「Nothing」と一致するもの

 昨今のコロナ禍を受け、world’s end girlfriend が興味深い試みをスタートさせている。新たに Fatal Defect Orchestra なる名義を始動、寝ているだけでアーティストをサポートできるというアルバム『Sleep Resistance』を4月17日にリリースしているのだ。30秒程度のアンビエント・トラック全36曲が詰め込まれたトータル20分ほどのこの作品、就寝時にリピート再生しておくことで一晩で300~500円ほどの売り上げになるのだという。同作の売上はアーティストやスタッフなどのサポートに用いられるとのこと。スポティファイやアップル・ミュージックなどのストリーミング・サーヴィスに加入している方は、ぜひ実践してみよう。


https://linkco.re/xh29EU3r

world’s end girlfriend が現在の新型コロナウイルス蔓延、そしてポスト・パンデミックの時代へむけた新たな抵抗/実験のひとつとして、ストリーミングサービスだけで作品を発表する新名義 “Fatal Defect Orchestra” を始動しアルバム『Sleep Resistance』を4月17日急遽リリース。
『Sleep Resistance』はリスナーが各ストリーミングサービス上で睡眠時に今作をBGM(または最小音量による非BGM的物音)として毎晩リピート再生することにより、リスナー自身への金銭的負担はほぼなく、直接アーティストに金銭的サポートができる、という作品になっている。
美しい鼓動のごとく20分間静かに展開される今作は全トラックが約30~40秒で刻まれる、これによって1リスナーが睡眠時にアルバムをリピート再生することにより一晩で約300円~500円程度の売上が推測される。
今作の売上は新型コロナウイルス蔓延の影響によって厳しい状況に追い込まれた友人アーティストへのサポート、身近なフリーランスの演奏家、スタッフ等へのギャラ上乗せ分、また今後のレーベル存続のための資金にあてられます。

コメント:
「この作品はお金を生むことをメインの目的とした方法論の作品です。その金によって今を生き抜き、そしてまた自由に音楽作品を作り、リスナーに届け続けれるように。
この作品がどのくらい金を生むかはわかりませんが、これはこれから繰り返し訪れるであろうより厳しく新しい地獄の季節への抵抗と実験の一つです。
私は新しい闘い方を探し続けます。
皆様に美しい睡眠が訪れますように。そして共に闘い、また爆音の中で身体を寄せあい踊り笑いあいましょうね。

world’s end girlfriend / Virgin Babylon Records」


artist: Fatal Defect Orchestra
title: Sleep Resistance

Spotify: https://open.spotify.com/album/2XGxtxNKc7q2s7M84LL9qL
Apple Music: https://music.apple.com/jp/album/sleep-resistance/1505442953
その他ストリーミングリンク: https://linkco.re/xh29EU3r

新実存主義 - ele-king

 新型コロナが猛威をふるう一方でペストがはやっている。といっても後者は本、アルベール・カミュの1947年の小説をさす。『ペスト』の表題をもつこの本に言及した文章を2020年の3月以来頻繁に目にするようになった。新聞の論説、書評欄、コラム、ネットでの記事、テレビでも一週間前の日曜だったかに教科書的名著を何回かの放送で要約する教養番組で『ペスト』の回の一挙再放送があったばかり。おそらく多数の言及があるのは『ペスト』は感染症を主題にした小説の嚆矢であるとともに、戦争の災禍という不条理とそこへの反抗、それが結果した人間の行き方をも射程に入れることでいまここにある現実のかっこうの手引きたらんとする。むろん感染症をあつかったフィクションは文学の他分野から映画やドラマや舞台にもいくつも存在し、現実を下敷きにしたものもあれば、記号的道具立てにとどまる場合も象徴的な機能を担うパターンもある。多くの場合、作品は寓話的なニュアンスと現代文明への象徴性をはらみ、いかめしい顔つきなのは題材が生と死に無縁でないからだが、そのように一見して鈍重な扉でも開くと、個々の作品はそれが作品と呼ぶにあたいするものであれば、数語の見出しにはとうていおさまらない広がりをしめす空間性をもつ。あいにく私は思春期にひもといたきり、『ペスト』は再読しておらず、本稿をおこすにあたってせっかくだから読み直してみようと図書館を訪れるつもりが、私の暮らす東京の街の図書館は完全に門を閉ざしてしまった。そのようなことで『ペスト』については遠いむかしの記憶をたよりすることをお断りするが、カミュと同じくノーベル文学賞を受けた小説家の感染症がモチーフの小説でも、ル・クレジオの『隔離の島』やジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(原書の刊行はともに1995年)よりずっとおもしろかった(憶えがある)。全体や具体的な細部をいうのではない。本を読むさなかにある読者の身体に働きかける力といえばいいだろうか、読むものを前にすすめるなにかがあった。むろん異なる条件下の比較であるから割り引いてお考えいただきたいし、いざ再読してみるとそうでもないこともままある。とまれ極限の状況下でのさまざまな来歴の登場人物からなる群像劇はロックダウンした都市が舞台の点で──島が舞台のル・クレジオの『隔離の島』ともかさなるが両者の比較は本稿の任ではない──私たちの現在を彷彿しそれを背景に倫理が迫り出すのも同断である。ただしカミュの描く倫理は哲学、宗教、政治のための普遍を意味しない、作中人物の胸のうちに去来し自問しときに対話のなかにあらわれる、いうなればフィクションのなかのキャラクターの発言や内面にすぎないが、そのようなものであっても、というより、そのようなものであったればこそ、たしかに存在するのだと、マルクス・ガブリエルなら述べるに相違ない。

 そのような論点をふくむガブリエルの、まとまった翻訳書としてははじめの本となる『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳/講談社選書メチエ)が話題になったのは2018年。最新(かどうかはおってご説明したい)の哲学的知見をふまえながらやわらかな語り口と1980年生まれの若さ、その時点ですでに大学に教授職をえた聡明さにたのみ、同書は初版発行の2、3ヶ月後、私が手にしたときにはもう5刷を数えるほどのヒットを記録していた。さらに2年後、ガブリエルがみずから築きあげた思想の体系をさす『新実存主義』(廣瀬覚訳/岩波新書)を世に問い、本稿はそれを述べるものだが、上述の『なぜ世界は存在しないのか』と昨年刊行の『「私」は脳ではない──21世紀のための精神の哲学』(姫田多佳子訳/講談社選書メチエ)とも、かさなりあう点もすくなくないので、あわせてみていきたい。
 『世界』の序にあたる「哲学を新たに考える」には新実存主義についてふれた箇所がある。それによれば新実在論(『世界』では「新しい実在論」)は「ポストモダン」以後の時代を特徴づける哲学的立場なのだという。用語だけとれば、ポストモダンは本媒体にも頻出する(自戒をこめてもうしておりますよ)ので読者にもおなじみのことばかもしれないが、ガブリエルの見立てでは、この世界にはおよそ私たちにあらわれるかぎりでの事物しか存在しないとするのであり、その背後にはひとはみずからの認識をとおして世界を(再)構成するのだという構築主義がかいまみえる。すなわち私たち人間には認識がすべてあって、それ以外には知りようもない──というこの立場は、人間よりむしろその感覚や経験の向こう側の現実の総体である「世界」についての論理を展開しようとする形而上学とまっこうから対立する。
 ちがいは世界のなかへの人間の位置づけ方にある。構築主義には人間が認識する世界しかなく、形而上学には人間と関係なく世界だけがある。とはいえこれだとふつうの人間の実感に乖離している。それゆえに新実在論の出発点になるのは「それ自体として存在しているような世界を私たちは認識しているのだと」という仮説である。
 ここで「心」が問題になる。「心」と聞くと、すわ自己啓発本かと身構えたり身を乗り出したりする読者がおられようが、新実存主義が「心」をとりあげるのはその一語で包括できる実存や現象は存在しないということである。心がもたらす現象には生物学的な物理法則が支配的な側面があれば、意識があったり自己自身を知っていたりする心の動きの側面もあり、それらをあらわすことばを心的語彙というが、「そうした語彙によって拾い上げられる一個の対象など、この世界には存在しない」。しかし一方で、人間を人間たらしめる心を自然に帰して一件落着とするわけにはいかない。ここでいう自然とは自然主義的な自然、文明や規範や神などのいない自然であり、『世界』では「宇宙」と呼ばれる「意味の場」である。私たちは森羅万象を包括するものとして「宇宙」という言い方をよくするが、新実存主義において「宇宙」は自然科学の対象領域にすぎず、レコードやギター、それによって奏でられるラヴソングや、ふやけた歌を批判する批評や、そのような歌に涙すエモーションや、『ペスト』に登場する医師や新聞記者や神父など、物質や非物質、虚構や表現や行為や想念など、あらゆる対象領域を包括する「世界」よりはずっと小さい。というより原理的に宇宙は世界にふくまれるが、ガブリエルによれば、およそ存在するものは、彼のいう「意味の場(Field Of Sense)」に現象しなければない。存在するものに先行するでも随伴するでもない意味の場、存在の影にも似た意味の場が必要なのだが、すべてを包括する世界があるとして、ではその世界はどのような意味の場に影をおとすのか。世界とて存在論では特権的ではない、意味の場から免れるわけにはいかないのだから──との理路が導く無世界観が書名にもなった「世界は存在しない」という結論なのである。このような考えが描出する世界は文字にするととりとめもないが、形而上学的な無謬の統一性がないかわりに、ポストモダンのトリックもなく、私たちの暮らす世界ほどちかいリアリティをもっている。本邦の読者がガブリエルの思想をこれだけ広くうけいれたのはおそらくそのようなバランス感覚に富む説得力による。とはいえこのことはガブリエルが穏健派であることを意味しない。哲学には古代ギリシアにはじまる大河のような歴史があり、きら星のごとき賢者たちが星の数ほどの問答のはてに遠大な知の地層をつみあげてきたが、『新実存主義』はその最上部をともに構成する幾多の知見へ批評を投げかけるのを臆さない。
 目立つのは自然主義への批判であろう。自然主義とは先にもすこし述べたが、世界から心や超越的存在をとりのぞいた、科学的な考察、自然の語彙を対象とするもので、唯物論や認識論や進化論をふくむ。いま風にいうと理系分野を中心に客観性を謳いエヴィデンスをもつ事物となるだろうか。一般的にもっとも信頼できるはずのこれらの知見へ新実存主義は意義をもうしたてるのは自然主義が心をうまくあつかえないから。その端緒には心と身体は同じか否かを考察したデカルトにはじまる心身問題がある。心身問題は二元論ないし一元論の哲学の命題のひとつとして、いまでは心と脳をあつかう心脳問題に移行しているが、非物質を相手にしない唯物論では心はせいぜいニューロンの発火がもたらす現象にすぎず、心と身体(脳)の関係について議論を深めるためのテーブルに就こうともしない。一方でテーブルの上座(がテーブルにあるかはともかく)に鎮座する心の哲学、心脳問題が主要なテーマの心の哲学におけるチャーマーズの有名な思考実験(ゾンビ論法)などでも唯物論は退けられないとガブリエルはいう。このへんのながれは説明するにもこみいってしまうので、読者は本書および『「私」は脳ではない』を手にとっておたしかめいただくとして、心と自然のちがいをみとめながら両者のギャップを自然のなかに位置づける(いうなれば心を科学=物理現象に還元する)唯物論ないし自然主義におちいらないために、ガブリエルが編み出した道具立てが「精神」である。
 彼のいう「精神」にはドイツ語の読みである「geist(ガイスト)」をあてる。「精神(ガイスト)」とは心をもつ意識の主体が自己を表現するのにもちいる心的語彙をとりまとめる不変の統一構造をさすのだという。ガブリエルは自然種と精神における言語の意味論的なふるまい──自然の法則が完全に支配する前者と、意志にかかわる後者──を比較検討し、精神と自然種を論理的に区分することで、私たち人間はたんに自然の法則に縛られた奴隷ではなないのだと論を運ぶ。いかに厭世的で過激な自然保護主義者であっても彼の描く人間観は精神に基づいており自然種には属さない、さらに人間観をたずさえた主体の行為がかたちづくる歴史や規範や制度もまた自然ではない。
 そのように人間を描く思想が新しい実存主義を名乗るのもうなずける。もっとも実存主義にはカント、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、ハイデガーからサルトルにいたる伝統がある。初期には実存主義者とみなされた冒頭のカミュもふくめ、彼らが共有する前提は「精神、つまり人間の心に制度をつくる能力があるという信念」であり、それゆえに『ペスト』における規範喪失状態(アノミー)は精神をむしばむ不条理となる。もっともガブリエルの文体はサルトルやカミュほどの文学性や韜晦さもない。とはいえ『新実存主義』の歯ごたえは一般向けの教養書の体だった『世界』や『「私」は脳』ほどやわらかくはない。お得意のたとえ話(思考実験?)も、ちょっとばかしハルキ風だった『世界』や『「私」は脳』にくらべると堅苦しいし、そもそも本書は構成からして、ガブリエルによる新実存主義を解説に4人の同業者が疑問、反論を加え、ガブリエルが再反論する体裁をとっている。本稿が述べるのは本論の概略で、新書版200ページあまりの数十ページにすぎず、それさえもうまくいっているかいささか心許ないがそれはさておき、読者にはマクリュール、テイラー、ブノワ、ケルンら4名のコメントにもお目通しいただければ、ガブリエルの思想の明晰な提言性があきらかになる。新実存主義はそのマニフェストであり、前提や行間に多くのものをふくむその体系を数語に要約するのは乱暴だが、本書の「序論」をかねるマクリュールの一文の表題「穏健な自然主義と、還元論への人間主義的抵抗」は実感に即している。これまでみてきたように新実存主義は自然主義に批判的だが、科学に弓をひこうとしているのではない。あらゆるものを科学に還元する思考法を手厳しく批判するのである。すべてを包括する形而上学的な理論の無効性を主張する新実存主義は自然とともに心や精神の存在をみとめることで唯物的人間観をくぐり抜け、『「私」は脳』の最終章にあるように、運命(決定)論をのりこえた先の人間の「自由意志」を肯定する、そこにいたるガブリエルの熱っぽい口ぶりこそ、私たちが彼をして若きオピニオンリーダーに推すゆえんであろう。その背景にはおそらく、唯物論との親和性をテコにした科学的な実証性や数学的な厳密性によるかこいこみからの出口を模索したい人間の精神の働きがある。
 つまるところ世界をあらわす包括的な概念など存在しないし人間の精神は神経系の運動に還元できないのだから、AIは心ではないし科学主義だけが現実を動かす燃料でもエンジンでもない。なのに私たちは科学者たちに盲目的な信頼を置く。むろん感染症対策のような領域では専門知が大きな比重を占めるが、それを活かす規範の考究は人文科学(ヒューマニティーズ)の役割であり、人文主義(ヒューマニズム)の恢復こそ21世紀の課題であるとのガブリエルの構想は本書をはじめとした彼の著作にも通底する。ここからデジタルプロレタリアートなどの概念をつかったGAFAらプラットフォーム企業への批判まではほんの数センチである。短評のつもりがいたずらに長くなってしまった本稿はそこにはたちいらないが、システム論、ネットワーク論の側面もあるガブリエルの思考はグローバリズムの反作用でもある新型コロナウイルスのパンデミックにおおわれた「世界」にあって、その内部にとどまり現実(リアル)にむきあった考察をうながすのである──
 というのがまさに古典的実存主義の主張であり、このことからもガブリエルが故国ドイツのお家芸である観念論の系譜につらなることがわかる。しからば新実存主義に哲学の王道の復権以上の意味はあるのか。
 私もそんなふうに考えたクチで、それもあって『世界』を手にするにも間があった。きっかけは本媒体に寄せた映画評だった。2018年初頭に公開したオーストリアの映画監督ウルリヒ・ザイドルがアフリカで娯楽としての狩猟に興じるヨーロッパ人を追ったドキュメンタリー映画『サファリ』の幕引きちかくで狩猟区の白人の経営者が「やがて人間は滅びて自然だけがのこる」的なことをつぶやく場面がある(映画自体がパッケージになってないしサブスクにもあがっていないので試写の記憶をたよりに書いています)。そのセリフに私はレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の最終節にあらわれるあの「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」の一文を想起し、そのようなことも書いたはずだが、そう書きながら私ははたしてその行き方しかないのかと悩んだ。行き方とは作品の構成以上に私の発想の脈絡──ようするに現代思想とは構造主義以降であり、存在と認識と言語と差異に焦点をあてることだという思いこみ──だったが、構造主義の登場から半世紀がすぎ世紀まであらたまった2010年代後半の私はおなかいっぱいになっていた。レヴィ=ストロースのあの一文の背後には洋の東西の融合についての考察があり、さらにその背後には執筆当時(1954~55年)欧州を席巻していた思潮への批判がある。『悲しき熱帯』で彼が「法的で形式主義の合理論」と批判したものこそ実存主義であり、実存主義の人間中心主義の批判的なのりこえをはかるという図式のなかで現代思想はブームとなり20世紀後半にポストモダンを呼び寄せた。私の満腹感はその末席を汚す、レイト20世紀少年特有のオブセッションだったかもしれないが、そんな私を尻目に、ポストモダンはなやかなりし1980年生まれのガブリエルはそもそもポストモダンなどというものはもとから存在しないと喝破し、返す刀で唯物論者が忌み嫌う人間中心主義を謳うのである。それがたんに回顧的であれば見向きもされないが、ガブリエルの新実存主義の特色は脳科学や進化生物学、量子論やひも理論以降の科学の思弁的な実証性(などということばがあるかはわからないが)や、精神医学やもろもろ心理学などが、心的語彙の統一構造としての「精神」にもたらした地殻変動をおりこんでいる点にある。すなわちポスト・ヒューマンを云々する21世紀にいかなるヒューマニティが可能かという問いであり、なにげに構想的で戦略的なガブリエルのふるまいは、俗にいう大陸哲学と分析哲学の統一を目するかにもみえる(この点についてガブリエルは本書の注で明確に否定しているのだ)が、いずれにせよ、若き哲学者のくもりなき視界が映し出す人間の描像が私たちに示唆するものは、絶望がはびこる現在、なおのことすくなくない。あたかも、人間を悲観することはない。いまここで視線を上げ前を向こう、と鼓舞するかのように。

Tony Allen & Hugh Masekela - ele-king

 シャバカ・ハッチングスとジ・アンセスターズによる新作『ウィ・アー・セント・ヒア・バイ・ヒストリー』は、人類の絶滅をテーマとしたまさに今の時期にリンクするような示唆的な作品となっているが、ジ・アンセスターズのメンバーであるンドゥドゥゾ・マカシニも同時期にリーダー・アルバムの『モーズ・オブ・コミュニケーション』を発表するなど、南アフリカ共和国のミュージシャンたちの活躍は続いている。そうした南アフリカが生んだジャズ・ミュージシャンの先人で、国際的に活躍した人物として、まずはアブドゥーラ・イブラヒムとヒュー・マセケラの名前が挙がる。デューク・エリントン、セロニアス・モンク、ルイ・アームストロングなどアメリカのジャズに影響を受けた彼らは、1950年代末にジャズ・エピッスルズというバンドを結成し、ヨハネスブルグやケープタウンを拠点に演奏活動をしていた。その後、アブドゥーラ・イブラヒムはヨーロッパ、そしてアメリカへと進出・移住して演奏活動を行なうようになるが、ヒュー・マセケラもニューヨークに音楽留学し、ハリー・ベラフォンテなどと交流を持つようになる。ヒューは正統的なジャズ・トランペット奏者を出自としながら、ロック、ポップス、ファンク、ディスコなどを早い段階で取り入れてきた先駆的存在である。1968年の “グレイジング・イン・ザ・グラス” などポップ・チャートにも入るヒット曲を出し、モントレー・ポップ・フェスティヴァルにも出演し、ザ・バーズやポール・サイモンのアルバムにも客演するなど、ジャズの枠を超える活動を行なってきた。1977年に元妻のミリアム・マケバとプロテスト・ソングの “ソウェト・ブルース” を発表し、1987年のヒット曲 “ブリング・ヒム・バック・ホーム” がネルソン・マンデラの支援アンセムとなるなど、反アパルトヘイトを貫いたことでも知られる。欧米の音楽の影響を受けつつも、祖国のアフリカ音楽を核として持ち続け、ハイ・ライフやアフロビートなどが底辺に流れているのがヒューの音楽である。

 1990年代以降は南アフリカへ戻って活動を続け、2016年に地元のミュージシャンと『ノー・ボーダーズ』を録音したのを最後に、2018年1月に78歳の生涯を終えたヒュー・マセケラだが、1970年代初頭にはフェラ・クティと出会って交流を深めていった。その中でアフリカ70のメンバーだったトニー・アレンとも親しくなり、フェラ・クティの没後も両者の関係は続いた。アフロビートの創始者で、現在もジャンルを超えて多くのミュージシャンに影響を与え続けるトニー・アレンだが、両者のコラボはずっと念願であり、いつかアルバムを一緒に作ろうと話し合っていた。そして、2010年にふたりのツアー・スケジュールがイギリスで重なったことをきっかけに、〈ワールド・サーキット〉の主宰者のニック・ゴールドが彼らのセッションをロンドンのリヴィングストン・スタジオで録音した。この録音は当時未完成のままニックのアーカイヴに保管されたのだが、2018年にヒューが亡くなった後にトニーと一緒にオリジナル・テープを発掘し、2019年夏に再びリヴィングストン・スタジオで残りの録音が完了された。そうしてできあがった『リジョイス』は、新たな録音部分についてはエズラ・コレクティヴジョー・アーモン・ジョーンズココロコのムタレ・チャシ、アコースティック・レディランドやジ・インヴィジブルのトム・ハーバートなどサウス・ロンドン勢が参加し、さらにかつてジャズ・ウォリアーズのメンバーとして鳴らしたスティーヴ・ウィリアムソンも加わっている。トニー・アレンのアフロビートはモーゼス・ボイドやエズラ・コレクティヴなど、サウス・ロンドンのミュージシャンにも多大な影響を及ぼしており、『リジョイス』ではその繋がりを見ることができるだろう。またスティーヴ・ウィリアムソンはジャズ・ウォリアーズ~トゥモローズ・ウォリアーズの繋がりで、やはりサウス・ロンドン勢にとっては大先輩にあたる。そしてルイス・モホロやクリス・マクレガーなど南アフリカ出身のミュージシャンとも共演が多く、ヒュー・マセケラと共通の音楽的言語を持っているので、今回の参加は自然な流れと言える。『リジョイス』はヒュー・マセケラとトニー・アレンの貴重なセッションに加え、新旧のロンドンのミュージシャンも巻き込んだ録音となっているのだ。

 “ロバーズ、サグズ・アンド・マガーズ(オガラジャニ)” はトニー・アレンのトライバルなドラムとヒュー・マセケラのフリューゲルホーンを軸とするシンプルな構成で、ときおりヒューのチャント風のヴォーカルが差し込まれる。ジョー・アーモン・ジョーンズがピアノ、トム・ハーバートがベースでサポートするが、いずれも最小限にとどまり、ドラムとフリューゲルホーンの引き立て役に回っている。“アバダ・ボウゴウ” に見られるように、トニーのドラムは基本ゆったりとしていて、ヒューのフリューゲルホーンも派手に立ち回ることなく、ロングトーンで奥行きのある音色を奏でている。これがアルバムの基本となるスタンスで、“アバダ・ボウゴウ” や “スロウ・ボーンズ” ではスティーヴ・ウィリアムソンのテナー・サックスも参加してどっしりと深みのある演奏を披露している。“ココナッツ・ジャム” や “ウィーヴ・ランディッド” はトニーらしいアフロビートだが、キーボードのように横でコードやメロディを奏でる楽器が入ってこないぶん、ドラムの細かな動きが際立って伝わってくる。バスドラ、スネア、タム、シンバルひとつひとつが異なった音色を持ち、それらが立体的に重なってトニーの独特のビートが生まれてくることがよくわかるだろう。“ネヴァー(ラゴス・ネヴァー・ゴナ・ビー・ザ・セイム)” はある種フェラ・クティへのトリビュート的な楽曲となっていて、ヒューのヴォーカルも踊ったり、飛び跳ねたりと体を動かすことを求めるものだ。改めてヒューとフェラ、トニーの交流がどんなものだったのかが伺える。オバマ前アメリカ大統領をイメージしたと思われる “オバマ・シャッフル・ストラット・ブルース” は、ベースが入らない代わりにキーボードがベース・ラインを奏でるが、それが独特の土着性とミニマルな感覚を生み出していて、モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオとトニー・アレンの共演を思い浮かべるかもしれない。この曲に象徴されるが、一般的にアフロビートやアフロ・ジャズは熱く扇情的な演奏を思い浮かべがちだけれど、本作はそれと反対のクールなトーンに貫かれている。トニーによると『リジョイス』は「南アフリカとナイジェリアを繋ぐスイング・ジャズのシチューのようなもの」とのこと。トニー・アレンはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのトリビュート・アルバムを出しているが、本作もそのラインに近いものと言える。仮にマイルス・デイヴィスとフェラ・クティが共演していたら、恐らくこうしたアルバムとなっていたのでは、そう思わせるのが『リジョイス』である。

私たちのシーンを助けよう - ele-king

 COVID-19による営業自粛を受けて、全国のクラブが存続の危機に瀕している。政府の対応には絶望しかないが、すでに全国のいろんなクラブが独自にクラウドファンディングをはじめている。自分がよく遊んでいるクラブ、地元のクラブ、個人経営のアットホームなクラブ、昔世話になったクラブ……いろんなクラブがあって、いろんな愛着がある。支援したい人は決して少なくない。
 DJのA.Mochiが今のこんな状況を見て、友人のオーガナイザーから情報を集めつつ、自発的に自分のホームページ内に支援先のリンクをまとめたサイトを作りました。オンラインイベント情報もあり。ぜひチェックしてみてください。

https://amochi.jp/afpan/

Momus - ele-king

 80年代末~90年代の〈クリエイション〉レーベルからの作品で知られるモーマスが、本人のホームページによると新作『Vivid』の1曲目(Oblivion)の制作に入ったところでCOVID-19.に感染した。幸い軽症だったようだが、「寒気、熱、食欲不振、烈しい渇きを感じ、とても恐かったし、追悼モーマスという言葉すら頭をよぎった」と語っている。「ぼくのような周縁のアーティストにとっても、人類にとっても、いまはとてつもない時期です」
 1週間の療養後、制作に戻って、モーマスはそして“Working From Home and Self-Isolation”なる曲を完成させたという。

Thundercat - ele-king

 家の外の世界へ出づらい、という状況がいまもなお続いている。これからも当分続くだろう。少し前だったらサンダーキャットが歌う歌詞も「あー生きてるとたしかにそういうつらいこともあるなぁ」と、楽観的に共感したり、楽しめたりしていた。なので今回のニュー・アルバムからの先行リリース曲“Black Qualls feat. Steve Lacy & Steve Arrington”を聴いたときも、新しいアルバムはきっと前作の『Drunk』(2017)より突き抜けたハッピーでマッドな雰囲気を更新したイケイケな感じなのだろう、とそのときは思っていた。発売日、CDをゲットして一度スピーカーで流し聴きした。「なんか地味だな……」それが第一印象。日が落ちて、バスに乗って出かける用事があり、全部ヘッドホンでもう一度通して聴いてみる。今度は歌詞カードも一緒に。すると、アルバムのラストを飾る曲“It Is What It Is feat. Pedro Martins”に差し掛かったところで、泣きたい気持ちになっていた(というかちょっと泣いた)。え、このアルバム、この終わり方はめっちゃせつなくないか……ここで終わり?! Pedro Martinsの哀愁漂いまくりのギターとバスの窓からの少し肌寒い風も余計にそういう気持ちに拍車をかけていた。まるでストーリーが解決していない映画を見終わったような感覚。間違いない、サンダーキャット史上もっとも完成されたアルバムで、これからも大事にしていきたいと思える1枚だ。もう一度初めから聴いてみよう。

 最初に彼の作る音に触れたのは2010年過ぎたころあたりだろうか。今回のアルバムでも話さないわけにはいかない共同プロデューサーのフライング・ロータスがリリースしたアルバム『Cosmmogramma』(2010)での参加においてだ。ちなみにフライング・ロータスは、ヒップホップとかブレイクビーツ、といった音楽しか聴かなかった人びとにも新しい扉を開放した1人だと思っている。その『Cosmmogramma』では要所要所でベースの鬼のようなプレイや渋い演奏が聴こえ、前作『Los Angeles』(2008年、これも名盤)にはなかったファルセットで歌う男性の声も収録されていた。のちのち、どうやらサンダーキャットなる人物がかかわっているらしい、とわかってYoutubeで調べたら、ドラゴンボールのコスプレをした男性が目をハートにして、猫のトイレでうんこしているわけのわからないヴィデオがヒットした。なんだこいつは……『Cosmmogramma』のスピリチュアルでコズミックな世界観に正直少々スピっていた僕は拍子抜けした。

 そのフライロー(フライング・ロータスの愛称)はLAの2010年代のビート・ミュージックにおいてもっとも重要なレーベルのひとつ、Brainfeeder(Ras G “R.I.P.”、Samiyam、MONO/POLY、等のビート・ミュージックのヒーローが所属)を発足させた。これもサンダーキャットを語る上では欠かせない要素の一つだと思う。2011年、彼はフライローのレーベルから1stソロ・アルバム『The Golden Age of Apocalypse』(2011)を出した。フライロー経由でBrainfeederを知り、なおかつビートメイカーとして音楽を作りはじめていた自分にとって、このレーベルはとても可能性があり、新しい未来を予感をさせるものであった。そんなビート・ミューックのレーベルから出た、ベーシストのアルバム。打ち込みと生演奏のコラボというのはそれまでにもいろいろあったろうけど、どれもクールでかっこいいものという印象だったし、そこには演奏の妙、という打ち込みばかりを聞いてきた者にしてみれば少し難しい未知の領域……の、すこし語弊があるかもしれないが「なんとなくのかっこよさ」を与えていた。『The Golden Age of Apocalypse』はそういう「クールでかっこいい」がもちろん全編を通してありながらも、同時に近年の彼の作品にも通ずる「バカバカしいほどのふざけた感じ」がすでに同居していた(このころのヴィデオで言うなら「Walkin’」を見ればわかると思う)。個人的には彼に対して「猫のトイレでうんこ」という印象が正直いまでもあるが、そういうユーモア感覚は「クールでかっこいい」や「高尚なもの」とばかり勝手に思っていた音楽を聴いたり語ったりすることに対する敷居を下げ、音楽を楽しむ、という頭で聴くのではない、もっともピュアで原初的な楽しさを明示してくれた。Brainfeederが試みてきたこの約10年にわたるさまざまな実験がもたらした、ジャズとビート・ミュージックの融合、ということもたしかに大事ではあるが、いま述べたような部分もかなり大きいと思っている。それに大きく貢献した1人がサンダーキャットだった。

 そういう「すごいけどバカバカしい、とっつきやすい」というような感覚を同じBrainfeederレーベルで共有しているであろう人物は間違いなくLouis Coleだ。今回のニュー・アルバムにも“I Love Louis Cole feat. Louis Cole”(タイトルのふざけた感じが良い)で参加している。彼のBrainfeederからのソロ・アルバム『Time』(2018年、サンダーキャットも参加している)のリリースの時期あたりに出た自宅セッションを見ていただければ、なんとなくその「すさまじい演奏技術をバカバカしく、楽しいものに見せる感覚」というのはわかりやすいかもしれない。

 彼がサンダーキャットに歌唱やソングライティングの点で大きい影響を与えているような気がしてならない。前作『Drunk』でいうならば、彼がプロデュースした“Bus In The Street”なんかがそうで、この曲のファルセット感はLouis Cole自身のそれとかなり近しい。それ以前よりファルセットを披露してきたサンダーキャットだが、前述のアルバム『Time』なんかを聴くとそれがよくわかる。僕は正直『Time』を聴いたとき、この人はサンダーキャットのゴーストライターなんじゃないの? くらいのことは正直思った。それくらい親和性がある。こういう曲はそれまでのサンダーキャットにはあまりなかった作風だったので、すごい意外な曲だなこれ、とアルバムが出るもっと前(調べたところ2016年なので、約1年前)シングルがリリースされたときに感じた。Louis Coleのコンポーザーとしてのポップさは、近年のサンダーキャットの「突き抜けた感じ」の大きい要素のひとつだと思う。

 そんなLAの太陽のように明るい性格で人柄のよさそうなサンダーキャットの良さはもうひとつあって、それは意外とその反対の陰の部分である。これはBrainfeederからの2作目『Apocalypse』(2013)からじょじょに作品に滲みはじめてきた。数々のインタヴューでも彼は言及していることように、その原因は彼自身が都度抱えてきた「喪失感」にあり、今回の『It Is What It Is』でもっとも重要なファクターといえる。“Apocalypse”は、同じBrainfeeder所属だったAustin Peraltaという友人のキーボーディストが2012年に逝去したことに対するフィーリングが反映されており、彼のそれ以降の作品は「死」や「喪失感」といったテーマが通底している。それはサンダーキャットも大きくプロダクションに関わったフライング・ロータスのアルバム『You’re Dead!!』(2014)や『Drunk』の夜明け前かのようなEP「The Beyond / Where the Giants Roam」(2015)にて感じることができる。なので、当時の個人的な所感を思い出すと、「もしかしてこのままダークで落ち着いた作風へ向かうのか?」というのが正直なところであった。

 『It Is What It Is』はそう考えると、いままでのサンダーキャットの総仕上げのようになっているように思う。前半はとても前向きで楽しく、バカバカしいような歌詞の内容もあるが、後半はダークでシリアス。暗い部分はフライング・ロータスの近年の死生観からも大いに影響を受けていると思う。しかし、いままでと決定的に違うのはアルバムのラストを飾る表題曲“It Is What It Is feat. Pedro Martins”だ。僕がこの曲を聴いたときに泣きたくなったのは、「どれだけ自分ががんばっても何かや誰かを失う。それは避けられないし、そういうものだよ」というある種達観したようなメッセージにある。一見してみればこのメッセージは諦めにしか聞こえないが、これはとても前向きなものではないだろうか。たとえ時間が解決しないことだろうと、それ自体を「間違ったこと」としてとらえるのではなく「そういうものだよ」と肯定的にとらえている。そうでなければ、その「間違っている」という、正常な状態への途中段階にある自己を作品として明確に表現することは難しいように思う。自分を含めてたいていの人は、「何も起こっていなく、安全な状態」を正しいものとし、それ以外は間違っている、というバイアスが無意識のうちにかかりがちではないだろうか。誰だって、ネガティヴなことはふつう避けたい。しかし、その痛みさえも生きていることの一部であり、そこに目を向けるということの重要性をサンダーキャットは伝えているように感じてならない。もちろん、間違っている常識や習慣は存在するし、そういうのは正していかなくてはならないが、心持としてはこの考え方で生きていきたいものだ、と強く思わされる。そう思うと、前半の“Overseas feat. Zack Fox”や“Dragonball Durag”のような妙にピンプでイケイケな感じも、アルバム全体として考えたとき何か含みのあるような曲に思えてくる。本人にはきっとそんなつもりは一切ないのだろうけども。

 いままでならポジティブなヴァイヴスで世界をよくしていこう! とシンプルに思うことも可能だったが、実際はもっと複雑で現実的な問題が各地で噴出しはじめた。もちろんのことながら、彼がこのアルバムを制作していた頃はいまみたいな世界の状況ではなかった。しかし、彼がこのアルバムを通じて語り掛けてくれる、「楽しいことも、悲しいこともあるけどすべて「It Is What It Is」(そういうものだよ)」という優しい言葉にはいまの世界ではなにか救われるものがある。

R.I.P. Larry Sherman - ele-king

 シカゴ・ハウスの伝説的レーベル〈Trax〉の創始者、ラリー・シャーマンが4月10日心不全のために亡くなった。70歳だった。シカゴ・ハウス──すなわち今日我々がハウス・ミュージックと呼んでいる音楽を世界で最初にリリースし、ハウスのための専用レーベルを世界で最初に創設したという,とてつもない功績を残しながらシャーマンほど悪評に包まれた人物もまずいない。しかしそれでも初期シカゴ・ハウスの重鎮マーシャル・ジェファーソンから哀悼のツイートがされたように、彼がシカゴ・ハウスの歴史の一部であることは動かしようがないのである。
 ジェシー・サンダースによる『ハウス・ミュージック』に描かれているように、シカゴにプレス工場を持っていたシャーマンのところにサンダースとヴィンス・ローレンスがプレスの依頼をしたことがハウス・レーベル〈Trax〉の序章だった。そして86年から88年までのあいだ〈Trax〉からは初期シカゴ・ハウスの輝かしい歴史的傑作たち──ミスター・フィンガーズの“Can You Feel it”、フランキー・ナックルズの“You Love”、マーシャル・ジェファーソンの“Move Your Body”、フューチャーの“Acid Trax”などなどがリリースされている。ところがシャーマンは、プロデューサーへのロイヤリティの未払い、あるいはプレスの原材料に中古レコードを使った質の悪いレコード盤など、レーベル・オーナーとしては問題だらけだった。ライヴァルからの盗作だって余裕でやっている。もともとはジュークボックスのコレクターだったというシャーマンだが、シカゴの若い黒人たちのベッドルームで作られた音楽がやがて世界で革命を起こすなんてことまでは想像できなかったにしても、少なくともこれが人を魅了する音楽であることは理解していたのだろう。彼がいなかったら、ぼくたちが“Can You Feel it”を聴けなかった可能性だってある。ジェファーソンはツイッターで「愛を送る」と書いている。

インディ・シーン団結しようぜ! - ele-king

 いま音楽にできることは何だろう? ことインディと呼ばれるシーンにできることは……どんなに小さくとも、そこに人が複数いればシーンだ。小さいシーンほど政府がアテにできないのはもうわかっている。だからといって白旗を揚げるのは冗談じゃない。自分たちのコミュニティが破壊されようとしているんだから。おたがい支え合うことがまず重要だ。
 これまで多くの刺戟的なアクトを輩出してきたイアン・F・マーティン主宰のレーベル〈Call And Response Records〉が、新型コロナウイルスの影響で危機に瀕している地元のシーンを支援すべく、日々サウンドクラウドなどに動画や音源をアップ、高円寺の音楽スポットを支援するための寄付金を募っている。
 日本のインディ・シーンはこのように無数の小規模なスペースや有志たちの手によって成り立っているもので、そのような全国のスポットにびっくりするくらい足を運んでいる猛者がイアンであり、この国のインディの状況をもっともよく理解している者のひとりである。彼による声明はわたしたちにとって大きなヒントを含んでいるので、以下に掲げておくが、これは現時点でのひとつの解ともいえるアクションではないだろうか。
 そもそも音楽がどういうところから生まれてくるものなのか──すでに被害が甚大な欧米の『ガーディアン』などメディアでは、来年秋頃まですっきりしない感じが長引くのではないかとも言われている現在、それを思い出しておくのはたいせつなことだろう。政府に補償を要求するのもたいせつなことだけれど、DIY精神やコミュニティへの眼差しを忘れずに行動していくことも、とっても重要なことである。(それは高円寺だろうが静岡だろうが京都だろうが)
 インディ・シーン、団結しようぜ!

キャンペーン・ページ:https://callandresponse.jimdofree.com/help-our-local-music-spots-地元の音楽スポットに救いを/
キャンペーン・ステイトメント:https://callandresponse.jimdofree.com/help-our-local-music-spots-地元の音楽スポットに救いを/campaign-statement/

地元のインディー音楽スポットに救いの手を!
(ENGLISH TEXT BELOW)
イアン・マーティン(Call And Response Records)

突如世界的なパンデミックが巻き起こり、世界中の多くの人々は現状を受け止めることが困難な状況にあります。いま私にできることは、微力ながらも自分のコミュニティのために何ができるかを考えることです。

Call And Response Records は、東京のライブミュージックシーン、その中の高円寺周辺から生まれました。高円寺は私たちのホームです。日本でコロナウイルス危機の対応が遅れさらに悪化するにつれて、ミュージックバーやライブ会場はますます困難な立場に置かれています。

私は幸運にも家に居ることができ、自分の部屋から執筆作業をすることができます。しかし、東京の独立した小さな音楽スポットのオーナーにとって、補償がないのでこれは簡単なことではありません。彼らは自分たちの生計を立てるために残され、皆にとっては恐ろしくて不安定な状況です。現状は誰もサポートをしないので、彼らの力になりたいです。店を開ければ批判と個人への誹謗中傷に直面し、店を閉めれば生計を立てられなくなり倒産へ追いやられてしまいます。

この危機を乗り越える為に正式な支援を求める運動をして居る方々がいらっしゃるので、今後少なくとも政府はこの問題を認識することを願います。取り急ぎ、できる限り早く、少なくとも Call And Response Records を支援してくれたいくつかの小さな会場・お店を助けたいと思います。

今、世界は混乱しており、おそらくあなた自身も問題を抱えているでしょう。Call And Response は、それを理解しています。しかし、これまで音楽に関わる活動を楽しんできた皆さんのために、私たちのコミュニティが集い、成長させる場所を与えてくれた、私たちの周りの音楽会場や音楽スポットについて考えてみてください。

また、ライブビデオと無料DL音源をこのページに集めて、人々が自由楽しめるようにする予定です。

そしてもし可能なら、少しのお金を支払うことで彼らを助けてください。

地元のインディー音楽スポットに救いの手を!

募金の寄付先については以下の3つのライブ会場、バーです。レーベルと私たちのコミュニティにとって、ここ最近で重要な場所となっている3つの小さなインディースポットにフォーカスしました。今後状況を見て、このページも随時アップデートしていきます。

Help us support our local independent music spots

By Ian Martin (Call And Response)

Seeing the massive devastation the global pandemic is causing to so many people’s lives around the world is overwhelming and difficult to process. The only way I can get through each day is by thinking small and thinking about what I can do for my own community.

Call And Response Records was born out of the live music scene in Tokyo, and the neighbourhood of Koenji in particular. It’s our home. But as Japan’s experience of the Coronavirus crisis drags on and gets worse, music bars and live venues are increasingly in a difficult position.

I am lucky enough that I can stay at home and do writing work from my room. But without support, that isn’t so easy yet for the owners of small, independent music spots in Tokyo. They have been left to fend for themselves, trying to stop their livelihoods falling apart in a situation that’s scary and uncertain for everyone. They face criticism and personal danger if they open, bankruptcy and the end of their livelihoods if they close.

There are people campaigning for formal support to help the music scene get through the crisis, so at least the government is being made aware of the problem. In the meantime, though, I want to at least help some of the places that have helped Call And Response Records if I can.

The world is in a mess right now, and you probably have your own problems. We at Call And Response understand that. But for those of you who enjoy what we do, just take a moment to think about the venues and music spots around us that have given us a place to gather and grow our community. We plan to upload live videos and free downloads, gathering them all on this page for people to take and enjoy freely. And if you can, please drop a bit of money to help.

With any donations we receive on this page, we’re focusing for now on three small, independent spots that have become important places to the label and the community around us in recent years. We will keep an eye on the situation as it changes and make any of our own changes if they seem appropriate (updates posted here).

Courtney Barnett - ele-king

 ぼくにだってロック少年だった時期がある、というのは去年のインタヴューでも書いたことだけれど、そのころ抱いていた世の中の見方、世界も社会も人間もすべてクソであり、例外はない──という明確に中二病的な、しかし歳を重ねたいまとなってはつい忘れがちになってしまう、きわめて重要な初心、それを思い出させてくれる点において、コートニー・バーネットはぼくにとってたいせつな音楽家である。
 そんな彼女がかの「MTVアンプラグド」に出演──と聞いて最初に思い浮かべたのは、だから、やはり、まあたぶん大多数のひとがそうだとは思うけど、10代のころ熱中していたニルヴァーナだった(むろんリアルタイムではなく後追いです)。ふだん重苦しいサウンドを奏でていたトリオがアコギの響きを活用し、まるでまったくべつのバンドであるかのような擬態を披露するという、そのメタモルフォーゼに当時は素直に感心した覚えがある(しかしこの90年代に販促の一手法として確立したアンプラグドなるスタイルって、ポスト・プロダクションにこそ活路を見出した同時代のポストロックとは真逆の発想だよね)。

 とそのような感慨にふけりつつ本盤を聴きはじめることになったわけだが、もともとアコースティックな側面の強かった “Depreston” は、チェロの際立つヴァージョンへと生まれ変わっている。続く “Sunday Roast” も同様で、弦が栄えるのはやっぱりアンプラグドの醍醐味だろう。叙情的なピアノが支配権を握る “Avant Gardener” でも、原曲における過激なギター・ノイズのパートをチェロが代用していて、かの弦楽器がノイズ発生装置としても活躍できることをあらためて思い出させてくれる。あるいは “Nameless, Faceless” のピアノなんかも、同曲のこれまでにない性格を引き出していておもしろい。
 まあここまではお約束というか、まずはそんなふうに既存の楽曲の変化をチェックするのがアンプラグドの楽しみ方だけれど、カート・コベインの歌うボウイやレッドベリーがそうだったように、カヴァー曲もまたアンプラグドの醍醐味のひとつだ。今回ボウイにあたるのが最後のレナード・コーエンのカヴァー “So Long, Marianne” だとすると、レッドベリーにあたるのは “Charcoal Lane” だろう。オーストラリアの大物シンガーソングライターであるポール・ケリーを招いて歌われるこの曲は、かの地の先住民の血を引く歌手アーチー・ローチによって書かれたものだ。

 この「一緒に並んで歩く」「一緒に話したり/一緒に笑ったり」というリリックは、オーストラリアなる国家の成り立ち=先住民の殺戮を踏まえて聴くと、マーティン・ルーサー・キング的なユナイトの欲望、すなわちかつての被害者と加害者の子孫たちがおなじテーブルにつくという素敵なドリームを想起させる。と同時に、このパンデミック下の状況ではまた新たな意味を伴って響いてくるから二重にせつない。
 思えばコートニーは今回のアンプラグドをなじみのバンド・メンバーたちと一緒に演奏している(完全に単独でやっているのは新曲の “Untitled” くらい)。チェリストだっているし、ゲストもポール・ケリーのほかにふたりいる。先日の木津くんのU.S.ガールズじゃないけれど、ここにはひとが集まって近距離でなにかをやることの素朴なよろこびがある。
 一緒に歩いたり、一緒に話したり、一緒に笑ったり。そんな「平常」が戻ってくるにはまだまだ時間がかかりそうだけど、二ヶ月前まではあたりまえすぎてつい忘れがちになってしまっていた、でもきわめて重要な初心、それを思い出させてくれる点において、このアルバムもまたきっとぼくにとってたいせつな1枚となることだろう。

U.S. Girls - ele-king

「女子」はあらかじめ複数形だった、そういうことだ。
 U.S.ガールズの7枚めとなるアルバム『Heavy Light』は多人数のセッションによるライヴ・レコーディングで制作された作品で、世のなかがこんなことになってしまったいま、パンデミック以前の音楽の喜びを収めたレコードだと言えるかもしれない。ひとが集まって、楽器を演奏して音を重ねることで、ひとりでは生み出せないグルーヴやフィーリングが立ち上がる。ポートランドのアンダーグラウンドでひとりノイズやドローンと戯れていたメーガン・レミーはカナダのトロントに移り、もともと持っていたポップへの志向をオープンにすることで、よりビッグな編成を要請することになった。彼女の音楽の何よりの魅力──溌剌とした突拍子のなさとでも言うのか、散らかっているのに快活なエネルギーはここで、ひょうきんなアンサンブルとして発揮される。

 ゆったりしたテンポに合わせて叩かれるコンガとストリングスのイントロに導かれるオープニング・ナンバー “4 American Dollars” を聴いて、『ヤング・アメリカン』期のデヴィッド・ボウイを連想するひとは多いだろう。ゴージャスだがどこかフェイク感のあるソウル・チューンという点でもそうだが、アメリカの外からアメリカの「ソウル」を探っている感じがこのアルバムにはある。前々作前作に引き続き、ディスコ、ソウル、60sガールズ・ポップなどなど奔放に渡っていく非常にキャッチーなポップ・ソング集だが、どこかアメリカン・ポップスのノスタルジックな輝きを異化するようなのである。“4 American Dollars” ではソウルフルな女性コーラスと戯れながら「4ドルできみはたくさんのことができるんだよ」と繰り返されるが……それはアメリカ型資本主義に対する皮肉であり、同時にそこから精神的に逃れて生きることの可能性を示唆している。
 U.S.ガールズに一貫するアメリカに向けた複雑な愛憎(音楽的な意味でも精神的な意味でも)は、レミーがブルース・スプリングスティーンに強い強い影響を受けたということが関係しているのかもしれない(初期からカヴァーをやっていた)。U.S.ガールズという名前は「半分は冗談みたいなものだった」と彼女はかつて語っているが、しかしそれは、アメリカという国で女性として経験してきたことが関係したものだとも説明してもいた。ということは、スプリングスティーン──タンクトップを着たアメリカ労働者の息子たるセクシーなタフガイ──による疎外された者たちのメロドラマは必ずしも男性的な世界でのみ支持されてきたわけでなく、マイノリティであることを自覚して生きてきた女性にもリアルに響いたということだ。実際、U.S.ガールズにはフェミニズムのモチーフが多く入っており、それがいまやスプリングスティーン的に「ロックン・ソウル」なビッグ・コンボで表現される。本作においてスプリングスティーン度数が一気に上がるのは初期のセルフ・カヴァー “Overtime” で、これはグルーヴィーなギター・リフを持ったファンク調のナンバーだが、Eストリート・バンド(!)に参加しているジェイク・クレモンス──クラレンス・クレモンスの甥──が情熱的なサックスを吹けば、僕などはつい、あの男が追求してきた民衆のパワーについて想いを馳せてしまう。セッションを体感しに集まった大勢のオーディエンスが、音楽とともに解放されるということを。

 いずれにせよ『Heavy Light』はアメリカン・ポップス文化をノイズやドローンを経験した上で再訪してみせたアルバムで──それは言い換えれば、21世紀の視点から20世紀のアメリカを回顧するということでもある──、それは、卓越したミュージシャンシップを持ったバンドによってとても肉体的な音を有している。レミーが発するメッセージはここではジェンダー的な縛りから少し解放され始めており、たとえば “The Quiver to the Bomb” は環境破壊をモチーフにしながら、人間の暴力性を訴えているのだという。そしてこの曲では、大仰なコーラスと妙にスペーシーなシンセによって、冗談なのか本気なのかよくわからない壮大なサウンドスケープが描き出される。すごく変で、すごく痛快だ。
『Heavy Light』には、これまでのU.S.ガールズがそうだったように彼女個人(「ガール」)のトラウマがモチーフとして入っているが、それはひとりだけのものではないし、何だったら楽しくておかしなポップ・ミュージックとして分かち合われる。ここでは、みんなが「ガールズ」の愉快な仲間。ユーモアはいつでも彼女の、わたしたちの武器である……こんなときだって、きっと。

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