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Requiem For A Machine Soul
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TIMO MAAS
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世界で最初にハード・テクノを叩き付けたのは、デリック・メイの〈トランスマット〉からリリースされたサバーバン・ナイトであり、1990年のジョイ・ベルトラムによる「Energy Flash」だった。マッド・マイクとジェフ・ミルズによる〈UR〉もほぼ同時期にハードコアを発表し、彼らの動きに呼応したのがベルリンの〈ベーシック・チャンネル〉だった。するとカナダのウィンザーからはリッチー・ホーティンの〈プラス8〉が登場した。こうしてハードコアは瞬く間にヨーロッパのレイヴ・カルチャーを席捲したわけだが、もうひとり、ハード・テクノにおける先駆者を忘れてはいけない。ニューヨークで〈ソニック・グルーヴ〉を立ち上げ、実の兄であるフランキー・ボーンズとともに90年代のNYハード・テクノ・シーンを牽引したアダム・Xのことである。
2009年、レコード・ショップに並んだホワイト盤の12インチ・シングルがテクノやダブステップのDJのあいだで話題になった。トラヴァーサブル・ワームホールの1枚目のシングルであり、本作にも収録されているハード・テクノ"Tranceducer"とダビーな音響のブロークン・ビーツ"Space Time Symmetries"は、〈ハードワックス〉のサブスタンスやモノレイク、あるいは〈ベルグハイン〉で活躍するシェドやマルセル・デットマンやベン・クロックなど、新しいハード・テクノの体系のなかでたしかな存在感を示すものだった。それはスキューバやマーティンなどのダブステップとも共振した。
当初は覆面プロジェクトとしてはじまったトラヴァーサル・ワームホールだったが、ライヴへの出演からその正体がアダム・Xだと判明した。5枚目のシングルをリリースしたところでレーベルをアダム・ベイヤー以降のハード・ミニマルを代表するDJ、クリス・リービングが主宰する〈CLR〉に移し、そしてマルセル・デットマンやスリープアーカイヴのリミックスを加えたシングルをリリースするなど、いまも順調に活動を続けている。
本作『Vol 1-5』は、12インチのシングルでのみ流通していた5枚目までのトラックを本人がコンパイルし、ミックスしたトラヴァーサブル・ワームホール名義での事実上のファースト・アルバムだ。
トラヴァーサブル・ワームホールのトラックは、シンプルなミニマル・テクノとダブステップにも通じるブロークン・ビーツが基本になっている。インダストリアルもしくはゴシックと形容したくなるアダム・X名義のトラックのダブ・ヴァージョンとも言えるもので、自身のハード・テクノを骨組みまで解体し、エフェクトと音の配置によって空間的な音響世界を構築している。
1曲目の"Tachyon"のヘヴィなベースラインのブロークン・ビーツからラストの"Space Time Symmetries"のコズミックで美しいフィナーレまで、緊張感のある世界が広がっている。すべてのトラックには「宇宙」に関連したタイトルが付けられているが、コズミック・コンセプトの下にアダム・Xのダークなサウンドが投影されると、地響きのような低音とともにインナー・スペースを突き進んでいく。ちなみにトラヴァーサブル・ワームホールのコズミック・コンセプトは『スタートレック』に由来している(アダム・Xという名義に関しては、アメリカの人気コミック『X-MEN』に出てくるヒーロー「ADAM-X」からの借用である)
90年代には「激しければ激しいほどよい」とされたハード・テクノは、ゼロ年代に入るとマスタリングの音質の向上と〈マイナス〉以降のミニマリズムに濾過され、柔軟な音楽へと変化を遂げた。従来の力強いハード・テクノは消え失せ、モダンなミニマルがリリースされ続けた。しかし、従来の力強いテクノを求める動きが高まっていったのも事実だ。レディオ・スレイヴやレン・ファキはこの流れに応えるようにヒットを飛ばし、ルーク・スレター、サージョンも興味深いリリースを続けた。が、ハード・テクノの多くは回顧主義的で面白みに欠けるものばかりだった。
トラヴァーサル・ワームホールは、このアルバムによって新時代のハード・テクノを創出したと言えるだろう。ダークで攻撃的な音響と柔軟なグルーヴを結びつけ、ダブステップをも取り込み、ポスト・ハードコアからポスト・ダブステップへの可能性まで追求している。アダム・Xはいまでもテクノを先に進める数少ないアーティストのひとりであり、『Vol 1-5』はハード・テクノの最先端を走っている。
昔から洋楽ばっか聴いて日本の音楽を聴かなすぎる、と言われる。サッカーはJリーグばっか観ているクセに......。
そうした指摘はある意味では当たっているが、はずれてもいる。たとえ割合が低いとはいえ、日本の音楽を聴いていないわけではないし、あまりそれを繰り返されると強制されているようで気分が良いものでもない。そもそも洋楽とは邦楽の対義語で、西洋音楽の略であるから、すでにこの二分法自体がウチとソトを区分けする日本の因習にちなんでいることになる。こうした日本的因習に齟齬を感じていたがゆえに海外文化に魅力を覚えたわけだから、洋楽というタームそれ自体を洋楽ファンと言われている人たちは捨てなければならない。僕自身も、洋楽リスナーと言われれても面倒くさいからそのまま受け流してきたけれど、ザ・クラッシュとRCサクセションを同時に聴いてきた自分のなかでは洋楽/邦楽を区分けしてきたわけではないので、正直言うと清々しない。だから「最近洋楽でいいのある?」と訊かれたら、「あなたのような人が聴いて面白がれる音楽は知らない」と答えている。
日本的因習はやっかいだ。そっくり否定できるものでもないし、もちろん肯定できるものでもない。たとえばデトロイトのマイク・バンクスを見ていると、いかにポッセを保つことが彼らの社会では大変かを思い知る。個人主義の社会では集団行動は魅力的だろうが、維持が困難なのだ。わが国では逆だ。ヒップホップのポッセ文化もこの国に落とし込まれれば日本的集団主義に変換される。集団内においては番付が発生するかもしれないし、いわば部活のりになるかもしれない。部活というのは、それがとくに運動部の場合は、簡単に休んではいけないというプレッシャーがある。それは個人より集団、情より義理が優先されるこの国の文化と絡み合っている。近松門左衛門の浄瑠璃の時代から現在にいたるまで、この国では集団や仲間意識を捨てて色恋に走ることそれ自体が、反社会的なのだ。
ザ・クラッシュの有名な"ホワイト・ライオット"の有名なフレーズに「俺たち白人は学校に行ってバカになるけど、黒人は警官に石を投げることができる」というのがある。ジョー・ストラマーはその歌のなかで、反英国的なメンタリティに飢え、憧れている。こうした異文化への激しい衝動を描いたもっとも古典的なアーカイヴに、ノーマン・メイラーによる1957年の「ホワイト・ニグロ」がある。オレら白人と違ってビバップの黒人は崇高な野蛮人である。連中は堂々と大麻を吸って、破壊的なジャズを演奏するいかした連中だ。彼らこそ世界を変えうる反順応主義者である......という話である(いや、本当はもっとややこしい話で、とても堅苦しい日本語で訳されている)。
そのエッセイで「モデルにしたニグロは白人の想像力の産物だ」とジャック・ケルアックから批判されたものの、"白い黒人"という言葉で表現されるコンセプトこそ、われわれが洋楽と呼んでいるものと重なる。白い黒人――ヨーロッパとアフリカの北米大陸における衝突とその混合による成果、そのハイブリッドな結実――ブルース、ジャズ、ロックンロール、ヒップホップ、ハウス等々である。イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国から日本にいたるまで、今日の音楽文化におけるもっとも重要な種子はアメリカ合衆国の"白い黒人"という雑食文化から発生している。
![]() ヒップ -アメリカにおけるかっこよさの系譜学 ジョン・リーランド (著) 篠儀 直子 (翻訳) 松井 領明 (翻訳) P‐Vine BOOKs |
翻訳されたジョン・リーランドによる『ヒップ――アメリカにおけるかっこよさの系譜学』(篠儀直子+松井領明・訳)は、その邦題の通り、われわれを惹きつけてやまないアメリカ文化における"かっこよさ"に関する優れた分析である。それは"白い黒人"の物語だ。
さて......、まずはこの物語のルールからだ。奴隷貿易は中南米でもおこなわれている。が、"白い黒人"文化はアメリカ合衆国で生まれた(その理由は本書で説明されている)。それは白対黒という二分法で説明できるような単純なものではない。われわれは物事を単純化したがるときに誤って「これは黒いグルーヴだ」などと表現しているが、それはエルヴィス・プレスリーはたんなるの文化の盗人と見なす発想で、本質主義者的な思想である。ムーディーマンのリズムが黒いのであるなら、白人との出会いを果たす前のアフリカのリズムと同質でなければならない。ドレクシアは西欧の植民地主義を呪ったが西欧そのものであるクラフトワークを手本にしていた。このように、"白い黒人"文化は複雑性に基づいている。そして繰り返すが、その複雑性の上に成立した音楽が、今日もわれわれを惹きつけているものの源である。
もうひとつのルールを説明しよう。日本やイギリスのように伝統のある国が抱く愛国心とアメリカのそれとの違いだ。パティ・スミスやブルース・スプリングスティーンのような人たちがなぜ星条旗をまとうかと言えば、アメリカという(歴史を持たない)国は自分たちのアイデンティティを再発見していくという回路を持っているからである。アメリカとはこうあるべきだという考えを主体的に身にしているがゆえに、彼らのような反抗者と星条旗は結びつくのだ。
ジョン・リーランドは、19世紀にはじまった、のちに"ヒップ"と形容されることになるアメリカ文化の"かっこよさ"の100年を実にスリリングに描いていく。『ハックルベリー・フィンの冒険』で、家出した少年が川を下りながらさまざまな文化経験を果たしていくように、ブルースからはじまり、ソローやメルヴィルといった文化的アウトサイダーの先駆者を通過しながらニュー・オーリンズのジャズへと進む。ロスト・ジェネレーションを経て、ハードボイルドをめくりながらビートへと突き進む。モハメッド・アリやマイルス・デイヴィスを追跡しながら、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの"ヘロイン"を吟味する。ライオット・ガールにリスペクトを示して、それから本書は最終的に21世紀の現代へと辿り着く。
本書に描かれているすべてが面白いが、もっとも印象深いのは著者が認識するところの"ヒップ"の終焉の話である。リーランドによれば、その原因のひとつは市場経済に"ヒップ"が飲まれたことにあると説明する。つまり、酔って誤って妻を射殺したヘロイン中毒の文学者たるウィリアム・バロウズがいまもしファッション広告になっても誰も驚かないということだ。ドラッグディーラーだった50セントがこの華やかな消費社会で素早くマーケティングされるとき、"ヒップ"は弱まるのである。
もうひとつ、世界がミクシィ化したこともその理由に挙げている。"ヒップ"すなわち"白い黒人"文化、アメリカ的なかっこよさの根源にあるのは反抗心だが、ミクシィ的文化が普及したとき、追放される者やメインストリームの文化の不適応者はいなくなり、そしてデスチャのリスナーとニルヴァーナのリスナーの違いなど(せいぜい趣味の違い程度のものでしか)なくなる。まあ、これも納得のいく話だ。原書が2004年に出版されているので、イラク戦争の真っ直なかということになるが、願わくばオバマ当選後の現在についての論考も読みたかった。"白い黒人"文化はさらに新しい局面を迎えているからだ。が、しかしそれは、状況を見定める時間がもう少し必要なのかもしれない。
"白い黒人"文化がイギリスに渡ったときに、どうなったかと言えばモッドになった。外見は伝統的なイギリス人のスタイルで、しかし中身はホワイト・ニグロというトリックである。これがビートルズからオアシスまで続くイギリス文化の"かっこよさ"を特徴づけている。日本はむしろ外見的なところでは勤勉なまでに"白い黒人"文化を模倣しているが、中身については保守的だ。ハイブリッドではあるが、因習に飲まれがちである。どこかで融合を恐れているのかもしれな いし、あるいは、ミク シィでも赤ちょうちんでも、新しい出会いを追加することよりも毎度同じ顔ぶれであることの居心地の良さに浸っていたいのかもしれない。日本人である自分にはその感覚が理解できるけれど、結局は ムラ社会文化なのだと思うとやるせない。アメリカの"ヒップ"が弱体化するずっと前から、流動性が低く移動が難しいこの社会では、動くこと(move on)より留まりながら生きていくことの知恵を身につけ、いや、身につけすぎたのだ......。そんな表層的な文化論を考えながら、人気テクノDJであるメタルと同居しながら世話をやいている桑田晋吾と近所の本屋で立ち読みをしていたら、わが国では数少ないアウトサイダーのひとりを再確認した。『文藝』に掲載され ている中原昌也の小説を読んで、人目をはばからず爆笑してしまった。
ウォーペイントには恋愛や相聞をテーマとほのめかす曲が多いが、それはいわゆるラヴ・ソングの定型を外れ、より広い問いへとつながっている。
「引いていく波のなか、いまあなたをつかまえた」"アンダートウ"
どの曲からも、つねに十全な形では得られない、追っても追われても微妙な違和感を残す関係性が浮かび上がってくる。まさに「引き波のなかでつかまえる」という表現に象徴的だ。それは主体が世界全体に対していだく違和感をも暗示する。冒頭のギターのいち音めから感じることができるだろう、まるく、愁いと叙情に濡れた音である。
LAの女性4人組、正眼に構えたロックを久々に聴く思いだ。彼女たちの古風で凛々しい立ち姿に、久しぶりに混乱を覚える。彼女らの臆面もない叙情性に夢中になっている自分に驚いている。正面切って暗く切ない。アガる部分など一片のフレーズにすらない。ダウン・アンド・ダウンで、しかし非常にリリカルに盛り上がる。ギミックを嫌い、すかした態度を厭う。曲を通して走り、歌いつづける。ケイジャン・ダンス・パーティーのダニエル・ブルムバーグが"アミラーゼ"で走りつづけたように、耐えがたい混乱から逃げるために、いや、それに向かって走るのである。
ベースとドラムが素晴らしい。ベースもコーラスがかかっていて、よく動く。ギターに対して対旋律のように絡む、知的なフレーズ感覚を持った演奏だ。"セット・ユア・アームズ・ダウン"や"ビーズ""いくつかの曲においてはダビーな録音がなされていて、作品に個性的な表情を与えている。"ウォーペイント"でのファンキーな動きもいい。黒い躍動感が疾走するギターの手綱となり、ときにそれを緩め、ときに締め、緊張感あるアンサンブルを生んでいる。
ドラムも同様だ。ジャジーでファンキー。テクニカルでハイ・センスだ。このバンドにわずかに宿ったダルでレイジーなタイム感は彼女、ステラによるものである。ところどころドラムマシンに置き換わるようだが、その配分も絶妙だ。オープン・ハットが無数のフラッシュのように閃き、楽曲を照らし出す。プロデューサーのトム・ビラーという人もよほどの才人なのだろう。
ヴォーカルも素晴らしい。透明だが諦念や倦怠が含まれている。世界への、である。そして、諦め、倦んでもこぼれでてやまないエモーションがある。気怠いが、眼差しの奥にファイティング・ポーズを感じる歌である。
その他特記すべきことと言えば"シャドウズ"の持つトリップ・ホップ的なプロダクションだろうか。ミックスにはアンドリュー・ウェザオールも関わっているというが、素朴なギター・バンドでないという点はウォーペイントについて述べる上で重要だ。独特の浮遊感、ミステリアスなリヴァーブ感は〈4AD〉のイメージにも接続し、ローファイ・ブームに沸くLAにしてUKの遺伝子が花弁を開いたことにも注意したい。バンドの結成自体は6年前にも遡り、地元でじっくりとファンを増やし、『NME』や『ピッチフォーク』が賛辞を送り、老舗〈ラフ・トレード〉と契約し、ザ・XXやバンド・オブ・ホーセズらのオープニング・アクトを務めて名を馳せていくことになったという経緯も付記しよう。
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Marc Houle - The Next - Minus |
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Andrei Fiber - I Want To Have 5 Noses - Indeks Music |
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Mar-T - Propaganda(Marc Marzenit Remix - Wow! Recordings |
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Fantastic Explosion - 血と掟(Blood And Rules) - ExT Recordings |
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Elad Emek - Dansvloer Bloedbad - Magic Powder Music |
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Egbert - Open - Cocoon Recordings |
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Bob Holroyd - African Drug(Four Tet Remix - Phonica Recordings |
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Traks Boys - Yellowbirds(TBD Remix) - Internasjonal |
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Mugwump - Losing Game - Kompakt |
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Mount Kimbie - Field - Hotflush Recordings |
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Oliver Huntemann & Dubfire - Fuego - Ideal Audio |
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Levon Vincent - Double Jointed Sex Freak(Part1) - Novel Sound |
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Roman Lindau - Sonnerie - Fachwerk |
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Alexander Kowalski - Reset - Damage |
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Brendon moeller - Mainline - Echochord Colour |
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Daniel Stefanik - Transmediale Reshape - Statik Entertainment |
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Robag Wruhme - Colbi Nekk - Musik Krause |
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Mike Sheridan & Mads Langer - Too Close - R&S Records |
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Tom Demac - In Your Eyes - Murmur |
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Onur Ozer - Oval - Cocoon Recordings |
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Moondog - Viking I - Honest Jons |
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The natural Yougurt Band - Voodoo - Jazzman |
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Harco Pront - Trust - Music for Speaker |
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Bords Of Canada - Peacock Tail - Unknown |
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Apollo 440 - The Machine in The Ghost - Unknown |
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Signaldrift- Compass or Atlas - Woddlyhead |
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Twilight Circus Dub Sound System - Horsie - M Records |
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Savath & Savalas - Journey's Homes - AgendA |
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McClaren-Hom - Song For Chango - Island |
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Chickenwing All Stars - Celestial Dub(ANDERSON VERSION) - Heavenly Sweetness |
何をいまさらというか、またそれかという話で恐縮だが、エスケイピズムの問題について考えてみる。ここ数年、ポスト・マス・カルチャーすなわちデジタル時代に突入した音楽シーンでさんざん指摘されていることだ。たとえば『ピッチフォーク』のアーケイド・ファイヤーのアルバム・レヴューにこんな一節がある。「あなたがエスケイピズムとしてのロック・ミュージックを高く評価するのであれば、アーケイド・ファイヤーの『ザ・サバーブス』はより小さく見られる可能性がある」
アーケイド・ファイヤーはゼロ年代以降に登場した、社会や政治を意識する数少ないロック・バンドのひとつだが、この一節は、彼らを積極的に評価するというよりも、アニマル・コレクティヴ以降のエスケイピズムをシニカルに突き放したいという欲望がもたらした言い回しのいち例だ。先月、『スヌーザー』誌でマニック・ストリート・プリーチャーズの取材をさせていただいたときに、ジェームス・ディーン・ブラッドフィールドは「(現代では)政治的になるのが難しい、とは言え、ある世代のミュージシャンがふたつも戦争を経てきて、経済の破綻を目にして、それについてクソ1曲も書かないなんて、信じ難いよ」と言っていたが、この意見に関して半分は同意できるが、異論もある。パンク・ロックがテレビのCMで使用され、ビート詩人たちのポートレイトが広告になる現代において、そして、60年代の遺産とはウッドストックではなくてシリコンバレーだったという説が有力な時代において、戦後カウンター・カルチャーの神話がそれを原体験していない世代にとってどれほど説得力を持つというのだろう。
それでも、カール・マルクス・シアターでのライヴ経験を持つ誇り高きウェールズ人(マニックス)の洞察力は衰えていないと僕は思った。彼は「現実に気付いて、内面的な考えをリアリスティックなものにしなきゃいけないんだ。だからこそ、これまでになく夢見ることが重要になってる」と話しているが、それこそ僕にはエスケイピズムというタームで説明されているいまの若い世代の音楽の背後にある衝動ではないかと思えてくる。彼らは真実を見たいがために、目の前の現実(と思われている世界)から逃避しているとも言えるからだ。これは目新しい話ではないが、音楽文化においてはつねに重要な一手となっている。レイヴァーが当局の目を盗んでパーティへと辿り着くように、逃避とはときにリスクを承知でメインストリームの文化に背を向けることであり、それは出発の合図かもしれないのだ。
それからもうひとつ、これはいま書きかけの自分のコラム(forgotten punk)でも触れようと思っている話題だけれど、アニマル・コレクティヴ以降のインディ・ミュージックを特徴づけていることのひとつに、白と黒との衝突(もしくは混合)の喪失があるように感じている。要するにブラック・ミュージックの要素がほとんどない、あったとしてもずいぶん希薄になっている。白い社会における黒い体験がどれほどカウンター・カルチャーの神話に貢献してきたのかは、歴史を少しでも紐解けばわかる話なので割愛するが、オバマが大領となったこの社会における黒への共振に関して、つまり白と黒の二項対立に何らかの変化が起きたとしても不思議ではない。また、かつてルー・リードは「俺は黒人になりたい」と歌ったものだが、たとえばいまのジェイ・Zを見ているインディ・キッズが同じような気持ちになれるのかも疑問でもある。
そして、そうなったときに彼らが新たな真実を求めてさらに外側へと、さらに遠くへと目を向けたとしても理解できない話ではない。日本人はそれを昔からやっている。自分たち自身から離れるように遠くにあるアメリカやヨーロッパへと思いを飛ばし、さらに遠くのジャマイカやブラジルへと漂泊し、つまり融合的に物事を吸収したように、彼らはいまドイツやアジアやアフリカといった彼らにとっての遠方への密会に飢えているように思える。東洋思想と接触した『森の生活』の作者で知られる19世紀の作家ソローのように、逃げることで真実を見ようとしているのかもしれないし、インディ・キッズの気まぐれの異国趣味か、さもなければぶっ飛んでいるだけなのかもしれない。正直、まだわからないが、言葉よりも先に音が出ている。意味よりも先に声が出ているのだ。もうしばらくはつき合ってみようと思う。
アニマル・コレクティヴが主宰する〈ポウ・トラックス〉からリリースされたプリンス・ラーマのデビュー・アルバム『シャドウ・テンプル』は、ドイツのポポル・ヴーやアモン・デュールを経由してインドへと流れ着く。ヒンズー教から名前(ラーマ)を引用したこの3人組は、深いサイケデリアを彷徨いながら、アフリカ系アメリカ人が発明したロックンロールのリズムをギャング・ギャング・ダンスとも共通する原始主義的なトライバリズムへと変換する。
ロックにおけるインドへの接近は60年代にもあった。しかし、ジミ・ヘンドリックスの『アクシス:ホールド・アズ・ラヴ』があくまでブルース・ベースの音楽だったのに対して、プリンス・ラーマのリズムや深いリヴァーブのかかった女性ヴォーカルにはロバート・ジョンソンのかけらすらない。少なくとも60年代のクリシェではないのだ。とはいえ、あまりにもドロドロで、アフリカ系アメリカ人のセンスがもたらした音楽に長く親しんできた耳にはそれなりの違和感があるのも事実だ......が、逆に言えば、彼らはそれだけ現在におけるカウンター......とまではいかないかもしれないけれど、時代のノイズとなっていると言える。まだ小さなノイズだが、ノイズがないところに未来はない。
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Shackleton/ Burnt Friedman - Mukuba Special / Rubaczech -Congotronics |
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Mark Ernestus Vs. Konono No 1 - Masikulu Dub -Congotronics |
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Mr Raoul K Feat. Wareika - Le Triangle Peul -Baobab Music |
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Blendon Moeller - Mainline EP -Echocord Colour |
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Santos - Controverse EP -Rockets & Ponies |
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Dubkasm - Part3 : Guido / Peverelist Remixes -Sufferah's Choice |
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Scuba - Three Sided Shape / Latch -Hotflush Recordings |
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Omar S - These Complimentary Track'x -FXHE Records |
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Radio Slave - Kenny Larkin & DJ Sneak Remixes -Rekids |
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Pinch - Croydon House / Elements -Swamp 81 |
ジェームス・ブレイクがまだアルバムを発表していない現在、ポスト・ダブステップの最前線にいるのはスキューバの主宰する〈ホットフラッシュ〉かもしれない。2010年にダブステップは過渡期を迎えた......といってもそれは欧米でのことだが、まあ、それでもわれわれは何枚もの印象的な作品を手にすることができた。〈ハイパーダブ〉からのアイコニカとダークスター、〈パンチ・ドランク〉からのグイード、〈オネスト・ジョンズ〉からのアクトレス、そしてもちろん〈ホットフラッシュ〉からのスキューバのセカンド・アルバム『トライアングレーション』......そう、これもたしかに美しい作品だったけれど、マウント・キンビーのデビュー・アルバム『クルックス&ラヴァーズ(ペテン師と恋人たち)』はそれらを抑えてトップに躍り出る。気がついたら1位だったというのではない。僕がただ気がつくのが遅かっただけなのである(......と、つまり偉そうに言える立場ではないわけです、すいません......)。
ポスト・ダブステップにおいて注意すべき点は、当たり前の話だが......それをどこに落とし込むかということである。ポスト・ダブステップとは、要するにダブステップの狂騒から一歩引くということで、ブリアル以降の音を真剣に探ってみるということなのだから、寄り掛かる大きな柱を主体的に放棄するということだ。これが手法に溺れてしまいかねないことは、10年前のエレクトロニカが証明している。とにかく変わっていれば良いという、目的のない実験主義に陥りがちな状態でもあるわけだ。ゆえにグイードの『アニーディア』はよりR&B色を意識して、アクトレスの『スプラシュ(Splazsh)』はIDMテクスチャーに色目を見せた(まあ、いちばん危ういパターンではある)。
アイコニカの『コンタクト、ラヴ、ウォント、ハヴ』はテクノとチップチューンへ、ダークスターの『ノース』はシンセ・ポップへ、スキューバの『トライアングレーション』はベルリンのミニマリズムへとアプローチしている。あるいはラマダンマンやアントールドがミニマル・テクノへと、そしてジェームス・ブレイクだけが新しい場所を切り開こうとしているのかと思っていたら、ドミニク・メイカーとカイ・カンポスのふたりによるマウント・キンビーはもうひとつの場所を見つけていた。そう、あたかも廃墟の上に温かい場所を見つけ出すように......、そして言うなればマウント・キンビーは、ブリアルとボーズ・オブ・カナダの溝を埋めようとしている。
マウント・キンビーはザ・XXの"ベーシック・スペース"のリミックスを手掛けているが、ある意味で両者は似た感覚を持っている。収録された11曲は長くて4分という長さで、曲は空間的に録音され、反復を強調している。曲には陶酔感と緊張が混ざっている。"カーボネイティッド"や"ルビー"は真夜中をひとりで過ごす人たちのためにある。そしてより孤独な"オデ・トゥ・ベア"は上品なアンビエント・ダブステップとして繰り返し聴かれるに違いない。
アルバムにはときとしてボーズ・オブ・カナダの牧歌性とエイフェックス・ツインの子供っぽさが適度に注がれる。トイ・ピアノと声のサンプリングがお茶目に交錯する"メイアー"はジェームス・ブレイクによるリミックス・ヴァージョンも出ているが、これはゴールド・パンダの"ユー"と並んで今年を象徴する曲のひとつである。
もっと早く紹介するべきだった。ゴールド・パンダにも言われたマウント・キンビーのデビュー・アルバム『クルックス&ラヴァーズ』は2010年にリリースされたエレクトロニック・ミュージックにおいておそらく5本の指に入る......(いや、しかしフライング・ロータス、ゴールド・パンダ、エメラルズにOPN、アグラフも良かったし......)。
まあとにかくいまでもUKがクラブ・ミュージックにおいて大胆な手を打ってきていることをわれわれはもっと知るべきです。