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カリブーとは、簡単に言えば、フォー・テットとともに聴かれてきた人である。2001年にマニトバ名義で〈リーフ〉から発表したデビュー・アルバム『スタート・ブレイキング・マイ・ハート』によって脚光を浴びた彼は、柔らかな抒情派エレクトロニカ路線をそのまま進むのかとおもいきや、セカンド・アルバムではソフト・ロック調のメロディを注入し、そしてカリブーと名前を変えてから発表した2005年の3枚目では、もしジャンル分けをするなら迷わずロックの棚に並べられるであろう作品を出している(ありがちと言えばありがちな、クラウトロック風味のロックだったが)。まあ、IDMスタイルからロックへ......これはこの10年におけるひとつの流れで、カナダ人のダン・スナイスもそのひとりというわけだ。ちなみに彼は数学博士である、見た目もふくめて。
彼はそして、〈シティ・スラング〉に移籍して2007年に『アンドーラ』を発表しているが、さすがにこれには参った。マニトバ時代から、彼の音楽には救いようのない楽天性があったとはいえ、まさかこの人がMGMTみたいなカラフルなサンシャイン・ポップスをやるとは、ショッキングでさえあった(......というほどではないか)。そしてマニトバ名義から数えて5枚目となる新作『スウィム』はダンス・ミュージックときた。最初は警戒した。この人と僕のあいだに接点はない、そう思っていた。が......、聴いているうちに緊張はほぐれ、感動が押し寄せてくる。それは驚くべきことに、まるでアーサー・ラッセルが歌っているようなダンス・ミュージックなのだ。そう、70年代のニューヨークを生きた偉大なるディスコの実験主義者、アーサー・ラッセルだ。彼の直接的な影響を感じる作品というのを僕は初めて聴いたかもしれない。アルバムのタイトルは"スウィム"――そう、おそらくは"レッツ・ゴー・スウィミング"(ラッセルの代表曲)からの引用だろう。
リキッド・ダンス・ミュージック――カリブーは自分のダンス・サウンドをこのように定義しているが、たしかにこれは揺れるような音に特徴を持つ。音は左右のスピーカーを時差を持って往復する。ドップラー効果めいた揺らぎが目眩を与える(これをちまたでは"ドップラー・エフェクト・ダブ"と呼ぶ)。そして......まさにラッセルのダンス・ミュージックがそうであるように、実にしっかりとしたベースがあり、そして、そう、深いエコーのかかった"歌"がゆらゆらと揺れている。もしいまラッセルが生きていてミニマル・テクノに興味を覚えたら、こんなアルバムを作っていたかもしれない(ラッセルは70年代、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスら、オリジナル・ミニマリストたちのグループにいた)。
カリブーは主に、セオ・パリッシュ、リカルド・ヴィラロボス、カール・クレイグ、ジェームズ・ホールデンらに影響を受けたと告白しているが、多くの人からアーサー・ラッセルとの類似点について指摘されていることも明かしている。「それを言われて嬉しかったんだ。なぜなら僕は彼の声が大好きだし」、カリブーは『ピッチフォーク』の取材でこう答えている。「この2年で、彼は僕のヒーローとなったんだから」
「泳ぎなさい」というタイトルは嘘じゃない。リスナーはこの数学博士の作った音の波を泳げるだろう。ユーモラスな"オデッサ"やドップラー・エフェクト・ダビーな"カイリー"も良いが、マニトバ時代のドリーミーなIDMサウンドをセオ・パリッシュがハウス・リミックスしたような"ボウルズ"の深いトリップがさらに良い(曲中ではアリス・コルトレーン的なハープの音が響く)。ディスコのベースがうなり、かたやメランコリックなシンセが波のように押し寄せる"ハンニバル"も忘れがたい。
アルバムの最後の曲にも美しい憂鬱の感覚がある。歌は空中を舞って、衝突して落下するように消える......ダンス・ミュージック特有の強烈なはかなさが漂う。もういちど、この独創的なカナダ人の音楽に耳を傾けてみようと思う。
90年代後半からノト名義でミニマル・ミュージックに手を染め、すぐにも実験的な体質を顕わにするようになったカールステン・ニコライは、いわゆるサイン波とパルス音の鬼と化し、00年代を通じてエレクトロニカからミュージック・コンクレートへの移行を促した重要人物のひとり。自身のラスター・ノートンから『プロトタイプス』(00年)でミル・プラトーへ移り、続いて01年にリリースした『トランスフォーム』ではリズム感でも優れたところを見せたにもかかわらず、そちらに歩を進める気配はなく、ミカ・ファイニオや池田亮司とのサイクロ、あるいはトーマス・ナック(元ジェイムズ・ボング!)とのオプトや坂本龍一とのジョイントを通じて試行錯誤の範囲をいまでも拡大し続けている。
オピエイトとの『オプト・ファイル』(01年)など、彼の抽象表現のなかにはアンビエントへと向かう感覚もなかったわけではないものの、この方向性が全開になったといえるのが(テイラー・デュプリーの〈12K〉がサブ・レーベルとしてスタートさせた)〈ライン〉から06年にリリースした『フォー』からだった。トッド・ドックステイダーズとの共作で知られるデヴィッド・リー・マイヤーズ(アーケイン・ディヴァイス)まで借り出してきた〈ライン〉は、ミニマルを基調としてきた〈12K〉に対してサウンド・インスタレイションのレーベルとして位置付けられているようで、その筋の先駆といえるスティーヴ・ローダンからマーク・フェル(SND)のソロなど、抽象表現のセンスは非常に幅広く設定されている。つまり、レーベル・カラーがアンビエント表現へと誘ったわけではなく、彼の実験的な感覚が自然と辿り着いたものがそれだったということになるのだろう。しかも、『フォー』の翌年にはアレフ-1の名義でアンビエント専門のプロジェクトもはじめられ、サンプリング(=コピー)を主体とした『ゼロックス Vol.1』(07年)、『ゼロックス Vol.2』も同傾向の作品としてカウントすることができる。
『フォー』から4年が経過した『2』は、ニコライ流の実験音楽がアンビエント・ミュージックの文脈に近接することで、まるでクラシック・ミュージックのような響きを帯びるに至っている(いわゆるクラシック・ファンには無理だろうけれど)。抑制されたシンセーストリングスや繊細で優しいメロディの繰り返しは即物的な音響表現がすべてだった過去とは(表面的には)まったく異質に感じられ、シルヴァン・シャボーやヨハン・ヨハンソンといった自意識の低いポスト・クラシカルとも距離を置いている。あくまでもエレクトロニカの発展形であり、その成熟したフォームといえる。この穏やかさは癖になる......『フォー』とは「葛飾北斎」や「ジョン・ケージ」などに向けられた「フォー」を意味していた(なぜかコイルのジョン・バランスまで含まれている)。『2』では、しかし、その対象は拡散し、完成度とは裏腹にこれといった焦点は持っていないようである。
国内盤は『フォー』(06年)とのカップリングで〈インパートメント〉から。
ポリフォニックな世界観に揺さぶりをかけるかのようなフォースフリーなギター・リフ。驚きだ。ハイ・プレイシズにまったく期待していない要素である。アルバム全編を支配する4つ打ちの力強さにも同様の意外性がある。が、このギターの重用と明確なビート感覚こそが、ハイ・プレイシズらしさの裏をかく今作の2大要素である。
アニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンス、ダーティー・プロジェクターズをはじめとしたブルックリン・アクトたちは、昨今のモードであるトライバル/プリミティヴィズムに先鞭をつけている。彼らはギター・リフという力の象徴のような方法論、「伴奏と歌」というような西洋音楽的でホモフォニックな構成を避け、4つ打ちなどもってのほか、小節線の見えるような截然としたリズム・パターンを避け、やわらかく世界と対峙する姿勢をひらいた。この手のスタイルの先例ならいくつもあるが、彼らには急速に進行するハイブリッドな世界にさらされた若者たちの、新しい態度表明のようでもあった。世界の底は抜け、拡張している。この世界をそれでも愛していくとすれば、どのような方法が可能だろうか。もちろんボアダムスからの影響も大きかったと思うが、その問いの上でチョイスされた"トライバル"でもあったのではないか......。
〈スリル・ジョッキー〉の男女デュオ、ハイ・プレイシズもブルックリン・アクトの重要なひとつである。『ハイ・プレイシズ・ヴァーサス・マンカインド』は2008年の『ハイ・プレイシズ』以来のフル・アルバムで、ふたりは今作であっと驚くモード・チェンジを果たしている。
スティールパンと抜けのいいメアリー・ピアソンのヴォーカル、わずかなディレイを伴ってひろがるサイケデリア、軽やかな打楽器。あのソフトでミニマルなハイ・プレイシズ・サウンド、そこに突如としてギター・リフと4つ打ちが闖入する。二元論的なアナロジーになるが、あらゆるものが融け合って存在する"女性的"な世界がこれまでのハイ・プレイシズなら、分節し、統制し、世界を動かす"男性的"な力が今作を色づけていると言えるだろう。これがタイトルにある「ヴァーサス・マンカインド」ということなのかもしれない。"マンカインド"は"人類"また"男性"の意だ。
冒頭の"ザ・ロンゲスト・シャドウズ"、続く"オン・ギヴィング・アップ"の2曲を聴いただけでも、そう解釈するのに充分だと思われる。独特の残響とスティールパン、トライバルなパーカッション、そして浮遊感あるヴォーカルという彼らのスタイルはもちろん生きている。だが、シンプルだが印象的なベース、圧倒的なヘゲモニーを持って打ち鳴らされる4分音符のキック――ぐっとロック寄りなサウンドになっている。ファズがかったギターとディレイの効いたスネアはセクシーでもある。"男性性"が強調されたからだろうか、メアリーのヴォーカルもとくに2曲目など随分と艶やかだ。〈イタリアンズ・ドゥー・イット・ベター〉あたりのつやっぽい女性ヴォーカルと並べても違和感がないだろう。
アルバムは、彼ららしいカリビアンで小作りなエクスペリメンタル・ポップを折々に交えながら進む。それでもやはり耳に残るのは"コンスタント・ウインター"や"ホエン・イット・カムズ"などのダンサブルでアシッドなロック・ナンバーだ。曲によっては『スクリーマデリカ』をも彷彿させる。
こうした傾向がいったい何を意味するのか、"マンカインド"との対決はどういう結末を導くのか、その点は判然としない部分もある。が、それでも、この10年トライバル・サウンドにつき合ってきた耳には、本作を新鮮に聴くことができる。
トライバルに関してはファッション・ブランドがいまになって追随しているようだが、今年に入ってアニマル・コレクティヴ・フォロワー(あくまでフォロワーに限る)を筆頭に、同傾向の新人バンドは急激に新鮮味を失っている。いまは何か新しいものをと人びとの心がはやるには、難しいタイミングかもしれない。さて、本作は今後10年にとって何かの火種となり得るだろうか。少なくとも、今年はじめて微かな異質さを聴き取った作品だった。
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60年代末のドイツのベルリンのコミューンから生まれたのがアモン・デュールなら、ハンブルグとブレーメンのあいだにある街、ヴュメの廃校のアート系コミューンを拠点としたのがファウストである。"なぜニンジンを食べないの?"というオモロい曲名と大胆なサウンドコラージュ、透明なヴィニールのレントゲン写真をアートワークとした彼らのデビュー・アルバム(71年)、言葉遊びやナンセンスを追求したミニマル・ポップの傑作『ソー・ファー』(72年)、そしてかのリチャード・ブランソンが契約を交わし、"カット&ペイスト"アルバムとしては世界で最初のヒットとなった『ザ・ファウスト・テープス』(73年)......"まともでない"クラウトロックの宇宙においてひときわ諧謔と知性を感じるのがファウストである。ファウストは、ポップの史学ではたびたび「スタジオを楽器として使用した最初のバンド」と記されるが、そのファウストのスタジオを使って録音されたのがトゥ・ロココ・ロットの新しいアルバム『スペキュレーション』というわけだ。
1996年に〈キティ・ヨー〉から最初のアルバムを発表した、ステファン・シュナイダー、ロナルド&ロベルトのリポック兄弟の3人によるこのバンドは、あの時代のポスト・ロックなる動きのベルリンからのアンサーとして注目された。潔癖性的なポスト・ロックとエレクトロニカを軸にしながら、彼らはアルバムを出すたびによりユニークなサウンドを手に入れつつあるように思う......というか、最初の2枚は毒に薬もならないポスト・ロックをそのまま体現しているバンドのひとつに過ぎなかったが、3枚目の『アマチュア・ヴュー』(99年)におけるメロウなサウンドでいっきに評価を高め、〈ドミノ〉に移籍してからの『ホテル・モルゲン』(04年)でもエレクトロニカの甘い享楽に耽っているという、悪くはないが積極的に話題にしづらいバンドだった。
が、オリジナルとしては6枚目となる今作で、3人のドイツ人はさらに前に進もうとしているのだろう、冒頭に書いたようにファウストのスタジオを借りて新境地に挑んでいる。言うなれば、クラフトワーク、プラッド、ブライアン・イーノの領域から、ファウストやクラスターのほうへと向きを変えているのだ。緻密に計画された実験から、どこへ行くのかわからない実験へとハンドルを切っている。より生々しい演奏に挑戦しているのである。
『スペキュレーション』はトゥ・ロココ・ロットのクラウトロック・アルバムである。ロマンティックでメロウな感覚はなくなり、乾いた遊びの感覚がある。1曲目の"アウェイ"と2曲目の"シーリー"は、失礼だがトゥ・ロココ・ロットとは思えないほどの躍動感があるり(とくにベース)、それは明らかにハルモニアを連想させる。もちろんハルモニアの複製ではない。これまで彼らが15年かけて磨いてきたエレクトロニック・サウンドとの有機的な結びつきにおいて、新たに更新されるクラウトロックである......と言ったら褒めすぎだろうか。
クラスターの電子の遊びを継承する"ホーシズ"も素晴らしい。広大な一軒家で暮らすメタルも絶賛の、4/4ビートが入った"フォワードネス"はトゥ・ロココ・ロットの真骨頂であるメロウなトラックで、今回の関して言えばアルバム全体のなかではむしろ異質である。この曲は先行シングルのB面に収録されている。
ベストトラックは"ウォーキング・アゲインスト・タイム"だろう。感傷主義からは100億光年離れた場所で鳴っている前衛的なパーティ・ミュージックだ。シングルではA面に収録され、シャックルトンがリミックスしている、ファウストのハンス・ヨアヒム・イルムラーが参加した"フライデー"は、クラスターとコンラッド・シュニッツラーの現代解釈である。しかも......シンセサイザーのリフはヘア・スタイリスティックスみたいなのだ。
まあ、だからこれまでのファンを裏切る作品であるとも言えるだろう。素晴らしいのは、ファウストのスタジオを使ったことがまったく無駄になっていないことだ。よく言う言葉で恐縮だが、楽しい実験である。
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"UKガラージ"がテムズ川から南に位置するクロイドン近郊で"ダブステップ"へとトランスフォームしたのは周知の通りである。そこからしっかりと広がって、あるいはインターネットや媒体などを通してウイルスの如く目まぐるしい速度で感染していったわけだ。いまは亡きクロイドンの伝説的レコード店〈Big Apple〉から育っていったダブステップの先導者たち――スクリーム、ハイジャック、ローファーなども、"ガラージ"というフィルターを通り、インスパイヤーされている。実は筆者は2001年から2004年までのあいだのロンドン在住中、サウスロンドンのクラハムノースに住んだことがある。が、当時サウスロンドンでこのようなムーヴメントが起こっていようとは知る由もなかった。たしかにクロイドンが位置する南ロンドン周辺は、古くからジャマイカン・ミュージックやジャングル、ドラムンベース、ガラージの恩恵を受けた音楽が豊富なエリアではあるが......。
"ガラージ"の未来を担い、ポスト・ガラージの最左翼と称される20代前半の若者が昨年クロイドンからまた現れた。たった1曲により世界中を席巻してしまったジョイ・オービソン――本名はピート・オーグラディ(Pete O'Grady)という青年のことで、2009年の代表的なトラックとして取り上げられる「ハイフ・マンゴ(Hyph Mngo)」を発表したプロデューサーである。アーバン・サウンドのセンスとアイデアとクロイドンならではのサブカルチャー、そして"ガラージ"......まさにこれぞ"ミューテーション(突然変異)"というに相応しい音楽である。
ジョイ・オービソンは、12歳からDJをはじめている。ハウスやUKガラージがその中心だった。そこから、エレクトロニック・ミュージックの知識を貯え、多様な音楽性のDNAを受け継いでいる。ゆえに彼がアーバン・ベース・ミュージックのネクスト・レベルを提唱するのも必然かもしれない。 最近では、ホセ・ジェームスの「ブラック・マジック」、フォ ーテットの「ラブ・クライ」などのリミックスでも評価を高めている。
今作「The Shrew Would Have Cushioned The Blow」は、〈シンプル・レコーズ〉主宰のウィル・ソウル(Will Saul)とフィンク(Fink:〈ニンジャ・チューン〉所属)のふたりが運営しているレーベル〈Aus Music 〉からのリリースとなった。トレブルやミドルレンジがあまり広く用いられないサブ・ベース主体のダブステップに反して、上質なトレブル・サウンド・コラージュがプログラムされている彼のニュー・ガラージ感覚が注がれている。
ひょっとしたら新たなサブジャンルの誕生かもしれない......ふたたびクロイドンから世界に向けて。そしてまたしても世界中で感染するのだろう。
この連載の2月でも紹介したサブトラクト(Sbtrkt)だが、UKガラージ色が濃かった変則ビートの「ライカ(Laika)」に続いて、〈ブレインマス(Brainmath)〉からミニマル x ガラージを基調とした大傑作EPが届いたので紹介しよう。タイトル・トラック"2020"は、アートワークが暗示するように近未来の世界を模写したシネマティックなサウンドで、ブリアルの浮遊間溢れるダーク・エレクトロニカ感覚をさらに押し上げ、深い叙情性に富んだアンビエント・ビートなトラックになっている。4つ打ちを取り入れたハード・ミニマルなドライヴ感と音響派コズミック・ガラージとでも言えばいいのか、その素晴らしい"ジャムロック( Jamlock )"、ディープ・ミニマル・ダブと共鳴するインダストリアル・ベルリン・ステップな"ワン・ウィーク・オーヴァー"、エレクトリックなシンセ群が魅力的に交感し、パーカッシヴなビートがそれをフォローするガラージ・ステップ"パウス・フォー・ソート"......収録された4曲すべてが素晴らしい。
サブトラクトは最近はリミックス・ワークも好調で、オリジナルにいたっては発表するたびに新たな試みが具体化されている。彼もまた、新世代の旗手としてジャンルレスな活動をしていくだろう......と言うよりすでに各方面で話題だが......。いずれにせよ、これこそ近未来のダブステップである。と同時に、実にDJフリンドリーなサウンド・パックでもある。
〈ノンプラス〉とは、ディープでアトモスフェリックなドラムンベースをリリースしていたインストラ:メンタル(Instra: Mental)主宰のレーベルである。インストラ:メンタルは、2009年に〈ノンプラス〉を立ち上げ盟友ディーブリッジ(dBridge)とともに「ワンダー・ウェアー/ノー・フューチャー」をリリースすると、続いてインストラ:メンタルの「ウォッチング・ユー/トラマ」を発表、シーンにディープ・ドラムンベースとでも呼ぶべき新風を巻き起こしている。ところが、2009年中頃からダブステップへとシフトしていくのである......もっともインストラ:メンタルの"音質"と"ダブステップ"との相性が抜群であったのは明らかだったのだが......。とにかく、彼らはダブステップへの転身により、アーティストとしてより輝き放ったのである。
転身したとはいえ、その作品の大半は、トライバル・ステップやドラムンベース・トラックの作品でお馴染みの、アトモスフェリックなテッキー・ダブステップである。現在彼らはコズミック・ステッパー、エーエスシー(ASC)と一緒にアルバムを創作中とのこと......まったく楽しみな話と言うか、DJセットにどう組み込むか期待は膨らむばかりだ。
そして、レーベル5枚目となったリリースは、先述のジョイ・オービソン「The Shrew Would Have Cushioned The Blow」のリミックスも務めたアクロレス(Actress)である。アクトレス(女優)......と言っても男性プロデューサーで、彼の本名はダレン・J・カニンガム(Darren J Cunningham)というのだが。
ビート職人としても名高い彼は、独特のビート・カットやハッシュする技術により、秀逸なエクスペリメンタル・トラックを世に送り出している。2004年にレーベル〈Werk Discs〉をスタートさせ、デビュー作「ノー・トリックス」を発表している。デトロイティシュなビート・マエストロとの好評価を受け、2008年には、ファースト・アルバム『ヘイジービル(Hazyville)』、2009年にはなんとトラスミー(Trus'me)率いるハウス・レーベルの〈プライム・ナンバー〉からディープな傑作「ゴースツ・ハブ・ア・ヘブン(Ghosts have a heaven)」をリリース、その多才ぶりを如何なく発揮している。
今作「マシーン・アンド・ボイス」は、彼の新境地とも言うべきエレクトロな高音色を多用した新感覚なビートスケープだ。一見ごくありふれたビートメインのトラックのように感じたのだが......聴いていくとビートのプログラミング構成がランダムかつグルーヴィーにどんどん変化していく。予測不能に陥るエクスペリメンタルなこのトラックは、フライング・ロータスをどこか彷彿させるのだ。ハッシュされたヴォーカル・サンプルの注入具合といい、奇才の風格が漂う彼ならではのビート・コラージュである。
いまもっともホットな......と言うか、流行っている......と言うか、制作者が目指しているといったほうが適切かもしれない。ダブステップのサブジャンルとして絶大な支持を得ているアトモスフェリック・ダブステップという潮流である。ロンドンの現在の事情に詳しい友人からそう聞いた。つまり、数年前のブリアルやコード9のようなアトモスフェリックな曲調は、あったことはあった......が、しかし、それを飲み込む程のダークな質感やインダストリアル・ノイズ・スケープといったものが上回っていたため、純粋の"アトモスフェリック"と言うものが流行りだしたのは、ここ最近に至っての話ではないであろうかと思う。どこか......このようなひとつのジャンルが派生していった流れは......と考えたとき、まったく同じ現象が時代を経ていま起こっていると気付いたのである。これは、90年代の中期に一世を風靡したドラムンベースのサブジャンル"アートコア"である。
先日、DOMMUNEで開催した「DBS・スペシャル」(これを開催するにあたり尽力して頂いた神波さん、サポートして頂いた野田さん、カーズ、宇川さん並びDOMMUNEスタッフの方々、そしてジンク&ダイナマイトMCの素晴らしいプレイに心よりお礼申し上げます)にて、野田さんが推奨した"変人"ゾンビーの2008年のアルバム『Where Were U In '92?』という作品名が語るように、彼はまさにジャングルに没頭していたわけだが、その後、同じようにクロイドンのダブステップ・リーダーたちもジャングル、とりわけアートコアはに創造性をよりかきたてられ、心躍らせていたことだろう。LTJブケムと〈グッド・ルッキング〉、オムニ・トリオ、〈ムーヴィング・シャドー〉やファビオの〈クリエイティヴ・ソース〉等々......である。そういえば、昨年、スクリームが実に面白い作品をリリースしている。シャイFX主宰の〈デジタル・サウンドボーイ〉からの「バーニング・アップ」だ。これがまた......ただのアートコアよりのレイブ・ジャングルなのだ。初期〈ムーヴィング・シャドー〉をそのままをスケッチしたようなその姿勢に、彼の少年時代の記憶を聴こえるようだ。アートコアが築いた偉大な足跡は、今日に至ってもさまざまなところで受け継がれているのである。
今回の作品「U / It's Over」は〈ボカ〉からリリースとなった。フランスのボンDとハンガリーのDJマッドによる共作だが、彼らの思考がアートコアに直結しているのは、この作品をもって証明できる。ブリージーな心地よさとファジーで温かみのあるその全体像は、コズミックな宇宙観とも違い、ファンクネス溢れるジャジー・ソール思考とも違う......やはりこれは、アートコア=アトモスフェリックなのだ。
DJの視点からみて、このうえなく重宝する作品と言うのは多々ある。DJミックスによって素材の重なり具合によって作品の表情が180度変わったり、そこから予想だにしなかったグルーヴが生まれたりと......ロング・ミックス/ブレンドをこよなく愛す筆者の三台ミックス・スタイルにとって、小節単位でミックス部分を計算し、レコードをサンプルのように使うこの方法は、シンプルなサウンドほど変化させがいがあり、そこに"ハマる"貴重なものを見つける快感があるというわけだ。
シンプルとはいってもごくありふれたトラックなら山ほどある。が、ここに、そうしたミックスのコンセプトに合致したトラックが、パンゲア(Pangaea)とラマダンマンのふたりが共同運営するディープ・ガラージ系のダブステップ・レーベル〈へッスル・オーディオ〉から出た。「パンゲアEP」に続いてリリースされたディープ・テッキー・リーダー、ラマダンマンのEPがそれである。ちなみにラマダンマンと言えば、〈へッスル・オーディオ〉の他、〈アップル・パイプス〉、〈セカンド・ドロップ〉、〈ソウル・ジャズ〉などからダブステップをリリースしている20歳そこそこの若手プロデューサー。今回は、高まる期待のなかのリリースである。
さて、それで1曲目に収録された"I Beg You "「I Bet You」だが、パーカッシヴなビートにシンプルなベースが呼応し、サイドエフェクト的に絡むヴォーカル・サンプルがうまいアクセントになっている。テック×ガラージに対しての回答とも言うべきリズム・プロダクションだ。"No Swing"はタイトル通り、スイングしない。ドラムの乱打にエレクトロニカ調のエフェクト・ピアノ、ピョンピョン跳ねるゲーム音を混ぜて、実に混沌とした、スイングしそうもない音である。が、しかし、これがまた実に面白いように展開しているのだ。「ノースイング=リズミカルでなく調子が悪い」とは良く言ったもので、これはコミカル感覚なノースイング・ステップだ。
続く"A Couple More Years"も、ちょっとおかしなチープでバウンシー・ベースがメインラインのトラックだ。意外とミニマルにミックスすれば、新たなテイストが現れるかもしれない。最後の"Don't Change For Me"は彼のルーツを掘り下げているようだ。レイヴ・ジャングルのアーメン・ビーツをプログラミングしているあたり、彼の好みがうかがえる。ラマダンマンはテッキーではあるが、ミニマルなトップ・アーティストたち(スキューバ、マーティン、2562等々)とはまた一線を画したセンスがあるのだ。明らかに"並"ではないその変化に富んだプロダクションは、いまだ底が見えそうにない......。ヴィラロボス、フランソア・K、ジャイルス・ピーターソンらがラマダンマンのトラックをスピンするところに、彼のユニークな存在感が証明されている。
経験上、「サニーデイ・サービスのフェイヴァリット・アルバムは何か?」と誰かに問うと、その答えは人によって驚くほど分かれるのだが、自分は4枚目の『サニーデイ・サービス』だ。その最終曲"bye bye blackbird"に「もう灰色の列車に乗り遅れてしまった 乗り過ごしてしまったじゃないか」という、とても印象的なフレーズがあるのだが、彼らの10年ぶりのアルバムとなる今作『本日は晴天なり』を聴きながらしばらく自分の頭のなかをぐるぐる回ったのは、そのフレーズだった。
サニーデイ・サービスが復活したのは2年前の、10回目を迎えたライジングサン・ロック・フェスティバルでのこと。その時点で曽我部恵一は「これ一回限りのものとは考えてない」と活動の継続を公言していたが、その足取りは決して軽いものではなかった。翌年2009年にも神出鬼没的にフェスやイヴェントに出演することはあったが、レコーディングに入っていると伝えられていたニュー・アルバムのリリースはずっと先送りに。そのあいだ、たとえばユニコーンは周到に演出された復活劇で新旧ファンをゴッソリ取り込むことに大成功し、今年に入ってからは、たとえば小沢健二がWEBで突然の復活ツアーを発表して大きなサプライズを巻き起こした。サニーデイ・サービスの復活は、それらの鮮やかな手際の良さに比べると、あまりに不器用なものとして映った。そして、その不器用さこそが、サニーデイ・サービスなのだということに、10年の時を経て気づかされるのだった。
ここでユニコーンや小沢健二の名前を出したのは、何も根拠がないわけではない。これまで曽我部恵一は、折に触れて奥田民生や小沢健二の名前をインタヴューなどで引き合いに出してきた。曽我部恵一にとって彼らの存在は、音楽活動のやり方という点において、あるいは創作面において、ときに参考にすべき先輩ミュージシャンであり、ときに反面教師であった。それが今回の「サニーデイ・サービスの復活」という局面においても、偶然のコントラストを描いていることが自分には興味深かった。
今作『本日は晴天なり』では、不自然なくらい自然にサニーデイ・サービスの「その後」が鳴らされている。「不自然なくらい」というのは、古今東西あらゆるロックバンドの再結成は、自然に起こるものではないからだ。おそらく今回のサニーデイ・サービスの再結成にも固有のさまざまな事情があるのだろうが、曽我部恵一はそうした現実的な理由が、まるでジャケットのアートワークのようにハレーションを起こして、音楽の中に完全に溶け込んで自然に聴こえるまで、かなり腐心したのではないか。彼は若いリスナーに向けてまるで新しいバンドのようにサニーデイ・サービスとして振る舞うこともできただろうし、今作を過去のファンを喜ばすオマージュに満ちたものにすることもできただろう。しかし、結果として届けられた今作は、「無作為の作為」とでも呼べるような、まるでこの10年間が何もなかったような、それでいて確実に歳だけはとったような、不思議な感覚に満ちた作品となっている。
ひとつだけ触れておかなくてはならないのは、ソロ作品や曽我部恵一BANDの作品ではとくに気にとめることもなかった曽我部恵一の歌声の変化、具体的に言うと声のかすれが、サニーデイ・サービスの名が冠せられたこの作品ではとても気になってしまったということ。全体的に過去のサニーデイ・サービスの作品より歌詞が抽象的で、とくに後半になるにつれ夢見心地でまどろむような空気に包まれていく作品(過去のアルバムに1、2曲あったような、目の醒めるようなポップチューンはここにはない)だが、10年後の現実は、そんなところにもたしかに刻まれている。
すっかり紹介が遅れてしまったが......これは、かなり素晴らしい映像作品だ。いや、アート・プロジェクトと呼ぶべきか。LAシーンにも登場する4人のビートメイカー(デイデラス、ノーバディ、J・ロック、ラス・G)にもまったく馴染みがなかったとしても、DJミュージックやヴァイナルへの愛をいちどでも熱く感じたことのあるひとなら絶対に画面に引き込まれてしまうはず。デジタル爛熟期になって、著作権のあり方や作品の提示の仕方がますます問われる/議論されるようになった現在だからこそ、改めて意味を持ち注目されうる、あからさまに「他人のレコードから新しい音楽を創造する」この試みは、原始的で、だからこそ力強い。
作品のテーマは簡潔だ。5ドルを渡された4人のクリエイターたちは、地元ロサンジェルスのThrift Store(日本で言うところのリサイクルショップ、古道具屋)へ散り、あれこれ冗談を飛ばしたりレコード・ディグの蘊蓄を語ったりしながらネタになる盤を探していく。そう、5ドルで買える5枚のクズ扱い盤を試聴もせずに直感だけで集め、そこからサンプルした音だけを使って新たな曲を作ったらどうなるか―この、こどもじみたしかし実に興味深い試みをヴィデオカメラでずっと追いかけたのが本作なのである。冒頭、デイデラスが明かしてしまうが、撮影隊もフロスティとブライアン(ネットラジオDUBLAB主宰者でこのフィルムの制作者)のふたり、カメラが1台だけ。しかし、その極限のシンプル映像を編集の妙と時折挿入されるモーショングラフィックによる演出、そしてなにより抜群のセンスで鳴らされる音楽でクールな短篇に仕上げている。
このドキュメンタリーにはいくつかのレイヤーがあって、そのひとつがリアルなアメリカのトラッシーな生活感をむき出しにしている。これが非常に効果的に観客をさえない店のレコード棚の横や、ホームスタジオへと没入させてくれる。マニアが遠方から足を運ぶような店や、そうでなくてもしっかりした中古盤屋はいくらでもありそうなのに、あえてレコード屋ではなくダメなひとたちががらくたを売ったり買ったりするダメな店でスタートするのが最高なのだ。カセットテープやレーザーディスクがどうでもいい服や食器なんかと一緒に並べられているのはまさに文化の墓場の様相なのだが、逆に、そんな商売がいまだに成立しているということじたいが驚きだし、出演者たちも結構そんな場所に愛着をもっているようだ。そして、4人のクリエイターのホームスタジオがこれまた手作り感たっぷりのさえない部屋ばかり。スタジオというより屋根裏部屋と言われたほうがピンと来そうな雑然としたカオスを思わす空間の背景には、やはり大量のレコードがちらちらと見えて、彼らがいかにレコードを愛し、あまりに音楽にのめり込んだ結果いつのまにか自分でも音楽を作るようになっていたというのが透けてくる。四六時中ジョイントふかしてるやつもいるし、まるで「あいつすげーレコードたくさん持ってンだぜ!」って噂の友達の秘密基地に初めてお邪魔したような、そんな錯覚すらおぼえるのだ。コロンバイン高校の銃撃事件をモチーフにしたガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』が犯人側の少年たちのやはり結構トラッシーな日常生活を延々と描写して、通販でライフルを入手して乱射に至るリアリティを増強していたが、本作のキモも、このリアルな環境にあると言える。
次に、「サンプリングによる音楽制作のネタ選びからスタジオ内での試行錯誤、そして完成品を持ちよったアーティスト同士による品評会」という普段は公開されることもないし、言語化されることもない過程がしっかりと作品の核に据えられている。How Toのビデオではないから細かく画面を見せつつどうやって曲が構成されていったかは追いかけないが、へたをするとただの退屈な教則ビデオになりかねない箇所を飽きずに見させるのはたいしたものだ。寡黙な男たちがただレコードを再生してなんだかわからない作業をちまちまやってるというのではなく、まず彼らも音を知らないところでいろいろと「想像」や「ネタ選びの極意」みたいなものを語らせて、どんな音が盤から鳴ってくるのか、どんな箇所をピックアップすべきで、それをどう加工したらかっこよくなるのかを視聴者も一緒に考えられるようになっている。
そして優れた映画のような、成功するかどうかハラハラドキドキのクライマックスというものが用意されているのも素晴らしい。実際、スタッフも「本当にたった5枚のレコード、しかも仕込みもないまったく聞いたこともない盤からのネタだけで、ちゃんと曲ができるの?」というのは半信半疑だったそうだが、想像以上の曲が仕上がっているのだ。その、大団円とも言える4つの曲はフィルム上では断片的にしか聞かせず、きちんとCDとして収録されている。これはぜひ、自身の耳でたしかめてください。
実際のところ、このフィルムが投げかけるのは、ただ音楽の悦び、何かを生みだす楽しみという部分だけじゃなくて、出自からDJミュージックが抱える「他人の音楽、既存の音楽をリサイクルして、初めて生まれるもの」という宿命だと思う。著作権的にどういう処理になってるのかどきどきしながら見たが、いきなりアーティスト名もタイトルもジャケも晒して、そこからネタを探して最終的に商品に仕立てあげるドキュメントは、いじわるな言い方をすればターゲットの選定から盗みの手口さらにはそれをどこかに転売するまで明かしたビデオを泥棒が作ってるようなものと言われる危険性もあり、しかしそれを敢えてやった彼らのスタンスには本当にリスペクトさせられる。誰にも見向きもされない1ドルレコの中から大量に発掘されるバーバラ・ストライザンドが、このフィルムのおかげでちょっと掘られたりしたらおもしろい。
さらに付け加えるなら、メンバーがライヴ・ショーで実際に客の持ってきたレコードで即興の曲作りをしたり、500枚限定で売られたBOXセット(アナログ盤+DVD+スリップマット)はなんとThrift Storeで買い集めた中古レコのジャケに改造を施した手作りアートだったり、かつてこの音楽が持っていたような夢のある広がりをしていてとても興味深い。アートと呼ぶことで、この行為が不法呼ばわりされるのではなく説得力を持つのなら、喜んでアートと言おう。あー、そういえばDJ TASAKAが昔CSの番組でやってた「レコード供養」もそうとうすばらしい企画だったけどね。うん。