「Nothing」と一致するもの

A. G. Cook - ele-king

 2013年に発足され、2023年に新譜のリリースを終了した〈PC Music〉が現代のオルタナティヴなポップスに与えた影響はとてつもなく大きい、というのは言うまでもない事実だろう。少なくとも、私事ではあるけれど電子音楽への強い興味をぼくに抱かせてくれたのもA. G. クックがコロナ禍に発表したアルバム『7G』と『Apple』であり、そこから〈PC Music〉の諸作が見せてくれるきらびやかな世界に引きずり込まれていまがある。個人的な体験は省略するとして、〈PC Music〉とともにポップスを換骨奪胎する形で生まれたオルタナティヴなポップ・ソングの一群は故・ソフィーの躍進とともにバブルガム・ベースと呼ばれ、それらはいつしか #Hyperpop とタグづけされるようになった。そして、ハイパーポップという商業ラベリングの着想源となったこの巨大なムーヴメントを切り拓いたA. G. クックは、新たな一歩を踏み出すべく2024年に新レーベル〈New Alias〉(=直訳すると、新たな通称?)を設立。同時に4年ぶりのフル・アルバム『Britpop』を発表した──大量のエスプリやイースター・エッグ的仕掛けに富んだ3つのプロモーション・サイトとともに。

 まず、作品それ自体を語る前に、この一連のプロモーションにこそA. G. クックの美学が込められていることについて解説しておきたい。具体的には「音楽界で最も信頼されていない声」とうそぶくピッチフォークのパロディ・メディア「Witchfork」(ジョークながら読み応えあるテキストが潤沢に用意されている)、ウムルやメス・マス、DJ G2G などクックに近い音楽家の新リリースからファンによる投稿作まで、さまざまな音楽作品をフリーで提供するバンドキャンプのパロディ・サイト「Wandcamp」、そして「膨大な穀物ライブラリ」を取引するためのプラットフォームという(ダジャレのような名称の)ビートポートのパロディ・サイト「Wheatport」の3サイトを、アルバムのプロモーションを兼ねて4 月 24 日までの期間限定で更新していった(現在はいずれもサイトの入口に「当サーヴィスは非公開の多次元複合企業に買収されました」といった架空の声明が表示されているものの、音源のダウンロードや記事の購読は可能)。
 ちなみに、3サイトの頭文字はそれぞれ「W」で、3つ並べるとつまりワールド・ワイド・ウェブとなる。そしていずれも最終的な導線は「WWW」というクックが新たに立ち上げたディスコード上のサーバーと紐づけられており、こうした半オープン/半クローズドなコミュニティ・プラットフォームこそが現行のインターネットだよね? と示唆しているようにも受け取れる。

https://witchfork.com/Witchfork%2C-Wandcamp-and-Wheatport-Set-To-Close-As-Part-of-WWW-Merger-Mystery/662659afbe40536839947789

 この資本主義的な音楽プロモーションを皮肉ったような一連の動きのモチーフになっているのは、Witch=魔女、Wand=杖、ethereal entities=エーテル体などのファンタジックで呪術的なフレーズと、multidimensional=多次元、otherworld=別世界といったSFチックで非現実的なフレーズなど。なぜそうしたイメージで本作『Britpop』の作品世界を拡張しようとしたかといえば、それはこのアルバムが過去/現在/未来の3つの階層に分かれた24曲入・3枚組の重層的な作品だからだろう。霊的なものと並行世界、神秘的なものととテクノロジー、そしてそのどちらにも偏らない私たちが暮らすいま、ここについてをレイヤーを重ねるように並列化しているアルバムだ。

 「過去」パートと定義されたDisc 1、M1~M8までの各トラックはこれまでのクックのパブリック・イメージに近しい〈PC Music〉的なバブルガム・ベース~ユーフォリック・トランス~IDM的なサウンドで、「現在」パートとされるDisc 2のM9~M16には古びたオルタナティヴ・ロック──つまりはタイトル通り「ブリットポップ」への憧憬が感じられる歌を基調としたトラック、そして「未来」パートとされるDisc 3のM17~M24はそれぞれ「過去」パートを踏襲しつつ、それらを塗り替えていこうとする意欲に満ちたシンセ・ポップのニュー・スタンダードを提示している。楽曲単体にスポットを当てると、アルバムの入口となるM1 “Silver Thread Golden Needle” は135BPMのIDMライクなトランス・ナンバーとして抜群の完成度で、先行シングルとして2024年1月1日にリリースされたことにも納得できる。なお、こちらは2014年リリースの代表曲 “Beautiful” を9年越しにリエディットした “Beautiful (2023 Edit)” を引き継ぐ形で制作されたようで、10分弱のトラックに耳を傾けると同曲や同じく代表曲のひとつである “Show Me What” などのヴォーカルをカットアップ的にサンプリングしていることがうかがえる。
 「現在」パートの収録曲は表題通り、クックなりのブリットポップ愛/ブリットポップ観が感じられる脱構築的なインディ・ポップ~オルタナティヴ・ロックとして統一感を持っており、とくにM16 “Without” は急逝した才能、ソフィーに捧げられたディストーション・ギターの弾き語りとなっていることが印象的だ。Disc 2──「現在」の締めくくりにふさわしいこの曲が、現実からかけ離れたキッチュなサウンド・メイキングで世界を席巻したクックのもうひとつの側面である、ポップ・ソングの名手としての一面を際立たせていることは素朴な感動を与えてくれる。
 一転してDisc 3──「未来」パートではバブルガム・ベースの方法論を用いてよりオーヴァーグラウンドなシンセ・ポップへ挑戦する姿勢が見られ、ビヨンセチャーリーXCX、そして宇多田ヒカルといったポップ界の巨人たちと数々の仕事を重ねた彼が見ている新たな景色の一部を切り取ったかのような、いわば「メインストリーム的な実験」という矛盾を見事に成功させている。特筆すべきは先述したプロモーションの核に位置する「WWW」というキーワードと同じ題名を与えられたM22 “WWW” で、5分強のなかでいままでとこれからを一切合切マッシュ・アップしたような目まぐるしい展開が1曲にパッケージングされている。時折顔を見せる2ステップ的なハイハット使いやロック歌手のような歌声にも、やはりイギリス人としてポップスをつくることへの矜持のようなものを感じる。

 魔法とテクノロジーを並列化して、ベッドルームと外界に橋を架けて巨大なポップ・シーンを楽しげに塗り替えていったA. G. クックの10年を総括しつつ、予測不可能な未来へのヒントも散りばめた意欲作でありながらも、作品全体に通底しているのは「ポップ」であること。クックはリリースに伴い複数のインタヴューで、本作の着想を「パンデミック中に過ごしたアメリカ・モンタナ州の片田舎」で得たと語っている。田舎の牧場にはかつてイギリスからアメリカを開拓するべく渡った人たちの残滓として、古いイギリスを感じさせるシンボルが残っていたという。その前後、本国ではブレグジットや女王の死などの象徴的な出来事がいくつも起こり、彼は複雑な想いのなか、単なる愛国心ではなく矛盾した感情の狭間で揺れたそうだ。本作のプレス・リリースでは「自分自身のキャリア、“イギリスらしさ” の概念、そして時代を定義したムーヴメントへの敬意と否定を並列に描く」という、明確なコンセプトも示されている。ぼくたちが日本に抱く複雑な思いもきっとそうだろうし、どこにいたって人はつながっている、そんな時代でもフッドのことを捨て去るのは難しいのだろう。ならば、せめて疑いながら愛したい、という人の子のシンプルな気持ちがこのような大作に現れることも無理もないことだし、事実クックは4年ぶりのこの大作で自身の功績を総括しつつ新天地へと進むことを示した。

『蛇の道』 - ele-king

「経済を回す」というのが最近は宗教の標語に思えて仕方がない。「求めよ、さらば与えられん」とか「たゆまず祈りなさい」とか、あの手の精神的な強迫のようで、真面目な信者が教会とかお寺に通うようにショッピング・モールやスーパーマーケットに熱心に通いつめ、それ以外に道はないと信じて疑わない感じがしてしまう。大勢の人が経済を回さなきゃ、回さなきゃとスローガンを唱えながら資本主義を支えようとする姿は、かつて、共産主義は人々をアリのように働かせて個性を失わせるといって批判していたイメージががそのままブーメランとして返ってきたみたいで、主体性が失われるのはもはや資本主義も同じではないかと。

 1998年に公開された『蛇の道』(DVD化された時のタイトルは『修羅の極道 ~蛇の道~』)を黒沢清本人がセルフ・リメイク。脚本は高橋洋から黒沢清に代わり、全体の改変率は60~70%ぐらいか。東京都下の日野市周辺(?)が舞台だったオリジナルからロケ地をフランスに移し、曇り空のゴルフ場だったシーンも鮮やかな緑が一面に広がる田舎の風景に様変わりし、これまで黒沢作品にはなかった美しさを楽しむことができる。とはいえ、そうした開放感はもちろん限定的で、薄暗い室内だとか、遠景の多用、人物そのものではなく人間がいた気配だけを撮るなど黒沢作品の特徴に変化はなく、観客は闇の濃淡を見つめ、場面転換とともに大きな音に驚かされるあたりもとくに変わりはない(ルンバの動きを追うシーンはなかなかにユーモラス)。

 オープニングはパリの裏通りを歩く新島小夜子(柴咲コウ)。なにやら切迫感に突き動かされている様子で、小夜子がそばにいたアルベール・バリュレ(ダミアン・ボナール)に話しかけると、2人はあっという間にティボー・ラヴァル(マチュー・アマルリック!)を拉致し、その場から車で連れ去っていく。袋詰めにしたラヴァルを引き摺り回すシーンが必要以上に長く、人間を「モノ扱い」していることが強調される。廃屋に拘束されたラヴァルは8歳の女の子がピアノを弾く姿をヴィデオで見せられ、その子が殺されたこと、そして、責任がお前にあると告げられる。ラヴァルは身に覚えがないと絶叫するもまったく相手にされず、小夜子とアルベールに虐待されまくる。

 場面変わって小夜子の診療室で吉村(西島秀俊)が精神薬の処方を受けている。吉村は愚痴っぽく、小夜子がパリで立派に暮らしていることに妬みをぶつけるようなことを言い続ける。再びラヴァルが拘束されている廃屋。ラヴァルは窮地から逃れようとして真犯人はピエール・ゲラン(グレゴワール・コラン)だと主張する。小夜子とアルベールはゲランを拉致しに出掛け、同じように袋詰めにされたゲランが引きずり回されるシークエンスはラヴァルよりも長い。長過ぎる(笑)。ゲランもラヴァルと同じように娘がピアノを弾くヴィデオを見せられ、同じように自分は殺していないと訴える。このあたりから、いま目の前に見えていることとは違うことが実際には起きているののかもしれないという感覚が湧き上がってくる。誰かが操作し、洗脳した結果だけを見ているのかもしれない。そのような疑念に突き動かされる感じは『CURE』(97)と同じで(オリジナルの『蛇の道』は『キュア』の次につくられている)、この気分を味わうことが黒沢作品を楽しむ際の半分近くを占めている気がしてしまう(オリジナルはこの辺りからシュールさが倍増する)。ラカン用語でいえば1人の人間のなかにある現実界と想像界の両極に振り切れた世界観を行ったり来たりする面白さを味あわせてくれるということかもしれない。

 ゲランはアルベールも自分たちと同じ組織にいたことを小夜子に告げ、それまで復讐の主体だったはずのアルベールは小夜子に組織を内偵していただけだと弁解する。3ヶ月前、白く輝く病院内の景色が続き、何が起きたのかと思っていると娘を失ってへたりこんでいるアルベールに小夜子が「大丈夫ですか』と声をかけるシーンが短く挟まれる。小夜子からアルベールに近づいたことがわかり、小夜子の動機が謎めき始める。小夜子はアルベールのいないところでラヴェルとゲランに取引を持ちかけ、ほかに誰か犯人に仕立て上げられる奴はいないかと相談する。そして、クリスチャンの名前が候補に挙がり、小夜子は2人以上は拘束できないので、どっちか1人がもう1人を殺せと2人の足元に銃を転がす。ラヴァルとゲランが銃を奪い合う音が聞こえ、やがて銃声が鳴り響く。

 後半の展開はもはやオリジナルとは別物になっていく(以下、ネタバレのような解釈)『蛇の道』で意志を持っているのは女だけ(柴咲コウの役をオリジナルで演じているのは哀川翔)。男は組織の一部として動いているだけで、全体像を把握している者は1人もいない。ラヴァルもゲランも自分が何をやっているのかわかっていなかったとしか思えない描かれ方で、闇とはいえ、彼らも経済を回すだけの存在でしかなかったとしか思えない。自分は殺していないと思っているのも、だから本当のことであり、その最たる存在がアルベール・バリュレであり、彼もまた自分が何を運んでいたのか知らなかったと言い張ることになる。男たちに何かをやらせていたのも、そのシステムを破壊するのも女性で、まるで男社会の無用性をあぶり出して叩き壊したかのような話である。ただし、そうした女性たちの意志もまた正気とは思えない描かれ方をしていて、このままでも社会はダメだし、女性たちがリーダーになってもうまくいかないという話に思えてしまう。穿っていうと組織のボスが女性になることを黒沢清は無意識に恐れている作品だと受け取ることもできなくはない。

 舞台をフランスに移したのは大正解で、日本人はフランスで暮らし始めると買い物や日常会話などあらゆる場面で自己主張の強さについていけず、若い女性がとくにパリ症候群にかかりやすいという話をよく聞く。吉村の症状がまさにそれで、彼は組織から離れて個人としてフランスにいるために主体性が試される結果となり(以下、ネタバレ)、結局は死を選んでしまう。診療所で小夜子に「一度、日本に戻った方がいいかもしれません」と告げられるのは、いわば、あなたは男なんだから日本に帰って男社会に復帰すれば治るよと言われたようなもので、吉村との対比で小夜子がいかに自己主張が強く、他人を引きずり倒していくキャラかということが納得させられる(小夜子はこれといったオシャレをせず、いつも地味なジャケットを着ていて、そのことが自分は自分であるという強いメッセージに感じられる)。アルベールを道具として使い倒した小夜子が組織に大打撃を与え、さらにその動機が最後に語られる。これがもうひとつ素直に受け取っていいものかどうなのか。小夜子が自己主張の強いキャラを通り越して単なる狂人だったという可能性を示唆して物語が終わったように感じたのは僕だけだろうか。もう一度観たらそれがわかるという感じでもなさそうなところが黒沢作品の空恐ろしいところ。

 いずれにしろ本作は『CURE』に迫る傑作だと思う。そして、今月10日、嫌味なことに黒澤清はフランスの文化勲章にあたるオフィシエ賞を受賞した。

 いまダブの波が来ている。宇田川町に居を構える虎子食堂の15周年記念イベント特別編、強力な面子×2組による熱い一夜のお知らせだ。
 ひと組は、大阪のダブ・マスターHav率いるSOUL FIRE。バンドとしてはひさびさの東京でのライヴで、ヴォーカリストChicaとともに出演する。
 もうひと組はレジェンドこだま和文と、共作『2 Years / 2 Years In Silence』を残すUndefinedによるタッグ。こちらもひさびさのライヴとなる。
 DJ陣も抜かりない。レゲエ・セレクターのパイオニアのひとりである佐川修、blastheadのHIKARU、そして先日seekersinternational & juwanstocktonの強烈なダブ・アルバムを送り出したレーベル〈Riddim Chango〉(1TA&Element)の3組。
 さらに会場では、SOUL FIREの7インチが先行販売されるという。8月24日は渋谷WWWに集合です。

超の付くダビーな15周年、超虎子の宴開幕です!

うまい飯とうまい酒、そして音楽とそこに集まる人、人、人──宇田川町に居を構えて15年、虎子食堂、今年の周年のスペシャル・ヴァージョンは現地を飛び出し、同じく渋谷のWWWにて「これしかない」と店主熟考の下に集めたラインナップで開催決定!この国のダブのオリジネイターのひとり、こだま和文、そして海外のモダン・ダブの牙城〈ZamZam Sounds〉などからもリリースするダブ・ユニット、Undefined。2022年にコラボ・アルバム『2 Years / 2 Years In Silence』をリリースした両者が、同年の同じくWWWでのライヴ以来、ひさびさにライヴを行う。もう一方のスペシャルなライヴ・アクト、大阪のダブ・マスター、Hav率いるSOUL FIREがヴォーカリスト、Chicaと共に出演。バンドとしては虎子7周年記念以来の東京でのライヴ。この国の東西のある意味でレジェンダリーでありながら、現在進行形のダブ・サウンドが直撃する一夜となる。DJには、この国のレゲエ・セレクターのパイオニアのひとりであり、「溶け出したレコード箱」などここ数年、虎子食堂での出演が活発化している佐川修。想像の外側からエコーの残響にのってダビーにアシッドの熱風を呼び込む、HIKARU。国内外の現在進行形のダブ・サウンドをリリース、1TAとElement──今回会場で先行で販売されるSOUL FIREリイシュー7インチをリリースするなど過去の国内産ダブの遺産を紹介する1TA〈Rewind Dubs〉、そして I Jahbarとのコラボなどカッティング・エッジなダブ・サウンドをリリースするElementによる〈Parallel Line〉というサブ・レーベルもそれぞれ運営──によるセレクター・デュオ / レーベル、Riddim Changoも登場する。レゲエやダブを後景にしつつ、さまざま音楽とそれを愛する人が集まるあの場所の、15年の集大成、いわば超虎子食堂的な一夜を!(河村祐介)

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公演タイトル:SUPER TIGER

出演:
〈LIVE〉SOUL FIRE meets Chica/Undefined meets こだま和文
〈DJ〉佐川修/HIKARU (blasthead)/Riddim Chango (1TA & Element)

日時:2024年8月24日(土曜日)開場/開演 18:00
会場:WWW
前売券(2024年6月12日(水曜日)18:00発売):3,500円(税込・ドリンク代別)
前売券取扱箇所:イープラス、虎子食堂店頭
問い合わせ先:WWW 03-5458-7685

フライヤー画 : 西加奈子

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★国産Dubリイシュー・レーベル〈Rewind Dubs〉より、関西のレジェンドDubバンドSOUL FIREのアーカイブから7インチアナログレコードがリリース決定、そして本イベントにて先行販売!
2000年初期にリリースされたアルバム「SOUL FIRE」から煙立ち込めるルーディなステッパーチューン"Rizla”と、未発表曲"Who is DirtyHarry?"をカップリングした一枚。

7-inch Vinyl single
Soul Fire - Rizla w/ Who is DirtyHarry?
Catalog number : RWDS7-001
Price : ¥1,980 (tax in)

https://www-shibuya.jp/schedule/018020.php

ドライブアウェイ・ドールズ - ele-king

 ラナ・デル・レイが昨年リリースしたアルバム『Did You Know That There’s A Tunnel Under Ocean Blvd』に収録された〝Margaret〟は、同アルバムをプロデュースしたジャック・アントノフの妻で役者のマーガレット・クアリーの名前をタイトルにしている。アントノフはクアリーに一目惚れだったとデル・レイが最初に歌い、それを受けてアントノフ本人(=ブリーチャーズ名義)が現在のパートナーに少しでも疑問がある人はすぐにその場から逃げろ、逃げろ、逃げろと強く訴える。さらにデル・レイが自分の恋愛に迷いがある人はアントノフとクアリーの結婚式に参列したらいいと結婚式の日取りを告げる。複雑な構成だけれど、基本的には自分の恋愛に漠然とした不安を抱いている人は時間がそれを解決してくれると繰り返す曲で、デル・レイのなかでもとりわけ甘ったるく、暗いカントリーである。アントノフはデル・レイだけでなく、テイラー・スウィフトやロードも手掛ける売れっ子のプロデューサーで、〝Margaret〟はどことなく〝Royals〟などを思わせる。

 マーガレット・クアリーは5年前にタランティーノ監督『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でクリフ・ブース(ブラッド・ピット)を誘惑するプッシーキャットの役で鮮烈な印象を残し、イーサン・コーエン監督『ドライブアウェイ・ドールズ』で早くも主役の座を射止めることとなった(2年前のランティモス監督『哀れなるものたち』では実験材料の役だった)。『ドライブアウェイ・ドールズ』は簡単にいえばレズビアンのカップルがフィラデルフィアからタラハシーまで南下しながら、スピードを出し、食事をしたり、セックスの相手を探すなどふざけ半分でドライヴを楽しむロード・ムーヴィーで、同作の性格は、脚本を書いたイーサン・コーエンの妻、トリシア・クックの言葉が最もわかりやすい説明となっている。いわく、レズビアンを描いた作品は重くシリアスなものが多いので、楽しいセックスを描こうと思ったと。確かに『アデル、ブルーは熱い色』『キャロル』『ロニートとエスティ』と、10年代に公開されたレズビアン映画は受難の時代を題材にしたものが多く、勇ましい気分になることはあっても楽しい作品とはいえなかった。対して『ドライブアウェイ・ドールズ』は笑いっぱなしに近い。共演のマリアンを演じたヴェラルディン・ヴィスワナサンによればカメラが回ってないところでもマーガレット・クアリーは彼女のことを笑わせにかかっていたという。

 1999年12月、オープニングはキケロのバーでアタッシェ・ケースを抱えたサントス(ペドロ・パスカル)がボックス席に座っている。店内にはリジー・メルシェ・デクローによる〝Fire〟のカヴァーが鳴り響いている。サントスは歌詞の通り火がついたようにいきなり店を飛び出すと後から追ってきた店の主人に殺される。場面変わって隠キャのマリアンが仕事場で同僚の男にナンパされるも無視し、陽キャのジェイミーとレズビアン・バーに出掛けていく。ステージに上がり、みんなから脚光を浴びるジェイミーとは対照的にマリアンは地味な服装に嫌味を言われるなど、まったくその場を楽しめない。ジェイミーはしかし、実際にはガールフレンドと別れたばかりでやさぐれた気分になっていて、マリアンがタラハシーに住んでいる叔母の元を訪ねるという話を聞くと、配送サーヴィスで車を借りて一緒にドライヴしながら行こうと提案する。配送センターでタラハシー行きの車を探すシーンがいきなり面白い。胸に「カーリー」という名札をつけたおっさん(ビル・キャンプ)にジェイミーが「カーリー」と話しかけると、おっさんは芝居がかった芝居をしながら「初対面でいきなりカーリーと呼ぶんじゃねえ」と怒り出す。カーリー・ヘアのジェイミーが怒るならわかるけれど、カーリー・ヘアがカーリーのことをカーリーと呼んでカーリーに怒られるのである。ジェイミーがガールフレンドと住んでいた部屋に自分の荷物を取りに戻ると、留守にしているはずのスーキー(ビーニー・フェルドスタイン)がなぜか家にいて壁に取り付けられたディルドをぶっ壊している。「2人で使わないのならこんなディルドはいらない!」とスーキーは絶叫し、マリアンはひたすら怯えている。部屋のドアを開けてすぐのところにある壁にディルドを取り付けていることがそもそもどうかしている。

 配送センターにギャングがやってくると、タラハシーに向かうはずの車が何者かによって先に持って行かれたことを知る。ギャングたちはカーリーをボコボコにし、スーキーの家を探り当てて部屋に乗り込むと、荒れ狂うスーキーに返り討ちにされる。わやくちゃなシーンが様々に続き、ジェイミーとマリアンの車がフロリダ州に着くとタイヤがパンクし、スペアを取り出そうとしてトランクを開けてみる。そこには冒頭でサントスが抱えていたアタッシェ・ケースと丸い箱があり、箱のなかには切り落とされたサントスの首が入っていた。首だけになったペドロ・パスカルというのも笑うけれど、この構図はどうやらファンカデリック『Maggot Brain』のジャケット・デザインを模倣したものなのである。

 本作はイーサン・コーエンによる初の単独作で、実質的な共同監督だという妻のトリシア・クックとも初めて組んだ劇映画となる(2人はジェリー・リー・ルイスのドキュメンタリーを撮ったことはある)。演出スタイルはラス・メイヤーやジョン・ウォーターズを意識したらしく、なるほどかなりえげつない。とはいえ、僕が観た限り同作の演出はコーエン兄弟の方法論そのままで、複数の要素を絡ませる手際はもはやお家芸。アメリカの政治状況を寓話に落とし込むのが天才的に上手いコーエン兄弟の作品は誰かの自由意志によって物語が進むという印象を与えず、登場人物すべてが神の手のひらで転げ回っているように見えてしまうのが特徴。そうしたセンスはこの作品も同じくで、脚本がつくり込まれ過ぎていて独自に人物造形をする余地がなかったと出演者たちが回想していたようにジェイミーがマリアンを振り回しながらレズビアンが自分たちに必要な感情を探り当てていく過程はそのままクリントン政権下でレズビアンがひとつの勢力として固まっていくプロセスを表しているかのよう。ジェイミーとマリアンがお互いを理解し、最終的には人生のパートナーになっていくことはわかりきったことだけれど、なかなかストレートにそこまで辿り着かないところが『ドライブアウェイ・ドールズ』を、まあ、過分に面白くはしているし、それこそラナ・デル・レイの歌詞が言い得て妙ということになる。

(以下、ネタバレ)ジェイミーとマリアンがアタッシェ・ケースを開けてみると複数のディルドが入っている(!)。だいぶ後になってわかることだけれど、そのうちのひとつは上院議員ゲイリー・チャネル(マット・デイモン)のペニスを形どったもので、これが今後も世に出回ると大統領選に響くと考えたチャネルがこれを回収しようとしてギャングたちを動かしていたのである。この映画にはところどころで挿入されるトリップ・シーンのような映像があり、観ている時はなんだかわからなかったのだけれど、終わってからパンフレットを読んでみると、60年代にジミ・ヘンドリックスやウエイン・クレイマー(MC5)のペニスを実際に型取りしたヴィジュアル・アーティスト、シンシア・プラスター・キャスター(22年没)を題材としたもので、この役をノー・クレジットでマイリー・サイラスが演じている。シンシア・プラスター・キャスターがチャネルのペニスを型取りしたという無茶苦茶な設定はどうなのかと考える暇もなく、さらにはマイリー・サイラスがそのシーンで使うようリクエストした曲が〝Maggot Brain〟だったという……うむむ。

 チャネルがジェイミーたちとの取引に応じ、バーのボックス席で待っている時にも〝Fire〟が鳴り響いている。100万ドルを用意してきたチャネルの前にジェイミーたちが姿を現すとチャネルが「誰?」と尋ね、マリアンは「デモクラッツ」と答える。普段、アメリカ人は、民主党のことは「デム」と発音するので、ここで「デモクラッツ」とフルでゆっくり答えるところは爆笑だった(チャネルは大統領候補だとされていたので、翌年が大統領選だったことを考えるとやはりブッシュ・ジュニアを念頭に置いている?)。上映中はそういえば女性たちの笑い声が何度も湧き上がっていた。そもそも観ていたのは女性の方が多く、帰り道で興奮したように話し合っている女性たちの姿も微笑ましかった。そう、間違っても反フェミのアニオタは観に行かない方がいい。女性たちをそうした視線で眺める世界観はここにはまったくない。とはいえ、僕にはこの作品のタイトルがもうひとつよくわからなかった。作品の終わり頃、壁に落書きされた「Drive-Away Dykes」の文字に「oll」という文字が飛んできて上から貼り付き、「Drive-Away Dolls」というタイトルに様変わりするシーンがある。「Drive-Away Dykes」はヘンリー・ジェイムズの小説だそうで、「Dykes」はレスビアンを表す俗語。これがなぜ「Dolls」に置き換えられたのか。「Dolls」は明らかにジェイミーとマリアンのことで、彼女たちを「人形」と呼び換える意味がよくわからない。単に「かわい子ちゃんたち」という意味なのだろうか。ジェイミーがレズビアン・バーでワン・ナイトの相手を見つけて帰ってくるとマリアンはいつも本を読んでいて、それもヘンリー・ジェイムズの『ヨーロッパ人』だという。勉強不足でどうもこのあたりのことが腑に落ちないままです。

LIQUIDROOM 30周年 - ele-king

 1990年代の日本の音楽シーンに多大なる影響をおよぼし、貢献してきたLIQUIDROOMが今年で30周年を迎える。ある世代以上の方は当然ご存じだろうけれども、現在恵比寿にあるLIQUIDROOMはもともと新宿歌舞伎町に存在していた。その新宿時代の10年間にLIQUIDROOMが成し遂げた功績は日本の音楽史を振り返るうえで外せない。
 たとえばそう、ボアダムスのすさまじいライヴの数々やプライマル・スクリームやフィッシュマンズ、コーネリアス、UA、エイフェックス・ツイン、4ヒーロー、トータス、アンダーワールドといった時代のきら星たち、巨匠リー・ペリー、ジェフ・ミルズやアンドリュー・ウェザオールといったレジェンドたちのDJ、そして田中フミヤや石野卓球によるテクノの夜……。
 そんな1994年から2003年までのLIQUIDROOMを振り返る展覧会が現LIQUIDROOMのギャラリーKATAにて開催される。会期は7月13日(土)~7月21日(日)の9日間。入場無料。貴重な記録を目撃することで、音楽シーンの新たな未来を切り拓く一助としたい。(編集部の野田もコメントを寄せております)

LIQUIDROOMの原点である<新宿LIQUIDROOM>の歴史を紐解くアーカイブ展が開催決定

LIQUID START

―新宿LIQUIDROOM SINCE 1994―

LIQUID START制作委員会はLIQUDROOMの原点である<新宿LIQUIDROOM>の歴史を紐解くアーカイブ展を今年恵比寿開業20周年を迎えるLIQUIDROOM全面協力の元、2024年7月13日(土)から7月21日(日)までLIQUIDROOM内のギャラリーKATAにてLIQUID START―新宿LIQUIDROOM SINCE 1994―を開催いたします。

LIQUIDROOMの原点である新宿時代、約10年間の歴史を紐解くアーカイブ展

現在から遡ること30年前の1994年7月。新宿歌舞伎町のビルの7FでLIQUIDROOMの原点である<新宿LIQUIDROOM>が誕生していたことは、ある一定の年齢層を除き意外と知られていない事実かもしれません。今年恵比寿開業20周年のアニバーサリーを迎えるLIQUIDROOM全面協力の元、新宿LIQUIDROOM約10年間の歴史を紐解くアーカイブ企画展を開催いたします。新宿LIQUIDROOMが存在した1990年代後半~2000年代前半の洋邦楽ライブ/クラブシーンの潮流をいま、再認識するということ。それは単なる90’s〜00’sへの郷愁だけでなく、この時代の音楽シーンの影響がどのように後世の音楽やカルチャーへと結びついていったのかを考察するという試みでもあると考えます。LIQUIDROOMファースト・ディケイドの軌跡、ぜひご覧ください。

【開催概要】

イベント名称:LIQUID START―新宿LIQUIDROOM SINCE 1994―
開催期間:2024年7月13日(土)〜7月21日(日)
開場時間:平日:14:00〜20:00 土日祝:13:00〜19:00 *最終日のみ18時クローズ
開催場所:LIQUIDROOM ギャラリーKATA(住所:東京都渋谷区東3-16-6 2F)
観覧料:無料
注意事項:一部を除き写真撮影禁止 :ギャラリー内は飲食禁止とさせていただきます

LIQUIDROOM HP:https://www.liquidroom.net/
KATA HP:http://kata-gallery.net/
LIQUID START公式Instagram:@liquid_start_since_1994

主催:LIQUID START制作委員会
協力:LIQUIDROOM

【本展の見どころ】

■現在では閲覧・入手困難!圧巻のフライヤー・ギャラリー
会場全体を彩るのは、現在ではあまり配布されることがなくなったライブやパーティーのフライヤー。90’s〜00’sならではのムードを如実に反映しているデザインのフライヤーや新宿LIQUIDROOMの月間スケジュール、新宿LIQUIDROOMがオープンした1994年7月から約10年間の公演フライヤーを時系列で一挙に展示。この会場でしか見ることの出来ない、貴重なものとなっています。

■ここでしか読めない!豪華アーティスト陣によるスペシャル・コメント
本展のためだけに寄せられた、アーティスト自身による新宿LIQUIDROOMでの思い出が語られたコメントを当時のアーティスト公演フライヤーと共に展示いたします。

コメント展示予定アーティスト:小山田圭吾(Cornelius)、茂木欣一(フィッシュマンズ、東京スカパラダイスオーケストラ)、Mummy-D(RHYMESTER)、増子直純(怒髪天)、Buffalo Daughter、KEN ISHII、田中フミヤ、宇川直宏(現”在”美術家)、他

■当時のライブ・場内写真、秘蔵映像、公演解説、90’s〜00’sの超貴重バンドTシャツの展示
フォトグラファー菊池茂夫氏、山本絢子氏によるライブ写真や場内写真、秘蔵映像や当時のライブ/パーティーの解説テキスト等を公開。また、新宿LIQUIDROOMで公演を行ったアーティストの貴重なヴィンテージバンドTシャツの展示等、現在ではなかなか接することが出来ないレアな平成カルチャーを生で体感できる展示構成を予定しています。

 坂本龍一への敬意を表する国内外 41 名の音楽家による未発表の 39 作品を収録した コンピレーション、2023 年ドイツ音楽評論家賞 Electronic & Experimental部門を受賞した『Tribute to Ryuichi Sakamoto “Micro Ambient Music”』が、2024 年5月29日から配信されている。また、同時にアナログ盤もリリースされる。以下、リリース・スケジュールとその内容です。

Tribute to Ryuichi Sakamoto “Micro Ambient Music”

Vol. 1 2024 年 5月31日 (水)発売
01. Tetuzi Akiyama / Transparent Encephalon
02. Otomo Yoshihide / Moonless Night
03. Toshimaru Nakamura / nimb#75
04. Sachiko M / to the sunny man
05. David Toop / Hearing Cries From the Lake
06. Rie Nakajima and David Cunningham / Slow Out
07. Lawrence English / It Is Night, Outside

Vol. 2 2024年7月31日 (水)発売
01. SUGAI KEN / Swallow & Electronic Swallow (2023 Rainy Season)
02. Kazuya Matsumoto / ice
03. Shuta Hasunuma / FL
04. Takashi Kokubo / Rainforest soloist
05. Miki Yui / Hotaru
06. Tomoko Sauvage / Weld
07. Christophe Charles / microguitar

Vol. 3 2024年9月25日 (水)発売
01. Alva Noto / für ryuichi
02. Yui Onodera / Untitled #1
03. Marihiko Hara / extr/action
04. Ken Ikeda / Circulation
05. Hideki Umezawa / Sculpting in Time
06. AOKI takamasa / UKIYO
07. ASUNA / Elephant Eye
Tribute to Ryuichi Sakamoto "Micro Ambient Music"

Vol. 4 2024年11月27日(水)発売
01. Stephen Vitiello / Motionless Wings
02. Sawako / Tokyo Rain Forest 35°40ʼ 25” N 139°45ʼ 21” E
03. Tujiko Noriko / Iʼ ll Name It Tomorrow
04. ILLUHA / Gratitude
05. Christopher Willits / Study for Sakamoto (March 2023)
06. Tomotsugu Nakamura / backword to blue
07. Kane Ikin / Pulsari
08. Bill Seaman / Tears Namida

Vol. 5 2025年1月29日(水発売
01. Tomoyoshi Date / Placement Of The Drops
02. Federico Durand / Alguien escribió su nombre en el vidrio empañado
03. Marcus Fischer / Overlapse
04. Taylor Deupree / A Small Morning Garden
05. Chihei Hatakeyama / Mexican Restaurant
06. Stijn Hüwels / Shinsetsu
07. hakobune / hotarubune


Vol. 6 2025年3月26日 (水)発売
収録曲未定

Beth Gibbons - ele-king

 都知事選が面白くなってきた。小池vs蓮舫という構図から透けて見える光景については、ぼくがここで言うまでもないことだ。岸本聡子杉並区長あたりから、少しずつ景色は変わっていった(江東区、港区、次は?)。
 話を逸らそう。この10年を振り返ったとき、ジェンダーや人種という観点から歴史や社会を見ることで、根深い偏見や不平等がより広く明らかになったことは事実だ。だからといって、大衆文化およびその批評において、そのレンズのみが頼りではない。なぜなら、個人とは、ジェンダーや人種というカテゴリーによってのみ分けられるものではないからだ。そのカテゴリーには、当然、経済があり、ほかにも育ちや外見などいろいろある。年齢ということも、そのひとつに挙げてもいいだろう。
 日本のロック/ポップスには、人生においては何歳になっても10代のように恋をし、青春していなければならないという、ブーマー世代の夢をなかば当然のことのように引き受けているところがある。それが現状への不満の表明であり、いくつになってもおれは若々しくロックしていると。その感性はもう、たとえばtofubeatsの世代にはほとんど減少している。ミレニアル世代に属する彼と話していて思うのは、自分の人生において青春時代を無理にでも延長しようなどという欲望を感じないことだ。当たり前の話だが、表現の幅に関して言えば、その選択のほうが可能性も広がる。

 ベス・ギボンズのソロ・アルバム『Lives Outgrown』には、中年期も後半に入ったひとりの女性の苦悩が横溢している。「太陽の光のなかを歩いているというのに、それでもまだ俺たちは立ち泳ぎをしている」——トリッキーが “Blue Lines” のなかで放った、ブリストル・サウンドの美学を象徴的に表現したこの言葉は、同時に人生の本質を突いているように思う。生き続けていることは、長ければ長いほど明るくはない。ギボンズのアルバム名もそう言っている。そして、昨年アフガニスタンの少女たちによるグループ、ミラキュラス・ラブ・キッズとともにジョイ・ディヴィジョン/デイヴィッド・ボウイの名曲(アトモスフィア/ヒーローズ)をカヴァーした彼女の、キャリア史上初のソロ・アルバムで歌われる歌には耐えられないほどの深さがあることは、歌詞を解せずともサウンドを通じて伝わってくる。

 ポーティスヘッドがデビューした30年前、すなわち1994年、ぼくはその先陣を切ったグループのほうに夢中だった。マッシヴ・アタックの2枚のアルバムとトリッキーのソロ・アルバムは、拡大された低周波数と都会の冷たさ、そして孤独と喪失との合奏という点で言えばゼロ年代にベリアルがやったことを10年前にやっていたと言える。これほど強力な既発作があったなか、それでも後発の『ダミー』がアピールできたのは、「誰も私を愛さない」と歌うベス・ギボンズの歌というよりは、ぼくはジェフ・バロウによるスタジオワークの成果が大きいと思っていた。ワイルド・バンチ系にはないジャジーなムードにはエイドリアン・アトリーが貢献しているのだろうと。ただし、ひとつぼくの思い出を言えば、ブリット・ポップの愛国的な熱狂の真っ只なかのイギリスにいたときに、ラジオやテレビから頻繁に流れるその曲の、じつに居心地の悪そうな響きには惹かれるものがあった。なにせ1994年と言えば、オアシスが最初のアルバムを出した年で、ああした狂騒のなかにあって、当時のブリストル・ビッグ・スリーの冷徹とも言える無愛想さ、無気力さは政治的にもクールに思えたのだ。

 彼女には、すでに過ごしてきた人生があった。ギボンズはジェフ・バロウよりも6歳年上で、『ダミー』のときには30手前だった。ブリストル出身ではないし、彼の地に住んでいたわけでもなかった。いわば流れ者、しかしそうした背景は、ブリストル・サウンド特有の大人びて枯れた質感を表現するうえで都合が悪くはなかろう。誰もが認めるように、ポーティスヘッドには3人の個性が欠かせなかった。彼らが共同で制作した3作のクオリティを思えば、ギボンズが長いあいだソロ作品を出さなかったこともわからなくはない。その前に、『Out of Season』をリリースしているが、あれはトーク・トーク(80年代にシンセ・ポップ・バンドとして登場したが、のちにポスト・ロック/アンビエント・ポップの先駆的な作品を残している)のポール・ウェッブという才能との共作だ。が、サウンド面で言えばそれが今作の序章になっていることは間違いない。

 寡作家とは、出す作品に抜かりはないものだ。結局のところ彼女が自分の初めてのソロで試みたことは、ジェフ・バロウのような電子機材に精通した現代的なアーティストが手がける音響工作とは真逆の、60年代の英国におけるフォーク・リヴァイヴァルと接合する生演奏の路線だが、ノコギリから缶、捨ててあったパーカッションなど多彩な楽器が使用されている。民謡からロックやポップス、ジャズなどのハイブリッドで、言うなれば神聖さと庶民性の絡み合いだが、音響的には洗練されている。ときにコーラスが幽霊のように聴こえるほどに。大衆音楽をもって、人は死ぬということ、あるいは中年期後半を生きる不安や苦悩、更年期障害という人生において避けることのできないテーマを歌にすることは意味があろう。それをなかば神聖な、美しい音楽として歌うことには、さらに意味があろう。だとしたら、ニーチェが言うように、美が生につきものの苦悩に打ち勝つことはあるのだろうか。「人生に好機などない」と彼女は望みを打ち砕く。ダークサイドを歩いていたからこそ、しかし見渡しはいい。

world's end girlfriend - 抵抗と祝福の夜 - ele-king

 その日は土砂降りと霧雨が交互に顔を出すような荒天とともにやってきた。昨年9月にworld's end girlfriend 7年ぶりのフル・アルバムとしてついに開花した大作『Resistance & The Blessing』の特別なリリース・ライヴ、題して「抵抗と祝福の夜」。人によってはいささか仰々しすぎるフレーズのように受け取ったかもしれないけれど、タイトル自体は8年前の『LAST WALTZ』期においてもWEGが一貫して掲げてきたイシューそのものであり、ごくシンプルで実直なメッセージだと自分は受け止めている。「抵抗と祝福の夜」は、WEG・前田氏が「音楽という巨大な喜びの中で、それがそのまま支援や寄付に繋がっていく形を作れないか?」という想いから、クラウドファンディングを活用したチケット販売がおこなわれていたことも特徴的だった。チケット売上の10%、ライヴ音源データ売上の80%、ライヴ映像データ売上の 80%、グッズ売上の40%をパレスチナ・ガザ地区へと寄付するプロジェクトとしても動いていた。その結果、756人の支援者を集め大成功という形でこの日を実現した。音楽表現という個人的な欲望からスタートするクリエイションを外側へとひたすら押し進め、一切の妥協なく「抵抗と祝福」を体現したという意味でもエポックな一夜だったと言えるだろう。

 本編SEが流れはじめたタイミングでなんとか会場にたどり着き、用意された2階席の後方からステージを見守る形で着座した。思えばこうして座ってライヴを鑑賞すること自体が久々の体験だ。自分が週末のほとんどを過ごす場所である小箱のそれとはなにもかもが違う音楽体験。ただ、体験におけるUI/UXの差異は大した問題ではなく、とにかく「どんな音が鳴らされるのか?」という点にまず期待と不安があった。全席指定の着座制でも1000人弱のキャパシティを誇る当会場は、果たして「鳴ってくれる」のだろうか? と。 とにかく、自分は基本的に野外でもないかぎりは大きすぎる規模の会場になにかを期待することはほとんどない。たとえば直近ならAdoのワンマン・ライヴの音響への文句は旧Twitterのフィードで嫌というほど目にしたし、一般的に大箱とされる1000人規模のヴェニューで「良い」以上のなにかを出音に感じる機会もほぼない。基本的に、いままで強く感銘を受けた音楽体験も、また単純に出音のサウンド・デザインへの感動も、そのほとんどは過剰にコンプレッサーの効いた、荒々しい、ボロボロの小さなクラブやライヴハウスで受けたものだったので、上質すぎる空間にはどうしても身構えてしまう育ちの悪さがある。

 けれど、そんな小箱のカビくささがまとわりついた懸念はただの杞憂でしかなかった。自分のなかの数少ないEX THEATERでの観覧体験(さいごにここを訪れたのはたしかムーンライダーズのワンマン)や、ここ数年浴びたあらゆる音響のなかでも突出した迫力と解像度を誇る音楽体験となった。ただのクリアで均整の取れたグッド・サウンドというわけでもなく、バンドセットとは思えない極低域の厚みと広がり方、痛覚化する寸前の高域の鋭利さと解像度の高さ、迫力と精緻さのバランス、どれをとっても極上だったと断言できる。聴覚的健康を一切顧みないアンダーグラウンドなクラブのそれに迫る荒々しさと、劇場的な空間だからこそ成立しうる上質さの矛盾した同居。WEGの集大成的な作品である『Resistance & The Blessing』のエッジーなサウンド・デザインの魅力を極限まで引き出すべく、薄氷を踏むように快と不快のスレスレを攻めた音響オペレーションを担った方々への賛辞をまずは記しておきたい。本当に素晴らしい仕事でした。

 ……という話ばかりをしていると、「で、ライヴの模様は? 曲目は?」と不特定多数にせっつかれるような被害妄想に駆られてしまうので、ここからは本編として内容の話を。
 オープニングSEを読み上げていた声に聴き覚えがあったけれど、後日それはWEGのポータルでもあるレーベル〈Virgin Babylon Records〉へ2年弱前に加わった窓辺リカというボーカロイド・IDMアーティストによるものだとわかった。誕生と輪廻について描いた作品のリリース・ライヴをはじめるにあたって、まずは生命体ではない導き手が必要だった、ということだろうか? 続けてアルバム冒頭を飾る2曲がプレイされ、その後に重要なリード・トラックのひとつである “IN THE NAME OF LOVE” が轟音のギターとともにスタート。ポスト・ロックや実験音楽といった枠組みを飛び越え、バンドセットならではの表現を突き詰めた結果、WEGの演奏がほとんどプログレッシヴ・ロックやシンフォニック・メタルの領域に入っていることに正直なところ面食らった。自分がWEGについて抱いていた印象はどちらかといえばポスト・ロック以降の電子音楽(の変異体)というものだったが、マニピュレーターだけでなくツイン・ギターにドラム、ヴァイオリン、チェロまでが入ったフルパワーでのライヴとなると、WEGの根底に横たわるゴシックな美学の濃度が高まるのだろうか。自分のふだんの趣向とメタルに類する音楽にはかなりの乖離があるため、その世界へ全編にわたって没入することは難しかったけれど、それでもそのスケール感には圧倒された。畑違いの音楽に頭から殴られるような体験も久々だ。

 前半の個人的なハイライトは、“歓喜の歌” をサンプリングした “Odd Joy” と “Black Box Fatal Fate Part.1+ Part.2 (feat. CRZKNY)” が立て続けにプレイされたことだった。アルバムのなかではよりエレクトロニクスに近接したこれらの楽曲たちがバンドのアンサンブルで再強化されていくさまは、今日この日しか味わえないものだっただろう。中盤以降には samayuzame 朗読によるポエトリー・トラックに、『LAST WALTZ』(2016)『The Lie Lay Land』(2005)『Starry Starry Night Soundtrack』(2012)などWEGの過去作からピックアップされた楽曲が織り交ぜられ、最新作のインタールードが異なる姿に再構成されていく様子も『Resistance & The Blessing』が掲げた「輪廻転生」というモチーフを想起させた。単なるファン・サービスとは一線を画す、本回のための特別な作劇としてかつての楽曲に光を当てる、という姿勢ひとつとっても、WEGの妥協なく万全を期して臨んでいるエネルギーが伝わってくる。

 後半部ではアルバムの持つポエジーと(手塚治虫『火の鳥』などを引き合いに出しても申し分ないほどの)遠大なスケール感がより強調されていき、しかしながら Smany、湯川潮音といったゲスト・ヴォーカルの歌も添えられることでディープに偏りすぎず、ポップにもならず、それでいて折衷的でもなくひたすらにWEGとしての美学に向かって突き抜けていくようなエッジーなアクトが続いていった。神聖さを帯びた “himitsu (feat. Smany)” からビープ音やクリック・ノイズで構成されたエクスペリメンタル・エレクトロニカ “Cosmic Fragments - Moon River”、ポエトリー・リーディング “Mobius” と続き、クライマックスにはWEGなりのアンセム・ラッシュが続いていく。アンセムというものは味の濃い食事のようなもので、ただ単に並べればいいものでは決してなく、無用な乱発は当然ながら熱気を削ぐ逆効果をもたらしてしまうものだが、その前提を背負ってなお “君をのせて” や “ナウシカ・レクイエム” のカヴァーを演奏したのち、“アヴェ・マリア” のアレンジを披露するようなライヴを、いったいだれが衒いなくできるだろうか。自分もこの一連の流れに面食らわなかったわけではないけれど、これまでの流れをたどると納得せざるを得なかった。アンセムを成立させるために必要なのは、とにかく妥当性ではなく正当性、偶然ではなく必然であること。正当/必然かどうかの答えは本人の頭のなかにしか存在しないので、その想いの容れ物として表現という営みが存在する。過去・現在・未来を並列化し再構成してみせたアルバムの世界を拡張する攻めの演出として受け止めた。

 終盤、WEGが轟音とともにシューゲイズ・モディファイを施した “Ave Maria” のフィードバック・ノイズを引き継いで披露されたのは “Two Alone” “unEpilogue JUBILEE” の2曲。アルバムの構成をなぞる形で着地していくのかな、と思った矢先に披露されたのは2010年作『Seven Idiots』から “Les enfants du paradis”。これには長年WEGの美学に触れてきている人ほど心を震わされたことだろう。そしてラストを飾ったのは、序盤披露された “IN THE NAME OF LOVE” と並ぶ重要な楽曲 “MEGURI” であった(本人解説曰く、この2曲こそがアルバムのコンセプトの根幹を成す「転生し続ける2つの魂」そのものとのこと)。極度の緊張感のもと進んだ2時間半以上にわたるライヴの最終局面で演奏にリテイクが初めて発生したのもラストのこのタイミング。シリアスなライヴ中のやり直しを、演出上の緩みと捉えるか魅力と捉えるかは人それぞれの話でしかないけれど、少なくとも自分は精緻なモノに発生するわずかな歪みに美を感じる人間なので、それも含め満足できた。いかに人間離れしたアクトを披露していたとて、だれもがただの人なのだということを思い出す安心感とともに。人間というのは常に間違い続ける存在でもあって、それゆえ世の中にはひどい歪みがたえず生まれ続けていて、ならいっそそんなもの喪失してしまえば……という危険な考えが頭をよぎることもなくはないけれど(もちろん、あくまでも「中二病」の時分の話)、そんなディストピアで観るライヴはおそらくライヴ足りえないし。間違いが起こることを否定しつつも、間違いを受容して前を向くこと。それもまた「抵抗と祝福」か。

 そんな形で、音楽ジャンルという切り口で観ると全編に対する没入感は得られずとも、趣味趣向を上回る圧倒的なクオリティで「抵抗と祝福の夜」は幕を閉じた。終演後、出口で会場に飾られた薔薇の花束の一輪が配られていたことも、また明日から生きていきましょうね、という小さな祝福のようで。これは取るに足らない私事にすぎないけど、その日は自分の誕生日で、ちょうど30歳を迎えたばかり。偶然にしては嬉しすぎるサプライズ・ノベルティだった。花は散り、枯れて、朽ちてもその鮮やかさの記憶は残り続ける。それ自体に意味はなくても普遍的な美を一瞬咲かせて、だれかの胸中に咲き続ける。ライヴという営みは、たとえそれが自己完結的な表現であったとしても、外に開かれている時点でだれかにとっての一輪となる。自身や世界のままならなさにつねに抵抗し続け、それと同時に自分と他者を祝福し続けること。そのサイクルを繰り返し続けていつか旅立つことができれば、次の道もあるかもしれない。ないだろうけど、なくてもそう生きたい。

 日本におけるブルース研究の第一人者にて、我らが拠点〈P-VINE〉の創業者である日暮泰文氏が、去る5月30日に75歳にて永眠した。
 氏は、大学在学中の1968年にブルース&ソウル・ミュージック愛好会を鈴木啓志氏らと設立、1969年から『ニュー・ミュージック・マガジン』に寄稿、ブルースおよびブラック・ミュージックついての原稿を多数発表した。氏は、中村とうよう氏らと並んで、日本においてブルースを研究し、論じてきた第一人者だった。
 幸いなことに、ele-king booksからは、美文家だった氏の、なかば詩的なブルース・エッセイ集『ブルース百歌一望』をはじめ、70年代に氏が立ち上げ編集長を務めていた雑誌『ザ・ブルース』時代からのパートナーである、高地明氏との共同監修のもと、日本においてブルースがどのように輸入され、どのように紹介/語られてきたのかをまとめた大作『ニッポン人のブルース受容史』、そして氏が愛してやまなかったB.B.キングに関する翻訳本『キング・オブ・ザ・ブルース登場-B.B.キング』を刊行させていただけた。また、おそらくは、氏がもっとも深く研究したであろうロバート・ジョンソンに関しては、『RL-ロバート・ジョンスンを読む アメリカ南部が生んだブルース超人』というすばらしい力作がある。
 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

Brian Eno, Holger Czukay & J. Peter Schwalm - ele-king

 ドナルド・トランプとの指名争いからいち早く降りたフロリダ州知事ロン・デサンティスはこの5月、州法から「気候変動」の文字をあらかた消し去った。この改定によってフロリダ州の企業は6月1日から二酸化炭素出し放題、風力発電は禁止、公用車も低燃費ではなくなるらしい。最高気温45度も5000億円の被害をもたらした暴風雨も20センチの海面上昇も左派の陰謀で、デサンティスはフロリダ州を左派や環境活動家から守ったと勝ち誇っている。トランプが再び大統領になれば同じことがアメリカ全土に広がっていくのだろうか。アメリカの消費社会は減速しない。前進あるのみ。『Climate Change(気候変動)』というタイトルを9年も前に付けていた以外、とくに評価できるポイントがなかったNYのハウス・ユニット、ビート・ディテクティブが4年ぐらい前からニューク・ウォッチというサイド・プロジェクトを始め、これがなかなか良かったので、前作から3ヶ月というハイペースでリリースされた新作のレヴューを書こうと準備を始めていたら編集部からイーノ、シューカイ&シュヴァルムの発掘音源について書いてくれというオファーが届いた。はいよと安請け合いしてすぐに聴いてみると、ニューク・ウォッチと同じ方向を向いていて、しかも36年も前の録音なのにぜんぜん完成度が高く、聴き込むほどに引き込まれるのでニューク・ウォッチには退場してもらうことに。ニューク・ウォッチ(核監視)というプロジェクト名は10年後に重みを増しているのかなと思いつつ。

『Sushi, Roti, Reibekuchen(寿司、パン、ポテト・パンケーキ)』と炭水化物の料理が並べられたライヴ音源(料理のイベントで演奏されたものだという)は3人の個性がぶつかり合っているのはいうまでもないことだけれど、シュヴァルムが用意したとされるサウンドの基調はどう聞いてもホルガー・シューカイの過去に規範を求めていて、大半はシューカイが長年にわたって試みてきた即興セッションをベースに、得意のラジオ・ノイズを間断なく挟むなど方法論的には80年代初頭の『On the Way to the Peak of Normal』やS.Y.P.H.のパフォーマンスを強く想起させる。セッションが行われた98年当時、シューカイはそれほど調子が良かったわけではなく、むしろ彼のキャリアのなかでは最悪ともいえるドクター・ウォーカーとのコラボレイト・アルバム『Clash』(97)をリリースした直後で、アンビエント志向の高まりと歩を揃えた『Moving Pictures』(93)以降、もうひとつ方向性を見出せなくなっていた時期にあたっている。テクノとの接点がドクター・ウォーカーだったということがすべてを物語っていて、シューカイほどの才能がなぜテクノの中心にいたマイク・インクやベーシック・チャンネルではなく、それらのフォロワーでしかないドクター・ウォーカーだったのか。テクノを聞き分ける能力がなかったか、テクノと呼ばれていればなんでもいいと思ってコラボレートしたとしか考えられない安易さである。実際、『Clash』以後、シューカイが積極的にテクノと関わっていく姿勢を見せることはなく、彼にとっては発展性のないプロジェクトで終わっている。完全に自分を見失っていた時期だったのだろう。

 ブライアン・イーノの90年代も同じようなもので、クラブ・カルチャーの狂騒や猥雑さに馴染まず、意図の伝わりにくい作品が続き、作品数も激減した時期である。よほどのファンならば理解を示しただろうけれど、リミックス・ワークもハズレが多く、新たなファンを獲得できる動きとはとても言えなかった(『The Shutov Assembly』がリリースされた当時、あまり面白くないという評を書いたら石野卓球に怒られてしまった)。イーノ自身が失敗だったと認めているリミックス・ワークにカン〝Pnoom (Moon Up Mix)〟がある。『Sushi, Roti, Reibekuchen』が行われる前年にリリースされたカンのリミックス・アルバム『Sacrilege(冒涜)』の冒頭に収録されたもので、失敗という以前に短くてすぐ終わっちゃうのでもうちょっと聴きたかったと思うリミックスである(これがきっかけで『Sushi, Roti, Reibekuchen』の共演が実現したのかもしれない)。さらにいえば『Sushi, Roti, Reibekuchen』の前夜にはイーノは思い切ってモート・ガーソンやレイモンド・スコットを思わせるスペース・エイジへと回帰し、エイフェックス・ツインやアトム・ハートらによるラウンジ・ミュージック・リヴァイヴァルにどこか文句を言いたげな『The Drop』をリリースする。しかし、これも大きなプロップスを得ることはなく、それどころかニック・パスカルやジム・ファセットに寄せたジャケット・デザインの意図も伝わらずに、ダサいと思われただけで、どちらかというとヤン富田の方が同時期にもっとうまく同じことをやっていたという印象が強い。シューカイほどひどくはないものの、『The Drop』もイーノが道を見失っていたことを記録した作品の一種ではあるだろう。

 そして、90年代と反りが合わなかった2人の前に現れたのがJ・ペーター・シュヴァルムだった。スロップ・ショップ名義でシュヴァルムが98年にリリースした『Makrodelia』はトリップ・ホップの最後尾につけたとされるデビュー作で、同じドイツ圏ではクルーダー&ドーフマイスターからドラッグ要素を差し引き、あっけらかんとさせたような作風がメインだった。はっきりいって『Makrodelia』は表層的で、ミュンヘンにはごろごろあるようなサウンドだし(実際にはシュヴァルムはフランクフルトが拠点)、イーノが関心を持つようなサウンドとは思えなかった。イーノが必要としたのは、しかし、ダブを思わせるドラミングや音の組み立て方、あるいはドラッグによる酩酊感とは別の価値観に支えられた “何か” だったのだろう。何度も書いてきたようにイーノは日常から離れることを良しとせず、90年代と肌があわなかったのもそのことに起因しているはずで、『Makrodelia』にはそのような条件を満たすものがあったに違いない。少なくとも『Makrodelia』の2曲目に収録された “Gone” には『Sushi, Roti, Reibekuchen』の基礎となるサウンドが聞き取れ、ここがセッションの起点となったことはなんとなく想像できる(『Makrodelia』ではなぜか “Gone” だけが飛び抜けている)。イーノもシューカイも袋小路にいて、明らかに未熟だったシュヴァルムがこの淀みに “何か” を加えたことで一気に全員のレヴェルが跳ね上がるというマジックが起きたのである。スポ根マンガでいえば起死回生の一打が放たれた。そんな感じがしてしまう。

 とはいえ、『Sushi, Roti, Reibekuchen』はオープニングの “Sushi” がまずはジ・オーブやスクエアプッシャーを想起させるところがある。回り道をしてようやくイーノがクラブ・カルチャーの成果と足並みを揃えたというか。これではイーノがアシッド・ハウスやチル・アウトに距離を置いてきた意味がない。曲の完成度は高いけれど、イーノにしてはヴィジョンに乏しく、クラブ・ミュージックに精通しているリスナーにはもうひとつ説得力がない。後半に入ってドラミングが後退するとアップデートされたカンみたいになり、続く “Roti” とともにそこからはなにも文句がなくなる。抑えたリズムで延々と聞かせるかと思えば、様々なSEを駆使して緊張感を高め、パンなど食べてる場合ではなくなっていく。後半から入ってくるドラムもクラブ・カルチャーのそれではなく、ジョン・ハッセルとの『Possible Musics』を彷彿とさせるものに変化している。炭水化物から離れて “Wasser(水)” と題された曲では緊張感を少しといて、穏やかな曲調になだれ込んでいく。おそらくイーノ主導なのだろう、ハウリングを起こしているようなドローンを軸に液体のなかを漂う感触はシューカイが持ち込んでいるのだろうか。背景に退きながら緊張感を残したドラムに “Gone” と同じようなリヴァーブをかけて効果を膨らませているのもおそらくイーノで、これを聞いているとサウンド全体のコントロールはイーノがイニシアティヴをとっていることを確信してしまう。 “Reibekuchen” もまたモロにカンを思わせるものがあり、この頃になると3人の持ち味が完全に融合した状態といえるのだろう。カンのようにパッションが迸らないところが時代の違いというか、それこそ部分的にはP.I.L.『Metal Box』やコールド・ファンク版のジ・オーブといった感じにも聞こえる。最後に “Wein(ワイン)” と題されたサウンド・コラージュ+ダブ。冒頭でイニシアティヴを取っているのはおそらくシューカイで、シューカイはどん底にいながら、この時期は10年をかけて『Good Morning Story』(99)を完成させていた時期でもあり、同作を製作している過程でカンの方法論から離れ、カン以前に取り組んでいたミュジーク・コンクレートに傾倒し始めた意識がこの曲にも見事に刻印されている。同じ時期にウィーンではフェネスがバイオアダプターという概念を音で置き換えるという作業を通してミュジーク・コンクレートを刷新し、ジム・オルーク&ピーター・レーバーグと組んだユニットによってドイツ全体を同じ道に引きずり込み、クリック・ハウスというモーメントとも同期しながらエレクトロニカというタームが幕をあけていた。シューカイがイーノに刺激を受けたかどうかはわからないけれど、00年には『La Luna』で自動生成による不穏で強迫的なドローンを構築し、フェネスたちとあまり変わらない地平にいたことは特筆すべきことである。

 イーノとシュヴァルムはこの後もタッグを組み続け、『Music For 陰陽師』(00)に『Drawn From Life』(01)と立て続けに作品を完成させていく。前者で幽霊じみたサウンドトラックを奏でたことはともかく、後者では『Sushi, Roti, Reibekuchen』を滑らかにしたテクスチャーが織り成され、かつてなくコード展開も華やかで、さらにはヘヴィなストリングスまで被せられていく。シュヴァルムはそれから12年後にワグナーを題材とした『Wagner Transformed』をリリースし(『アンビエント・ディフィニティヴ 増補改訂版』P200参照)、イーノは同作で “Tristan & Isolde(トリスタンとイゾルデ)” を演奏することになる。『別冊エレキング イーノ入門』で高橋智子が指摘するように、後期の代表作といえる『The Ship』(16)を製作するまでロマン主義に手を染めることがなかったイーノが、その禁を破った最初が『Wagner Transformed』であり、その予兆をなす作品が『Drawn From Life』なのである。同作はイーノのキャリアのなかでもかなり特異な作品で、ちょっと聴くとアンビエント作品の延長みたいだけれど、全体的には前半の活動からは想像できない要素に満ち溢れている。先に僕はイーノがシュヴァルムのサウンドに「ドラッグによる酩酊感とは別の価値観に支えられた “何か” 」に反応したという書き方をした。その “何か” とはロマン主義に通じるものではなかったのか。イーノが『Makrodelia』に見出したものはそれほどのものではなかったかと思う。シュヴァルムとの出会いからは『Sushi, Roti, Reibekuchen』~『Drawn From Life』~『Wagner Transformed』~『The Ship』という力強い系譜が導かれたのではないかと。

 素晴らしいパフォーマンスを展開しながら『Sushi, Roti, Reibekuchen』がこの当時、リリースされなかったのはなぜなのか。無意識のレヴェルで起きたことなのかもしれないけれど、ひとつにはイーノもシューカイもあまりうまくいっていない時期だったためにリハビリ以上の意味をセッションの効果として見出せず、自信を持って世に問う気になれなかったのではないかという推測が最初は浮かぶ。あるいはフィッシュ(Phish)やレイディオヘッドが全盛だった時期にはノスタルジックな響きが強く、その点でも気後れが生じたのかもしれない。うがっていえばゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラーもすでに胎動を始めていた時期なので、同じ即興でも強度に差があり過ぎて『Sushi, Roti, Reibekuchen』をリリースしても霞んでしまったことは想像に難くない。翻って現在はどうだろう。マクシミリアン・ダンバーことアンドリュー・フィールド~ピカリングが彼の運営する〈Future Times〉をハウスのレーベルから脱却させ、様々な実験的試みにトライするなかでプッシュしていたプロテクト-Uがその後にセッション専門の〈U-Udios〉を設立し、ここから生み出されるテープ群がカンのそれに近く、なかでも『別冊エレキング カン大全』で取り上げたオン・ザ・イフネス『U - Udios 4』(20)は新たな流れの始まりではなかったかと僕は思っている。細かく取り上げていけばきりがないけれど、これに冒頭で言及したニューク・ウォッチによる快進撃や、現在、フランスのカンと呼ばれているソシエテ・エトランゼが22年にリリースした『Chance』など即興で行われるセッションがひとつの流れとなってポスト・ロックの後にひと盛り上がりすれば『Sushi, Roti, Reibekuchen』は力強い導線のひとつとなることは間違いない。かつて荒木経惟は「いつ撮ったかではなく、いつ出すか」だと話していた。『Sushi, Roti, Reibekuchen』のリリースもまるでベスト・タイミングを図っていたかのようではないか。

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