「Nothing」と一致するもの

電気グルーヴ - ele-king

 そして最後の『ノモビデオ』(これだけオリジナル・リリースもDVDがあった)。タイトルとしては『シミズケンタウロス』『ニセンヨンサマー』『レオナルド犬プリオ』と並ぶ偉人シリーズ。本編はPV集で、アルバム『VOXXX』期の田中秀幸仕事が卓球ソロとあわせて堪能できる。しかし、PVは正直どこでも見られるしリアルタイムでもかなりあちこちで繰り返し見たものばかりで、意外性や新しい発見はない。制作時の裏話が聞ける副音声のコメンタリーも悪くはないが、ものすごーくテンション低く自分たちで「言うことない」などと告白しており、え~~~と言いたくなる。

 しかし、おまけとして追加されたディスク2がイイ。2000年、アルバム『VOXXX』のツアー、異常な盛り上がりを見せる大阪の一夜。ライヴ・アルバム『イルボン2000』で既に音源はリリースされているが、このままバーンアウトしたように長い活動休止に陥る前の、なにかやりつくそうとしてるようなテンションは映像を伴ってさらに凄みを増す。大阪は行ってないので、この現場は見ていないが、クリスマス時季にお台場のZepp東京でやった充実のステージはいまでもはっきりと覚えている。まりん脱退後、渡部高士やDJ Tasakaをサポートに迎え試行錯誤を繰り返した電気が、オリジナル・メンバーと対をなして張り合えるパワーをもったTasaka&Kagami(要するに、Disco Twins)を得たことで、以前のような自由さ、活性感を取り戻した記念すべきツアーの一夜だったからだ。

 重く苦しかった『VOXXX』のレコーディングを脱してツアーに出た開放感、それにDJ周りの機材の進歩、ヒップホップ・マナーのTasaka+直感的なKagamiの参加......すべてがプラスに作用したからか、かなりフリーで即興的なライヴになっている。"密林の猛虎打線"や"エジソン電"、"インベーダーのテーマ"あたりが客とのやりとり含めてものすごいことになっていた記憶があるのだが、残念ながらここではすべてカットされている。しかし、半分以下の尺でも伝わってくるのは、それまでバランス取りながら突き詰めてきたDJカルチャー的な良さを失わずに、またさらに「電気的」なる表現を一歩も二歩も進めた凄み。

 一方、コメンタリーはサポートのふたりが参加して、どこか和やかなムードも漂っている。このアニキ的な役割に微妙にチェンジしたふたりとDisco Twinsとのかけあいは、当時のステージでのやりとりを喋りで再現しているようでもあり、おもしろい。またしばらくお休みの期間に入ると噂される電気グルーヴだが、冒頭に言っていた「20年後にこれまたやろうぜ」っていう冗談が実現するように、ぜひともがんばって欲しいものだ。

灰野敬二 - ele-king

 若者で満員のHair Stylistics(中原昌也ほか)、巨人ゆえにデカイ、ゆらゆら帝国のリキッドルームでのライヴのあと高円寺へ向かった。開場午前1:00、開演午前1:30、毎年恒例の高円寺ショーボートでのオールナイト灰野敬二ソロ・ライヴである。このレポートはリキッドルームに一緒に行った野田さんが、そんなライブをハシゴする女子をめずらしがって要請してくださって書いているものである。日本では珍しいかもしれないけれど、世界的に見ればある人たちにとっては羨ましがられるハシゴなはずだ。(野田さんは高円寺には来なかったけれど)。

ショーボートの前の通りには遠目に行列ができていた。セッティングのために開場が少し遅れているようで、灰野さんから差し入れのホッカイロが配られているところだった。しばらく高円寺をぶらぶらして、「こんな時間になにしてんの? これから飲みに行かない?」という高円寺の健全な青年のナンパを「これから大事なライヴがあるのでごめんなさい。また今度ネ。」と振り切って、もう一度ショーボートに向かった。30歳の女子一人、晦日に灰野敬二ソロ・ライヴに行く。これは完全に今の日本社会のフツーの人から見たら「負け」に思われても仕方ない。そのナンパに乗った方がもしかしたらナンボかまっとうな人生を送れるかもしれない(この世界では、多少無理してでもミニスカートを履いていれば簡単にカモフラージュできることを私は知っている)。しかし、もう一度書くけれど、晦日に三十路女一人オールナイト灰野敬二ソロを聴きに行く。私はそういう人生を選んでしまった。

 会場に流れるミッシェル・エルマンの『ヴァイオリン小品集』とサンダルウッドの香りで、その場の空気は整いはじめているようだった。だいたい5~60人の青年ともおじさんともつかない人やカップルが少し。午前2時40分、エレクトリック・アコースティック・ベースの耳を劈くような鋭い音ではじまった。灰野敬二は幾重にもサンプリングとミキシングで自分自身を重ねていった。彼が「自分自身のモノフォニーが創れない奴はポリフォニーが創れるわけがない」と何度も口にしていたのを聞いたことがある。自己を次々と他者として突き放しては、その他者になった自己をまた受け入れて、変容させていく。

 私は体調が万全ではなかったので、心地よいリズムボックスとエフェクターの電子音の爆音に途中何度も意識が遠のいてしまった。また意識を取り戻すと、その度に灰野敬二は、これでもかとまだそこにいた。巨大な物語のあと、最後にサンプリングされたタンバリンの音だけが残された。数時間前の自分のタンバリンの音に、灰野敬二はまたタンバリンを重ね、吟遊詩人のようにステージを去った。時計を見たら午前5時半。私はすでに体力的にかなりきつくなってきたのだけど、これから後半がはじまる。

 もはやなにから後半がはじまったか記憶は定かではない。目を空けると万華鏡のように、巨大な13弦バロックリュートを爪弾く灰野敬二、インドの楽器エスラージを奏でる灰野敬二、スチールギターで聴いたことのないような音色をビュンビュンとかき鳴らす灰野敬二がいた。そして最後にやはりSGのギター!さっき聴いたゆらゆら帝国の坂本慎太郎もSGをかき鳴らしていた。ポップでオシャレなコード進行にいわゆる「アヴァンギャルド」な要素を重ねて、若者たちを「こっちの世界」に導くゆらゆら帝国。そのギブソンSGで、むしろ灰野敬二が清々しい轟音でG!-A!-D!のコードを続けていた。「日本のアヴァンギャルドの帝王」が弾くスリーコードの美しさよ!この壮大な儀式は、フィンランドの楽器カンテレの悲しい音色に乗せた声で締めくくられ、会場はこれまでの爆音が嘘のように、自然に静寂に戻った。

 もはや私の携帯電話の充電は切れていた。時間を人に聞いたら午前8時半は回っているらしかった。6時間聴いたあと、なぜか私の体力は回復してきて、まだこの空気に触れていたいと思った。灰野敬二とスタッフと一緒におしるこを食べて一息つくと、灰野敬二はこのすさまじい演奏のあと「これからディスクユニオンに行くつもりだ」と言った。

 人間の生命の終わりに直面してしまい、「人が生きている」ということは一体何なのか、ということに取り憑かれているこの年末。ここに答えのひとつを見た気がした。「人が生きている」ということは、「6時間のソロ・ライヴのあとに、まだ中古レコード屋に行って他人のレコードを買いたいと思うかどうか」ということなのだ。つまり、自己と格闘し尽くした後に、まだ新たな他者を受け入れていく欲望を持ち続けられるかということである。その命がけの「欲望の無限ループ」のなかで、現代人は矛盾を抱えながらも、生きていく方法を見つけなければならない。(後日聞くところによると、信じられないことに灰野敬二は新宿と中野のディスクユニオンをハシゴしたらしい。)

 この日体験した音も感動も、もう二度と再現できない。ただ、今まだ耳の奥に鳴り続けている耳鳴りだけが、この場にいたことの確かな証しだ。私の身体に今年最後に灰野敬二の音が刻まれたことは、この上ない快感と幸せである。この耳鳴りを絶やさないように、私は灰野敬二を聴き続けるだろう。

 1970年代にマックス・カンサス・シティでスーサイドとモダン・ラヴァーズが一緒にやるようなものでしょ、と僕はこの日のブッキングを喩えてみた。強引なのはわかっている。が、一緒にライヴを観ようということで恵比寿駅で待ち合わせした東京芸術大学の毛利嘉孝教授にはこのぐらい言っておいたほうがいいだろう。真実を言えば、僕は12月8日に渋谷AXでの中原のライヴを観てから、久しぶりにスーサイドのファースト・アルバムを家で聴いていたので、そんないい加減な、少々はったりめいた言葉が浮かんでいたのだ。

 あのアルバムの、レコードで言うとB面の"フランキー・ティアドロップ"の後半のアラン・ヴェガの突発的な叫びが中原の叫びに似ているような気がして聴いてみたのだけれど、近からず遠からずといったところだった。......それにしてもスーサイドのファースト・アルバムは本当に素晴らしい。間章はニューヨークで彼らのライヴを観た夜に感動のあまりずいぶんしこたまキメてしまったと本人が告白しているが、もし彼がいま生きていてヘア・スタイリスティックスを観たら意識の白夜を彷徨うどころか滑り台の上から容赦なく降下して(ヘルター・スケルター)、真夜中にトイレに駆け込んで胃のなかのものすべてを嘔吐し続けた......かもしれない。

 とにかく僕は、ソールドアウトのリキッドルームに自分のコネを駆使してまんまと入り込んだのだった。場内は控えめに言っても90%以上はゆらゆら帝国のファンだろう。そしてゆらゆら帝国のファンは寛大だった。前回、僕が中原昌也を観たときは明らかに彼の音楽に嫌悪を感じていた客がそれなりの数いたものだったが(それがどのバンドのファンなのかはロビーの出入りを見れば一目瞭然だった)、ゆらゆら帝国のファンは決して居心地が良いとは言えない満杯のリキッドルームのなかでヘア・スタイリスティックスのライヴを最初から最後まで温かく見守っていた。音にハマり、奇声を上げ、明らかに楽しんでいた。

 というか、ヘア・スタイリスティックスはこの晩も最高のライヴを披露した。ゆらゆら帝国のファンは自分たちの幸運に感謝したことだろう。中原昌也はバンド編成による特別なセットで臨んだが、実際に出てくる音も格別だった。中原が卓を操作して、ベース=AYA(OOIOO)、ドラム=姫野さやか(にせんねんもんだい)、キーボード=渡辺琢磨(Combo Piano)による4人が基本。途中からもうひとりドラム=千住宗臣(ex. V∞REDOMS)が加わった。彼らの演奏は、何年もともに活動してきたバンドのように息が合っていた。あるいは、息の合わなさも面白味に変換していた。

 前半、女性ふたりによるリズム隊(ベースとドラム)、そして中原との緊張感のある"間"の取り方に我々は息を飲み、それが数十分続いた。控えめな騒音と瓦礫のなかを中原がゆっくりと歩きはじめたようだった。演奏はじょじょに激しさを増し、中盤ではサン・ラめいたコズミックな演奏が我々の精神に激しい火柱を打ち立て、そして最後は中原の"叫び"に呆然と立ちつくした。叫び、咆哮......これを聴いたとき僕はまたしても目頭が熱くなってしまった。そして今回もまたTシャツを1枚買った。しかもライヴがはじまる前にだ(毛利教授も買った)。

 巨人ゆえにデカイ、といういかにも大阪らしい名前を持つ大阪のふたり組は、もちろん初めて聴いた。ヘア・スタイリスティックスのお見事なライヴの直後ではやりづらさもあったかと思うが、巨人のギターとドラムによるコンビネーションは最初から自分たちの世界に没入し、巧妙なミニマリズムによる興味深い演奏を展開した。それはいわゆるグルーヴィーな演奏ではなければブルースでもなく、強いて言うなら日本の大衆芸能で磨かれてきた間合いのリズムのような気がする。ギターは弾くというよりも、擦り、叩いているようでさえあった。アッパーでもダウナーでもない微妙な温度感のある音楽だった。

 さて、僕は例によって例のごとく、7時過ぎにリキッドに着いてからというものしこたまビールを飲んでいた。そしてその晩の最後の1杯にしようと決めたビールを片手に、僕はバンドの出番を待った。

 "おはようまだやろう"ではじまった。演奏は液体のなかを泳ぐ魚類のように、滑らかに展開された。ゆらゆら帝国のスムーズな演奏はフロアを果てしない夢のなかに滑らせる。「ああ もう 何も求めず 何も期待せず 全てをあきらめた後で まだまだ続く」――坂本慎太郎の屈折したコズミック・ブルースが鼓膜にこびりつく。続いて長いインストへ。満杯のリキッドはサイケデリック・メリーゴーランドと化した。あとは音に集中していればいい。複雑な曲をシンプルに聴かせる巧妙な演奏力で、バンドはナンセンスとニヒリズム、そして華麗なファンタジーをまぜこぜに、手慣れた態度で放出した。

 昔から思っていたことだが、ゆらゆら帝国のファンは格好いい男や綺麗な女の子が多い。暗闇だから実際の顔はどうかわからないけれど、ファッションにちゃんと気を遣っているのだ。何も高価なブランドを着ているわけではないが、古着などで工夫して自分たちのスタイルというものを持っている。それは往々にして60年代ファッションをアレンジしたもので、僕は彼らのこだわる態度が嫌いではない。ライヴは半ばに差し掛かると"3×3×3"のイントロが演奏される。ファンはいっきに噴火する。それに続く"タコ物語"でバンドはまた違う扉を開ける。淫靡なセックスを暗示するこの曲を、リキッドルームで踊っているレディーたちはどのような気持ちで聴いているのだろうか。僕はこの曲のなかに坂本慎太郎のセックスへの複雑なオブセッションを感じるのだが......。

 "順番には逆らえない"~"EVIL CAR"で興奮状態を保ちつつ、最後の曲は冷酷なエレジーであり希望の歌でもある"つぎの夜"だった。このエンディングがまた見事だった。単純に盛りあがったままでは終わらないという、ゆらゆら帝国の独特なカタルシスがあった。

 エリートは、所詮は自己正当化する。連中は頭が良いからそれなりにうまく、抜け目なくそれができる。そしてエリートに憧れるエリートにはなれない人たちのあいだでそれはあり難がられる。12月30日のリキッドルームは本当に充実していた。異端者が異端者を呼び、集まり、エレガントな騒音に酔いしれながら一時のサンキュアリーを形成したのだ。みんながファッショナブルだったし、この音楽がこれだけの人数を動員しているのだから未来は決して暗くない(楽屋には七尾旅人もいたしな)。

 というわけで僕は最後から2番目のビールを手にしながら、カメラマンの小原泰広君とリキッドルームを後にして、下高井戸のトラスムンドに向かった。

Skunk Heads - ele-king

 12月29日の深夜、渋谷の〈asia〉で観たシンク・タンクの復活ライヴは素晴らしかった。あの場に立ち会えたことを心の底から嬉しく思う。そして、ライヴまで酒で撃沈しなかった自分の節度に感謝し、その後案の定記憶を飛ばした(テキーラ祭りには参ったよ。札幌の方々は本当によく飲みますね、DJ KEN(MJP)! 磯部涼はいつの間にかいなくなっていたが......)。00年代を通じて、ジャンルの領域を横断し音楽的実験を繰り返してきた〈Black Smoker〉がオーソドックスなヒップホップ・ライヴに真正面から向き合った結果生じたケミストリーは、こちらの想像を軽々と超えるものだった。制限やルールを取っ払い、フリー・ジャズ、ノイズ、ダブへと向かっていた彼らのフリーフォームな感性は、ストリクトリー・ヒップホップのフォーマットを採り自分たちを縛ることで逆説的に別種の自由さを手に入れ、4人のラッパー――K-BOMB、JUBE、BABA、NOX――とサックス奏者、CHI3CHEE、そしてDJ YAZIは、ファースト・フル・アルバム『BLACKSMOKER』(02年)に収録された曲にまったく異なるブラックな息吹を吹き込んだ。それにしても彼らの人気には凄いものがある。これは2009年の日本のヒップホップにおける重要なトピックなので、2009年を振り返る原稿でも触れます。

 さて、ここで本題。シンク・タンクが復活したのは何を隠そうBABAが現場に復帰したからで、ここで紹介するのはBABAによるバンド・プロジェクト、スカンク・ヘッズのファースト・フル・アルバム『Anti-Hero』だ。スカンク・ヘッズは、BABA(MPC &ヴォイス)が、Matsu"ZAKI"haze(ギター&ノイズ)とkeita morisawa(ドラム)と共に、2007年に結成したバンドで、これまで2枚のミニ・アルバムと1枚のライヴ盤『LIVE A LIVA of スカンク・ヘッズ』を発表している。2003年に発表したファースト・ソロ『NO CREDIT』やBLUE BERRY名義でのMIX-CDシリーズでBABAの才能の片鱗を伺い知ることができるが、本作では、BABAのラッパー/トラックメイカー/プロデューサーとしての総合的な才能が爆発している。『Anti-Hero』は、ポスト・パンクとヒップホップとの出会いとでも形容できようか。例えば、ア・セートゥン・レイシオがラップに挑戦する様を想像して欲しい。あるいは、僕はヴァーミリオン・サンズの凶暴なダブ・ロックを思い出した。K-BOMBとJUBEのユニット、THE LEFTYがジャズだとすれば、スカンク・ヘッズはロックだ。もちろん、ダブ、ファンク、サイケ、ブルースを飲み込み、ヒップホップがベースにある雑食性の強いロックで、混沌を祝福する音楽だ。間違っても陳腐なミクスチャー・ロックではない。黒煙で覆われた地下空間を切り裂くような凶暴で繊細なアンサンブル、強靭なグルーヴ、BABAの呪文のようなライムと幻想小説を思わせるリリックがコンクリート・ジャングルの地表を揺るがす。まさに暗黒世界のオーケストラが奏でるレベル・ミュージックとでも言える強烈なサウンドだ。蛇のようにうねるベースとレゲエ・ディージェー、牛若丸のトースティングが絡み合う"STONE HAZE"、プログレ・ロックのようなイントロからダブステッピーなビートへと展開する"THE ONE"、SOIL&"PIMP"SESSIONSのTABU ZONBIEの濡れたトランペットの音色が哀愁を誘う"HERE WE AR"。全12曲、さまざまな表情を持った曲が並ぶ。

 11月中旬以降、野田(努)さんが2009年を振り返る原稿で触れている『ゼロ年代の音楽――壊れた十年』という本の執筆もあって100枚以上のアルバムを聴いたと思うが、それでもこういう刺激的な音楽が世の中で鳴っている限り、僕はまだまだ音に貪欲になれる。現在我が家では、緻密なアレンジによるファンク・サウンドを展開した、椎名林檎「能動的3分間」と『Anti-Hero』がヘヴィーローテーションである。この2枚はファンクとロックというキーワードにおいてコインの裏表のように思われる。これについてはまだ裏づけがあるわけじゃない。僕の個人的な妄想の域を出ない戯言だ。さて、最後にBABAの素晴らしいパンチラインをふたつほど引用しよう。「悪夢とモラルをシェイク」「ただでさえクセー町に悪臭撒き散らす/戯言吐き出す」("THE ONE")。
 ということで、2010年も戯言を町に吐き続ける。
 
追記:ネットでも流れている、僕が『Anti-Hero』に寄せた文章の記名が一部で「二木崇」さんとなっているのは誤りです。念のため。

SEEDA feat. ILL-BOSSTINO, EMI MARIA - ele-king

 シーダというラッパー(プロデューサー)が不良たちのヒーローに留まらず幅広い層から支持されたのは、メランコリーや悦びの感情を細やかに描く才能に恵まれていたのもあるし、どこか頼り無さげで儚い佇まいに色気が漂っていたのも大きかったのだろう。曲によって別人と思えるほど極端に変える声音や世界を異化するような(威嚇するような)笑い声には、ある種の分裂症的なものさえ感じさせる。シーダは一般的にはハードコアなイメージが強いが、実は非マッチョで、非ハードコアなラッパーだということが彼の作品をじっくり聴き直すとよくわかる。知り合いの女の子が就職活動で将来について悩んでいるときにシーダの音楽に癒されたと語っていたが、彼女にとってドラッグ・ディールというハードなトピックは二の次だったのだろう。僕がシーダの音楽に感化されたのも、何も彼が"悪かった"からではない。

 僕は、シーダほど黒人音楽のメロウネスを深いところで自分のリアリティと接続して消化できた日本のラッパーはいなかったと思っていて、90年代にアメリカのR&Bを宇多田ヒカルが独自に消化したのと近いことをやったと解釈している。例えば、シーダが日本語ラップ・シーンで評価を決定付けた通算4枚目のアルバム『花と雨』に収められた"Daydreaming"、あるいは彼の内省がもっとも素直に表出された通算6枚目のアルバム『Heaven』に収められた"紙とペンと音と自分"を聴いたときにそのことを強く感じたのだが、"Wisdom"を聴いて、その気持ちは確信へと変わった。

 "Wisdom"は、今年の5月に発表した通算7枚目のアルバム『Seeda』を最後に活動を休止していたシーダの復活作となる。僕はこのシングルを買ってからというもの何度も繰り返し聴いている。1週間でここまで聴いたシングルはここ数年なかったと思う。僕が"Wisdom"に惹かれたのは、ヒップホップ的なループ感よりもハーモニーが強調されたゴージャスなR&Bでありながら、単なるラヴ・ソングではなかったからだ(プロデューサー、オールド(OHLD)によるトラックは秀逸である)。シーダは甘いムードと戯れながら、しかし今でもストリートを歩き、街角の風景――空きビル、ホームレスを描写し、外気を吸い込むことを決して止めない。それが、同じくメロウなR&Bをほぼ全編に渡って展開した、クレバの密室的なラヴ・ソング・アルバム(と言っていいだろう)『心臓』との決定的な違いでもある(『心臓』は素晴らしい!)。

 "Wisdom"は、恋人と聴いても、志を共にする友人と聴いても、最後には同じ感動が待っているような、背後から恋の予感に抱きすくめられながら、生きる勇気を鼓舞してくるような......、幾重にも感情が織り込まれたソウル・ミュージックだ。ここには、愛があり、決意があり、ロマンがある。愛の歌と革命の歌が同時に歌われる70年代前半のニュー・ソウルを思い起こさせるし、ポール・ギルロイの「パッションの歌はしばしば同時に抵抗の歌を意味していた」という言葉が脳裏をかすめもする。シーダが黒人音楽と深いところでつながっていると僕が感じるのはそれ故だ。マイノリティは常にセクシーである。誰かが前にそんな文句を言っていたが、そう、"Wisdom"はセクシーなのだ。

 "Wisdom"は、「大きな力/俺等に必要無い/今より少しだけ/勇気でFLY」という、シーダが自身の無力さをすんなりと受け入れるラインから幕を開ける。これまで自身の無力さとの葛藤を音楽化してきたシーダからまるで憑き物が落ちたように。これは明確なアンチ・マッチョイズムの表明だろう。大きな力――暴力や巨大な資本力だけでねじ伏せられないものが音楽のコアにはあると言いたいのだろう。CDが売れないと言われる時代に、1曲入り300円という値段で、しかもオリコン・デイリーチャート5位を記録するというのもそれだけで希望じゃないか。

 シーダが日本語ラップのルールから解き放たれた普遍的なテーマでリリックを綴る一方、ゲスト・ラッパーであるザ・ブルー・ハーブのイル・ボスティーノはラップ・ゲームのサヴァイヴァルについて歌う。結果的にボスの存在が日本語ラップ・リスナーをつなぎ止める役割を果たしている(ように思える)。だから正直、ボスはこの曲の中では少し浮いているのだけれど、バランスとしては悪くない。他にもいろいろ語るべきことはあるが、最後にR&Bシンガー、エミ・マリアの歌声が素晴らしいことを記しておこう。彼女はセクシーな声で歌う。「誰にも支配されない/自分だけを生きたい」と。10年代に入ってからも「Wisdom」を何度も聴くことになるだろう。

Girls - ele-king

 ガールズの『アルバム』というアルバム。まったく"検索"に向いていない。なんでこんなネーミングなんだ? 検索されたくない? だとしたらその気持ちはよくわかるけど。

 これは、サンフランシスコのソングライター、クリストファー・オウエンスとプロダクション及びスタジオ・ワークを担当するチェット・Jrホワイトの二人組のファースト・アルバムだ。クリストファー・オウエンスは、俳優リヴァー・フェニックスが子供時代を過ごしたことでも知られるヒッピー系カルト教団、チルドレン・オブ・ゴッドで「外界から隔離されながら世界中を放浪」しながら育ったのだという。この教団では信者獲得のための売春がおこなわれていたと言われ、子どもたちも性的虐待を受けていたという。元フリートウッド・マックのギタリスト、ジェレミー・スペンサーもメンバーだというその教団で、各地を移動しながら大道芸で音楽とバスキング(投げ銭)を覚えた。16歳になったクリストファーは、俗世間から隔離されたその生活から脱出、テキサス経由でカリフォルニアにたどり着き、パンクとドラッグ漬けのありふれた青春を開始したという。そこで恋人と二人で音楽をはじめたものの、失恋。新しく組んだ相棒がJRホワイトだった。
 という凄みのあるエピソードはしかし、『アルバム』からはまったくうかがい知ることは出来ない。

 80年代初頭のブリティッシュ・ニューウェイヴ、たとえばエルビス・コステロや、フリッパーズ・ギターが多大な影響を受けた"ギターポップの神様"と言われるオレンジ・ジュースを思わせるサウンド、メロディ、そしてヴォーカル・スタイル。とくにメロディはどの曲も「これは何のカヴァーだっけ?」と思いたくなるほど、懐かしく親しみのあるものに聴こえる。
 基調はR&Bとロックンロールで、モータウン調の"Ghost Mouth"やオーティス・レディングを彷彿させるものもある。"Big Bad Mean Motherfucker"では、ジーザス・アンド・メリーチェーンのようなリヴァーブをかけたギター、英米の音楽誌で高い評価を受けて今ではプレミアムがついているファースト・シングル"Hellhole Ratrace"はエルビス・コステロのようで、"Lauren Marie"ではサーフィン・サウンドのディック・デールのようなトゥワンギー・ギターと、過去の音楽が寄せ集められているとも言えるし、きらめいているとも言える。年長者なら「なつかしい」と感じるのではないか。ほとんど著作権への挑戦とも言えるほどのこうした寄せ集めへの評価が、「パクリ」ではなく高い評価を得るようになっていることは興味深いできごとだ。

 クリストファーはチルドレン・オブ・ゴットで体験したヒッピー思想に基づく文化を否定することなく、自分のものとしているのかもしれない。ただ、その歌詞の多くは、カリフォルニアでの生活で起きる小さなエピソードをモチーフにしていて、ラリってしゃべる友達同士の他愛ない話や希望のない愚痴、思うようには行かない恋なんかがストーリー性豊かに歌われている。このアルバムのテーマは「ハートブレイクとデザイア」だと彼は語っている。ヒッピーの親世代が作り上げたサイケデリックとスピリチャルの培養箱を出た彼は、そこで得たすべてを捨てるのではなく、新たに足を踏み入れた俗の世界でも60年代風=ヒッピー風なライフス・タイルを続け、漠然とした夢はあっても、いわば永遠につづくかのような取るに足らないような生活の、取るに足らない出来事へと向ける視線にはやさしいものがある。

 とても面白いと思うのは、曲によってまったく異なるクリストファーのヴォーカルスタイルだ。とてもすべてを一人のボーカリストが歌っているとは思えない表現力だ。この音楽が好きな人は、ぜひともヴィンセント・ラジオ( VincentRadio.com https://vincentradio.com/ )のベイビー・レコーズのコーナーをお聴きください。

 アンソロジーをたった1冊、編ませてもらっただけなのに、構成内容がとても気に入っていただけたそうで、「水木しげる画業60周年」と題された米寿のお祝いに招待していただきました。これはちょっと感激でした。場所も帝国ホテルだし、会の切り盛りは出版社が複数でやるのかと思っていたら、最初から最後まで水木プロが手弁当でプログラムを組み、どことなく「お化けの運動会」を見ているような1日になりました。各テーブルには妖怪汁が配られ、司会は京極夏彦に荒俣宏、この日、たった1枚だけ描かれた絵は出席者全員がジャンケンで取り合いとなり、水木三兄弟があと12年、無事でいれば「3人合わせて300歳を祝う会」をやるという発表も。会場はけっこう広いのに学校の体育館にいるような気分になってくるのがどうにも不思議で、娘の悦子さんによる花束の贈呈はまるで入学式か卒業式に見えたり。境港市長や調布市長といった地域を代表する方のスピーチはあるのに出版関係の挨拶は最後までなく、マスコミもすべてシャットアウト、むしろ親戚の方々が多く詰め掛けていたようです(妖怪じゃありませんよ)。「こんな和やかなパーティはなかなかない」とは手塚るみ子さんのコメントだけど、水木しげるの生涯を10分で理解するというショート・フィルム(by京極夏彦)が上映された後で、荒俣宏が水木さんにマイクを向け「ひと言、感想を」というと、水木さんは「思い出すのは戦争のことだけ」と小さく呟き、「いろいろあった」とか「波乱万丈の人生だった」というような言葉を期待していた僕らは虚を突かれ、瞬間的に涙が出そうになってしまいました。水木さんはもう一度、たどたどしく、「思い出すのは戦争のことだけ。後のことは思い出せない」と繰り返しました。鬼太郎や河童の三平を産み出した時のことは忘れても戦争のことは忘れないということです。誰に依頼されたわけでもないのに『総員玉砕せよ』を描き上げた理由がわかろうかというものです。

 会場では久しぶりに手塚真とも再会。僕の本格的な編集デビューは彼が学生時代に撮った映画『SPh(1983)』のメイキング本で、ちょうどその作品をいま、イギリスでリメイクしている最中だとか(音楽はジョン・フォックス!)。そのようにして、いつの間にか水木エリアのなかにあって手塚尽くしになっていると「全員で記念撮影をします」という声がかかり、会場全体は舞台前方に詰め掛けていく......のに、ふと振り返ると、手塚兄妹だけは位置を動かず、テーブルを挟んでやや遠い場所に残ったまま。これは、つまり、写りは小さくなるけれど、別なグループのトップに位置しているという構図になり、水木しげるに所縁の人たちが集まっているなか、手塚治虫の子どもたちが取った行動としてはなるほどと思わせるものがありました。人は常に自分は全体のなかのどこに位置するのかを考えているものだとかなんとかいったのはラカンだったと思ったけれど、瞬時にしてその正解を探り当てたといえるのではないでしょうか。多分、無意識に。

「自分は全体のどこに位置するのか」ということでは、長年、ひとつの疑問があります。東京の路を歩いていると、3人から5人ぐらいのグループが横一線に並んでいる場面によく遭遇します。いわゆる「歩道いっぱいに広がって歩く」というやつです。僕はこのフォーメイションに加わるのがあまり好きではなく、高校の終わりぐらいから、ひとりだけ前か後ろを歩くようにしてきました。意識して外れるわけです。そうすると1人だけ会話がなくなります。その時に、そうか、会話に加われなくなることが不安でこのフォーメイションが維持されるのかということに思い当たります。その場で何が話し合われているのかということは、その中身がどれだけくだらないことでも、そのことには関係なく、それに加わっている者と加わっていない者をはっきりと峻別し、加わっていない者への圧力に転じるのです。それはまるで物理現象のようにして、人を横一線に並ばせる力となります。そうとしか思えません。このような光景を、そして、僕はパリやロンドンでは見たことがありません。「アメリカの田舎道でなら見たことがある」という人も「確かに都会では見たことがない」といいます。海外旅行の経験は数えるほどなので、この話を普遍化させる技量も材料も何もないのですが、やはり、喉元まで出掛かってしまうのは「日本だけなのか」という疑問です。会話から外れることがそれほどまでに恐怖感を呼び起こすのは「日本だけなのか」と(ミクシやツイッターに参加しないことも程度の差こそあれ同じことなのかなーとか)。先日、近所にある国士舘大学の正門前で、しかし、僕はアジア系(パキスタン?)の留学生たちが4人、横一線に並んで歩いているところを目撃しました。人種が違うというだけで、やはりこの光景は新鮮でした。彼らは故郷にいた時からそうだったのだろうか、それとも、日本に来てからそうなったのか。仮に英語で訊くとしても、それはそれでけっこうな英語力がないと難しそうなのでスルーしてしまいましたが、あー、やっぱり、一所懸命聞いてみればよかったなーと、いまは後悔しています。

 会話を共有しているということが日本人にとってはどういうことを意味し、それはほかの文化圏にはないことなのかどうか。この疑問はそろそろ30年ぐらいのロング・ランに突入しながらまったく前に進みません。ひとついえることは、横一線に並んで歩く列から離れることは、馴れているとはいえ、それなりに自覚的な行動であり、まったく苦痛がないことではないということです。そして、そのような価値観に日本人が多数、喝采を送った瞬間を僕たちは00年代に経験しています。「一匹狼」と評された小泉純一郎が自民党の総裁に選ばれた瞬間です。いまとなっては批判の声しか向けられなくなっている小泉純一郎ですが、僕は彼が総裁選に立候補した時からあの性格を生理的に受け付けなかった一方で、「一匹狼」として、その存在価値をマスコミなどが持ち上げたことには共感があったことも覚えています。それこそ『会社本位主義は崩れるか』などのベストセラーで称揚されていた「企業よりも個人を優先する」という価値観がそこには重ねあわされ、日本の何かが横一線に歩くことから脱却しようとしたことは間違いないでしょう。それが確実にネオ・リベラルへの第一歩だったとしても、すべてが間違いだったとは思えないのです(まー、現実にはその何かが竹中平蔵やアメリカに利用されただけなのかもしれませんが)。

 CD3枚組みというヴォリウムの『LIVE! Hair Stylistic』を聴きました。そして、いつもライヴ会場で耳にしていた中原昌也の叫び声を聴いて僕は愕然としてしましました。こんな声だったっけ? 彼はこんな声を出していたんだっけ? それはもう中原昌也という知人の叫び声ではなく、ありとあらゆる横一線から外れて、ひとりで孤独な路を歩く未知の男による強烈な叫び声でした。顔が見えなくなって初めてわかることもあるのです。こんな声を出す男がいまの日本に、ほかにいるのだろうか。

 中原、米寿まで生きろよ。

Bear in Heaven - ele-king

 パンダ・ベアにグリズリー・ベア、そして狐(フリート・フォクシーズ)を挟んで、これは"天国の熊"。何よりも僕はアートワークに感心した。真っ赤な背景と黒いドットで描かれた目と涙。とても暗示的で、僕は自分が使っているノートパソコンの画面が本当に泣き出すんじゃないかと空想したほどだ。インナースリーヴには3人のメンバーの顔がかき消されたヴィジュアルがある。こうした匿名性を、ゼロ年代以降のロック・バンドは使うようになった。大昔のミック・ジャガーように自らがポップ・アイコンになることを拒み、とくにブルックリン系は音を聴かせたいという欲望を優先させている。90年代のテクノやエレクトロニカのようだ。

 ベア・イン・ヘヴンの中心人物であるジョン・フィルポットは、実際に90年代後半からそのキャリアをはじめ、最初は〈Table Of The Elements〉からデビューしている。ここは......灰野敬二やファウスト、ジョン・ケージやトニー・コンラッドなどを出している、いわば前衛のレーベルだ。それからジョン・フィルポットはプレフューズ73と関わり、2004年にスコット・ヘレンのレーベル〈Eastern Developments〉からベア・イン・ヘヴンとしてデビューする。言うなれば、前衛の側からポップに挑戦したのがこのバンドだと言える。2007年には最初のアルバム『Red Bloom Of The Boom』を出してそこそこ評判となって、これは2009年の初頭にリリースされたセカンドになる。

 ギャング・ギャング・ダンスのようにエクレクティックな音で、曲によってはファウストのミニマル・ポップを今風にしたとも言える。エレクトロニカ、クラウトロック、サイケデリック、ポスト・パンク......それらがダンサブルに吐き出される。シングル・カットされた"Wholehearted Mess(こころ全部の混乱)"は威勢の良いポスト・パンクのダンス・サウンドで、"You Do You"のエレクトロ・ポップもなかなか。"Lovesick Teenagers(恋に悩む10代)"もキャッチーな曲で、こんな曲を聴いているとアメリカでも10代向けのラヴ・ソングというものが洗脳に近いかたちで供給されているんだなと思う。ブルックリン系に特有のアート臭さはあるものの、それさえ気にならなければ良いアルバムだ。まるで最近のブルックリン系の活気が乗り移ったかのような、前向きな躍動感がある。僕は女性ヴォーカルをフィーチャーした"Casual Goodbye(何気ない別れ)"のようなエレクトロニカ風のダウンテンポの曲が気に入っている。

Talk Normal - ele-king

 R2枚とカセット1本を経て、アンドリア・アンボロとロッジ専属のエンジニア、サラ・レジスターが組んだ女性デュオによる1作目。リディア・ランチとソニック・ユースのマッシュ・アップか、ギャング・ギャング・ダンスのゴシック・ヴァージョンか。『砂糖の国』というタイトルとは裏腹に呪術的なインダストリアル・パーカッションが切羽詰った世界観を表現し、デビュー・アルバムにしていきなり退路のない完成度を誇っている(アンボロは77ボアドラムに参加、レジスターはソニック・ユース『ダーティ』やルー・リード『アニマル・セレナーデ』のマスタリングなどキャリアはかなり長い)。天にも昇るようなファック・ボタンズとは対照的に徹底的に地下深くを潜行し、いわゆるオルタナティヴ・サウンドをアップ・トゥ・デートさせようとしているというか、この迫力にはとても逆らえません(ユニット名はおそらくローリー・アンダースンの曲名に由来)。00年代を通して続いてきたニューヨーク復興の動きからすれば手探り状態だったブラック・ダイスや、かつてとは違う雰囲気を持ち込んだアニマル・コレクティヴに比してバトルズとともに「ニューヨーク完全復活」と呼びたい確信とノスタルジー、そして、青春の二文字が。知性を感じさせるロック・ミュージックのしぶとさにも舌は巻かざるを得ない。疾走感のある曲ばかりでなく、ゆっくりと地面を踏みしめるような"モスキート"や"ユニフォームズ"に漲る圧迫感など、どこを取ってもコンクレート・シティの厳しさにあふれ、ニュー・ヨリカンやズールー・ネイションの片鱗もここには見当たらない。ロクシー・ミュージック"イン・エヴリー・ドリーム・ホーム・ア・ハートエイク"のカヴァーがそれこそノイバウテン・ミーツ・バンシーズといった風で、緊張感を引き出す音の位相やセンスには抜群のものがあり、全体に思い切りがよく、音の整理がうまくて混沌としながらも雑多な印象は与えず、とにかくソリッドの一語に尽きる。前衛指向ではないものの、"ウォーリアー"では多少、実験的なところも。インナーに歌詞をコラージュのようにして貼り合わせてあるので、どれがどの歌詞だかはさっぱりわからず......(アート指向め!)。レジスターが最近、マスタリングを手掛けたものにはリー・ペリーやアソビ・セクス、デペッシュ・モードなども。あー、なかなか大人にはなれませんなー。

XXX Residents - ele-king

 以前リキッドでやった宇川直宏の偽サイン展は大盛況だったようで、多くの人がこのシミュラクラを楽しんでいるというのは、ある意味では驚愕に値する。本物をまがい物が凌駕する......ことはまあ昔からあるとはいえ(ダッチワイフとかそうなのかね、いやあれは現実の代用品か)、しかし、それにしても積極的に偽サインを面白がるという感覚はまったくポスト・モダン的で、宇川直宏はそうした変わりゆく世界の見え方に非常に敏感なのだろう、彼はこのゲームをずっと弄んでいるように思える。
 僕は去る11月27日にアルバム発売記念のトークショーを彼と一緒にやった。喋りが終わったあと、宇川は「今日、CD買ってくれた人には偽サインを描きます」と言ってその日のメニューを告げると、誰か忘れたけど何種類もの著名人(もしくはカルト的人物)のサインを描き、そしてその"偽もの"を何十人もの人たちが楽しんでいるのだ。僕はそれを端で眺めながら、「オレも描いてもらおうかな」と思ってしまった。偽物であるから面白いのだ。こうしてシュミラクラは本物を駆逐する。彼はこの更新される現実をこうやって見せているのかもしれない。

 XXXレジデンツはご存じのように、彼のプロジェクトのひとつで、そこにはオリジナルのザ・レジデンツへのオマージュを含みつつも、彼のシュミラクラへの興味が恐ろしく注がれている。そもそも1973年にサンフランシスコで誕生したポップ史上で最初に匿名性を打ち出したこのユニットは、そもそも誰が本物のメンバーなのかわかならなかった。交友関係はあった。電気グルーヴの曲名にまでなった故スネーク・フィンガーをはじめ、フレッド・フリスやクリス・カーターといった70年代のUKにおけるアヴァンギャルドの旗手たち、あるいは80年代末にはレーベルが勝手に"カウリガ"――いちど聴いたら忘れられないギターとダークなエレクトロニック・ビート――のヒットによってアシッド・ハウス・フィーヴァーやバレアリックの渦中に投げ込まれたこともあった。それでも彼らの匿名性は守られてきた。XXXレジデンツの活動に先立って、宇川がこのプロジェクトの旨を本物のザ・レジデンツに問い合わせたら「好きにするがいい」との返事がきた。こうして彼は気兼ねなく、ポップ史上において指折りの異端者たちのシュミラクラを演じることができるというわけだ。

 ザ・レジデンツは彼らが全盛だった70年代から80年代は、原型がわからないカヴァー集(サード・ライヒン・ロール)や1分ジャストの曲を1枚のアルバムに40曲収録したり(コマーシャル・アルバム)、あるいはモグラ帝国についてアルバムを作ったり(マーク・オブ・ザ・モール)......とかいろいろ1枚ごとコンセプチュアルにやってきた。音は、そのポップなデザインとは裏腹にいたってダークで、気が滅入るような曲も少なくない。

 XXXレジデンツにとって最初のアルバム『Attack of the Killer Black Eye Ball』はレジデンツのテクノ・ダンス・ヴァージョンだ。宇川のダンス・ミュージックへの愛情が純粋に注がれている......ように思える。1曲目がいちばんオリジナルのザ・レジデンツっぽい。不吉なそのトラックにミックスされる2曲目はフロアを当たり散らすかのようにトランスする。3曲目は狂ったテクノで、リスナーは暴れるか、さもなければ気色の悪い見せ物小屋に取り残されることになる。4曲目は......普通にクラブの午前3時にかかっていてもおかしくない。できの良いテクノ・トラックだ。5曲目は地味だが、後半になると狂気が爆発する。6曲目は......普通にクラブの午前5時にかかっていてもおかしくない。もっともポップなトラックである。リスナーはそして、メルツバウによる7曲目で再度フリーク・ショーの世界に落とされる。が、最後にはハッピーなアンビエントが待っている。DVDの映像を観るとライヴのステージ上では掃除したりアイロンかけていたりしている。たしかにこの音とヴィジュアルならフロアは笑顔で盛りあがるわ。

 そして......ジャケットのアートワークが最高。

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