Home > Reviews > Album Reviews > Hüma Utku- Dracones
本作『Dracones』は、イスタンブール出身で現在はベルリンを拠点に活動するサウンドアーティスト、フーマ・ウツクによる最新アルバムであり、先鋭的な電子音楽レーベル〈Editions Mego〉からのリリースとなる。シネマティックなアンビエントからノイジーな電子音までが横溢し、スケールの大きな音響世界が広がる、意欲的かつ完成度の高い電子音楽/電子音響作品だ。
ウツクのデビュー作は、2019年にベルリンのレーベル〈Karlrecords〉から発表された『Gnosis』である。ちなみに〈Karlrecords〉は、現代音楽および電子音楽の巨星イアニス・クセナキスの電子作品の再発も手がけており、実験音楽における重要な拠点のひとつだ。2022年には、すでに〈Editions Mego〉から『The Psychologist』を発表しており、彼女の音楽は着実に深化と進化を続けてきた。
これまでのウツク作品には一貫して、幽玄さとダイナミズムが交錯する、見事に構築された音響的美が存在していた。そして、この新作『Dracones』もまた、その流れを継承しつつ、さらに深い感情の領域へと踏み込んでいる。切迫感や危機感を孕んだ音響は、一見瞑想的であるが、同時に暴力や脅威から身を守ろうとするような防衛本能や恐怖をも喚起する。言い換えれば、本作は「瞑想」と「恐怖」という相反する感情が絶妙に同居した音楽であり、「緊張」「不穏」「解放」といった情緒が複雑に折り重なっている。こうしたムードは、この種のシンセティックな電子音楽の中でもきわめて異色の存在感を放っている。
本作『Dracones』は、ウツクが新しい命を授かった経験を出発点として生まれた作品だという。彼女自身の言葉を借りれば、「感情的、肉体的、精神的、霊的」な体験のすべてが、この音楽に折り込まれている。親になることへの根源的な不安。そうしたきわめて個人的かつ実存的な体験が、音へと昇華されているのだ。前作『The Psychologist』がカール・ユングの心理学的理論にインスピレーションを得ていたのに対し、本作はより深い個人史の内奥から出てきた音楽である。しかし、それは決して独白にとどまらず、聴き手を包み込むような普遍的な美しさと緊張感をたたえている。
このような表現が可能になったのは、何よりもウツクの電子音に対する比類なき構成力によるものである。たとえば1曲目“A World Between Worlds”は、低音のドローンに始まり、持続するオルガンのような響き、声と電子音のあわいをゆく音、ノイジーなテクスチャが重なり合い、濃密かつドラマチックな音響空間を築いていく。2曲目“Comfort Of The Shadows”では、機械的なリズムに細やかなノイズが刻まれ、不安定なパルスが空間を切り裂く。3曲目“A Familial Curse”では、針のように鋭い電子音とアルペジオが緊張感を生み、そこに鼓動のようなキックが加わることで、インダストリアルな世界が立ち上がる。4曲目“Here Be Dragons”は、ノイジーなドローンの中から、やがて「声」のような響きが現れ、混沌の中に人間的な感触をもたらす。
以降もアルバムは、「安定と不安定」「構築と崩壊」のはざまを往復しながら進行する。5曲目“Care In Consume”では、静かなノイズが少しずつ厚みを増し、緊張感が積み重ねられていく。6曲目“A House Within A House”では、内省的な導入から一転し、強烈なビートが炸裂して、まるで祝祭のようなインダストリアルサウンドへと変貌。ラストの7曲目“Ayaz’a”では、霞んだ音と緊張を湛えたドローンが持続し、電子音の叫びが折り重なることで幕を閉じる――それはまるで、雨の止まぬ世界に捧げられた静かなレクイエムのようである。全7曲、どれもが濃密で繊細、そしてドラマチックな電子音楽であり、聴き手の内面を静かにゆさぶる。
アルバム・タイトルの『Dracones』は、「Hic sunt dracones(ここにはドラゴンがいる)」という中世ラテン語に由来し、未知の危険領域を示す言葉だ。その語源が示唆するように、このアルバム全体に通底するのは「恐怖」の感情である。ウツク自身の抱く実存的な不安、「家族の呪い」や「親になることの恐れ」が、低く長く、作品全体のトーンを決定づけている。そして私は、その音から、「世界への警告」とも感じられる静かなメッセージを受け取った。
2010年にワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの傑作『Returnal』を世に送り出した〈Editions Mego〉が、15年を経て本作『Dracones』をリリースしたことの意味は小さくない。『Returnal』が2020年代におけるネット以降の電子音楽の地平を予言していたとすれば、『Dracones』が照らし出すのは、さらにその先にある、感情と音響の新たな結びつきではないか。今すぐにその答えを知ることはできないかもしれない。しかし確かなのは、このアルバムが、恐怖や不安といった陰の感情を基盤としながらも、どこかに微かな「希望」や「光」を内包しているということだ。ウツクの電子音には、どこかで確かに光が差している。不穏と光——私が本作を何度も繰り返し聴いてしまう理由は、その「二つ」が常に音の奥に脈打っているからにほかならない。
デンシノオト