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syrup16g

Rock

syrup16g

HELL-SEE [発売20周年記念盤]

DAIZAWA RECORDS / UK.PROJECT inc.

島崎森哉 Mar 31,2023 UP Old & New

 syrup16g の『HELL-SEE』がリリースされたのは20年前、2003年だという。他人事のような表現から始めたのは、1994年生まれのぼくが syrup16g を知ったとき、彼らはもうすでに活動を終えていたからだ。とはいえ、ぼくのような後追いリスナーからしても、十数年を経てから手にするこの『HELL-SEE』20周年記念盤のレコードが持つ物理的な重みには感じ入るものがあった。

 ぼくが彼らの魅力に気づいたのは2009年頃、彼らが解散した翌年だった。家族の目を盗んで使わなければならない、リビングに鎮座するパソコンという情報ソースの代わりに、インターネットが持つ莫大な情報ソースを解放してくれるiPhoneというツールが手に入ったのもちょうどその頃だった。だから再結成以前の彼らのライヴを一度も見ることができなかったぼくのようなリスナーでも、当時の彼らがどのように消費されていたのか、その痕跡は当時の2ちゃんねるやニコニコ動画などのネット・メディアから十分確認することができた。
 syrup16g は、音楽鑑賞者の厳しい審美眼を耐え抜いたバンドというより、彼らの内省的な歌詞をめぐる議論や、Gt, Vo の五十嵐隆の不安定なギター・プレイや歌詞の歌い間違えをネタにしつつ見守るコメントなど、「生温い」視線のなかにいた。
 そうした消費のあり方は、「もはやロック・バンドはロック・スターというキャラを演じることができない」という、虚構と現実の軋轢そのものを表現の原動力とした、リアルな内面の吐露を伴う彼らのスタイルがあればこそ存在し得た「力弱い」消費のされかただろうし、その「弱さ」こそが彼らと彼らのリスナーを結びつけるものだったのだろう。

 そうした「弱さ」や「繊細さ」を表現に取り入れていくようなバンド像は、ニルヴァーナ、レディオヘッド、ザ・スミスなどの英米のオルタナティヴ・ロックの潮流と共振する部分だろうし、コーラスの効いたクリーン・トーンのアルペジオや、グランジ〜シューゲイザー的なギター・サウンドなど、音響面でもそれらのバンドからの影響は大きいだろう。
 けれどそのような──あえてこうした語を選ぶが──「本格的な」音像には不釣り合いなことに、彼らの音楽にはジャパニーズ・フォーク的なコード感やメロディやアレンジが目立つのも重要なことだ。それは彼らの盟友であり、「鬱ロック」という語でともに括られていた ART-SCHOOL が、オルタナティヴ・ロックの文脈にある程度馴染むのとは対照的だ。
 どこか垢抜けないそれらのフォーク的な要素は、彼らの音楽に親しみやすさとベタッとした暗さを与えながら、日本語詞がうまく機能するための適切なタイム感を与えているように思う。そのおかげもあってか、この『HELL-SEE』というアルバムには、驚くほど柔らかい口語的な表現や陳腐な言葉遊びに溢れている。

 まず印象的なのは、「さっそく矢のように/やる気が失せてくねぇ」というオープニング・トラック “イエロウ” の歌い出しだ。五十嵐の書く詞に頻出する「捨て仮名」が早速登場し、無気力な形でのアルバムのスタートを告げる。続くA2 “不眠症” の「もう遅ぇかねぇ/ねぇ/うるせぇてめぇメェー/うるせぇてめぇ寝れねぇ/もう遅えよねぇ」という、切迫していながらもどこか気の抜けた「捨て仮名」の使用も印象的だ。
 また「すぐ似てる/なんちゃって/一緒じゃん/すぐに慣れちゃってもうピンとこない」(A4 “末期症状”)や、「使えないものは駆除し/排除されるよなぁ/雑踏その何割/いらない人だろう」(C2 “正常”)など、消費すること/されることにおけるあやふやな不安を、その背後にある「仕組み」の存在とともに匂わせていくような表現も彼らならではのものだろう。

 こうしていくつかの歌詞を羅列してみると、切実な内面の吐露や社会風刺的な「リアルな側面」すら、語呂合わせや気が抜けた「捨て仮名」を通過することによって、「この表現は陳腐なものに過ぎない」という自覚に送り返されていることがよくわかるだろう。彼らの表現のいたるところに過剰なまでの内省が仕組まれている。だが同時に、破れかぶれなヴォーカルやアルバム全体を覆うローファイな音像のなかで、そうした内省で押しつぶしたものの残滓が表現全体のあちらこちらで「逆ギレ」的に噴出していく。
 彼らの音楽には、日本人が英米の文化を消費する際につきまとう、「カルチャーを消費しているという自意識の薄膜」を壊してしまうような切実さとギョッとするくらいのリアルさがある。だからこの音楽を救い出すために、欧米の文化を引き合いに出すのはむしろこの音楽の射程を狭めることになる。何よりも重要なことは、極めて平易な日本語で、ゼロ年代初頭から中期の時代の空気を彼らが引き受けていたことだ。
 と、こうしていろいろ書きつけてみた後に改めて自問してみる。2023年にこのアルバムを聴き直す意味とはなんなのだろうか。どんどん悪くなるばかりの世界のなかで『HELL-SEE』はどんな価値を持つのか。

 そもそもこのアルバムのタイトル、『HELL-SEE』は「Healthy(健康的な)」という語を皮肉るものなわけだが、「健康」というタームは現代において極めてアクチュアルな問題だ。当初は「意識が高い層」の趣味にとどまっていたマインドフルネスやヨガという、「リラックス」にまつわる技術とメンタリティは、サウナやCBDの普及によってより多くの人びとにリーチするようになり、あらゆる不満の噴出や問題提起を未然に「予防」する。一方で、「ストゼロ」的なものに含まれる、過剰なストレス発散の手段も、それ自体が過剰であることが「ネタ」にされることで、許容され、濫用され、流通していく。メンタル・ヘルスの方面では、鬱病の「軽傷化」や、発達障害という概念の濫用によって、勝手な自己診断とそれに伴う自責の念が世界を覆っている。
 あらゆる「ヘルス・ケア」はより一般化し、多くの人間が進んで自己検疫と自己診断を繰り返す。『HELL-SEE』が素描してみせた問題はさらに進展し、「悪化」しているのは間違いない。

 ところで『HELL-SEE』というアルバムが不思議なのは、そうした「健康」を巡る問題を予感し、あらゆる一般通念をクサすアイロニーを主成分とした露悪的な表現を含みつつ、なぜかフォーク・ソング的といっても良いほど素朴な歌い回しが同居していることだ。
 例えばこのアルバムには、B3 “(This is not just)Song for me” やB4 “月になって” のような直球のラヴ・ソングも収録されているし、アルコール中毒によって五十嵐が入院した経験をもとに作られたというD2 “シーツ” では、「いつか/浴びるように/溺れるように/飲みたいよ」という退廃的なフレーズが、「いつか/風のように/鴎のように/飛びたいよ」という牧歌的なフレーズに重ねられている。またこのアルバムは、とってつけたような穏やかさを持つD4 “パレード” という曲で幕を閉じるのだ。
 このことはこのアルバムに限ったことではないが、彼らの音楽は、自己否定と逆ギレの、躁と鬱の天秤の揺れ動きから、ふいに夢から醒めるような穏やかさに入り込んでしまうところがある。そうした意味で、こうして「悪化」した現在から『HELL-SEE』を聴き直してみると、syrup16g は、あらゆるアイロニーを引き受けながら、穏やかさと素朴さを音楽のなかに託すことをやめなかったバンドのようにも見えるのだ。
 そのことを最も象徴するのがC1 “ex.人間” だろう。ミニマルで穏やかなギターのリフレインと、その間で揺れる浮遊感のある電子音とベースのフレーズをバックに、「道だって答えます/親切な人間です/でも遠くで人が死んでも気にしないです」という告白から始まり、「きてるねぇ/のってるねぇ/やってるねぇ/いってるねぇ/急いでるし分かってるんだ/三つ数えりゃ消える」という、形のない焦燥や諦念が通過していく。しかし最も熱を帯びた調子で曲の終盤に歌い上げられるのはこのようなフレーズだ。

「少し何か入れないと/体に障ると彼女は言った/今度来るとき電話して/美味しいお蕎麦屋さん/見つけたから/今度行こう」。

 色合いや凹凸のない流動食のような「健康」という語の代わりに置かれた、「お蕎麦屋さん」という具体的な固有名と、不意に挿し挟まれる「彼女」のセリフが呼び出す極薄のドラマは、「体に障る」という「健康」を巡る言葉を、血の通った人の肉声に、「気遣い」や「優しさ」と呼べるようなものに変換していく。
 『HELL-SEE』という作品には決して強い肯定性はないし、リスナーの背中を押すような前向きさもない。しかしこの作品は、サウナやCBD、あるいは音楽の世界でいえばニュー・エイジやアンビエントなど、アイロニーもユーモアも抹消し、「なかったこと」にしてしまう「無我」にまつわる技術の代わりに、健康や自己の承認を巡る、自傷行為にも似た際限のない自己内省に足を取られること自体を受け入れた上で、そこで演じられるものをひとつのある「ドラマ」に仕立てあげてみせる。際限のない「地獄」から、あるいは「不健康」から、あるドラマを、ある物語を摘出して編み上げていく。
 自己否定やアイロニーの答えとして、強い肯定性や「無我」の境地を置く代わりに、肯定や希望と呼ぶにはあまりにぬるく、ゆるく、当たり前のように置かれた素朴な言葉を、2023年のいまもぼくはひとつの「救い」として聴いた。

 ぼくらは自分自身の生活を消し去ってしまいたいという欲望を抱えながらも、せめてひとつの物語として、ドラマとして、その「生」に言葉を与えられるのを待っている。そのような祈りは決して、「健康」や「道徳」の名の下に消し去られて良いものではないし、ただ華やかな言葉を与えられて消え去るようなものでもない。「鬱ロック」という語で名指され、精神的な問題を抱える多くの人びとに届いていたこのアルバムは、そのことを20年も前から知っているのだ。

島崎森哉