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DANIEL BELL
Globus Mix Vol. 4 - The Button Down Mind Of Daniel Bell
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Globus Mix Vol. 4 - The Button Down Mind Of Daniel Bell
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トクマルシューゴの『ポート・エントロピー』を聴いていると元気になる。決まりごとで窒息しそうなこの世界の外側へと道が開けるようだ。「......すべきだ」「......しなきゃいけない」という、社会の常識のようなものの手綱をゆるめ、「ま、いいか」と思えてくる。シュールレアリスティックなこの音楽を聴いていると、愉快な気持ちになって、気持ちも上がるのだ。森のなかのアヴァンギャルドなパーティのようなこの音楽を聴いていると、いちいち子供に「うるさい」と怒る気をなくす。
Shugo Tokumaru Port Entropy P- Vine |
それは想像を快楽とする者にとってはまたとないプレゼントである。『ポート・エントロピー』を聴いていると......変な言い方だが、ますます音楽を聴きたくなる。というか、音楽を好きになる。その自由な広がりにおいて。
この音楽の背後からは膨大な量の作品が広がる――フォーク、ジャズ、エレクトロニカ、カンタベリー、あるいはスラップ・ハッピーやファウストの諧謔性。あるいはマッチング・モウルの素晴らしき"オー・キャロライン"......もし『ポート・エントロピー』にもっとも近接している作品を1枚挙げるとするなら、僕は『そっくりモグラ』(の前半)を選ぶだろう。さらにもう1枚挙げるならパスカル・コムラードの玩具と前衛とポップのカタログのなかから選ぶだろう。
こう書いたからといってみんなに誤解して欲しくないのは、この音楽が過去の亡霊たちの再現ではないということ、これは後ろを向いている音楽ではないということ、つまりたったいまこの現在を生きている音楽だということだ。
あるはずの音楽......「ホントはあるはずなのになぁ」とずっと思っていた音楽を具現化する、だから"想像"を具現化する作業なんです。僕には伝えたい言葉は何もないんです、メッセージとかね。自分の曲のなかではそれはない。
ひとりでしか作れない音楽だと思うんですね。緻密だし、ものすごく凝っているし。その"ひとりで"っていうのは日常生活における属性でもあるんですか? ひとりでいるほうが好きとか?
トクマル:基本的にはひとりでいるほうが好きですね。5人以上いるときつい。
5人という制限は経験上?
トクマル:そうですね。食卓を囲めるくらいの人数でないと気持ち悪くなってきますね(笑)。
バンド(GELLERS)なら大丈夫?
トクマル:いまやっているバンドは幼なじみなんで。
気を遣わない?
トクマル:そうですね。居心地がいいですよね。
ひとりで作っている音楽のほうが好き?
トクマル:そういう感じではないです。むしろあまり聴かないかもしれない。
ひとりで作っていて辛いこともあるでしょう?
トクマル:イメージ通りいかないときはつらいですね。でも、基本的にはひとりで作っているのはそうとう面白いですけどね。自分が面白がれるものしか作らないようにしているというか、人に聴いてもらうわけだから、自分がやってて面白くないと、あとになってからきついですよね。作る前にイメージしていて、その段階から面白いっていうのでなければ、CDには入れたくないですよね。
じゃあ、作る前はゴールというものが見えているんですね。
トクマル:そうですね。ゴールは見えています。
じゃあ、自分の頭のなかには音楽が鳴っていて、それに近づけるために作っていくという。
トクマル:そうですね。
さすがですね(笑)。
トクマル:そのやり方しかできないんです。でないと不安でしょうがないというか、作りながら曲をどんどん育てていくやり方っていうのはアリだと思うんですけど、僕は子供の頃から違うんですよ。物事を順序立ててやっていくというやり方で......。
じゃあ、フリー・ジャズみたいなインプロヴィゼーションの美学よりも『サージェント・ペパーズ~』みたいにあらかじめ設計されて作り込まれたものを好む......って、トクマルシューゴの音楽を聴けばそりゃそうですよね。
トクマル:だけど10代の頃はフリー・ジャズにハマったたんです。僕はそこに幻想を抱いていたんですね。「この音が来たら次のこの音が来て、こうなったからこうなるんだ......」って、そこを僕はすごい研究したんです。
研究熱心な......。
トクマル:そうですね。だいぶ好きですね。フリー・ジャズはよく聴いていたんです。
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トクマルシューゴの音楽を聴くと、あまりにもいろんな要素が詰め込まれていて、この人は何の影響を受けたのかというのが掴みづらいというか、とにかく多様なものを感じるんだけど、やっぱムチャクチャ聴いていたんですか?
トクマル:もう、とにかく聴いていました。CDを集めるのも好きだったし、知らないCDやアーティストがいるのがイヤだった。
「知りたい」って感じで?
トクマル:もっと良いものがあるんじゃないか、もっと自分にフィットしたものがあるんじゃないかと思っていたんです。自分の作りたい音楽も見つかるんじゃないかって、「ここにあるはずなのに、何でないんだろう?」って、そう思ってました。
へー、それは興味深い話ですね。そこまでマニアックなリスナーになったのっていつからですか?
トクマル:んー、そうですね、14とか。パンクにすごくハマってしまって。
それはすごく意外ですね(笑)。
トクマル:ハハハハ。それまではビートルズとかクイーンとか、マイケル・ジャクソンとか......を聴いていたんですけど、パンクを聴くようになると面白いエピソードがどんどん出てくるんです。
たとえば?
トクマル:実はこの人はこれこれこういう人から影響を受けていて......とか。それで、どんどん遡っていったんです。そこからいろんなアーティストを知っていったんです。
追体験ですよね。
トクマル:そうです。そこから派生した音楽をたどっていくと、プログレやサイケ、フリー・ジャズ、もっと古い音楽とか、そういう風に探していくのがすごく好きでしたね。
へー。
トクマル:それで自分にいちばんフィットする音楽を探していくんですよね。
1日のほとんどの時間は音楽に費やされていたんでしょうね。
トクマル:そうですね。学校にもライナーノーツだけを持って行ったり(笑)。
ハハハハ。
トクマル:読んでましたね。
でも高校生のときは小遣いもかなり限られているし。
トクマル:だからみんなと協力し合って、それがいま一緒にやっているバンドのメンバーだったので、ちょうど良かった(笑)。
へー。しかし、パンクがきっかけという話がホントに意外だったなぁ。いまやっている音楽はむしろその真逆とも言えるじゃないですか。
トクマル:そうですよね。
そうやって音楽を探していって、最初に自分にフィットした音楽は何だったんですか?
トクマル:んー、なんだったのかなぁー。中学の2~3年のときにキング・クリムゾンとドアーズにものすごくハマったことがあって。しかもそれをアナログで聴くというのが、もう、至高の時間帯で(笑)。
ハハハハ、キング・クリムゾンのどのアルバムなの?
トクマル:キング・クリムゾンは『レッド』までぜんぶ揃えたんです。で、聴いていると、その時期のもやもやした気持ちと重なっていくというか......。
キング・クリムゾンとドアーズって、でもまた違いますね。
トクマル:そうですか? 僕的にはすごく似ていて、どちらも聴いていてぜんぜんハッピーにならないというか(笑)。
キング・クリムゾンというのは、なんとなくわかる気がするかなー。トクマルシューゴの曲に奇数拍子があったりするし、あと、ギターもロバート・フリップみたいなところがあるし。
トクマル:好きですね。
最初からギターだったんですか?
トクマル:その前にピアノをやっていました。
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ところで、トクマルシューゴの音楽、とくに今回のアルバムを語るうえでひとつキーワードとされるのは"ファンタジー"だと思うんですね。ファンタジーとしての音楽、メルヘンとしての音楽、そういう風に言われたとき違和感はありますか?
トクマル:ファンタジーやメルヘンという言葉が好きじゃないんですけど、意味合いとしてはぜんぜんアリだと思います。ファンタジーやメルヘンというと、どこか女々しい感覚があって、それが苦手なだけです(笑)。
空想世界......というかね。
トクマル:いちおうパンクから入ったので、そういう女々しいのが苦手なだけで、意味としては当たっていると思います。実際に作っているモノはそういうモノなので、メルヘンという言葉は大嫌いですけど(笑)。
僕もパンクから入ったんですが、女々しいモノが大好きだということにあるときに気がついたことがあって(笑)。
トクマル:ハハハハ、まさにそういう感覚ですね。
リスナーとしてもそういう、ある種の別世界を構築していくような音楽を好んで聴く傾向にあるんですか?
トクマル:んー、あるかもしれないですね。ただ、ホントに無差別に聴くのが好きなんですよね。
日本の音楽からの影響はあるんですか?
トクマル:あると思いますよね。子供の頃から耳にしてきたモノだから、あると思いますね。
コーネリアスなんかもファンタジーだと思うんですけど、シンパシーはありますか? 欧米ではトクマルシューゴとよく比較されていますが。
トクマル:好きですけど、そんなに詳しくはないですが......
聴いてなかった?
トクマル:10代の頃のはホントに洋楽ばかり聴いていて、むしろ日本の音楽は避けていたようなところがあったんです。
コーネリアスがクラウトロックだとしたら、トクマルシューゴはソフト・マシーンというか、カンタベリーかなと思ったんですね。だから似ているようで違っているとも言える。
トクマル:でも、言われてみれば、すごく近い感覚があるのもわかるんです。
ファンタジー、という言葉を敢えて使わしてもらうと、自分自身ではファンタジーを作っているという意識はあるんですか?
トクマル:結果的にそういう面はあると思います。ただ、もっと単純なところで、自分が作りたい音楽を作るっていうところがありましたね。"空想"は後付のところもあるんです。あるはずの音楽......「ホントはあるはずなのになぁ」とずっと思っていた音楽を具現化する、だから"想像"を具現化する作業なんです。
ああ、なるほど。まずは音ありきなんですね。
トクマル:そうですね。
じゃあ、言葉というのは自分のなかでどういう風に考えていますか?
トクマル:僕には伝えたい言葉は何もないんです、メッセージとかね。自分の曲のなかではそれはない。
感情を伝えるというタイプでもないですよね。
トクマル:そうですね。感情を伝えるタイプでもないです。具体的なワードを述べたいというわけでもないんです。ただ、想像のきっかけになればいいかなと思っているんです。僕は夢日記から歌詞を取っているんです。夢日記をずっと付けているんです。
へー。
トクマル:そこから引用するんです。たとえば......テレビというものがあるとしたら、「テレビ」という言葉を使わずに「四角い箱」という言葉を使うとする、そうすると想像の幅が広がるんですよね。もし10年後に同じ作品を聴いたとしたら、想像の幅を広げたほうが違った聴こえ方をすると思うんです。10年後に思う「四角い箱」になるんです。
そういう、別世界を見せてくれる表現に関して、音楽以外で好きなモノはありますか?
トクマル:映画は好きですね。いまはそんなに観ている時間がないけど、昔は1日3本みたいな感じで観ていましたね。
とくに思い入れがあった監督は誰ですか?
トクマル:映画もやはり、とくにひとりという感じじゃないんですよ。もう自分のなかで決めるんですよ。今月はヒッチコックをぜんぶ観るんだ、とか。デヴィッド・リンチをぜんぶ観るとか。リンチにハマったときもあったし、B級アクションにもハマりましたね。けっこう好きでしたね。
ホントに何かひとつって感じじゃないんだね。
トクマル:そうなんですよ。すぐに飽きてしまうんです。
文学作品は?
トクマル:芥川とか......。
ハハハハ、まったく意外だね(笑)。
トクマル:ハハハハ。ひと通り読むんですよ。でも、いつの間にか苦手になってしまった。
童話文学は?
トクマル:ないですよね。
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質問変えますけど、海外ツアーを最初にやったのはいつですか?
トクマル:2006年ですかね。
どこをまわったんですか?
トクマル:ヨーロッパでしたね。
「ラムヒー」には2008年のアメリカ・ツアーの模様を編集したDVDが付いていましたね。
トクマル:あれが初めてのアメリカ・ツアーだったんです。
海外ツアーというのはトクマルシューゴにとってどんな体験なんですか?
トクマル:初めてリリースしたのがアメリカのレーベルで、なかなかツアーに行けなくて、だから現実感がなくて、その現実感をすり合わせていく感じでしたね。行ったことがないところで出会ったことのない人の前でやるというのは、経験としてすごい良かった。
アメリカのレーベルからデビューして、ツアーしたのはヨーロッパだったんだ。
トクマル:そうですね。
ヨーロッパはどこに行きました?
トクマル:最初はひとりで行って、フランス、スペイン、それから北欧もまわりましたね。フェスにも出たし、狭いところでもやりました。
ギター一本で?
トクマル:そうですね。
日本で出すことは考えていなかったんですか?
トクマル:出せるものなら出したかったんですけど。ファーストの前に作ったアルバムがあって、それがたまたま友だちの友だちを通じてアメリカでレーベルをはじめた人に伝わって、「出したいんだけど」という話になって、ホントに偶然だったんです。びっくりしたというか、ぜんぜん現実感がなかった。
自分から海外で出したいと思ったわけじゃないんだ。
トクマル:ぜんぜん。デモテープをレーベルに送るという考えがなかったですからね。
じゃあどうしようと思ってたんですか? 自分の作品を。
トクマル:とりあえず、作りたいから作っていた。30、40ぐらいになったらCDを1枚出したいなぐらいに思っていたんです。
なるほど。育った国とは違う文化圏で演奏することが、自分の作品のなかにフィードバックされることはありますか?
トクマル:音楽的なものよりも、想像に関するフィードバックのほうが大きいですね。見たことのない風景、聞いたことのない会話とか、それを記憶しておくとあとで夢に出てくるんです。それがまた夢日記に書かれて、ひょっとしたら歌詞になったりとか(笑)。まあ、そんなイメージなんですけど。もちろんそのときの対バンの演奏を聴いて「おー!」と思うことはありますけど。
こないだはテレヴィジョン・パーソナリティーズと一緒にやったんですよね。そのときのライヴがすごかったという話を聞いて。
トクマル:あれはすごかった。昔から大好きだったし、一緒に出れて光栄でしたね。いままで好きだった人と一緒にできるというのは嬉しいですね。
トクマルシューゴの音楽は受け手によってかなり違うだろうから、テレヴィジョン・パーソナリティーズと一緒にやっても合うのかしれないけど、片方では。
担当者Y氏:フライング・ロータスともやってますしね。
ハハハハ。いいですね。
トクマル:シカゴで(笑)。『The Wire』のイヴェントでしたね。だから面白いライヴにはいっぱい出させてもらっているんです。初めてライブをやりはじめてから、たしか数回目のライヴがマジカル・パワー・マコさんと一緒だった。
濃いねー。
トクマル:すごい嬉しかったし、「なんでオレここにいるんだろう?」って思った。対バンには恵まれていましたね。あげればキリが無いほどいろんな大好きだった人たちと一緒に演奏出来たりして。
ニューヨークのライヴでは現地の人たちとバンド演奏していたじゃないですか。あれは譜面を渡して?
トクマル:そうですね。あらかじめ譜面を渡しておいて。1~2回リハーサルをやって。
そういう形式のライヴは多いんですか?
トクマル:少ないです。でも、こないだヨーロッパ行ったときはアイスランドの人たち(Amina)と一緒にやったんですが、そのときも譜面を渡してやりましたね。
なんかね、トクマルシューゴの音楽からはパスカル・コムラード的な自由な感性を感じるんですよ。
トクマル:もちろんパスカル・コムラードは大好きなんですけど、それを目指してここまで来たというよりも、すごい回り道をして結局ここまで来たという感じなんですよね。
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なるほど。『ポート・エントロピー』は、ホントに力作だと思ったんですけど、やはり『EXIT』から2年半もかかったと言うことは、本人的にもそれなりの強い気持ちがあったんじゃないかと思います。そのあたり聞かせてください。
トクマル:そうですね、かなりありましたね。自分のなかでスタンダードなものを作って、基盤を固めたかったというのがありましたね。そうしたら次、何をやってもいいかなと、どこにでも行けるというのがありました。
曲はたくさん作るほうですか?
トクマル:あまり作らないほうなんですが、今回は50~60曲ぐらい作りましたね。
そのなかから選んだ?
トクマル:多作じゃないんですけどね。
ひとりで。
トクマル:はい。
完成の瞬間は自分でわかるものなんですか?
トクマル:わかります。
いま目標にしているミュージシャンはいますか?
トクマル:いないですね。好きな人はいますけどね。
若手と言われているミュージシャンで共感がある人はいますか?
トクマル:んー......。音楽的な意味で言えばウリチパン郡。それと倉林哲也さん。
ブルックリンのアニマル・コレクティヴやグリズリー・ベアみたいな連中はどうですか?
トクマル:もちろん。僕のライヴ・バンドも手伝ってくれたベイルートやザ・ナショナルとかもですね。
世代的にも近いでしょう。
トクマル:近いです。グリズリー・ベアは僕のことを見つけてくれてレーベルに紹介してくれたりもして嬉しかったです。たぶん、あの辺の人たちと僕に共通するのが、すごくたくさんの音楽を聞いていて、いろんなところにアンテナを張ってるってことなんですよね。単純に音楽好きというところから出発している。そこにいちばん共感しますね。なんであんな音楽が生まれたのかというと、そこだと思うんですよ。「こういう音楽もあってもいいんだ」という気持ちから生まれている。グリズリー・ベアもアニマル・コレクティヴもダーティ・プロジェクターズも、ああいう人たちはそうだと思うんです。
そう思います。ちなみに『ポート・エントロピー』というタイトルは?
トクマル:とくに意味はないです(笑)。ブルース・ハーク(Bruce Haack)という音楽家がすごく好きで、彼の作品で『キャプテン・エントロピー』というのがあって、そこからの引用です。
ジャケットのアートワークは?
トクマル:幼なじみに頼んだんですよ。曲だけ聴かせて「描いて」って(笑)。何もディレクションはしていない。それで何枚も何枚も描いてくれてそのなかから選びました。
これが音楽に相応しいと。
トクマル:うん、そうですね。
昨年、リリースされた4作目のアナログ・ヴァージョン。曲順はまったく違う(CDでいう1,4,8,10は同じ位置)。
生バンドなのにマイク・パラディナスに聴こえるといわれてきたのがトランズ・アムなら、同じくボーズ・オブ・カナダに喩えられてきたのがこの5人組。デビュー初期(03~)は子ども時代の記憶を再現することが目標だったらしく、どことなくクラフトワークを思わせるものがあったけれど、前作からロック・バンドとしてのまとまりが出てきて、プロダクションも飛躍的に洗練され、演奏で引っ張っていくタイプに変化してきた。"ディア・プルーデンス"のようなはじまり(先行シングル"ボーン・オン・ア・デイ、ザ・サン・ディドゥント・ライズ")から基調はどこをとっても甘ったるく、エールがDJシャドウとコラボレイションすればこうなるだろうというか、重厚なリズムと縦横に飛び回るメロディーとの対比が素晴らしく、DJシャドウがきっかけでバンドからDJに転身したというDJミュー(コチトラハグレティックMCズ)のミックスCDに入っていたのも納得です(......だからアナログが遅すぎるのよね)。
03年に1st『フォーリング・スルー・ア・フィールド』(限定→後に再発)、翌年に2nd『スタート・ア・ピープル』、06年にはオクトパス・プロジェクトとのジョイント・アルバム『ザ・ハウス・オブ・アップルズ・アンド・アイボールズ』(これがよかった)、さらに07年には3rd『ダンディライオン・ガム』と、08年にミニ・アルバム的な『ドリッパーズ』をリリースし、どう考えても波に乗りはじめている。粘りつくようなグルーヴが出て来たことでサイケデリックな効果も高くなり、曲がどれも短く感じられてしょうがない。クラブ・ミュージックは好きではないというようなことを言っていたけれど、これはどう考えてもリミックスは避けられないでしょう。本人たちがやらなければブートが出回るだけ......というか(アンディ・ウェザオールに教えるぞ! でも、どうやって?)。
レイディオヘッドやゴッドスピード・ユーに囲まれて、さぞかしエールは息苦しい思いをしていたのではないかと(あらためて)思う。等しくメランコリックといっても同時期のアラブ・ストラップやエールのそれは暗さのなかに甘美なものが秘められ、けっして重苦しいだけのシリアスなサウンドではなかった。自分が関わっておきながらいうのもなんだけれど、だから『ゼロ年代の音楽』でも先駆的な音楽として思い出してもらえることはなかった。ブラック・モス・スーパー・サウンドにしたって時代を引きずりまわすような音楽ではないかもしれない。たかだか小一時間ほど幸せな気分になれるだけである。そのようにして過ごす時間があるとないとでは人生は大違いだと思うものの、でも、どうしてアート・ワークは暗い感じを狙っているのかなー(?)。
ちなみに『ファックド・アップ・フレンズ』をアンチコンからリリースしたトバッコもメンバーです(セカンドはラッド・カルトから)。また、セヴン・フィールズ・オブ・エイフェリオン(という人名)は『ペリフェリー』というアンビエント・ソロを、ライアン・マノンはドリーメンドの名義でもすでにアルバムを3枚リリースしている。
彼女は猫とマドンナとテレビ・ゲームからインスピレーションを得ている......彼女は"ダブステップ界のファーストレディ"と呼ばれることを嫌う......と4月8日付の『ガーディアン』の記事には記されている。少し引用させてもらおう。「ブログで私のことをダブステップにおけるM.I.A.と呼ぶ人たちがいたけど」、彼女は鼻を鳴らす。「肌の色で判断するそれってハンスロウ(ロンドンの高級ホテル)みたいだわ。それは私の音楽じゃない。私の名字からある人は私をモスリム・プロデューサーと呼んだ。でも、私はイスラム教徒ですらない。スクリームのことを白人男性のキリスト教プロデューサーって呼ぶかしら?」
さて、〈ハイパーダブ〉がブリアル、コード9、キング・ミダス・サウンズに続いてリリースするアーティスト・アルバムがサラ・アブデル・ハミド、アイコニカの名前で知られるDJ/プロデューサーによる本作『コンタクト・ウォント・ラヴ・ハヴ』である。こう書かれることを彼女は好まないかもしれないが、本作は女性による最初のダブステップ・アルバムだ。
彼女はエジプト人の父とフィルピン人の母の元、ウェスト・ロンドンで育っている――実は僕は、このCDの解説を書いているのだけれど、その時点では彼女の背景がわからなかった。レーベルからの資料にもそうした詳細は記されていなかった。アラブ系じゃないかと勝手に推測してしまったが、間違いでした。『ガーディアン』の記事にあるように、人種によって先入観をもたれる事態を避けたかったのだろう。なにせ彼女は最初は、ニルヴァーナとホールのコピー・バンドのドラマーだったのだ。それから彼女はヒップホップとダブステップを手に入れた......という話だ。
2008年に〈ハイパーダブ〉からシングル「ミリー」(彼女が飼っている老いた猫の名前)でデビューしている。昨年は同レーベルから万華鏡のような美しいアートワークとともにサード・シングル「サハラ・マイケル/フィッシュ」を発表している。彼女は相当にゲーム好きらしく(彼女によれば片方の耳ではゲーム、もう片方の耳ではガラージを聴いて育った......という)、それは"サハラ・マイケル"のロボティックな感覚からも聴き取れるし、アルバムに収録された"イディオット"にいたってはレトロなコンピュータ・ゲームのロービットの音色を使っている。"ゼイ・アー・オール・ルージング・ザ・W"もまたクラフトワーキッシュなエレクトロで、こうしたブリーピーな(テクノ・ポッピーな)感性はアルバムの重要な個性となっている。そしてこれらトラックを聴いていると――またしても――このジャンルが拡張し続けていることを認識する。
そして"フィッシュ"だ。きっと多くの人は、このトラックにアンダーグラウンド・レジスタンスのコズミック・テクノと同類の感覚を覚えるのではないだろうか。エレガントで、勇気を与えるタイプの曲だ。他にもスペース・ファンク調の"ヴィデオ・ディレイ"、UKファンキー調の"プソリアシス"、あるいはデトロイティッシュな"ヨシミツ"等々、実に多彩な内容となっている。さすが〈ハイパーダブ〉がアルバムとして発表するだけのことはあるというか......、いや、しかしこのレーベルのたとえばブリアルやコード9などのディストピア志向と違って、アイコニカの『コンタクト・ウォント・ラヴ・ハヴ』は大らかで前向きなエネルギーを持った作品である。
ちなみにアイコニカというネーミングは、彼女のボーイフレンドが「iconoclastic(因習打破的な)」という単語のもじりとして発案したものだそうだ。アルバムを聴く限り、その名前は彼女にまったく相応しい。
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山崎ヒロが主宰する〈サウンドオブスピード〉は、東京を拠点としたインターナショナルなテクノ・レーベルのひとつである。10年以上前の話だが、彼がこの名前のパーティをはじめた頃に、彼が当時住んでいた新宿の家に行ったことがある。窓を開けると高層ビルがよく見えるマンションの一室の、決して広いとは言えないその部屋で座りながら、彼は「プラッドを日本に呼んでパーティをやったんだけど、ここに泊めてあげたんです」と話していたことを憶えている。それから彼は日本の〈ビッグ・チル〉を目指しながら、ジンプスターやトム・ミドルトン、ミックスマスター・モリスらを招聘しながらパーティを続けていた(現在、パーティは休止中)。その活動のなかでレーベルも生まれたというわけだが、〈サウンドオブスピード〉の初期の傑作のひとつが北海道のクニユキ・タカハシのKoss名義のアルバム『リング』(2001年)で、評価の高いこのアンビエント・アルバムは"チルアウト"を指標するこのレーベルの色を明確に表している。それはIDMスタイル、チルアウト、もしくはジャズ(フュージョン)......である。また、このレーベルから昨年リリースされた(山崎ヒロの友人である)ルーク・ヴァイバートの『リズム』も忘れるわけにはいかない。〈サウンドオブスピード〉からシングルを4枚連続でリリースしてからのそのアルバムは、世界中のチルアウターたちのコレクションの1枚に加えられている(僕のそのひとりである)。
『サークルズ』は、レーベルにとって2枚目のコンピレーション・アルバムだ。アルバムの1曲目はクニユキ&クシティの"ビー・フリー"。ジャジーで、チルアウティで、ユーフォリックなこのトラックはレーベルの音楽性を象徴する、実にブリリアントなトラックだ。続いてオルシッドネイーションによるスペイシーなディープ・ハウス、そしてジンプスターによるアトモスフォリックなミニマル・ハウス......〈サウンドオブスピード〉らしいトランシーでラウンジーなエレクトロニック・ミュージックが展開される。メランコリックなピアノが印象的なリー・ジョーンズ(かつてへフナーとしてジャジー・ダウンテンポを発表している)の"トゥー・イン・ワン"、それからシュリケン(ジンプスターの〈フリーレンジ〉レーベルからのリリースで知られる)によるアブストラクトなハウス......。そしてルーク・ヴァイバートによるアシッディな"メジャシッド"、スウィッチの"ゲット・オン・ダウンズ"のヘンリック・シュワルツによるリミックスを経て、アルバムの最後はふたたびクニユキ&クシティ、曲名は"トレモロ"のクニユキ・ダブ・ミックス......。
アルバムはすでに海外のメディアでも好意的に取り上げられている。今世紀もまたチルアウト・オア・ダイというわけだ、そう、何年経とうが......。目新しさはないけれど、しかし間違いなくクオリティの高いコンピレーションである。チルアウトの夏にそなえよう。
先日、Spangle Call Lili Lineの藤枝憲と、そのシングルのプロデュースを手掛けた相対性理論の永井聖一の対談をする機会があったのだが、そこで藤枝は相対性理論のことを「はっぴいえんど、YMO、フリッパーズ・ギターに続く存在がようやく現れた」と語っていた。自分も基本的にその意見に強く頷く立場である。これまでの日本の音楽業界のしきたりをすべて無効にしてしまうような存在、周りのものを全部古くさく見せてしまうような毒っ気、自分たちのルールでしか動かない不遜さ。それに加えて、数々の共演歴や共作歴からわかるように、彼らは日本のアンダーグラウンド・ロック史や同時代のアート・ロックに愉快犯的に介入し、歴史を書き換えようとさえしている。そんな企みに鈍感なリスナーの一部には、その歌声やナンセンスな歌詞のイメージから、安易にオタク・カルチャーと結びつけてその存在を軽んじる向きもあるが、彼らはそんな誤解をも巧みに利用して、「相対性理論を否定するのはカッコ悪い」という現在の状況を作り上げてきた。このレヴューを書いてる時点で、日本で彼らよりたくさんのCDを売っているのがAKB48だけというのは、そんな彼らの目論見がここまで見事に成功している何よりの証拠だろう。
相対性理論を音楽的に特徴づけるもの、それはその計算され尽くされた中毒性にある。彼らは、「ポップとは物語ではなく、まるでゲームや麻薬のように何度も何度も繰り返したくなるようなもの」であることに、日本のどんなミュージシャンよりも自覚的だ。だから、今作にようやく収められた彼らの代表曲のひとつ"ミス・パラレルワールド"の「東京都心はパラレルパラレルパラレルパラレルパラレルパラレルワールド」というまるで呪文のようなやくしまるの歌に、もし気味の悪さのようなものを感じるとしたら、それはアディクトを怖れる人間の本能として正しいリアクションなのだ。
そして今作には、もうひとつの明確な目的がある。それは、彼らの存在が広く知られるようになった前作「ハイファイ新書」リリース以来、いろんなところで語られるようになった「キーマン=真部脩一」説を払拭するということだ。結果として今作は、反復するコンセプチュアルアートとしての相対性理論をより進化させたものではなく、メンバー全員がコンポーズ及び詞作に関わった、相対性理論の拡大再生産的楽曲集となっている。これまでライヴで演奏してきた未発表曲がほとんど収録されていることからも、これがタネもシカケもない相対性理論の現在すべてだと言うことができるだろう。
もっとも、これまでライヴで聴いたときの印象と、今作で聴くことのできる楽曲群の印象は微妙に異なる。今作では、精密に空間設計されたギターの配置やフレージングから、16ビート、変拍子を巧みに操るドラム、そして曲によって実はかなりファンキーなベースまで、徹底的にメンバー全員が演奏者として「相対性理論の中毒性」をブラッシュアップした上で、意図的にヴォーカルの録音レヴェルを上げている。そして、そこでやくしまるえつこは楽曲ごとに声を使い分け、「私は操り人形じゃない!」とばかりに初めて感情を入れて歌っている。
そこからうかがえるのは、このバンドが各音楽メディアとの慎重な距離の取り方とは裏腹に、自分たちの音楽そのものへの批評に対しては意外にナイーヴだということだ。おそらく今作における作詞作曲、および演奏と歌唱法における、「4人で相対性理論」という強固なスタンスは、この先も継続されていくはずだ。そして、そこからハミ出していく各メンバーのエゴは、今後さらに盛んになっていくに違いない課外活動のほうに吸収されていくのだろう。
先日の渋谷AXでの渋谷慶一郎とのライヴではその片鱗を聴かせてくれたが、音響面を強化、整備するだけでも、このバンドの「聴かせ方」や「見せ方」にはまだまだ大いに伸びしろがある。ただ、そんなふうな生け花や盆栽的な観賞物としての完成度を高めていくだけではない、『シフォン主義』や『ハイファイ新書』をさらに刷新していくような思いもよらない斬新なアイデアとその実践を、自分はどうしても彼らに求めてしまうのだ。フリッパーズ・ギターは3枚で終わったが、きっと相対性理論にはまだまだ続きがある。今作はそのための、これまでの状況整理を兼ねた集大成的なアルバムだと思っている。
1975年、マルコム・マクラレンがニューヨークに滞在していたとき、キングスロードの〈SEX〉で店番をしていたバーナード・ローズ(後のザ・クラッシュのマネージャー)は店に出入りするひとりの19歳の若者のTシャツに注目した。彼はピンク・フロイドのTシャツを着ていたが、そのバンドのロゴの上には「I hate......」という言葉が殴り書きされていた。若き日のジョン・ライドンに関する有名な話である。そしてこれはパンク・ロックがその出自においてヒッピー(プログレッシヴ・ロック)と対立構造にあったことを物語る逸話として、のちに何度も繰り返し語られてきたおかげで、「マルコムが初めてジョンと会ったときに」されたり、「TシャツにはI hate Pink Floyd」と書かれていたりとか、話が真実とは多少違ってしまったほどだ。
今年の2月18日付の『ガーディアン』に「I don't hate Pink Floyd」という興味深い記事があった。54歳のジョン・ライドンが「実はオレはピンク・フロイドが嫌いではなかった」とカミングアウトしたのだ。「彼らは偉大な作品を残している」とあらためてピンク・フロイドを評価するばかりか、『ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン』は好きな作品だったことさえ明かしている。「ただ、彼らの思い上がった態度が気にくわなかったんだ」
しかしライドンは、その後の彼の人生で何度かデイヴ・ギルモア(ピンク・フロイドのギタリスト)と話す機会を得て、その偏見はなくなったという。元パンク・ロックのアイコンはこう回想している。「まったく問題がなかった」と。
「なんだよ~、いまになってそりゃないぜ」、この記事を読んで正直がっかりした。そしてしばらく考えた。何故なら、どんな理由があったにせよ、結果的に「I hate......」という言葉がパンク・ロックにおいて強力なモチベーションだったことは間違いないからだ。大人への憎しみ、政治家への憎しみ、社会への憎しみ、金持ちへの憎しみ、ポップ・スターへの憎しみ......で、まあ、思えば、「I hate......」という感情ほど現代において自主規制されているものもない......んじゃないだろうか。
音楽シーンをたとえに話すとしよう。日本のシーンを支配しているのは、おおよそ多元主義と迎合主義だ。迎合主義というのは大衆に媚びることで、人気者を集めて商売にする。自分には用がない世界だし、どうでもいいと言えばどうでもいい。1977年、チャートを支配していたのはディスコ・ポップとユーロ・ポップで、パンク・ロックは大衆性という観点で言えば、明らかに"どん引き"されていたのが事実であり、しかしその後の文化的影響力という観点で言えば"どん引き"されたマイナーなそれは革命的だったのだから。"売れている"という観点で音楽を評価するときの落とし穴はパンクからもよく見える。ややこしいのは多元主義のほうだ。
多元主義という思想は、簡単にいえば、「どんなにものに良いところはあるのだから多様性を認めよう」という口当たりの良い考えである。その象徴的なメディアをひとつ挙げるなら『Bounce』というフリーマガジンだ。90年代に生まれたこのメディアは、まさに多元主義的に誌面を展開している。J-POPもドマイナーなインディー盤も並列する。それはリスナーの"選択の自由"を広げるものである。悪いことではない。多くの人がそう思った。ちなみに僕はこの雑誌から、10年ほど前、いち度だけわりと長目の原稿の執筆依頼を受けたことがあったが、そのときに「批判だけは書かないで欲しい、それはうちの方針ではないので」と言われたことを覚えている。まあ、メディアのコンセプトを思えば理解できる話だし、"紹介"だけでも価値のあることはたくさんあるので、僕はその言葉に従った。
そう、従った。が、しかし、多元主義にとって予想外だった......のかどうかは知らないが、結局のところそれが市場原理にとって都合がよいものだったということだ。そりゃーたしかに、資本主義にも、いや、小泉純一郎にだって良いところはあるかもしれない。そう思った途端に、世界は恐ろしく窮屈に感じる。なにせそれは、働いて、買うだけの生活に閉じこめられることで、それがいったい何を意味するのか考えて欲しい。このあたりの理論は専門家に委ねるが、まあかいつまんで言えば、シーンが「I hate......」という言葉を失ったときに得をするのはメジャーのほうなのだ。いっぽう、多元主義の誘惑に負けたマイナーほど惨めなモノはない......"自由"こそが最大の強みであったはずの彼らも所詮はかませ犬、メジャーの引き立て役であり、マイナーはメジャーの骨をしゃぶるだけである。これを音楽界における新自由主義と言わずして何と言おうか!
いや、あるいは......それは単純な話、シーンは「I hate......」という情熱を失っただけの話かもしれない。"嫌悪感"を表明するのはエネルギーがいる。疲れるし、面倒だし、もうどうもでも良くなっているということなのかもしれない。われわれは骨抜きにされ、狭いカゴのなかで飼い慣らされてしまったのだろうか。「I hate......」というのは、善悪の議論ではなく、この窮屈な日常の向こう側に突き抜けたいという欲望の表れだというのに(レイヴァーたちはその感覚を知っている、たぶん......)。
ザ・フォールの新作――通算27作目らしい――『ユア・フューチャー・アワー・クラッター』を聴いた。アルベール・カミュの小説『転落』から名前を頂戴したザ・フォールといえばポスト・パンクの代表格のひとつで、オルタナティヴTVらと並んであの世代におけるキャプテン・ビーフハート(そしてカン)からの影響だが、言うまでもなくバンドの最大の魅力はマーク・E・スミスにある。唸るような、ぼやくようなヴォーカリゼーションで知られるこの男は、中原昌也と三田格とジョン・ラインドンを足してさらに濃縮したようなキャラを持つ。躊躇することなく「I hate......」、いや、「死ねばいい」ぐらいのことを言い続けているひとりだ。
イギリスの音楽界でもっとも気難しい男、 マーク・E・スミス。 |
マーク・E・スミスが大衆に媚びることは絶対にあり得ない。彼がいかに本気で学生を憎んでいるのかを喋っているのを読んだことがある。彼は、ハゲ頭を帽子で隠すオヤジを容赦なく憎んでいる。僕は女子高生を憎み、飲み屋で人生論をかますオヤジを憎んでいる。10代の頃から。実家が居酒屋なので、子供の頃から酔っぱらった人間を見てきているのだ。
なぜ女子高生かって? 最近ある青年から女子高生との音楽をめぐる対話を読まされたからだよ。彼は女子高生に『ロッキングオン』や『ムジカ』、『スヌーザー』や『エレキング』、あるいはテレフォンズなどについて話を聞いているのだけれど(この企画の意図自体、僕にはようわからなかった)、それを読みながら「あー、若い頃はホントに女子高生が嫌いだったよな~」と思い出したのである。本当に憎んでいた。ユーミンを好むような、女子高生であることに満足しているような女にいち度たりとも好意を抱いたことがない。
いまでも女子高生嫌いは変わらない。よく下北沢の駅を利用するのだが、小田急線から井の頭線に乗り換える階段で、短いスカートのケツの部分を押さえながら上っている女子高生を見ると腹が立つ。いったい誰がお前の臭いあそこを覗くというのか......あの手の女がどんな音楽を聴いているか調査してみるがいい。それは酒の席で自分の人生自慢を展開して、説教をたれるオヤジの聴く音楽と同じようなものだろう。しかし、多元主義的に言えば、そんな女子高生にもオヤジにも良いところもあるのだ。そして、こうした無意味な議論から素早く離れ、走れるだけ走り、やれるだけやって、飛ばせるだけ飛ばす、それがロックンロールに象徴される欲望ってヤツである。
ザ・フォールの新しいアルバムはマーク・E・スミスのこんな言葉で終わる。「おまえにロックンロールは向いていない」
追記:この原稿は3月に執筆されている。マルコム・マクラレン――R.I.P.
マイク・インクを聴いたことがきっかけでハウスをつくりはじめ、それによって頭角を現したハーバートは、それ以前にドクター・ロキットやウィッシュ・マウンテンの名義でイージー・リスニングからミュージック・コンクレートの応用まで手を広げ、いわば「なにがやりたいのかよくわからないプロデューサー」の代表格だった。ハード・ミニマルやドラムンベースがフロアを最高潮に持ち上げた後で、いまから思えば次にどっちへ行こうかとシーン全体が模索期に入っていたような時期だったから、どんなつまらないこともネクストにつながる何かに感じられ、ハーバートの試みも、そのひとつひとつがそれなりに意味を持っているように感じられたということもあるだろう。ミステリアスでありながら、彼の存在はなぜか信頼できるような気がし、もしかすると必要以上に評価しながら聴いていたような気がしないでもない。「レディ・トゥ・ロキットEP」(95)、「D・フォー・ドクター」(96)、「レイディオ」(96)、「フーシュ」(97)、「ヴィデオ」(97)......いまから思えばヘンな感じである。聴き返したいような、それもまたコワいような。
ハウスやテクノへの没入が一段落して『ボディリー・ファンクションズ』(01)をリリースした辺りから、ハーバートは匿名性が支配するDJカルチャーの住人であることに距離を取りはじめ、それまで福袋のように差し出されていた彼のたたずまいから明確に作家性というものが立ち上がっていく。それと同時にジャズが表現のセンターコートへと躍り出、ビッグ・バンドへの視座やラテンへの目配せなど、まるで菊地成孔とともに時代を併走しているかのようなタイプへと様変わりしていく。90年代を昇華したハーバートと、それを否定した菊地には、もちろん、ハイブリッド感や音楽に持たせる意味がまったく違っていたようだけれど。
「型」をどう演じるか。何度も書いてきたように、これが00年代の課題だった。ハーバートにとってのジャズは、それを狂言回しのように扱っているという印象を与えることでエレクトロクラシュやポスト・クラシックとも一脈で通じるものがあった。裏側に回ればいろいろと小細工は労しているものの、表面的な音のタッチはあくまでもオーソドックスに徹し、実際、ハーバートのそれは「洗練」された商品としての風格を兼ね備えるようになった。『ミュージック・オブ・サウンド』や『レッツオールメイクミステイクス』は遥かに遠い。そして、ビッグ・バンドなど作品を経てリリースされた『ワン』では、ついに、70's風味のなんら変哲のないポップ・サウンドへと歩を進めてしまった。これまでのソロ作に少しは影を落としていたハウスのフォーマットは霧消し、特別な世界でもなければ日常に埋没するでもない「ポップ・サウンド」そのものへと。
曲名はすべて地名になっている。マンチェスター、ミラノ、ライプチッヒ、シンガポール、ダブリン、パーム・スプリング......本人に訊けば、きっと回りくどいコンセプトが饒舌に語られることだろう(そういうところも菊地成孔と寸分違わない)。『ワン』というのはリチャード・バックのような集合無意識のことをいっているのだろうか。それとも単に『ツー』が続くのだろうか。国名ではなく、都市名になっているところはツアー先を意味するのだろうか。どの曲も適度に感傷的で、この世界はそのような気分の積み重ねでできているといわんばかりである。地味なアルバルだけど、その意志は強く、聴く度に存在感を増し、そして、とても落ち着く。そう、ハーバートは相変わらず「なにがやりたいのかよくわからないプロデューサー」の代表格である。こんな作品になるとはまったく予想できなかった。