめぐるものであり、それらの地名のいちぶはたとえばパリ=ダカール・ラリーなどの名称にのこっているのはおぼえておいてソンはない。

 ウルリヒ・ザイドルのドキュメンタリー『サファリ』の舞台はナミビア、テーマはトロフィーハンティングである。またしても聞きなれないことばだが、獲物の毛皮や頭めあてに金を払い狩猟する、おもにヨーロッパの観光客をあてこんだ、現在のアフリカ諸国の一大観光資源ともいわれるレジャー産業であり、耳ざとい読者におかれては、数年前獲物となったライオンの前で誇らしげな写真をSNSに載せたアメリカ人歯科医師の投稿が炎上したのをご記憶かもしれない。ことほどさようにトロフィーハンターたちは写真を撮る。せっせとそうする。『サファリ』に登場するハンターたちも例外ではない。殺しのあとに彼らがとりかかるのは写真を撮ることだ。
 中年のハンターは死んだヌーの鼻面をぽんぽんと叩きこういう。頑張ったな、友よ、と。ヌーの肩口の致命傷となった銃創に血がにじんでいる。猟犬のルビーがそれを舐める。簡単ではなかった。銃弾を放つまで、ハンターたちは息をつめる。十分な距離まで接近するまで動物にけどられてはならない。ガイドはハンターに耳打ちする。ゆっくり時間をかけて自分のタイミングで。かすれた囁き声は性交のときの睦言に似ている。それとも悪魔の囁きだろうか。さあしっかり狙いをさだめて、いつものように――ガイドはそんなことはひとこともいっていないがそんなふうに聞こえそうになる。息をつめる。間。世界が真空になった。ハンターはひきがねをひく、発射する。だいたいが数百メートルの距離なので命中したかはすぐにはわからない。獲物にちかづいていく彼らの背中にことを終え一息ついたあとに戻ってくる社会性がおいすがる。息絶えた動物を前に安堵するハンターはパートナーやガイドとかたく抱き合う。よくやった、と。一家4人でトロフィーハンティングにやってきた母親は娘にこういう。あなたに自信をつけさせたいの。そこで訪れる解放感と達成感と癒やしと、そのために生命を奪う愚劣さとを私はどう天秤にかけていいのかわからなくなる。すぐれて倫理的だが一般道徳ではたやすく片づけられない。

 ウルリヒ・ザイドルはそのようなものをつねに追い求めてきた。ドキュメンタリストとしてキャリアをスタートし、5作目の『予測された喪失』(1992年)は翌年の山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペティション部門で優秀賞を獲得した。2001年の初の長編フィクション『ドッグ・デイズ』でもヴェネチアで賞をもらっている。「愛」「神」「希望」と題した『パラダイス三部作』(2012年)の記憶はいまだあたらしい読者もすくなくないだろう。私もそうです。リゾート地の黒人男性の買う欧州の中年女性、宗教と世俗をめぐる聖と性、欲望における自我と愛――そのような人間の芯の部分にある、たぶんに生きることにかかわるなにものかをザイドルはみつめつづけてきた。したがって私は編集を担当した『別冊ele-king』のジム・オルークの特集号のインタヴューでジムさんが三部作の「希望」を激賞し「私はザイドルのスーパーファン」というのを聞いてミミズ腫れするほど膝を叩いたのは、透徹ということばではなまやさしい対象の物自体にむかう視線に彼らの共通項をみた気がしたからだ。

 映画はもちろんあらゆる表現形式をみわたしてもそういうひとはそう多くはない。
 ザイドルはパゾリーニ、ヘルツォーク、ブニュエル、ユスターシュやタルコフスキーやカサヴェテスらが映画の道に足を踏み入れたときのアイドルだったという。ヘルツォークが「私はザイドルほどには地獄の部分を直視していない」とコメントしたのは『ドッグ・デイズ』のときだっただろうか。そのザイドルもいまやハネケとならぶオーストリアを代表する巨匠である。だからといってザイドルの筆致が鈍るわけではない。『サファリ』にも下腹に響くシーンが頻出する。ことに後半銃弾に斃れたキリンがこときれるまえ、長い首をもたげ、傾げて絶命する場面。死んだキリンは現地の男たちが解体する、その場面もザイドルはきっちりフィルムにおさめている。キリンの皮があれほど厚いとは上野動物園にいっても志村動物園をみても絶対にわからない。あふれでる内蔵のいろとりどりのグラデーション、皮を剥がれた動物たちの真皮の白さ、目をそむけたくなる作業を、しかし現地の男たちは生活の糧をえるためおこなっている。たんたんとした、滑稽なほど即物的な作業風景には映画史における狂気にとりつかれた殺人者たちの姿がオーバーラップするがこれが彼らの日常の場面なのだ。そしてそこにはドキュメンタリーならではの出来事、現実の死が表現の形式にとりこまれるさいの虚構とのせめぎあいがおこる。逆のパターンは、ネオレアリズモからもヌーヴェルヴァーグからも何十年も経ったいま、なかなかにむずかしい。たとえば河瀬直美監督の『2つ目の窓』(2014年)のじっさいにヤギをしめる場面が虚構に嵌入した現実そのものではなく、たんにロマン主義的なメッセージを代弁してしまっていたこと。すくなくとも、シマでヤギをしめるときはあんなふうではなかった。私は十六で本土の学校にあがるときのお祝いはヤギ汁だったが、ヤギをしめたひとたちはむしろ『サファリ』の解体するひとたちにちかった。

 とはいえ『サファリ』でも、ことに後半にいたって、富裕な白人と貧しい現地のひとたちという図式的な描き方になっていたのはいぶかしかった。ザイドルの本領は告発にとどまらないはずだからである。ザイドルは作中でハンターにインタヴューを試みる一方、作業に従事する黒人たちはことばを発さない。資料によれば、その必要性を認めなかったとのことだが、ザイドル特有のファインダーに正対した人物たちの記念撮影を思わせる不動のショットは白人と黒人とを問わず、人間たちをひとしなみに無時間性のなかに置き去りにする。あたかも装飾品として流通する動物たちの頭部のように。

 やがて『サファリ』はレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の最後の一文と同工異曲の発言で幕をおろした。私はつまるところザイドルも古典に答えを求めたのか、と明るくなった試写室でしばし思案したが、よくよく考えると、そのことばの主こそ動物を殺す当事者なのだと気づいたとき、思考があざやかにひっくりかえるような感じをおぼえた。これがあるからザイドルは見逃せない。(了)

Charli XCX - ele-king

 チャーリーXCXは、時代と手を取りあうことができるクレバーなアーティストだ。たとえば、2000年代のNYロック・シーンについて書かれたリジー・グッドマン『Meet Me In The Bathroom』が話題を集めるなど、いま2000年代を再評価する流れが起こりつつあるが、この動きにチャーリーは上手くコミットしている。2000年代を象徴するムーヴメントであるフレンチ・エレクトロの代表的存在、ミスター・オワゾのアルバム『All Wet』に参加したことをはじめ、去年3月に発表した自らのミックス・テープ『Number 1 Angel』には、そのフレンチ・エレクトロが輩出した歌姫アフィーをゲストに迎えている。
 とはいえ、これは時代を意識しただけではなく、チャーリーの音楽的背景も深く関係しているだろう。もともとチャーリーは、2008年にマイスペースで発表した曲をキッカケに知名度を高めたアーティスト。おまけにフレンチ・エレクトロからの影響を公言していることでも知られており、いわばチャーリー自身が2000年代のポップ・カルチャーから生まれたアーティストと言える。このことを意識しているからこそ、2010年代を象徴する音楽コレクティヴのひとつ、〈PC Music〉周辺のアーティストたちに『Number 1 Angel』のプロデュースを託し、そのうえでアフィーを招いたのだ。そこには、2000年代から2010年代に至るまでの流れを地続きとしてとらえる、明確なキュレーション感覚を見いだせる。

 そんなチャーリーのクレバーさは、去年7月に公開された“Boys”のMVでも際立っている。自ら監督を務めたこのMVは、ディプロやウィル・アイ・アムなど多くの男性セレブに、女性がよくおこなうとされている仕草や行動をやらせるというもの。そこに、〈金曜日は楽しませてくれる悪い男の子が必要 日曜日に私を起こしてくれる優男が必要 月曜日の夜には仕事場の男の子が来てくれる 全員欲しい〉というチャーリーの歌が乗ることで、女性をあれこれ品評する愚かな男性たちへ向けた皮肉が現出する。いわば男性目線を反転させることで、“男らしい/女らしい”とされる旧態依然としたジェンダー観を揺さぶっているのだ。
 ジェンダーに関する問題意識は、これまでも幾度か見られた側面だ。BBC3で放送された男女平等に関するドキュメンタリー『The F Word And Me』の制作を指揮し、そのなかでフェミニズムの影響下にあることも述べている。このようにチャーリーは、さまざまな形で旧来の価値観に疑問を呈し、多様性の尊さを訴えてきた。

 この信念は、去年12月に発表されたミックス・テープ『Pop 2』でさらに推し進められている。『Number 1 Angel』以来の作品となる本作は、『Madonna』期のマドンナやハイエナジーなど1980年代の要素が色濃かった前作とは打って変わり、何かしらの時代を意識させないサウンドが際立つ。キラキラとしたメタリックな電子音を強調しているのは前作同様だが、これまで以上に過剰なヴォーカル・エフェクトを施し、人によってはクセが強いと感じる音も多い。“Lucky”におけるオート・チューンの使い方などはその典型例だ。徐々に元の歌声が変調し、ラストに機械仕掛けの絶叫が響きわたるこの曲は、エモーションとテクノロジーを結合させ新たな表現を生みだすという意味で、テクノのアティチュードが宿ったサウンドと言えよう。
 最終曲“Track 10”も特筆したい。『R Plus Seven』期のOPNに通じる艶やかなサウンドをバックに、トランス風味のシンセ・フレーズとトラップのビートが入れ乱れる複雑な展開にも関わらず、とてもキャッチーなポップ・ソングとして成り立っているという奇跡的な曲だ。OPNが『Garden Of Delete』でやりたかったことをたった1曲で完遂してしまったといえば、すごさが伝わるだろうか?

 多彩な参加アーティスト陣も忘れてはいけない。A.G.クックやソフィーといった〈PC Music〉の主要人物をはじめ、カーリー・レイ・ジェプセン、ジェイ・パーク、パブロ・ヴィタールなど、多くの人たちが助力している。国や人種にくわえ、性的指向も実にさまざまだ。
 こうした人選には、文字通り時代が反映されている。たとえば現在のファッション界では、ヒジャブを着用したハリマ・アデンがランウェイを颯爽と歩き、サフィー・カリーナを筆頭に多くのプラスサイズモデルが活躍するなど、民族、体型、セクシュアリティーといった“違い”を寿く流れがある。この流れは、排他的傾向が目立つ世界情勢に対するオルタナティヴなのは言をまたないが、これと同じことが本作にも当てはまる。先述したように、チャーリーは多様性を尊ぶアーティストだ。そんなチャーリーにとって、オルタナティヴ側に立った表現をするのは極めて自然なことだろう。だからこそ、参加アーティスト陣は多彩さを極めている。それがサウンドを彩るためなのはもちろんのこと、多彩なこと自体に意味があるのも、本作を理解するうえで見逃してはいけないポイントだ。

 本作は、2010年代のポップ・カルチャーそのものと言っても差しつかえない。膨大な量の情報が行きかう現代を表象するかのように多くの要素を散りばめ、その過程でジャンルの枠にも挑み、壊すことに成功している。“特定のジャンルに収まらない”的な言いまわしも至るところで見かけるテンプレになってしまったが、それをあえて使うことでしか、本作を形容することはできない。本作は、特定のジャンルに収まらない。

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