Home > Reviews > Album Reviews > Riki Hidaka + Jim O' Rourke + Eiko IshibashiI- 置大石
日高理樹(リキ・ヒダカ)は、彼の音楽がそうであるように、生粋のボヘミアンなのだろう。いまの日本では絶滅に近い、社会の規範に囚われることがないいわば自由人。いったい彼は何のために音楽を作っているのだろうか。崩壊したフォークソング、解体されたギター、無調と調性とを超えた響き、アマチュアリズムと実験……。
ぼくが彼の音楽を初めて聴いたのは2016年の『Abandoned Like Old Memories』だったが、当時もいまも、彼はエスタブリッシュな音楽シーンにはいない。それはこの世界の秘密の入り口から下っていく地下室においてのみ演奏され、そこに遙々やって来た者たちのみが耳にすることができると、まあそんなところだ。
しかしながら彼の彷徨にも、どうやら拠点と呼べる場所があるらしい。2005年10月に広島の中区にオープンしたレコード店〈Stereo Records〉である。LAで生まれ東京で育ち、NYでも数年ほど暮らしていたこの旅人がどうして広島なのか。2012年の夏、彼が貧乏旅行で日本を横断していたとき、ちょうど広島に着いたところで出会ったのが同店の店長、神鳥孝昭だったのである。風来坊というよりも浮浪者然とした日高に風呂場を教えて夕食をともにした神鳥が今夜はどこに泊まるのか訊いたところ日高は公園のベンチで寝るというので、だったらうちに泊まれと、こうしてふたりの関係ははじまったという。
とはいえ、最初の出会いの時点では、神鳥にとって日高はただのおかしな若者である。神鳥が、日高が音楽をやっていることを知ったのはその出会いから1年後のことだった。2013年5月、広島でライヴを企画した際、友人づてにミュージシャンとして紹介されたのである。
こうして日高と再会した神鳥だが、初めて聴いた彼の音に震えを覚えたという。そして、神鳥がレーベルをはじめようとしたときに、最初のリリースを日高理樹のアルバムにすることに迷いはなかった。2014年4月に、彼の『POETRACKS』のアナログ盤がRECORD STORE DAYに合わせて発売された。ぼくが最初に聴いた日高のソロ作品『Abandoned Like Old Memories』も〈Stereo Records〉からで、これはレーベルにとって3番目のリリースだった。(2番目のリリースはJan and Naomiでの活動で知られるJanと日高の共作によるサイケデリック・フォークの『Double Happiness in Lonesome China』)
この頃神鳥は、人伝いではあったが石橋英子が日高を面白いと思っているという話を耳にし、アイデアが閃いた。2017年6月に広島の〈CLUB QUATTRO〉と愛媛の〈どうごや〉で神鳥が企画したライヴ公演にまず石橋英子とジム・オルークに声をかけた。それからふたりに当時はNY在住だった日高理樹のことを話し、ジョイント・ライヴを提案した。このアイデアに石橋とオルークは協力的だった。神鳥と石橋は話し合い、その結果公演は三部構成となって、最後を3人によるセッションで締めることにした。
結果、6月6日の広島公演がこのトリオの最初の演奏になったわけだが、それがプロジェクトのはじまりとなった。3人は、2017年12月には、再度〈Stereo Records〉主催で東京と山梨でのライヴも実現させた。その山梨でのライヴのための滞在中、〈八ヶ岳星と虹レコーディングスタジオ〉においてセッションした記録をもとにオルークがエディットして、ミキシングを施した結果が本作『置大石』である。楽器は日高がギター、石橋がフルートとピアノ、オルークがシンセサイザーを担当している。
“置_置_置”と“置___置___置”という謎めいた曲名の2曲が収録されている本作『置大石』(おきおおいし、と読むのだろうか)は、透明で美しいが抽象的で途方もなく、つかみ所がないかもしれない。しかも極めて静的なこの音色とテクスチュアの冒険は、外側だけ聴けばほとんど変化がないように感じられるかもしれないが、じつはその内部で変化している。ひょっとしたら、滲んだ水彩画さもなければ水墨画のように視覚的に再生されるかもしれない。
レコードで言うA面の“置_置_置”では、抽象性の高いトーンが呼吸しているかのように途切れては鳴り、その幽妙な広がりの遠くからギターのドローンが響いている。曲のなかば過ぎから音は空間を包囲するように広がり、この空間は終盤に向け密度を増し、そして消えていく。
石橋英子のピアノからはじまるB面の“置___置___置”は、その魅惑的な旋律にオルークのシンセサイザーと日高のギターがテクスチュアを描きながら展開する。ドローンのなかに石橋のフルートが加わると、音楽の背後からは平穏な気配がスローモーションで立ち上がり、やがてわずかな旋律はギターにゆだねられる。
先述したようにこの2曲のミキシングはジム・オルークによるもので、彼はこの日常でも非日常でもない、いわば完結なきひとつの連続体のような曲における音のひとつひとつを調整し、静的で不規則的だが循環性のあるこれらの音響に輪郭を与えている。おそらくはオルーク自身もこの音楽のリスナーのひとりとして再構築したことだろう。
また、レコード盤のレーベル面には〈Stereo Records〉の神鳥孝昭と〈八ヶ岳星と虹レコーディングスタジオ〉のオーナー、藤森義昭への感謝が記されている。この音楽は彼らとの出会いによって生まれているわけだが、ぼくがこのreviewの前半で書いているのは、日高と神鳥との出会いを軸にした話であって、山梨からやってきた石橋とオルークのふたり──音楽における静かな川の流れの深みのようなアーティスト──を軸にすればまたもうひとつの物語がある。そのふたつの物語の出会いが、このレコード(ないしはCD)に記録されている音楽と化したと。
リスナーがこの音楽を聴いていてなにか胸のすく思いを感じられるとしたら、それはきっと彼らの出会いによって創出された感覚であり、そしてまた、リスナーが朝靄のかかったかのような、この空間にまでたどり着けたことへの喜びゆえであろう。(敬称略)
野田努