「Nothing」と一致するもの

芸術に完全はなく、完全なきが故に生命を賭け立ち向かい、挑んで行くのが音楽家の業である筈だ。(高柳昌行「フリー・フォーム組曲ライナーノーツ」)

 モダン・ジャズの俊英として音楽界に登場し、しかしアメリカのジャズの真似事やフォルムの新奇性に汲々とする人々に見切りをつけ、ジャズを求める根拠を掴み取るべくフリー・フォームの音楽を探求し、そしてもはやジャズとは似ても似つかないサウンドを創出し、結果的には出自を異にするはずのメルツバウや非常階段をはじめとしたノイズ・ミュージックと同列に語られることもある人物。そのように時代を画し続けた20世紀の日本のギタリストは高柳昌行を措いて他にいない。日本のフリー・ジャズ第一世代のミュージシャンであり、ギター・ミュージックとしてのフリー・ジャズを確立/発展させた異才。あるいはモダン・ジャズの傍流に位置づけられていたレニー・トリスターノに多大な評価を捧げることによって、正統的なジャズ史のオルタナティヴを提示するとともに、トリスターノ派のクール・ジャズを実践したジャズマン。さらにはのちにジャパノイズと括られもする騒音芸術家である一方で、深夜番組『11PM』にレギュラー出演していたボサノヴァ・グループのリーダーでもあった。またはギター講師として渡辺香津美や山本恭司らを輩出し、大友良英が師事するのみならずローディーを務め、一時期は深く関係していたことも知られている。厳しい即興演奏家であるとともに舌鋒鋭い文筆家でもあり、「日本リアル・ジャズ集団」なる組織を結成して機関誌『ECLIPSE』を発行、音楽批評家である間章やサックス奏者の阿部薫と行動をともにしたのちに袂を分かち、「メタ・インプロヴィゼーション」「アクション・ダイレクト」といった独自の言葉を提起した。フリー・ジャズのミュージシャンという通俗的なイメージを大きく逸脱していくように高柳昌行は様々な活動に取り組み、時代の移り変わりとともに未踏の音楽世界をつねに切り拓いてきた。むろん活動が様々に移り変わるということ自体が珍しいわけではない。そしてそれは時代とともにあらたなスタイルへと変化していったということとは似ているようでどこか決定的に違う。時代の流行り廃りとは別様の音楽のいわば根源にあるものを原理に変遷していった高柳の実践は時代の様式として古びて過ぎ去ることがないのである。日本のフリー・ジャズというジャンルは1970年代の産物としての音楽様式かもしれないが、高柳の思索と実践はこのような音楽様式からはやすやすと逃れ去り、いまもなお新鮮に響いている。それは時代の党派的なしがらみから解放されたいまを生きるわたしたちにとってこそ聴こえてくる響きでもあるだろう。

 生まれこそ東京だが第二次世界大戦のただなかである小中学生時代にはなんども農村へと疎開し、そこで過ごした風景がひとつの原体験として残っているとも述べたことがある高柳昌行は1932年生まれ、彼と同じく日本のフリー・ジャズ第一世代と言われる富樫雅彦や山下洋輔らに比すると一回り年長であった。そうしたこともあり50年代初頭からすでにミュージシャンとして活躍していた彼は、ほどなくして自身のグループを「ニュー・ディレクション・カルテット」と名づけて結成。グループ名義でのアルバムこそリリースしていないものの、『ジャズ・メッセージ・フロム・トウキョウ』などのコンピレーションで聴くことができるその演奏からは、20代半ばにしてすでに卓越した技術を誇るモダン・ジャズのギタリストだったということがわかる。60年代に入ると時代の機運とともに前衛的な音楽へと踏み出し始め、シャンソン喫茶の銀巴里において金曜日の昼に開催されていたジャズ・イベントを拠点に活動。黛敏郎ら現代音楽の作曲家たちによる「二十世紀音楽研究所」を超克するかのように「新世紀音楽研究所」を金井英人らとともに設立して銀巴里を舞台にオールナイトの実験的なイベントも開催していた。その後のジャズの季節は新宿へと移り、1969年に高柳はベースの吉沢元治とドラムスの豊住芳三郎とともに「ニュー・ディレクション」として活動を始め、ニュージャズ・ホールとしてオープンした旧ピットイン2階の楽器倉庫などを拠点にフリー・フォームの音楽を探求し、翌年には最初のリーダー作となるアルバム『インディペンデンス』をリリース。その後もこの「ニュー・ディレクション」というプロジェクトはサックスの高木元輝と豊住芳三郎とのトリオ、阿部薫とのデュオなどメンバーの変遷を経ながらも続いてゆく。1971年に結成されたアルト・サックスの森剣治とドラムスの山崎弘とのトリオは「ニュー・ディレクション・フォー・ジ・アーツ」と名づけられたがその4年後にはベースの井野信義を迎え「ニュー・ディレクション・ユニット」と改称。同年に「日本リアル・ジャズ集団」の機関誌と同じタイトルの名盤『侵蝕(ECLIPSE)』がリリースされている。そして同アルバムが収録された翌月と翌々月に〈ESPディスク・レコード〉からの発表を前提にして同じメンバーでスタジオ録音された音源が、T・S・エリオットの長編詩『荒地』からそのタイトルが取られた『四月はもっとも残酷な月(April is the Cruelest Month)』である。

 アメリカとは異なりジャズに取り組む根拠を持たないように見える「根付の国」においていかにしてアイデンティティを確立し得るのか。日本のフリー・ジャズの立役者たちの多くはこの問いに対して真摯に向き合い、そして本盤もまた〈ESPディスク・レコード〉を通して日本のフリー・ジャズが世界水準にあると示すはずだったと言われもしたものの、それよりも本盤にいま接するのであればフリー・ジャズというジャンルでは括り切れないオリジナルな音楽内容の方をこそ聴き取らなければならないだろう。この時期の高柳は「投射」という用語を頻繁に用いており、それは『インディペンデンス』で確立されたと本人は述べているのだが、音楽における二つの基本形態としての静と動をそれぞれ「漸次投射」と「集団投射」と名づけ、さらに前者は空間性を、後者は時間性を担っていると言うものの明確な定義がなされているわけではなく、むしろ高柳の言に従えば空間はやがて時間を、時間はやがて空間を孕み持ち、すなわち二項対立的に分離され独立しているものではなくむしろ両投射概念は入れ子状になっている。こうした投射音楽が収録楽曲のタイトルとしても掲げられた『侵蝕(ECLIPSE)』に比したときエリオットの言葉が冠せられた本盤においても1曲めと2曲めは「漸次投射」、3曲めが「集団投射」というコンセプトのもとになされた演奏だと推察することができるのだがそのサウンドは様相を大きく異にしており、とりわけ特徴的なのは山崎弘によるドラムスというよりもパーカッションを中心にした演奏だろう。断続的に叩かれ続けるシンバルなどの金属類の響きが持続時間を形成し、繰り返されるコントラバスの重音やバス・クラリネットおよびアルト・サックスの短いフレーズ、そして余韻を十分に残したギターによるフィードバック・ノイズの絡まり合うアンサンブルを聴くとき、これは静も動も空間性も時間性も含み込み、入れ子状になった投射音楽の両側面がむくむくと顔を出しているのではないかという気にさえなってくる。『侵蝕(ECLIPSE)』におけるおどろおどろしさはなく音響の即物性が際立っており、そしてその耳を保って聴き進めてゆくと集団による音塊が絶え間なく放出される3曲めにおいてもなだらかにゆったりと漸次的に変化するドローンのような響きが浮かび上がってくる。喧騒のなかに潜む平静、あるいは稠密化した時間の空間的な広がり。『侵蝕(ECLIPSE)』で明瞭に提示されていた「漸次投射」「集団投射」という概念は、おそらく、本盤においてこそむしろそれらが侵蝕し合う入れ子状の本質を明らかにしている。

 およそ30年にもわたる「ニュー・ディレクション」での活動を経て、あるいはいくばくかの時期が重なりつつも、80年代すなわち50代を迎えた高柳はさらにギターによるフリー・ジャズを探求したグループの「アングリー・ウェイブス」を結成する一方で、それまでとは異なりソロ・ワークが比重を増していく。たとえば『ロンリー・ウーマン』などに残されている演奏はジョー・パスに代表されるようなオーケストレーションとしてのギター・ソロというわけではなく、オーネット・コールマンやアルバート・アイラーの楽曲に範を取ってあくまでも単旋律を中心にメロディーとリズムのなかに自由を見出していく──そのことがかえって個性的な音色を印象づけもするという極めて特異な試みだった。さらに晩年近くの「アクション・ダイレクト」と彼が名づけたソロ・プロジェクトにおいては複数のギターを卓上に寝かせ、エレクトロニクスやテープ・コラージュを使用した大音量のノイズ・ミュージックへと突き進んでいく。そのような道行から振り返ったとき、「ニュー・ディレクション」における活動は投射音楽という名づけこそあるものの、フリー・ジャズやノイズ・ミュージック以前にあるむしろ名づけ得ぬ未明の音楽だったのだとは言えないだろうか。そしてとりわけ「漸次投射」と「集団投射」という一対のそれ自体が入れ子状になっているコンセプトを入れ子状のままに提示し得たことは、実践においてコンセプトの範疇からするりと抜け出していく即興的な生成と変化を聴かせてくれもしたように思う。あるいは即興演奏がつねに未完成であらざるを得ないことから賭けられた生命の軌跡。「インプロバイズド・ミュージックに携わって行く者なら、その範囲は汎音楽に近くなる」(「ジャズ・ノート、批判と断想」)と語った高柳にとって、即興演奏は明らかにジャンルではなくあまねく存在している根源的な行為だったのであり、「ニュー・ディレクション」における未明性は汎音楽としての即興性がもっとも際立つかたちでふつふつと煮詰められていたということに他ならない。おそらく本盤がフリー・ジャズの名門としても知られる〈ESPディスク・レコード〉からリリースされなかったことは歴史の不幸ではなく、むしろジャンルの色眼鏡を抜きにして彼の実践に触れることができる僥倖と言うべきだ。そしてさらに音源発掘や音盤復刻がなされ、CDやレコードのみならずストリーミング・サービスを介してほとんど気負いなく高柳の音楽に接することができるようになった現在だからこそ、聴き取ることのできる響きでもあるだろう。すなわちわたしたちは21世紀の「高柳昌行」にあらためて出会い直すことになるのである。

「愛はあ、地球をォ、救わねえんだよ!」
 何の脈絡もなかった。小学五年生の真夏である。外気温に比すれば信じられないほど快適な温度の部屋で、私は「関東地方で最も恐ろしい塾講師」とすら噂されていた先生に算数を習っていた。先生が冒頭のセリフを言った時、普段一切の許可なき発声を許されなかった私を含む子どもたちが、いっせいに声をあげて笑ったことをよく覚えている。我らの笑いについて、先生は何も咎めなかった。
 私はなぜ笑ったのだろう? 単純にその言葉の唐突さに勢いだけで笑ったのか、恐怖政治の最中に作られた「笑いを許す瞬間」を素直に察知したのか、あるいは「愛は地球を救う」をあっさりと否定する大胆さが小気味よかったのかもしれない。YouTubeの見方を知っているだけでクラスメイトから一目置かれるような時代である。24時間テレビはまだ活気があって、「みんなが見ている番組」だった。「愛は地球を救う」の否定は、「勉強しないで24時間テレビを見るあいつら」を「勉強をするので24時間テレビを見ないわれら」が嘲笑する響きを間違いなく持っていたのだ。
 24時間テレビがいかに陳腐でマジョリティの欺瞞を含んでいるのかは、これまでさんざん批判されてきた。それでもまだあの番組は存続している。まだ続いているということはまだどこかで求められていると捉えるべきなのだろう。公式サイト(参照:https://www.24hourtv.or.jp/total/ 最終アクセス2019年7月15日午後6時)によれば、2018年の寄付総額は8億9376万7362円だったそうだ。寄付金は年々減っているのかと思いきや、推移を見渡してみても如実に下がっている感じはしない。この寄付金で誰かが救われることもあるのだろうし、全否定するのもよくないとわかっているが、どうしても晩秋のゴキブリのようなしぶとさにはぞっとしてしまう。
 考えるほどわからないのだ。「愛は地球を救う」は全てが曖昧だ。愛とは何なのか? 半泣きで100キロ走りきることが愛なのか、障碍のある人にチャレンジをさせて「勇気をもらった」などと述べるのが愛なのか、同じTシャツを着た大量の人間が「サライ」を合唱することが愛なのか。毎年毎年同じことが繰り返されてきたが、いまだに地球は救われていない……というより、どういう状態になれば「地球が救われました!」と言えるのかがわからない。何一つ具体性がない。何を指すのか一切わからない目標は便利だ。「達成しました」も「達成できませんでした」も全部思うがままにできる。もっと言えば、裏に何がうずまいていようが、表向きの目標が「愛は地球を救う」であるなら、多くの人はそれを否定しないだろう。「愛は地球を救う」という字面には、「漠然としたfeeling good」が漂っている。「ねこはかわいい」とか、「お菓子はうまい」とかと同じレベルの解像度であるがゆえに、「愛は地球を救う」なる言葉は広く受け入れられる。

 最近話題になったキム・カーダシアンの「kimono」騒動――キムが自らプロデュースしたブランドの下着に「kimono」と名付け、文化の盗用であると批判され、最終的に名称変更が発表された事件――に際して、私はすさまじい違和感を覚えていた。違和感の対象はキムの決定ではなく、批判者たちのやり方だ(これはキムのやったことには問題がないという意味ではない)。
 例えば京都市が発表した抗議文には、以下のように書かれている。

 「きもの」は、日本の豊かな自然と歴史的風土の中で、先人たちのたゆまぬ努力と研鑽によって育まれてきた日本の伝統的な民族衣装であり、暮らしの中で大切に受け継がれ、発展してきた文化です。また、職人の匠の技の結晶であり、日本人の美意識や精神性、価値観の象徴でもあります。
(出典:https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/page/0000254139.html 最終アクセス2019年7月15日午後6時)

 この文章、本当に何も言っていないに等しい。「きもの」を「(任意の民族衣装)」に、「日本」を「(任意の国・地域)」に変更すれば、あらゆる地域に対して通用する内容だ。着物を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とまで言うのならもっと具体的な歴史について語ってもよさそうなものだが、そういう話は何も出てこない。
 そもそもここで「伝統的な民族衣装」と目されている「きもの」とは、何を指しているのだろうか。BBCの記事には、以下のような「one Japanese women」のコメントが紹介されている。

“We wear kimonos to celebrate health, growth of children, engagements, marriages, graduations, at funerals,”
“It's celebratory wear and passed on in families through the generations.”
「私たちは健康、子どもの成長、婚約、結婚、卒業を祝うため、また葬式の場において着物を着用します」
「それはお祝いの服であり、世代を超えて家族に伝えられました」
(出典:https://www.bbc.com/news/48798575 最終アクセス2019年7月15日午後6時、訳は筆者)

 「祝いの服」としての「着物」……この時点でもう怪しい。「民族衣装」と正装がイコールで結ばれる状況は、ものすごく近代的だ。少なくとも芝草山で刈敷にするための芝を刈る江戸時代の百姓が着ていた「着物」や、中世の被差別民が着ていた柿色の「着物」は、ここでは完全に切り捨てられている。
 前近代において、衣服は身分表象であった。多様な形と機能があることはもちろん、着る人間の置かれた立場を示す意味が付随していた。すなわち「着物」を列島の衣服の中で通時代的に位置付けるとき、ある特定の形の衣服に「着物」を代表させることは、大部分の人間を列島の歴史から捨象する行為と同義なのである。数え切れないかつての生者たちの汗や涙を吸っていた衣服の大部分は、名もない人が必要に迫られて仕立てた普段着であって、職人が気合いを入れて作った高級な晴れ着に「着物」全てを代表させるのは、あまりに偏っている。
 兒島峰「「日本」の身体化」(方法論懇話会編『日本史の脱領域』森話社、2003年)によると、現代における「着物」のイメージは、「身分による着衣規制が解かれた明治期になって確立したもの」(前掲書、235ページ)なのだという。明治初期から半ばにかけて帯の重要性が高まり、昨今イメージされるような大きく立派な帯を締める形に変化していくのだ。兒島氏はこの「着物」イメージの成立時期を、洋服の受容とほとんど同時であると指摘している。「着物」のアイコン化は、明らかにナショナリズムの波の中で起きた現象であった……というより、今われわれが当たり前のように用いている「着物」というカテゴリ自体、この時期に「外部」の目を気にしながら設定し直されたものだと言えるのかもしれない。
「着物」を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とすることのグロテスクさは、改めて批判するときりがない。繰り返しになるが、今「着物」として想像されるスタイルは日本列島の衣服の歴史を代表させられるものではない。かつての首都である京都市が自らを「きもの」文化の発信者であり擁護者であると自負している状況自体、セントリズムであると言ってよい。また現在日本国籍を所持している人の中には、当然「着物」に連なる文化圏以外にルーツを持つ人が数え切れないほどいる。「着物」という曖昧な言葉で示されたカテゴリ内部の変化、揺らぎ、多様性を無視しながら「文化」の守護者であるかのように振る舞うのは、実に奇妙だ。
 兒島氏の「着物文化」批判をさらに引用しておこう。

 着物を文化とみなすことは、自己肯定感を満足させる。本来、流動的で、固定した枠組みを持たない着物は、やはり曖昧な概念である「民族」とか「人種」と結びついて、個人の感情に働きかける。(前掲書、237ページ)

「着物は昔からあるよね」「伝統は守ったほうがいいよね」……抽象的であるからこそ、そして「日本人」を漠然と肯定するからこそ、これらの問いは人の首を縦に振らせる力を持つ。あやふやな概念であるからこそ、ゆるやかかつ広範に合意を回収するのだ。

 今一番警戒すべきなのは、この「ゆるい合意でがんがん拡大するあやふやな概念」なのではないかと感じている。先に挙げた「愛」や「文化」の他はその筆頭であろう。これらの響きは、よい。「漠然としたfeeling good」がある。さらになんとなく重厚な雰囲気と、いかようにも解釈できる曖昧さを持っている。どんな人間でも何がしかの形で自分の気持ちや営みを委ねることができてしまうのである。
 何が問題なのだと思われるかもしれないが、社会が一人一人が違う気持ちでいること以上に、たくさんの人間が抽象的で大きな気持ちをひとつ共有していることを優先するのだとしたら、大量の人間を思うがままに支配したい人間にとって、こんなに都合のいいものはないだろう。その共有されたひとつの気分を口にしてやれば、それだけで大量の人間の感情が喜んで動くのだから。
 洋画が日本で公開されるとき、他にもっと力を入れた部分があるにもかかわらず「愛と感動の物語」文脈に寄せて宣伝を打たれる様子をよく見かけるが、あれもまた「漠然としたfeeling good」によってより広い人びとにリーチすることを狙ったものだろう。「これは愛なんですよ」「こういう文化なんですよ」でなんだってすてきに説明できてしまうなら、一人の人間が自分の抱いた感情がどのようなものであったか、自分の実践がどのような背景でいかに遂行されたかを、細かく言葉にする必要はなくなってしまう。これが恐ろしい。自分の考えや行動を自分の手から離して大きなものに委ねるやり方を繰り返していれば、個人など消えてしまう。そうなれば行き着く先は(もうすでに到達しているのかもしれないが)、他者のいない世界だ。批判も自浄能力もない、ただ全てがなんとなく同じ形であると信じられているぼやけた人混みと、その人混みの一部になるよう強制する静かな圧力だけが残る。

 やっぱり気持ち悪いのだ。私は特に「愛」の語りに鳥肌を立てている。「漠然としたfeeling good」の全てを否定するわけではないが、世間でここまで「愛」が尊いものとして重んじられているのを見ると、なんとグロテスクな仕組みなのだろうと思わずにいられない。批判しないとまずい気がする。くどいようだが、みんな「愛」に具体的なものを委ねすぎなのだ。解像度を下げて大きい括りに回収させる、この繰り返しで「愛」はすっかり幅を利かせているではないか。「愛」の専制は「愛」をそもそも理解できない、必要としていない人たちをシャットアウトするセントリズムであるし、「愛」概念をよくないものの隠れ蓑として機能させてしまう危うさでもある(「これは愛だ」と銘打って振るわれた暴力の事例は枚挙に暇がない)。

 話題にするにはだいぶ遅い話だが、しばらく前に友人が米津玄師の“Lemon”について「あれは抽象的だから売れたのだ」と言っていた。なるほど、あの曲はドラマ『アンナチュラル』の主題歌だったが、死や離別を扱う話であれば大抵マッチするため、どのエピソードで流れても大概泣けるようにできている。多くのおたくがこの曲に心を委ねていたのは印象的な光景であった。好きなキャラクターが死を迎えたり誰かと死に別れたりするシーンになんらかの形で思いを馳せながら、“Lemon”を聴いていたのである。“Lemon”はあらゆる物語が代入可能な感情装置であった。おそらく全て戦略的に設計されているのだろう。“Lemon”に限らず、「市場」全体が抽象的な方向に流れているような気がする。

 今や複雑な合意形成を広範に取り結ぶこと自体、ほとんど不可能になりつつあるのかもしれない。自分が何に対して何を感じているのかを緻密に言語化する作業、自分の宇宙を個別具体的な存在として捉え直す営みを、当たり前のこととして怠けずにやっていく必要がある。このとりとめもなく我ながら説教くさい文章も、「個人」を消さないための実践の一部だ。その時々で一番不安に思っていることを書き起こすと、胸のつかえが少し降りる。今夜は昨夜より少しだけいい。

Holly Herndon - ele-king

 コンピュータ技術などの進歩によって、2045年ごろには、技術的特異点が生じ、これまでとはまったく異なる世界がやってくるらしいが、この技術的特異点=シンギュラリティは、はたしておとずれるのか。
 シンギュラリティとは、制御できないほどに加速していくテクノロジーと、その結果引き起こされる重要な変化に対して人間が対処できなくなる、その加速化の到達点のことをさして言う。これは主にAIの進歩に関してたびたび耳にする言葉であって、AIが用いられている音楽においても同様の意味で用いられるだろう。
 テクノロジー/人間性、ソフトウェア、エレクトロニクス/身体性のような対立項は音楽において切っても切り離せないものであり続けた。実際、1955年〜56年のシュトックハウゼンの〝少年の歌”は、歌われた音響と電子的に制作された音響の統一をはかるというテーマのもとに作曲されたものであった。もちろんテクノロジーはどんどん進歩していくものであるから、テクノロジー/人間性、ソフトウェア、エレクトロニクス/身体性のような対立項の関係性はシュトックハウゼンが1950年代に〝少年の歌″を作曲した頃とは変わっているだろう。音楽の領域においてのシンギュラリティにも人間は近づいているのかもしれない。

 この問いにいま現在のこたえを出したのが自身のAIの赤ちゃんとコラボしたというホーリー・ハーンダンの『PROTO』である。このアルバムは「Spawn」と名付けられたホーリー自身のAIの赤ちゃんとのコラボレーションのなかで生まれた。
 ハーンダンはテクノロジーに対して、「私たちはテクノロジーに向かって走っているが、ただしそれらは私たちの思い通りである」との考えを持っているようだ。そんな彼女の活動に通底するテーマもテクノロジー/人間性、エレクトロニクス/身体性という対立項であった。
 そしてこれに対する彼女なりの答えが、人間の身体とデジタル・テクノロジーを結合させることの可能性を追求することであり、その方法として用いたのが彼女自身の「声」であった。
 1曲名“Birth″から彼女の歌声は引き伸ばされ、加工され非人間的なサウンドを構築していく。が、一方でアルバムを通して人間的な力のある歌声も彼女は披露している。人間的/非人間的な、彼女自身の歌声たちの循環、呼応によってこのアルバムは作り上げられているように感じる。

 私はこのアルバムを聴き、音楽=身体性について記述されているロラン・バルトの声のきめに書かれていたことを思い出した。声のきめとは「歌う声における書く手における、演奏する肢体における身体」であり、私たちはきめ=音の手触りを感じることができる。私たちがそれについて評価したところで、曲がもつ内容は個人的なものでしかなく、完全に科学的なものにはなり得ないのである。ハーンダンの歌声も、AIにより学習され、無機質に、テクノロジーによって加工されていくわけであるが、もととなる声はあくまで彼女自身のものであり、完全に科学的なものにはなり得ないのである。

 音楽の領域におけるシンギュラリティを超える日が来るのかどうかは私にはわからないが、ホーリー・ハーンダンの今作『PROTO』は2019年現在のテクノロジーと人間の関係を体現した作品としてとても価値があることは間違いない。ハーンダンは、エレクトロニック・ミュージックにおけるテクノロジーと人間の正しい関係性を提示しているのである。

OGRE YOU ASSHOLE - ele-king

 嬉しいお知らせです。9月4日、オウガ・ユー・アスホールが3年ぶりのニュー・アルバムをドロップします。心機一転、新たにスタートしたレーベル〈花瓶〉からのリリース。タイトルは『新しい人』ということで、どうしてもフィッシュマンズを思い出してしまいますが、いったいどんな想いが込められているのでしょう。
 なお全国ツアーの開催も決定しており、9月末から11月頭にかけて全国6都市をまわります。ちなみに新たなアーティスト写真は、撮影を塩田正幸が、アート・ディレクションを紙版ele-kingでおなじみの鈴木聖が担当しているとのことで、ヴィジュアル面にも注目です。ひとまずは8月7日に先行配信される新曲“さわれないのに”を待ちましょう。

[8月7日追記]
 ついに来ました。新曲“さわれないのに”が本日リリース、MVも公開されています。配信はこちらから。

[9月13日追記]
 先日発売されたばかりのニュー・アルバム『新しい人』、そこに収録された“朝”のライヴ映像が公開されました。バンドは9月29日から11月4日にかけてリリース・ツアーをおこないます。詳細は下記より。

半分現実 半分虚構
OGRE YOU ASSHOLE の新しい感覚の音楽。
三年ぶりとなる NEW ALBUM にして最高傑作『新しい人』発売決定。

メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンド OGRE YOU ASSHOLE の三年ぶりとなる NEW ALBUM 『新しい人』が9月4日にリリース決定。
それに伴い全国6カ所をまわるリリースツアーの開催も決定。
ツアーファイナルはEXシアター六本木にて開催。
また8月7日にはアルバム発売に先立って収録曲“さわれないのに”の先行配信とMVが公開。

本作には、シンセポップ、ファンカラティーナ~ミュータント・ディスコのエッセンスを含んだ多幸感と虚無感が共生するダンスサウンドやメロウでメディテーショナルなスローナンバー等が収録。
心地よいサウンドスケープに無意識に引き込まれ、たどり着く先にある世界は……
サウンド・歌詞共にバンドの可能性を更に広げる最高傑作が完成。
レコーディング、ミックス、マスタリングは前作同様、バンドを熟知するエンジニア中村宗一郎が担当。

同時に初公開となる新しいアーティスト写真は撮影を塩田正幸、アートディレクションを鈴木聖が担当。

OGRE YOU ASSHOLE
新しい人
2019年9月4日 (水) 発売
金額:¥2,700 (税別)
Label:花瓶
品番:DDCB-19005
収録曲:後日発表

収録曲『さわれないのに』8月7日 (水) 先行配信

OGRE YOU ASSHOLE『新しい人』release tour

9月29日 (日) 松本ALECX
 前売 ¥3,900 / 当日 ¥4,400 (ドリンク代別)
 松本ALECX:0263-38-0050
10月6日 (日) 梅田TRAD
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 GREENS:06-6882-1224
10月12日 (土) INSA福岡
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 BEA:092-712-4221
10月22日 (火・祝) 名古屋 CLUB QUATTRO
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 JAILHOUSE:052-936-6041
10月26日 (土) 札幌 Bessie Hall
 前売 ¥3,900 / 当日 ¥4,400 (ドリンク代別)
 WESS:011-614-9999
11月4日 (月・祝) EX THEATER 六本木
 前売 ¥4,200 / 当日 ¥4,700 (ドリンク代別)
 HOT STUFF PROMOTION:03-5720-9999

◆オフィシャルHP先行 (e+ / 1人4枚まで)
https://www.ogreyouasshole.com/
7/19 (金) 22:00 ~ 7/29 (月) 23:59

◆PG(各イベンター)先行
後日詳細発表

◆一般発売
松本、大阪、福岡公演:8/10 (土)10時~
名古屋、札幌、東京公演:8/24 (土)10時~

OGRE YOU ASSHOLE Profile
出戸学 (Vo,Gt) / 馬渕啓 (Gt) / 清水隆史 (Ba) / 勝浦隆嗣 (Dr)

メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンド OGRE YOU ASSHOLE。
00年代USインディーとシンクロしたギターサウンドを経て石原洋プロデュースのもとサイケデリックロック、クラウトロック等の要素を取り入れた『homely』『100年後』『ペーパークラフト』のコンセプチュアルな三部作で評価を決定づける。
初のセルフプロデュースに取り組んだ前作『ハンドルを放す前に』ではバンド独自の表現を広げる事に成功し高い評価を得る。
2010年 全米・カナダ18ヶ所をまわるアメリカツアーに招聘される。
2014年 フジロックフェスティバル ホワイトステージ出演。
2018年 日比谷野外音楽堂でワンマンライブを開催。
https://www.ogreyouasshole.com/

The Cinematic Orchestra & Floating Points - ele-king

 今年で20周年を迎えるサマソニですが、本日追加アクトが発表となり、ザ・シネマティック・オーケストラフローティング・ポインツの出演がアナウンスされました。意欲的な新作をリリースしている両者をこのタイミングで観られるのは僥倖と言うほかありません。前者はライヴを、後者はDJを披露。土曜深夜枠の「NF in MIDNIGHT SONIC」への出演で、他にはアクフェン、バス、D.A.N.、クニユキ・タカハシ、ウォッシュト・アウト、テイラー・マクファーリンらが名を連ねています。詳しくは下記をご覧ください。

サカナクションとサマーソニックのスペシャルコラボレーション「NF in MIDNIGHT SONIC」に、ザ・シネマティック・オーケストラとフローティング・ポインツの出演が決定!

今年20周年を迎える SUMMER SONIC 2019 (8月16日 - 18日) の追加アクトが本日解禁となり、最新作『To Believe』を提げ、ソールドアウトとなった単独公演も記憶に新しいザ・シネマティック・オーケストラと、先日〈Ninja Tune〉との契約を発表し、シングル「LesAlpx / Coorabell」(デジタル/12インチ)がリリースとなったフローティング・ポインツの出演が発表された。

8月17日(土)の深夜に開催されるサカナクションとのスペシャルコラボレーション「NF in MIDNIGHT SONIC」に出演し、ザ・シネマティック・オーケストラはライブ、フローティング・ポインツはDJを披露!

NF in MIDNIGHT SONIC
2019年8月17日(土)幕張メッセ
OPEN/START 23:00 / CLOSE 5:00
※ OPEN / CLOSE時間は変更になる場合がございます。
※ 「サマーソニック東京3DAYチケット」、「サマーソニック東京8/17(土)1DAYチケット・プラチナチケット」、「NFチケット」で入場が可能です。
https://www.summersonic.com/2019/lineup/tokyo_day2.html#md

また、フローティング・ポインツは、シングル「LesAlpx / Coorabell」を先日デジタルと12インチでリリース! シングルには10分を超える“LesAlpx [Extended]”が収録されており、DJ必携の一枚となっている。

ザ・シネマティック・オーケストラ | The Cinematic Orchestra
ジェイソン・スウィンスコーを中心にロンドンで結成。1999年にデビュー・アルバム『Motion』 を発表し、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスへのオマージュに満ちたジャジーな本作で注目を集めた彼らは、2002年のセカンド・アルバム『Every Day』で本格的にオーケストラ・サウンドを導入。伝説的ソウルシンガー、フォンテラ・バスも参加した本作品で、ジャズ、クラシック、ヒップホップ、エレクトロニカなど様々な音楽性を融合させて音楽性を広げていく。そして、2007年の『Ma Fleur』では、様々なヴォーカリストをゲストに招いて、まるで一本の映画のようにドラマティックな世界を作り出し、収録曲の“To Build A Home”は世界各国で映画やTVCMに起用されただけでなく、最近ではフィギュアスケートの新たな定番曲としても知られている。2019年、12年の時を経て遂に新作『To Believe』が完成し、4月には初となるホールでの来日コンサートツアーを成功させた。

フローティング・ポインツ | Floating Points
マンチェスターに生まれ、現在は作曲家/プロデューサー/DJとしてロンドンを拠点に活動するフローティング・ポインツ。2000年代後半にシーンに登場するや、ハイセンスなダンス・ミュージックのプロデューサーとして早くから頭角を現し、2010年には〈Ninja Tune〉から、16人から成るオーケストラ・プロジェクト、ザ・フローティング・ポインツ・アンサンブル名義でリリースした10インチ作品『Post Suite / Almost In Profile』をリリース。それがジャイルス・ピーターソン主宰の〈Worldwide Awards〉を受賞すると、クラシック音楽からジャズ、電子音楽、ソウル、MPBまでを自由自在に横断するその才能が高く評価を受けた。その後はDJで世界中を回りながら、今やジェイミーXX (The xx)、カリブーそしてフォー・テットなどと肩を並べるほどのステータスを築き上げる。〈Eglo Records〉を共同運営するレーベルオーナーとしての顔も持ち、さらには神経科学の博士号を取得したサイエンティストでもあるという、まさに異才である。

label: NINJA TUNE / BEAT RECORDS
artist: THE CINEMATIC ORCHESTRA
title: To Believe
release date: NOW ON SALE

国内盤CD BRC-591 ¥2,400+税
国内盤特典:ボーナストラック追加収録/解説書封入

label: NINJA TUNE
artist: FLOATING POINTS
title: LesAlpx / Coorabell
release date: NOW ON SALE

Pasocom Music Club - ele-king

 昨年『DREAM WALK』で一気にその名を轟かせた関西のDTMユニット、パソコン音楽クラブが9月4日にセカンド・アルバム『Night Flow』をリリースする。去る5月には Native Rapper の名ダンス・チューン“TRIP”をスウィート・エクソシストばりにブリーピィに再解釈した、あまりに切ないリミックス(とくにインストがヤヴァい)を発表している彼らだけに、いったいどんなサウンドに仕上がっているのか、いまから非常に楽しみだ。リリース・ツアーも決まっているので、下記より詳細をチェック。

tofubeatsも大注目する「パソコン音楽クラブ」、ゲストボーカルにイノウエワラビ、unmo、長谷川白紙、マスタリングエンジニアには得能直也氏を迎えた1年ぶり待望のセカンド・アルバム遂にリリース! トレーラーも公開!!

関西発DTMユニット・パソコン音楽クラブ。2015年11月に結成。80年代後半~90年代の音楽モジュールやシンセサイザー、パソコンで音楽を製作。ロング・ヒットした前作をより深化させてポップ・チューンが満載。ゲストボーカルにイノウエワラビ、unmo、長谷川白紙、マスタリングエンジニアには、tofubeats、cero、石野卓球等を手掛ける得能直也氏を迎えた快心作が遂に完成!! 今年のサマー・アンセム!

夜から朝までの時間の流れにおける感覚の動きを描いた9曲入りの2ndアルバムです。

時間の経過とともに、夜が深まり、日を跨いで朝になるまで、見知ったはずの街並みは刻一刻と表情を変え、その中にいる僕たちの感覚も変化していきます。僕たちは夜を歩き、その特別さへの高揚感、底知れなさへの不安感を覚えます。最後に朝になり、再びいつもの世界へと戻るとき、僕たちの感覚は新しいものへと移り変わっているように思います。 前作『DREAM WALK』では記憶やイメージに焦点を当てましたが、今作はもっと現実と地続きに感じる異質さ、日常的なものが特異になる様子に着目しました。
──パソコン音楽クラブ

アルバム・トレーラー映像
https://www.youtube.com/watch?v=30kmoqeb7MQ

■商品情報
アーティスト:パソコン音楽クラブ
アーティスト かな:パソコンオンガククラブ
タイトル:Night Flow
タイトル かな:ナイトフロウ
発売日:2019年9月4日
定価:2,000円+税
JAN:4526180491194
仕様:CD1枚組
レーベル:パソコン音楽クラブ

収録曲:
1. Invisible Border (intro)
2. Air Waves
3. Yukue [vocal:unmo]
4. reiji no machi [vocal: イノウエワラビ]
5. Motion of sphere
6. In the eyes of MIND [vocal: イノウエワラビ]
7. Time to renew
8. Swallowed by darkness
9. hikari [vocal: 長谷川白紙]

■パソコン音楽クラブ
https://pasoconongaku.web.fc2.com/Index.html

プロフィール
2015年結成。“DTMの新時代が到来する!”をテーマに、ローランドSCシリーズやヤマハMUシリーズなど90年代の音源モジュールやデジタルシンセサイザーを用いた音楽を構築。2017年に配信作品『PARKCITY』を発表。tofubeatsをはじめ、他アーティスト作品への参加やリミックス、演奏会、ラフォーレ原宿グランバザールのTV-CMソングなど幅広い分野で活動。2018年6月に自身初となるフィジカル作『DREAM WALK』をリリース。

Andrew Weatherall - ele-king

 言わずもがな、80年代からDJとして活躍し、数々のリミックスやプロダクションで名を馳せ、セイバーズ・オブ・パラダイスやトゥ・ローン・スウォーズメン、ジ・アスフォデルスなど多くのプロジェクトで素晴らしい音楽を生み出し続けてきたヴェテラン、ポスト・パンクとハウスとの間に橋を架けたUKテクノ番長、アンドリュー・ウェザオールが久方ぶりの来日を果たす。表参道のヴェニュー VENT の3周年を祝うパーティ《VENT 3rd Anniversary》の一環として開催される《Day2》への出演で(サークル・オブ・ライヴを迎える《Day1》についてはこちらから)、なんとオープンからクローズまでひとりでロングセットを披露するのだという。と、とんでもない。いま彼がどんな音楽に注目しているのか確かめる絶好の機会でもあるので、8月24日は予定を空けておきましょう。

伝説! Andrew Weatherall が表参道VENTの3周年パーティーDay2で、オープン・トゥ・ラストのロングセットを披露!

国内屈指のサウンドシステムと、こだわり抜いたブッキングで日本のナイトシーンに一石を投じてきた表参道VENT。8月17日と24日に3周年パーティーを開催! 8月24日のDay2には現代のミュージックシーンに計り知れない影響を及ぼしてきたリビングレジェンド、Andrew Weatherall (アンドリュー・ウェザオール)がオープン・トゥ・ラストのロングセットで登場!

Andrew Weatherall ほど多岐にわたる音楽ジャンルに影響を及ぼしてきたアーティストもなかなかいないだろう。10代の頃からポップカルチャー全体に傾倒し、音楽と洋服と本と映画に夢中になっていたという。音楽制作を始めてからは、ずば抜けた才能を発揮し、New Order、My Bloody Valentine、Primal Scream、Paul Weller、Noel Gallagher、Happy Monday などの制作に関わったり、リミックスを提供。デビュー前の The Chemical Brothers や Underworld などの素晴らしい才能をいち早く発掘したのも Andrew Weatherall 達だった。

アナログレコードをこよなく愛し、今でも幅広い音楽ジャンルのDJプレイを披露している。ロカビリーからテクノまでをプレイする、Andrew Weatherall にとっては音楽ジャンルの壁などは無いに等しい。数々の革命を音楽業界に巻き起こしてきた、真のイノベーターと共に迎えるVENTの3周年パーティーに乞うご期待!

更に超豪華特典! VENTの3周年を祝して Andrew Weatherall が、最新の Mix を2本提供してくれました!

・Mix #1はこちらでお楽しみ下さい!
Andrew Weatherall VENT 3rd Anniversary Mix #1
https://soundcloud.com/vent-tokyo/andrew-weatherall-vent-3rd-anniversary-mix-1

・Mix #2はVENTのメールマガジンに登録してくれたお客様にダウンロードリンクをお送り致します。
https://vent-tokyo.net/
こちらのトップページ中段にあるフォームにてご登録下さい。
※ 不定期にVENTの最新情報をお送り致します。

黒船MMTと参議院選挙の行方 - ele-king

 選挙の夏、反緊縮の夏がやって来た。参院選を闘う反緊縮候補者の動向を追ってみる。

 前回のコラムでは黒船MMTが日本に来航し、国会や各メディアでも多数扱われたことをお伝えした。とくに自民党・西田昌司氏は予算委員会や財政金融委員会を通し、MMTの信用創造システムの理解が正しいか、再三に渡って政府と日銀に対し質問している。

 5月23日の財政金融委員会にて、西田議員が雨宮日銀副総裁から重要な証言を引き出した。銀行は数字を書き込むだけで通貨を創造できるとする「万年筆マネー」、また、新規国債発行を介した政府支出により民間銀行に預金が創造されることを認めたかっこうだ。この点だけを見れば、一般的に言われるように国債は「クニノシャッキン」でもなければ政府の債務ですらないともいえる。このことはいままで主流経済学の教科書やマスコミにより語られていた信用創造の説明が間違っていたことを証明する瞬間ともなり、ツイッターを中心とするネットの経済クラスタたちの間でもちょっとした騒ぎになった。

決済性預金口座というものを提供している銀行だけが、その与信行動により、自ら貸し出しと預金を同時に作り出すことができるのであります。
 (中略)
銀行は私にカネを貸すとき(=民間に融資する)ときは、銀行口座に記帳すると、後から預金が発生するという格好になります。信用創造を通じて預金がが増加するという格好になります。これを信用創造と言っているわけであります。
 (中略)
金融機関が国債を保有し財政支出が行われればそれに対する預金通貨は事後的に同額発生しているわけであります。
 雨宮正佳・日銀副総裁 財政金融委員会(2019.5.23)
https://www.youtube.com/watch?v=W61Srkam7xE&feature=youtu.be


写真 提供: @nonsuke38 氏

 自民党・西田昌司氏は極右とも称される議員であり、自民党が政権に返り咲く以前より安倍首相に近い関係にある議員として知られているが、相対する野党はどうだろうか。MMTは民主社会主義を標榜する米国の左派・サンダース大統領候補にも、そしてガチ左翼の英国労働党党首・コービンにも多大な影響を与える。日本でも、大きな政府主義であるはずの左派、野党にこそ大きく扱われているはずだ。

 しかし、実際のところ野党はMMTに及び腰だ。日本の野党、特に旧民主党系はネオリベの亜種である「第三の道」をひた走ってきた過去がある。グローバリズムや緊縮財政、構造改革を礼賛するようなスタンスでいたため、国の財政が税収の範囲内で運営されるものだと誤認する、いわゆる「家計簿脳」に陥っている。いまでも多くの野党議員が、「政府債務(国債)が民間の預金からファイナンスされている」とする、反緊縮派が「天動説」と揶揄するものを信じて疑わないのだ。

 国家財政は、家計簿や企業会計とはまったく異なる。政府には理論上、無限に通貨を創造できる権限があるが、家計や企業には通貨発行権はなく、その会計原則が異なるものであることは誰にでもわかるはずだ。歳入額を上回り発行される赤字国債は1965年より続けられている歴然たる事実なのに、国会議員の多くが「プライマリーバランスの黒字化」や「身を切る改革」といった政策をもって、国民経済を収縮させようとしている。

 しかし、7月21日に投票日を迎える今回の参院選を前に、かつて「緊縮脳」だとか「家計簿脳」だとかとネットユーザーたちから揶揄されていた野党議員の洗脳が解けはじめたかのような動きが見えてきた。

 薔薇マーク・キャンペーンは、「反緊縮財政」を掲げる野党候補者に「薔薇マーク」を認定、有権者が投票する際の参考にしてもらおうという政治運動だが、同キャンペーンがこれまでに「反緊縮」だと認定した候補が49名もいる。これは全候補の4割にもなる計算だ。薔薇マークの認定基準には「消費税の10%増税凍結」、「社会保障への財政出動」、「大企業や富裕層への累進課税の強化」、「大企業への増税が実現するまでの間、国債を発行してなるべく低コストで資金調達することと矛盾する政策方針を掲げない」、「公共インフラの充実」の5項目があげられている。その5項目中の3項目をクリアすれば認定対象となるとされていて、かなり野党候補者にフレンドリーな内容となっていることにも注意が必要だが、野党議員の間に確かな「反緊縮」の萌芽が現れつつある証左にもなるだろう。


写真 :薔薇マーク・キャンペーンの認定した49人の野党候補者

 筆者個人が、今回の参院選を通じて特筆すべき反緊縮の候補者と議員をあげるなら、国民民主党・玉木雄一郎代表、社民党・相原りんこ候補(神奈川)、立憲民主党・石垣のりこ候補(宮城)、そしてれいわ新選組・山本太郎代表(比例)だ。

 玉木雄一郎衆議院議員が代表を勤める国民民主党の公約では、児童手当を月額1万5千円給付、低所得の年金生活者に月額5千円給付、年収500万円以下の世帯に家賃1万円給付、法人税率の累進化、農業従事者への「戸別所得補償制度」の復活、科学技術への投資などを掲げ、財源としては国債の発行もあげている。同党の掲げる「こども国債」は非常に野心的な試みだ。また、玉木代表個人としては、国債発行を介して得た財源の財政支出先を建設事業に限定することに繋がる「財政法4条」の改定も視野に入れているなど、反緊縮派からの期待も大きい。

 社民党・相原りんこ候補(神奈川)は「反グローバリズム・反新自由主義・反緊縮」をキャッチコピーとし、国債発行を介した財政出動を掲げるなど筋金入りの経世済民派の人材だ。薔薇マークのアンケートには「消費税は5%に引き下げて将来は廃止をめざすべき」と回答しており、他にも政府による最低賃金1500円の保証、累進課税の強化、また最低年金保証制度の確立などを謳っている。おせっかいな筆者が6月に、日本で唯一のMMT教本として知られる中野剛志氏の『奇跡の経済教室』をツイッター上で薦めた際には、即座に購入し自身の政策に取り入れようと努力していただいたほど、国民の声を聞く能力にも長けている。

 立憲民主党・石垣のりこ候補(宮城)は、同党では唯一「消費税ゼロ」を掲げ選挙戦を戦う。7月13日付けの朝日新聞に「“消費税廃止" 反緊縮の芽か」と題された記事が掲載され、れいわ新選組・山本太郎代表と共に特集されるなど、リベラル界隈からおおいに注目される候補の一人でもある。この立憲の公約と乖離するようにも見える主張を貫く姿勢は、しばしば同党の支持者からも攻撃されるほどのハレーションをひき起こしているが、決してブレない姿勢が反緊縮派から支持される理由のひとつだろう。薔薇マークのアンケートには「大胆な財政出動をすべきであり、また、雇用調整として政府直接雇用を大幅に増大するべきと考えている」と答え、MMTのJGP(総雇用保証)的な考えにも触れている将来が楽しみな人材と言える。

 また、石垣候補の同僚となる立憲の落合貴之衆議院議員は、6月18日のBS11の報道番組にて「世界各国で(政府の)借金を増やしていくことにマイナスのイメージを持たなくなってきている。MMT的な考えで財政を積極的にやるべきだ」と発言し、MMTに理解を示しているが、立憲内部にも反緊縮の芽が育ちはじめていることが見て取れる。

 反緊縮財政、そしてMMTをもっとも理解するのがれいわ新選組の山本太郎代表だろう。山本氏は2016年頃より立命館大学の松尾匡教授を経済アドバイザーとして迎え、その反緊縮の経済政策に磨きをかけてきた。参院選前より続けてきた街頭演説では、モニター画面に各種経済指標を映し出しながら自身の経済政策を街場の人びとに訴えかけている。その動画の数々はYoutubeで軒並み数万回単位で再生されており、反緊縮派からの信頼も厚く、ネットユーザーにはMMTの体現者として認知されている。

 しかしながら、筆者が知る限り、山本氏は「MMTを参考にしている」等と発言したことはない。山本氏の発言や経済政策が、MMTの理論と合致する点が多くあるだけなのだ。

 松尾匡教授は、メディア等で「MMTは標準的なマクロ経済学だ」と繰り返し発している。

次のような主張は、よくマスコミなどでMMTの主張とされているが、これらの3派(ニューケインジアン左派・MMT・ポジティブ・マネー派)にも共通する、経済学の標準的な見方である。

・通貨発行権のある政府にデフォルトリスクはまったくない。通貨が作れる以上、政府支出に予算制約はない。インフレが悪化しすぎないようにすることだけが制約である。
・租税は民間に納税のための通貨へのニーズを作って通貨価値を維持するためにある。言い換えれば、総需要を総供給能力の範囲内に抑制してインフレを抑えるのが課税することの機能である。だから財政収支の帳尻をつけることに意味はない。
・不完全雇用の間は通貨発行で政府支出をするばかりでもインフレは悪化しない。
・財政赤字は民間の資産増(民間の貯蓄超過)であり、民間への資金供給となっている。逆に、財政黒字は民間の借り入れ超過を意味し、失業存在下ではその借り入れ超過は民間人の所得が減ることによる貯蓄減でもたらされる。

東洋経済: 「MMT」や「反緊縮論」が世界を動かしている背景

 MMTは、20世紀初頭に「貨幣国定学説」を説いたクナップからケインズ、ラーナー、ミンスキー、ゴドリーらの学説を体系的にまとめたものであり、その基礎は主にケインズ派の間で繰り返し語られてきた「標準的なマクロ経済学」なのだ。

 山本氏の経済政策や発言は、上記分類と殆ど一致する。付記するならば、山本氏は「統合政府論」(政府と中央銀行を一体のものとして一つのバランスシート勘定で捕らえる視点)にも言及し、さらに「公務員を増員し景気を安定させるべき」との発言から、JGP的な考えも踏襲していると見受けられ、MMTの議論をより広く網羅しているともいえる。逆に、上記にある「租税貨幣論」「国定信用貨幣論」のような考えに関する言及はないため、その部分はMMTからは外れるともいえるし、MMTの主要議論となる「内生的貨幣供給論」に関する言及もない。

 山本氏が今回の参院選で強く主張するのは「消費税の廃止」となるが、これは租税が「総需要を総供給能力の範囲内に抑制してインフレを抑えるためにある」とするビルトイン・スタビライザーの理論を深く理解していることに他ならない。子どもから病人にまで課税する消費税は悪税そのものであるし、不況期に増税するなどマクロ経済的にはもってのほかなのだ。

 サンダースやAOC(オカシオ-コルテス)は政治的な理念として経済を語ることはあっても、山本氏が街頭で語るように詳細に踏み込んで経済理論に言及することはない。その点がネットの経済クラスタから賞賛され、そして現在の「れいわ新選組ムーヴメント」を形成する一因となっているのだろう。反緊縮の経済理論を深く理解する山本氏ならではの語り口によって紡ぎ出される政策の数々は多くの人びとを魅了しているようだ。

 反緊縮理論を牽引する松尾教授と藤井聡・京大大学院教授が、去る7月16日と17日に、MMTのファウンダーで、サンダース大統領候補の経済顧問、また民主党の元主席エコノミストとしても知られるステファニー・ケルトン教授を日本に招聘し、シンポジウムを開催した。その様子がテレビ朝日の報道ステーションでも特集されることになった - これは日本のテレビがはじめてMMTをまともに扱った瞬間となる - が、いま、世間の目が反緊縮、そしてMMTに注がれていると感じる。

 現在の資本主義は、略奪型資本主義の構造を強化してきたといえる。世界各国の政府はサプライサイド経済学の論理に則り、グローバル企業や大企業のために規制を緩和し、下請け企業や労働者から搾取しやすい構造を作ってきた。強者による収奪のシステムだ。この世界的な弱肉強食の構造に反旗を翻したのが、サンダースやコービン、イグレシアスやサルヴィーニ、ルペンやメランションらAnti-Austerity(反緊縮)の政治家となるが、そのパラダイムシフトはこの国でも起こりつつある。
 搾取される全ての者が、「変革不可能」だと諦めていたこの国の構造が破壊されようとしている。
 今月21日に、その意志が試される分水嶺が来る。

ピータールー マンチェスターの悲劇 - ele-king


 「やあ、来たのか?」「これを見逃すものか!」
 ──これは来月公開されるイギリス映画『ピータールー』の一場面。サブタイトルは「マンチェスターの悲劇」。ちょうど200年前の夏、英国で起きた出来事を『ヴェラ・ドレイク』や『ターナー』のマイク・リー監督が再現した155分の大作だ。

 1819年8月16日、イギリス・マンチェスターの聖ピーター広場には6万人もの人が集まっていた。晴れ着を着て、近隣、遠方の町から何時間もかけてやってきたのは日に焼けた顔の貧しい労働者たちだ。この集会のテーマは、貴族に独占された議会の改革と全男性国民の参政権獲得を訴えることである。
 時代は、フランス革命から30年、ヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争(ワーテルローの戦い)から4年、まだ戦争の傷は生々しい上、英国ではとくに北部を襲う貧困と労働者の搾取、小麦の高騰などが人びとを苦しめ、怒りがじわじわと広がっていた。ロンドンの中央政府は「(フランスから感染した)革命というコレラ」を防ぐため、法改正や軍事を含むあらゆる方策を練っていて、一方、民衆運動は各地で盛り上がりつつあるという頃。労働者にも選挙権があれば国を変えられる、「目的は自由の回復だ。自由か死か、だ! 無気力を捨てよう」「もう餌食になってはいけない。赤ん坊を泣かせておいてはいけない!」「大木はどんぐりから生まれるんだ。自由になろう!」「我々を食い物にしている圧政者から人生を取り戻そう」等々──熱のこもった街頭での演説が、自分を無力と決めつけていた人びとの気持ちを変えていく。そして、「いまは時代が悪いだけ」という諦めが少しずつ消えてゆく。

 政府や義勇軍(私軍)に付け入る隙を見せてはいけない、弾圧の口実を与えてはいけないと、集会主催者たちは徹底的に暴力の可能性を排除する。広場の石をすべて取り除き、参加者が自衛のために持つ棍棒を取り上げる。「上品に振舞おう、見返してやろう。与えてもらうんじゃない。英国人として持っている本来の権利を取り戻すだけだ。さあ、晴れ着を着て広場へ行こう」
 休みなくこき使われ、給料は雀の涙。顔も爪も真っ黒に汚れ、でもどうにもできないと諦めていた200年前のマンチェスターの人びとが、ついに広場にたどり着いたとき、自分と同じ人たちに出会う。出会っただけで、汚れた顔が自然にほころび、笑みがこぼれる。なけなしのパンを分け合って、どこから来たのかと尋ねあい、私は孤独ではないんだと本当に気づく。
 

 今年の春、私はフランスの民衆運動「黄色いベスト」の本を編集したのだが、そういえば、そこでも同じ話が出てきた。田舎の貧しい中高年労働者たちは、黄色いベストを着て町外れのロータリーに集まり、同じ悩みや不安を話し合うことで、もう孤独ではないことを知ったという。
 政治集会でなくてもいいとは思う。それでも、参加者みんなが「未来を変えよう」という気持ちを持っているのは政治集会ならではの華やぎがある。
 なるほど。古来、政治集会には、晴れ着でいくものなのだ。
 この映画を試写会最終日に見たその日の夕方、私は品川駅前広場に少しずつ増えてくる人を見ながら、午前中に試写室で聞いた「これを見逃すものか!」というセリフを口にしていた。「これ」とは、れいわ新選組の「れいわ祭り」のことだ。

 山本太郎が自分の新しいパーティに「れいわ新選組」と名付けたとき、正直言って私はがっかりした。彼については他にもいくつかがっかりしたことはある。けれども比例名簿の候補者が決まっていくにつれ、それらの「がっかり」が小さいことに思えてきた。
 そもそもこれまでインターネットの国会中継で何度も見てきたのは、山本太郎が「もっとも力を持たない人」を擁護する場面だった。国会での山本議員は、公園で野宿するホームレスや入国管理局の収容所で虐待される外国人、原発事故の影響で政府の援助を受けられず自主避難する人びと、生活保護をカットされる困窮者など、選挙権も持たない、あるいは政治どころじゃない、明日の命も不安な人たちの代弁ばかりしていた。政治家にしてみれば、選挙でもっとも票に繋がらない人びとだ。
 そして、今回の選挙で比例名簿の特定枠(優先枠)に、ALS患者と重度障害者という2人の車椅子生活者を擁立した。今回の参議院選挙では性的マイノリティをはじめさまざまな立場での少数者が「当事者」として立候補している。私は必ずしも「当事者」であることが金科玉条とは思っていない。「人はみんな違う」と「人はみんな同じ」はたいして違わない。どっちにしても「だから、1人1人に権利がある」わけで、どの「当事者」であろうと、社会が全体として重要視する大きな価値は共有できる。
 とはいえ、象徴的な「当事者」が、多くの「1人1人」に示唆を与えてくれるということは大いにありうる。そして、山本太郎が作った候補者名簿は、本当に厳選された象徴的な「当事者」がずらりと並んでいる。とくに特定枠の2人が国家議員になったら、日本の国会は物理的に大きく変わらなければならない。スペースのバリアフリーはもちろん、国会議員は介護者とともに行動する自由を得るだろう。その動きは国会だけでなく、日本全土に広がらざるを得ない。それが実現した日本社会を想像してみよう。間違いなく、いま(たまたま)健康な体で暮らしている人たち「にも」さらに暮らしやすい社会になっているはずだ。例えば、自転車で往来しやすいだとかね。
 「やあ、来たね!」「これを見逃す手はないよ」──そんな気分で、政治集会に来た。このグループの主張はどれも、「現在いちばん力を持たない人を先に助ける」ことから出発している。
 例えば東京オリンピック招致を批判しつつ、その開催を盾に取り、「五輪憲章の人権条項を守って、入管収容所での虐待をやめるよう法務大臣に言ってくれ」と、なんども五輪大臣に食い下がる姿からは、使えるものはなんでも使って目的に近づこうとするプラグマティストだ。細かい話だが、比例名簿の「特定枠」は、自民党のご都合主義による新制度で山本太郎も反対したはずだが、いざ選挙となったら率先して使っている。しかも、自民党が想定していたような保身的手法ではなく、選挙後の国会に大きなインパクトをもたらす使い方でだ。なんというか、存在する制度の力を最大限に増幅させるやり方で使ってしまう、きっとこういうのをこそプラグマティズムというのだ。

 この数年、「右か左かではなく、上か下かだ」というスローガンは日本でもよく使われる。けれども、「右か左かではなく」は言うより難しいようで、私が見るところ、たいがいはその政治家(政党)のパプリックイメージによる左右評価の固定化を逃れるための言い訳に使われている。ちょっと教養があって、これまでの政治史やその文脈を知っている頭では、なかなか左右軸から逃れることはできない。しかし私は、ある政治家が保守なのか革新なのか、自由主義なのか復古主義なのか、などということはどうでもいい。少なくとも、そのような言葉で自分自身を説明しようとする政治家には興味はない。そのようなことは、その政治家が主張する政策や思想から有権者が判断することではないか。細かい政策のいちいちではなく、思想を表してほしい。もちろん政策の蓄積によって表す人もあろうし、国会質問からそれが伝わる人もいる。ところが山本太郎の「左右ではなく、上下」はきっちり言葉通りだ。「左右」は彼の話題にも出ない。頭のなかにはたぶん本当に「上下」しかないのだろう。
 山本太郎の今回の比例名簿は、その意味で、彼の思想の表現だと私は思う。生きるためにもっとも他人の手助けとコミュニケーションを必要とし、ただ生きる、ということを、おそらくは誰よりも考えてきたであろう2人の候補者をはじめ、国会や永田町に、この日本の社会全体に、違和感を与えて余りあるメンバーを並べ、「あなたの星を探して。きっとこのなかにいる」という。これは哲学的な問いかけだ。そうして、この「当事者」たちは、単にマイノリティーの代表から、ある思想を共有しようではないかという呼びかけに変わる。これが山本太郎の今回の「選挙運動」だと、私は理解した。

 さて、映画『ピータールー』は6万人の控え目で晴れやかな希望が上品に最大限に膨らむのを見届け、一気に「悲劇」へと向かう。英国史上、最悪の政治的虐殺事件と言われるものだ。馬上からサーベルを振りおろしたのは、「革命というコレラ」を恐れた政府が用意した過剰警備の機動隊だ。いつも民衆は負け続けている。一時期は勝っても、最終的には負ける。いや、しかしそれは「最終」ではない、のだ。
 現にこの悲劇をきっかけに、事件を目撃した人たちによって、志のある革新的な新聞『ザ・ガーディアン』が創刊される。そしてこの後、イギリス各地で幾度も民衆は蜂起して、労働者の権利とイギリス国民として当然の権利を手にしていくことになる。さらに、いまもブレグジットをめぐる運動や「絶滅への反逆(Extinction Rebellion)」と言われるものなど蜂起は続いている。

 品川駅港南口広場で3時間楽しんだ「れいわ祭り」からの帰り道、私が歌っていたのはこれだ。

〜イキがったりビビったりしてここまで来た ツアーがどこへいくのか 誰も知らない 子供騙しのモンキービジネース まともな奴は一人もいねーぜ〜Yeah!!
RC SUCCESSION“ドカドカうるさいR&Rバンド"

 山本太郎の演説はすごい。会場ではハンカチで涙を拭っている聴衆もいる。私もユーチューブで聞いたスピーチで何度も涙ぐんだことがある。一方で、「できもしないことで気をひくホラ吹き、ポピュリスト、ファシスト」等々、批判も事欠かない。れいわ新選組の経済政策が本当に正しいのかどうか、私にはわからない。そんなことわかるはずがないじゃないか。けれども、彼らが目指そうという方向に、私も行きたいと思った。いちばん弱いものが生きられる社会。言い古された理想だが、山本太郎の作品である比例名簿は、そちらを指差しているのではない?  ダメでもまた起きるだけさ。

別冊ele-king 続コーネリアスのすべて - ele-king

『コーネリアスのすべて』の続編が登場!

再発される『The First Question Award』と『Point』にフォーカスした
ファン必読のロング・インタヴュー
および秘蔵写真
そしてコレクターズアイテム
などなど

細野晴臣や砂原良徳との対談、
メンバーの取材などを交えながら、
コーネリアス・ワールドをお楽しみください!

■目次

PHOTO STORY
写真=濱田晋

LONG INTERVIEW CHAPTER 1
ファースト・アルバムにしていまのところ唯一のポップ・アルバム
 まずは『The First Question Award』について

LONG INTERVIEW CHAPTER 2
いかにして音は削ぎ落され、独自のサウンドが構築されたか
 そして『Point』について 

CROSS TALK
細野晴臣×小山田圭吾「エッセンスとデザイン、日本と海外、水平と垂直 ふたりの類似点と相違点」
砂原良徳×小山田圭吾「いちど全部捨てたところから『LOVEBEAT』も『Point』も生まれた」

INTERVIEWS
堀江博久「1990年代前半は数ヶ月ごとになにかが動いていた」
大野由美子「コーネリアスはクセナキスに近い!?」
あらきゆうこ「コーネリアスというホーム」
辻川幸一郎「認識としての映像」杉原環樹
大西景太「映像による『聞こえ』の手ざわり」
中村勇吾「デジタルの宿命を超える表現」

CRITIQUE, COLUMN
大久保祐子「25年目の『The First Question Award』を聴きながら」
草彅洋平「僕の90年代」
野田努「コーネリアス私論、および『Point』について」
イアン・F・マーティン「ポストモダンを背に~『Point』におけるポイント、視点、論点、そして音の点をめぐる考察」
松村正人「音のひとのことば」
畠中実「もうひとつのディメンション~コーネリアスにおけるヴィジュアル・ミュージックとしての映像表現」

ARCHIVES
「『The First Question Award』コレクション」ばるぼら/siloppi
資料「英米音楽メディアはコーネリアスと『Point』をどのように受け止めたのか?」

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972