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HUGO FATTORUSO
CAFE Y BAR CIENCIA FICTIONA
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GRUPO FOLKLORICO Y EXPERIMENTAL NUEVAYORQUINO
Concepts In Unity
Clave Latina / 12月
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CAFE Y BAR CIENCIA FICTIONA
SJAZZ / 12月
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Concepts In Unity
Clave Latina / 12月
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火事になったら、
一枚のレンブラントより一ぴきのねこを救おう
そしてその後で、そのねこを放してやろう
――アルベルト・ジャコメッティ
(長田弘『ねこに未来はない』より)
真夜中、BOSEのポータブル・プレイヤーでナット・キング・コールの『ザ・ヴェリー・ソウト・オブ・ユー』を流しながら、この文章を書き始めている。1958年、唯一無二の甘く、ほろ苦い声を持つジャズ・シンガーが、煌めくようなオーケストラをバックに、ひたすら幸福なラヴ・ソングを吹き込んだ、この世で最も美しいレコードのひとつ。ハーブを吹かし、ラムでも舐めながら聴いたらさぞかし最高なことだろう。しかし、今は仕事中なのでそういう訳にもいかないというのと、ある時から、このCDを再生することは、ひとつの悲しい記憶を思い出すのとイコールになってしまった。今、目を閉じると、満点の星空が浮かび、小さな啜り泣きの声が聴こえてくる。音楽というものは、人生の前では無力だ。でも、それでいい。いずれにせよ、僕たちは人生と向き合わなければならない。音楽はそこから目を逸らすためのものではなく、そっと後押しをしてくれるものであるべきだ。まず、長く険しい人生がある。そして、その傍ら、小さな音で音楽が鳴っている。僕たちは時々、立ち止まってそれに耳を傾け、また決心して歩き出す。イメージするのはそういうことだ。
飛行機が徐々に高度を下げ、真っ青な世界から真っ白い世界へ突入し、ややあって、鼠色の世界に顔を出した瞬間、美しい夢から覚めたら醜い現実が待っていたような、悪い夢だと思っていたのが正真正銘の現実だったような、そんな気分になった。僕はヘッド・フォンを外し、眼下に広がる雨に濡れた成田を眺めながら、あぁ、何て汚い街なんだろうと思い、隣の席の妻にその感想を告げようと顔を覗きこむと、彼女は同じように外に目をやっているのか、それともただ虚空を見つめているのか、とにかくハッとするような憂鬱な表情をしていて、僕は慌てて手を握り締めた。膝に置いたヘッド・フォンからはストリングスがほとんどホワイト・ノイズになってささやかな音を立てていた。
猫のチーが死んだという連絡が入ったのはフレンチ・ポリネシア諸島のひとつ、ボラボラ島に滞在する最後の日の事だった。まだ、たった4歳で、死因は突然死としか言いようがないと、後日、かかりつけの獣医さんは言っていた。正確には、チーは僕たちが日本を経った10月某日、月曜日昼から丸一日経ったか経っていないかの、火曜日昼、留守の世話をお願いしていたペット・シッターの方に、床に倒れているところを発見された。彼はすぐにメールで報告をしてくれたのだが、僕たちはスケジュールを詰め込んでいたためなかなかメールを確認する暇がなく、僕がそれに気付いたのは日本時間の木曜日昼辺りだった。妻がホテルの備え付けのスパに行っている間、パソコンをいじろうと、レクリエーション・ルームでHotmailにアクセスし、「悲しいお知らせをしなければなりません」という書き出しが目に飛び込んで来た瞬間の気持ちを、僕は一生忘れる事がないだろう。それまで、自由の象徴のように思えた、ディープ・ブルーの空と、エメラルド・グリーンの海の間に浮かぶ美しい島が、まるで密室みたいに感じられた。僕はひとりで、5.4万坪という広大な敷地を持つセントレジス・リゾート・ボラボラを檻に閉じ込められた猿のようにウロウロと歩き回りながら、あと2時間もすれば妻は部屋に帰って来る、その時、一体何て説明したらいいんだろうと、その事ばっかり考えていた。
今回の旅行は、結婚して2年目、僕たち、決して豊かとは言えない共働きの夫婦がようやく手に入れた休暇と溜まったお金を継ぎ込んだ、言わば遅いハネムーンだった。せっかくだから思いっきり遊べるよう、仕事は出発前までに出来るだけ片しておいた。しかし、ひとつだけ心配だったのが、2匹の猫を1週間という、今迄にない長い間、残して行く事であった。病院やペット・ホテルに預ける事も考えたが、猫は犬よりも住み慣れた家から離れることをストレスに感じると聞いて、ペット・シッターにお願いする事にした。打ち合わせに自宅までやって来たSさんは、犬や猫の毛だらけのトレーナーを着た、如何にも人の良さそうな、そして動物の好きそうな中年男性で、この人に任せておけば大丈夫だろうと大して心配もしていなかった。「東京では暑い日が続いています。お父様とお母様は荼毘にふされた方がいいのではと仰っていますが、私はどうにかおふたりの帰りを待っていてもらおうと提案し、今、チーちゃんはドライ・アイスを抱いて、眠ってくれています」。Sさんからのメールにはそう書いてあった。残されたもう1匹のアーが如何にも怯えた表情で食器棚の上から様子を伺っている写真も添付されていた。僕は絶対に亡骸を保存しておいて欲しい事、残されたもう1匹のアーをくれぐれもよろしく頼むとの事をメールにしたため、送信した。たった数100文字のメールなのに、手が震えて、書き終えるまでにかなりの時間がかかった。
[[SplitPage]]子供のいない僕たちにとって、チーとアーは唯一の家族だった。二匹なのだから唯一という言い方は可笑しいのかもしれないけれど、全員でひとつという意味で、それはまさに唯一だった。僕ら夫婦が今まで上手くやってこれたのは、2人きりだと息が詰まってしまう時に風通しをよくしてくれ、2人の心が離れそうな時は間に入ってくれる彼女たちがいてくれたおかげだと思う。4年前の春、歳上の友人である石田義則さん――と言うよりは、ラッパーのECDと言った方が話が早いだろう――から、家で子猫が生まれたから貰い手を捜しているという連絡が来た。彼が07年に出した小説『失点イン・ザ・パーク』には、飼猫、プーちゃんの出産シーンがある。今度の子猫たちはその次、2度目の出産だった。2人とも猫が好きで、兼ねてから飼いたかったものの、ペット・ショップで買うのはどこか抵抗があった僕たちは喜んで下北の石田さんの自宅に向かった。招き入れられまま家の中に入れば、片付けることが苦手な僕もちょっと驚くぐらい荒れた果てた部屋の中で、猫たちはまるで森の中を駆け回るように遊んでいた。4、5匹いたのだろうか。「どの子にする?」。石田さんに訊かれ、決めあぐねていると、「この子とこの子は仲良しだから一緒にもらってあげて欲しいな」、そう言いながら、2匹でも片手で抱えられそうな小さなメス猫たちを手渡された。その当時、僕は豪徳寺のアパートに引っ越したばかりで、そのまますぐに連れて帰ったように思う。ついさっきまでの住処に比べると、まるで森から草原にやってきたようにガランとした部屋の中を2匹は恐る恐る嗅いで歩きながら、ゆっくりとテリトリーを広げ始めた。「名前は何にしようか?」「鼻が茶色い方がチーで、赤い方がアー」。どちらともなく適当に決めたのに、その後、彼女たちは、チーはチー、アーはアーとしか言いようがない、まるで生まれる前からそう決まっていたかのような猫に育っていった。
2匹は姉妹らしく仲が良くて、いつも合わせ鏡みたいにぴったりと顔を寄せ合って寝ていたし、ふと見ると全く同じポーズで佇んでいることもしばしばだったけれど、キャラクターは真逆で、チーはチーという名前の響き通り少し惚けた、アーはアーという名前の通り少し神経質な性格だった。チーは甘えん坊で、常に人の膝に座りたがったし、音楽に合わせて操り人形みたいに踊らせても、嫌な顔ひとつしなかった。一方、アーは誇りが高くて、ひとと触れ合うのは自分がそうしたいと思った時だけで、無理矢理抱き上げられたりするのが好きではなかった。身繕いに関してもチーは無頓着でアーは丁寧。アーがじっくり自分の身体を舐めていると、チーは自分のことそっちのけで手伝おうと、アーの顔を舐め始め、最初はアーも気持ち良さそうにしているのだが、それがあまりにもしつこいので、そのうちイライラしてきて、アーが飛び掛り、チーがこてんぱんにされるのがお決まりのパターンだった。アーは機嫌が悪い事も多く、壁中に引っ掻き傷を付けたが、チーは手がかからない猫で、喉を鳴らしている時間の方が長いんじゃないかと思うぐらいだった。1歳になったぐらいだろうか、アーは血尿を出し、慌てて動物病院に連れて行くと結石だと診断され、以降、治療用の餌を食べていた。だから、チーが死んだと知った時、一瞬、アーの間違いじゃないかと疑ったものだ。でも、ひょっとしたら、アーは定期的に病院に連れて行っていたけれど、チーは放ったらかしだったので、病気が発見出来なかったのではと思うと、悔やんでも悔やみきれない。僕たちの中でチーは元気でひょうきんなイメージしかなかった。出発前日の夜、チーは部屋に広げられた見慣れないアタッシュ・ケースに興味津々で、ふと目を離した隙に中に潜り込み、「連れていけって言ってるよ」と僕らは笑い合った。
チーとアーは家から出したことがなかった。猫を外に出さないのは、今や都会の愛猫家の間では常識である。家に閉じ込められていたら窮屈ではないかと思う人もいるだろうが、猫のテリトリーというのは実はとても狭く、外に出しても家の周辺をウロウロしているだけで、あまり変わらないのだそうだ。何より、車の事故や、感染病といったリスクを回避する事が出来る。しかし、外の世界を知らない事は確実に猫自身の性格に影響を及ぼすとは思う。チーもアーも、既に生後4年を越えた立派な成猫だったが、顔はまるで子猫ように幼く、可愛らしいままだった。臆病で、わがままで、いつもニューニャー鳴きながら僕たちの後ろを付いて回った。野良猫のふてぶてしく、逞しい表情や態度と比べれば違いは明らかだ。そして、また、そのことは猫と人間の関係性にも多大な影響を及ぼす。例えば、詩人の長田弘が71年に出したエッセイ集『猫に未来はない』を読むと、約40年前の日本では、猫と人間は今よりももっと緩やかに、大らかに付き合っていたことが分かる。この本にはそれまで猫嫌いだった長田が、大の猫好きの女性との結婚を機に猫を飼い始め、段々と猫好きになっていく過程が書かれている。今年に入って知ったこの本に出てくる、彼等が飼う最初の猫も、偶然にもチイという名前なのだけれど、その一代目チイも、二代目チイも、三番目に飼われるジジも、皆、家出してしまったり、他の猫との喧嘩に負けて死んだりしてしまう。夫婦は一代目チイがいなくなり、落ち込んでいる時、チイをくれた猫好きの知人に「そのくらいのことでグシャグシャになっちまうようじゃ、ほんとうのねこ好きにはなれないな。ねこ好きのひとはみんな、一度ならずじぶんのねこがいなくなったり死んだりすることに耐えることで、まえよりもっとねこ好きになってきたんだからね」と励まされ、次の猫を飼う決心をする。そこにある想いは現代と何ら変わるところはないし、この言葉にはとても励まされる。
しかし、驚くのは2代目チイと、ジジをくれる、近所の猫好きおばさんが生まれたばかりのジジを手渡す時に言うこんな台詞だ。「待ってたかい? やっと昨日生まれたんだよ。混血の器量よしだよ。(中略)四ひき生まれたんだけどさ、ほら、ここんとこあまり次つぎにみんないなくなっちゃうだろ? また他人ちにやると、それだけあとでがっかりする気もちを分けてやるみたいになっちゃうのが、どうにもわたしにゃ気が重いのさ。まあ、あんたたちにだけは約束してたからね、そんなかでいちばん好いのを選ってさ、あとはこう(と、手をひねるそぶりをみせて)しちゃったんだ」。この、要するに子猫を間引いたという描写は、何てことのない、とてもさり気ない調子で出てきて、それについて特に言及されることもない。勿論、現代だって行なわれていることなのだろうけれど、数年前に日経新聞で作家の坂東真砂子が子猫を間引くエッセイを書いて激しくバッシングされた事からも分かるように、今では大っぴらに書くことは許されないエピソードだろう。猫好きにも関わらず、この話を普通に聞き流す長田夫婦の感性は、外で飼うことが原因で愛猫を何回も失っているにも関わらず、何の対策も講じないし、去勢すらしようとしない事にも繋がっているし、その背景にはこのような思想があると思う。同書に収められたもうひとつのエッセイ『ねこ踏んじゃった』で長田は書いている。「おそらくねこぐらい、あるひとたちにとってはひどく好かれながら同じぐらいあるひとたちには評判のわるい愛玩動物も、ほかにはまずいないといっていいんじゃないでしょうか? そのことは、ぼくたちにとってねこと同様に親密な動物である犬とくらべてみるとき、いっそうはっきりします。犬が、数千年におよぶ人間とのつきあいの歴史のなかで、じぶんの生きかたを、犬は人間にとっての犬なんだというしかたに変えてきたことにくらべれば、ある動物学者のいうように"数千年にわたる人間とのつきあいで、ねこほどかわらなかった動物はない"のですから」。「人間は猫を飼うことである種の禊をしているのだ」というような事を言ったのは、中島らもだった。つまり、長田の、猫を愛しているにも関わらず、現代からすると妙にそっけない態度とは、人間にとっていちばん身近な野生である猫の本能に対する敬意とは解釈出来ないだろうか。それに対して、我々の猫との付き合い方は良く言えばより親密になって来ているし、悪く言えば、その親密さとは猫の野生性を殺すことで得たものであり、また、親密さは依存と置き換えることも出来るだろう。社会のポスト・モダン化によって人間たちに引き起こされた絶対的な孤独を癒すために、猫たちは本能を奪われてしまったのだろうか。果たして、それは彼らにとって幸せなことなのだろうか。
[[SplitPage]]多摩川のホームレスと野良猫の写真を撮り続けているカメラマン、小西修を追ったドキュメンタリー番組「ひとりと一匹たち~多摩川河川敷の物語」で、彼と一緒に野良猫の世話をする彼の妻が、ずっと気にかけていたのに、しばらく姿を見せなかった野良猫が草むらの中で死んでいるのを発見し、泣きながら、その硬くなった亡骸を抱きしめ、呟いた言葉が忘れられない。「生きてても、良い事なんかなかったね。でも、もう苦しい思いをしなくていいんだよ」。その猫に比べたら、チーはずっと幸せだっただろう。死ぬその瞬間まで、嫌な思いをほとんどせずに生涯を終えたはずだ。でも、幸せってなんなんだろうか。去勢され、家に閉じ込められたまま死んで行く飼い猫は幸せなんだろうか。それとも、繁殖出来るだけ繁殖し、寒くてひもじい思いをしながら死んでいく野良猫の方が幸せなんだろうか。そもそも、猫に幸せなんていう価値観があるのだろうか。飼い猫が欲しがるままに、肉や魚のみならず、ケーキまで与え、ブクブクと太らせた姿を嬉々として写真に収める中川翔子の行いは虐待にあたらないのだろうか。それとも、カロリー・コントロールされた簡素な味のドライ・キャット・フードしか与えない方が虐待という考え方も出来るのだろうか。猫は何も言わないから分からない。猫を飼うなんてことは、所詮は人間のエゴだし、無駄なことである。ただ、人間はエゴを押し殺せないし、無駄なことをせずには生きていけない。猫は黙ってそれを受け止めてくれる。僕が思い出すのは、僕と妻がベッドに寝ている間に潜り込んできて、目を細め、喉を鳴らすチーの表情である。あれを、幸せそうと言わなかったら、何を幸せそうと言うのだろうか。そして、僕たちがそのチーを撫でた時に手に伝わってきた温もり、そして胸に沸いて来た感情を幸せと言わなかったら、何を幸せと言うのだろうか。――僕は白い砂浜に置かれたベッドに独り座って、裸ではしゃぎ回るよく日焼けした白人の子供と、それを微笑みながら見守る若い夫婦をぼんやりと見つめ、そんなことを延々と考え続けていた。気付けば、2時間が経っていた。そろそろコテージに戻らなければならない。
『SNOOZER』でお馴染みの「のだなカンタービレ」、そのライヴ・ショーをやることになりました! 時間帯が昼なので、野田も前回のリキッドルームのときのように泥酔することはないと思います。また、田中宗一郎が高校時代に撮った映画を見せられることもないと思います。どうぞ、お気楽に遊びに来てください!!
「人類の青春時代が敗北感とともに終息した70年代。成熟と爛熟と享楽の80年代。絶望と諦念と内向の90年代」、例えばこのようなストーリー性の成立が困難となり、あらゆるものが「ネタ」と化したゼロ年代に、ロックはどのように展開したのでしょうか。2008~09年を軸にゼロ年代ロック・シーンを総括し、来る2010年代に成立可能なロックの姿を占います!さらに、ロックのみならず「ロック雑誌」というメディアは今後どのような存在意義を持つのか、いま「レビュー」と「ポップ」の集積としてではなく「ロック」という命題について語ることにどのような意味があるのか、またそのようなことは未来において可能なのでしょうか!? 永遠の「リアル・リスナー」田中宗一郎氏と野田努氏をお招きして開催するロック・タウン・ミーティング!「のだなカンタービレ」withディスクユニオン渋谷ロック館!!
日時:1月23日(土) 15:00~(終了17:30予定)
場所:リキッドルーム2Fギャラリー
入場料:1,500円(ドリンク付き)
チケット取り扱い場所:ディスクユニオン渋谷ロック館(03-3461-1809)、リキッドルーム(03-5464-0800)
ライヴの終盤、マイクを握って叫び続ける中原昌也を見ていると涙を抑えることができなかった。ヘア・スタイリスティクスはあまりにも感動的だった。
その日、渋谷の〈AX〉では、DUM-DUM PARTY'09「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」なるイヴェントが開かれていた。他の出演者はBuffalo Daughter、相対性理論、group_inou、OGRE YOU ASSHOLE。客層的に言えば、てんでばらけている、とも言える(実際、そのまとまりの無さはライヴの最中のロビーに顕著だった)。ただ、僕はこのイヴェントの主宰者を昔からよく知っていて、その人のセンスを信用しているので、きっと面白いことになるだろうと思っていた。バッファロー・ドーターを久しぶりに聴きたかったというのもあった。それともちろん、そう、ヘア・スタイリスティクスも。
中原昌也がいちばん最初に出るということを知っていたので、僕は5時半に会場に着いてしまった。客は......A.K.I.しかいなかった......というのは冗談だが、早すぎてしまった。ワルシャワでビールを2杯飲んでいたので、僕はすでに軽く酔っていた。で、もう1杯、ビールを飲みながらOGRE YOU ASSHOLEというバンドを聴いていたら寝てしまった。起きてからもう1杯飲んで、中原に備えた。
ステージの中央の机には汚い機材――エフェクト類、ドラムマシン、シーケンサー等々が並べられ、エフェクターが不器用に装着されたアコースティック・ギターも1台あった。その両側にはマーシャルが3台づつ、計6台並んでいる。マイクも1台、置いてある。
暗いステージにパーカー姿の中原昌也が出てくると、何も言わず机の前に立ち、猫背の姿勢でつまみをいじり出す。ノイズが吹き出る。それはうねるようにスピーカーから出て、しばらくするとドラムの音が蛇のようにまとわりつく。それら音は、ゴミ溜と宇宙を往復する。低音が加わり、音は厚みを増していく。ダブステップを濃縮したような低音とベースが場内に反射する。まるで『メタル・マシン・ミュージック』のモダン・ヴァージョンだ。時間が経つのも忘れ、僕はその音のシャワーを浴びる。それは奇妙なほど気持ちよく響くのだ。そして他方では、その音はまるでオーネット・コールマンのフリー・ジャズのように、魂をえぐってくるようだ。汚いノイズの音はそして、いつの間にかとてもエモーショナルな音楽となる。素晴らしい。なんて素晴らしい音楽だ。それになんていう展開だろう。マンスリー・ヘア・スタイリスティクスでたまに取り入れていた駄洒落やギャグの要素はまったくない。ステージにいるのはひとりの優れたインプロヴァイザーだった。
中原はそれから、机を離れ、マーシャルの音量を上げてまわった。机に戻ってくると、ギターを持って、それからマイクを握って叫んだ。悲鳴なのか、怒号なのか、その声はこの世のいちばん悲しい場所から最高に美しい場所に突き進むかのようだった。中原はマイクをなかなか離さなかった。叫び声が続いた。涙が出てきた。いま思い返しても涙腺がゆるむ。
それほど魂を揺さぶられたのだ。七尾旅人は中原のノイズはブルースだと言っていたが、ある意味そうかもしれない。だが、この晩のライヴは、ロバート・ジョンソンではなくジミ・ヘンドリックスだった。僕はこのライヴが終わらないで欲しいと本気で思ったけれど......終わった、あっけなく、ほぼ満員になって、そして静まりかえった場内を置き去りにして。僕のすぐ斜め前では、業界人の女が、ステージには目もくれずに携帯をかちゃかちゃやっていた。ハハハハ、こうして僕は、現実に戻った。
ライヴが終わると、ロビーにゆらゆら帝国の坂本慎太郎がいた。彼と一緒に中原に会いに行こうということになって、あの手この手を使って楽屋まで押しかけた。そして僕は、この素晴らしい経験の思い出としてヘア・スタイリスティクスのTシャツを買った。バッファロー・ドーターも聴きたかったのだけれど、仕事が山のように溜まっていたし、その晩はもうヘア・スタイリスティクスのノイズだけで充分だろうと自分に言い聞かせて帰路についた。
僕は、中原昌也が本当に音楽のシーンに帰ってきたのだと思った。当たり前と言えば、当たり前だが。それがとても嬉しく思えた。12月30日はゆらゆら帝国と恵比寿のリキッドルームか~。行くしかないかな。
クラウトロックの巨星たちの影がちらつく。クラスターないしはポポル・ヴー。それらがモダンなエレクトロニカ、アブストラクト、フィールド・レコーディング、ドローンなどと結合した音楽だ。ハンブルグで〈Dekorder〉レーベルを主宰するマーク・リヒター(日本でも根強いファンを持つ)によるソロ・プロジェクトで、リリース元は〈TYPE〉――5年前にギターのアンビエントでエレクトロニカのファンから支持されたXelaが主宰するレーベルだ。ブラック・トゥ・カム名義では、2009年はUSの〈Digitalis Recordings〉からドローンのアルバムを出し、〈Dekorder〉からも『Wave UFO』というアルバムを出しているが、僕はまだ聴いていない。この手の音楽は、買うか買わないかつねに迷う。僕の場合は。
2008年の『Fractal Hair Geometry』における、かつてのトーマス・ケナーとも似たアブストラクトな音と比較すると、新作はずいぶんと牧歌的で、ヨーロッパ的情緒に傾いている。ある意味彼のロマン派的な側面が強調された作品だと言えよう。ヨーロッパの美しい田園風景と薄気味悪い幽霊屋敷が交わっているようである。とにかく1曲目"Jonathan"が素晴らしいのだ。彼のフィールド・レコーディング、そのコラージュされる音、そして単音で弾かれるピアノのメロディ。僕はこの1曲のためにアルバムを買ったといっても過言ではない。ピアノの入ったアンビエントが好きなので、ついつい。
2曲目の"Forst"も悪くない。基本的にはドローンだが、遠くで単調なキックの音が鳴り、そしてだんだんと厚みを増していく。"Trapez"は"Jonathan"に次いで気に入った曲で、オルゴールの音楽ような幼少期の煌めきが展開される。とても美しい曲で、途中から入る低い弦の音が素晴らしい効果を出している。続く"Rauschen"の奇妙なメリーゴーランドも面白い。"Amateur"もピアノが印象的な曲だ。ところが、7曲目の"Tram GmbH"ような、古風なヨーロッパが重みを増していく展開は僕にはつらい(そこがまた、ポポル・ヴーと似ている)。それはしかし、彼のエモーションなのだろう。
アルバムは後半、ダーク・アンビエントの様相を見せる。それは深いトリップへの入口だ。そしてそれは目覚めることのできない悪夢のように聴こえる。アルバムの最後の曲は、その着地点である。僕には決して居心地が良いとは思えない。もうあと少しで、このアルバムは傑作となったのではないかと思ってしまう。本当にあと少しのところで。
1 終わりなき日常のフルクサス〈序〉
フルクサスを語り尽くすためにはゆうに一冊の束のある本を書かなければならないわけで、野田さんも無体なことをいう。私はアートの専門家ではないが、フルクサスは運動のピークを60年代なかばと仮定するとそこから30年ちかく経った94~95年にはワタリウム美術館で、04年にもうらわ美術館で同名の『フルクサス展』が開催され、コレクションをもつギャラリーや地方の美術館でもフルクサスは定期的に回顧されてきて、現在も水戸芸術館でヨーゼフ・ボイス(をフルクサスと見なすかどうかには異論もあるだろうけど)の展覧会が来月末まで行われていて、妻の実家が水戸であるので正月をはさんだ里帰りのついでにみることもあるとおもっているが、この20年間のフルクサスにまつわるトピックに興味をひかれ、じっさい足を運びもした。時代はやっぱりいま(だに)フルクサスなのか? 私はそれを考えはじめるまえにフルクサスのはじまりを考えたい。
フルクサスの中心にはジョージ・マチューナスがいた。彼は1931年、リトアニア人の父とロシア人の母の間にリトアニアのカウスでリトアニア名、ユルギス・マチウーナスとして生まれたが、一家はソ連軍の侵攻を逃れドイツへ、その後父の職を求めアメリカに渡った。ディアスポラのようにして居着いたアメリカで彼はグラフィック、建築と音楽、美術史を学び、美術史を研究する傍ら、有史以来の芸術様式や学派、人物名を図解したチャートの制作をこころみた。マチューナスは50年代のポロックやマーク・ロスコらの抽象表現主義、つづくラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズらのネオ・ダダの活動に罹患したように、運動をたちあげアート業界への参入を考え、61年にそれから半世紀が経とうとするいまでも私たちをなにかと幻惑&困惑させるひとつの言葉を見いだした。
[[SplitPage]]FULXUS!
フルクサスとは「流れる」「浄化する」「下剤をかけ(排泄す)る」といった複数の語義をもつ便利な言葉であり、フルクサスという集団の活動の本質を伝える(マチューナスはフルクサスの理念を「マニュフェスト」にさえまとめた)ように見せかけ、その反面技法やスタイルを意味せず、アーティストが作品を作品化するまでの意識の流れをそのまま放りだしたり、説明もなく課程を見せつけるようなものである。私は、当時は、いや、現在でもフルクサスはフルクサスそのものが延命させてきたと同語反復的にいわざるをえない。コンセプチュアル・アート、ミニマリズム、シミュレーショニズムなら意味はわかるが、フルクサスの場合はそこに属したといわれるアーティストの活動の累積からおのおの解釈するしかなく、曖昧模糊とした全体の輪郭が歴史的位置づけを拒むことになった。それはまるで音楽を言語に移しかえるときのバグを私におもわせる。事後的な作品の歴史的位置づけやデータや周辺情報や他作品との類似を書かずにむきだしの音楽を論じつづけるのはことのほかむずかしい。音楽の外にでれば音楽は止んでいて、そのただなかにいたときの感覚は霧が晴れるようにしだいに消える。私は感覚の断片をかき集めとりあえず書くのだけど、それが音楽とピッタリ重なることはない。フルクサスの流動性と音楽はその意味で似ている。
新しいアルバムを発表し、去る11月には素晴らしいライヴを披露した小野洋子もフルクサスだった。 Photo by Kiyoaki Sasahara (c) YOKO ONO 2009 |
マチューナスはフルクサスの宣言のなかでそのことを謳ってもいた。「音楽的であること」彼はフルクサスはアートだけでなくパフォーミング・アート(「イヴェント」と呼ばれた)や詩や舞踏に音楽を併置したインターメディア主義をその言葉で宣し、「的」を加えることで音楽のもつ時空間性を彼らの活動に担保した。もちろんジョン・ケージの影響は多分にあった。誰もが知っている「4'33"」をデヴィッド・テュードアがウッドストック・ホールで初演した52年の4年後、ウェスト・ヴィレッジのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでケージが講座をもったとき、その生徒には「ハプニング」を最初にはじめたアラン・カプローがいて、前述の「インターメディア」の概念を提唱したディック・ヒギンズや、フルクサスの中核でありながら繊細でミニマルな質感の作家だったジョージ・ブレクトや一柳慧もいて、その一柳慧の妻だった小野洋子はマチューナスが61年に経営に乗りだし、のちに破綻したAGギャラリーですでに展覧会を開き、彼女は彼女のロフトでラ・モンテ・ヤングのコンサートを開催してもいた。三章からなり、三章すべてに「休止」とだけ指示したケージの「4'33"」は沈黙と生活音と音楽の境界線をとりはらった名作だと、私は「4'33"」とデュシャンの「泉」の両方をわかりやすく述べた文章を中学二年の国語の教科書で読んで驚いたが、のちにフルクサス・メンバーとなる彼らにはケージの思想は驚異だったろう。また勇気づけられもしただろう。ビートルズはもうデビューしていて、アートの価値観をゆさぶる動きが日々起き、オーネット・コールマンが『ジャズ来るべきもの』を経て61年の『フリー・ジャズ』でのちのムーヴメントの一の矢を放ち、それに反応した弁護士だったバーナード・ストールマンは〈ESP-Disk〉を設立しフリージャズの狂騒が地下から街角にあふれ、64年のジャズの十月革命に実を結んだ60年代前半、ポスト・モダンを間近に控えた最後の前衛の時代に彼らはNYの地霊に守れて、巨視的なケージの「神」(ニコ動用語と本来の語義の中間のニュアンスです)の目に映らない些末なアイデアをナンセンスかつスピーディかつマッシヴでありながらバラバラな手法で貫き、貫きとおす行為そのものを作品として投げだしたのだった。
その精神的支柱はケージだったが大立て者はやはりマチューナスだった。マチューナスは60年代はじめ、ヨーロッパを中心にキュレーターとしていくつかの国際展を企画しながら、62年ドイツのヴィスバーデン市立美術館で行った「フルクサス国際現代音楽祭」で、彼の二番目のアンソロジーのタイトルとしてあたためていたフルクサスの名称をはじめて使った。その展覧会は欧州各都市を巡回し、主旨に共鳴したアーティストを巻きこんでいった。NYに戻ったマチューナスは彼のロフトをフルクサスの本部とし、活発に活動をはじめた。
[[SplitPage]] 「マチューナスが住んでいたロフトは、キャナル・ストリートに面した五階建ての建物の二階でした。奥行きのある細長いスペースは三つに区切られていて、大通りに面したフロント・ルームは、何人かのメンバーが仕事部屋として自由に使っていたようです。(中略)真ん中の部屋はフルクサス・ショップと呼ばれていて、マチューナスが出版したフルクサスの作品が整然と並べられていました(中略)
一番奥の部屋がマチューナスの住まいで、日本贔屓の彼は、畳を敷いて小綺麗に暮らしていました」
(塩見允枝子『フルクサスとは何か 日常とアートを結びつけた人々』フィルムアート社)
マチューナスはここを拠点にビジネスに打って出ようと目論んでいたといわれるがはたしてそうだろうか。彼のやろうとしたことは、セレブリティがアートを所有し投機マネーが市場に流れこんだ数年前のアート・ビジネスを彷彿させる面もあるが売れることを考えればフルクサスより手堅いものがあったはずで、彼はむしろ商売を度外視した理想主義者だった。共産圏を逃れながら、アーティストによる共同体をつくる幻想を終生抱きつづけた。小杉武久や刀根康尚らとのグループ音楽の一員であり、64年に渡米しフルクサスに参加した塩見允枝子の前掲書にもマチューナスのアーティストに対する献身的なエピソードは多い。それを読むとマチューナスが怜悧なビジネスマンだとはおもえない。皮肉やジョークをスカトロジックにまき散らしたフルクサスはとりとめもなく狂ったようにみえたが、作品ひとつひとつは芸術のイディオムに依拠しない作家たちの意思の強さがあった。すくなくともマチューナスにはアーティストへの畏敬の念があった。畏敬の念というより憧れだろうか? 私はマチューナスの胸のうちをおもうと、彼がアーティストになりたかった気持ちを感じ、切なくなる。アーティストになるには他のフルクサス・メンバーがやったように作品をつくり、日常に亀裂を入れるような考えをもたらせばいいはずだったが、しかし、60年代のNYは悠長に作品をつくるにはおもしろすぎた。マチューナスはそうせずに、彼らの作品を浴びることで日常が綻んでいくような感覚を愛した。
その意味で彼はデザイナーだったのだろう。デザインをうちに「編集」を含む。散らばった要素を一定の制約の下に集めて配置することで、デザインは姿を現す。塩見允枝子の先に引用した文章の二番目の「中略」に「ウィークデイの昼間は、彼はアップタウンのデザイン事務所で働いていた」とあるから彼はじっさい商業デザイナーで生業を立てていたからというばかりではない。また作品を商品化した「フルクサス・キット」のロシア構成主義をどこか彷彿させる意匠をさしてそういっているわけでもない(そのモダンでオシャレなデザインがリヴァイヴァルの要因のひとつではあるとおもうけど)。デザインは配置するだけでなく、要素になにかを足したり引いたりすることで、効果を与えるから、デザインしないデザインというものもあるし、過剰なデザインもある。それは中平卓馬が「デザインするとはほとんど"やる"ことである。それはほとんど"都市と創り、革命を遂行する"と同義である」(『見続ける涯に火が... 批評集成1965-1977』オシリス)と指摘した通りである。カメラマンである中平は同書でまたこうも書いている。「カメラを通じてぼくらが世界と対決してゆく、そのプロセスこそ世界なのだ」私はカメラをアートに置き換えれば、それはフルクサスそのものだとおもう。作品と世界の関係を決着させず、経過として未来にもちこすこと、それをインターナショナルかつインターメディアに実践し、統合すること。私にはいま、同じく商業デザイナー出身で大衆消費社会をモチーフに洗練した形式を完成させたウォーホルがファクトリーを通じて映像(『エンパイア』の撮影に参加した「アンダーグラウンド・フィルム・アーカイヴス」のジョナス・メカスはマチューナスと同じリトアニア出身で旧知だった)や音楽(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)をはじめポップ・カルチャーの諸要素を接合した方法論より、マチューナスのフルクサスのこの歪なアンサンブルの方が、むしろ音楽的に響き合ってくる。
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東京・板橋区を結成地とするヒップホップ・グループ、PSGのデビュー・アルバム『David』はコミカルなサイエンス・フィクションによる、写実主義、リアリズムへの大いなる挑戦である。PSGの個性は、いまや(とくにこの国では)ヒップホップの至上命題とされているリアリズムを徹底的に突き放している点にある。「全員注目。何者かはわからないが、あの物体は確実に地球を目指して進んでおる」。1曲目"Hello David (Intro)"は、子どもたちによる鼓笛隊の間の抜けた演奏をバックにサンプリングされたこんな言葉からはじまる。また、USサウスのミニマル・ビートと宇宙と交信するようなスペーシーなプロダクションを融合した"きゃつら"にはこんな言葉がサンプリングされている。「ちっとばかし現実社会に飽き飽きしてるんでね」。ラッパー/トラックメイカーで、本作の主要人物のひとりのパンピーは、「地球制服のためにまずは近所のお友だちにお菓子売ってハスラー」とラップする。とくに00年代なかば以降、若い都市生活者の切実なストリート・リアリティとして多くのラッパーがトピックに取り上げてきたハスリング(=ドラッグ・ディール)を、人を食ったような、ナンセンスなリリックで相対化してみせる。こうしたユーモアに彼らの挑戦的な態度が表れている。
PSGの結成は2007年。メンバーはパンピー、彼の実弟スラック(ラッパー/トラックメイカー)、そしてガッパー(ラッパー)といった20代前半の青年たち。ちなみにその前年にパンピーは、MSCが所属するヒップホップ・レーベル〈LIBRA〉主催のフリースタイル・バトル〈ULTIMATE MC BATTLE 〉東京予選で、ハードコア・スタイルのラッパーを頓知の効いたライムで次々に破って優勝している。また2009年に入ってスラックは『My Space』『WHALABOUT』といったオリジナリティ溢れる傑作を発表している。PSGの『David』は、新しい世代の到来を決定付ける作品の1枚だと言える。
多くのハードコア・ラップは、主流社会との距離感、それらに対する嘆きを滲ませることでオリジナリティを獲得する。社会に裏切られたという感覚は音楽化され、あり得たかもしれない幸福な未来、そして暴力とカネに悩まされながらハード・ライフを送るしかない現在という二重性が、ラップのリアリズムに深い陰影を与える。その点、PSGは醒めている。不穏なシンセ音が鳴り響くフューチャリスティックな(ネプチューンズやクリプスからの影響を伺わせる)"M.O.S.I"では、もし金が手に入ったなら、もし夢が叶ったなら、という根拠のない明るい未来を次々に否定し、「申し訳ないけど/元気付ける気はない」(パンピー)と開き直る。
また、孤島となった監獄都市LAを舞台に近未来の管理社会とアウトローの反逆を描くSF映画『エスケープ・フロム・LA』をモチーフにしたであろう"エスケープ from 東京"では、「エスケープ from T・O・K・Y・O」と東京からの脱出をサビでくり返しながら、最後に「てか、無理じゃねぇ」とひっくり返す。アブストラクトなリリックから紡ぎ出されるどこか間の抜けたサイエンス・フィクションは、決してニヒリズムに依拠しているわけではない。むしろP・ファンクを想起させる、痛快なナンセンスと道化的知性を武器に現実を生き抜くしたたかな精神性に支えられている。カラフルなサンプリング・センス、脱力したラップと歌、豊かな諧謔からは、デ・ラ・ソウルの『3 Feet High&Rising』やベックの『Odelay』さえも連想させる。
アフリカ系アメリカンの批評家でミュージシャンのコーネル・ウエストは、ブラック・ミュージックは希望の喪失や意味の不在というニヒリズムの防波堤として機能してきたと語っているが、PSGがヒップホップ、ソウル、ファンク、R&B、レゲエといったブラック・ミュージックのグルーヴから本能的に嗅ぎ取っているのは、(ブラック・コンシャスの生真面目さからは程遠いが)そういう感覚なのだろう。なによりも彼らが、コミカルなサイエンス・フィクションを作り上げることで守りたかったものとは、リアリズムに拘束されることのない音楽的自由だったのだ。そしてそれが2009年、PSGが放つもっとも重要なメッセージのように思える。
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DJ YOGURT & KOYAS
Strictly Rockers Re:chapter 25 -harvest Dub Beats 70's To 00's Mix
EL QUANGO / JAP / 2009/11/21
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Radian
Chimeric
Thrill Jockey / US / 2009/11/10
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Type / UK / 2009/11/2
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Ben Frost
By The Throat
Bedroom Community / ICE / 2009/11/9
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Twig and Twins
Own Records / LUX / 2009/11/18
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