まず、この音楽は「東京の音楽」ではない。それが素朴な印象だった。
これまでのKlan Aileenは、ロック・バンドという表現形態の自信喪失と、そこからくる空転をいかに「クールなもの」にひっくり返すか、という大きな課題を持っていた。彼らがツーピース体制となって初のアルバム『Klan Aileen』は、彼らが大きく影響を受けていた00年代後半から10年代前半のインディ・ロックの覇権が完全に崩れた2016年にリリースされており、そこに詰め込まれた音像が過剰なまでにロック・バンド的な荒々しさを持っているのは、むしろその荒々しさが絶えず空振りしていることを彼らが自覚していたからだ。
続く2018年作『Milk』も、ドローンやエクスペリメンタルなど、当時からすれば「いまっぽい」、「ロック・バンドっぽくない」音響感覚が、ロック・バンドらしい生々しい演奏と同居しており、ロック・バンドをやる他ないが、そこに安住することもできないような両義性のなかで引き裂かれている奇妙なアルバムだった。
早く言えば、彼らは「ロック・バンド」という形式が「オワコン」になりつつある気配を読み取りながらも、そこから立ち去ることができず、かといって素朴に「ロック・バンド」を演じることもできず、自分たちが「ロック・バンド」であることに「照れ」ていたのだ。しかしその自信喪失こそが、Klan Aileenと音楽シーンをつなぐ通路となって、ロック・バンドという形態の定義を変質させるような挑戦がおこなわれていた。
つまりどんな形を取るにせよ、以前までのKlan Aileenのアルバムには、音楽シーンの動向との距離で測れるパラメーターが少なからずあったということだ。実際彼らは、UK/USのインディ・ロックの国内盤(例えば、レディオヘッド、アークティック・モンキーズ、ジ・xx、ボン・イヴェール、ヴァンパイア・ウィークエンド、ザ・ナショナル、セイント・ヴィンセントなど)を大量にリリースしていた、〈Hostess Entertainment〉所属の数少ない国内作家のうちの一組だった。ときにそれが逆説にすぎないにしても、Klan Aileenは「東京的な」(そして「東京」が輸入しているUK/US的な)バンドだった。
しかし、Klan AileenからZamboaにバンド名を改め、6年ぶりのリリースとなる今作『未来』にはそうした距離感が消失している。いまの彼らの音楽には、東京という「中心」に基づいた、順接的・逆説的つながりが存在せず、どの時代のどの場所の音楽なのかがもはやわからない。
いままでは接し方が定まっていなかったように見えた、ブリティッシュ・プログレ的ないなたい湿っぽさや大仰さ、あるいは昭和歌謡/民謡的な節回しやコード感、それらの一歩間違えたら「懐古的なもの」に陥りかねないジャンルやアティチュードに素で接近している側面があるのは間違いない。しかしジャンルの再現性やジャンル間の横断的な結びつきを、ラフな録音とルーズな演奏がぎこちなく拒んでもいる。
そのルーズさは、彼らがかつて「ロック・バンド」を生き延びさせるために使っていた、パフォーマンスとしてのルーズさというよりは、もっとストレートなルーズさだ。彼らはもはや、自分たちが「ロック・バンド」であることに照れてはいない。
かつては亡霊のうめき声のように極限まで小さくミックスされていたヴォーカルは、大きくはっきりとしたものになり、ギターは弾き倒され、重ねられたシンセサイザーとベース(!)が和声を複雑化させていく。いまの彼らは音響的な実験とは無縁の、「いい曲」を作ろうとしているかのようでもあるが、しかし同時に、「クオリティ」の方にも収束していかない。彼らは「ちゃんと」することにしたわけでもない。
ジャンルを再現するには拙い、ジャンルの「気配」だけをまとったフレーズやコード感が、ぎこちなく積み重なり、絡み合っていく。齟齬は摩擦を生み、グルーヴが力みと弛緩、ズレと遅れのなかでドライヴしていく。強く握りすぎたスティックが放つストロークが、つい手元を滑らせたようなフレーズが、「ニュアンス」として、あるいは「気迫」として、ポジティヴに転んだり、転ばなかったりする。
ところで、彼らの新しいバンド名であるZamboaは、柑橘類の果物ザボン(別名ボンタン)を意味する語であり、このザボンはZamboaのふたりの出身地である鹿児島とも縁があるという。
ザボンの原生地は東南アジア・中国南部・台湾で、日本には17世紀に伝来している。伝来の地については諸説あるようだが、広東と長崎を行き来する貿易船が難破して鹿児島に漂着し、そこから日本での栽培が始まったという説もあるようだ。いまでもザボンの栽培は鹿児島で盛んにおこなわれており、ボンタンアメ、ザボンラーメンなど、独特の仕方で地域文化に定着している。
つまり、ザボンは舶来品である微妙さとともに、彼らの故郷、鹿児島につながっている。彼らが「ロック・バンド」であることに立ち返った今作から、バンド名をこのような語に改めたのは示唆的だ。
そもそも、ローカルな場所(カッコつけずにいえば要は「地元」のことだ)、あるいはローカルな場所に宿る友人関係を抜きにして、「ロック・バンド」について語ることは難しい。偶然生まれた場所としての「地元」と、偶然出会うものとしての「友達」は、ロック・バンドを育むゆりかごだといってもいいくらいだろう。
だが「友達」と「地元」をその胚とするために、ロック・バンドは、音楽を作ったり演奏するという「目的」に干渉するようなあらゆるノイズを抱え込んでしまうことにもなる。例えば、人間関係、演奏技術の偏差、思想上のギャップ、「方向性の違い」……。バンドという共同性はあらゆる「しがらみ」に束縛されている。
しかし他方で、こうした「しがらみ」は、ロック・バンドの「気迫」を生み出すための燃料でもある。不揃いな身体感覚と演奏技術を擦り合わせようとするときに生まれるダイナミクスと白熱は、この「しがらみ」がなければ存在しない。だがかといって、素朴にその「しがらみ」の不自由さを謳いあげるだけでは、どんな「下手な」プレイも肯定しながら、ローカルな友人関係の「エモさ」に沈滞して済ます「開き直り」しか生み出さないだろう。
翻って、『未来』というアルバムが持つある種の「ぎこちなさ」は、演出されているものでも、素朴に許容されているものでもない。恐らく彼らは下手な演奏を狙っているわけではなく、「失敗するかもしれない」という余白が残っている演奏にしか宿りえない気迫こそを、どうにかとらえようとしているのだ。「これは各々の身体(性)だから」と粗を素朴に肯定する代わりに、「失敗するかもしれない」という可能性の縁に肉薄することで、あくまで「結果として」ミスタッチがついてまわってしまう。
「失敗するかもしれない」身体のままならさと、しなやかな自律性が背中合わせに圧着する隙間にマイクが立てられ、熱気と気迫を放ちはじめる「しがらみ」が、不自由が、ドキュメントされていく。その「現場」において、偶然性(互いの頑固な身体、たまたま出会ったという事実……)は優しく許容されることなく、火にくべられ、鍛えあげられるが、しかしその偶然性が消し炭と化す手前で、互いの存在への「あきらめ」に滑り込むようにして、「友達」との協働に形が与えられていく。
この協働の形成と同期するようにして、舶来品たる「ロック・バンド」というフォーマットもまた、「厳しさ」と「あきらめ」を通じてローカライズされていく。たまたま流れ着いた「漂流物」が「現地」に根付き、地口と口語にさらされながら増え広がっていくように。
不自由であることや、ローカルな関係性の「エモさ」に居直ることのないZamboaの音楽は、「東京的」でなくなってもなお、ニッチ/アンダーグラウンドとオーヴァーグラウンドのあいだで独特な「開かれ」を立ち上げている。その「開かれ」は優しい青空のような滑らかさを持っておらず、傷を覆うカサブタのような、あるいは堅く厚い果実の皮質のようなデコボコしたものかもしれない。しかしその「デコボコ」は、岩山のように厳しく屹立するばかりでなく、内側に蓄えられた身の充実を予感させる「匂い」を振りまいてもいる。
無数の「かもしれない」を乗り越えた『未来』というアルバムの重い身体は、また無数の「かもしれない」をもたらすであろう観客たちを誘うようにして、その「匂い」を虚空に向かって、ひっそりと発散させている。
島崎森哉