Home > Reviews > Album Reviews > Madegg- Kiko
元旦にこれといった予備知識もなく有楽町マリオンでトム・フーパー監督『レ・ミゼラブル』を観ていたら、頭を坊主に刈られたアン・ハサウェイがシネイド・オコーナーさながらに熱唱していた。あれ、ハサウェイって歌はヘタだと言ってなかったっけ? 坊主頭のせいで鬼気迫るように思えるだけ? それにしてもイギリス人が撮ると『レ・ミゼラブル』なのに、なんだかディケンズに見えてしまうよなー。面白いのかな、この映画? クリストファー・ノーラン監督『バットマン ダークナイト・ライジング』もいまのアメリカをフランス革命前夜に喩えていた含みはあるにせよ、『レ・ミゼラブル』のそれはあまりに説得力がなかった。デヴィッド・クローネンバーグ監督『コスモポリス』もやはりオキュパイを念頭に置いた作品だったので、「無産階級による革命が失敗する話」というマーケットでもできつつあるのだろうか。それ以前に自民党の憲法「改正草案」では21条も《公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない》という内容だったりするので、失敗どころかデモやオキュパイが日本からはなくなっちゃうかもしれないですけどね。
そんなことは忘れた頃にハサウェイの熱唱シーンをパロった動画がユーチューブに上がった。ハサウェイの坊主頭が意外と評価されず、歌が歌えるようになったことさえ「力みすぎ」だと悪評が続いたことに抗議し、28歳の女性がハサウェイをマネた容姿でアカデミー会員に「ご検討を!」と訴えかけたのである。結果的にハサウェイはアカデミー助演女優賞を受賞したものの、動画がアップされた時点では彼女にとってありがたいのか迷惑なのかわからない上に、ハサウェイより歌が上手いなどという評まで飛び出してしまった。しかも、その週だったか次の週に、今度はAKB48のメンバーがセックスしたかどうかして、
やはり坊主頭になり、ファンの皆様に詫びを入れていた。リアルな芸能界なので話題性を逆手にとって独立しても結局は干されるだけだろうから、そうまでして組織にいたいのかという議論は世間知らずでしかないとしても、それ以上のことはよく知らない僕としては男の方は坊主にはならなかったのかなと思ったり。また、次の日には、なぜか(本当に無意識に)アルベルト・ネグリン監督『アンネの追憶』をレンタルしてしまい、アウシュヴィッツに送られたアンネ・フランクがいきなり坊主頭にされるシーンに出くわした。どう考えても、2013年は女性の坊主頭元年である。勢いでローラ・ムヴーラのデビュー・アルバム『シング・トゥ・ザ・ムーン』まで買ってしまった。イギリスではR&Bシンガーのブライテスト・ ホープに選ばれた新人である。
アン・ハサウェイやローラ・ムヴーラは役作りやファッションとしてやっていることなので、同じ坊主頭といってもAKBとはやっぱり意味が違う。 芸能人がプライヴェートを切り売りできるようになった/しなければならなくなって、けっこう経つとは思うけれど、それもつくりだろうと思われる領域は日を追って拡大し、これがわたしのプライヴェートですといって差し出せる範囲もすでに限界に来たのだろう(しょこたんや辻希美は除く)。プライヴェートというのは本来は格好をつけられない領域のはずだし、それが本音だと思われなければ大衆に差し出した意味もない。もしくは「わたしは等身大の存在で、あなたの手の届く範囲にいるんですよ」ということを信じてもらうためには演出方法も変えなければならないから、実力のない人ほど「本音らしいこと」を捏造しなければならなくなってくる。AKBの坊主頭は、そういう意味では、ブリトニー・スピアーズがボロボロになって生き残っている姿とどこか近いものがあるし、プライヴェートな領域でナスティなものを可視化できなければ、アイドルとして成立しなくなる日も近いのでは。かつてのように泣けば可愛いと思ってもらえた時代と図式的には同じですけどね(ということはウソ泣きの松田聖子ならぬウソ坊主頭もそのうち出てくるのかな)。
京都から届いたマッドエッグことカズミチ・コマツのセカンド・アルバムを聴いていて(ファースト・アルバムはTシャツにダウンロード・コードが プリントされているというものだったらしい)、そのあまりにもクリーンな響きは、僕が80年代に日本の音楽を聴いていて、もうちょっとナスティなニュアンスを持つことはできないのかと、いつも絶望的な気持ちになっていたことを思い出させた。当時の洋楽といえば、それはいろいろなファクターがあるだろうけれど、僕にとっては清潔感がないということが圧倒的な魅力だった。とくにニューミュージックをぶっつぶすために業界主導で仕掛けられたシティ・ポップスはGSのカタキを取るという志に反して、あまりにもクリーンに過ぎた記憶しかない(それがブラック・ミュージックの導線になったこと自体、どこか奇跡に思えてしまう)。また、シティ・ポップスは、ニューミュージックを(いまでいう)ガラパゴスと断じて、世界へ出なければ意味がないと宣言していたものの、結果的にその志を受け継いだといえるYMOでさえ、海外盤ではベースをオーヴァーダビングされてしまうほど、ナスティであることにはほど遠かったのである。「電圧のせいじゃないかな」と忌野清志郎は考えた。そして、彼が86年にロンドンでレコーディングを行った『レザー・シャープ』はカッティングの溝が深すぎることを理由にジャスラックには保証のマークをつけてもらうことができなかった。低音を制限する溝の深さはどうやら日本の住宅事情から来る制約だったらしい。
ピシピシと突き刺さるような、あるいは、もやもやとはぐらかすようなマッドエッグのサウンドを聴いていて、あれだけイヤだと思っていた「クリーンなサウンド」を思い出したということは、それなりに長い間、日本の音楽もナスティな響きを放ってきたということなのだろう。電気グルーヴやフィッシュマンズが洋楽のように聴けたということは、そういうことであり、本来的な意味でダイナミック・レンジは獲得されたのである。そこであえてクリーンなサウンドに立ち戻ろうとしたのか、何も考えていないのかはわからないけれど、『キコ』はエイフェックス・ツインやフライング・ロータスをかつての日本の音楽環境へと手際よく移し変えていく(......ように聴こえる)。低音が薄いのでムズムズしてくるというか、YMOをミニマルに組み替えたような"スロウイング・ア・フローティング・ガン"や高音だけでさまざまなイメージが繰り出される"オレンジ・ウエント・トゥ・イエロー"など、もはやどこにあるのかわからない引き出しを捜し続けているうちに曲も終わってしまい、それこそ1曲としてどこにもしまえないうちにアルバムも終わっていく。悲しいかな、シンセ・ベースが比較的重みを出してくれる"ザ・セントラル・ドッグス・アンド・プラスティック・フレンド"や混沌とした"シュアリー"、あるいは、いささか子どもじみた"グッド・ファニー・ナイト"がやはり僕には癖になりやすかった。でも、やっぱり数曲だけ試聴するなら後半をオススメしたいかな。
デトロイト・テクノを平たく伸ばした"ストライプス"、シカゴ・ハウスをファンタジックにした"マース"、メランコリックがスピードをつけていく"スパイダー"、アシッドの河が流れていくような"ナイス・バード・フォーリング・ダウン・イン・ユア・ラウンズ"、エイフェックス・ツインとジャーマン・トランスを合体させたようなアルバム・タイトル曲と、なかなかに発想は豊か。クリーンなサウンドであることを逆手に取ったような発想 はとくに狂気じみた過剰さを引き寄せ、全体にケン・イシイのヴァージョン・アップとして「世代交代の波」を楽しめる内容になっている......なんて。 つーか、京都って、なんか、あるんですかね。最近いろいろ出てきますけど。まさか『けいおん』の影響じゃ......w
以下は完全にヒマな人向け。
昨年はマリリン・モンロー没後50周年だったので、ついにボックス・セットを買ってしまい、年が明けてからとりあえず順番に観ていたところ、さすがにモンロー・ウォークに目を奪われるだけでなく、いつしか男の職業が気になりはじめた。半分はいわゆる億万長者なので、これを除外すると、いわゆるあらくれどもが賃金労働者に組織化されていくプロセスに見えてきたのである。マリリン・モンローは、しかも、ゴールド・ラッシュに詰め掛ける男ではなく、それを尻目にひとり着々と畑を耕している男とくっついたり、いわゆる正業についていない男たちにはそれをやめさせて、どちらかというと賃金労働につかせる役回りを担っていたといえる。面白いのは遺作となった『荒馬と女』では、賃金労働者になっていく男のひとりがタンスの扉を開けると、内側にはモンローのピンナップがぎっしりと貼ってあり、それをモンロー演じるロズリン・ターベルに3回も見せるというメタ表現が盛り込まれていたことである。それはまるであらくれどもが自由を手放す代償としてセクシー・ガールのピンナップを手に入れたという図式がそのまま映像化され、そのフォーミュラがそのままAKBまで続いているような錯覚を覚えるに充分なものがあった。そう、工場労働からサーヴィス産業へと移り変わり、男性の働き方も根底から変わりつつあるという時代に、AKBのあれやこれやを見ていると、資本主義も必死だな、という感じがしてしまいました......とさ。
三田 格