「Nothing」と一致するもの

Jim O'Rourke - ele-king

 ジム・オルークがソロCD(フィジカル)作品としては3年ぶりとなる新作アルバムをリリースした。リリースは〈felicity〉の兄弟レーベル〈NEWHERE MUSIC〉から。同レーベルは「アンビエント、 ニューエイジ、ドローン、ポストクラシカル、等々。これらジャンルの境界線を取り払い 「エレクトロニック・ライト・ミュージック」 と定義付けて電子的な軽音楽を創造するニューブランド」と称されており、本作『sleep like it's winter』は、王舟 & BIOMAN『Villa Tereze』についでレーベル2作目のリリース作品となる。その霞んだ空気と霧のような音響は、オルーク作品のなかでも異彩を放つ仕上がりであり、今後も参照され続けていくに違いない重要なアルバムといえる。音と音が折り重なることで生まれる時間の層のなんという繊細さ、豊穣さだろうか。

 そもそもジム・オルークという類まれな才能を誇る音楽家は、20世紀音楽の「時間の層」をいくつも折り重ねることで、複雑な時間軸を内包した音楽を作曲してきた人物だ。彼の楽曲において構成されるさまざまな音のモジュールは、「接続」というより映画/映像でいうところの「ディゾルブ」のように折り重なり、そして、つながっている。
 むろん、それはたんに「手法」の問題だけに留まらない。つまりは「歴史」への接続だ。そこにおいて折り重ねられるものは、個々の音楽モジュールそれ自体の時の流れと、音楽の歴史である。90年代以降、ジム・オルークが「音楽」に導入したもっとも重要な要素は、このメタ音楽の生成・構成であった。彼の音楽がドローン、ノイズ、インプロヴィゼーション、ポップ・ミュージック、電子音楽、映画音楽という領域を超えて成立しえるのも、メタ的視線(聴覚)で音楽史を捉え、音楽として再構成しているからだろう。
 デヴィッド・グラッブスとのガスター・デル・ソルを経て発表されたソロ・アルバム『ユリイカ』(1999)などでは、ジョン・フェイヒィ、ヴァン・ダイク・パークスなどのアメリカーナ/大衆音楽(の異端?)とトニー・コンラッドの実験音楽/現代音楽を、「現代アメリカの民族音楽」として、メタ的に作曲・構成したことを思い出してみればいい。
 ディゾルブする歴史・音楽。オルーク作品において、複数/単数の歴史/音楽が重なり合う。聴き手はその重なり合うさまを聴いている。それは歴史以降の音楽だ。歴史は終わっても、歴史以降の世界は続く。以降の世界で耳を拓くこと。音楽を聴くこと。オルークの録音作品は、それを突き詰めている。

 当然、本作も同様なのだが、ここではかつてのアメリカ音楽的なものはそれほど全面化していない。それらは音の層のなかにすでに融解している。アルバムは全部で45分ほどあるが、トラック分けされておらず長尺1曲である。とはいえドローン作品のように一定の持続音が微細に変化していくわけでもない。さまざまな録音素材(演奏や電子音なども含む)がつながり、ひとつの大きな変化を「語っていく」かのような構成になっているのだ。
 その意味で、彼の初期の長尺ドローン作品『Disengage』(1992)や、『Mizu No Nai Umi』(2005)、『Long Nigh』(2008.1990)、「Jim O'Rourke & Christoph Heemann」名義『Plastic Palace People Vol. 1』(2011、1991)、同じく「Jim O'Rourke & Christoph Heemann」名義『Plastic Palace People Vol. 2』(2011、1991)、「Fennesz&Jim O'Rourke」名義『It's Hard For Me To Say I’m Sorry』(2016)、「Kassel Jaeger&Jim O'Rourke」名義『Wakes On Cerulean』(2017)や、自身のバンドキャンプ「Steamroom」で定期的にリリースされている音響作品などを思い出しもする。長尺1曲でサウンドが接続し、変化していく『Happy Days』(1997)、『Bad Timing』(1997)、『The Visitor』(2009)や、カフカ鼾の『Okite』(2014)、『Nemutte』(2016)も想起することもできるだろう。また「ディゾルブ的な編集」という意味では8cmCDとしてリリースされた映画的な環境音楽作品『Rules Of Reduction』(1993)も重要な参照点になるはずだ。

 本アルバムも、このような「ディゾルブ的」感覚が見事に生成していた。アルバムの色彩が、どこか霞んだような冬の響きから、春の夜明けのようなサウンドへと微細に、かつ明瞭に変化を遂げているのである。また、冒頭の霞んだ持続音、少し湿ったピアノ、低音のベースのようなドローンがそれぞれ別の時間を有しているかのようにレイヤーされていく展開にも、折り重なる音響の時間が生まれているように感じられた。
 個人的には冒頭のベース的な持続音に加えて、18分から20分あたりの、密やかな鳥の声の音や環境音の挿入を経て、暗さから明るさに変化しつつあるドローン/環境音のパートにも惹かれた。冬/夜から春/夜明けへと移行する中間の音響的なトーンが生成しており、楽曲全体が「ディゾルブ的」に重なっていく感覚を覚えたのだ。また、楽曲全体に空気のように満ちている繊細な電子音も素晴らしい。
 本作の音楽の構成・作曲にはジム・オルーク単独作品特有の感覚と技法の現在形が封じ込められている。録音は2017年にオルークの「Steamroom」で行われ、おそらくペダルスティール、ピアノ、シンセなどの録音素材を、ジム・オルークがひとりで時間をかけて編集したのだろう。直近の作品では「Kassel Jaeger&Jim O'Rourke」名義の『Wakes On Cerulean』にも共通する質感を感じる(ジム・オルークのなかではこういったコラボレーションとバンドキャンプで定期的に配信されているアルバムと、今回のようなソロ作品との差異はそれほど付けていないのだろう。すべては自身の音楽として繋がっている)。ジム・オルークのなかでは録音とミックスと作曲が分かちがたく一体化しているのだろう。
 では、それによってどのような音楽が生成しているのだろうか。私見では、声のない音響作品であっても、どこか感情と感覚が淡く交錯する「歌」のようなものが折り重なる音響のむこうから、微かに感じられるのだ。かつてのオルーク作品をもじっていうならば「こえのないうた」とでもいうべきか。

 ともあれ、このアルバムが「ジム・オルークのソロCD作品」としてリリースされたことの意味はやはり大きい。なぜなら、このような日々の創作/コラボレーションにおける思考錯誤と実践の成果が、この1枚の銀盤に、驚異的な創作力の成果として集約されているのだから。となれば、われわれリスナーは、その事実に耳を傾け、オルークが本作に込めた音楽・音響の移り変わりに注意深く耳を傾け、より深いリスニングの時間を得ることが大切のはずだ。そう、繰り返し聴くことだ。
 じじつ、本アルバムを手にされた方は、今後の人生において何度も何度も、まるで水を求めるように折に触れて聴き返すに違いない。いわば人生の傍らにあるエクスペリメンタル・ミュージック。かつてジム・オルークが、その再発盤にライナーを執筆したルチアーノ・チリオ『Dialoghi Del Presente』の横に本作を置いてみると、意外としっくりくる作品ではないかとも思う。20世紀音楽の歴史が、繊細な実験性と上質なロマンティシズムのなかに凝縮されているのだ。

Kamaal Williams - ele-king

 今年に入ってサウス・ロンドンのジャズ・シーンが俄然注目を集めているが、それに至るきっかけにユセフ・カマールの登場があった。キーボード奏者のカマール・ウィリアムスとドラマーのユセフ・デイズによるこのユニットは、2016年末にファースト・アルバムの『ブラック・フォーカス』を発表するが、ジャイルス・ピーターソンの〈ブラウンズウッド〉からのリリースということもあり、ジャズ・サイドとクラブ・サイドの両面から支持を得ることになった。
 世界的な潮流となっているアメリカの新世代ジャズに対し、英国からの発信を行ったという位置づけがされるのだろうが、そこにロンドン、とくにサウス・ロンドンらしい特色を挙げるとするなら、ペッカムを拠点とする〈リズム・セクション・インターナショナル〉やテンダーロニアスことエド・コーソーン主宰の〈22a〉などのレーベルで見られるディープ・ハウスやビートダウン、ブロークンビーツなどのクラブ・サウンドのエッセンスを取り入れ、さらにそうしたサウンドの源泉となる1970年代のジャズ、ジャズ・ファンク、フュージョンのテイストを忍ばせていることだろうか。
 こうした温故知新で折衷的な手法は、古くはレア・グルーヴやアシッド・ジャズの頃からイギリス人アーティストに根付いているものであり、かつてのウェスト・ロンドンにおけるブロークンビーツ・ムーヴメントが盛り上がっていた頃の4ヒーローやバグズ・イン・ジ・アティックなどに、ユセフ・カマールのアーティストとしての在り方は近いのではないかという印象を抱いたのだった。

 しかしながら、ユセフ・カマールは間もなく解散してしまった。そもそもこのユニットは『ブラック・フォーカス』を作るためだけに立ち上げ、恒常的にライヴ活動を行なうようなグループを目指していたわけではなかったようだ。こうしたワンオフ・プロジェクトはブロークンビーツ・シーンでも多かったし、ジャズの世界でもひとりのプレーヤーがあちこちのバンドで演奏するなんてことは日常茶飯事である。カマール・ウィリアムスもヘンリー・ウー名義でディープ・ハウスを作ったり、K15ことキウロン・イフィルとウー15というコラボをやったり、そしてもともとはヒップホップをやっていたという経歴が示すように、いろいろな方向性に興味の対象を広げている。
 だから、そうした自由な創作活動の足かせにならないように、ユセフ・カマールをアルバム1枚で潔く終わりにしてしまったのかもしれない。『ブラック・フォーカス』のリリースと前後し、カマール・ウィリアムスはヘンリー・ウー名義でティト・ウンとの共作「27カラット・イヤーズ」、バントンとの共作「ディープ・イン・ザ・マッド」、アール・ジェファーズとの共作「プロジェクションズ」という数枚のディープ・ハウスの12インチを出し、ウェールズのDJユニットであるダークハウス・ファミリーのアルバム『ジ・オファリング』にキーボード奏者として客演していた。
 そうしたなかで〈ブラック・フォーカス〉を新レーベルの名称にして、ソロ作となる“キャッチ・ザ・ループ”をデジタル・シングルでリリースしたのが2017年末。ユセフ・カマールに近いタイプの律動的なブロークンビーツ+ジャズ・ファンクから、次第にヒップホップ的なビートへとスリリングに推移していくナンバーで、ユセフ・カマール以上にジャズのインプロヴィゼイションとリズムの面白さを追求した印象だ。この“キャッチ・ザ・ループ”を先行シングルに、ソロ・アルバムの『ザ・リターン』がリリースされた。

 アルバム名を「帰還」としているのは、もちろんユセフ・カマールの『ブラック・フォーカス』からカムバックしてきたという意味があるのだろう。カマールいわく、『ザ・リターン』は『ブラック・フォーカス』の延長線上にあり、もともとユセフ・カマールが彼のアイデアに基づくユニットだったので、『ザ・リターン』はカマールにとってセカンド・ソロ・アルバムに近いものだという。ただし、参加メンバーが違うので、そこが『ブラック・フォーカス』と『ザ・リターン』の差異になっているそうだ。『ブラック・フォーカス』はユセフ・デイズやその兄弟のカリーム・デイズほか、シャバカ・ハッチングス、イエルフリス・ヴァルデス、マンスール・ブラウン、トム・ドリースラーなどが演奏に参加していた。そのなかでカマールのキーボードやシンセとユセフのドラムスのコンビネーションがアルバムの柱となっていたわけだが、今回も鍵盤とリズムの関わり方がアルバムを決定づけていると言える。
 今回はギターのマンスール・ブラウンが“LDNシャッフル”の1曲に参加するのみで、あとはカマールとベースのピーター・マーティン、ドラムスのジョシュア・マッケンジーのトリオというシンプルな形。よりミニマルに贅肉をそぎ落とし、3人のコンビネーションを極限まで高めていったアルバムである。とくにカマールとジョシュアの出会いが重要で、それについては本誌のインタヴューでもなかなか面白く語ってくれているのだが、本作ではカマールとジョシュアの丁丁発止のやりとりがあり、それをピーターががっちりとサポートしつつ新たな導火線を引き、そうした3者の即興やインタープレイ、融合や離反の中から創造的な演奏が生み出されている。『ブラック・フォーカス』に比べて演奏が濃密で、自由度も上がっている印象だ。

 カマールのキーボードは、かつてのロイ・エアーズ・ユビキティの鍵盤奏者だったハリー・ホイテカーとか、ロニー・リストン・スミスあたりの影響が濃厚で、1曲目の“サラーム”の前半にそれはよく表われている。カマールは彼らやハービー・ハンコック、ドナルド・バードなどのレコードをいろいろと聴きこみ、コピーしながら独学でキーボードをマスターしたというから、そうしたフレーズは自然と出てくるのだろう。これと同系の“ハイ・ローラー”は、ブギーやオールド・スクールのヒップホップ的なリズム要素を持ち、オーケストラルなシンセとフェンダー・ローズでハーモニーを形成する。“リズム・コミッション”はエレクトロ・フュージョンとでも言えそうなナンバーだ。
 ただし、“サラーム”は中盤からアメーバのように変容を遂げ、緊張感に富む展開を見せるところが肝である。『ブラック・フォーカス』では割と一定したダンス・ビートに即した場面もあったのだが、『ザ・リターン』ではそうした配慮などは排して、グルーヴは保ちつつもアイデアを広げ、果敢にチャレンジしている。
 “ブロークン・テーマ”はカマールなりのブロークンビーツへのオマージュで、特に鍵盤奏者でドラムやパーカッションも扱うカイディ・テイタムからの影響が強いことが伺える。この曲も前半と後半では曲想が大きく変わり、後半はウェザー・リポートのように抽象的な展開を見せる。そして、“シチューエーションズ”はミラノでのライヴ録音で、より即興性が生かされたキーボードとドラム演奏。“メディナ”はモーダルな曲調のディープ・ジャズで、オルガンのコルトレーンと評された頃のラリー・ヤングに通じる。カマールの持つスピリチュアリティが表われた作品だ。
 “LDNシャッフル”はロンドンのストリートをイメージしたような疾走感溢れる作品。複雑な変拍子はマハヴィシュヌ・オーケストラなどのジャズ・ロックの影響が伺え、ジョシュア・マッケンジーの激しいドラミングに加え、マンスール・ブラウンのギター・ソロも火花を散らすアグレッシヴな展開。そしてアルバムは空間的なシンセによるアンビエントな“アイシャ”で幕を閉じる。
 ちなみに“アイシャ”はドラマーのマッコイ・タイナーが後に妻となる女性の名前を冠した作品で、彼も参加したコルトレーンの『オレ』(1961年)での演奏で知られる美しくモーダルなバラード。“メディナ”はドラマーのジョー・チェンバース作曲で、自身のアルバムでも取り上げたほか、ボビー・ハッチャーソンの『メディナ』(1969年録音)でスタンリー・カウエルらと演奏していた。どちらも同名異曲の作品で、偶然にタイトルが被ったのかもしれないが、あらためて聴いてみるとカマールがそれらの作品にインスピレーションを受けているのではないか、と思える節がある。そういった具合に、カマールのインスピレーションの源は、時代や空間を超えて世界のいろいろなところに広がっているのだろう。

XXXTentacion - ele-king

 XXX(エックスエックスエックス)テンタシオンとジミー・ウォポが相次いで撃たれて亡くなった。20歳と21歳。前者はこのところアメリカのヒップホップにおいて高まっていた世代間の確執では中心人物とも言える存在で、しかし、そのことと撃たれたことは関係がなかったらしい。後者も同じくで、強盗か何かに撃たれたらしく、メジャーと契約を交わしたばかりというタイミングだった。このふたりの死から導き出されるのはヒップホップとか文化に関する話題であるよりは、やはりアメリカの銃社会にまつわる議論に終始するべきだろう。警察とのトラブルではないので、ブラックライヴスマターの案件ですらない。
 実は紙エレキング用に5月の時点で書いた原稿にXXXテンタシオンにも触れていて、そのときにはドレイクやミーゴスと対立するXXXテンタシオンをケンドリック・ラマーが支持するのかしないのか曖昧なままにしてあったんだけれど、訃報が伝わった直後にケンドリック・ラマーどころか「どれだけ君にインスパイアされたかわからない」というカニエ・ウエストやディプロ、ジューシー・Jやマイリー・サイラスなど多くのミュージシャンたちが彼の才能に賛辞を惜しまないツイートをアップする事態となっている(意外とマンブル派ではなくJ・コールのようなリリカル派からリアクションが多い。マンブル・ラップというのは何をラップしてるのか内容がわからないと揶揄されているラッパーたちのことで、フューチャーやミーゴスが代表とされる)。もしかすると黒人版ニルヴァーナのような存在になったかもしれないことを思うと、それなりに納得はするものの、一方で、白人の男の子をステージ上で絞首刑にするという映像表現や妊娠中のガールフレンドに暴力を振るい、その映像をバズらせて喜んでいたことは彼の死に同情できないという声を多く呼び寄せる事態にもなっており、彼の才能の是非についてはXXXテンタシオンが生きていて、彼自身の活動によって証明する以外に方法はなかったとも思う。この3月にはビルボードで1位を獲得したというセカンド・フル・アルバム『?(Success&Victory)』もケンドリック・ラマーと同じく僕も5回ほど聴いてみたけれど、そこまでの作品には思えなかったし(大ヒットした“Sad!”より“Moonlight”の方が良かった気が)、やはり昨年、オーヴァードーズで亡くなったリル・ピープ同様、ロックになったりラップになったりというスタイル(エモ・トラップ)は興味深いものの、これまでのラップのスタイルに取って代わる「叫び」を体現したという評価はやや早計な見解ではなかっただろうか(叫んでいるときはラップじゃないし)。
 ちなみに紙エレキングの記事でXXXテンタシオンはスポティファイから削除されたと書きましたが、正確にはレコメンド機能から外されただけで、聴くことは可能のようです。(三田格)


R.I.P. Jalal Mansur Nuriddin - ele-king

 2018年6月4日、ジャラール・マンスール・ナリディンが亡くなった。
 ジャラール・マンスール・ナリディンは、1944年7月24日、ニューヨークに生まれ、ブルックリンのフォート・グリーンで育った。米軍への入隊、その後ウォールストリートの銀行で速記の仕事をした後、ラスト・ポエッツとしてデビューすることになる。このグループのメンバー構成の変遷は、やや複雑なのだが、ジャラールの立場を知るためにも、簡単に整理しておく。
 まず、ファースト・アルバム『The Last Poets』(1970)が発表される前に、最初期のメンバーであるガイラン・ケイン、デヴィッド・ネルソン、フェリペ・ルシアーノが脱退している(なお、脱退した三人はThe Original Last Poetsというグループ名で1971年に『Right On!』というアルバムをリリースする)。その結果、ラスト・ポエッツは、アビオドゥン・オイェウォレ、ウマー・ビン・ハッサン、ジャラール(当時の名義はアラフィア・プディム)、コンガ奏者のニリージャ、の四名で、ファースト・アルバムを発表することになった。しかし、ポリティカルな姿勢を堅持するアビオドゥンが、まず脱退する。そして、セカンド・アルバム『This Is Madness』(1971)発表後には、ウマーが脱退した(ニリージャもこのころには脱退していると思われる)。
 こうして、ひとり残されたジャラールは、ラスト・ポエッツの新メンバーとしてスリアマンを迎え、『Chastisment』(1972)、『At Last』(1973)、など数々の作品を発表し、1994年まで活動を続けた。つまり、ラスト・ポエッツとして最も長く活動したのが、ジャラールなのである。しかしながら、1997年に再結成されたラスト・ポエッツに、ジャラールの名前はなかった。ウマーとアビオドゥンのふたりだけが「ラスト・ポエッツ」を名乗ったのである。このふたりに言わせれば「ポリティカルな姿勢を崩さない自分たちこそがラスト・ポエッツだ」ということになるだろうし、ジャラールとしては「辞めたお前たちが名乗るな。自分こそがラスト・ポエッツだ」と叫びたかったのではないか。
 再結成されたラスト・ポエッツに自分の名前がない……。この事態に直面したジャラールは、直接行動に出る。新しいラスト・ポエッツのふたりの元を訪れたジャラールは、ウマーに対して「スリアマンを殺したのはお前だ」「これはスリアマンの分だ」「これでお前の声は死ぬんだ」と言いながら、長い針でウマーの喉元を突き刺した……とされている。
 このエピソードは、ラスト・ポエッツの初期メンバーやプロデューサーへのインタヴューを元に構成されたドキュメント・ノベルで紹介されているものだ。その名も『The Last Poets』(オランダ語の原著が2004年、英訳2014年)と題されたドキュメント・ノベルの作者、クリスティン・オッテンによれば、ジャラールは本書に関する取材の申し入れを断ったらしい。そのため、これはあくまでウマーとアビオドゥンのふたりが語る「事件」に過ぎず、真偽のほどはわからない。ただし、長い針でメンバーの喉を突いたというエピソードには、なにか異様な迫力を感じずにはいられない。
 切り裂くようなジャラールの声には、激しい怒りを行動に移してしまうような危うさがあり、それが彼の魅力でもあった。内面の葛藤をドライな肉声に乗せる際の緊張感。それこそが、ジャラールの比類ないライミングの源泉だったのかもしれない。

 ラスト・ポエッツ関連の話題が多くなってしまったが、ジャラールは、アラフィア・プディム(Alafia Pudim)やライトニン・ロッド(Lightnin' Rod)と名乗ってソロでも活躍している。なかでも、クール・アンド・ザ・ギャングを迎えたライトニン・ロッド名義でのソロ作品である『Hustlers Convention』(1973)は、ラスト・ポエッツ名義の作品と同様、サンプリング・ソースの宝庫として、ヒップホップの文脈ではいまなお特別な影響力を持っている。その後、80年代以降のヒップホップの隆盛のなかで、ジャラールは常に言及され、参照された。それにより、「ラップの生みの親」としての地位を確立していく。しかし、そうした位置にとどまることなく、ジャラールは変化し続けた。90年代に発表された作品、たとえばシングル「Mankind」(1993)を聴けば、ジャラールの「語り」がより「ラップ化」していく様相をつかむことができる。

 彼が亡くなったと知ったとき、ラスト・ポエッツの“Bird's Word”(1972年の『Chastisment』所収)という作品を思い出した。ジャラールはこの作品のなかで、その圧倒的なライミングと、心地よい声で、黒人音楽の歴史を語り上げている。そこで言及されるのは、ベッシー・スミスからルイ・アームストロング、アート・ブレイキー、エリック・ドルフィー、コルトレーンを経てニナ・シモン、サン・ラへと至る歴史だ。この歴史のなかに、ジャラールを加えるためにも、改めてジャラールと出会い直したいと思う。これまでは聴き流していた彼の声に、耳を澄ますことが、なによりの追悼だろう。

interview with jan and naomi - ele-king

 2014年、デビュー直後のjan and naomiのライヴに偶然接することが出来たのだが、美しく儚げな男性ふたりが、極めて繊細にコントロールされた弱音の響きを紡ぎ出す様に、非常なインパクトを受けたのだった。ファッション・モデルをもこなすというその出で立ちのシャープさ、そして奏でられる音楽の圧倒的幽玄。アートの匂いを強烈に振りまきながらも、まるでこの街でないどこかからふと現れた超俗的な佇まい。
 その後もEPリリースやフジロックへの出演などを経て着実のその特異な存在感を浸透させていくなかで、彼らの表現は「狂気的に静かな音楽」とも称されるようになっていったという。なるほどこのファースト・アルバム『Fracture』は、その言葉に強く頷くことの出来る出色の内容だ。

 広がりあるサウンドケープや抑制のきいたエレクトロニクスの用法からは、所謂チル・ウェイブ以降のサイケデリック感覚が強くにじみながらも、ジェイムス・ブレイクやキング・クルールといったサウンドメイカー達とも共通するような透徹した音響意識を感じさせる。しかしながら、メロディーとそれを届ける歌はあくまでインディー・フォーク的であり、その意味で、かつてのサッド・コア~スロウ・コアのアクト達に通じるような、静謐な「うたもの」としての快楽性も備えている。

 また、ほぼ全曲が英語詞で構成されているその歌詞世界も、彼らの「狂気的に静かな音楽」を創り出す重要な要素となっている。全編において、神(逆説的に、ときに悪魔的なものへの憧憬も隠さない)や愛といった形而上学的存在への問いかけが染み出す。しかし、ゴスペル音楽のような、熱狂的な覚醒や躍動は締め出され、その変わりに、甘く物憂げな静謐がメロウネスとなって全体を浸す。

邦訳:あなたがいないと、大空を羽ばたく羽をなくしたようだ/何度あなたがこの世界に存在したかと思っただろうか/何度あなたが実存すると思っただろうか、/何度もそう思った ‘Forest’

 こういったペシミスティックなヴィジョンは、近代以来の放蕩への回心・贖罪を経て救済へと向うべきだったはずの現代の文明が、むしろ日々自らの手で神を葬り、救済を遠ざけてしまったことで代わりに引き寄せることとなったニヒリズムに強く培養されているようにも見える。一方で、そういった諦念の淀みの中でも、

邦訳:ここはあなた夢の入り口、今までのことには別れを告げて/この折れた骨で、エスの街から抜け出すのだ/私たちの夢のためにその約束は守って、今まで見てきた罪に別れを告げて ‘Fracture’

 とタイトル曲に歌われるように、これまで重ねてしまった罪を見つめつつも、新たなフェイズを切り開こうとする心性を垣間見せもする。


jan and naomi
Fracture

cutting edge

Post-PunkEthereal

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 耽美的音楽と審美性から、ある種「浮世離れした」存在と見做されそうなjanとnaomiによる音楽は、その実、「諦念」と「希求」、「破壊」と「再生」の間に揺れる生活者の告白として、極めて実直で真摯なものだとも言える。
 この、蠱惑的なほどに極めて静謐な音楽は、静寂に取り囲まれるとときに静寂そのものが我々を圧するような不安を喚起するように、静謐であるがゆえ我々を内省へと誘い、内省の果には実存世界の外延へと連れ出しもする。熟れ、爛れ、饐えを抱えながら、それでも今、救いを希求する。破壊を受け入れながら、そこから新たな物語を紡いでいく。
 卓越した現代のレクイエム集であるとともに、賛美歌集とも言える本作『Fracture』をリリースしたjanとnaomiのふたりに話をきいた。

naomiさんと一緒に音楽を作りはじめた時期、反骨精神のある音楽がすごく好きで。そのなかで何がいちばんパンクなのかって考えたときに、もちろん大きい音を出して真正面からぶつかっていくのもすごくカッコいいんだけど、東京の渋谷で、絶えず様々な音が無秩序に鳴っているところで、それを「フッ」と止めるというようなことがもっともパンクかな、と思ったんです。

2016年の前作EP『Leeloo and Alexandra』のリリース以降、フジロックやロシアのフェス(V-ROX FESTIVAL)への出演や、映画『Amy Said』の音楽担当など、いろいろなフィールドで活動してきたかと思うのですが、そういった経験は今作に制作に影響を与えていますか?

jan(以下j):いちばん大きかったのは映画音楽制作の経験ですね。

naomi(以下n):劇伴すべてとエンディング・テーマを、という依頼で。限られた予算内で多くの楽曲を作らなくてはいけなかったので、レコーディング・スタジオに入る予算も無くて、自宅で完パケまでもっていけるようなやり方をしっかりしなくてはいけなかった。だから自然と俺もjanもDTM的に制作する環境が整ってきて。それは今作の制作を進める上で影響がありましたね。今までは、生ドラムと、アンプから出しているギターの音を主軸にしていたものが多かったんですけど、そういうプロセスではない楽曲が増えたというのがあります。

いままでは普通にプリプロを制作して、それをスタジオへ持っていって、というようなスタイル?

n:そうですね。

今回はふたりがお互い事前にデモを投げあって、みたいな感じ?

j:お互いに交換するっていうよりは、基本スタジオに入るまでは別々に形を作って、スタジオに入ったらふたりでいろいろ遊ぶっていうやり方だったかな。

そういうプロセスがアルバムの音にも反映されている気がしますね。これまでに比べてギターよりもピアノが目立ってきている感じとか、エレクトロニクス音の比重も増えている気がしました。

j:naomiさんが打ち込みで作るものもあれば、俺がシンセサイザーを使うということもあったり。あと家でヴォーカルも取れる環境になったことも大きかった。

新作についての話に本格的に入る前に、映画『Amy said』の音楽制作について訊いておきたいんですけど、おふたりの音楽は所謂映像喚起力が強いなという気がしていて。基本英語詞であるにも関わらず、特定の風景を喚起させるというか。監督の村本さんとしても、そのあたりを汲んでのオファーだったと思いますか?

j:たぶん最初は監督もそういう気持ちだったと思うんだけど、徐々に監督にも明確なヴィジョンがあるっていうことがわかってきて。

n:打ち合わせのときにラフの映像を見ながら「具体的に思っていることがあったら教えてください」って言ったら、めちゃ具体的で(笑)。

「こういう音をここに入れてください」的な?

n:そうです。「何年代の誰々みたいな音楽が欲しい」とか、「ここはテクノで言うとあの時代の感じ」とか、「バーで鳴っているBGMも欲しい、このマスターはこの年代の音楽に影響を受けているから、たぶんかかっているのはこういう音楽だ」といったような。

そういう意味では、アーティストっていうよりプロの映画音楽作家さん的な感じですね。それが経験としては大きかったと。

n:そうなんです。いままでトライしなかったこともできたし。「トミー・ゲレロみたいな曲で」というようなオーダーとかもあったな。

映画音楽って、監督によって全然やり方違うみたいですよね。厳密に音符レベルで指定してくる人もいれば、「ふわっとした感じでお願いします」みたいな人もいる、と。いろんなミュージシャンに映画音楽制作の話を聴くと、みなさん「大変だけどいろいろ鍛えられる」というようなことを言いますね。

n:それはかなりありますね。

j:結局、僕らも映画音楽のプロじゃないから、作ったものにはjan and naomiらしさはやっぱり残ってはいるんですけどね。

今回のアルバムはとくに映像喚起力が強いなと思いました。各曲、何か具体的な映像世界を想定した上で曲作りしていくんでしょうか?

j:前作までは割と、イメージや言葉の輪郭を帯びていないものを曲のなかに投げ込んで聴き手にそのエッセンスを自由に解釈して欲しい、というのがあったんですが、今回、自分が歌詞を書いたものに関しては具体的にして、抽象表現は抑えてストーリーテリングする感じでやりたいなあ、と思いました。聞き手によってはもしかしたら以前より映像性がなくなったと思うこともあるかも知れないけれど、割と自分的には具体的なヴィジョンが見えたものを投げ込んでいるというイメージです。

場面設定的がしっかりある感じを受けました。

j:劇っぽくつくれたらな、と思っていました。

各曲、曲ごとにテーマを先に設定して、そこから作っていく、という形ですかね?

j:俺が作った曲は最初に歌詞書いてという感じだったんですけど、naomiさんは?

n:はじめはテーマはとくに決めないですね。何か映像にあてはめるような作り方もしていない。

曲を作っていく段階で徐々にテーマのようなものがあぶり出されていく、と。

n:そうですね。

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janの声は独特で、音程がなくても成立するような感覚があって。ひとりで活動していた頃やjan and naomiの初期にはそういう曲がけっこうあるんですが、音程が合っていないないというかズレているのかな、というのも含めて味にするような歌声と歌い方もできる。


jan and naomi
Fracture

cutting edge

Post-PunkEthereal

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先ほどデモは各人で作っていくと言っていましたが、その後のふたりのキャッチボールってどうやっているんでしょう?

n:普通のバンドと違うところだと思うんですが、僕たちはデモをつくったら基本的にはそれで完成というイメージ。今回は、その後レコーディング・スタジオで録っていくなかで、もう一方がその上でいろいろと遊ぶ、みたいな感じでした。家で8割9割仕上げて、スタジオでしか録れないものを録り直したというようなやり方が多かったですね。

j:その遊び方もまったく定形があるわけじゃなくて。例えばお互いが作った曲について、演奏的にはほぼ何もしてなくても、意見をひとつの楽器として織り交ぜていく、というか。例えば俺が演奏して歌ったものに、naomiさんが「ああしたほうが良いと思う、こうした方が良いと思う」と言うことが、jan and naomiの音楽の色というか、ひとつのフィルターとなっていると思います。

細かなアレンジとかもほぼ作曲者の主導で?

n:俺の曲はそうでした。janのものは、弾き語りのデモが用意してあって、セッションしながらレコーディングしていく、みたいな感じでしたね。

j:割合コラージュっぽく部分的に、っていうのが今回はとくに多かったかな。

一般的な、Aメロ固めて、Bメロ固めて、構成作り込んでいって、プリプロ作って、スタジオにもっていって、録って、ラフミックスして、みたいな感じで作っていないのだろうな、というのは感じました。音の差し引きなども当意即妙にその場でやっているのもけっこうあるんだろうだとうな、という。非常に作り込まれているのに一方でセッション感もあるという、不思議なバランスだなと思いました。

j:ミックスがはじまってから音を足すこともありましたね。

ミックスはエンジニアさんと?

j:メールベースで意見を言い合ってという感じですね。

音像の部分でも、一聴して全体にすごく深さと広がりがありつつ、曲ごとの緩急もあって、構成的なこだわりも感じました。

j:最近になって思い出したのは、互いの曲が徐々にビルドアップされていく上で、この曲はEQ的にビルドアップしたから、あの曲のこの部分をちょっとマイナスしてみようとか、そういうことがあったな、ということ。例えばnaomiさんがある曲のなかでシンセサイザーにリバーブを深くかける判断をしたときに、俺のこの曲のリバーブは逆にもう少しカットして、マットな曲の響かせ方にしようかな、とか。それがレコーディング~ミックスのプロセスのなかで多くあった気がしますね。

それぞれすごく空間的な処理なんだけど、1曲1曲の粒立ちというか個性みたいなものがちゃんとありますよね。曲ごとでBPMに幅があるとかじゃないのに、そういう各曲の個性がある。

j:たしかに自然とbpmだけはそんなに離れていない形になりましたね。

野田:音響はすごく独特ですよね。俺も聴いて思いますね。

「ダーク」といえばいいのか……重いけど広がりのある空気感というか。おふたりの音楽的趣向が音響デザインに反映されてるんでしょうか?

j:あまり何かに影響されてこうなったというのはないかな。それより、日々naomiさんとライヴをして一緒にお酒飲んだりとか、そういう普段の生活のなかから得たことが大きいかもしれない。大概そういうことって歌詞にしか影響しないと思うんだけど、お酒を飲んでいるところでかかっていた音楽とかが無意識に影響しているのかも。

もともとおふたりは、渋谷の百軒店で別々で活動している中で知り合ったらしいですね。例えば学生時代に出会って、とかいうような場合、お互いどんな音楽が好きとか話をする中でバンドに発展するというのが一般的かなと思うのですが、おふたりの場合は、どういう形で音楽的ルーツの共有といったことが行われたのでしょうか。

j:「これが好き、あれが好き」っていう音楽の話をする前に、曲を一緒につくる機会があって。それで出来た曲がいい感じだったんです。

n:もともとjanの音楽が好きだったし、janももしかしたら俺の音楽を好きでいてくれたのかしれない。だから最初に曲を一緒に作ってみても上手く行ったということなんじゃないかな。

野田:性格的に気があったとか?

n:俺のほうが年上で、ちょうど良い年の離れ方だったっていうのもあるかもしれないですね。物事を決める時にもケンカしないし、素直に譲れるし、janも譲ってくれることもあるし。

野田:性格を陰と陽に分けるとすると、どちらがどちらですか?

n:場面によるんですけど、基本的には通常時はjanの方が陽で俺が陰。でもお酒を飲むと俺のほうが陽になる。janは逆にお酒を飲むとどんどん陰に向かっていく(笑)。

野田:そういう観点からもバランスが良いんですね。お互い陽になっちゃうとね(笑)。

j:取り留めのないことに(笑) 3年に1回くらい稀にふたりとも陽になるときもありますけどね(笑)

ふたりとも歌声の面でもまったく違った個性を持っていますよね。naomiさんはハイトーンヴォイス。janさんは、レナード・コーエンなども思わせるような低い声。お互いの歌声の魅力を挙げるとしたら?

j:naomiさんの声は怖いくらい透き通っていて、そのホーリーな感じに感動します。

n:janの声は独特で、音程がなくても成立するような感覚があって。ひとりで活動していた頃やjan and naomiの初期にはそういう曲がけっこうあるんですが、音程が合っていないないというかズレているのかな、というのも含めて味にするような歌声と歌い方もできる。今回は歌い方を試行錯誤してヴォーカルのテイク数も重なっていきましたが、以前は1回録っても5回録っても全部OKという感じだった。厳密に言うと外れているけど、それがむしろ良い、っていう。

j:今回のように抽象性が薄い曲の場合、いままでの歌い方だとどうしても説得力がなくて、歌い方を変えた曲もありました。

ちなみに、技術的な影響を受けているかどうかは別として好きなシンガーっていますか?

j:エルヴィス(プレスリー)かな。

おお、意外な気がしつつ……でもわかる気もする……。

野田:ほんとに? 冗談とかではなくて(笑)?

j:本当ですよ(笑)。子供の頃から好きで、いまも変わらず好きかな。

どんなところが好きですか?

j:なんといえばいいか……聴いた瞬間に自然とゾワッとするというか。神聖なときもあれば、すごく悪魔的なときもある。そういったものに魅了されるんです。そういった振れ幅があるものは、エルヴィスに限らず好きですね。でも、エルヴィスはその究極形といえる歌声だなあと個人的に思います。

どこかでjanさんの歌声が「スコット・ウォーカーを思わせる」と評されいてるのを見ましたけれど、彼の歌にもそういう振れ幅がある気がしますね。

J:そうですね。でもスコット・ウォーカーの歌声も美しくて好きなんですが、甘さがないかな、と。エルヴィスにはそれもあるな、と感じます。

naomiさんは?

n:玉置浩二。

また意外な。

n:あとASKA。

おお……。

n:歌がいいって思う人って誰かなあ、っていまずっと考えてて。一番最初に出てきたのが玉置浩二。

それは親の影響で聴いていたとか?

n:2年くらい前に、僕らがよくいく渋谷の「カラス」でケヴィンさんっていう常連さんが、玉置浩二をずっとかけて歌の魅力を店中の人に語っていた夜があって。安全地帯含め玉置浩二の存在は知っていたけど、「歌が良い」っていう耳で聴いたことはなくて。で、「ああ、良いな」と。

ASKAは?

n:ASKAの歌もやっぱり本当に独特で、歌い出して2秒で「あ、これASKAだ」って思わせる声の独特さ。歌上手い人っていうのはたくさんいるけど、玉置浩二も含めその人だけの「節」があるな、っていう人に憧れる。

自分の声の帯域に近いとかは関係なく……その人だけの個性がある歌声が好きということですね。

n:正直ジェイムス・ブレイクとボン・イヴェールのヴォーカルの差とかわからないですよ。好きな人はわかるんでしょうけど。自分の歌に関しても、「あれだったら誰が歌っても一緒じゃん」ってなったら嫌だな、っていうのはあります。

野田:jan and naomiを聴いて日本的だとは全然思わなかったし、言われなければ日本のアーティストだって気づかずに聴いてしまえると思うんですよね。だからいまの「玉置浩二の歌が好き」っていうのは無理して言ったんじゃないかなと疑っていますけどね(笑)。本当はジェイムス・ブレイクやボン・イヴェールが好きでしょ! ライバル心があって言えないんじゃないんですか(笑)?

n:いや、そんなことないですよ(笑)。

j:でも今回のアルバム、外国人の友達に聞かせると、「アニメっぽい」って言うんですよ。

へえ~。

j:微妙な細かいところに、アニメ的にニュアンスがある、と。

無意識で出てしまう日本固有の土着性みたいなことなんでしょうか……?

j:おそらく。歌謡曲感ということの延長線上なのかもしれないですけど、アニメっぽいメロディだったりピアノのフレーズが入っていると言われて、確かにそういう耳で聞き直したら、そうなんですよね。ジブリっぽさというか…久石譲的なものを連想させる要素が意外と入ったりしているのかもなあ、と思いました。

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勇気づけられたのはSTRUGGLE FOR PRIDE。音源ももちろん聴いてますが、やっぱりライヴですかね。

おふたりとも育ちは日本ですか?

n:俺はニュージーランドに90年代の5年間くらい住んでいたことがあります。

J-POPが日本から耳に入ってきて意識したりとかは?

n:当時はJ-POPを聴きたかったですけどインターネットもなかったから簡単に聴けなかった。憧れはありましたけど。

janさんは?

j:俺は幼少期から日本です。

では日本の音楽には10代のときから普通に触れていて。

j:それがあんまり……母が好きな洋楽が家ではよくかかっていましたね。ニルヴァーナとかPJハーヴェイとかその当時のリアルタイムなもの。

それでも滲み出てしまう日本の土着感というのがある意味魅力ということですかね。何かミーム的に受け継がれているものが無意識に入っているのかも知れないと……。ちょっと話を変えて、アルバムのタイトルについてですが、「Fracture」という単語には「骨折」とか「硬いものが玉砕する」とか、ちょっと物騒な意味であったり、または「複雑性」という意味もあるみたいですが。

j:辞書をひいて大体初めに出てくる意味は「骨折」ですね。

n:これは実際の経験談から来ているタイトルです。

骨折の経験ってこと?

n:そうなんです。このアルバムのジャケットの打ち合わせも兼ねてアートワークをやってくれたChim↑Pomたちと飲んだ日の帰りに、泥酔していて高円寺の住宅街で足を折ったんです。

野田:もう治ったの?

n:大体。まだボルトとか鉄板入ってるんですけど。

え、けっこうな骨折だ。

n:で、アルバム・タイトルをどうしようって考えていたときに、「骨折」って英語で何ていうんだろう、って調べて。単純に「broken bone」だと思っていたけど、「fracture」っていう言葉があると知って。しかも、janが過去に映画に出ていることがあって、そのタイトルもまた「fracture」で。あ、これタイトルに良いかもなって思ってすぐjanに相談しました。骨が折れる、硬いものが壊れる……破壊、と連想をしていくなかで、僕らがいま生きている2017年~2018年の渋谷を見ると、ビルがどんどん壊されて再開発されている。そこから、時代とも「fracture」というワードが共鳴しているかも知れないと思って、俺の肉体とこの街との繋がりもある、と。初めはそんなに意味を持たせるつもりもなかったんですけど、自然とそうなっていった。

仮にこの曲たちからひとつ言葉を抽出せよとなったとき、「fracture」ってすごくピッタリなワードだと思いました。

n:そうですよね。その気もなく歌詞書いていたら、破壊と再生というイメージが立ち上がってきたというか。終わりからまた物語がはじまるといったイメージ。

いきなり1曲目のタイトルが“THE END”という。ドアーズの同名曲はアルバムの最終曲でしたが、今作では幕開けの曲として置かれている。これにはなにかこうした意図があると思うのですが。

n:そう。曲順上これだけはこうした理由があって。アルバムを作るとなると、いままで作ってきたEPよりちゃんと曲順を考えなくてはならない。けれど、各曲歌詞も「これが最初で、これが次で、これがその次で」といったように時系列的に並べる感じではないし、どうやって決めようかなって思っていたんです。けどこのM1を“THE END”というタイトルにしたとき、ふと、映画も最後に“THE END”となって終わるけど、その映画の世界では明日もあるはずだ、と思って。終わりからはじまるなにかもあるはずだ、と思ったんです。

ネガティヴなモチーフ、終焉、破壊、そして罪の意識、喪失、諦念が散りばめられながら、そして一方で再生への希望も求めている……。実際に「神」という言葉も出てくるし、キリスト教的世界観を強く感じたんですが、それはやはり意識して?

j:とくに意識的というわけではないかもしれません。宗教ついても興味を持っていろいろ勉強もしたんですけど、教義そのものというよりキリスト教美術のあり方が好きで、そういう文献を読んでいたりするから、自然とそれが反映されているかもしれない。そういったなかで、人が何かにすがったり祈ったりするプロセスが凄く美しいなと思うことがあって。地獄から天国へ這い上がる願望だったり、人間の根本的な祈りの心性に魅了されることが多いです。

そういった祈りの賛美という感情がある一方で、諦めというか、すごく膿み疲れている感じというか……ある種の厭世的世界観とのバランスが興味深かったです。日本語訳詞を読んで「こんなダークなことを歌っていたのか」と驚きました。いま自身がそういうモードなのか、前々から本質的ににそういう傾向があるのか。

j:うーん。諦めがあって、しかし祈る気持ちが生まれて、けれどまた諦めて、みたいなエンドレスなループが常にあるかもしれないですね。

衝撃的だったのが「悪魔」というモチーフが頻出でした。しかもその誘惑に惹かれている自己というのが描かれている気がして。歌詞のなかにそういった表現を入れるというのは勇気あることだなと思いました。これは、自らの弱さを表明しているのか、それとも純粋に「悪」というものへ憧れがあるのか。

j:いや、憧れと言うより、悪魔も神もどちらも美しい、という視点で物事をみたいということの現れだと思います。「神も悪魔だし、同時に悪魔も神である」という思いでいます。

naomiさんもそういう世界の見方に対しては共感できる?

n:俺は直接的にはそこまで共感することはなくて……。俺の曲の場合は、あくまで物語というか、そこに作者たる俺の本心や主観的な感情が表れているっていうわけではないですけね。

そのときに物語を駆動させるものは?

n:例えばさっきも話に出た渋谷の再開発で見えてくる破壊と再生というもの……。僕らが制作に至るまで、そして歌詞が完成するまでの日々の歩みですね。それこそ、こうやってみなさんと知り合って話すなかで感じたこととか、友だちと飲んで骨折ったこととか、飲みすぎちゃったこととか、そういったことがベースにあるんでしょうね。

いまの時代これくらいダークな力がある歌詞って珍しいなという気がしました。アメリカン・ゴシックのような世界、例えばある時期のジョニー・キャッシュとか、デヴィッド・リンチとか……それを渋谷っていう風景にオーヴァーラップさせると、ここで描かれているような世界になるのかな、とも思いました。

j:どこにでも潜んでいる伝統的な悪のエネルギーみたいなもの、絶対に変わらない悪のようなものが少しでも輪郭化されて、認識することができれば、逆に恐れがなくなるんじゃないかな、って思うことがあって。無視することでは恐れは解消できないけど、認識することで怯えがなくなるのではないか、というような。

見ないことによって却って知らぬうちにその悪に取り込まれてしまうかも知れない、というね。怖いものをあえて見ることで強くなる、という感覚は分かる気がします。いまの「恐れ」ということで思い出しましたが、やはりこの音楽の、特異ともいうべき静かさについても伺いたいです。静かさって、リラックスもさせるけど時にすごく不安を喚起させもしますよね。子供の頃、周りが静か過ぎることで逆に泣き出してしまったりとか。

J:わかります。

「静か」というのは心地いいということだけではない、という意識があるのかなと思ったのですが。

j:naomiさんと一緒に音楽を作りはじめた時期、反骨精神のある音楽がすごく好きで。そのなかで何がいちばんパンクなのかって考えるときに、もちろん大きい音を出して真正面からぶつかっていくのもすごくカッコいいんだけど、東京の渋谷で、絶えず様々な音が無秩序に鳴っているところで、それを「フッ」と止めるというようなことがもっとも、パンクかな、と思ったんです。

なるほど。コデインとかロウとか、かつてスロウコアと呼ばれたバンドたちも、ポスト・ハードコア的文脈から出てきたということを思い起こさせる話ですね。わちゃわちゃしたものがレベル・ミュージックの主流だと思われがちなところに、カウンター加えてやろう、というような?

j:そうですね。

野田:では自分たちが勇気づけられた音楽ってなんですか?

n:STRUGGLE FOR PRIDE。音源ももちろん聴いてますが、やっぱりライヴですかね。

野田:いつ観たんですか?

n:「RAW LIFE」の頃に初めて観て。

それはどういう意味で勇気づけられたんでしょう?

n:「音楽をやろう!」って思ったんです。「俺もやりたい!」って。みんなが楽しそうにしていて。「RAW LIFE」とか「CHAOS PARK」とかで、大きな規模じゃなくても、自分たちで手作りの楽しい空間が作れるんだ、っていう気持ちを持った。僕らもいつも飲食店とかでライヴをするけど、店の人と俺たちとお客さんだけで勝手にやっている感じ。そういうのはあの時の経験に勇気づけられているかもしれないです。

janさんは?

j:具体的に「この出来事」というのはないんですけど、聖歌かな。いろんな音楽を聴いて、ああだこうだいろいろ考えはじめちゃうときに、ふとグレゴリオ聖歌のレコードをかけたりする。自分の心臓の鼓動だけ聞いて、それに正直にいれば良いんだという気持ちに戻れる。

僕は聖歌を聴いていると美しいなと思うと同時にちょっと空恐ろしくなってくることもあって……。

j:そういう風に感じるプロセス自体も一気にフッとなくなって、子宮のなかにいる胎児のような気持ちになる。完全に無意識に状態になれる。瞑想とは違うんですけど。普段の生活で人と話したことなどは、記憶としては蓄積されていくんだけど、その記憶のなかにだけに埋もれないようにする。その、埋もれないでいられるというこが喜び。

お話しているとふたりで本当にタイプが違いますね。

野田:そうだよねえ。SFP v.s.聖歌だもんね(笑)。

違いもあるけど、でも一緒に演っていると。

野田:むしろ違いがあるからこそ合うんじゃないですかね。

具体的な方向性は違えど、ふたりともエクストリームなものが好きってことは共通しているということですかね?

n:ハッとさせられるものが好き。

変にバランスを取ろうとしているものより振り切れたものが好き?

n:うん。

j:エクストリームなもの、例えばノイズとか聴いていても、俺は聖歌と同じ様に聞こえることもあったりしますね。

音楽以外にもいろいろファッションやアートにも興味があって実際にも繋がりがあると思うのですが、それらについてもやはりエクストリームなものが好きですか?

j:うん。

n:好きですね。

例えばさっきも話に出た渋谷の再開発で見えてくる破壊と再生というもの……。僕らが制作に至るまで、そして歌詞が完成するまでの日々の歩みですね。


jan and naomi
Fracture

cutting edge

Post-PunkEthereal

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野田:アートワークをChim↑Pomにお願いしようと思った理由は?

n:Chim↑Pomとは去年の夏に出会って、彼らのイベントに呼んでもらってライヴをやって。ジャケットは自分たちがやるよりも誰か外部の人に頼みたいなってずっと思っていて、誰か面白い人いないかなって考えていた時、年末に新宿で演ったライヴにまたChim↑Pomが観に来てくれて。ちょうどレコーディングも中盤に差し掛かっていて、そろそろアートワーク周りの話を本格的にしなきゃなってときに彼らに再会したから、その場のインスピレーションで「ジャケの制作とかやるんですか?」って訊いてみたら「いいよ」って言ってくれたので、お願いすることしたんです。

内容はChim↑Pomに一任って感じ?

n:そうですね。いくつか提案してもらって、その中から一つだけ選ばせてもらいました。

(ジャケットを見ながら)これって、琥珀ですかね……? 琥珀のなかに何かが入っている…?

j:いや、ドラム缶なんですよ、それ。

n:ドラム缶の中にエリイちゃんが入っているのを実際に上から撮ったらしいです。

え! そんなんだ。全然気づかなかったけど、そう言われてみるとたしかに人間が入っている。

j:ドラム缶に閉じ込められている女性っていうのが、寂れゆく都市、再生していく都市というこのアルバムの世界観に合っていると思います。

なにかの動物の受精卵のようなものかな、とも思いました。

n:そういう解釈もいいですよね。蓄光印刷にしてもらったので、これが暗闇で光るんですよ。それも受精卵とか、かぐや姫のような感じがあっていいなと思う。

野田:俺は繭のなかに人間がいる、と思ったんだよね。jan and naomiの音楽はどこかシェルターっぽいから、そのなかにいる女の子というふうな見方だった。まさかドラム缶だったとは。Chim↑PomとかSFPとか、渋谷の話とか、基本的にjan and naomiはアティチュードがパンクなんだね。

n:そうだと思います。だから、ジェイムス・ブレイクとボン・イヴェールに対して興味ないのも理解してくれました(笑)?

◎ツアー情報

【Fracture tour 2018】

2018年6月23日(土) 北海道・札幌PROVO
前売り:¥2,500 (税込・1Drink別)
PROVO電話予約:011-211-4821
メール予約:osso@provo.jp ※お名前・人数・連絡先をメールにてお送りください。
【問】PROVO 011-211-4821

2018年7月14日(土) 福岡・UNION SODA
前売り:¥2,500 (1Drink別)
チケットぴあ P-コード: 118-465
Live Pocket : https://t.livepocket.jp/e/4dw_4
メール予約 : info@herbay.co.jp ※お名前・人数・連絡先をメールにてお送りください。
【問】HERBAY 092-406-8466 / info@herbay.co.jp

2018年7月16日(月祝) 京都・UrBANGUILD
前売り:¥2,500 (1Drink別)
Urbanguild HP予約:https://www.urbanguild.net/ur_schedule/event/180716_fracturetour2018
ePlus:https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002262177P0030001
【問】Urbanguild 075-212-1125

2018年7月21日(土) 東京 ドイツ文化会館 OAGホール(6/9チケット発売)
前売り: 立ち見¥2,500・座席指定¥3,500 (1Drink別)
ePlus:https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002262177P0030003
【問】Slowhand Relation inc. 03-3496-2400


◎イベント出演

7/6 TOKYO CUTTING EDGE vol.02
@ liquidroom open/start 24:00
ticket now on sale
Line Up:長岡亮介 / jan and naomi / WONK DJ:SHINICHI OSAWA(MONDO GROSSO) / EYヨ(BOREDOMS) / DJ AYASHIGE(wrench)
https://cuttingedge-tokyo.jp/

Khruangbin - ele-king

 W杯はあいかわらずクソ面白い。まだまだグループ・リーグの途中だが、すでに大番狂わせがあり、名勝負があり、議論があり、波乱がある。日本が10人とはいえ南米の強豪相手に戦前の予想を覆したこともそうだ。しかしそれ以上に、当たり前にして当たり前のことだが、世界にはいろいろな国があるんだということをあらためて思い知ることの喜びというか。エジプトの健闘ぶりを見ながら(そして、サラーの悔しそうな表情を見ながら)、ぼくはリアーナの“Phresh Out the Runway”を聴かずにはいられなかった。これはエジプトのダンスのスタイル、通称マラガンを取り入れた曲である。もっともスウェーデンが勝ったからといってカリ・レケブシュを聴こうとは思わなかったけれど。
 紙エレキングの最新号でぼくは「ドイツをどこが倒すか」などと得意げに書いているが、スキなしと思われたこの優勝候補は初戦でメキシコに敗れた。この試合を観た人ならわかることだが、とにかく、メキシコが素晴らしかった。メディアではアイスランドの現実的で割り切った戦いが賞賛されているけれど、あれはメッシを神格化したアルゼンチンの自滅ともいえる試合だったし、ごめん、ぼくはフットボールは身長でやるものではないという考えなので、メキシコのような戦い方のほうが好きだ。本当に良いものを見せてもらったな。あとは、ドイツとブラジルがトーナメントの初戦で当たるようなことがないことを祈るばかりだ。
 音楽の世界はある意味では不公平かもしれない。ウルグアイのボサノヴァなんてよほどの物好きでなければ聴かないだろうけれど、フットボールの世界ではウルグアイは古豪として一目置かれている。しかし、いや、サウジアラビアやイランにも良い音楽シーンがあるのだから、一泡吹かして欲しい。もちろんポルトガルにもスペインにも紹介したいアンダーグラウンドな音楽はある。日本も国際的に評価されているミュージシャンは少なくないんだけどね。

 なんだかフットボールと音楽がごっちゃになっているけれど、W杯開催中に何を聴けばいいのかというテーマは、この両方が好きな人ならそのときそのときいつも考えることなんじゃないだろうか。じつは今年は、それに相応しいアルバムがある。クルアンビンというタイ語の名前を持つテキサスのバンドのセカンドは、基本はギターのインストをフィーチャーした、良い感じでゆるめのファンクだが、W杯のようにいろいろな国──イラン、タイ、キューバ、アフロなどなど──の音楽のミクスチャーでもある。インターネット時代にありがちな退屈なハイブリッドではない。さながら極上の煙をくゆらせながらの陶酔におけるミキシングであり、演奏である。こんな音楽を聴きながら感動の余韻に浸るのは最高だよ。血の気の多い人も平和な気持ちになれるだろう。アルバムのタイトルはスペイン語で、「全世界で」という意味。

GLOBAL ARK 2018 - ele-king

 DJミクが主宰する〈GLOBAL ARK〉が今年もある。場所は奥日光の、もっとも美しい湖のほとりだ。日本のダンス・カルチャー(とりわけワイルドなシーン)を切り開いていったリジェンド名DJたちが集結し、また、海外からも良いアーティストがやってくる。ローケーションもかなりよさげ。スマホが使えないエリアだっていうのがいい。〈GLOBAL ARK〉は、手作りの昔ながらのピュアな野外パーティだが、スタッフは百戦錬磨の人たちだし、屋台も多いし、宿泊施設もしっかりあるから、安心して楽しんで欲しい。気候の寒暖差にはくれぐれも気をつけてくれよ。

Jon Hassell - ele-king

 ブライアン・イーノとジョン・ハッセルの『ポッシブル・ミュージック』がリリースされて38年が経った。「アンビエント・ミュージック」のシリーズを立ち上げて、すぐにもセールス的に行き詰まったイーノが続けさまにローンチした「第4世界(Fourth World)」というラインの起点となった作品である。ジョン・ハッセルのトランペット・ドローンをメインに「エスニック・サウンドとエレクトロニクス・ミュージックをどう融合させるか」がテーマとなり、批評的には多くの媒体で年間ベストに選ばれるほど大成功を収めたものの、イーノが続いてデヴィッド・バーンとつくった『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースト』をジョン・ハッセルが商業主義的だと批判したことでふたりはそのまま仲違いしてしまう。「フォース・ワールド」は「プリミティヴ・フューチャリズム」を標榜したジョン・ハッセル主導のコンセプトだったため、シリーズ2作目となるジョン・ハッセル名義『ドリーム・セオリー・イン・マラヤ』をもって終了となり、二度と再開されることはなかった。しかし、昨年、〈オプティモ・ミュージック〉は『ミラクル・ステップス(Miracle Steps)』と題された14曲入りのコンピレーション・アルバムをリリース。これには「ミュージック・フロム・ザ・フォース・ワールド 1983-2017(Music From The Fourth World 1983-2017)」という副題がつけられていた。「フォース・ワールド」が終了したのが1981年。その2年後から2017年まで、36年間にわたって「フォース・ワールド」は続いていたのだと主張する編集盤である。「なんとかディフィニティヴ」みたいな発想だけど、これが実に興味深かった。オープニングはメキシコのアンビエント作家、ホルヘ・レィエスによる“Plight”(96)で、彼が得意としてきた厳かなダウンテンポでしっとりとスタート。続いてロバート・A・A・ロウとエリアル・カルマが〈リヴェンジ・インターナショナル〉の新旧コラボ・シリーズに登場した“Mille Voix“(15)やグラスゴーの新人で〈オプティモ・ミュージック〉からデビューしたイオナ・フォーチューン、ポスト・インダストリアルのオ・ユキ・コンジュゲイト、あるいはデヴィッド・カニンガムやリチャード・ホロヴィッツといった〈クラムド・ディスク〉勢にラプーンと続き、全体にやや重怠くまとめられている。〈オプティモ・ミュージック〉らしい歴史の作り方である。

 『ミラクル・ステップス(Miracle Steps)』にはハッセル自身が86年リリースの『パワー・スポット』に収めていた「Miracle Steps」も再録され、これがコンピレーションのタイトルにもなっている。そして、このことがきっかけとなったのか、〈ECM〉からの『Last Night The Moon Came Dropping Its Clothes In The Street』以来、9年ぶりとなるハッセルの新作『Listening To Pictures』がこのほどリリースされた。どうやら純然たる新作のようで、81歳になって〈ワープ〉傘下に新たなレーベルを立ち上げたものだという。演奏スタイルも、これまでのバンド形式からスタジオでミックスを繰り返すなど『ポッシブル・ミュージック』と同じ方式に回帰し、もしかするとクレジットはされていないけれど、ブライアン・イーノが参加しているのではないかという憶測も飛び交っている(だいぶ前に和解はしたらしい)。一応、演奏はギターにリック・コックス、ドラムにジョン・フォン・セゲム、ヴァイオリンにヒュー・マーシュが柱となり、エレクトロニクスにはミシェル・レドルフィを起用。ミックスマスター・モリスにサンプリングされ尽くした水の音楽家で、最近になってデビュー作が〈エディション・メゴ〉から復刻されたミュジーク・コンクレートの重鎮的存在である。また、ドラム・プログラムにはダブステップのベース・クレフからラルフ・カンバーズの名も。これまでライ・クーダーと組んだり、アラブ音楽に接近したりと、それなりに多種多様なアプローチを重ねてきたものとは違い、やはり音響工作の面白さが前面に出ていて、海外のレヴューでOPNを引き合いに出していた人が何人かいたのもなるほど。言われてみるまでそうは聞こえなかったけれど。

 オープニングから意表をついている。コード進行がある(笑)。わかりやすいジャズみたいだし、それがだんだんとドローンに飲み込まれていく。“Dreaming”は見事な導入部をなし、続いてダブステップを意識したような“Picnic”へ。接触音の多用はアルヴァ・ノトを思わせ、ノイズとピアノのオブスキュアなアンサンブルへと連れ去られる。アフリカン・ドラムを駆使した“Slipstream”は『ポッシブル・ミュージック』を坂本龍一が『B2ユニット』風にリミックスしたようで、同じく“Al-Kongo Udu”もノイジーな音処理はダブステップ以降のレイヤー化された美意識を優先させたものだろう。ジュークを思わせる”Pastorale Vassant”は……たしかにOPNっぽいかもしれない。“Manga Scene(マンガ・シーン?)”ではテリー・ライリーのオルガン・ドローンが原型をとどめずに流れ出すなかをムード・ジャズ風のトランペット・ソロが響き……いや、これが本当にジョン・ハッセルなんだろうか。連続性はもちろんあるんだけれども、ここまで変貌できるとはやはり驚きである。プロデュースもジョン・ハッセル本人なんですよ。『絵を聴け』と題されたアート・ワークはマイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブリュー』や自身の初期作を飾ったマティ・クラーワインの手になるものだそうです。

DUBFORCE - ele-king

 ダブフォースは、MUTE BEATのオリジナルメンバー、DUB MASTER X(MIX)、屋敷豪太(Dr)、増井朗人(Trb)を核とするダブ・バンド。WATUSI(Ba)、會田茂一(Gt)らも参加している。いとうせいこうもメンバー入りを表明しているというが、とにかく、ジャパニーズ・ダブの黎明期から場を積んできた強者たちによる、むちゃくちゃ年季の入ったダブ・バンドである。
 もちろんレゲエ/ダブに年齢なんて関係ない。ダブフォースは7月10日、渋谷クラブクアトロの30周年記念イベントに出演する。この島国に流れ着いたベース・ミュージックの発展型をぜひ多くの人に聴いて欲しい。
 また、バンドは初の7インチ・アナログレコードの発売も控えている。詳しくは彼らのホームページを見てください。
https://www.dubforce.tokyo/

@SHIBUYA CLUB QUATTRO

日程:7月10日(火)
場所:渋谷クラブクアトロ
時間:Open19:00 / Start20:00
料金:
前売り 4,000円(+Drink Charge)
当日 5,000円(+Drink Charge)
チケット発売日:4月21日(土)
チケットぴあ:0570-02-9999(Pコード:114-300)https://t.pia.jp(オンラインチケット購入はこちら)
ローソンチケット:0570-084-003(Lコード:70652)https://l-tike.com(オンラインチケット購入はこちら)
e+:https://eplus.jp(オンラインチケット購入はこちら)

チケット取扱店
HESHDAWGZ(03-3475-3475)
HMV record shop 渋谷(03-5784-1390)
HMV record shop 新宿ALTA(03-5362-3360)
Dub Store(03-3364-5251)
JET SET 下北沢店(03-5452-2262)/ ※4/22より取扱い
REDPOT(048-854-0930)

MORE INFO: https://www.club-quattro.com/shibuya/

interview with Moodoid - ele-king


Moodoid
シテ・シャンパーニュ

Because Music/ホステス

French Pop meets J-Pop

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 フランスはなんだかんだといかなる時代においても強力なポップスを生んでいる。とくにこの20年あまりは、エディット・ピアフやセルジュ・ゲンズブールの時代のような言葉への強いこだわりよりも、エレクトロニック・ミュージックとダンス・サウンドへの注力によって、国際舞台で活躍するアーティストを多数輩出していることはみなさんもよく知っての通りである。ダフト・パンク、エール、カシアス、ジャスティス、あるいはシャルロット・ゲンズブール……。それらは別次元からやって来た別次元のポップスのようにぼくたちの耳を楽しませる。ムードイドはひょっとしたらこの輝かしい流れに乗れるかもしれない。
 で、ムードイドという謎めいた名前の正体だが、パブロ・パドヴァーニなる青年が率いるプロジェクトのことである。ムードイドはすでに3年ほど前の2014年に最初のアルバムを出している。それはエールの美学を受け継ぐファンタジーで、しかめっ面をして聴くようなタイプの音楽ではない。そして新作『シテ・シャンパーニュ』においてムードイドは、まさに21世紀のフレンチ・ポップと呼びうる音楽を完成させている。その2枚目となるアルバムでパブロは、ゲンズブール流のポップスとエール流の音響をところどころつまみあげ、それぞれの良さを結合させると、アメリカや日本の音楽からの影響もうまい具合にミックスする。日本? 水曜日のカンパネラの新しいEP「ガラパゴス」には1曲ムードイドが共作というかたちで参加している。じっさいパブロ・パドヴァーニはかなりの量のJ-Popを聴いているようだし、『シテ・シャンパーニュ』はJ-Popに影響されたフレンチ・ポップというなんとも奇妙なハイドブリッド感を有している。
 取材がはじまる前に、ムードイドは日仏会館の中庭でたこ焼きを食していた。うん、とてもおいしかったという満足した顔で、彼は初夏の日差しが差し込む取材の部屋にやって来た。椅子に座って、そして以下のような興味深い話をしてくれた。

例えば、日本ってけっこうポルノっぽいものとか、ゲームだったりとかが日常のなかに溢れていて、そういう騒々しいもの、猥雑なものと、それから伝統的なものとか、禅の考えとか、風水的な考えとかが、本当に自然に共存していると思います。フランスでは考えられないです。

ムードイドのフランスっぽさは、ご自身、意識して出しているんですか?

パブロ・パドヴァーニ(Pablo Padovani以下、PP):じつはフランスでは、ムードイドの音楽はアングロサクソン、英語圏の音楽に近いと言われています。というのも、フランスの音楽、フレンチのシャンソンと言われるものに関しては、非常に歌詞が重要なんです。けれど僕にとって歌詞というか、声はインストゥルメンタルのひとつ、楽器のひとつとしか思っていないので、そういった意味では、もしかしたらフランス的というのが少ないかもしれないです。
でも、たしかに新しいアルバム『シテ・シャンパーニュ』ではもう少しヴォーカルを意識したりとか、ちょっとセルジュ・ゲンズブールぽく歌ってみるとか、ちょっと官能的な感じでウィスパーヴォイスを使ったりとか試みています。フランスにはジェーン・バーキンをはじめ、ウィスパーヴォイスを上手く使う歌手が多くいるので、そこはちょっと意識しました。

なるほど。あなたの初期の曲 “Je suis la Montagne(ジュ・セ・ラ・モンターネ)”がとても好きなんですが、これを聴いたときにはエールとゲンズブールを合体させてアップデートしたようなふうに感じました。

PP:たしかにエールはすごくインスピレーションのもとになっています。彼らが醸し出す雰囲気が大好きですね。その曲ではリヴァーブのなかにヴォーカルが埋もれているようなところがあると思いますが、これはケヴィン・パーカーの仕事です。彼はテーム・インパラとかMGMTとかの仕事をしていますが、そういったところが感じられるのではないかなと自分でも思っています。

さっきあなたがおっしゃったように、たしかにファースト・アルバムはUK、USのロックの影響を感じましたし、ムードイドをやる以前のメロディーズ・エコー・チャンバーの音楽なんかはすごいUKっぽいですよね。そういうあなたのこれまでのキャリアを考えると、今作『シテ・シャンパーニュ』はすごくフレンチ・ポップというものを感じました。

PP:いま「フレンチ・ポップ」と言ってくれたことは、すごく正しいと思います。というのも、ヴォーカルをもう少し意識したということもありますし、ポップというのは自分のなかですごく大きいからです。ただ、影響としてはフランスの音楽ではなく、じつは日本だったりアメリカだったりの80'sのものにすごく影響を受けて作ったアルバムなんです。
たとえば、アメリカのプリンスの影響を色濃く反映させた曲を作るのではなく……、そういう意味では、坂本龍一、YMO、『パシフィック』……松下誠、坂本慎太郎、コーネリアスとか、そういった日本の音楽が、今回のアルバムに関しては自分のインスピレーション音源でした。なので、そういった意味ではハイブリッドという言い方もできるのではないかと思います。

すごく高名なジャズのサックス奏者であるお父さんがいる音楽家庭で育ったと思いますが、ジャズではなくロックやポップスみたいな方へいったのは、お父さんに対する反発心みたいなものがあったからですか?

PP:反発と言えるかどうかはわからないです。とにかく、ポップ・カルチャーに自分は非常に影響を受けていると思います。もともとは映画の勉強をしていたので、ムードイドという名前が知られるようになったのは、自分が作ったMVからだと思っています。“ジュ・セ・ラ・モンターネ” もそうですし “De Folie Pure(ホーリー・ピュア)”という曲も自分でクリップを加工しています。そこが自分のもともとのルーツというか、音楽に関してもポップ・カルチャーの方から来たのではないかなと思っています。ただ、今回のアルバムに関しては、フランスの若いジャズ・アーティストを呼んで、「80年代的な感じで、ジャム・バンドみたいにして自由にやって下さい」と言って録音したので、ジャズの要素もこのアルバムには含まれているのではないかと思います。

国境を無くすということがこの時代のポップ・カルチャーのいちばん大きな部分だと思います。というのも新しいアーティストが受けている影響というのは、インターネットのおかげで、国境が非常に無くなってきている。例えば、J-POPがすごく好きなのですが、YouTubeが無ければ、こんなにたくさんのJ-POPを知ることができなかったと思います。

ポップ・カルチャーというものの可能性についてどう思いますか? 

PP:ポップ・カルチャーには非常に可能性を感じています。自分たちの世代はインターネットもありますし、新しいメディアの形も変わりつつある時代なのではないかと思います。そういったなかで、クリエイティヴィティというものにも新しいものが求められていて、新しいものが出てきている時代だと思うんです。音楽ひとつとっても、クリップも非常に大事ですし、ヴィジュアルも大事ですし。そういった意味で、音楽に対する新しいアプローチというものが求められる時代に生きていて、新しい音楽の歴史がはじまっているような気がします。ポップ・カルチャーはまだまだ新しい扉が開かれるのではないかと思っています。昨日、水曜日のカンパネラと一緒にクリップを録ったのですが、日本人の仕事を見ていると僕たちの20年は先を行っているように思いました。フランスではありえないような、新しいやり方、斬新なやり方がとられていて、まだまだこれから可能性があるんじゃないかなと思えたところでもあります。

ポップ・カルチャーが成しうる最良のことは何だと思いますか?

PP:国境を無くすということがこの時代のポップ・カルチャーのいちばん大きな部分だと思います。というのも新しいアーティストが受けている影響というのは、インターネットのおかげで、国境が非常に無くなってきている。例えば、J-POPがすごく好きなのですが、YouTubeが無ければ、こんなにたくさんのJ-POPを知ることができなかったと思います。そういう意味で、新しいものが生まれ、そしてそれがどんどん混ざっていき、ハイブリッドになっていくということが、ポップ・カルチャーが成しえるもっとも素晴らしいことのひとつだと思います。フランスのシーンをひとつとってもいろいろなスタイルを持ったアーティストそれぞれが自分のスタイルをすごく確立していて、それを前に出していくアーティストが増えているので、やはりポップ・カルチャーのハイブリッドさの成せる業だと思います。

ちなみに、あなたをポップ・カルチャーの世界に引き入れた張本人は誰ですか? 

PP:圧倒的にプリンスですね。

フェイヴァリット・アルバムは?

PP:フェイヴァリット・アルバムというよりも、まず『パープル・レイン』という映画を自分のなかのいちばんのお気に入りで挙げたいです。映画からサントラとしての『パープル・レイン』というのがあって、映画とサントラというひとつの世界観が作られたという意味で、自分がそんなものを作ることができたら良いなと思える憧れの見本みたいな存在です。

さっきからJ-POPの話が出ていて、実際に今回の “プラネット・トウキョウ”と7曲目の “チェンバー・ホテル” にすごくJ-POPを感じました。この2曲はJ-POPですよね(笑)?

PP:本当におっしゃる通りです(笑)。日本の80年代のポップ・ミュージックの作られ方というものにすごく憧れを抱いています。日本のアーティストはすごく技術が高いというのがいちばんに言えることです。日本の80年代の音楽は、スタジオ・ミュージシャン、スタジオでの作業というものが、非常に高みにあがった時代なのではないかと思います。例えば、シンセにしても、ローランドやヤマハ、コルグ、そのあたりが日本で非常に発展した時代だと思っていて、日本はラボそのものなのではないかと思えます。もっとも新しいマシンがあって、もっとも新しい音があって、それになおかつテクニックと音楽的要素がちゃんと重なっている。そういう意味で、このアルバムのコンセプトになっているのが、80年代の日本の音楽であると思います。

あなたは80年代のJ-POP、日本の音楽を聴いて何を想像しますか?

PP:80年代の日本の音楽から連想させるものは、大きな喜びとポジティヴさだと思っています。それは自分にとって音楽をやる上ですごく大切なエモーションでもあります。要するに、ナイーヴとも言えるような善良さというものが、音楽から滲み出てくるというのが非常に自分の心を打つんですね。あとはジャズの影響というものもベースやギターのプレイに感じられます。例えば、アメリカのスティーリー・ダンみたいな感じで、英語で歌を歌ってみたり。そういう日本のアーティストのアプローチがすごく自分にも通じるところがあると思っていて、同じようなことを自分もフランス語でやっていると思うんです。例えば、YMOはクラフトワークのオリエンタル版だと思っているのですが、クラフトワークと違ってそこにすごく温かいもの、何かもっと人間的なものを感じます。『増殖』はラジオ仕様になっていたりとか、ジョークをつねに言っていたりとか。あのアルバムでのアプローチというのはすごい大好きです。

『増殖』はのギャグは、日本語だからなかなか意味はわからないと思うのですけど?

PP:しかしあのアルバムのなかで、英語で会話をしているのに日本語で答えたりしている部分があると思うんですが、すごく自虐的でアイロニカルで面白いと思っています。足が短いとか、性器が小さいとか、そういう話をしていると思うんですけど、そういうところがじつはすごく好きで、自分のクリップでもアメリカ的なものをコピーしたというか、自分なりに解釈してやったというのがあるんですけど、そのなかでも、フランスパンを使ったり、チーズを使ったりして、他の文化に対するちょっとした勘違いというものってよくあると思うんですけど、そういった異文化へのファンタジー、ファンタジーというか、勘違いのなかで生まれてくる新しさみたいなものがすごく大好きです。

80年代の日本の音楽に関していうと、バブル経済真っ直なかの音楽だから日本人はものすごくそれに対するアンビヴァレンスというか、憧れを持っている世代もいるいっぽうで、ぼくなんかはモノによっては素直に向き合えないところがあるんですけどね。

PP:まずひとつ思うのが、国が悪いときにアーティストは良いものを生み出すのではないかと思うんですよね。クリエイティヴィティが刺激されているんじゃないかと思うんです。だからきっと日本の人にとってはYMOの見づらい部分というものが、僕たちの心を打つところでも実はあるんじゃないかなと思っています。これは自分の場合なのですが、東京に初めて来たときに、自分がまったく知らない本当に新しい世界に来たというふうに思いました。暮らし方からしてもそうですし、言語もそうですし、なにもかもが新しくて。そういった意味で、新世界を発見したみたいなところがすごく引き付けられる大きな部分だと思います。そのなかに少し入ってみて感じるのは、生活のなかにある相反する要素。例えば、日本ってけっこうポルノっぽいものとか、ゲームだったりとかが日常のなかに溢れていて、そういう騒々しいもの、猥雑なものと、それから伝統的なものとか、禅の考えとか、風水的な考えとかが、本当に自然に共存していると思います。フランスでは考えられないです。

たしかに。

PP:例えば、アルバムのなかで "レプティル(Reptil)” という曲があるんですけど、これはフランスで起きたテロを経て作った曲なんです。やっぱりフランスのアーティストでテロの影響が直接的でも間接的でもアルバムに現れているアーティストというのはすごく多くて、そういった意味で、国の状況というのが自分たちのクリエイティヴィティに与える影響はすごく大きいと思うし、テロに関して今後も自分たちの音楽のなかに何かしらの影響を及ぼすんじゃないかな。

なぜレプティル=爬虫類だったのですか?

PP:これはこのアルバムで最初に書いた曲で、テロがあったその夜に書きました。1時間くらいで書きあがったんですけど、そのときはすごく悲しい気持ちで書きました。爬虫類というのは、相手を食べてしまったり、自分の仲間すらも食べてしまうような種族なので自分にとってすごくアグレッシヴなものの象徴です。でも自分はそこからどうやって自由でいるかということを歌っています。
ただ、アルバムを作っていくにあたってムードイドの音楽というのは、もっと喜びに満ちていて、そして、いろいろなヴァラエティに富んだものであるべきだ、そして、希望が感じられるようなものであるべきだと思ってきたんです。結局そのあと、曲やアルバム自体が仕上がったときに、このアルバム全体を聴いてみると、もっとお祭り騒ぎ的なものとかも入っていると思っていて。そのお祭り騒ぎというのは結局あの夜テロリストによって、壊されたものだと思うんですけど、その壊されたもののなかから、どうやって生き延びて、自分たちの自由をキープしながら、どうやってお祭り騒ぎを続けていくのか、どうやって愛を重ねていくのか、というようなことを自分は最終的に歌っているんじゃないかなと思います。

ありがとうございました。

 取材の翌日、ぼくは代官山のクラブでの水曜日のカンパネラのライヴを見にいった。途中コムアイに呼ばれると、ギターを抱えたムードイドはステージに上がり、コラボレーション曲を披露した。それはなんとも微笑ましい一幕で、それはどう考えても、未来という方角に向かっているようだった。

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